おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

<   2008年 03月 ( 8 )   > この月の画像一覧

「やおいはポルノではない」とう言明と同様(むろん、すべてのやおいがポルノというわけではないが)、「やおいとは火のないところに煙を立たせるものだ」という文句にも違和感があるが、それは、そうであれば「ホモエロティックなもの」は「腐女子」の妄想、でっちあげ、〈自律〉したファンタジーで、責任はゲイ男性を好き勝手にrepresentした彼女たちにあると非難することにつながるが、事実は違う――これも前々回書いたように、チャンドラーの小説レヴェルで、すでに火は燃えさかっているのだから。

 昨年放映されて私自身のいわゆる二次創作(とは私は呼ばないのだが)の素材にもなった『鋼鉄三国志』について、あれはやり過ぎ、あそこまでやられるとかえってネタにできないという声があると聞いて違和感はさらに強まった。彼女たちは何を言っているのか。確かに「ねらっている」のは明らかとはいえ、あの程度(やおい度)のものなら、過去の映画やドラマや小説にいくらでもあろう。だが、そうしたメインストリームの作品と違い、いったん「腐向け」に分類されれば公然と非難してもよくなる。だから、『鋼鉄』本篇がニコニコ動画にアップされると、「腐女子」こそがホモエロティックな表象の担い手と決めつけた(「腐女子自重!」)、ホモフォビックなコメントが絶えなかった(むろん、楽しいコメントもいっぱいあったが)。

 要するにそこではホモフォビアは腐女子フォビアの形を取っていたのだ。腐女子フォビックな書き込みをする者は、自分のホモフォビアを、ゲイ男性ではなく「腐女子」にぶつけ、「ホモエロティックなもの」と女性の性欲を二つながらに本気にしなくてよいものとしして嘲りながら抹消することができたのだ。友人の言葉を借りれば、マジョリティ(ヘテロセクシュアル)の中のマイノリティ(女子)が一番叩きやすい。むろん、この場合、腐女子は全員ガチへテロで自分の願望を男同士に仮託している云々といった思い込みが前提としてある。

 だが、『三国志演義』でさえすでに「ホモエロティックなもの」を不可欠の構成要素としていたのであり、その書き手は(腐)女子ではありえない。



 前々回に引用した千田有紀さんによる森川論文(『ユリイカ』のBLスタディーズ特集所収)批判を、全篇通して読んだ上で、批判対象である「数字で見る腐女子」も読み直した。(男の)一般人対(男の)オタクという対立の図式をそのまま女にあてはめて、その女ヴァージョンとしての一般女性対女オタク(腐女子)という対立を無理やり作っているだけの論文であり、千田さんのように「森川さんの論考、こういうことを考えさせてくれるという点で、本当に挑発的で刺激的でした」とさえ言えないが、行きがけに二箇所ばかり、森川さんがいかにこじつけに長けているかその手口を示しつつ、そこから考察できたことをメモしておく。

「女性のためのエロス表現」「女性のための男性同士のラブストーリー」という言葉に対して、森川さんは、それは女性一般のためではないだろう、腐女子のためだろう、そう呼ぶのはアニメ絵のエロゲーを「男性のためのエロス表現」だというようなものだ、一般の媒体でそんなことを書けば「オタクのための」の間違いじゃないのかというツッコミが入るだろう、やおい/BLを「女性のための」と枠付けすることには「特殊な存在としての「腐女子」を後退させようとする力学が働いているように見える」と言うのだが(p.130)、これはわざと日本語がわからないふりをして強弁しているのだろうか。
「エロス表現」とはそれほどまでに「男性のための」ものであるとされてきたので、それとは別のものであることを言いたいがための「女性のための」なんだよと、わざわざ説明する必要があるだろうか?

「女性のため」とことわるのは、そうでなければ自動的に男性のためのものと解釈されてしまうからだ。男のための「エロス表現」はあふれかえっているから、この場合は特に「オタクのための」と細分する必要が生じる。

(なお、森川さんが論考の冒頭でパロってみせた、アクセスよけのためウェブサイトの入口に記す「女性向け」はこれとは微妙に話が別だが、今は触れないでおく。)

 これに続く章で、森川さんは「女性一般による腐女子差別に対しては異議申し立ても啓蒙もなされない一方で、やおいの中のゲイ差別的な表現については「無自覚」な腐女子たちに矛先が向けられ、啓蒙しようとなされる」のはなぜか、という問いを立てる。
 そして、「それは、ひどく単純なことである」といって挙げる理由は以下のとおり。「英米には、女性差別があり、ゲイ差別があり、それらに対してフェミニズムやカルチュラル・スタディーズが異議申し立てをしてきた蓄積がある。しかし、英米の学会には、腐女子差別に関する議論などはまた存在しない」。だから、「「一般」対「オタク」の構図は封殺され、代わりに、「男性」対「女性」や、「ヘテロ」対「ゲイ」の構図が強調的に前面化される」。

 まあ、ひどく単純なのは確かだ。「「一般」対「オタク」、あるいは「女性」対「腐女子」の構図で文章を書くための単語帳や参考書はアマゾンでは扱っていない」って、そんなことで“BL学者”を揶揄しているつもりだろうか。「一般」対「オタク」というのは男の特殊事情で、女の場合にそのまま重ねることはできない。そこまでして腐女子を「女のオタク」にしたいのか。「レズビアン&ゲイ なんとか」と銘打ってゲイ男性の話ばかりし、レズビアンについてはよくわからないからと言いわけしつつアリバイとして女を入れる連中もウザいが、これと比べればわからないと言うだけましに思えてきた。

 しかし、“学者”の揶揄は、私もしたい気がする。それには、次の部分が使えそうだ。

 そうしたやおい論や腐女子論を特徴付けるのは、もっぱら〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開される一方で、その媒体が、漫画・アニメ・ゲーム・ライトノベルなどの、いわゆるオタク系に偏っていることに関して、おおむね不問にされていることである。

〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開されるのは、その齟齬(見かけ上の)にこそ問題の核心があると見なされるのだから当然のことだ。だが、媒体の片寄りに関しては、別の理由があると私は思う。

 それはひどく単純なことだ。やおい研究者たちがまだそこまで手を広げられないから、あるいは、手を広げられない人がやおい研究者をやっているから。商業出版のジャンルとしてのBLにとどめておけば、少なくとも研究としての恰好はつこう。媒体の片寄りは単なるその結果であり、オタクうんぬんは関係なし。

「岩波講座 文学」の『身体と性』の巻で、何をもって〈ゲイ文学〉と呼ぶかについて論じながら、ゲイとは無縁の物語さえもゲイ文学へと変換し、あれよあれよという間に理論上すべての文学はゲイ文学でもあるという地点にまで至る大橋洋一の身振りを見よ。「理論が作品をマッピング」!
 やおいも基本はそれと同じだ。
 
 女が明示的ゲイ文学を読むのもやおいだよ! (だから、「やおいとは火のないところに煙を立たせるもの」という言説は違和感なのだ。)
 塚本邦雄をやおいとして読むとか、ユルスナルをやおいとして読むとか、私が言っているのもそういうことだ。

 もちろんそれは差別だ。前にも書いたが、女が関わる場合だけ、それを〈やおい〉と呼ぶのは差別。 
 だからあえて呼ぶ。

 最後に一言――森川論文で驚いたのは、末尾に守如子さんへの謝辞があったこと。守さんの書くものを知っている人なら私同様驚くだろうし、知らない人やあまり知らない人は、論文の著者に賛成なのかと思いかねない。守さんにしたら大迷惑だ。それとも意地悪でやってるのか。
 守さんに聞いたことをどう曲解したのか知らないが、この内容で、「執筆にあたり、格別なご教示を頂いた」なんて書いたのでは守さんに失礼だろう。
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-29 22:45 | やおい論を求めて | Comments(0)

補遺

Mさま

>男女間の逆照射とやおいを読む人は、男同士の関係性に反応できていない人というわけなんですね!!

「政治的腐女子」という言葉を最近思いついたもので、千田さんのブログを見てさっそく適用しちゃいました。

「それが悪いというのではない」とフォローしたのは、現実の男女間の関係も反映しているのは当然だからですが、ただ、そこから話を始めようとしたり、そこに「原因」を求める態度は最悪と思っています。

フィードラーの本から、「ホモエロティック」という別に新しくもない言葉を持ってきましたが、これの利点は、今、ホモソーシャルを腐女子がホモセクシュアルに読み替えると知ったかぶりに言われていますが、実はその手前ですでに男同士の関係性が(腐女子の手が触れずとも)エロティックなものとして成立していることを示せるところではないでしょうか。

ちょっと考えていたのは、やおい/BLはポルノじゃない、と言う人は、何を言おうとしているのかということ。
ポルノじゃなくても、「ホモエロティックなもの」にぐっと来ているんですよね。
フィードラーから引用した中に、「作中人物やその作家たちが男色に耽っていると主張しているのではない」とあるでしょ。『男生女相』に出てきた武侠映画の監督も、男たちの関係性を利用しているのであって、三国志の英雄たちがホモセクシュアルだったというんじゃない、というようなことを言ってましたが。

それをホモフォビアと呼ぶ必要は必ずしもないけれど、そこで踏みとどまる必要もないわけで。

あと、女にとってこの「ホモエロティックなもの」とは、勝手に思い描いているわけでは全くなく、本来は、女には入り込めない、当事者になれない、そもそも(過去の時代には完全に)そこから閉め出された文化の中の領域をappropriateしているわけで、その意味では贋物だけど、ゲイを好き勝手にrepresentしているというのは大嘘だと思っています。
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-26 00:25 | やおい論を求めて | Comments(0)

“政治的”腐女子?

 続き物の(下)は、「季刊コーラ」のための原稿を仕上げてからになる見込み。(下)で終わらない場合は、ある日カッコの中が数字に置き換わっているかもしれません。

 それまでは、「コーラ」用の草稿をぽつぽつ、メモとして置いてゆくつもりです。

+++++++++++++++++++++++++++++

『レイモンド・チャンドラー読本』に収められ日本の男流評論家の無邪気な賛美の傍で異質な光を放っている「ホモセクシュアルの翳」(マイクル・メイスン)は、チャンドラーの小説がミッキー・スピレインのような「殺人を欲望で彩り、暴力に色情症の風味を添え」たポルノまがいではなく、男の友情の強調と異性愛に対する嫌悪(探偵が女と寝る時でさえ)からなっていることを指摘している。実際、チャンドラーの長篇で美女が出てくればそれは殺人者と相場が決まっており、しかしその描写は妙に官能性を欠く反面、男の魅力には敏感で……。

 こんな回りくどいことをせずに、不愉快な女が出てくる場面はすべて削って、フィリップ・マーロウが惹かれている(たとえば)大鹿マロイと邪魔者なしに愛し合うようにすればそれだけでもう「やおい」になるわけだが、実は上記のような点は『アメリカ小説における愛と死』でレスリー・フィードラーが、アメリカ文学の特徴として(成熟した異性愛を描けないとして批判的に)指摘していたものであり、メイスンの論文はフィードラーが上述の「ポルノまがい」の探偵小説家としてチャンドラーの名をも挙げたことへの異議からはじまっている。現に、チャンドラーの小説は、フィードラーの本の一章で典型的な一例とされてもおかしくないほどだ。

