おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 季刊ウェブ評論誌「コーラ」12号に「囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの」(以下『囮としての』)と題して小論を書いたが、その後、共著者の平野智子から、『シルマリリオン』(邦訳『シルマリルの物語』)のマイグリンの話について、マイグリンがイドリルに禁断の恋をしていたという設定自体に裏があることを示しておくべきだとの指摘を得た。以下は、平野の教示に基づく当該記事の補足である。

 最初に、エルフの隠れ王国ゴンドリン陥落の因となったマイグリンの物語のあらましを述べておく。ゴンドリンの王トゥアゴンの妹アレゼルが、国を離れてナン・エルモスの森に迷い込み、そこに住む“暗闇エルフ”エオルのもとにとどまった結果生まれたマイグリンは、長じて母とともにゴンドリンへ逃亡する。追ってきたエオルは、マイグリンをめぐって王トゥアゴンと争い、「私のものをお前に渡しはせぬ」と叫んで息子めがけて槍を投げ、身をもってマイグリンをかばったアレゼルを死なせる。マイグリンは伯父王の下で頭角を現わし、ゴンドリンの実力者となるが、トゥアゴンの一人娘イドリルに密かに恋している。やがて水の王ウルモに予告された人間の男トゥオルがやってきてイドリルと結婚し、一子エアレンディルが生まれる。エアレンディルが幼い頃、マイグリンは(『シルマリリオン』全篇を通しての敵役である)モルゴスに捕まり、侵攻時に手引きをするのと引き換えにイドリルを約束されて帰される。ゴンドリン陥落時、トゥアゴンとマイグリンは死ぬが、秘密裡に脱出路を用意しておいたイドリルは夫と息子、生き残ったゴンドリンの民とともに遁れる。

 この話は、しかし、角度をずらして見ると森の中や木の中に隠れている動物が現われてくる絵のようなものである。ここでは、イドリルに焦点を合わせることでそのあたりを明らかにしたい。


   ☆    ☆    ☆


 イドリルの名は、第十五章「ベレリアンドのノルドール族のこと」で、その美しさが描かれるくだりではじめて現われる。

そこにはきらめく噴水が戯れ、トゥアゴンの王宮の庭には、古[いにしえ]の代の二つの木に似せたものが立っていた。これはトゥアゴン自身がエルフの手の技によって作り上げたものである。金で作った木はグリンガルと名づけられ、銀で花を作った木はベルシルと名づけられた。しかし、ゴンドリンにおけるありとある嘆賞すべき事物の中で、最も美しいものは、トゥアゴンの娘イドリルであった。かの女はケレブリンダル、即ち〈銀の足〉と呼ばれ、その髪はメルコールが来る前のラウレリンの金のようであった(『シルマリルの物語』224、強調は引用者による)

 ここでイドリルは「古の代の二つの木」すなわち、楽園ヴァリノールを照らしていたラウレリンとテルペリオンの写しに近接して登場し、その金髪によって「金の木」ラウレリンに結びつけられている。『囮としての』でも述べたが、『シルマリリオン』において太陽とは、ラウレリンがメルコールに枯らされた後に一つだけ実った果実から作られたものであり、トールキン作品のシンボリズムにおいて太陽は異性愛、月は同性愛の象徴である(これはマイグリンの話でも重要な前提なので記憶にとどめておいて頂きたい)。

 次にイドリルについて言及があるのは、エオルの許にいた頃、母からたびたびゴンドリンの話を聞いたマイグリンは「すべて胸中にしまいこんで忘れなかった」が、なかでも「トゥアゴンについて聞いたこと、とりわけトゥアゴンには世継ぎがいないという事実は、注意深く彼の脳裏に刻まれた」というくだりである。(第十六章「マイグリンのこと」237)

