おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

<   2010年 06月 ( 2 )   > この月の画像一覧

 ホモって言うのは、絶対に自分がその当事者であるってことから離れようとしな
 いんだから、まずホモである自分が説得されないかぎり、すべてのホモに関する
 文献は嘘だという、すごい論破の仕方ができちゃうんだから。その点じゃ、ホモ
 を相手にするっていうのは、女を相手にするより大変なことなんだから。
                                        橋本治『蓮と刀』


 今回パムクについて書く気になったのは、私のエントリをネタに“脳内妄想”を繰りひろげてくれた御仁がいたからだ。むろん同日の談ではありえないし、(ある作家の文章を一箇所変更して借用するなら)「まともに他人のエントリを読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じない」奴の駄文を云々するのは確かに時間の無駄であるが、一種のステレオタイプ言説だから、“紋切型辞典”用specimenにはなるかもしれない。http://h.hatena.ne.jp/nodada/9234089639431981707

 内容については後で検討するとして、『わたしの名は紅』に戻る。脱落箇所があるのを知って、もっと抜けているところがあるのではと、“MyName is Red”(Alfred A. Knopf, 2001)を眺めていたら、次のような箇所が目にとまった。

I briskly outlined the tail. How gentle and curvaceous I made the rear end, lovingly wishing to cup it in my hands like the gentle butt of a boy I was about to violate. As I smiled, my clever hand finished with the hind legs, and my brush stopped: This was the finest rearing horse the world has ever known. I overcome with joy(...)(276)

 ほとんど他人の手のように自分の手が動いて美しい馬を描き上げてゆくさまを画家自身が物語るシークエンスの終り、絵が完成しておのづから筆が止まるあたりまでであるが、ゴチックにした描写は日本語訳に存在しただろうか? 邦訳(和久井路子訳、藤原書店、2004)の該当箇所と突き合わせてみた。

それから尾を素早く描いた。尻を、今にもやりそうな少年の尻孔のように愛しみながら、手で触れたいと思いつつ、上手に丸く描いた。わたしが微笑んでいる間に、賢い手は後ろ足を終えて筆を止めた。この世で一番美しい、後ろ足で立ち上がった馬になった。心の中が喜びで包まれた。(417)

 訳し落としではなかったが……むろん、邦訳の方が原文に近いという可能性もあるわけで(あまりないが)、トルコ語を全く知らない者にはわかりようがないとはいえ(しかし、むろんパムクは英語はわかるわけで)、本人の書いたものや発言を見れば、洗練の極みに至るまでは筆を止めない修辞によって世界を捏ね上げるマニエリストでパムクがないわけがなく、「心の中が喜びで包まれた」に類する不用意な措辞を許すとはとうてい思えない。

 英訳に従うなら、この絵師は、自分が描きつつある馬の尻に「私が犯そうとしている少年の」――(gentle butt をどう訳そう? 「尻孔」でないことは確かだ)――「愛らしい尻のように両手をあてがいたいと思いながら」――(「あてがう」より、もっと包みこむ、あるいはつかむ感じだろうか、cup itは)――「いとおしみつつ」筆を動かしている。
 つまりここでは、芸術表現と性的欲望ないし(男同士の)官能性が明示的に重ねられているわけで、同様の修辞は他の絵師の語りにも見られる。つまり、この小説における最も重要な要素の一つなのだが、訳者にはそれを「愛しみながら」扱うことができなかったようだ。

 訳者あとがきには、この小説について、《まずミステリとして、「犯人は誰か」としてだけでも面白い。第二に、歴史小説・社会小説として読むと、十六世紀のイスラム社会の風俗、若い娘達の行動、狂信的イスラムム原理主義者と彼に従うグループ、それを毒舌をもって揶揄嘲笑する非合法コーヒーハウスの舞台に立つ噺し家とそこに集るインテリや芸術家たち[中略]スルタンに属する工房とその生活など興味深い。第三にカラとシェキュレの恋の物語としても官能的世界を展開する[後略]》とあるが、第一のミステリ云々はたんに形式を借りているだけだし、二番目については、男色に触れないのでは何も言ったことになるまい。第三の、カラとシェキュレのの恋物語は、これまた人目を引きつけ、話を進めるための口実に過ぎなくて、すでに触れたとおり、官能性は男同士の側にある。

