おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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 以下の文章は、最初、去る8月15日に発行された「Web評論誌コーラ」14号に載せるつもりで書かれた。しかし、編集人に掲載を断わられ、理由の説明が納得の行くものではなかったので、掲載予定だった連載原稿を引き上げ、今後の寄稿も中止した。なぜ「コーラ」で意見表明することに拘ったかは、本文に書いた通りである。

 時間が取れればこの本をもっときちんと批判したいところだが、思うにまかせないので、元原稿に手を入れたものをとりあえず公表する。後に少々追記を加えた。

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私は絶対安全ポルノを支持しない

                         鈴木 薫


 
 この場を借りて、守如子の著書『女はポルノを読む――女性の性欲とフェミニズム』についての筆者の考えを表明しておきたい。というのは、「コーラ」2号で私が守さんの「ユリイカ」に載った論文「ハードなBL その可能性」を好意的に紹介した文章、「やおい的身体の方へ」
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/eiga-2.htmlの一部がこの本に引用されている上、あとがきに並ぶ協力者への謝辞の中には私の名前もあるからだ。しかし私はこの本をクズだと思っている。

「コーラ」2号の拙稿で、私は守さんの“可能性”を最大限引き出そうと努めたつもりである。しかし本書の中で守さんは、そこから私の文意を曲解して引用している。また、個人的な会話の中で私が話したことを、自分の意見であるかのように書いている(これについては本人も“うっかり”出典を記さなかったと認めたが、この件についての話し合いはできていない)。これらの詳しい内容については今後明らかにして行きたい。
 
 しかし、実のところ、そうした個人的な事情は瑣末事に過ぎないと思えるほど、本書の内容には問題が多い。守さんはこの研究に十数年を費やしており、御本人が素晴しい本ができたと思っているのなら私がそれに口を挟む理由はない。ただ、私がこの本の内容に賛同していると思われるのは迷惑なので、まずその点だけははっきりさせておきたい。

 今回は一つだけ具体例をあげておくにとどめるが、本書の最後で、守さんは奇妙な議論をしている。暴力的なアダルトビデオを見て、自分が性暴力を受けたような恐怖感から逃れられなくなってしまったという、あるフェミニストのエピソードを受けて、ビデオ制作時に強制や暴力がなかったという証明(「アダルトビデオにメイキング映像をつけることを義務づけ、出演者に対する契約違反がないかどうかを示すといった方法」)を商品に付けるというアイディアを提出しているのだ。
「登場する人々がいやな思いをしていないことを何らかの形で提示することは、登場する人々の労働条件をよくするためにも、視聴者の安全化を図るためにも意義があるだろう」(本書213頁注)。

 ファンタジーの話だっだはずが、こういう話題へ横滑りすること自体おかしいが、どうしてこのような発想になるのか、奇怪ではあるがわからないこともない。守さんはかのフェミニストがポルノを批判していたそもそもの原因である、男性のヘテロセクシュアリティの覇権性の問題を直視できず、“安全化”という偽の問題にすりかえたのだ。

 男性のヘテロセクシュアルなファンタジーは、いわゆる「多様な」ファンタジーの一つではない。それは現実を規定する覇権そのものであり、それ以外のファンタジーと同列と見なせるような相対的なものではないからだ。 それは「現実であるとされているファンタジー」であって、相対化されうるとすら思われていない。たとえ現実離れした内容であっても、そのファンタジーを抱く、欲望する主体としての男の地位は揺らがない。女とは、つねにその欲望に応えるものとして召還され、その欲望を満たすべく存在するものとして位置づけられる。原理的に言ってヘテロセクシュアルな男性主体は、自らの受動性を否認し(受動性は女として外在化され)、性的なものとして存在するのは女である(それが女の本質である)とする一方、彼自身は同性に対して受動的になること(=女になること)を最大のタブーとすることで成立する(ホモフォビアの起源)。このように男性のヘテロセクシュアリティは、単なるポルノにとどまらない、基本的で広範な「現実」を構成している。ポルノをこわがるフェミニストは、現実とフィクションをいたずらに混同していたのではなく、この幻想(つまり「現実」)の圧倒的な力を恐れていたのだ。

