おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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『密やかな教育』をめぐって(2-1)

私の翻訳したサドの『悪徳の栄え』が発禁処分を受けて、裁判になったとき、法廷に出てきた証人のひとり(婦人矯風会のおばさんであった)が、「芸術的な裸婦なら結構なのでございますけれども、ヌード的な裸体は困るのでございます」と言ったので、私は思わず吹き出してしまったことがあった。
                                         ――澁澤龍彦


あるものは中国の史料の成立の事情や記録の意味も知らないで、倭人や倭国に触れた断片的な文句をひねり回し、もともと含まれていもしない情報をそこに読み取ろうとする。
                                         ――岡田英弘


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8月15日の拙エントリにコメントをつけられた『密やかな教育』の著者石田美紀さんへ

まずは一件についてのみ申し上げます。

なぜ、註11の正確な引用をせず、下に再掲(青字)するような表現をなさったのでしょう?
誤読に基づいて私がものを言っているという印象をサイト来訪者に与えるような操作はお慎み下さい。

>註11には、特攻隊志願もできただろう、という解釈を、三島由紀夫研究者のベアタ クビャク ホチの論文がのべていると記述しています。

「特攻隊志願もできただろう」は他人の「解釈」で、それを紹介しただけだとおっしゃるのですね。
では、石田さん自身は、特攻隊志願ができた、できない、どちらだとお思いになっている(いた)のですか?
できないと思いながらそういう解釈を紹介したというのは理解に苦しみます。
上記コメントの通りなら、できたと思っていた、しかも、その解釈が常識に反するという――そのままでは読者が変に思うであろうという――ことさえ、認識していなかったということになります。

実際に註11に書かれているのは、「三島は自発的に戦争を生き抜いた」というホチの「解釈」であり、その前提/理由となるのが、「特攻隊志願もできただろう」[に、しなかった]と石田さんがコメント欄で表現された部分です。
(なお、ホチ氏の論文が実際にどのように書かれているかは、筆者は未読のため確認していません。)

石田さん、もう一度、御自分の手でコメント欄に、今度は正確に、御自身のお書きになった註の文章を引用して下さいませんか?
その上で、“その註を書いた著者”は、“平岡公威――健康上の理由から皇軍兵士になれなかった一民間人――の特攻隊志願が現実にありえたかどうか”について、どう認識していると読み取れるかを、コメントして頂きたく存じます。

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 澁澤龍彦だの三島由紀夫だのをめぐる言説は、本書の中でいったいどのような位置にあるのか? 鈴木は枝葉末節のあらさがしをしているのであり、本書の中心的な論旨はそんなことではびくともしないという、ゆえなき確信ないし悪質なプロパガンダを防ぐためにも、二つの書評を引くことで上の問いの答えを示しておきます(強調は引用者によるもの)。なお、どちらの書評も全文をウェブ上で読めます。

三島(由紀夫)の死以降、『男が男の体で政治を語る』姿勢が奇妙奇天烈(きてれつ)な振る舞いとなってしまった」という著者の指摘は、とても重要だろう。一九七〇年あたりを境にして、男性が男性身体を表立って賛美することは少なくなり、かわりに「男性同士の性愛物語」を女性が表現しはじめた。(三浦しをん「無視できないジャンル」読売新聞2009年2月2日)

60年代以降の男性知識人・文化人らによる「男性の身体の露出を通じて政治を語る」実践が、三島由紀夫の自死によって衰退を余儀なくされた後、そこで培われた美学と教養の体系に慣れ親しんだ女性たちによって、「男性身体の美と官能」を愛でる男同士の性愛物語が形作られてゆき、竹宮恵子の少女マンガ『風と木の詩』の連載開始(1976年)、そして雑誌『JUNE』の創刊(1978年)を重要なきっかけとして、80年代以降の本格的な商業的ジャンルとしての<やおい・BLの成立と普及に至る。(鷲谷 花「女性がつくり楽しむ男性同士の性愛物語」の成り立ちをめぐるめっぽう面白い<女子ども>文化論。」)


