おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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“ホモソーシャル”再考

拙稿「〈ホモソーシャルな欲望〉再考(1)」の載った「ウェブ評論誌コーラ」出ています。

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html



 大橋洋一さんの文章からの引用について、先日「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」ではなくて「ヘテロという名前をいただく隠れゲイ集団」だったと記憶に頼って訂正した(12月7日の記事参照)が、岩波の「講座 文学」に入っている「ゲイ文学」の項を開いたところ、

「父権制、別名ホモソーシャル連続体は、ヘテロという名前をいただくゲイ集団なのだ」

という文章が目に入ってきた。

 そう、実は、「隠れ」のつかないもとの形が正しかったのだ!

 岩波の雑誌のほうの「文学」で映画『羊たちの沈黙』について大橋さんが書いた文章に「ゲイと女性を差別しみずからをヘテロと誤認する悪質な隠れゲイ体制」というフレーズがあって、それと混じったようで。
 もとのフレーズを、こっちの論文にあったものと思い違いしていた。

 というわけで訂正して元に戻す。

 といっても、「隠れ」がついたことで納得したのは石原千秋さんであり、私としてはさほど変わりがあるとは思えないのだが。

 まあ、この件は「コーラ」の連載で参照することになるだろう。

 なお、石原さんからの最初のコメントが「ブログの持主だけに見える」クローズドで書き込まれていたことに、うかつにも数日間気づかぬままだった。それまではログインしてから眺めていたもので。来訪者の目にすでに触れていると思って返事を公開エントリとして挙げたわけで、他意はない。



 ところで、筆者あてに私信をお送りになりたいという場合は、「売り物」というカテゴリから入るとアドレスがあります(なお、売り物のほうは、もろもろの事情によりしばらく作業する余裕がないのでお待たせしております。注文歓迎)。
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by kaoruSZ | 2008-12-24 23:45 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(1)
 信号が青に変わるのを待って横断歩道を渡るとき、青信号が目に入る瞬間と足を出す瞬間とには、どんなに速く動こうとしてもズレがある。だが、前もって歩き出す態勢に入っていると、青信号と同時に車道に踏み出せる。

 これは誰でも日常経験することだろう(いや、そんなことはふつうしないのかな。一番に歩き出せたからって別に優越感にひたれるわけではない)。なんにせよ、足を動かせという命令は青信号が見えた瞬間に脳から送られても、足が本当に動くのは一瞬遅れる(あれ、なんだか、総身に命令が回りかねる恐竜にでもなったような。でも、運動神経にはいくら頑張ってもその程度の遅れは出るということだ)。

 ところが、『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス)の池谷裕二によると、被験者にボタンを与え、「好きなときに」押すように頼んで脳波をモニターする実験をすると、運動をプログラムする「運動前野」がまず動きはじめ、一秒してからようやく「動かそう」という意識があらわれるそうだ。つまり、

「動かそう」と脳が準備を始めてから、「動かそう」というクオリアが生まれるんだ。あ、厳密にいえば、「動かそう」ではなくて、「『動かそう』と自分では思っている」クオリアだ。だって、体を自分の意志でコントロールしているつもりになっているだけで、実際には違うんだから。つまり、自由意志というのはじつのところ潜在意識の奴隷にすぎないんだ。


とすると、私が青信号を認めた瞬間と足を動かす瞬間のあいだには、足を動かそうと思う瞬間がはさまっているばかりでなく、その瞬間と青信号を認める瞬間とのあいだに脳が動き出す過程が入っているわけだ。

 時間がかかるわけである。

こんな事実から、クオリアというのは脳の活動を決めているものではなくて、脳の活動の副産物にほかならないことがわかる。「動かそう」というクオリアがまず生まれて、それで体が動いてボタンを押すのではなくて、まずは無意識が活動し始めて、その無意識の神経活動が手の運動を促して「動かそう」という行為を生み出すとともに、その一方でクオリア、つまり「押そう」という意識や感覚を脳に生み出しているってわけだ。

 モギ本ですっかりいかがわしくなってしまったクオリアだが、これならわかる。あるいは、次のような説明。

クオリアとは〈抽象的なもの〉だよね。「こわい」とか「悲しい」とかって、抽象そのものだ。(……)たぶん、クオリアもまた言葉によって生み出された幻影なんだと思う。/夢という〈視覚体験〉は脳のなかに存在するんだ。それと同じことで、クオリアも明らかに存在する。でも、喜びや悲しみっていうやつは言葉の幽霊なんだろうね。