 犯される(お望みなら、暴力的に)というファンタジーは、それ自体なんら問題のあるものでも、特別なものでも、驚くようなものでもない。レオ・ベルサーニが「少なくともそれが構築される段階では、セクシュアリティはマゾヒズムの同義語である」と言っているように、根源的なものでさえある。しかしそれは、なぜ「女が犯される」という形としてしか提示されないのか(念のため言っておくと、これに対立するものは、男が女にではなく、男が男に犯されることである)。なぜ、女でないとだめなのか(なぜ、女が“男同士”を好むのかと訊く前に、こう尋ねるべきなのである)。ヘテロセクシュアルに主体化された男にとって、男(自分)が犯されること(それが快楽的であること)はファンタジーとしてすら認められず、だから、外在化された〈女〉にファンタジーを投影するのである。言うまでもなく、そうした男のファンタジーに対応するものが女の側に本質的にあるわけではない。

 しかし、女の性的空想やマスターベーションといったトピックに向けられる男の関心は、女のファンタジーが自らのそれを補完するものであってほしい(あるべきだ)という期待(と確信)に基づいている。女が自分の思うようなものでないと知ることは、しばしば男の側に、女に対する強い蔑視や怒りや憎しみを引き起こす。「女は何を望んでいるか」(これはフロイトの問いだ)の真実の答えなど、本当は誰も聞きたくないのだ――女の性的なファンタジーが“あなたと性交すること”以外であるなどとは。女には実のところ、男との関係性の中で娼婦としてふるまうこと以外、想定されていないのだし、そういう夢想をしている女ということになれば、容易にポルノグラフィーの(ポルノとは娼婦の意味だからこれは同語反復だが)対象にされる。

 守さんはもともと、男の異性愛ファンタジーの中の〈女〉が、彼女自身がその一人である現実の女と同一視されることに異議申し立てをしたかった、そして、女も男と同様、性的な表現物を積極的に楽しめる、固有の性欲を持った存在であり、哀れな被害者などではない、性を享楽する主体であると主張したかった人のはずである。しかし守さんは自分の性的ファンタジーを認めてもらうには、男性のヘテロセクシュアリティの権力性を批判してはならないと思ってしまった(ついでに言えば守さんは、受動性がタブーだからこそ、男にとって受動的になることが禁じられた夢であることもわかっていない。それだから、ポルノに表現された男のセクシュアリティをたんに攻撃的なものと見誤るのであり、その点でビデオをこわがるフェミニストと本当は変わらない)。一方彼女は、フェミニズムにはあくまで恭順な態度を取る。その理由はいうまでもなく(本書を読めばわかるように)、フェミニズムとは彼女にとって、自己の正当性を保証してくれる不可欠なドグマであるからだ。

 守さんは制度的な「男性のヘテロセクシュアリティ」の前では思考停止し、“私たちのファンタジーはドグマに沿った「正しい」ものだから許してください”としか言えない――男に対しても、ポルノに反対するフェミニストに対しても(安全ポルノの証明とは、言ってみれば「正しく」なければ女は楽しめないと主張しているわけで、これほどまでにリアリティのない主張がよくできるものである)。これは個人の(性的嗜好を含めた)人格よりドグマが優越することを自明とする、女性の性的人権を認めているとは、到底言いがたい態度である。これでは、女が「男並みに」ポルノを楽しみたいなら、フェミニストが異性愛男性に求めてきた「道徳的要求」(むろん、そんな要求が受け入れられたためしはない)と同じものを「男並みに」受け入れよという、新たな貞淑さの押しつけにしかならないではないか。

「無垢でもなんでもない私」からはじめなければならないと守さんは言う。こういう言い方が出てきた、(いわば)歴史的背景は理解できる。母親として子供に対する悪影響を心配し、「正しい性」に固執する女たちに対比される、自由で快楽的な主体こそが想定されていたはずである。しかし、書き上げられたこの本の中で、この主張は、罪は罪として反省した上で悔い改めた主体として認めてもらおうという、あちこちに気配りした、上目づかいのケチくさい立場でしかなくなっている。むろん守さんは、あくまで主婦的、母親的、PTA的「正しさ」と対立しているのであり、「快楽としての性」に目を向けているのだと主張する。しかし、そうしたスローガン的な主張は、それに替わるフェミニスト的「正しさ」(と守さんが考えるもの)を担保しようとする、この本の他の部分の記述と矛盾する。男のための“娼婦”であることを拒否した結果は“修道女”になるしかなかったわけで、私はそんなところに分類されるのはごめんこうむる。