 性的なものを潜ませた「同性愛[ホモエロティック]の物語」としてフィードラーが挙げるのは、実際には性交渉を持たない男たちの関係で、たとえば長々と分析されているのはおなじみ『白鯨』のイシュメイルとクィークェグの場合だ。彼らの結びつきには「結婚」という比喩が使われているが(これはつい先立っての『鋼鉄三国志』を思い出させずにはいない)、十九世紀のアメリカでは、男同士の関係は「邪悪な女」に対する防波堤と思われていたというのだから、ミソジニーもいいところで、一方、同性間の性関係は想像すらできないほどにホモフォビア(この言葉は使われていない)が強かったということになろう(男同士の関係なら純粋、つまり肉体を欠いているので安心という言説は、ほとんど女同士について言われているのかという錯覚を起こさせる)。

 ホモソーシャルという用語もなかった時代に書かれた本なので、フィードラーは、実際の性関係を含む「ホモセクシュアル」に対しては「ホモエロティック」という語を対比させている。「……私は、ある作中人物やその作家たちが男色に耽っていると主張しているのではないことをはっきりさせたかったのである。それ故、できる限り、「ホモエロティック」以上に耳障りな「ホモセクシャル」を避けたのである」

 だが、この言明の直後に「(翻訳では区別しなかったことをお断りする――訳者)」と、抑圧したものが行も替えずに回帰しているのには笑わされる。つまり、すべてを「同性愛」としてしまったということだろうが、なかには「ホモエロティック」のルビも見られる。

 ホモセクシュアル/ホモエロティックの対比は、少々手垢がついてきたホモソーシャル/ホモセクシュアルの対と較べても、かえって新鮮に見えるような気がしてきた。というのは、やおいはホモソーシャルをホモセクシュアルに読み替えるなどとこともなげに言われてしまう昨今だが、それ以前に、身体を交えずとも「ホモエロティック」がないことには(それが感じられないことには)、そもそもそのような読み替え自体ありえないからだ。「やおい」に性的描写はなくてもいい、かえってほのめかしにとどめた方が好きだ、あるいは、やおいはポルノではないと主張する人々がいるのも、そうした「ホモエロティック」に魅了されるあまりだろうと私は理解している。

 ところで、ホモソーシャル/ホモセクシュアルの違いを知るまで、自分は男性同性愛者を、女を差別するものだと思っていたという上野千鶴子は、当然のことながら「ホモエロティック」には惹かれないのだろうが、そもそもホモソーシャル/ホモセクシュアルの関係をどうとらえていたっけ? と思っていたら、おあつらえむきの答えがウェブ上にあった。

http://www.kinokuniya.co.jp/02f/d05/scripta/nippon/nippon-2.htm

 上野さん、フロイトが生物学的決定論でないことをいつ理解したのか? 名前が出てくる斎藤環に教わったのか? 

 ついでに言うと、私が一つ前のエントリで引用した高橋睦郎は、三島、美輪とともに、上野さんが彼らしか知らなかったために男性同性愛者=女性差別主義者と「かんちがい」したという三人組のひとりである。 彼の名前だけ覚えてない人がいるので念のため。

 これはあとで利用するとして、もう一つ、偶然見つけたものを下に貼っておく。千田有紀さんのブログだが、「ホモエロティック」を感じられない体質の女がBLを読むというケースをよくあらわしているように思われた。「ホモエロティック」を知るのにBLというジャンルに出会う必要はない。「やおい的感受性」は早ければ物心ついた時にはもう「構築」されている。

 冒頭で「前の『腐女子~』」と言っているのはユリイカの一冊目の特集「腐女子マンガ大系」のこと。男‐男に感応しないのなら、ヘテロセクシュアリティに対する批評(「男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて」)としてフェミニスト的に読むしかあるまい(それが悪いというのではない)。

 なお、ここ(これは続きもののほんの一部)で行なわれている批判自体には賛同する。というか、批判する価値もない対象と思うが。

+++++++++++++++++++++++++++++

(以下引用)http://blog.goo.ne.jp/yukizoudesu/e/3fdfcc5998f42669f709fc43f8791718


前の『腐女子~』を読んでわたしが衝撃を受けたのは、BLの読まれかたの違いに気づかされたところです。本当に読みかたって、多様なんだなぁと。確かに、「BLはポルノ」という言い方をされることがありますが、自分は少女マンガの延長で読んでいたので、この「ポルノ」っていういいかたは、「メタファー」だと思っていたんですよ。いや本当に、上品ぶるわけではなく。ところが、本当に「ポルノ」として読むという読み方があるんだ、ということを突きつけられて、眼から鱗というか、何というか、衝撃、としかいいようがありませんでした。

そうか、ポルノだと考えれば、人前でBL読むとかいいにくいよなぁ…。なんだか妙に納得。わたしは社会学者なので、「実にジェンダー論的に面白い」というか、読んでいると、男女の間にあるさまざまな関係が逆に照射されてきて、面白いなぁと思って読んでいるという自己正当化ができるからかもしれません(いや単純に面白いんですよ、作品として)。でも本当にびっくりしたんです。

考えてみれば、24年組→白泉社系で、ひとまずピリオドを打ったわたしの読書経験としては、BLに触れたのは、今度は30を過ぎてからなんですよね。この年になったら、(あの程度では?)ポルノとしては機能しないんですが、中学生とか高校生には確かに刺激が強いのかも…。そしてその頃から読んでいる読者がそういう読みを身につけていても、なんら不思議ではないですね。