 昨日私は友人の家でクッキーを、崩れやすくてちょっと変わったクッキーなんだけど、と勧められた。そのせいで、何も考えずに口に入れるよりはやや注意深くそれを味わいながら、せっかくもてなしてくれているのだし、いや、おいしいクッキーだということを言おうとした(実際おいしかった)。それに、何かいい匂いもしたのでそれを言った。そのあとで、誰か他の人が「ストロベリー味」と言った。
 その瞬間、口の中の匂いと味わいがたちまち「ストロベリー」として同定されたのだった。確かに存在するけれど漠然としたものだった感覚は、命名されてイチゴ味のクオリアになった。

いま僕は正面を向いて立っているでしょ。その姿だけを見て「これが池谷」というのを写真のように覚えちゃったとするでしょ。そうすると、次に僕が右を向いたら、その姿は別人になっちゃうよね。そこで、「右を向いた姿こそが池谷」と、もう一回完璧に覚え直してもらったら、こんどは右向きの姿だけが池谷になっちゃって、正面姿は違う人になっちゃうでしょ。

 これは脳は曖昧性の確保のためゆっくり学習するということを説明しているところだが、まるでボルヘスの『記憶の人フネス』である(ここ参照。フネスの場合、それぞれの「池谷」に固有の名前を与え、すべてを別のものとして記憶する)。

視覚のメカニズムについて。
 網膜から上がってくる情報が視床にとって20%だけ、視床から上がってくる情報は大脳皮質にとって15%だけ、だとしたら最終的に、大脳皮質の第一次視覚野が網膜から受け取っている情報は、掛け算をすればよいのだから、20%×15%で、なんと全体の3%しか、外部世界の情報が入ってこないことになる。残りの97%は脳の内部情報なんだよね。こうしたことを考えると、感覚系の情報処理に自発活動のゆらぎが強烈な影響を与えてもおかしくないよね。

「でも、実際にわれわれが見るものはそんなに揺らがないじゃないですか。白いものを見れば、白く見えるし、黒いものを見れば、みな黒く見える。自発活動の影響はさほどないように思えますが」という学生の発言に池谷は答える。

僕は、むしろ自発活動があるからこそ、白は白に見え得ると思うんだよ。[机を手前に引いて]僕らは、これが先ほどと同じ机だということが確認できるけど、網膜に映った情報だけで視覚が生み出されたとしたら、少し位置がずれただけでも、同じ机だとわからなくなってしまう。

 3%しかボトムアップがないのに、トップダウンによって、つまり、「網膜からあがってきたわずかな情報を手がかりにして、「『机』だと思い込むための機構が作動する」。「僕は、このトップダウン処理を担当しているのは自発活動だという仮説を立てている」 

 トップダウンの自発活動によって脳は欠けている情報を、補い、埋め込む(すべてそれは外から来たものだと私たちには感じられる)。フェルメールの、絵具を粗く配置しただけの画面が私たちの視覚に生じさせていることもこれと通じるのだろうか。
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by kaoruSZ | 2008-12-22 12:21 | 日々 | Comments(0)

フェルメールの不滅の光

 大混雑らしくて開館時刻よりかなり前に行って待つしかなさそうな(それでもまともに見られるのはほんのわずかな間だろう)フェルメール展見送ろうと思っていたのだが、帰りそこねて両親(すでにいない)の家で服のまま仮眠、朝起きてそのまま上野へ。木曜日のこと。 八時に到着してしまう。開門は55分後だがすでに数人並んでいる。関係ないようなふりをして博物館動物園駅の先まで行き過ぎるが、近くにコーヒーの一杯さえ飲める場所がないのはわかりきっているし、どうせ外にいるのならと思い落葉を踏んで戻る。本を読んで待つうち、警備員、館員が愛想良く説明して四列縦隊に並ばせる。前から三列目。振り返ると列はすでに長く伸びている。ようやく入場。当日券買う間に大勢に追い越されたけれど、地階のデルフトの画家は抜かして一階へ、まずフェルメールだけ見る。二階へ行くともうそこには誰もいないが、フェルメールもない。そりゃそうだ。七点来てるだけだから。戻って地階を見、フェルメールをもう一度見て、二階まで行き、もう一度地階に戻るとすでに落ち着いて絵を見る状態ではない。まだ九時半なのだが。