 やがて、マイグリンが本当にゴンドリンにやってきて、トゥアゴンに一目で気に入られ、彼が伯父を「主君、王として、その意を体することを誓った」時、マイグリンは「ただ黙って注意深く目を配りながら立っていた」。この時、聞きしにまさる「ゴンドリンの至福と壮麗」に目を瞠りながらも、「何にも増してかれの目を惹きつけたのは、王の傍らに坐す、王女イドリルだった」。

かの女は、その母の一族ヴァンヤール族の金髪を持ち、かれの目にはあたかも、全王宮がそこから光を得る太陽のように見えたのである。(241) 

 ここでもまたイドリルの換喩としての金髪が、太陽という直喩を呼び込んでいる。だが、最初にイドリルが紹介された時と違うのは、それがマイグリン視点であることで(といっても、実は、彼の主観が問題なのではない)、そのため、マイグリンがヘテロセクシュアルな欲望をもってイドリルを見たかのように、人間の読者はミスリードされる(そしてトゥアゴンの視線は見落される)のである。

 むろん、「ゴンドリンに来た最初の日から、マイグリンは悩みを懐くこととなり、それは年経るに従い深まるばかりで、かれから一切の喜びを奪ってしまった[…]かれは、イドリルの美しさを愛し、望みもなくかの女を得たいと欲したのである」(245)と明記されてはいる。しかし、こうした語りは人間の読者がいかにも飛びつきそうな囮であり、事実、これだけのことで、中に隠れている動物は見えなくなる。それより前に、「トゥアゴンには世継ぎがいないという事実は、注意深く彼の脳裏に刻まれた」と書かれていたことさえ、マイグリンがもうその頃から、トゥアゴンの娘婿になって自らが世継ぎになる可能性を考えていたかのように、遡って読者にインプットされてしまうのだ。

 しかし、「エルダール[エルフのこと]はこれほど近い親族とは結婚せず、それまでは誰一人そうしたいと望んだ者もいなかった」(245)のであってみれば、従姉との結婚でゆくゆくは自分が王位につけるなどと、マイグリンが思ったわけもないのだ。百歩譲って、イドリルの美しさを目にした時から彼女への欲望が生じたのだとしても、イドリルがたとえ彼になびいたところで、いとこ同士の結婚が正統とは見なされない以上、彼がトゥアゴンの後を襲ってゴンドリンの王に、あるいは、彼自身の嫡子がゴンドリンの後継者になるなどいうのは不可能であろう。

 だから、「トゥアゴンには世継ぎがいないという事実」、そして自分が王の妹の子であることを知ってマイグリンが密かに持ったかもしれない野心とは、『シルマリリオン』の語り手が強調するようなイドリルへの野心ではなく、たんにトゥアゴンの甥としてのし上がることだと思われる。

 このようにマイグリンの意図について読者が欺かれやすいのも、彼が黙って見ている(そして忘れない)だけなので、読者が勝手に(というわけでは実はない)補完して読んでしまうからである。上記の引用に続いてエオルの槍投げ事件が起こるが、「エオルはたちまち大勢に組み伏せられ、縛り上げられて、連れ去られた。そしてアレゼルは、傷の手当てを受けた。しかしマイグリンは父親を打ち眺めるだけで、一言も声を発しなかった」(244)と、マイグリンの内面は意図的に伏せられている。

 では、この時、イドリルはどうしていたのだろう。

エオルは翌日、裁きの庭に引き出されることに決まった。アレゼルとイドリルは王に慈悲を乞うたが[…]。

 さりげなく叔母とセットにされているが、これが、イドリルの行為についてのテクスト上でのはじめての言及だ。なぜ彼女は、見も知らない“暗闇エルフ”を助けようとするのだろう。彼女の心理についても、マイグリン同様、何ら触れられていない。アレゼルの方は、何といってもエオルは夫で子の父であり、槍に塗られた毒で自分が死のうとしているとは知らないのだから、命乞いをするのも無理はないように思える。だが、イドリルは? なぜ彼女はエオルを殺させまいとしたのだろう。

