おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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tatarskiyの部屋(5)

もう一ヵ月半ほど前のことだが、ツイッター上で長野ハル氏が主催する「左翼BL」に関する話題でTLが炎上した件で、それをきっかけに自分で発言した一連のツイートをまとめてみた。それまでの経緯は下記のURLのトゥギャッター及びふてねこ氏や私のツイログを参照してもらいたい。トゥギャッターの方はほとんど発言の取捨選択がなされていないこともあって、発端について以外を把握するにはお勧めできないが。

左翼BL論争togetter
http://togetter.com/li/301060

ふてねこ氏のツイログの該当箇所
http://twilog.org/futeneco/date-120508
http://twilog.org/futeneco/date-120509
http://twilog.org/futeneco/date-120510

私のツイログの該当箇所
http://twilog.org/tatarskiy1/date-120509

そういうつもりで書き出したことではないが、結果的には私がツイッターを始めてからこれまでに書き溜めてきたことの決算になっているので、何か気になることがある人は、これを参照して各自が思うところに役立ててもらえればと思う。個人的には、女性の性的ファンタジーの自由と権利に関して私が言うべき基本的なことは、すべてこの文章の中に尽くしたと感じている。

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所謂BLに関するあらゆる不当な中傷についての当然の反論。あるいは真に女性が要求すべき自由とその権利について

言わずもがな、昨日からTLを異常に加速していた一件についてですが、実は個人的にあまりにも嫌なことを思い出す話だったのもあり、主だったツイートを収集しながら見てはいたものの、何か言う気にもなれずにいたのですが、これ以上黙っているのが我慢ならない部分があるので失礼します。

わたる氏や北守氏への主だった批判には今更私が付け加えることなどない。BLや同性愛への偏見、および女性の性的ファンタジーへの無理解がなければおよそ出てこない態度と発言だったにすぎない。前にも書いたが、彼らのような人は異性愛男性モデルの性欲=暴力という図式を発想の基本にしているため、「暴力などではない性欲やファンタジー」が存在しうること自体にリアリティが持てず、彼らにとってセクシュアリティとは「穢れ」や「罪」のことでしかない。中にはその負い目からの反動によって「罪を自覚できている自分は素晴らしい」と思い上がり、それを他者にも布教しようとする者もいる。

こうした構図とそこから派生する問題についてはもう何度も書いてきた。http://twilog.org/tatarskiy1/date-120427 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120428 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120105 http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120205 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120206
で、非常に気が重いのだが本題に入ろう。私が言わずに済ませられないと思ったのは、そんな自明の差別についてではなく、「BL表現」一般についての偏見に基づく不当な言いがかりの問題と、長野氏を主とした「左翼BL」という同人活動については別の問題であり、私は後者を支持する気にはなれないからだ。

なぜかと言うのはかなり面倒な話になるが、まずは下のRTにもあるご本人のブログを見てみようhttp://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20120508/1336495908 これを一読すれば自明だが、彼女は「左翼BL」とは「フェミニズムや労働問題についての政治的な実践」と「自分の女としてのセクシャリティの葛藤」を結ぶ活動で、それは現実の生活の中の問題意識と結びついた“女性の実感”と性的ファンタジーの表現を融合することだと考えているようだ。そしてそれを通して「女性以外の労働者やマイノリティとの融和」がありうるとも。“綴方教室”のBL版のようなコンセプトなのだろうが、私はまったく支持する気になれない。

それによって得られる承認とは、「女性が自分の性的ファンタジーとして男性同性愛の表象を愛好し、かつそれを表現すること」は「使い方によっては“正しい”政治的目的に奉仕できるから」というものでしかなく、女性が男性同性愛の表現に惹かれること自体も「女性の女性としての葛藤の昇華に役立つから」か、「ゲイなどの性的マイノリティへの理解を広め、かつ彼らの“腐女子”への悪印象を払拭できるかもしれないから」という、どこまでもその母体となる“正しさ”(ここでは“左翼”やマイノリティ運動やフェミニズム)に従属したものでしかなくなる。それは女性の一個人としての自由とは相反するものだ。