 本書で著者の主張する物語=歴史の成立には、三島由紀夫の切腹を(なぜか)分岐点とする変化が前提とされています。“それ以前”の代表とされた三島自身や、澁澤が三度責任編集を務めた雑誌『血と薔薇』が、第三章「ヨーロッパ、男性身体、戦後」において“解釈”されているのはそのためであり、上記書評で太字にしたのはそれに触れた部分です。『密やかな教育』をめぐって第1回(8月15日付エントリ)で私が行なったのは、その“解釈”がいかに事実誤認の上に成り立っているかの、ほんの一斑を示すことでした。
 
 それにしても、才能ある二人の女性が揃いもそろって、著者の議論をこうも丸呑み・丸写し、そして絶賛している光景はただごとではありません。三浦しをんは上記書評を、《女性による女性のための「男性同士の性愛物語」は、もっと作品本位の正当な批評がなされるべき質と歴史を持っているし、いずれは性別に関係なく作者や読者が広がるだろう可能性を秘めている。社会と文化と人間を考えるうえでも、無視したり見下したりしていいジャンルでは決してない。本書のように鋭く誠実な研究が、今後ますます増えることを心から願う。》と結んでいて、そこからも、また「無視できないジャンル」という表題からも、『密やかな教育』をなぜ擁護したいかという意図は理解できます。

 私自身は、本当に「作品本位」と考えるなら、「女性による女性のための」という限定も、ましてジャンルBLという割り付けなどさらに不要と考えますので(むしろジャンル外に語るべき対象を見つけることになるでしょう)、三浦に同感であるとはとても言えないのですが、ウェブ評論誌「コーラ」連載の最新から二番目の拙稿で言及したような、堺市立図書館事件や日本記号学会の事件で顕在化した、「見下した」、あるいは偏見に満ちた扱い、また「過激な性描写のあるホモ小説を女が読んでいる」といった低劣な煽りには抗議したいので、いわば「お前ら、馬鹿にするなよ」と言っている、その姿勢には共感を持ちます。ああした扱いに対抗するという点でも、「鋭く誠実な研究」は、「心から願」われていたものと言えるでしょう。

 しかし、だからと言って、何も『密やかな教育』をベタ褒めすることはないでしょう。ものには限度というものがあります。政治的、フェミ的に目的が正しければ、“作品[評論作品]本位の正当な批評”はいらないとでもいうのでしょうか。本書は確かに、〈やおい・ボーイズラブ〉(と本書で総称されているもの)はなにも昨今急に現われてきたわけのわからないものではなく、先行の文学や映画を取り込んでの、女性の表現者による前史があったと主張することで、その存在に正当=正統性を与えるという意図に基づいて書かれています。しかし、政治的に正しい、良き意図に基づくからといって、“データ捏造”(捏造の意図すらないにしても)をしたのでは信用を失うだけです。本人ばかりでなく、やおいの、フェミニズムの、ジェンダー論の、また仲間ぼめに群らがる人たちの信用をも。最後のは自業自得ですが、より問題なのは、本書が批判をまぬかれたまま、たとえ狭い世界において、また相対的に短い期間ではあっても、権威として通用し、信用のおけない言説を再生産し、健全な議論や研究の妨げになる(無責任な書評も手伝ってすでにそれは起こっています)ことです。

『血と薔薇』関連の話に戻るなら、澁澤、三島等(さしあたっての対象のみ挙げます)に関する記述について、著者本人には、捏造どころか、見当外れなことを書いたという意識すらないようです。考えてみれば当然で、見当外れと理解することすらも、知識なしではできません。