 アレゼルが死ぬと、エオルは絶壁から投げ落とされることになり、断崖の上に連れ出される。この時「マイグリンは傍らに立っていたが、一言も口を利かなかった」(「慈悲を乞うた」イドリルと対照的だ)。この処置は「ゴンドリンに住む者すべてにとって、正しい処置に思われた。しかし、イドリルは心を騒がせ、その日からあと、血のつながるマイグリンに不信の念を懷くに至った」 (244)。

 このイドリルの心理はどう解すべきだろう。なぜイドリルは「心を騒がせ」たのか。マイグリンが父の命乞いもせず、死に際の恨みのこもった言葉にも応えずに、平然と(?)眺めていたからだろうか。なぜ、マイグリンに、彼女は「不信の念を」抱いたのか。自分を殺そうとした父に母が傷つけられて死に至り、父も目の前で処刑されたマイグリンが、終始一言も発せずにいたとしても不思議はないのではあるまいか――むしろ彼は同情されるべき年少者ではないのか?

 イドリルが「心を騒がせ」、「マイグリンに不信の念を懷くに至った」というのは、彼女の内面について触れたはじめての記述であるが、上に述べたようにその意味は不明である。なぜ「王に慈悲を乞うた」のかについてもわからない。せいぜい、女であるので心優しさから助命嘆願したのだろうと補完して読むくらいのことしかできまい(実際、多くの読者はそうすることだろう)。しかし、イドリルは父王トゥアゴンの傍に座して、一部始終の出来事に立ち会い、語られた(そして語られなかった)すべてを目にしている。ここで彼女は、確かに、読者には明示されていない何かを、会ったばかりの従弟に見て取ったのだ。そしてそれこそが、「自分への思いを知ると、かえってますますかれを疎ましく感じた」(246)理由に他ならない。(異性の)いとこに思いを寄せるという“倒錯”ゆえに、マイグリンを忌避したのではない。それ以前に(「かえってますます」)、「マイグリンを全く愛していなかった」のであり、その理由はこの最初の日の出来事にまで遡るのである。

 とはいえ、それが、目に見えない深いところに潜んでいるわけではないのはもちろんだ(動物の絵は深さのない表面にある)。「黙って……立っていた」「一言も声を発しなかった」「口を利かなかった」という繰り返されるフレーズは、マイグリンの内心が積極的に隠されていることを示す。マイグリンがゴンドリンで確固たる地位を占めながら、「その心を明かすことをせず、万事が思い通り運ばなかったとしても、黙ってそれに耐え、自分の本心を隠していたので、その心を読むことのできる者はほとんどいなかった」(245)と駄目押しにそれが明示されたあとに、「いたとすれば、それはイドリル・ケレブリンダルである」という断言が続くことで、読者はマイグリンの内面についてはもっぱらイドリルの解釈に頼るよう誘導される。そして、彼の秘密とは、たんにイドリルへの禁じられた愛であるかのように言いくるめられてしまうのだ。

 この、マイグリンのイドリルへの愛のモチーフが、『シルマリリオン』の核心であるフェアノールとフィンウェの「禁じられた近親」への愛の反復であり、フェアノールとマイグリンにはあるレヴェルで類似が認められることは「コーラ」12号でも言及した。しかし、マイグリンの話の表の図柄である「禁じられた異性の近親への欲望」というヘテロセクシュアル・プロットは、読者をミスリードして真実を見えなくさせる。「それを見る目のない者には見えない」裏設定が、トゥアゴンの「同性の近親への〈禁じられていない〉欲望」であることもまた拙論で述べたが、「王の傍らに坐」してそれを残らず目撃し、「心を騒がせ」、「マイグリンに不信の念を」懐いた者こそ、イドリル・ケレブリンダルに他ならない。

 マイグリンが優秀なであったことは、第十六章「マイグリンのこと」に縷々述べられている。

マイグリンの運は栄え、ゴンドリンのエルフの中で次第に頭角を現わし、みなから一様に誉めそやされ、トゥアゴンの覚えもめでたかった。なぜなら、かれは習える限りのことを熱心に、速やかに習得しようとするばかりでなく、かれの方からもいろいろ教えるところがあったからである。(244-245)