あと、やおいとBLは違うんだなぁとも思いました(相対的にですけれど)。金田さんはやおい同人誌が好きで、商業誌はそれに較べるとあまり好きではないとおっしゃっていたけど(知っている後輩に「おっしゃって」とかいうのもなんか照れ臭いですが、ここでは敬意を表して敬語に)、わたしはやおい同人誌を作っているひとは楽しそうだなぁと、同人活動を羨ましく思いますけれど、作品としては同人誌はあんまり好きじゃないんだろうなぁ。商業誌にやおい同人誌的なものが出てきた(尾崎南が『マーガレット』に連載開始とか)ときに、わたしはこの手のものから離れたのは、偶然じゃないと思うんですよね(あ、やおい=同人誌、BL=商業誌って本当に乱暴なくくりですけれど、ここでは暫定的に)。
(後略)
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-25 07:18 | やおい論を求めて | Comments(0)
  トーベ・ヤンソンについて私は多くを知るものではない。ムーミンはろくに見たことがなく(近年ネットで二本見て面白かったが)、子供向けではない小説を二冊、文庫本になったのを読んだきりだ。彼女が同性の伴侶と暮らしていた件は、東京でヤンソンの展覧会があった数年前、読売の記事で目にした可能性が高い。夏のあいだ、彼女は島にパートナーと二人で住んでいた。ウィキペディアにはその名前も出ているが、このことは、同じく女性の恋人と島で暮らした、『ハドリアヌス帝の回想』で知られるマルグリット・ユルスナールを思い出させずにはいない。今回、作品に出てくる男の登場人物のことで、類似はさらに深まった。いうまでもなくローマ皇帝とムーミンでは大違いで、その共通点など探すのもおかしいほどだが。

 ユルスナールについての記述はどうなっているのだろう。自宅の図書室の本には二人の頭文字が組み合わせて入れられていたというグレース・フリックの名はウィキで見られるのだろうか。彼女の作品は、ある時期まで、翻訳されたものは残らず読んでいた。翻訳者たちは、彼女の愛の主たる対象が女性であることを隠さなかった。短篇集『火』を訳した多田智満子は、神話や古代ギリシアの人物を扱った(“二次創作”的)連作の中で、サッフォーの話が彼女の実体験に一番近いのだろうと書いているし(彼女のサッフォーは現代でサーカスのブランコ乗りになっている)、『黒の過程』その他の訳者である岩崎力がモン・デゼール島のユルスナールの家に泊まったときに見た図書室の頭文字のエピソードは、これも読売の文化欄で読んだが、そのときはもう彼女は鬼籍に入っていたと思う。生涯の伴侶という言葉がフリックを指すのに使われていた。彼女が日本に来たときは日仏学院での講演も聞いた(岩崎さんの通訳で)。そんなわけで、ヤンソンに較べユルスナールの方はずっとよく作者も作品も知っているといっていい。

 ウィキペディアより先に、2001年に白水社から出たユルスナール・コレクションのサイトがヒットした。ニューズレター風の目次を見ると、巻頭に高橋睦郎が書いている。それだけで嫌な予感はした。

http://www.hakusuisha.co.jp/digest/2001apr_may.pdf

『ハドリアヌス帝の回想』日本語訳の初版が出た翌年に三島由紀夫から聞いたという言葉を借りて、高橋はここで、ユルスナール、多田智満子、そして森茉莉を「称賛」している。女の書き手に対して行なわれる称賛の、最悪のものとまでは言わないが心ある人なら眉をひそめるやり方で。私は「現代詩文庫」の高橋睦郎集は隅から隅まで繰り返し読んだし、全篇男根の隠喩からなる彼の詩集も持っているが、「ユリイカ」のロラン・バルト特集だったかに載った、彼がバルトを追悼する詩はぞっとしなかった。彼は、バルトが「男色家」だったという属性と、交通事故で死んだという事実ほかの要素を組合せ、脚註付きの詩を作っていた。むろん、作品がモデルとなった〈彼自身〉に似る義務などありはしない。ただ、私にはそれはひどく忌まわしく感じられた。

 三島の言葉は、次のように高橋によって拾われていた。

あの訳者の多田智満子というのは偽名で、本当は男だろう。

あの文体は断じて女性の文体じゃないよ。

 森茉莉については、三島にかわってこう説明する。
「三島さんが女流にもかかわらず認める唯一の小説家は森さんだった。そして、その理由は男性どうしの愛が描けるからということらしかった」
「森茉莉は女のくせにどうして男どうしの愛がわかるのかなあ、と不思議がったり、感心したりしていた」


 ユルスナールについても、同じように、「三島さん」「女のくせにどうしてハドリアヌスとアンティノウスの愛がわかるのだろうと、不思議がったり、感心したりしていたのだろう」と高橋は言う。

「その訳をしたのがまた多田智満子という女性であっては、女性にはこの世に存在する唯一の純粋な愛である男性どうしの愛は描けないという三島さんの信念が揺らいでしまう」

「多田さんの訳はじつに格調が高く、女性にありがちな感傷的なところがみじんもない」


[ユルスナールの]「こんな堂々とした詩の文体、散文の文体が、感傷まるだしの日本の女性にかけるはずがない、と三島さんは思ったのだろう。/では、日本の男性には書けるか。とても書けるとは思えない。三島さんもそれはわかっていたのだろうが、自分が男性である以上、書けないとは言いたくなかったのではないか」

 高橋がユーモアたっぷりに(と本人は思っているのだろう)言っていることを翻訳してみれば、つまり、ユルスナールは〈リアルゲイ〉の三島もたじたじとなるほどホンモノの〈ゲイ表象〉(ここではゲイという語も同性愛者という語もアナクロニックだが、あえて使う)を、その歴史小説において描いたということだ。

 いわゆるBL作家に対して言われる、女の作家がなぜ〈ゲイ男性〉を表現に使うのかという問いが、ユルスナールに対しては問われない。質的にいかに隔たりがあろうと、しかしそのことはいぶかしまれるべきだと思う。それはけっして“自然”なことではないからだ。男であり「リアルゲイ」である三島のお墨付きを強調することで、高橋はユルスナールの仕事を“自然化”している。それがゲイ表象の流用/横奪(註1)であることを隠蔽し、そうしなければならなかった理由を問わせまいとしている。

 むろん、高橋にはそんな意図はまったくない。高橋にとって、そんな問題ははじめから存在しないのだから。彼に理解できるのは、美しい男同士の関係があり、男と見まがう才能に恵まれた稀有な女が堂々たる文体でそれを描いてくれたということだけだ。