 長い不在の後にカラが見出した、別れた時十二歳だった愛する女は、窓枠に縁取られた絵として、囮として出現する――「その時、氷のはった鎧戸がバンと音を立てて突然開いて、氷がついて日の光でキラキラと輝く窓枠の額縁の中にあの恋しい人を、十二年ぶりに雪の枝の間からその美しい顔をわたしは見たのだった」(64-65)。これは両思いのラヴ・ストーリーではない。女は男に幻想を抱いておらず、行方不明の夫に替わって自分と子供たちを養い、大切にしてくれる、条件の合う男と結婚したいと思っている。自分に恋着する義弟ハッサンがいるものの、思いつめて強姦しかねない男なので、憎からず思いつつも逃れるしかない。自分の思い通りになる男なので彼女はカラを選ぶのだ。

 彼らの結婚に至る話の主人公はシェキュレである。シェキュレの話だけなら、たとえば女の小説家が女を描くリアリズム小説にもなりえたろう(あるいは、『ボヴァリー夫人』のように男によって巧みに構成された――その場合、エンマ・ボヴァリーの想像力の強さは、ボードレールが断言したように男に所属するものとされるのだが――女性像に)。しかしシェキュレは、エンマの対局にいる女である。彼らの関係は、負傷して横たわるカラをシェキュレが口でいかせるところで頂点を迎え、子供たちにはお父さんに薬を塗っていたと言いなさい、とカラはシェキュレに言いふくめる。プルーストの「カトレアをする」が彼らの場合「薬を塗る」になるわけだが、その直後、二十六年後のカラの死をシェキュレは告げる。そして、昼の間に薬を塗っていたため夜は子供たちと寝られたのであり、それが女たちの幸福なのだと。

 義弟に手籠めにされるのではなく、抵抗できない男(カラは傷を負い無力だ)、自分を女神のように崇める男に、昂奮もなくその「小さな口」で快楽を与えることを、彼女は至善の策として選ぶ。自分の自由になる男であり、彼女の欲望の表現ではない。これが、男によって夢見られたものではない女の真実としてパムクが提示してみせたものだ。

「主人公」と呼ばれるカラは影の薄い狂言回しに過ぎず、彼らの恋物語を離れた一篇の真の主人公は――あるいは作中の誰かを作家の分身として指し示すとすれば――それは、《非合法コーヒーハウスの舞台に立つ咄し家》であろう。《狂信的イスラム原理主義者と彼に従うグループ》を《毒舌をもって揶揄嘲笑する》からではない。「わたしは女」と題された第五十四章に至って、「咄し家」は、「女」が男の夢でしかない――「女は存在しない」――こと(だからこそカラの恋は一人相撲なのだ)を、女の姿になってあますことなく語ってみせる。

亡き母の薔薇の刺繍のついている毛の下穿きをはくと、体の中に甘いやさしさが広がって、自分も母のように心細やかに感じました。おばがもったいないといって着なかったピスタチオ豆の色の絹のブラウスが裸の肌に触れると、体の中に全ての子供のに対するやみがたい愛を感じて、全ての人に料理を作って、乳を飲ませたいとの思いがしました。[中略]母の嫁入り道具の櫃の底にあった葉の刺繍をした敷布のそばにある麝香の香りのする靴下の中に隠してあったねじれた金の腕輪をつけて、風呂屋の帰りに頬をより赤く見せようと塗る頬紅を塗って、おばの松の緑色の外套を着て、髪をまとめて同じ色の薄いヴェールをかけて、螺鈿の縁の鏡で自分を見ると身震いしました。何もしなかったのに、目や睫毛は既に女の目や睫毛になっていたのです。目と頬としか見えなかったけれど、わたしはとても美しい女だったのです。そしてそのことがわたしをとても幸せにしました。それをわたしよりも先に気がついたわたしの男性の部分が勃起してしまい、そのことがわたしを悲しくさせました。(530-531)

 このように少年時代の思い出を語る「咄し家」は、カラの欲望の対象が幻想であることをあらためて明らかにしていると言えよう(カラが見出したシェキュレが「窓枠の額縁の中」にいたように、少年が見出す「女」は「螺鈿の縁の鏡」の中にいる)。「女」とは、男がそれを抑圧することによって男になるものであり、彼自身の抑圧された受動性なのである。『わたしの名は紅』が芸術家小説であるとしたら、それは、受動性を受け入れて「女」になれる者こそ芸術家であることを「咄し家」が示してみせるからに他ならない。(つづく)
[PR]
by kaoruSZ | 2010-06-25 22:57 | 文学 | Comments(2)
                              例ふれば恥の赤色雛の段    八木三日女    


