おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

<   2010年 11月 ( 3 )   > この月の画像一覧

鴨沢祐仁の発明

 評判になっているが絶対近づきたくない場所というのがあって、今なら墨田区と台東区のどっちになるかといわれていた段階で台東区の方が縁があるから来てくれるなと思っていてそれは叶ったものの、せんだって不忍池でボートに乗っていたらなんと森の上ににゅっと出ていてしかもせっかくビルの一つも見えない方角だからよけい腹立たしかった作りかけのアレで、朝倉彫塑館の改修が終ってももう屋上に登れば日暮里駅前のビルと一緒にアレを見るしかないのか、江戸東京博物館というところにはじめて行くことになってアレが見えるのは嫌だなと同行者に言われたが近すぎて見えなかったようだ、清澄庭園の景観にも問題なく、なるほどエッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れということか。古くは東京都庁がえらく西へ移った際、大阪から出張で来た事務方のおじさん(他の担当者は女性で緑一点)に新都庁舎を見てきたんですよと人のよい笑顏で言われ、すごいですねえ、東京ものでもまだ見に行っていませんとでも言っておけばいいものを、あたし新しい建物は好きじゃないんです、と不機嫌な応対をするという大人げないことをした、実際、いまだに行ってないし幸い行く必要もない。

 それが先日、夕方寄ろうと友人に示されたのが某タワー52階の美術館のタダ券で、できた当時若冲の屏風が来ていてさえ行かなかったのにと嘆きながらも、土曜日の午後の新宿御苑でゴロゴロしたあと、これも嫌いな(深すぎて)大江戸線で六本木に到着、建物は思ったとおり夜目にもどうでもよかったが、しかし会場では思いがけず素晴しいものが見られた。現代美術のコレクションで鴨下信一のフィギュア、逆柱いみりの絵等に見入る、中でも惹かれたのは芳賀澄子の箱入り着せ替え人形で、五十年代のファッションをまとい、台紙に黒の細ゴムでハンドバッグや靴も固定されているが、バービーやリカちゃん人形の通俗性が微塵もない。手前に置かれた、一つ一つデザインされた手作りの函の蓋も美しい。

 しかし、何と言っても最大の収穫は鴨沢祐仁の作品であった。「クシー君」にも作者の名にももちろん覚えがあったが、まず驚いたのは作者がすでに亡くなっていたことで、しかも幸福な晩年(というにはあまりにも若すぎる)ではけっしてなかったことは(作品以外の)展示からも察せられウェブで調べて確かめられたが、書いておきたいのはそのことではない。キャラクターを実写化した富士急ハイランドのCMを十数年前にTVでやっていたことは場内のモニターで見て思い出したが、シリーズ化されていくつものヴァリエーションがあったことは知らなかった、それがエンドレスで流されていて、クシー君とウサギが遊園地で遊び回っていたが、しばらく見ているうちに傍に掲げられたイラストレーションとの奇妙な差異に気づくことになった。絵のクシー君は、お洒落な服を着たウサギやクラシックなロボットと歩いていて、ウサギの方が小柄、玩具箱から出てきたようなと言えないこともない連中なのだけれど、CMのウサギはクシー君(絵の髪型に似せているけれど、普通の男の子であるクシー君より花のある美少年)より背が高く、明らかに大人である。同じような背丈の子供をウサギに使っていれば遊び友達という感じになるだろうに、はっきり意図を持っての大人設定、これはいったいどういう関係(の少年とウサギ)なのか?

 その時、あのウサギ、おやじの援交じゃない、と傍の友人が言いはじめた。そういえばウサギの顏も明らかにおやじ……ヒゲをはやしたおやじである。ウサギにヒゲがあるのも顏が毛で覆われているのも当然ながら、無精髭としか見えない顏つきなのだ(あんなに可愛くなくデザインされたウサギも珍しかろう)。それが、ウサギの皮をかぶって少年と遊んでいる……。
 少年誘拐者だね、と私は言った(種村季弘に「どもりの少女誘拐者」なるルイス・キャロル論あり)。遊園地のCMに登場して割引券で遊ぶキャラに、家族連れでも、恋人たちでもなく、少年とおやじウサギのペアである。「好きな人と好きなだけ!」とスポットは繰り返す。「好きな人ってなんだよ」モニターの前で私たちは笑った。「やっぱりカップルなんだ」「わからないと思って言いたい放題だな」