マイグリンは智慧にすぐれ、しかも慎重で、同時にまた、必要とあれば大胆かつ勇敢であった。このことはその後、実証されることとなった。なぜなら、かの痛ましいニアナイス・アルノイディアドの年、トゥアゴンが囲みを解いて、北方のフィンゴンを助けるべく出陣していった時、マイグリンは、王の摂政としてゴンドリンに留まろうとはせず、自らも出陣して、トゥアゴンの傍らにあって戦い、戦場にあっては、情け容赦もなく、恐れを知らないことを証明したからである。
(245)

 ニアナイス・アルノイディアドとは「涙尽きざる」の意味で、モルゴスによってエルフと人間が大敗を喫した合戦のことだが、この戦いで、少年時代にトゥアゴンに寵愛された(『囮としての』を参照)人間の兄弟フーリンとフオルは、自らは踏みとどまってトゥアゴンを落ち延びさせる。トゥアゴンとの別れに際してのフオルの言葉を、マイグリンは「耳にして忘れなかった。しかし、かれは何も言わなかった」(334)と、特徴的な表現がここにも出てくる。マイグリンがどう思ったかは明示的に隠されているのだ。
 フオルの最後の言葉とは次のようなものである。

「しかし、今しばらくゴンドリンが倒れずにあれば、その時は殿の御家からエルフと人間の望みが生まれるでありましょう。王よ、わたくしはこのことを、死にゆく者の目で王に申しあげるのです。殿とわたくしは、ここで永久[とわ]にお別れすることになります。殿のお国の白い城壁を再び仰ぐこともないでありましょうけれど、殿とわたくしとから新しい星が生じましょう。それではご機嫌よう!」 (333-334)

 死なんとする者がしばしば未来をかいま見るというのは物語内の約束ごとであるが(機能的には筋書を前もって明かす読書ガイドである)、ここでフオルの口から出た「希望の星」は、イドリルと、フオルの子トゥオルとの間に生まれる、エアレンディルとして結実することになる。イドリルとトゥオルが愛し合うようになると「マイグリンが密かにかれに懐いている憎しみはいやが上にも強まった。かれは、何にも増して、ゴンドリンの王の唯一の後継者たるイドリルをわがものにしたいと欲していたからである」(406)とあるが、マイグリンがそれ以前からトゥオルに「懐いて」いた「憎しみ」とは何ゆえであろうか。トゥオルが「王の厚い寵愛を受けていた」(406)こと、そもそもトゥオルが水の神ウルモの送ってよこした者であることとも関連しよう。だが、一番の原因は、彼が、トゥアゴンがかつて寵愛した人間の息子であることであろう。「ゴンドリンの王の唯一の後継者たるイドリルをわがものにしたいと欲していた」というのは、囮の、表設定の、見えすいた――だが人間の読者には易々と受け入れられてしまう――口実なのだ。

 アレゼルから聞いた「トゥアゴンには世継ぎがいないという事実」は、かつて「注意深く」マイグリンの「脳裏に刻まれた」が、内実が何であれ、それは「耳にして忘れなかった」フオルの言葉の実現とともに潰え去った。トゥアゴンの摂政兼愛人として黙々と頑張ってきたマイグリンはここで完全に敗北したのである。としてのみならず、トゥアゴンのとしても。なぜなら、エアレンディルとは、トゥアゴンとフオルから――「殿とわたくしとから」――生じた「新しい星」であるからだ。マイグリンがモルゴスに捕われて裏切者になった時期へのさりげない言及――「ところで、エアレンディルがまだ幼い頃のことであるが」(第二十三章「トゥオルとゴンドリンの陥落のこと」407)――の裏には、そういう事情があったのである。イドリルの結婚ではなく、エアレンディルの誕生によってこそ、彼は政治的にも性的にも傍流に押しやられてしまったのだ。