 守さんの議論の根本的な問題は、(必然的に)男性のものであるヘテロセクシュアリティが唯一の現実/スタンダードとしてまずあり、それを補完し、それに隷属するものとしてしか女性が定義されないがゆえに“夢見る主体”であることを否定されているのだという事実を、指摘できないところにある。それを踏まえた上で、どんな夢を見るのも本当は自由なのだと言わなければ、男女の差別的な非対称(そしてそれに必然的に関連する同性愛のタブー視)と女に対する道徳的抑圧の強化に加担するだけである。

 守さんを友人と思い、信頼し、この件にかかわったことを残念に思っている。そうでなかったらこの本について、私が何か言うことなど、けっしてなかったであろうから。思いつきを寄せ集めただけで普遍性を欠いたこの種の本の批判のために時間を割いたところで、こちらが得るものはないから、そのほうがよかったのである(とはいえ、批評する以上は、せいぜい読者と私自身にとって興味の持てる事柄を引き出すよう、努めるつもりだ)。しかし、すでに私は、本誌誌上で彼女の書くものを支持するという間違いを犯してしまった。その時私が書いたことも、それ以前やその後に会話の中で伝えたことも、結局守さんの理解するところではなく、彼女の著作の中で不本意な形で使われることになった。
 以上の理由から、私は守さんを応援するようなものを書いたことを後悔しており、『女はポルノを読む』の内容に異議を唱えるものである。


【追記1】
 ヘテロセクシュアルな男性主体の成立とホモフォビアの起源について、誤解があるようなので追記しておく(上のようなことを書くと、自分が攻撃されているのかと思って、“僕はそういう悪い男ではない”と反感をあらわにする人が出てくるものだ)。上の文章で「原理的に言って、ヘテロセクシュアルな男性主体は云々」と書いたが、「原理的に」とは、ほぼ例外がないということだ(構造が規定する主体化から逃れうる者がいるだろうか)。表現型としては“多様”でも例外はない。たとえあなたがマッチョではなく、愛する女性に対してベッドで受動的にふるまったとて、「父に対する受動的態度の拒否」(フロイト)の外部に出られるわけではない。これは良い悪いの問題ではない。筆者はたんに、“〈女〉とは男の夢であり、男が自分のものとして認められないものの化身である”という現象を、中立的に記述しているだけだ。

〈女〉は男にとって美しい夢として結晶する一方で、以前、次のように書いたとおり、ゴミ箱でもある――「女とは、男にとって〈他〉とされたものの集積場である。だからこそ、ストレートだろうとゲイだろうと、男はそこに好きなものを投影できる。欲しいものは何でもある宝箱。何でも出てくる魔法の箱。男が(男であるために)自らに禁じた/認めたくないものすべてを放り込んだ実はゴミ箱」。http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/eiga-8.html 男がさっぱりした顔をして、エロはエロとして置いておき、何やら抽象的な話をしていられるのはそのせいだ。女が男にとってそうであるのと同じように、女にとって男が当然の性的対象であるなどということはありえない。

 そう言えば、「実はゴミ箱」云々という拙文について守さんから、「女がゴミ箱にされる状況を変えていかなければいけないと思う」という意味のことを言われて一驚したものであった。男女の根源的な非対称を社会改良で何とかする? そんなことを平気で言える人が書いたのだから、やっぱり『女はポルノを読む』は絶望的にダメな本なのだ。パーソナルな自我のありようを意図的に変えるなどというのは誰にとっても無理な話で、できるのはただ、そうした制度の中にいることの自覚である。かつ、それこそが真先にしなければならないことだと思うが。

