おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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コーラ/カラス/ウナギ

 ずっと忙しく――というのには、インターネットに接続できなくてネットカフェへ通っていたというのも含む――過ごしていて、もう日が過ぎてしまったが、15日にWeb評論誌「コーラ」04号アップされた。拙稿「私たちは表象の横奪論をほってはおかない」http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.htmlが載っている。

 すぐ前の二つの記事、〈表象の流用(the appropriation of representation)について〉と〈Who’s Afraid of Big Bad Male Nude?〉は、加筆の上そこに組み込んだ。

 後者はネカフェから夜中に送り、次に寄った際、普段の一週間分[見直したらそんなものではなかった……一ヶ月分を超えてる]のアクセス数を一日で集めてしまったことに驚愕。なぜ……もっと面白いものをこれまでにも書いてると思うのだが(笑)……ともあれ、言及してくれた方、ブックマークに入れてくれた方に感謝です。

「コーラ」の今回の原稿は、自分の書いたものや過去のメールを参照しないことにはどうにもならなくて、最後はネカフェで徹夜。翌々日、NTTが来て、ルーターをパカッとあけるのからはじめて線をたどって調べた結果、結局、光ファイバーをカラスがつついて損傷したと判明。

 静岡のYさんに、クマゼミに二度、光ファイバーに孔をあけられたとは聞いていたのだが、東海以西はクマゼミ、東はカラスが天敵らしい……。クマゼミは枝と光ファイバーの区別がつかなくて、被覆を裂くためのガイドの溝に産卵管を突っ込むと前に読んだことがあるけれど、カラスはたんに遊んでいるらしい。線を張り直すのにアームの上にゴンドラがついた車二台がかりだった(当方三階)。たっぷり二時間かかったので、そのあいだに問題箇所から遠い方のベランダに洗濯物を干す。

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 ネット(と電話)復旧した日は、SMさんが夕飯に来ることになっていてそれから準備。ただし、メインはうなぎ屋で持ち帰りの蒲焼を頼むことにしていたので気楽に、夕方になって買物に出かけ刺身用のアジを見つけてタタキにしておき、魚グリルでナスを丸焼きにしてまずビール。それから豚肉と赤黄パプリカ&ピーマンの三色炒めを作るが、最近、片栗粉でとろみをつける際の秘訣を、「ためしてガッテン!」のサイトで覚えた。今まで母に教わったとおり片栗粉を水で十分に指で溶き、汁の煮立ったところにあけて手早く混ぜていたが(それであまりいい出来ではなかった)、粉は少量の水にひたす程度で(キシキシしていてもいい)、入れてから十分熱を加えて掻き回す。これでまったくダマにならないなめらかな仕上がりに。すごい! うなぎは、閉店したおそば屋さんから弟の奥さんがもらったのをもらった蓋つきどんぶりで立派なうな丼に。あとは豆腐となめこ(軸が長くてぬるぬるしていない)のおつけ。十一時過ぎに送って行こうと外に出たら、背後で一声カラスが鳴いた。なんだ、夜なのに。『エイリアン』とか『私の人形は良い人形』のラストみたいで不吉!

 15日はIzさん来て、先月から予定していた月遅れの合同誕生会と旧暦雛祭する。木目込みの雛人形を十五人分連れてきて、籐の小卓の上にクロスを敷いて並べた(本来はケース入り)。メールで訊くとうなぎ、好きだというので、またうなぎに。それで安心し過ぎて準備が遅れ、一緒に買物に行く。アジがあったからまたタタキ! Izさんが桜の葉で香りづけしたピンクの梅酒とブルーチーズとナッツ類を買ってくれたのでまずそれで乾杯。桜柄や桜色の食器並べる。アジを三枚におろすところを見学され、片身を流しに落す(見なかったことに)。タタキと、厚手の油揚げの焼いたのでビール飲み、豚肉、ニンジン、ピーマン、大なめこで野菜炒め(とろみつき)。最後にうな丼とアサリのおつけ。いや、そのあとにケーキも。
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by kaoruSZ | 2008-04-17 19:43 | 日々 | Comments(0)
「もちろん異性愛男性こそが女性イメージを圧倒的に性的な存在としてパタン化し領有してきたことは論を待たない。そのため「女の側だって少しくらい好き勝手してもいいのでは」という声もある。ただしもちろん、そういった考えは溜飲を下げる以上の効果はもたらさず、生産的な批判ではない、と考えられている」
           石田仁「ほっといてくださいという表明」
            『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ

 
 石田さんはこのように述べるが、男性による女性イメージの「領有」は、なにも“異性愛男性”に限った話ではない。かなり以前のことになるが、タレントのピーコが、深夜番組で「爆笑問題」相手に、「[ピーコは]女らしい」「ピーコさんてほんとに女なんだね」といった反応を引き出すような自己規定を繰り返し、好きな男の顔を見ているだけでいい、何もしなくてもいい、と自らがrepresentする女性主体の脱性化(これは異性愛男性による性的対象としての女の“パタン化”と矛盾しない)をはかりつつ、ホモフォビックなヘテロセクシズムの強化(問題なのはピーコが現実に女ではないことであるかのように言われ、ピーコの男への愛は女が男に対する愛と同じものとされる。すなわち、“真の”男から男へ向ける欲望は存在しないことになる)を行なっているのを目撃したことがある。ゲイ男性が女性性をも兼ねそなえた存在としてふるまうことで、かえって生物学的女性の本質化が進められるのはよくあることだ。はなはだしい場合は生物学的女性に向かって女の道を説きはじめるし、それをもてはやす女もいる。