 美少年はあくまで無邪気で、アトラクションに瞳を輝かせて駆け回る。ウサギが先に望遠鏡をのぞいて少年に替わると、魅力的な女性がプールの中から誘っている……次の瞬間、水面に魚の尾がはねて彼女が人魚であることがわかる。これが童話の世界を口実に、生身の女から少年を隔てる仕掛けでなくて何であろう。ウサギは少年に背伸びさせて色っぽい女を見せてやろう(大人の異性愛の世界を覗かせてやろう)というのではない、少年に見せるのは自分の競争者にならない抽象的な女で、コーラス・ガールたちの顏は大きな星形や土星(こうした小道具はむろんタルホ写し)に置き換えられている。

 他にもコピーはいろいろあった。「無邪気な君なんて大好きだ!」「無邪気な私を好きになれ!」怪しいったらないが、もちろんウサギの台詞である。童心を装って何を考えてるんだか、手のつけようがない。このウサギ、名をレプス君といって、主役を張った単行本もあったようだ。おやじウサギになってからの絵も展示されていた。クリスマスの玄関でプレゼントの包みを抱えたまま、コートを脱ごうとしている。
 エンコーウサギ、この子にかなり貢いでるよ、と友人。クリスマス・プレゼントに天体望遠鏡をあげるんじゃない? 
 包みが小さいから望遠鏡じゃないでしょ、鉱物標本じゃないの、と私。望遠鏡は去年もうあげてるのよ。

 制作側、最初からねらってるよね、と友人は言った。こういうのを作ろうと思って、だから鴨沢祐仁を選んだんでしょう。そういうことだね、きっと。富士急ハイランドの希望というより、広告会社で企画したんだよね。作るのはさぞ楽しかったろう。腐女子をあてこんで作ったなどと下司なことを言う奴は当時はいなかったのだ。それにしてもほんとに、わからないと思って……裏にあるのはタルホだし、かなり危ないんだが。

 男の子にしては愛らし過ぎる、あれは女の子ではと気づいたのは帰宅してからだった。検索するとやはり(足穂の言う)“長持ちする少年”で、しかしあっさり“女”になって消えたようだ。ウェブで調べるうち、おなじみクシー君になる前の古い絵柄のクシー君が出てきた。無表情で前髪を切りそろえた大きな目の少年(後年の彼より明らかに一般向けではない)の出てくるマンガは、内容的にもさらに足穂寄り、確かにこの絵柄は見たことがあると思い出したが、それが鴨沢祐仁の作とはその時まで認識していなかった。昔のクシー君は会場で見た遺作のタブローの正面を向いて立った少年にそっくりで、また、生前の作者にも似ていた。いろいろわかったので友人にメールしたが、向うからはさらに驚くべきことを知らせてきた。ウェブで読める対談で、クシー君とレプス君は同性愛的な関係だと作者が明言しているというのだ。公認の仲だったのである。
[PR]
by kaoruSZ | 2010-11-30 22:42 | 日々 | Comments(0)
先に(上)の平野さんの論考http://kaorusz.exblog.jp/14384401をお読み下さい。

さらに後日談あり 
http://kaorusz.exblog.jp/14892828 



 鈴木薫です。
 当ブログ内の関連エントリーとして平野さんが挙げた“「彼は私をブランチと呼んでいた」”というタイトルのものの外にもう一つ、“お知らせとメモ”というのがあります。
“「彼は私をブランチと呼んでいた」”で検討していることの一つは、「男が流用した女性性を女が再流用して享楽する」可能性です。
 こういう場合に、“男の流用した女性性なんてけしからん、こういうものは否定して女の手で「正しい」「本物の」女を表象すべき”という方向へ行かないのは、一つには私が根っからの快楽主義者だからでしょう。以下の考察もそのような人間の視点からのものです。

 鷲谷さんの論考の最後の部分について言えば、“ホモソーシャルなもの”はつねにすでにホモエロティックだったのであり、これからもそうであろうこと(鷲谷さんが言うような「アリバイ」などではありえません)を看過するという、ありがちな(かつホモフォビックな)間違いを犯し、おまけに「女性観客」の「リビドー」を貶めるのみならず、彼女たちを「ホモソーシャリティ体制の共犯者」扱いしてしまうところは、かつて溝口彰子さんが書いた、やおいは「ホモフォビアに依存しつつさらにそれを再生産する二重のホモフォビア装置」というその後大勢の馬鹿によって繰り返されることになったフレーズと同様最悪で、これがあるためにそれまでの部分を台なしにしているのは最初に読んだ時からわかっていました(しかし世の中にはこの最後の部分にばかり注目して、重要なことが書かれているとかなんとか言い立てる人がいるんですねえ、呆れ果てました)。