【追記2】
「無垢でもなんでもない私」について。守さんはこの言葉を、明らかに女に責任を取らせるために使っている。「ヤオイもBLもゲイ差別的であると批判されることがある」(236頁)とあるが、これは、ポルノが女性差別的だと批判されることと並列するために「も」という助詞が使われているのだ。だが、【追記1】でも述べたように、男にとっての〈女〉に相当する〈対象〉は女には存在せず、女の「ファンタジー」は覇権的な力を持たないのだから、こうした並列は無意味であるばかりでなく、女を叩きたい男に根拠を与えることにしかならない。また、これに続く、「問題が放置されているなら、批判はまずなされるべきだし、表現を作り出している側にはそれに応答する責任はあると思う。対話を経てよりいい表現が生み出されていく必要があると思うからである」という記述は、「表現」および表現者をここまで見くびっているのかと嘆息せざるを得ないことを別にしても、ジャンルBL作家がゲイ差別者として非難されたことなどなく、読者である若い女性がもっぱら腐女子フォビアのターゲットになっている現状を思えば、あまりに無自覚で軽率な問題の捏造であり、現実の同性に目を向けない利敵行為だ。差別され、蔑ろにされ、いくらでも攻撃を加えていいと思われているのは、男のゲイのではなく、女のセクシュアリティであるのだから。
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by kaoruSZ | 2011-09-30 17:11 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 一度でも読み返していれば別なのだろうが、若過ぎるうちに読んでしまってすっかり通じたつもりでいたのが、実は出会っていなかったに等しい本というのがあって、『ドリアン・グレイの肖像』も気づかぬうちにそういう一冊になっていた。後年手に入れた新潮文庫版をどこかに持ってはいるのだが、買った当時は、例の、本にはよく書けているか書けていないかのどちらかしかなく、道徳的な本も不道徳な本も存在しないという文句が序文にあるのを確認しただけで満足してしまったらしい(フレーズは覚えがあったのに、そこに出ていたことさえ忘れていた)。おかげで今回、光文社文庫の新訳(仁木めぐみ訳、2006年)を、ほとんどはじめてのもののように楽しむことができた。

 これは本当によく書けている本だ。今回わかったのは、善悪がどうこうなどという話では全然ないこと。そして、完全に『ジキル博士とハイド氏』の同時代の作だということだ。『ジキル』と『ウィリアム・ウィルソン』は「分身の問題」を共有するとして、巻末の「解説」にも名前が出てくる。しかし、言いたいのはそういうことではない。

 確かにドリアンの最期は誰でもわかるほどにポーの主人公のなぞりだが、『ジキルとハイド』について言えば、完全に雰囲気が共通している。もちろん、そよ風に乗って吹き入る庭の花々の官能的な香に満たされ、金蓮花に陽光がきらめき、雲はつややかな絹糸のもつれた束のよう、晴れた夏空はトルコ石のようで、窓を覆うシルクのカーテンに鳥の影が幻のように落ちて「一瞬日本的な雰囲気を作り出す」(それを見たヘンリー卿は、「こうした静的な形式の芸術を通して敏捷さと動きを表現しようとしている、青白く疲れた顔をした東京の画家を思い浮かべた」と言うのだが、私にはこの「東京の画家」がどんな人たちなのか全く思い浮かばなかった!)画家のアトリエで、ヘンリー卿とバジル・ホールワードがイーゼルに乗せたままのドリアンの肖像画を眺めている描写ではじまるこの小説と、秘密を抱えた陰鬱な男たちが行き来するスティーヴンソンの中篇ではまるで違っているようだが、しかし、ハイドの悪徳が具体的にどんなものか一度も描写されないのと同じように、ドリアンの美しい顔――絵のほうの――を荒廃させてゆく悪徳も、多くはほのめかしにとどまるのだ。

 多くの若い男をドリアンは「堕落」させている。ドリアンがバジルの死体を片付けるために呼びよせるアラン・キャンベルも、「二人の友情は十八ヶ月で終わった」と言われる期間には恋人同士だったのだろう。「日ごとに生物学にのめりこんでいく」、「ある奇妙な実験に関係して名前が出ていた」といわれる彼が科学者なのは、むろん酸を使って跡形もなく死体を始末させるためだが、ワイルドがジキル博士の実験室から直接連れてきた人物だからでもある(H・G・ウェルズの『モロー博士の島』の、モローの助手モンゴメリー―の萌芽でもあろう)。

 アラン・キャンベルに言うことをきかせるために、ドリアンは紙片に何やら書いて彼をゆする。

「すまないね、アラン」彼は静かに言った。「けれどああ言われたから、こうするしかなくなってしまった。手紙はもう書いてある。これだよ。宛名が見えるだろう。君が助けてくれないなら、これを送らなければいけない。君が助けてくれないなら、これを送るよ。どうなるかはわかっているだろう」。

 これは、『ジキル博士とハイド氏』の独身者たちを脅やかしていたものでもあり、ジキルの秘密を知ってしまったラニョン博士と同じく、アランもやがて自殺を遂げることになる。エレイン・ショウォールターによれば、 R・L・スティーヴンソンもまたそのような二重生活を送っていたひとりだったのであり、彼の周囲では(ワイルドも含めて)、『ジキル博士とハイド氏』が何について書かれた話なのかは完全に了解されていたという。