 ちなみに、これより先に、マイグリンが少年時代のフーリン、フオル兄弟と(/に)絡むくだりは『囮としての』でも引いたが、つけ加えておくなら、マイグリンはそこでトゥアゴンには言えないやるかたない思い――なんといっても、「その心を明かすことをせず、万事が思い通り運ばなかったとしても、黙ってそれに耐え、自分の本心を隠していたので、その心を読むことのできる者はほとんどいなかった」マイグリンである――を、王のはからいでゴンドリンから帰されることになった人間の兄弟相手にぶつけているのだ。

「王の御慈悲は、そなたには分からぬぐらい広大なのだ。それに掟も以前ほど厳しくはなくなっている。そうでなければ、命が終わるまでここに留まる以外、そなたたちにはいかなる選択も与えられなかっただろう。」(第十八章「ベレリアンドの滅亡とフィンゴルフィンの死のこと」277)

 兄弟は当然ながら、ゴンドリンの位置を他言するのではないかとマイグリンが疑っているのかと誤解して(王甥が王の愛人でもあるとは彼らは知るまい)、「トゥアゴンの意図を決して口外しないこと、かれの王国で目にしたことは一切秘密にすることを」誓うという、(マイグリン以外は)微笑を誘われるずれた対応をする。言うまでもなく、ここではトゥアゴンに公私ともにいくら尽くしても報われない(たとえば人間の子供相手に浮気されてしまう)マイグリンが、通じるはずもない嫌みを言っているのであり、かつて王の慈悲を与えられることなく処刑された父、自分が見殺しにした父、息子を取られるくらいなら殺そうとしたほど独占欲の強かった(そういう愛され方しかマイグリンは知らないわけだ)、ポリガミー志向のトゥアゴン――彼がそこまでして乗りかえた相手――とは対照的な父に、思いを馳せているのである。

 としてのマイグリンが最初の日からイドリルに欲望を抱いたことがゴンドリンの禍をもたらしたと、表のヘテロセクシュアル・プロットは告げる。しかし、ナン・エルモスの暗闇の中で生まれた従弟が現われて、父トゥアゴンに臣従の礼を取った時、その叔母ゆずりの美しい顔にイドリルが読み取ったのはそんなものではあるまい。父が目の前で美少年に骨抜きにされてしまい、あとを追ってきた愛人/父親から何としても彼を奪い取ろうとして修羅場になったのを見たイドリルは、これ以上事態を悪化させないことを願ってエオルの命乞いをしたのだろう。

「アレゼルとイドリルは王に慈悲を乞うた」とひとまとめにされているが、二人の動機はたぶん全く違っている。アレゼルは、かつてエオルとともに「逍遥」した森に夫が息子を連れて出て行くようになり、自分は闇の中に一人取り残されても、彼らの関係に全く気づいていなかったと思われる(たぶん、こういう大雑把なところが、トゥアゴンと似た兄妹だったのだ)。しかし、敏感なイドリルは、「最初の日から」マイグリンの正体に気づいたのだ。自分に欲望を向けるではなく、伯父に一目で気に入られ、父親から彼女の父に乗り換えようとする、としてのマイグリンに。薄幸な子供ぶって、黙って愛人/父親を見殺しにした、なんて嫌な、と彼女は思ったに違いない。マイグリン欲しさにエオルを処刑させた自分の父親にも、父を殺した男の愛人に平気でなった――いや、追ってきた前の男を、新しい男に殺させたとさえ言える――従弟にも、彼女は戦慄したに違いない。「イドリルは心を騒がせ、その日からあと、血のつながるマイグリンに不信の念を懐いた」という記述は、こうした事態を指していると考えられる。