 それがなぜ平野さんのような透徹した認識と歯に衣着せぬ批判へ直ちに繋がらなかったかといえば、強いて言うなら私の個人的心理の問題であり、それについて書いたところで誰も面白いとは思わないでしょうからやめておきますが、その代りとして、鷲谷さんがここで唐突に持ち出している、「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆく」という文句の付けようのない(?)「性向」をそなえた書き手がいったいどのような主体であれば、それまでの部分と齟齬を来さないかを考えてみます。

 第一に、鷲谷さんが“「素敵な女性」を性対象にする男性”だったら全く問題はなかったわけで、平野さんが“男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じ”と書いているとおりです。

. 女である主体がこのような発言をするのには、本質的に無理があるのです。だからこそ、それを行なった場合には異化効果が生じます。
 といっても今回の場合は、鷲谷さんの動機は、平野さんが掌を指すように示してみせた安っぽいものでしかなく、その効果も空振りに終っているのですが。

「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主」が“レズビアン”を名乗るのなら、これまた話は簡単でしょう。もっとも通常、そうした言説は“レズビアン=異性愛男性の女版”程度の認識しかもたらさないので(そういう認識ですませている“レズビアン”当事者だっていくらでもいるので無理からぬことですが)、異性愛のオルタナティヴなどには絶対になりえず、“レズビアン”の一語はむしろ人を安心させる政治的に正しいレッテルとして機能して、ヘテロセクシュアルな男性主体を一ミリも脅やかすことはないでしょう。

(馬鹿を対象に書いているのではもちろんありませんが)馬鹿も読みに来るのだからもっとわかりやすく書けと平野さんに言われたのでこの緑文字部分を追記します。鷲谷さんが以下のような主体であると私が主張しているわけでは全くありません。「鷲谷さんはこう書けばよかった」ということでさえありません。そもそもそれが可能な人なら、正しく見えそうなことをなんとなく書いてしまったりはしなかったでしょう。

 私は、たとえば――自分は「素敵な女性」の官能的イメージに萌える、しかも「素敵な女性」を欲望の対象にするのではなく彼女に同一化してオーガズムを得る性向の持ち主で、とりわけ、能動的で男勝りの強い女性が危ない目に逢ったり、敵に捕えられたり、拷問にかけられたり、時にはもっと酷い目にあったりというのが、性的指向という分類なんぞ自分には何の意味もなかったのだとあらためて実感させられる“嗜好”の持ち主なので、近頃は男あるいは男同士を官能的に描く映画ばかりでまことに残念だ――というのであれば、筋が通っている(現状を分析したそれまでの論考の内容と整合性がある)と思いますし、それはそうだろうと納得しますし、道徳的にであれ他の意味においてであれ正しくないなどとは全く考えません。

 むろん、そうした主体(念のため言っておきますが、女性とは限りません。男性主体とは性的指向にかかわらず、その成立条件からして必然的に「女になって犯されたい」という無意識の願望を抱え込むものですから)が、「お前は女だから女に同一化するのが正しい」というメタ・メッセージを発しているのであれば話は別ですが。

 以上、ながい蛇足でした。

──補足──

 平野さんが鷲谷さんの分析している映画の内容にまで踏み込んで補足したもので、私ももう一言。
 チャン・イーモウの『LOVERS』がそんなふうなら(ちなみに取り上げられた映画、私はどれも未見です)、むしろ私が過去ログで言及した(その後、コメント欄で恐れ多くも鷲谷さんが「参考になりました」と言って下さった)『肉体と悪魔』にこそ、鷲谷さんの指摘はふさわしいことになりますね。あれは正真正銘ヒロイン無視(しかも死亡)で男同士抱きあってましたっけ。思えばこれ以外にも例として選べたフィルムはあったので、たとえばハワード・ホークスのある作品(題名を思い出せないのですが、フィルムセンターのホークス特集で見ました)では、親友と妻の姦通という『肉体と悪魔』と全く同じシチュエーションながら死ぬのは妻ではありません。最後は妻を寝取られた船長が大怪我をして、死にゆく船長の左右に妻と親友を配した構図に。ところがそこでキャメラは船長と親友に寄って妻はフレームの外に追いやられてしまい(二度と戻って来ない!)、スクリーンは男二人を大写しにして、許しと和解と愛の再確認、そして永遠の別れという感動的な場面(「お涙頂戴的な場面」ではありません)で終ります。そう、「ヒロインの存在が消されたまま」で。