 そしてそれを称賛する高橋の文章ときたら、臆面もなくミソジニックだ。

 ここにはホモフォビアは皆無である。男同士の愛は、高橋描く三島というキャラを通じて無邪気に肯定されている。
 しかし、ユルスナールが女である以上、三島のように無邪気に書けたはずはないのだ。

 高橋が三島を道化に仕立てられるのは、彼の優位はその程度のことでは小ゆるぎもしないからにほかならない。男同士の愛がもっとも美しく、最高だという彼の判断もゆるがない。

 男をもっぱら描いたことには、時代を下った私たち、やおいを読み、書く、私たちと同様、ヤンソンやユルスナールにもそれぞれ理由があったはずだ。時代も社会も環境も全然違うからその形態は異なるが、しかし、女として生まれたことによる抑圧に数十年で本質的な変化があったとは思えない。

 森茉莉もユルスナールも高級やおいの書き手だった。やおいとは差別語である。女が書き手ないしその受け手であるとされるある種の作品を、自動的にそこへ分類する装置であるのだから。だが、二人のゲイ男性によって名誉男性に列せられたユルスナールをあえてやおい作家と呼ぼうとするのは、「この世に存在する唯一の純粋な愛である男性どうしの愛」というまやかしに依拠しつつ表現することの真実がそこから見えてくると思うからだ。


(註1)通常私はappropriationの意味では〈流用〉と言うのだが、ここではあえて別の語をも使ってみた。
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-18 15:08 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 昔、アン・ライスの『ヴァンパイア・レスタト』を取り上げた書評を『季刊 幻想文学』に送った際、掲載誌とともに届いた編集長の女性からの手紙(というかメモ)に奇妙なことが書かれていた。いわく、「同性愛」は現実に存在するものであり幻想ではない、だから、それだけでは本誌では扱わない……。

 それだけではないから『幻想文学』に送ったのだし、それだけではないと思ったから採用したのだろう。「同性愛」を「幻想」と思うって、いったい誰が? 一緒に送ったもう一つの書評もまた同性愛(というよりクイア批評)にかかわるものだったから、『レスタト』なら許容できるがそれ以上はやってくれるなとあらかじめ釘を刺されたのか。理不尽な判断をされたと憤るより先に、わざわざ「幻想」ではないとことわる発想自体が不可解だった。

 その後「女性学年報」のバックナンバーを繰って某氏の「女性の少年愛嗜好」(男色嗜好とも。「腐女子」という語のない石器時代はかくも回りくどい言い方をしなければならなかったのだ)に関する一連の論文を読んでいたとき、はっと気づいた。ああ、これが、編集長メモの「幻想」という、いや、「幻想ではない」ということだったのか。某氏は、「女性の~」とは、当の女性自身が抱えている心理的問題の置きかえであって、その正体は前エディプス期の母との関係の表現であり、現実に存在する同性愛者とは完全に切り離された事象であると終始主張していたからだ。かくも地上から必死でテイク・オフしなければすまないこの情熱はなんだろう? 雑誌を閉じて私が呟いた言葉は、(孤独が深いんだな)であった。

 これは現実の同性愛とは別の「ファンタジー」だから「幻想」ですと言い張る「やおい少女」(という言葉はあった)にかの編集長が悩まされたあげくの、とばっちりだったのだろうか、あの私への警告は。(だとしても同情する気にはならなかった。)ところで、その次に取り上げる本としてデイヴィッド・ハルプリンの『同性愛の百年間』をすでに私は考えていて、水を差されたような気にちょっとだけなったものの、予定を変更する気はさらさらなかった。もともと貴誌が思想・哲学系の著作について書評を載せているのを見て投稿を考えた、その意味でこの本はふさわしいはずとかなんとか書き添え、原稿を送った。前便の警告に対する違和感もきっちりだったかいちおうだったか書いたとは思うのだが、何しろ古い話なのではっきりしない。掲載誌が送られてくると、今度は同封の紙片には、こういう内容ならよいと思うというようなことが書かれていた。

 この一件を久しぶりに思い出したのは、私のやまじえびね論をはてなブックマークしているページに行きあたったとき、その幾つか先に並んでいた「みやきち日記」のエントリーを読んだからだ。 ファンタジーと同性愛という記事で、みやきちさんは次のように書いている。

・異性愛者向けの同性間ラブストーリーは「ファンタジー」である
・ジャンルとして「ファンタジー」が盛り上がることには何の問題もない
・でも、現実世界にまで「ファンタジー」のレッテルを貼られると悲しい

 これはいわゆる「百合小説」について述べたものだが、「やおい」について言われたとしても違和感のない言説だ。「悲しい」というおだやかな指摘でなく、表象暴力だ、横奪だと、今、言われているわけだが。

「リアルなレズビアン小説」も実は「ファンタジー」であるのだと、別記事で「レズビアン小説」と「百合小説」の差異について論じながら、みやきちさんは極めて妥当な考察をしている。その上で、当事者から見ると「百合」の設定や描写がいかに現実からズレているかという点を挙げ、それが「百合の」作者/読者の願望の投影(それによる歪曲)に他ならないとしている。

 しかし、「リアル」と「ファンタジー」の境界はいったいどこにあるのだろう。現実を知れば嘘っぽさが我慢できなくなって、ファンタジーをそれに合わせてよりリアルに加工することもあろうし(それによって「よりリアルなファンタジー」が生まれよう)、「一般読者」には受け入れられまいと思われる描写が意外な萌えにつながることもある。

 実は「一般読者」と「当事者である読者」を分かつ線もまた、固定されたものではないのだ。前述の書評で、私は、《今日ライスが隠れもない「ゲイ・メイル・エロチカの女王」(ジョン・プレストン)であることを私たちは知っている。》と書いた(むろん、誰もが知ることではあるまいと確信して)。プレストンは「ゲイ・エロティック・ライティング」のアンソロジーをライスと共に編集しただけではなく、彼自身の小説の中にライスの小説を登場させている。つまり、SMプレイをする男たちが本棚からライスの本を取り出し、一節を朗読しては、描かれたことを実演するという場面を書き込んでいるのだ。

