おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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@mitoko_dij: どんなに暴力的なコンテンツを消費していようと構わないと思う。ただ、そこに自分(や、自分が保護すべき存在?)が描写されているということに恐怖するひとの声は「聞くべき」だと思う。その恐怖は一笑に付していいものではない。「楽しんで何が悪い?」は、そういう人達に向けて返す言葉ではない。: posted at 22:41:02

@amezaiku: RT>この辺の問題は私はもう「消費するのも、それを批判するのも、批判を笑うのも、笑うのを批判するのも、それを更に批判するのも全部大々的にそれぞれが同じ土台でやるべき」ってのに落ち着いた。だって現状は私みたいなのは「批判される、笑うな」以外の選択肢は与えられていないから。

posted at 22:41:18

@amezaiku: 私もちょっと前まで「批判には皆が皆真摯に答えるべき」とか思っていて、その理由が「それを唱えていけば自分のこの苦痛の訴えを受け入れてもらえるから」ってのだったんだけど、実際はそうじゃないんだよね。何故なら「批判する・批判を笑う・笑って許される」が与えられているのは男のみ

posted at 22:41:34


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上のRTを発端にまたろくでもないものを複数目撃してしまいはらわたが煮えた件について。とりあえず@mitoko_dijは“被害者様”に気を使う前にそういう貞淑ぶった自己アピールがあなたと同じ「女」として分類されてしまう多くの女性に対する理不尽な抑圧への加担であることくらい自覚しろ。

もう何度も言っているが、表現やセクシュアリティについての問題を現実の絶対的に非対称な“男女”の権力関係を無視して抽象的な「加害性」だの「暴力」だの「責任」だのという罪悪感を煽る単語を無批判に使うな。ぶっちゃけ「女も反省しましょう」という悪質な妄言に加担するなよ馬鹿が。

前にも書いたがこういう実に“貞淑”で頭の足りない輩が漠然と抱いている“罪悪感”とやらは、制度的なヘテロ男性のメンタリティから派生する性欲=対象の搾取=暴力という図式を鵜呑みにしているにすぎない。http://kaorusz.exblog.jp/18345164/ http://kaorusz.exblog.jp/17808135/ http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2

だいたい男の性的ファンタジーが女性に対して暴力になりうるのは、それが単なるファンタジーではなく現実に権力を持つからで、だから男は生身の女性に対して「お前は俺の幻想する女より劣っている。俺の幻想の女を見習え。それが出来ないお前に価値など無い」という圧力=権力を日々行使できる。

で、こうした男と女の権力関係の絶対的な「上下」の図式の“逆バージョン”なんて存在するわけがないことくらい猿にでもわからなければ困る。いつ男が“女の幻想した男イメージ”を内面化して自己卑下することが“当然の現実”として男を抑圧したか?「女に本物の男は描けない」としか思われてないよ。

セクシャリティ関連に限った話ではないが、男は「俺が不愉快だ」と思うことを“女ごときに”言われたところで、その場で恫喝して黙らせることくらい造作も無い。「女の分際で俺が不愉快な男を描きおって」と怒鳴れば大抵の女の子は萎縮して謝るよ。貴方はヘテロだろうとゲイだろうと権力者なんだから。

で、それを後でツイッターとかで「女に/腐女子にセクハラされた」とか鬼の首でも取ったように吹聴して回れば「そんな女と一緒だと思われたらどうしよう」と気を回した貞淑な女共が「女が男性に暴力を振るうのだってよくないと思う。私はそんなことしません!」と率先して内部粛清に走ってくれるしね。

逆に、“女ごときの戯言”が男性様方の間にこれほどの恐慌を引き起こさせるような支配力を持つとお思いですかね?「女に睨まれたらもう同性の間にも居場所が無くなっちゃう!どうしよう!」みたいなことになるんですか?馬鹿馬鹿しいにも程がありますね。男の発言こそが“権力者のご託宣”なんですよ。

要は「俺が特定の女に俺が不愉快なことを言われたから」といって、「女だって男を差別できるんだ!セクハラだ!反省しろ!」とまくし立てるような男は、ゲイでもヘテロでも女を罵倒する口実を得てはしゃいでいるミソジニストにすぎないのであって、こうした男におもねって“対話”するのは有害である。

余談になるが、私自身の個人的な趣味が「一般には“同性愛者”と分類されるような事実の無いまま生涯を送った男性作家(ホフマンとかトールキンとかブラム・ストーカーのドラキュラとか)」が書いた耽美的でホモセクシャルな小説の愛読なのもあって、「現実のゲイ」と「BL」という図式は感じが悪い。

私の好きになった作品には皆「男の描いた美しい男や男同士の関係」が出てきていた。それを女性が描いてはいけない如何なる理由もありはしないと思う。“男同士”という表象をめぐる文化的なファンタジーは“ゲイ”のものではなくそれを愛好する人全てに開かれたものであり、所有者など存在しないのだ。
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by kaoruSZ | 2012-05-25 18:41 | 批評 | Comments(0)
俗に「知的なもの」と「性的なもの」は別なものだと思われており、前者を高級で後者を低級なものとして扱うのが当然視されている。こうした前提を「当然のもの」として振舞う主体の性的ファンタジーはどういう代物であろうか?言うまでもないが、通俗で下品なものにしかならない。