私は自分自身も不可避に含まれる女性たちが、男性同性愛の表象に惹かれる「女ならではの」理由を詮索されたり語らされたりすること自体が極めて不愉快だし、そうした需要に応える形で流通することになる“理由”の大半は、男性のホモフォビアの不問と女性のステレオタイプへの押し込めに終始するものだ。

それはたとえ“フェミ的に支持されうる”内容のものであっても同じである。「同情に値する女性の境遇/実感」なるものは、常に現実の権力関係の中における「作られた語り」であり、「これこそが“女”と信じられるべきである」という、個々の女性を抑圧する虚像を生み出すのだ。

何が言いたいのかといえば、あの長野氏のブログでのBL表現に惹かれる理由を“女の境遇と実感”に還元してフェミ的な支持を取り付けようとしたり、“マイノリティへの理解”を広める啓蒙的ポジションをアピールしたりは、それ自体が「正しい腐女子のステレオタイプ」としての振る舞いだったということだ。

「こうすれば許される」というポジションの提示は、「こうしなければ許されない」という冷酷な線引きの裏表である。女性やセクシュアリティの話に限らない問題だが、真に必要なのは、こうした線引きを当然のものとして行なう“権力”そのものへの批判である。弱者とは線を引かれる者のことなのだから。

女性の性的ファンタジーとその表現の自由を守るために必要なことは、彼女の境遇や内面についての説明などではなく、現実を規定する権力的な制度である男性のヘテロセクシュアリティの仕組みの解明による非自然化と、男性のヘテロセクシズムの補完物ではない女性の一個人としての自由の保障に尽きる。

長野氏が、そうした自分以外の女性の性的ファンタジーを持つ権利が、政治的正しさ(規範に対する“貞淑さ”)と無関係に保障されるような取り組みをきちんと行なった上で個人の実感を語り、また「左翼BL」を創作していたなら、私は何も問題に思わなかったであろうし、逆に一般的な商業BLにおけるリーマンもの等と同じ様な単なる職業フェティシズムに基づく娯楽創作として描かれたものであったなら、これもまた何も問題に思わなかっただろう。言うまでもないが、「BLにしてはいけない題材」などあるわけがない。

だがご本人のブログやツイッター上の言動や、描かれた作品のサンプルを見てみれば、それは明らかに「政治的正しさの実践とアピール」として描かれたものだ。取り上げること自体に政治的なよき価値があるとみなされる題材を扱っていることに重きがあり、読者はあらかじめそれを了解している必要がある。

また失礼ながら、そうした“作者の意図”を共有せず政治的共感を持たない読者にとって、魅力的な表現として受容されうるだけの完成度などまったく感じられないものだった。つまり政治的に正しい意図という註釈=エクスキューズ無しには読めたものではなく、自立した表現にはなりえていない。

当然ながらこれが好きなアニメや漫画の二次創作であったなら、完成度云々は単に大きなお世話であろう。また描かれた当時は強くイデオロギーを帯びていたであろう多くの宗教絵画の傑作のように、優れた作品であればそれを描かせたドグマの権威が比べ物にならぬ程失われた後も傑作であり続けられる。

だがあの「左翼BL」の評価を支えているものは、はっきり言えばローカルかつお粗末な政治的正しさにすぎず、表現としての普遍性を持たないものだと判断せざるをえない。表現の普遍性とは快楽と言いかえてもよいが、娯楽であることか、芸術であることか、そのどちらかであることが出来ているものだ。

同性愛表象を例にとれば、過去に男性の作者による男性同性愛を表象した傑作は枚挙に暇がない程だし、現代の女性作者によるBL表現も、多くの人に通じる性的ファンタジーを提供する娯楽となりえている。

こうした表現の強度を支えているものは、その本質として必然的にアモラルなものである受動性の夢=愛される/犯されるファンタジーであり、間違っても移ろいやすい通俗なモラルなどではない。女性が芸術家になれないとされてきたのは、彼女が妻や母や修道女としてモラルにかしずく存在だったからだ。