 しかしあれは果たして(男同士の)「真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)」(実際、昔の映画ですが)の発露だったのでしょうか。

 そうした映画は要するに異性愛のラヴ・ストーリーとして“パス”しつつ、実は男同士のホモエロティックな関係を表現していたわけです(そこには単に多数派に受容されるための手段にとどまらないものがあるようにも思えますが、それはまた別の話)。そこで作動していたのが、もっぱら、鷲谷さんの言う、(何やらやたら獰猛なばかりで快楽を欠いた)「みずからを増幅強化する」ような「ホモソーシャルな体制」なんてものだったとはとても思えません。「昔ながらの」ではなくアクチュアルな――「腐」呼ばわりして(しなくても)女を攻撃し、ストレート男性とゲイ男性が頷き合う、そして権威主義的な女性が彼らに気をつかい同性を非難する――今どきのニッポンのホモソーシャル体制ならまぎれもなく存在しますが。

 これ以上長くなるのは避けたいのでこのくらいにしますが、最後にこれだけは言っておきます。強制的異性愛体制(ヘテロセクシズム)下にあって男とつがうこと以外の可能性を否定されている女性(レズビアンであってもこの条件は変わりません)は、しばしば男性のホモエロティシズムを甘美なオルタナティヴとして(再)発見するのです。異性愛が規定する〈女〉とされることへの反発と拒絶(こうした反応自体、至極まっとうなものです)は、原因ではないとしても、そこに確かに含まれています。しかしそれを「ミソジニー」と中傷し、自己否定扱いするのは、まして「ホモソーシャリティ体制の共犯」に繋げようとするのは、絶対おかしいし、最低です。

 なお、平野さんが触れている“「コーラ」に共著者として書いた拙稿”はここにあります。
(実はこの論文中には私の不注意によるミスが二つあります。「失われた道」の主人公を「オックスフォードの歴史学教授」と呼んでいますが、彼の勤務先はオックスフォード以外の大学でした(作者とつい混同)。それから、アレゼルだけでなくニエノールも黒髪であるかのような書き方をしてしまいましたが、彼女は言うまでもなく金髪です。幸い論旨にはさしたる影響はないものの、ここで訂正しておきます。)
[PR]
by kaoruSZ | 2010-11-11 01:03 | 批評 | Comments(6)
後日談あり http://kaorusz.exblog.jp/14892828  

            
僕はただ、女嫌いで女性を出さないというふうに見ている人も多いと思うけどね。あの物語に関しては、久生を除いて女性に出てこられちゃ困る、という感じなんですね。 ――中井英夫
                             
                               

 なかなか更新できないでいますが、今回、友人の平野智子から場所を貸してほしいと原稿をもらい、これは広く読まれるべきものだと考えましたので、ゲスト・エントリとして掲載いたします。
 
 これは、現在、以下で読むことのできる、鷲谷花さんの論考について書かれたものです。、

http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223647850
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081017/1224253971

 鷲谷さんの文章については、私自身、大分前になりますが、むしろ好意的に言及しています(参考までにあとで読んで戴ければと思います)。
 そこにも書いていますが、私は最初、個人ブログでないサイトに他の書き手とともに載っているのを見つけた、才能ある若い女性研究者とお見受けした鷲谷さんの論考の、「腐女子」という種族化・属人化、「BL」という商業ジャンルへのゲットー化ではない、メインストリームの文化に見てとれるようになった〈やおい文化〉という包括的な捉え方や、具体的な映画作品を対象とした冴えた分析に注目し、さらには、〈やおい文化〉が「インターネットの普及をきっかけに、かなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつある」とか、『ロード・オブ・ザ・リング』がそこでは大きな役割を果たしたとかいう、私が全く通じていなかったトピックに引かれて、フェミニストを自任する、しかし「やおい」については知識のない人たちが少なからず集まる場所で少々話した際に、資料として使わせてもらいました。

 しかしそれは、鷲谷さんの説明を借りて彼女たちに効率的に情報を与えた上で、話を発展させられる(異論の提示を含め)と思ったからであり、〈やおい文化〉という括りに私が心から満足していたことは一度もありません(そのあたりはあとで挙げる私の関連エントリからも窺えると思います)。