 かくも完璧な女性性の横取りと押しつけが横行する中で、「女の側だって少しくらい好き勝手」とか、「溜飲を下げる」というのは、あまりリアリティのある言葉とは思えない。そんなことではどうにもならないほど男の側からの領有は凄まじいのだが。そして、ピーコがこれだけやっても何も言われないのは、言うまでもなく男だからだ。だから少しぐらい、と私は言いたいのではない。この非対称を前にして言葉を失うのではなく、下記のように饒舌になることが信じられないと思うのだ。

「いったん「他者」として切り分けた存在を、「私」との関係で非対称に配当し、お決まりのパタンでくり返しイメージした後に葬送する。この表象の横奪の問題は、現代(ポスト植民地時代)の諸研究で、すでに重要な論点として認識されている。たとえばハワイ、スペイン、沖縄が、経済的宗主国によってリゾート地として創出-消費(開発)」されてきた経緯があり、しかもこの「開発」は現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営みと密接不可分だった。とすれば、「女ではない他者」のイメージをパタン化し領有するやおい/BLも、微睡みの中にいることは許されない」(石田、前出)

 女にとって男は「他者」だろうか。とんでもない。男にとって「他者」とされてきた女は、それ以外に自らのイメージを持たず、そこから抜け出すときには「男」となるしかない。なぜなら、女ではないものこそ「男」とされてきた(それゆえ男はなんとしても自らが「女」の位置におとしめられることを拒む)からだ。「男」との関係で非対称に配当され、お決まりのパタンでくり返しイメージされた「女」とは空虚な存在であり、一方、「男」の側にはすべてがある(ように見える)。権利がないのに占有した領域で、女がなりたいのは「女ではない他者」ではなく、「女ではない主体」だ。(エロティシズムの観点から言うなら、そうした主体こそが、主体が崩壊するときの、すなわち「受け」としての十全な享楽を持ちうるように思われる(幻想される)。男によって“パタン化”され領有されてきた女には、まず、この意味での主体がない。したがって彼女にとっての「他者」もありえない。

 上記の引用で、石田さんは、やおい/BLを、女が「他者」を植民地化しているありさまとして描いている。「リゾート地として」「現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営み」であると。しかしこれは、あまりにも男女の権力関係を無視した、男→女を女→男へ単純に反転させただけの安易なやり方ではないか。私は以前、ある発表(残念ながらやおい研究ではなかった)で使うためにappropriationという概念(石田さんが表象の横奪と言うときの「横奪」)について、文化人類学が専門のMさんに教えを乞うたことがある。それによればappropriationとは、たとえば宗主国から《「押しつけられた文化イメージを現地で逆手にとって観光資本にするとか、「グロテスクな大文字の他者としての我々」イメージをとっかかりにした》文学作品を書くとかいう意味でも使われるということだった。すでにある資源を加工して、好きなナラティヴに再構成する――やおいもこの文脈で語れると思うという彼の言葉に力を得て、以来私は好んで「流用」という訳語を使ってきた。

 文化資本を持たない女は、男の表象を流用して(それは男から見れば簒奪であり、権利のない占有/領有だ。“女の分際で”“身の程知らずに”そんなことをしているのだから)やおいを書く。だが、それは男を植民地化しているのではない(そんな力があるわけがない)。男についての表象資源はけっして当事者だけのものではなく、《あらゆる立場からのあらゆる目的での流用に「開かれている」》(Mさん)はずなのだ。それが具体的な場でどう働き、どのような意味を産み出すかは注意深く見ていかなくてはならないだろうが。

 ポストコロニアル的(って、私は全然詳しくないが)やおい理論の見取図としてはこのようなものを勝手に考えていたので、正直、石田さんのような適用のしかたにはびっくりしてしまった。
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by kaoruSZ | 2008-04-08 02:26 | やおい論を求めて | Comments(0)
 宮城県・黒石寺の“裸祭”蘇民祭のポスターがJR東日本に掲載拒否された一件はまだ記憶に新しいが、その理由は、JRの男性課長の言葉として最初に報じられたものによれば、胸毛などは「女性のお客様」が不快に感じるのでセクハラにあたるというものだった。事態を紛糾させた一因はこのセクハラという言葉にあったろうが――ポスターの写真を見、その記事を読んで最初に思ったのは、逞しい裸男が上を向いて口をO字型に開けたこの写真が、担当課長のホモフォビアを刺戟したのではないかということだった。これを見て女性が不快に感じるだろうか? もちろん、不快と思う人もいようが、「女性」なら不快に感じると決めつけられ、それを公然たる理由にされたことが私には不快といえば不快だった。