 昔、国語の教科書に伊藤整の小説『若い詩人の肖像』の一部「海の見える町」が載っていて、感想文だか何かを書かされた。小樽の学校に進学した文学青年が自分の同類を見出す話、と当時の私は受け取ったようだ。私自身、高校に入って出会った同級生を、ついに自分に似た存在(本の話ができる相手、むろん女の子)を見出したと思って恋うていた幸福な時期だったこともあり、この感情はひどく親しいものに思われて、その線でまとめたらしい。なにしろあまりに時間が経っているので、どこからか出てきたとして(出てきてほしくないが)、記憶が現実とずれていることは大いにありうるが。

 それから十年あまり後に小樽へ行くことになり、ふと思い出して事前に『若い詩人の肖像』の文庫本をもとめた。教科書に載っていた部分はすぐ見つかったが、驚いたことに見覚えのない文章が肉に混じる脂身のようにあちこちに入り込んでいる。併せれば相当の量になろう。どこが教科書に採られ、どこが削除されていたのか、まだ若くて写真のような記憶力を持っていた頃だから、継ぎ目はくっきりと見分けられた。こんな孔だらけのものを読まされていたのか。

 削除されていたのはすべて、生徒間の男色にかかわる記述であった。それらを取りのぞいた上で、あたかもはじめからそうであったように整形されていたのである。

 このエピソードを思い出したのは、斎藤美奈子が《中学2年の国語教科書の定番教材》『走れメロス』について書いているのを読んだからだ。一篇の結びを斎藤は次のように紹介する。

ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げ、セリヌンティウスがメロスに言うのだ。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」。そして最後の一文。(勇者はひどく赤面した〉                        
「名作うしろ読み」読売新聞2010年6月4日付夕刊

 はて、「この可愛い娘さんは」ではじまる一文は、私の使った教科書にあったろうか。《ちなみにかつての教科書にはこの部分を(裸は教育上よろしくないという理由で?)カットして載せていたのもあったらしい》と、斎藤も言っている。しかし、「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい」と「勇者はひどく赤面した」には間違いなく覚えがあった。ひょっとして、《かつての教科書》には、「この可愛い娘さんは」云々だけをカットしたヴァージョンがあったのだろうか?

 さらに斎藤は言う。《それだと》――つまり、裸の出てくる部分を削除すると――《「万歳、王様万歳」という群衆の歓声で終わる『走れメロス』は友情の物語、メロスは王を改悛させた英雄になってしまう》。そして、《だけど、ほんとうにそうなのか》と問うて、次のように論じる。

 小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わるのがポイントだろう。赤い顔で激怒していた赤子のようなメロスが最後は赤い顔で恥じ入る。いいかえれば、単純素朴だった青年が恥ないし世間知に目覚める。そこから遡れば、この小説は感情のままに猪突猛進する者、あるいは「心もまっぱだか」な者の恥ずかしさを暗に描いているともとれるわけ。
 マントを手にした少女も「君は裸だ」と指摘した友も「メロス、オトナになろうよ」と促しているように見える。メロスが赤面したのは単に自分が裸だったからなのか、それとも自己陶酔に近い自分の行為に対してだったのか。いずれにしても最後、メロスはコドモからオトナに変わるのだ。


 なるほど、友情物語、信義の大切さ、真摯な行為が人の心を変えうること、などを読み取らせようとするドクサを、ここで、メタ・メッセージを引き出すことで斎藤がくつがえそうとしているのはわかる。《それを成長ととるか俗化と解釈するかは微妙だが、ひねくれ者の太宰だもん。ただの感動小説のわけないじゃない》というのが記事の結び。だけど、ほんとうにそうなのか。結果として友情や信実の称揚に代わって、「オトナになること」(《成長か俗化かは微妙にしても》)を掲げることになった斎藤は、十分に《ひねくれ者》でありえただろうか(むしろストレートなのではあるまいか)。

 そもそも斎藤の読みは、私に見覚えがないように思えたあの一文――「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」――への考慮なくして成立している(ただし、ここで抑圧されているのは、少女とメロスの異性愛の表出ではない)。セリヌンティウスが彼女の内面を推しはかっていうこの言葉には、一片のリアリティも感じられず、彼女はマントを腕に掛けてハンガーのように立っている木偶人形としか思えない。これは、少女にかこつけてセリヌンティウスが自らの心情を吐露したものでなくてなんであろう

 それにしても私の使った教科書には、本当にその部分がなかったのだろうか。いつもなら探している蔵書はけっして見つからない本棚をちょっと捜すと、何とも恐しいことに中三の国語教科書があっさり出てきてしまった。見ると巻末に『メロス』が載っている(二年の定番と斎藤は書いているが、これは三年)。はたして件の科白はちゃんとあった(どうやら、私の記憶が検閲されていたらしい)。