「ファンタジー」は当事者だけのものではない。チャイルド・ポルノ禁止をめぐる議論(にもならない暴論)を見ていてあらためてそう思った。アニメやマンガの単純所持まで禁止せよというあれである。子供をエロティックに描いた絵を見た者がそのまま現実の子供のアビューズに走ると信じる者には、そもそも想像力が欠けている。そうした絵を享受する者に小児性愛者(男)しか想定していないところがすでにそうである。むろん、実際に子供を性的に利用する者や現実の子供を使ったポルノを流通させる者は厳しく処罰されるべきだと思うが、アニメやマンガといった表現を規制するのはたんにバカげている。

 それは何も、子供に対する欲望を持つ者にとってそれがはけ口となり、現実の子供に向かわないという効果を期待してのことではない。そういう効果もあるのかもしれないが、そうだとしても、その欲望は「小児性愛者」という特殊な人々にかかわる話ではない。「ファンタジー」は、表象(表現)は、そのように当事者にタコツボ的に属するものではない。それは社会的なものであり、つねにすでに私たちが参照し、私たちを参照している。ライスとプレストンのあいだで循環する表象のように、それは私たちの中を、あいだを(どこか知らない、〈外〉にいる犯罪者のあいだをではなくて)めぐるものだ。

「リアルなファンタジー」が巧緻に精妙に描かれたとき起こりうるものも彼らの想像を超えている。それはたとえば、かかるファンタジーが自分のうちにあることをこれまで一度たりとも自覚したことがなく、そのような表現など自分には無関係で一律に禁止すればいいと疑わなかった者をも、エロティックに動揺させることがあるかもしれないのだ。そうした体験と、子供を被害者とする性的表現に刺戟された者による子供への短絡的な性的攻撃とを一律に考えることはできない。

 ファンタジーをはぐくむべき(その中には〈小児性愛的〉と見なしうるものも当然あろう)子供時代に大人の欲望の犠牲にされることは性的主体としての子供の権利を侵害する。その意味で私は現実の被害者のいる子供ポルノに反対し二次元における子供の表象を断固擁護する
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-17 11:46 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
『カミングアウト・レターズ 子どもと親、生徒と教師の往復書簡』(RYOJI+砂川秀樹編)は、「がんの痛みをとるために」と本来なら表題をつけたいパンフレットが、本人には病名を告知しないのが主流だった時代には「痛みをとるために」とだけしか題せなかったように、肝心のことが表紙には日本語では出ていないが(というのは、最初は目に入らなかったが、赤い英語の手書き文字ではGay & Lesbian Comingu-out Lettersとあるからだ)、まあ、それを併せて読めば内容はわかる本だ。

 私がこの本を読んだのは、若い友人から、本屋で手に取ってみたものの、Ⅱ章のletter 6のタイトルを見てそのまま閉じてしまったという話を聞いたからだ。そのタイトルは「ムーミン谷とマイノリティレポートにこめたもの」という。なぜそれがその先を見る気にならなくなるほどショックだったのか、彼女が話してくれたおおよその理由は次のようなものである。

『ムーミン』の作者トーベ・ヤンソンがレズビアンだったのは今では知られていることだが、『ムーミン』には女同士の関係は直接的にはほとんど出てこない。あれ(TVで放送していたアニメの『ムーミン』)を見ていた女の子たちが一番惹かれたのは、たぶんスナフキンとムーミンの関係。それがどう扱われているかが気になった。 “やおい的なもの”に出会って自分のセクシュアリティを意識したという人は、実は、男女を問わずいるはず。ムーミン谷は多様なマイノリティが共存する世界、作者はレズビアンです、ですまされてしまったとしたら、そういう子たちはどう思うだろう。男なら、ゲイという概念を知って「ゲイです」ですむかもしれない。だが、レズビアンでやおい的感受性を持つ女の子は、スナフキンとムーミンに萌えてしまう私は間違っているのか? と思うのではないか。 
 “正しい同性愛者”という規範がそういう形で示されることで、女にとって何が正しいセクシュアリティかという押しつけがここでもまたなされているのではないか?


 そう思って本を閉じてしまったというのだ。
 非常によくわかる話だし、ヤンソンがレズビアンだったこととムーミンという作品との関係がどのように語られているかは私も大いに興味があるから、それなら代りに読んでみよう、と私は言った。

 しかし、帰宅してもそのことがどうも気になるので、すでにその本を読んでいる別の友人にメールして、ヤンソンがレズビアンだったことについてどのように書かれているかを尋ねてみた。

 すぐに返事は来た。十八歳の女性と高校時代の教師の往復書簡であり、高校生だった彼女が書いたレポートはムーミン谷はキャラがいろいろ出てきて多様だといった内容で、そして作者については何も書かれていないというのだ。

 うむむむむ。拍子抜け。それにしてもヤンソンに触れてないって……。これはどうしても自分で読んでみなければ。
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-10 22:55 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

大塚再訪

 最近池袋・大塚史にとみに詳しくなっているSMさんに案内され、黄昏の大塚駅周辺を散歩する。大塚名画座の建物が今もそのままとは知らなかった。階上も、鈴本キネマだった地下も、飲食店が入っている。迷路のような商店街にはあれからただの一度も足を踏み入れたことがなく、とっくに高いビルにでもなっているかと思っていたが、再開発されたわけではなかったのだ。明らかに覚えのある階段の形状。当時は邦画の面白さを知らず、鈴本キネマには廃業が決まってから一度だけ行ったような気がするが、それともついに入ることがなかったのか、記憶はもうさだかではない。小さなスクリーンの大塚名画座はいつも混んでいて、一本しかない通路まで座り見の人で埋まっていたため、最前列のシートの足元に蹲って見たこともある(そして、二本立てのうちの一本が終った途端、後ろを向いて館内を見渡しすばやく席を確保した)。