 今回の平野さんの論考は、私よりはるかにラディカルな鷲谷さんへの批判です。

 平野さんの文章は私と違って非常に明晰なので、この上私から付け加えることは何もありません、と言いたいところですが、蛇足ながら最後にもう一度出てきて一言申し述べます。


鈴木 薫

 今回、この分析は、平野さんによって、いかに根拠のないものかが完膚なきまでに証明されてしまった。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  


二年間持ち越していた鷲谷花氏への批判、あるいは「ミソジニストはお前だ」

はじめまして。平野智子です。
鈴木さんの共同執筆者として「web評論誌コーラ」の記事に名前を連ねたことはありますが、単独で書いたものを掲載してもらうのはこれが最初になります。
さっそくですが、以下の文章は鷲谷花さん個人に対する批判であると同時に、彼女の論考「複製技術時代のホモエロティシズム」の最後の部分での、腐女子に対する“道徳的蔑視”をもっともな意見だと思われたような方たちに対してのものです。

まず、私が最も憤りを感じた部分からですが、

しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。


この文章は「私はこういうミソジニー的なホモソーシャル体制に無批判に“萌え”てとりこまれているような愚かな女達とは違うのよ。私は女性の方が素晴らしいと感じて女性の活躍こそを楽しみにしている、“政治的に正しい”女なのよ」
という、それこそミソジニー的なメタメッセージを内包しています。

それこそ「じゃあ貴女はそういった“活躍する女性”をオカズにしているの?」と聞き返してやりたくなりますね。上の論考の中で、彼女は映画の二次創作を楽しんでいる女性達を、一貫して「男同士での性関係を快楽の対象とした性的ファンタジーの持ち主」として表象しているので、本当に自分を「そういう女たちとは違う女」として表象なさりたいなら、「私のオカズは男同士じゃなくて男女or女同士のこういうパターンです」というところまで表明しなければ無意味です。
“野暮ないちゃもん”とか和らげたつもりになってみせたところで、こういう文字通りの差別化をせずにはいられないところで馬脚をあらわしています。

しかも「女性が活躍する映画が見られなくなったのは男同士の話を好む女が増えたせいだ」とでもとれるような結び方ですが、鷲谷氏はそれまで「女性の観客が男同士の話を好んで二次創作をするという消費の仕方がネット時代になって目立つようになった。映画そのものもそういった女性たちをあらかじめ観客として当てにして演出されているようにも思える」という論旨を展開していただけで、「男同士の関係をクローズアップした映画が増えたせいで女性の活躍する映画が減った」という論証をしていたわけではないのに、この結びの部分で無視できない(悪質な)印象操作的な飛躍をしているわけです。

これって、彼女がそれこそ女だから「こういう女たちとは違う」という形をとりましたが、本質的には男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じです。要するに、“男同士での性的なファンタジー”を享受する主体は不健全であるとする病理化です。

え?「男同士のファンタジー自体が不健全なわけではない。ゲイ男性なら問題無いけれど、女がそれを好むのはやっぱり異常だ」とおっしゃりたい?
まず、“男性による女性イメージの横奪”こそ歴史的には現在に至るまで続く制度化されたお家芸です。
下の(まだ私が鷲谷氏はおかしいと意見する前に)鈴木さんが書いたエントリーにその一例が取り上げられていますが、
http://kaorusz.exblog.jp/8729974
端的に言って、“女”なるものは男性が自分のものとしては抑圧した受動性を女性に投影したイメージであり、また、能動性としての“男らしさ”とは、「受動性を“女”として外在化し続けること」すなわち抑圧によって成り立つものであり、つまり“男”も“女”も“男のもの”なのです。
この秩序は必然的に、「男性が同じ男性に対して受動的であること」つまり男が“女”になることを最大のタブーとしますが、それ故にこそ、「男でありながら受動性=“女”を自分のものとして体現する」男性は「女以上に“女”らしい」ものとして受容されます。

馬鹿でない方にはもうおわかりでしょうが、前者は基本的に“異性愛”と呼ばれるものの基本的な図式であり、後者の「“女”を自らが体現する男」とは“同性愛”と呼ばれてきたものに本質的な関連を持ちます。(ここで「女性にも同性愛はあるじゃないか」とか言い出そうとした貴方は単なる馬鹿です。ホモ/ヘテロという区分を自己の主体化の為に大問題とするのは常に男性であり、本質的にこの区分自体が“男のもの”です。女性は「男の差別につきあう」形でそれを内面化=補完するのです)