 知らないことをバカにしようというのではもとよりありません。しかし、過去の文化の断片を、著者の恣意的な物語を補強する材料として利用して、実証的な研究とするのはどう考えてもおかしい。私は何も特別な知識を持っているわけではなく、強いて言えば澁澤、種村、タルホ等の読者であるため、著者の議論のとんでもなさが一目でわかってしまいますが、そういう人間は他にもいくらでもいます。実を言えば、さほど知識はなくても、センスさえあれば、具体的な反論はできないとしても、これは違うとわかるものです(澁澤は晩年、自分は新鮮な良い魚の見分けが一目でつく魚屋のようなものだという意味のことを言っていたと思いますが、そういったセンスです)。そういうことがわかる者の目に触れることすら予想しないでこういう本を出してしまう、そのこと自体が驚きです。さらに言えば、別に澁澤や種村でなくても、この本に名前の出てくる他の作家なり、マンガ家なり、映画監督なりでもいいのですが、著者は何かが本当に好きということがないのでしょうか。もし自分にとってこれだけは譲れないというものがあるとしたら、それ以外の作家についても、こんな〈愛〉のない扱いはしないと思うのですが。

 私は別に「著者個人」を攻撃したいわけではありません。もし著者が私の友人で、出版前の原稿を見せられたとしたら、ほとんどページ毎に付箋を貼ってアドヴァイスを書き込むことでしょう。しかし、残念ながら著者は私の友人ではなく、誰も助言する者のないまま(ということなんでしょう)本書は世に出てしまい、「京都大学博士(人間・環境学)」で「新潟大学人文学部准教授」である人物の書いた、権威ある研究として流通しています。もしこれを学生が書いたのなら、よくここまで調べたと感心し、その上で思い違いを指摘することになるでしょうが、本当に学生クラスが書いたのであれば、当然のことながらウェブで批判したりはしません。どうやら著者は、間違いを指摘されたところで、それがどの程度恥ずかしいことかわからないようです。そりゃ、周囲が誰も知らない(あるいは、間違いとわかっていても、〈愛〉――作品と作者に対する――を知らないから、あるいはお互い様だからと思っているので見て見ぬふりをして言わない、どころか褒める)のなら、知らなくてもいっこうに恥ずかしくはないでしょう。狭い世界で認められさえすればいいという退廃がそこまで進んでいるのでしょうか。(「論にもならない論を論と言い張っても、誰も恥ずかしいからやめたらと言わないどころか無闇と持ち上げ、それってどうよ、と関係者に尋ねると、浮き世のあれやこれやでと説明される情けない業界ではあるのだが(たぶんまた例によって例のごとき、ちまい利権のやったりとったりに伴う仲間褒めが精読と評価より幅を利かせているためだろう)」(強調は引用者)とは、「日本SF業界」についての佐藤亜紀の言葉ですが、必要な訂正を加えれば、“あかでみずむ”もこんな感じなんでしょうか?)

 事実誤認という控えめな語を最初の回で使ったのは、本書のコンセプトには今の段階ではなるべく踏み込むまいと思ったからでもあるのですが、ここで一つだけ先取りして述べておくことにします。本書は啓蒙の書と言えましょう。啓蒙とは、言うまでもなく無知を追い払い、正しいふるまいを他人に真似させようとするもので、基本的に人を安心させるものです。たとえば、前述の日本記号学会サイトに載った、無知を丸出しにした恥知らずな(無知ではなく、知ったかぶりが恥なのです)文章の書き手を絶句させるようなものはこの本にはありません。それどころか、彼は喜んで啓蒙され、自分が理解できる領域が拡大し、確実に知識をふやしえたと信じることでしょう。

 リタ・フェルスキの "Uses of Literature"に、イプセンの『ヘッダ・ガブラー』についてのこんな記述があります。

私が大人になった頃、フェミニズムは、女性は男性と本質的に違うという主張――女性的な育てる力、ケアの倫理、女の道徳的優越性へのふんだんな言及によって増幅された――に結びついていた。イプセンは私たちに、こうした、「女性に同一化した女性」の反対物を与えてくれる。傲岸で、優しくなく、あからさまに自己中心的であり、何であれ女性的なものにかかわることからはぞっとして身を引く女主人公である。今、注目すべきと思われるのは、イプセンが、政治から道徳を切り離し、女性の好ましさや善良さは女たちの自由への要求の正当性に何の関係もないとした、大胆さである。イプセンの女主人公は、フェミニズムと同じものにはならず、女であることが意味するものを理想化し限定しようとするフェミニズムの傾向に対する予見的な解釈を提出している。