娯楽であり、芸術であり、快楽であるものを楽しみ創造する権利。それこそが女性が要求すべきものであり、通俗なモラルからお墨付きをいただくことではない。前者である「BL表現の自由」を擁護することと、後者であると判断せざるを得ない「左翼BL」を持ち上げることは、残念ながら相反している。

ここからは半ば余談だが、実を言えば徹夜でこれだけの文章を打ち込まずにおれない程の不快さの原因というのは、TLが祭り状態だった二日間の長野氏本人の態度と、絡みに来た相手が北守氏だったことが一番大きい。お二方とも以前は所謂はてな民でいらっしゃいましたよね。と言えばピンと来ますかね?

まず、いかに相手がひどかったにせよ、長野氏の他人事のような静観ぶりが解せなかった。また私がRTしたものを見てもわかるように、わたる氏や北守氏と直接やりあっていた人たちが主張していたのはあくまでホモフォビアへの非難と表現の自由の主張という基本的なもので、「左翼BL」は実は無関係だ。

そして長野氏はひたすら「こんなにいい心がけのつもりでいいことをしていて、認めてくれる人もいるのに非難された私」というナルシシズムを弄びながら周囲から慰められていたとしか見えなかったし、本来なら彼女が引き受けるのが筋だった正面の戦いを肩代わりしていた和紙子さんが正直気の毒だった。

言っておくが、私がそう感じたことは和紙子さんご本人がどう思われているかとは関係ない。そして私は北守氏に和紙子さんが言っていたことには一切反対する理由は無いが、長野氏の態度と彼女の「左翼BL」については全く評価できないと思うまでだ。

私は長野氏自身が、BL表現一般についての偏見を非難した上で、それとは別に自分の創作物としての「左翼BL」の位置づけを宣言するべきだったと思う。だがそれが無かったがために周囲の人が全ての対処を肩代わりすることになり、彼女はBL表現一般への擁護に紛れる形で守られることができた訳だ。

“戦略”としてはお上手かもしれませんが、はっきり言って日頃大義ある政治的正しさについて論じる立場にあるお方にふさわしい態度とは思えませんね。私が思うに、彼女の“政治的正しさ”という着ぐるみの内側には自己憐憫があるだけなので、一個人としての自分の正統性など主張できないのだ。

彼女がなぜ未だにそんな情けない風であるのかだが、彼女自身の性格やリアルの環境のせいだけとも思えない。個人的な観察だが、むしろ数年前のはてなダイアリーでBL論議めいたことをやっていた人たちに共通の傾向のように思うのだ。今でもその人たちをツイッター上でみかけると大体どうしようもない。

「腐女子という“ただの女”が性的マイノリティ様に配慮するにはどうしたらいいか」「フェミ的にも評価できるBLとはどういうものか」「ゲイ男性に怒られたけど謝ったらちゃんとわかりあえてよかった」今でも目にする女を蔑んだ茶番じみた設問の数々が毎日のようにホットエントリとやらになっていた。

北守氏の名前もその頃に初めて見かけたものだが、常に絶対に自分が正しさの側にいることを確認するために、誰にも反対できないことを好んで主張する人という印象だった。だが私が呆れたのは、表現規制問題に関連したこちらのエントリーを見た時だ。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090611/p1
上のエントリーを見てもらえれば分かるように、北守氏にとって性表現とは“暴力”であり、黒人差別と同じであるらしい。話題になっているのは男性向けのエロゲーだが、最初に言ったように、この手の“罪の意識”で凝り固まっている人はそれ以外の発想が持てないので女性による表現にも当然不寛容だ。

繰り返しになるが、問題は愛される/犯されるというナルシスティックなファンタジーを自分のものとしては決して認めずに「女の願望であり本質」として他者化せずにはいられないヘテロ男性のメンタリティであり、「女に対する暴力だから罪であり、それを自覚できる自分は偉い」というのは二重の勘違いだ。