ところで、イドリル・ケレブリンダルは賢明にして先見の明があったが、この頃かの女の心には不安がきざし、不吉な予感が暗雲のように忍び寄ってきた。そこで、かの女は秘密の道を用意させた。[…]かの女はごく少数の者にしかこの工事のことを知らさないように取り計らったため、マイグリンには何の噂も聞こえてこなかった。(第二十三章「トゥオルとゴンドリンの陥落のこと」407)

 むろん、トゥアゴンの耳にも聞こえてこなかったに違いない。父に話せばマイグリンに筒抜けになると、イドリルにはわかっていたであろうから。「心を騒がせ」たその日以来、イドリルは父にも「不信の念を懐」いていたと思われる。実際、水の神ウルモがトゥオルの口を借りて「かれが創建した美しい立派な都を捨て、この地を去って、シリオンを下り、海に出るように命じた」にもかかわらず、「王の御前会議でいつもトゥオルに反対した」、そしてその言葉が彼の「気持に合っていたから、それだけ納得のいくもののように思われた」マイグリンに従って、トゥアゴンはついにゴンドリンの滅亡を招くことになる。マイグリンは文字通り男の傾城になったのだ。

 イドリルが危険を見抜けたのは、たんに「賢明にして先見の明があった」からではなく、「かの女の心には不安がきざし、不吉な予感が暗雲のように忍び寄ってきた」のはたんなる直感ではなく、理由のあることだった。その理由とは、マイグリンをとして見るかぎり、「ゴンドリンに来た最初の日から」(245)彼が抱くことになったと言われるイドリルへの欲望、およびそれと切り離せない権力欲であり、それが満たされないためモルゴスへの内通にまで至ったマイグリンの裏切りであろうが、マイグリンをとして見れば――それこそが、『最初の日から」イドリルが見て取っていたマイグリンだ――ストーリーは変わらないまま、真相が浮かび上がることになる。このことは、「フェアノールへの愛に惹かれ」(136)、職務も、再婚して得た家族も放棄して息子を追って行ったフィンウェを女王と見れば――彼はガートルードなのだ――真相が明らかなのと軌を一にしている。また、トールキンを“男流作家”と思うから、批評家たちが今に至るまで見当外れなお喋りしかできないことにも通じるものである。

 ところで、ゴンドリンに着いたトゥオルは、ヴァリノールの聖なる木の写しである二本の木を見た後、トゥアゴンの前に立つが、この時、王の右手にはマイグリンが立ち、左手にはイドリルが坐している。これについて私たちは『囮としての』で次のように論じた。

この視覚的なイメージの連続は印象的であり、一種の絵解きが可能と思われる。二本の木は言うまでもなく、ここが最初の、ヴァリノールの楽園であることを示す。 トゥオルの前にいるのは、実際にはゴンドリンの王トゥアゴンと、妹アレゼルの忘れ形見、そして実の娘であるが、象徴的には次のように解される――「王」はかつてのフィンウェであり、右手に立つのは「死んだ女の形見である同性の近親」、そして座っているのは「正統な婚姻を結ぶべき金髪の女」だ。すなわち、(選択すべき)二者と、その間で揺れる「王」という最初の構図の反復を、トゥオルは(それと知らずに)見ているのである。

 この“絵”が同性愛と異性愛の対立をあらわしていることは言うまでもないが、「その髪はメルコールが来る前のラウレリンの金のようであった」、「あたかも、全王宮がそこから光を得る太陽のように見えた」イドリルに対して、〈月〉としてのマイグリンが効果的に配されていることも言いそえておかねばならない。『囮としての』で詳述したが、アレゼルについての記述は「白」「銀」「青白さ」、月光ないし星明りに結びつけられており、マイグリンはそのアレゼルに似ているのに、トールキンはわざと(直接的には)そうは書かなかったのだ。むろん、マイグリンがテルペリオンのように、あるいは月のように美しいと形容されることはありえなかった。『シルマリリオン』にそう言われるべき“男のヒロイン”は一人しかいないからである。
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by kaoruSZ | 2010-05-14 22:28 | 文学 | Comments(0)