そして、この“受動性”こそエロティシズムの享楽には欠かせないものであり、「私は能動的な女が好きなだけ」という言い逃れは通じません。
また女性にとっては上に述べた「男性のヘテロセクシュアリティの図式」を補完する「“女”であることを受け入れた女」であることしか許されておらず、「男を補完せず、また“政治的に正しい”とは評価されない性的ファンタジー」を持つことは侮蔑の対象にしかなりません。(“男同士”ファンタジーはまさしくこれに該当します)

繰り返しになりますが、だいたい“男同士”ファンタジーに対して“単品の女”(としか読めない)という反論になっていないものを持ち出してきているのが卑怯ですね。この場合、“男女”か“女同士”でなければ持ち出す意味は無いです。(たとえその場合でも「性的ファンタジーに道徳的ヒエラルキーを持ち込んで差別した」という噴飯物の性的人権侵害がより明示的になるだけですが)

つまり鷲谷氏が結果的にやったのは、「女のくせに、受動性を“女”として受け入れないのはけしからん。不健全である」という、「女の分際をわきまえろ」という最悪の意味での保守的な説教であり、より直接的には「女は女らしくするべきなのに、今時の女は生意気になっちゃって、同じ女として恥ずかしいですわ」という実にミソジニー的な“貞淑さ”のアピールです。
だいたい、「“正しい女像”に同一化できない女は不健全である」という使い古された差別的なテーゼを用いてフェミニスト面をするというのが信じられません。
「男同士というパターンの性的ファンタジーを持った生身の女性より、“スクリーンで活躍する女性たち”とやらに自己投影できる私の方が“健全”である」という浅ましい蔑視です。

また、彼女が言うような「潜在的にホモエロティックなホモソーシャルの映画」が最近になって急に出てきたという事実はありません。
変わったとすれば、それが「どうせ女向けの偽物」という実にホモフォビックでありミソジニー的な“安全化のラベリング”の対象になり、そのラベリングに基づいた(男性にとっては、あらかじめ余裕を持って侮蔑することを許された)“マーケティング”<>が行われるようになったというだけでしょう。

たとえば彼女が持ち出していた映画『ヴァン・ヘルシング』の原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』ですが、この小説も含めた吸血鬼表象そのものが、近代以降の文学においては、同性愛の伝統的と言ってもいいほどのメタファーになっており、彼女自身もそれを知らなかったとは思えません。
(ちなみに狼は『吸血鬼ドラキュラ』の中でもドラキュラ伯爵の変身した姿として登場し、草稿の一部である短編『ドラキュラの客』では語り手とドラキュラ伯爵である狼との極めてホモエロティックな描写があります)

また映画『ロード・オブ・ザ・リング』とその原作『指輪物語』を比較すれば、フロドとその従者サムとの親密な絆が、ヘテロセクシャルな要素の大幅なクローズアップによってぼやかされ、(特に滅びの山の麓での場面のように)原作において感動的な場面に決定的に水を差しているのが見て取れます。

王となる宿命を背負ったアラゴルンとその仲間たちであるボロミアやレゴラスとの絆は、なるほど確かに原作よりも分かりやすくドラマティックに演出されていた部分もありましたが、同時にアラゴルンの婚約者アルウェンを、原作では彼女の出番でない場面において、他の男性キャラクターの見せ場を奪ってまで男勝りの活躍をさせたり、回想やテレパシー的な夢を挿入するという形で登場させて濃密なラブシーンを描いたりして無理に“ヒロイン化”しており、結果的に原作とは似ても似つかぬ「凡庸なホモソーシャル映画」に仕上げています。(ついでに言えば、監督のピーター・ジャクソンがアカデミー賞の授賞式で、フロドとサムの関係をゲイではないかという意見について、「ユーモアとしては買うがアイデアとしては買わない」といったホモフォビックな発言をしているそうです)

ちなみに原作者トールキンの描いた世界が『指輪物語』に限らず、特に『指輪』の前史にあたる『シルマリルの物語』においていかにクィアーなものだったかについては、「コーラ」に共著者として書いた拙稿をご覧ください。