北守氏のような人――あらゆる差別とされる事象(人種・民族・障碍の有無など)について「差別などしない正しい立場」であることに拘り、それをプライドの源泉にしているヘテロセクシュアルの男性――にとっては、自らの女へのセクシュアリティそのものがセルフイメージにおける“致命的な汚点”であり、彼はそれを挽回しようとして「自分のように罪を自覚できていない」他の男性や、「男のように罪を犯し加害者となった女」を正義に基づいて糾弾してやまないのだ。彼の望みは「相手が自分のように“反省”すること」であり、他者が抱える個別の事情も男女の非対称も知ったことではないのだろう。

だがこうした「他者に対する想像力の欠如」こそが典型的なヘテロ男の悪癖だ。彼は自分のことを「意識が高い」つもりでいるようだが、実はブランドものとして登録された「権威あるマイノリティ」を気遣う自分に酔っているだけで、個別の他者をその人として思いやる能力を実は全く欠いているのだ。

私が北守氏の名前を覚えていたのもそうした傾向が抜きん出て強い人だったからだが、あの頃のはてなでは、彼のような主として天下国家を語りつつ“性的マイノリティの人権”にも意識があることを示す男たちと、“腐女子”と性的マイノリティ様に二股をかけつつ女を善導しようとする男たちの両方がいて、肩書きの無い“ただの女=腐女子”たちは、そうした“名誉ある男たち”からも“性的マイノリティ様”からも“フェミニスト”からも監視を受けながら、上目づかいで懸命に「私たちがBLを必要とする可哀相な理由」や「正しいBLの可能性」について理解を求めていた。今思い出しても反吐の出る光景だ。

あのキーワードとブクマに繋ぎあわせられた隣組じみた相互監視システムのムラ社会の中で、“名誉を持たぬ賤民”として蔑まれた側が、「自分も名誉がほしい」と考えずにいられなくなるのは当然の成り行きだろう。だから進んでフェミニストを名乗り、「BL好きはフェミと一致する」とアピールする。

そして彼女がBLを好きな理由の中に“フェミと一致しない”ものがあればそれは抑圧される。彼女が公表した「みんなが認めてくれそうな正しいBL語り」は、偽善的な予定調和の中で受け入れられ「ああいう風に語れば責められないで認めてもらえる」という前例となり、後は模倣が模倣を生み続けるのだ。

あの日本的世間の醜悪なパロディの中で“フェミ”という単語が意味していたものは、まさに“貞節”そのものだった。女たちは“フェミ的でない”と見なされることを何よりも恐れ、権威ある男たちとある種の名誉男性である“性的マイノリティ様”からの承認を何よりも欲し、彼女らにとって名誉を持たぬ“ただの女”としての自分自身も含めた同性と、彼女が持つ通俗モラルに従わない自由な性的ファンタジーの存在とは「一切の価値を持たず、そこに落とされたら終わりであるにすぎず、絶対に同じだと思われてはならないもの」だったのだ。これはミソジニー以外の何者でもない。

つまりは“正しくない同性”との差別化のための“フェミニスト”という肩書きへの固執自体が、実は紛れもない“ミソジニスト”の証しだったのだから皮肉という他ない話である。そしていったんその肩書きと“正しく許されるポジション”を手にすれば、当然ながらそれに縛られ続けるしかなくなる訳だ。

そうやって“政治的に正しい理由づけ”の内面化で自分を鎧うことは、そこから外れた“それ以外の自分”を自分で肯定する力を失うことだ。だからいったん政治的な正しさの鎧を剥ぎ取られてしまえば、自己憐憫に浸るしか術のない無力な姿の他には何も残らない。彼女自身の自尊心は剥奪されているからだ。

だがそもそもBLを好きな女性が「私は私である」という根源的な自己肯定の機会を剥奪されているのは、彼女のパーソナルな感受性の基礎とも言える性的ファンタジーの自由を認めず、検閲と処罰を当然のものとする通俗なモラルとヘテロセクシズムの共犯的権力によるものであり、これは人権侵害なのだ。