 映画館のすぐ後ろに神社があるのを全く知らなかった。熱心に通っていたのはたぶん二十代のはじめで、街歩きにも興味がなかったのだと思う。

 電停のプラットフォーム伝いにガードの北側に回ったときはもう暗くなっていたが、前方の変哲もないビルを指し、ここは元はデパートだったそうだとSMさんが言う。場末に過ぎなかった池袋より先にこっちにできたのだと。今は本屋とマクドナルドが入っている一階奥の階段とエレベーター・ホールにわずかに残る往時の華やかさを確認して入口に戻ると、ありし日の姿を伝える写真が二枚飾られていた。その店の名前、白木屋。服飾史にも名をとどめる白木屋……(昭和初年の火事で裾が乱れるのを恐れた女店員が大勢死に、それをきっかけに下着が普及というのは俗説で、実際には逃げ場を失って飛び降りたとも聞くが)、それなら古かろう。SMさんは居酒屋しか連想しなかったし、日本橋東急も今はないが。

 設計者は石本喜久治。帰宅して検索でヒットした先を読むうち、石本建築事務所とは立原道造が若い晩年に勤めた先にほかならぬことに気がついた。

 大塚名画座も検索すると、ここは四回分のスタンプで一回無料になったと書いている人がおり、クリックしかけて気がついた、なんだ自分のブログじゃないかorz; 大塚名画座へ都電で行こうとしたら、あいにく巣鴨のお地蔵様の縁日にぶつかってしまい進むほどに押し寄せる年寄りで満員状態、席は譲らなければならず電車は進まず上映時間に間に合わなかったことまでちゃんと書いてある(一度した話をまたするところだった)。山手線のプラットフォームの高さにいて電車の中から見えた大塚角萬の鶴が金ピカだったことなんか読むまで忘れていた。つい二年ばかり前に自分で書いておきながら。記憶の消滅、加速度的か。

 拙記事で引いている 「南大塚萬重宝」 にも久しく訪れていなかったのだが、元白木屋大塚分室、現大塚ビルのことも、一階の本屋とマックのことも、名画座裏の天祖神社のことも、SMさんとお茶した駅前のベイカリーカフェのことも、そこがちょっと前までベッカーズだったことも、 さすが大塚トリビア紙、近年の記事にみんな載っていた。

 ところで、「南大塚萬重宝」をめくっていて「佃煮にするほど」という形容を見つけた。この言い方、最近では「女は産む機械」と思っている奴が佃煮にするほどという文脈で自分でも使った覚えがあるが、もともとは大学の同級生が、普通なら「掃いて捨てるほど」と書きそうなところで小林秀雄が「佃煮にするほど」と書いていたとその悪意に満ちた表現を面白がって話してくれたもので、私はずっと小林のオリジナルかと思っていた(小林がどこで書いていたのかは未詳)。逆に言えば、実際にこの言い回しが使われている文章に出会ったことがなかったのだ。それが検索によりおびたしい用例に一度に出会う。

 もとベッカーズ、現イースト・イーストには、わけあって実は前日にもひとりで入っていた。杏タルトを食べながら、ガラス張りの店内から高架上を走る電車が見渡せるのがいたく気に入ってしまった。線路の北側から見ても、建物に遮られることなく電車の通過を見られる風景が独特で、微妙にくぼんだ立地も面白い。散歩には、過去に栄え、今はさびれた町が好きだ。

 一度も栄えたことがない土地が開発されるとどういう風景になるかというと……この夜、帰ってきて、駅から自宅ではなくヨーカドーへ抜けようと近道をたどるうち、右手に視界が開けて、広い前庭の向うに、湾曲した屏風のような巨大な建物がファサード一面に明りをともしているのに出会った。明りはついているがすべてブラインドを下ろしているようだ。これはいったい何なのか。敷地内の建物配置図らしきものがあるのを見つけ「ほほえみの郷」とやらほかが入っている、老人のための複合(?)福祉施設とわかった。あの一面の明りの向うには、そこを終の住処とする老人もいるわけか。あたりは草むらと団地と時折車の走り抜ける道があるばかり。私が勘に頼って歩くととんでもない所へ行ってしまうことも珍しくないのだが、今回は、無事、行く手にセブン&アイ・ホールディングスのマークが見えてきた。

 それにしても、「ほほえみの郷」とか「ふれあいランド」とかのネーミングって……。(独り暮しの祖母のもとに定期的にかかってくる「ふれあい電話」は邪魔なだけでしかなかったことを思い出す。祖母はすぐに出られるようにと律義にベッドの上に起き上がって待ち構えているが、電話は決まった時間よりもたいてい遅れ、身体が冷えて固まってしまうのだと言っていた。日当たりがよすぎて午前中は眩しいのに、カーテンは開けていますかと規定の質問を繰り返す。最後まで頭脳明晰だった祖母は、これも型通りに「はい」と答えていた。そして、肌のふれあいがなくなったから、それでふれあい、ふれあいって言うんだろうね、と私に言った)。大塚で見かけたイタリアンの店、外観のダサい印象はどこから来るのか、いろいろあるが何といっても店名だとか、前を通りながら悪口言ってわるかった。レストラン「うまうま」、「ふれあいランド」よりよっぽどいいよ。
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-09 19:05 | 日々 | Comments(0)
 大岡昇平に『萌野』という小説がある(とえらそうに言うが、実は未読。蓮實重彦の『反=日本語論』(1977年)で扱われているのを昔読んだきりだ)。大岡が72年にアメリカ滞在中の息子夫婦に会いに行ったときのことを書いたこの小説で、彼の未来の孫娘に息子夫婦が用意していた名前「萌野」。これを「もや」と読むことは、今日ほとんど抵抗を惹き起こすまい。なにしろ、金井美恵子が日本中の親が森鷗外になったみたいにと言い、柄谷行人が、大学の出席簿がホステスの名簿みたいだと言ってからでもいったいどれだけ経っていることか(萌野ちゃんは幾つになっているか……と数えるまでもなく)。「萌(もえる)」を「も」 と読ませるなど、今となっては可愛いものというか、限りなく上品というか……。『反=日本語論』を(たぶん)出版されて間もなく読んだとき、しかし、「萌野[もや]なんて低能の名前の子は俺の孫じゃない!」と口走ってしまう(あとで後悔するのだが)大岡の感覚は、確かに当時の私のそれともぴったり重なるものであった。