「セクハラ」にあたるポスターとはどんなものか? レイプを連想させるとして問題になった三楽のCMと言ってももう知らない人が多かろうが、私はリアルタイムであれを見ている。馬を乗りこなす男まさりの西部の女が荒くれ男たちに囲まれるCMを前夜のTVで見た翌日、同僚と歩いていた地下鉄の通路で、前夜の女が泥まみれになりようやく上体を起こしてこちらを見ている姿がアップになったポスターが目に入ってきた。あっと思った。これがTVでは放送されなかったフィルムの続き……。そのとき同僚が、「何、これ、嫌な感じ」と呟いた。「どうしてこんなの貼るの?」 TVスポットを見ていなくてさえ、彼女も何かを感じたのだ。「女性のお客様」が明らかに不快に思ったそれに、営団地下鉄の担当者は何も感じはしなかったのだろう(ついでに言えば、当時女性の職員は皆無だったはず)。「セクハラ」という言葉がまだなかったので、同僚も私もそう名づけることはできなかったが。

 三楽のポスター(たとえば)がなぜ女にとって「不快」で「セクハラ」かといえば、自分もまた同じように男たちの性的なまなざしの対象にされる――被害者の西部の女(乗りこなされたじゃじゃ馬)に注がれたのと同じ目が、今度は自分に注がれる――公共空間が、それに対してはポスターの女の無力なまなざしで対抗するしかすべのない、ヘテロ男の性的ファンタジーで充満した出口のない空間に変わる――いや、私たちが生きる空間がもともとそのような逃げ場のない、地の果てまで(男の)へテロセクシュアリティで舗装された世界であることを見せつけられる経験であるからだ。

 黒石寺の女性住職は、都会の娘に何がわかる、てなことを言ったらしいが、都会の娘は何も言っていない。JRの男課長が言ったのだ。マスメディアの報道のみを根拠にした臆測をあえてするが、男が性的なまなざし、しかも男のそれの対象になる可能性を、彼はあのポスターに見て不快になったのではあるまいか(それがもし快であったとすればますます不快に)。そう感じたのは自分なのに、「女のお客さま」が不快なことにした(あるいは、「女」にされて彼が感じた不快感か)。裸男が現実に迫ってくるならともかく、男の表象を女は(男のようには)恐れたりしない。恥しそうなふりはしてみせるかもしれないが、それよりも面白がるだろう、あのポスターなら。

 ニュースへの反響(もっぱらウェブ上の)で注目したことの一つは、JR東日本の決定を「差別」と呼ぶ者の多さだった。いわく、胸毛のある人への差別だ、いわく、女が好むきれいな男なら何も言われなかったろう。「差別」という言葉は今日ではいくらか護符のようなものになっているのかもしれない。やおいはゲイ差別というのも言う方は切札のつもりだろうし、それだけで反応してしまうリベラルな(と自らを思う)男性ブロガーもいるくらいだから。あるいは、美人コンテスト反対の論理を無意識になぞったのかもしれない。女の好みばかりが優先されると文句を言う男もいたが、これは、女は差別されていない、今やむしろ優遇されているじゃないかといったうわ言をいう層と重なっていよう。女の裸ならよくて男の裸はだめだというのは差別だなんで奴まで出てきて(これはゲイ男性のサイト)、ゲイでもストレートでも男のバカさ加減は同じと思わずにはいられなかった。

 私がこの事件に注目したのは、ホモセクシュアル/ホモエロティック(あのポスターの絵柄をそう読んでもいいだろう)な表象に出会ってホモセクシュアル・パニックが掻き立てられたとき、「女のせいにする」というのが、「腐女子」バッシングの図式とよく似ていたからだ。蘇民祭のポスターは「女性向け」というよりは「男性向け」だったが(といっても、むろん、写真の男は好みでないというゲイ男性も、胸毛の好きなストレート女性もいよう)、そのことは抑圧されて、「女性に対するセクハラ」という、曖昧な、しかし、「ゲイ差別」にも似た俗耳に入りやすい言葉に置きかえられた。このすりかえは、「女性向け」とされるイメージでホモセクシュアル・パニックを起こした男が、もっぱら「腐女子」のせいにするのと構造としては同一だ。

「ホモエロティックなもの」がもっぱら「腐女子」に帰せられるとき、人はゲイ男性の存在を安んじて忘れることができる。「ホモエロティックなもの」の表現(担い手の性別は問わない)が抑圧されることこそゲイ差別であろうに、いまや「腐女子の特殊な好み」(と見なされたもの)を公の場で語ることを抑圧する発言が平然となされている。「ほっておいてください」――やおい/BLに対する批評を拒否する「腐女子」の言葉――とは、第一に、そうした風潮に対する当然のリアクションではないか。


*これはウェブマガジン『コーラ』に載せる予定の拙稿の一部になるはずのものであり、「ほっておいてください」とは、石田仁氏の論考「ほっといてくださいという表明」『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号(総特集BLスタディーズ)に言及したものである。
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by kaoruSZ | 2008-04-02 02:05 | やおい論を求めて | Comments(0)