 本書は、女たちがけなげにも「女子文化」を作り上げていった歴史をたどり、最終的には「女子文化」の枠から出て、メインストリームの文化に迎え入れられることを望み、予見しています。これは全く正当なことのように思えます。しかし、どうして(そして誰に対して)女たちは、かくも「よい子」であることを――「好ましさや善良さ」を――自分の正当性を言うときの担保とし続けなければならないのでしょう。女のセクシュアリティが「正しくない」ことはつねに攻撃の対象であったし、今もそうでありつづけています。本書はこの点、男にとって無害(ないし無意味)な啓蒙であると同時に、同性に対しては抑圧的に働くと筆者は考えますが、その検討はもっと先へ行ってすることになるでしょう。

 前置きが長くなりました。次回、仕切り直します。


(註)《「血と薔薇」宣言はその名のとおり、宣言文[マニフェスト]スタイルで書かれているが、「宣言文」とは政治的活動手段のひとつである。それゆえ、男性が自らの肉体を晒け出すグラビア〈男の死〉も、キワモノすれすれの見かけとはうらはらに、真剣な政治行動の一環であったと理解できるだろう。》(『密やかな教育』122ページ、強調は引用者) 
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by kaoruSZ | 2009-09-18 00:53 | 密やかな教育 | Comments(9)

愚鈍な女

特にGoogle+ からいらした方へ。

佐藤亜紀氏が私への中傷を重ねている件についてはhttps://twitter.com/#!/kaoruSZの5月24日以降のポストをぜひご覧下さい。遡るにはtwilogが便利でしょう。http://twilog.org/kaoruSZ

佐藤亜紀氏の読者のような良い趣味をお持ちの方なら、私の記事は当然お気に召すことでしょう。どうぞごゆっくりお過しください。

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  吉本 その作品の特徴が自分の心の特徴と関係があるというところはみないわけですか。
  萩尾 それはみますけど。(笑)

 

 八十一年に『ユリイカ』の「少女マンガ」特集で、萩尾望都と吉本隆明が対談をしている。最近になって読み返すまで、萩尾が、電話をかけてきた自分の読者だという高校生の少年に「あなた変態ですか」と言ったという箇所しか覚えていなかった。吉本が「萩尾さんがそう言ったのですか」と驚いたのだと思っていたが、そう応じたのは編集者で、吉本は驚いていなかった。彼は終始、落ち着き払って、行き届いた理解者ぶりを萩尾の仕事に示していた。
「これだけのことをやるのはなかなか難しいなというふうに、ぼくは思うんです。つまりことばの世界だけに終始しているそういうとこからいうと、とても素晴らしいです」(84ページ)

 手塚治虫の『新選組』を読んで、「そのときはじめて、ああ、マンガって自分の考えをかけるんだわって思ったみたいなんです」(87)と語る萩尾に、「マンガっていうよりも、自己表現でいいんだっていう、そういうところから出発したといってよろしいのですね」(87)と吉本は言う。[以下、強調は引用者]

 これは、マンガ=コミカルなもの(「喜劇的なもの」)という認識がそれ以前にはあったということらしく、そうではない、「自己表現の手段として使える(萩尾、88)という認識から出発したのかと、吉本が萩尾に確かめたのだ。対談のタイトルからして、「自己表現としての少女マンガ」となっている。

「ぼくなんかみると『雪の子』というのが、小説でいう内面描写というのがよくできてて、これがきっとなにかのきっかけになったんじゃないかなと、そういうふうに読めるんです」(89)

「それとともに、ぼくなんかが大へんあなたの作品で関心をもつところのひとつなんですけど、だんだん、そこらへんでエロス的な世界に入っていったんじゃないのかなという、そこがものすごく関心をもつところですよ。つまり萩尾さんの世界で、ぼくなんかがそういう点でいちばん自己表現として興味深いといったほうがいいと思うんですけど、少年と少年との同性愛みたいな世界が出てくるでしょう。それがとても面白いんですよ」(89)