「知的なもの」との結びつきを欠いた性的ファンタジーは、当然の結果として洗練を欠き、性を知的な考察の対象としえない知性は、性を不合理なものとして恐れると同時に、そもそも知の対象とするに値しない「下等なもの」と見なすことでそれを合理化するだろう。

言うまでもなく、こうした「性的なもの」と「知的なもの」を相容れないものと見なすメンタリティは、制度的な男性のヘテロセクシュアリティそのものであり、彼らにとって「性的なもの」とは当然対象としての“女”を意味する。

彼らの性に対する恐れと、その合理化としての侮蔑とは、そのまま現実の女性へと投影される。だからこそ彼らは「男とは当然のものである自然な本能として女に欲情するものであり、女とは男に欲情されるために存在する、本質的に性的であり受動的な存在なのだ」と確信し、その前提を相互に共有する。

彼らにとっては、そうした“女”に対する侮りと恐れの入り混じった嫌悪と、それと切り離せない劣情とを共有する者こそが“男”なのである。そしてその一方、「知的なもの」は本質的にパブリックな性としての男性に属するものとされ、女はそこに入るためには「名誉男性」として認められねばならない。

当然ながら、「男並みに知的なことが考えられている」と見なされうるか否かの決定権は男の側にある。そこで「所詮は感情的で不合理な女の浅知恵」とされてしまえばそれでお終いなわけだ。だからこそ男並みの承認を求める女ほど「男から論理的だと思ってもらえる話題や発言の作法」に過敏になる。

「男は論理的だが女は感情的だ」という通俗的な見解は、こうした最初から不公正極まりない茶番じみた線引きによって成り立っている。だが、自らに課した抑圧によって生み出された「抑圧されたもの」に絶えず脅かされ、それを否認し続けるために女に抑圧を転嫁する男のヘテロセクシュアリティこそ、不合理極まりない非理性的な代物であると言わねばなるまい。

つまり「男並みに論理的である」とは「男並みに性的なものと知的なものを分離できている」の意であり、本来不可分であるはずのものを相容れないものと見なし続けるという神経症的な強迫観念を模倣することでしかありえない。
しかも、この欺瞞的な前提を受け入れて「努力」したとしても、女が真に「男並みに」なることは決してできず、男の出来損ないに甘んじるか、悪くすれば自らの心身を破綻させることにしかならない。

なぜなら、男には対象としての“女”に「性的なもの」を外在化して担保させることで精神の安寧とホメオスタシスを保つことが許され奨励されているのに対し、男並みであろうとする女にはそんな手段など存在するはずもないからだ。女にとっての“女”は存在しない。

つまり男並みであろうとする女とは、本来男にとっては「性的」対象に過ぎないとされる自らを「知的」な存在として認めさせるための努力を強いられ、そのためには男のように外在化することなど出来ない自らの「性的なもの」を抱え込んだまま抑圧するしかなく、予めハンデを背負わされているのである。

このように、制度的な男のヘテロセクシュアリティとは支配的な世界観そのものであり、あらゆる価値を序列する体系そのものである。それは知性や普遍性と見なされるもの全てを独占する“全体”であり、それを補完する“部分”として“女”を規定するものだ。断じて「自然な女への性欲」などではない。

したり顔で抽象的な論理を弄ぶ取り澄ました顔の裏で、制度的な男のヘテロセクシュアリティは自らの性的対象たる“女”を苛烈に憎悪するものである。空疎な上澄みとしての知性こそを自らのものとして誇る男にとって、“女”とは自らのものとしては決して認められない穢れて淀んだ澱である。

だが自らが性的に魅惑された対象をそれ故にこそ憎悪し、絶えず蔑む必要に駆られているのは制度的なヘテロ男性のメンタリティのみであるのは言うまでも無い。彼ら以外の人々にとって、自らが対象に魅惑されることは純粋に愛することであり、自らがその対象のようでありたいと感じることと等価である。

私は彼であり、彼は私であり、私は彼を愛する。エロティックな表象を享受するとは、本来ただそれだけで完結したナルシシズムであり、アモラルで無垢なものである。ただ男のヘテロセクシズムだけが「彼女は自分ではない。だが彼女は自分のものである」と言い続ける抑圧的な自己欺瞞であるに過ぎない。

制度的な男のヘテロセクシュアリティが忌避する「性的なもの」の本質とは何であろうか?性的なものとは、五感を通して体に触れられる感覚から生じるものであり、官能的なもの、受動性そのものである。美は官能の内に宿るものであり、それは芸術の源である。(未定稿)
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by kaoruSZ | 2012-05-25 18:35 | 批評 | Comments(0)