 そうであれば、やはりあの科白も、恥ずかしさに拍車をかけたに違いない。思えば『走れメロス』は恥ずかしい小説である。メロスが赤裸を恥ずかしがるだけでなく、中二か中三の男女とりまぜた教室で《まっぱだか》の男を全員がイメージせざるを得ない状況に置かれ、あまっさえ運の悪い一人はそのくだりを朗読しなければならなかったという記憶によってのみならず、メロスとセリヌンティウスが、一度だけ互いを疑ったという内面を告白しあって、一発ずつ殴り合い、「ありがとう、友よ」と「ふたり同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた」なんて、もう最高に恥ずかしい。おまけに、理不尽に人を殺していた暴君までが、あろうことか改心したいじめっ子のように「静かにふたりに近づき、顏を赤らめて」、わしも仲間に入れてくれ、なんて言い出すのだから。[表記は見出された教科書による]。

 斎藤の言うように《小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わる》のは重要である。だが、私たちの目には、それ以外の「赤」も映る――「激怒」が「赤面」になるまでのメロスの踏破するページにあざとくも撒布された、「灼熱の太陽」、「真紅の心臓」、木々を染め上げる「斜陽」の「赤い光」、鉄人レースに「呼吸もできず、二度三度」メロスの口から噴き出る「血」、「胸の張り裂ける思いで」メロスが見つめる「赤く大きい夕日」、「顏を赤らめ」る暴君、「緋のマント」――そうやって移りゆき、リレーされた末、ついに再びメロスの面に「赤」は宿るのだ。生まれ出たばかりのように赤裸でマントに包まれるメロスは、結局、「赤子」のままではないのか。

 だが、別にここでは『走れメロス』についてこれ以上何か言おうとするものではない。昨年9月7日付で「愚鈍な女」と題する記事を書いた。あそこで、「ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、[検閲を]しない」と、そして、「ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が現実にはずっと多い」と述べたことに関連させて、オルハン・パムクの『わたしの名は紅[あか]』を取り上げるのがそもそもの目論見であった。『若い詩人の肖像』から同性愛への言及を削ったのはホモフォビアであり、斎藤美奈子が神話破壊の読み手たらんとして結果的にもう一つの教訓的ストーリーを引き出してしまったのは「萌え」の抑圧の結果であろう。『わたしの名は紅』はといえば、検閲されたわけでもなく、誰の目にも明らかに、書かれ、名指されていながら、おおかたの批評から男同士の愛が黙殺されている好例だ。しかも、無視された事柄は後述するとおり一篇の主題と分かちがたいのだから、まさに「批評の質が著しく損われ」ている。

 最近、パムクの場合、具体的に検閲かと疑われさえする事実があることを知った。2ちゃんねるのスレッドで『わたしの名は紅』の日本語訳に欠落があることが指摘されているのを見つけたのだ。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1163674130/l50

 以下が、トルコ語からの英訳“my Name is Red”にあって(トルコ語原文にももちろんあるとのこと)、日本語訳にない部分。

I was told that scoundrels and rebels were gathering in coffeehouses and proselytizing until dawn; that destitute men of dubious character, opium-addicted madmen and followers of the outlawed Kalenderi dervish sect, claiming to be on Allah's path, would spend their nights in dervish houses dancing to music, piercing themselves with skewers and engaging in all manner of depravity, before brutally fucking each other and any boys they could find.

 英語版を見てみたところ、確かにそのとおりだった(“my Name is Red” 9ページ)。上に挙げたのはパラグラフの後半だが、これが抜けているので、邦訳27ページの終りから二番目に当たるパラグラフは、オリジナルの半分の長さしかない。むろん、不注意で落ちたということは十分ありうるし、今の日本でこうした表現を制限する理由はありそうにないが。

『わたしの名は紅』の訳文の欠点はあちこちで言われていて、確かにひどいところは本当にひどい。文法的に変なところ(そういう箇所が多すぎる)さえなければ、文章自体には魅力があると思うし、正確に訳せてもセンスが悪い人はどうしようもないから、逆に惜しいのだけれど。

 ちなみに、上に引用したくだりは十二年ぶりにイスタンブルに帰ってきた“カラ”がピクルス売りから聞く、異端のカレンデリ派のコーヒーハウスでの乱行(/交)ぶりだが、そのものずばりの表現もさることながら、ここは先へ行ってコーヒーハウスが暴徒に襲われる事件の最初の伏線になっているし、これを読んでいれば50章で語り手になる二人組がどういう連中か、彼らがカレンデリ派だというだけでもう私たちにもわかっていたはずなので、この脱落による影響は一見そう思われるより大きい。(つづく)
[PR]
by kaoruSZ | 2010-06-21 01:18 | 文学 | Comments(0)