映画の中の虚像としての女がどれほど“政治的に正しく、能動的に”描かれたところで、性的ファンタジーを持った生身の女性の解放には繋がりません。
また、「“正しい表象”の方を愛好できない女は間違っている」というフェミニズムの名を借りた道徳律に基づく抑圧は、いかなる場合においても正義ではありません。
それは保守的な性道徳の強化にしかなりえず、女性を萎縮させる効果しか持ちえません。女性をエンパワーメントするために必要なことの逆なわけです。「お前の道徳に承認されない正しからざる部分は“罪”なのだ」という脅しですから。

ホモエロティックなものがホモセクシャルな関係でもあるものとして明示的に描かれることが忌避されなくなり(男の“女性性”の忌避の解消)、それを生身の女性が享受することが蔑視されなくなった時(女性が性的なファンタジーを持つことの純粋な承認)には、世の中の“女性観”そのものが真に変革されていることでしょうが、その時にスクリーンにはどんな“虚像としての女”が映っているのか、それはその時代の人にしかわからないことですが、その時に生きている人たちなら──個々人のセクシュアリティともイデオロギーとも関係無く──みんなが知っていることでしょう。少なくとも「スクリーンでの素敵な女性達との出会いを求めて」などという空疎かつ実はミソジニーそのものの欺瞞的な文句が、その人たちの口から出るとはとても思えません。

とりあえず以上です。この長文をここまで読んでくださった方には感謝いたします。

──以下註釈および補足です──

とはいえ、この“マーケティング”にも果たしてどこまで実体があるものやら個人的には甚だ怪しいものだと思いますが。それなりに製作者側が念頭に置いていると思われるのは──それでも“男性向け”のセールスへの意識よりも優先順位は低いだろうと思いますが──日本のアニメ市場くらいじゃないでしょうかね?とても“グローバル”なものとは呼べません。
というのも、少なくとも欧米圏においては「男性同士のホモソーシャルな/エロティックな表象」の担い手および享受者の双方の中心は「狭義のゲイを含めた“男性”である」という前提は、それを愛好する側にとっても差別する側にとっても揺らいだことは無く、ましてや「“政治的な正しさ”を表明することを目的としない男同士の表象」は全て「女のせいにする」という態度がまかり通ることはありえません。
こうしたミソジニー的な責任転嫁の横行自体が“日本ローカル”な代物でしょうし、そうなった原因はまた今回の一件とは別の話になりますが、少なくとも女性の側には一切非はありません。

また「女性にとって男同士のエロティックな物語が魅力的である」ということ自体はおそらく普遍的なことですが、その社会的な意味づけは時代や文化圏によってそれぞれ異なるものであり、たとえば欧米のスラッシュ文化を指して「海外にもBL(やおい)がある」というのは、「江戸時代や古代ギリシャにも同性愛者がいた」と言うに等しい錯誤に過ぎません。

また鷲谷氏が持ち出していた他の映画も、彼女が作った筋書きを裏付けてくれるようなものとは思えませんでした。
チャン・イーモウの『LOVERS』の場合は(アマゾンのDVDのレビューでも指摘されてましたが)そもそも映画のストーリー自体が破綻しきっており、とても引き込まれるような出来ではありませんし、単に映像美をすべてに優先させているという以外に一貫したコンセプトは感じられません。当然男女の三角関係の話そのものも、女を取り合う男二人の間に特別な絆があるというものではまったく無く、鷲谷氏が自説の根拠にしていた剣戟のシーンも、単にヒロインの見せ場ではない(このシーン以前にいくらでもありますが)から舞台の端で待機させられているだけで、それに特別な意味は見出せません。ちなみに最後は唐突なヒロインの死と、彼女の亡骸を抱いて嘆いている主人公というお涙頂戴的な場面でおしまいで、ヒロインの存在が消されたまま終わる映画なんかでは全然ありません。というか、スタンダードにヘテロセクシュアルな映画だと思うのが普通でしょう。

『トロイ』の原典は言うまでもなく古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』で、この中で語られているアキレウスとパトロクロスの友情の物語は“男同士の愛”のイコンとしてあまりにも名高いですが、言うまでも無く「腐女子が作った話」ではありません。そもそも古今東西の別なく戦記物や英雄譚の中心人物が男性であり、そこで展開されるのが友情やライバル関係といった男同士の絆や愛憎劇であるのは必然であり、女性が登場するのは“女”役割を担う物語の彩りに限られるというのは単に“イデオロギー”と呼ぶことは出来ない必然的なものです。単に女性キャラクターを活躍させればいいという問題ではありません。むしろ「男同士の絆のエロティシズムなんぞ見たくもない」といったホモフォビックな──必然的に本質としてはミソジニーなのですが──人物には歓迎される傾向にあるように思えます。「ちゃんとヒロインが活躍してたから腐女子が喜ばなくていい」といったような。つまり、安易に女性の存在を強調することは、「男性の“女性性”や同性愛」の排除を“健全”なものとして正当化しうるわけです。