「リュートを調弦する女」と呼ばれる、今まで気にとめたことのない絵を繰り返し見る。なぜそれに自分が惹かれるのか知ろうとして。左手の窓へ一瞬向けた顔、その顔と右肩を浸す光。「真珠の耳飾りの少女」のように美しいというわけではなく、仮面のような、額の生え際が後退したような、いっそ宇宙人のようなと言ってしまいたくなる顔。映画的、という言葉が浮かぶ。邦訳では「平板な死」となっていたバルトの用語があって、でも、あれは写真論だから「平たい死」と呼ぶのではないかと思っていたが、バルトが死んだあとまだ邦訳がないときにその本をぽつぽつ読んでいたある日、ジガ・ヴェルトフの有名な『カメラを持った男』をはじめて見た。馬車や人の行きかう街路の映像が突然静止し、フィルムがリールから引き出されて編集され、すべてが「平たい死」でしかないことが露呈される。そのあとで再びフィルムが、その儚い物質的基盤が映写機にかけられる。すると街も人々も即座に不滅の生命を取り戻し、何事もなかったかのように動きはじめ、写真が死であり映画が生であるのを見せつけた。だが、「リュートを調弦する女」の生命は、その忘れがたい印象はどこから来るのか。ただ一枚でありながら映画的なイマージュは。「それはかつてあった」という(バルトの言う)写真のノエマから限りなく遠く、かつて一度も存在したことのなかった彼女は今存在する。それがつねに「今」である光は複製技術を寄せつけないので絵葉書は買わなかった。
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by kaoruSZ | 2008-12-14 14:37 | 日々 | Comments(0)
 読み返して気がついたのですが、大橋洋一さんの表現は「ヘテロという名前をいただく隠れゲイ集団」でしたね(他にもいろいろな言い方をなさっていたと思いますが)。今、資料が見られないので、もし(てにをはとか)違っていたら直します。

直しました! 
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by kaoruSZ | 2008-12-07 16:09 | Comments(1)

お返事

“Desire”に著者からコメントいただきました。コメント欄に書き切れなかったのでこちらにお返事します。

石原千秋様、コメントありがとうございます。

>「非異性愛者の恋愛を差別することはPC的に許されないという知識を持っており、かつ、「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思っている人」の、後半はおかしいと思います。私の言説が想定し得るのは、「「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思うことがふつうの人だと思っている人」です。つまり、メタ・レベルに立っている人です。

 なるほど。ちょっと説明しますと、前半部分の「「PC的に許されない」と“知識”でわかっている人間」というのも、私はメタ・レベルでなくとらえています。そして、こういう人間を信用しません。「頭では」わかっていても、それは往々にして「あいつら気持ち悪い。見えないところで勝手にやってくれ」という本心とセットだからです。

 つまり彼らは、「「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思うのがふつうの人であり自分はふつうの人であると思っている人」です。

 こうした人間こそが石原さんの言説にハマれる個体、つまり啓蒙的に教育されうる対象ではないかと、(ちょっと意地悪に)思ったわけです。

 私は“ふつうの人”でないので、はじめからメタ・レベルへ追放されており、だからこそ、石原千秋はここでなぜ非異性愛者という例を喩えに選んだのか? と違和感を持ちました。

>本気でセジウィックを読んでいないと思われたのでしょうか。ちょっと、意地悪ですね。

 ちょっと失礼でしたね。すみません。
 意地悪はぐっと抑えているつもりです。

 でも、そうであれば、同性から成る同質社会を意味する「ホモソーシャル」に、あえて「欲望」という語を接続させ、homosocial desireというオクシモロンを作ったのだとセジウィックは"Between Men"の最初で述べているというのに、なぜ、「ホモソーシャルとはそれ[ホモセクシュアル]とはまったく違った概念で」と引き戻すのでしょう。「「ソーシャル」だから「社会構造」のレベルの問題である」というのなら、セジウィック要らないじゃありませんか。もともと歴史学や社会科学の用語だというセジウィック以前の「ホモソーシャル」で足ります。セジウィックの名前を出さずとも上野千鶴子で足ります(だから出さないんですか? と意地悪を言いたくなります)。

 橋本治はセジウィック以前に『こゝろ』に対する「同性愛的」という形容を嗤って「ホモ丸出し」と言い、大橋洋一は(むろんセジウィックを踏まえて)「ホモソーシャル連続体」は「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」なのだと言っています。石原さんが「ホモソーシャル」を「同質社会」とのみ捉えるとしたら、『こゝろ』についてはどのようにお書きになっていたのだったか。