「それはたぶん萩尾さんのなかに,本来的にいえば少女と少女の同性愛だという世界の、それのひとつの転写になってるんじゃないか」(89-90)

(嫌いなものを描くのを避けるので)「結局わたしにとってマンガというのは現実逃避だった、ということになっちゃうんですね」(91)と言う萩尾に――「ぼくらがみてると、マンガというか劇画のなかで、あんまり逃避しないで、相当思い切った内面性を発揮しているとみえます」(91)

「萩尾さんのいまの作品でも、『ポーの一族』でもそうですが、少年と少女の世界みたいなもの、あるいは『トーマの心臓』でもそうですけども、そういう世界の一種のエロチックな、あるいはエロス的な錯綜した関係みたいなものを描き出そうとするとき、どう考えても、これは全部女性だな、登場人物が全部男性になってるけど、全部女性だなっていうふうにみれると思うんです」(91)

「萩尾さんの作品のなかでいえば、ある時期の透明さというものは、エロス的な関係のなかに出てくる透明さじゃないような気がするんです。ですから、ああいう関係のなかで出てくるきかたっていうのは、本当は少年には本来的にはそんなにないと思います。だから、ぼくはむしろ、少女と少女の世界と、そういうふうに読んでるわけです」(91-92)

 なぜそう読めるかといえば、吉本にはそれと少年の世界との差異が「興味深くて、そこのところで、もしなにか心にかかるものがあるとすれば、淀むみたいなものがあるとすれば、それは萩尾さんの内的な世界の表現なんだろうなと、そういうふうに思いながらみるわけですね」(92)

 結局、吉本は、それに、「少年のほうは露骨にもってる、いい年になるまでもってる」(しかし少女にとっては失われたものである)母親への愛着だと名前を与える。少女の場合、それを「強烈に隠しちゃうんじゃないか」(「少年の場合、母親に対する愛着というのを露骨に、一度も隠さないと思うんです」)、「その隠しちゃうものが、そういうある時期の世界に出てきちゃうという、ぼくはそう思うんです」。「萩尾さんの内面的な世界と関係があるのは、そこなんじゃないかとおもったりします」(92)

 昔、十八歳でデビューした女の作家について、子宮感覚云々という言葉で取り沙汰されたことがあったが……吉本が上品な吉行淳之介に見えてきた。萩尾と中沢けいでは格が違うが。

 吉本の拠って立つところは全くと言っていいほど萩尾の関知するものではない。男が少女マンガ(萩尾の作品)を読むようになったことは、「わりあいに本懐なんじゃないでしょうか。欣快というか、ちがいましょうか」と同意を求める吉本に、「いや、男の人でもやっぱり読みたい人がいるんだろうなぐらいにしか思わない」(114)と萩尾は答える。「あなた変態ですか」のエピソードがそれに続くのだが、「それ変態だと思いますか」と良識ある吉本は問いかえす。「この作品のこういうところを読んでくれるなら、誰が読んだってちゃんと理解してくれるはずだとか通ずるはずだとかっていうことはあるんじゃないででょうか」(115)

 しかし萩尾は、あくまで、対象は女の子だと主張する。

「けっきょく同世代の女の子むけという感じがして、いちばん最初はかいてるから」/「少女マンガですもの、女の子ですよ」/「だからあくまで対象は女の子なわけです」(115)
 それはそうだろう、現に目の前の吉本には通じていない。描かれているのが少年であることを否定し(男性同性愛の表象であることを忌避し)、少女と少女に、さらに萩尾の内面にそれを還元しようとする。〈少女マンガ〉という事件を「ぼくら」の言葉に置き換えようとし、編集者も、「それが表現してたものというのは、決して萩尾さんが思ってたような読者対象ではなかったような気がする」(116)と(好意から)口添えする。萩尾の答えはこうだ。「あれをかいたのは二十二だから、二十二ぐらいまでは読めたりして」