「真に重要な場面からは締め出されるアリバイとしての女」は「親密な絆で結ばれた男同士がホモだと思われないために」というホモフォビアによってこそ要請されるのであり、「女との関係よりも男同士の絆の方が価値がある。ただし同性愛は認めない」という不文律を本当に“イデオロギー”として信じる/信じる必要があるのは男性だけです。「親密な男同士の関係」のホモセクシュアリティを女性が楽しむこととは関係ありません。彼女がそれを愛好しているのは「男同士の関係が魅力的だから」であり、「女が排除されているから」嬉しいわけでは当然ありません。

また、男性の登場人物や彼の同性との関係の描写の方が、女性の登場人物や彼女を対象とした異性愛の描写よりも優れていたり魅力的だったりする作品を鑑賞した時に、作り手の側を「監督がホモなんじゃないか?」とは言わずに「女受けを狙っている」と言うのは、二重にホモフォビックでありミソジニー的ですね。「同性愛男性を差別したと思われるわけにはいかないが、同性愛的な表現は気持ち悪い(もしくは気に食わない)。だが女のせいにすればいくら叩いても問題ない」というわけですから

ただ、上に書いたのはあくまで『イーリアス』について当てはまる話であり、『トロイ』の場合、アキレウスとパトロクロスの関係についてはろくにスポットが当たらない軽い扱いしかされておらず、重きを置かれているのは原典には無いアキレウスとトロイの王女とのラブストーリーや、時代錯誤な趣すらある、健全なヘテロセクシャルな夫婦(トロイの王子ヘクトルと妻アンドロマケー)を中心としたトロイ王家の“家族愛”であり、まったく“男同士の愛”についての話ではありません。早い話が「健全かつ陳腐なヘテロセクシュアリティを描いたストーリー」と「規模は大きいが『ロード・オブ・ザ・リング』の二番煎じの感が拭えない合戦シーン」を見せるためのものでしかなく、鷲谷氏がこだわっていらっしゃった“女性の扱い”については「原典とは比べ物にならないくらい重きが置かれた“健全”な描写をされてるじゃないですか?」としかお答えのしようがありません。

また、単に「主役級である男の俳優が格好良くセクシーに演出されている」ことと「男同士の愛が描かれている」ことはまったく別の話で、つまり『トロイ』は前者には当てはまっても後者には当てはまるとは全く思えません。

『ヴァン・ヘルシング』も実のところ単にクリーチャーの造形や特撮CGを用いたクリーチャー同士の闘いがセールスポイントの娯楽映画であるという必然から製作されているという印象が強く、鷲谷氏が「腐女子目当て」で演出されているように言っていた要素も単に「その場での演出」に止まっており、ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やその草稿の一部である短編『ドラキュラの客』のような、テーマの表出として必然的に存在するホモエロティシズムではありません。

つまり、彼女は最初から「映画そのものが“女性向け”に演出されている」という自分の結論に都合のいいバイアスのかかった説明をしようとして、実際には単にヘテロセクシュアルな物語であるもの(『LOVERS』)や、男の監督自身はホモエロティックな演出を避けたがっていたが、原作にあるそういった要素が物語の構造と不可分であったために結果的に残ったもの(『ロード・オブ・ザ・リング』)
題材に選んだ時点でホモエロティックな雰囲気になるのは必然的でありながら、時代錯誤ですらある“健全なヘテロセクシャル”的な脚色がされたもの(『トロイ』)
伝統的に同性愛のメタファーとされるモチーフを生かした演出がされたシーンは当然ホモエロティックにも見えるに過ぎないもの(『ヴァン・ヘルシング』)
といった、まるでバラバラの内容である上に実はどれ一つとして彼女の主張したがっている結論の証拠にはなっていない映画を、あらかじめ決まりきった結論のために利用したわけで、これは証拠の捏造に等しいです。

鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(下)へ
[PR]
by kaoruSZ | 2010-11-11 00:45 | 批評 | Comments(0)