 先日ケータイ小説についての新刊をめくってみた時(この本は買いませんでした)、ホモソーシャルはホモセクシュアルと違う、ソーシャルだから社会構造で云々と説明されているのを見かけて気になっていたのです。石原さんのお仕事はずっと追ってきたつもりですが、漱石論を読んだのはもうかなり古いことになるので(一時、ホモソーシャルといえば『こゝろ』でしたねえ)記憶が薄れてしまいました。今度読み返してみるつもりです。

鈴木 薫 拝
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by kaoruSZ | 2008-12-06 11:09 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(3)

Desire

「恋愛」にまともな恋愛とまともでない恋愛を想定するのは、異性愛以外のレズビアンやホモセクシャルを差別する硬直した恋愛観と同じくらい差別的な恋愛観ではないだろうか。『ノルウェイの森』を読んでもし「これは恋愛ではない」と感じるとしたら、気づかないうちに「恋愛差別主義」(?)に陥っているかもしれないのだ。
                    (石原千秋『謎とき 村上春樹』272ページ)


 むろん石原千秋はこの文章を、その書き手が「非異性愛者差別者」であると読まれうるとは夢にも思わずに書いたに違いない。

「心を通わせていない「恋人たち」の関係が「恋愛」であるはずがないという批判」に対して、上の文章は書かれたものである。石原はどうしてこの比喩を選んだのか(彼自身も言うように、テクストに偶然はありえない)。「『レズビアンやホモセクシャル』(ママ)の恋愛を差別するのはいけないことだ」という前提がある(少なくとも石原の本を読むほどの者なら、差別は正しくないという知識を共有している)ので、これを出しておけば間違いなく勝てるというのがまずあろう。「レズビアンやホモセクシャル」は、すでにそうした表象になっているわけだ。

 しかし比喩にはもう一つの機能がある。「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛関係と、「心を通わせていない「恋人たち」の「恋愛」関係」が、ここでは交換可能な位置に置かれることになる。どちらも「異様」に感じられようが(石原自身がどう感じているかは関係ない。「テクストはまちがわない」)、「硬直」していない「差別的」でないあなたならそれを理解できますよね、と彼は想定された読者に呼びかけているのだ。つまり、この比喩に躓かずにスルーできる理想的読者とは、非異性愛者の恋愛を差別することはPC的に許されないという知識を持っており、かつ、「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思っている人だということになろう。

 もともとこの本は、石原千秋の「ホモソーシャリティ」についての認識を確かめたくて買った(念のために言うと、どちらかといえば好きな書き手であり、ずっと読んできた)。今日の夕方買ったばかりなので隅々まで読んだわけではないが、「ホモソーシャル」については以下のように説明している。

ホモセクシャルとホモソーシャルは違う。ホモセクシャルはふつう「ホモ」と略されるもので、男性同士が肉体的な関係を持つことを言う。ホモソーシャルとはそれとはまったく違った概念で、「ソーシャル」だから「社会構造」のレベルの問題である。簡単に言ってしまえば、男性中心社会のことである。現在のわれわれの「父権性的資本主義社会」の性質はホモソーシャルと呼んでいい。
 
 石原はセジウィックの名前を挙げていないようだが……信じられないことだが(『こゝろ』をはじめとする漱石研究の立役者であるから)、読んでいないのか? 引き合いに出されているのが上野千鶴子だし。

いまは少なくなったが、結婚式に行くとまだ「何々家・何々家披露宴」と書いてあることがある。この何々家とは父の名のことを指している。ということは、男同士が女のやりとりをしているのである。こうして何々家と何々家が次々と女性の交換をし合うことで、ホモソーシャルはシステムとして成り立つ。

 これだけなら「父権制」ですむことだ。セジウィックは「Homosocial Desire」と言ったのである。



「ウェブ評論誌コーラ」の次号に載せてもらう拙稿は、結局「〈ホモソーシャルな欲望〉再考」と題するものになった。書き切れなかったので次回に続くが、上のケースにも話が及んだりすると、三回くらいになるかも。今回も映画の話ではなくなってしまったが……以下の文献に言及している。12月半ばにはアップされるでしょう。お楽しみに。

中沢新一『ぼくの叔父さん 網野善彦』(集英社新書)
Eve Kosofsky Sedgwick "Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire" (Colombia University Press)
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)
高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)
黒岩裕市「“homosexuel”の導入とその変容――森鴎外『青年』」『論叢クィア』第1号(クィア学会)
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by kaoruSZ | 2008-12-05 21:14 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)