 男の批評家にほめられるのを名誉だ、出世だと思っている女なら、嬉しさに頬がゆるむだろう。あなたのかくものは、女の子相手のものと自他ともに思っていたかもしれないけれど、本当は「ぼくら」が感心して読むほどすごいものだったんですよ。吉本さんだってほめているんですよ。吉本さん、すごい方なんですよ。そんなふうに持ち上げられたら、有頂天になるだろう(なってる奴が現にいる)。まあ、そういう下心あって描いたものは、所詮その程度のものであるが。

 それは何かの「転写」ではなかった。物語の、心情の、思想の、時代の、内面の転写ではなかった。ただ思いがけないものが思いがけなく集まって出来た、根拠を持たない、自己表現などというものからはあたう限り遠い何ものかであった。ドゥルーズにならって凡庸の反対を愚鈍と呼んだ人がいる(愚鈍と言われているのはフランス語のBetiseで、Beteとは獣のこと――「美女と野獣」の野獣だ)が、今回つくづく感嘆したのは、吉本に馴致されない萩尾のけものっぷりだった。

 女の小説家がブログで、低級な萌え女と一緒にされたくない(大意)と書いているのを見た。評論家が「まともに小説を読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じないご時世」という書き出しに、ふむふむと頷きながら読んでいたら、突然、「萌え」への攻撃になった。ポリティカリー・コレクトリーに男性ゲイに気をつかい、「まだ二十歳前でご多分に漏れずホモ萌えだった頃(その後、世の中もっと幾らでも面白いことがあるのに気が付いて熱が冷めて来た」――(マア、“I was gay”?)――その「熱が冷めて来た」頃に読んだ、KV相手の対談でのKMのふるまいが決定的だったと言い、当事者を前にしての、男性用エロゲー(「凌辱ゲーム」と呼んでいる)擁護なみだと、男女の非対称を無視して主張していた。腐女子の自意識もアイデンティティーも持たないからこそ、あえて「あたしは腐女子だと言われてもいいのよ」なるタイトルを冠した原稿の後半をウェブ・マガジンに送ったばかりだった、そして小説家の長年のファンである私を、それは複雑な気持ちにさせた。電話してきた友人にこの話をした。作品を萌えだけに還元すると言って、萌え女を非難している、と説明した。

 ――萌えだけに還元するなんてありえない、と、友人はいつもながらの明快さで言った。それ以外の部分が あるから、萌えもあるんじゃない。萌えは、解釈をねじまげたり、そこしか読まなかったりなんてしない。それより、ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が、現実にはずっと多いというか、その方がフツーに問題じゃない?
 ――そうか、はっきり書いてあるのに、読まなかったことにされるものね。
 ――ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、しない。
 ――うーん、それ、ブログに書かせて。
 ――彼女の小説だって、ホモフォビックな読み手には本当は理解できないよ。
 ――当然のことながら、そういうものって、ゲイの男だから理解できるってものでもないよね。
 ――もちろん。美意識の問題だもの。耽美的な男性同性愛表象の男の書き手って絶えてるじゃない。それで、過去のものなら擁護するわけでしょ、『男色の景色』のインタヴュアーみたいに、文化として存在したものだから認めなければならないって☆。現在の、それも女の子の書くものなら攻撃していいと思ってるのよ。所詮女は女だから、芸術的達成には至らないと、最初から見くびられてるのよ。
 ――でも、あれだけ突出してレヴェルの高いものを書く人が、“女の子”と一緒にされることなんか気にする必要はないと思うんだけど、と私は言った。
 ――だからこそ、なんじゃない? ついでに言えば、それ、男からそう見られたくないってことでしょ。
 ――あー、女であるために、あれだけの人でさえ、自分はバカな男並みに認められてないって感じてるってことか。
 ――でも、と友人は言った。佐藤亜紀、そこで、「自分は“女の子”のために書いている」と言ったら男前だったのにね。

☆web評論誌「コーラ」の拙論http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-7.htmlで言及した。
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by kaoruSZ | 2009-09-07 23:28 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)