 大岡昇平が大岡萌野という名を受け入れるに至る話。それを「美しい」と蓮實は形容していたと思う。畸形性こそが言語の本質であること、現在「正しい」と感じられる訓み自体が実は漢字に恣意的な訓みをあてはめた結果として偶然このようにあること、「美しく正しい日本語」とは虚妄であること。そうであるとき、「萌野」の「美しさ」を拒む理由は何もない。

『反=日本語論』についてのインタヴューで、蓮實はインタヴュアーから「ゾケサの紋切型」はないのだろうかと尋ねられている。ゾケサとは「蛍の光」の一節、「あけてゾケサは別れゆく」を「明けてぞ今朝は」と聞き取れなかった子供時代の蓮實の頭脳が産み出した架空の生物だ。これに対して蓮實ははっきりした答えを返していなかったように記憶するが、私はそれを読みながら、(ゾケサの紋切型はある!)と思っていた。投書欄のあるところにならどこにでも出現する可能性があるのだが、たとえば当時、たまに寄ることのあったスーパーに置かれていたペーパーにはそれ専用の欄があって、「ゾケサ」のたぐいの言葉を子供が発したとき、すかさず親が書き取って投稿した記事が毎号おびただしく載っていた。ケースの中の「生ハム」の表示を見て、「ママ、このハム生きてるよ」と驚きの声を上げる子供は確かに可愛かろうし、そういう場面で私自身微笑(時には爆笑)することもある。だが、ゾケサの紋切型の羅列は醜悪だ。それは、競って投稿してくる母親たちがそれを「わが子のユニークな発想」と信じているから、そして、それが子供にしか可能でないことだと思っているからだ。

 だが、ハムが生きているのかと思う子供の驚きは実は何度も反復されてきたものだし(私自身の同様の体験についてはここで触れたことがある)、たとえ大人であっても「正しい日本語」から外れた、日本語の制度の内部にいない者はこうした錯誤の可能性に絶えずさらされている(『反=日本語論』にはそうした例が幾つも挙げられていたと記憶する。)子供なら可愛いと思われ、外国人であれば忌避されたり珍重されたりする。

 萌野=もやというフォルムの畸形性の印象は、今ではよほど薄らいだ。鷗外は今の日本人には想像のつかぬほど漢籍にも通じていたはずだが、その彼が「茉莉花(まつりか」の「まつ」を「ま」と強引に撓めて「まり」と読ませたのは、実は「萌」を「も」と訓ませるのからそう隔たっていなかったのかもしれないのだ。

 今では「萌野」は紋切型になってしまった。「日本中が森鷗外に」なった、つまり、「出鱈目」で「荒唐無稽」な名づけが大衆化された結果、その荒唐無稽さをもはや感知できない人々によってそれが自堕落に反復されるようになってしまったからだ。 「荒唐無稽」は制度に馴致されうるのだ。飼い馴らされたゾケサたちよ。

 ところで、同性愛も異性愛も同じように構築されたものだという言説がある。これはたとえば、「あなたが異性に性的に惹きつけられるのと同じように彼らは同性に惹きつけられるのですよ」というふうに使われることがある。そして、「あなたが異性への欲望を同性に向け直すのが不可能なように、彼らにはその逆が不可能なのです」と続けることによって、この言説の向けられる人々に何らかのrevelationをもたらすらしい。

 自分たちがガチへテロであるように「同性愛者たち」はガチホモだ、と「異性愛者たち」は思うわけだ。同性に向かう欲望とは、生殖という目的から外れ根拠を持たず方向を見失い意味を欠いた荒唐無稽なものだと思っていたが、そうではないのだと。(彼らばかりではない。そうやって彼らが説得されることを望む「同性愛者」たちもまた、律義で自堕落な反復によってそう考える。) だが、出鱈目(この表記ときタラそれ自体でタラめで面白いっタラない、なんでここでタラが出てくるんだwww)で荒唐無稽であるのは、性的指向などその一部でしかないセクシュアリティそのものではないか。

 小説『萌野』で、「もえの」という訓み(それなら大岡にも受け入れられる)をなぜ採用しないのかという理由について、語り手の息子の妻は語り手に、「もえる」(性的に)という連想が女性の名としては不穏当ではないかと冗談めかして言う(これは蓮實の記述を私が記憶に頼って書いている)。 ここから見てとれるのは、女が(他動詞的に)「萌える」という概念が当時全く存在しなかったことだ。「もえ」(たぶん和語としては萌えと燃えに区別はないのだろう)た女は男に対していつでもオーケーと言っている(性的対象として自らを提示している)と見なされて当然という文脈で(2008年に米海兵隊員に対する告訴を取り下げなければならなかった沖縄の女子中学生もまた、そういう女として男たちから断罪された)「もえ」の意味は尽くされていたわけだ。

「萌野」という畸形的な(実はそれはすべての言語の特徴なのだが)フォルムの誕生を祝う小説で、そしてそれをめぐって「美しく正しい日本語」の正統性を疑問に付するエッセイの中で、しかし女が「燃える」こととそれに対する男女の反応は女の「正しいセクシュアリティ」に属する事柄として記述され、1977年のフィールドに、女が「萌える」可能性は文字通りその萌芽さえ見せていなかった。
[PR]
by kaoruSZ | 2008-03-04 09:56 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)