 もう一つ、今回読んではっきりしたのは、この本の中でヘンリー卿は基本的に部外者だということだ。美しいナイーヴな若者をめぐる年長の男の恋の鞘当て――だが、ドリアンを愛していたのはバジルであり、ヘンリー卿のほうはせいぜい、彼をプロデュースしようとしたに過ぎない。ヘンリー卿を、ドリアンという美青年を素材に小説を描いてみようとした小説家と見なすこともできよう。しかし、彼がそのような労をわざわざとるわけもなく、すでに他人によって書かれた本を贈ると、ドリアンはすっかり魅せられて、その主人公のように振舞うことで彼の人生を芸術にしようとするのである。

 ヘンリー卿とドリアンの関係は、ドリアンと女優シビル・ヴェインの関係として反復されている。場末の芝居小屋で、シビルはポーシャやジュリエットやコーディリアになるが、けっして彼女自身にはならないものとしてドリアンを魅了する。彼は、シビルと結婚して彼女に女優としての名声を与えることを夢見るが、ドリアンに愛されたシビルは、現実の恋を知って拙劣な演技しかできなくなってしまう。

今夜、私は生まれて初めて、いつも演じてきたお芝居がからっぽで、偽もので、ばかばかしくて、空虚だってことがわかったの。今夜はじめて私、ロミオは年寄りで、醜く顔を塗りたくっているし、果樹園にさす月の光は偽ものだし、背景は悪趣味だってこと、それに私が言わなければならない台詞はわざとらしいし、私自身の言葉じゃないし、私の言いたいことじゃないってことに気づいたの。あなたが、崇高な芸術もみなただの影になってしまうようなものを教えてくれたのよ

 むろんドリアンは彼女自身でしかなくなったシビルを捨てる。彼女は自殺する。しかしシビルを、ヘンリー卿のミソジニーの標的としての「自然」(芸術に対立するものとしての)として片付けてしまうのは間違っている。ショウォールターは「美的経験」としての「同性愛の欲望」の対立物である、侮蔑の対象としての女、当時の「新しい女」の死としてシビルの自殺をとらえ、ヘンリー卿をモロー博士と一緒にして「生体解剖家であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうと」する男の一人に見立てるが、モロー博士がそういう人物ではない以上に、ヘンリー卿はそのような人物ではない。「生体解剖」とは心理分析という意味で、比喩に過ぎないし、生殖機能云々はシビルのケースと何の関係もない。ショウォールターはフェミニストとして、ヘンリー卿の(そしてワイルドの)女の登場人物への仕打ちに、自分のストーリーに組み込むのに都合のいい独断的な意味づけをしているのだ。

 しかし、そんな動機と無縁な目で見れば、シビルの運命は男の同性愛に対立するものではなく、たんにドリアンの運命を予告するものである。『ジキル博士とハイド氏』には無く『ドリアン・グレイの肖像』にあるのは、美と男の同性愛と芸術の三位一体だ。この中にあって、上に引用したシビルの語りには、芸術と無縁であるどころか、芸術を享受するのに不可欠な「心」がある。作り物の恋を本物と思い込んでいたからこそ、シビルは現実の恋に出会った時、見誤ることがなかった。心がそれに見あう言葉を得て表現するのではない。言葉によって「心」は生じるのだ。

「本当の殺人を犯した人物を知ってみたいものだ」というヘンリー卿の言葉にドリアンは気絶しそうになる。結局のところ、ヘンリー卿はドリアンの理解者ではなかったのだ。「ハリー、もし僕がバジルを殺したと言ったらどうする?」そう言っても、ヘンリー卿は「ドリアン、君は自分に似合わない役を気取っているんだと言うよ」と答える。どこまでも演技者としてのドリアンしか彼には見えないし認めない。犯罪は下層階級だけのものだとヘンリー卿は言う。「彼らにとっての犯罪は、僕らにとっての芸術のようなものじゃないかと思う。普通でない感覚を得るための方法というだけさ」(←乱歩的!)

 岩波文庫の西村孝次訳その他ではタイトルが『ドリアン・グレイの画像』(原題はThe Picture of Dorian Gray)だったのに気づいて思わず笑ってしまう(「画」が本字であればまだしも)。もとはそれでよかったのだろう。しかし今では、もう、ケータイにドリアンの画像が入っているとしか思えない。昔出た全集では『ドリアン・グレイの絵姿』と改題されており、確か西村孝次は、小林秀雄に画像なんて訳語はだめだと言われて変えたとどこかに書いていた。
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by kaoruSZ | 2011-09-22 19:42 | 文学 | Comments(0)