たぶん、私がさんざん目にしてきたあのリベラル気取りの俗物たちはこう言うだろう「そんなことは現実の具体的な女性差別や他のマイノリティの皆さんの“本物の苦労”に比べれば大したことではない」「そう言うならヘテロ男性向けの性的ファンタジーやポルノ表現も無条件に肯定して我慢するんだな」と。

こうしたヤクザじみた脅し文句をちらつかされることでどれほど多くの女性が黙らされてきたかを考えるだけで腹立たしいが、はっきり言おう「何で権力の手先にすぎぬお前ごときに、この私への不当な抑圧を我慢するよう命じられねばならないのだ。何でお前が“正式なマイノリティ”として認可下さった者以外には反抗する権利すらないと思えるのか。女の“本物の苦労”と“我慢すべき瑣末事”とを高みに立って線引きしてこれる高慢さに根拠があるなら言ってみろ。100年前なら今の“立派なフェミニズムの問題”なぞ全て“女のわがまま”だ」と。

そしてこうした強権的で高圧的な物言いをする者たちが、ヘテロ男性の性的ファンタジーの制度的な仕組みや問題点を把握していた例など皆無である。実のところ彼らは「女を処罰したい欲望」に満ち溢れたミソジニストの男と「女は清くなければ守って貰えない」と思い込んだ貞淑な女との呉越同舟である。

この点については何度も述べているのでログを貼っておく。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2 繰り返すが、受動性のファンタジーをただ自らの快楽として享受しうる者にとって性は罪ではありえない。制度的なヘテロ男性のメンタリティの問題は、“暴力”ではなく自己欺瞞にこそ起因している。

“女”とは、男が自らのために生み出した“男にあってはならぬもの”の集合としての幻影である。そして現実の個々の女性は、この男が生み出した“女”を内面化し同一化することを求められ続ける他者であるのだ。男女の根源的な非対称の図式とはこのようなものであり、当然この図式の逆は存在しない。

そもそも、性表現と“そうでない表現”という区別自体、まことに奇妙なものであり、検閲ならざる批評の次元においては意味をなさないものだ。「何が性的か」を決定する基準とはそれ自体が恣意的な権力の行使である。そして結論から言えば「性的でないもの」など実は存在しない。

以前にも書いたが、http://kaorusz.exblog.jp/18345164/男性のヘテロセクシズムの制度的な効用とは、まず第一に“性的なもの”を全て女性の属性として負わせ、しかる後に彼女を公共領域から排除することで、性などという“不合理なもの”から自らを防衛することだ。

「女が性的であるのは当然だが、男(同士)は断じてそうあってはならない」からこそ、ヘテロ男性向けの性表現は“描写の過激さ”という相対的な尺度でしか問題視されないのだし、BLはたとえ狭義のポルノに該当しない場合でも、女ではなく男(同士)を性的に描いた時点で“公序良俗”に反しているのだ。

だが、これはあくまでも権力=検閲者にとっての意味づけであり、個々の表現者の意図とは無関係だ。そして多くのBLの作者は単に自分にとって魅力的なモチーフとして男同士の関係の表現を選んでいるだけであり、「“対抗的な表現”だから許そう」という上から目線の物言いは実は検閲者と変わらない。

こうした物言い自体、表現に対して“社会批評”以外の効用を認めない審美眼の欠如と杓子定規なモラリズムの露呈だろう。こうしたお説が正しいとするなら、同性愛の表現が評価されるためには永久に社会がホモフォビックでなければならないことになる。言うまでもないがそんな馬鹿な話は成り立たない。

つまり「役に立つ/正しい表現であれば認めるべき」という発想そのものが「役に立たない純粋な快楽としての表現」への罪悪視に基づくピューリタン的な発想であり、(特に)女性が、(特に)男性同性愛の表象を彼女にとっての快楽として享受することそのものを純粋に擁護するつもりなどないのだ。

権力の源泉とは、その社会における正統性の根拠を独占する支配的なイデオロギーであり続けることにある。中世のキリスト教やかつての社会主義国家における社会主義を思い浮かべれば理解しやすいだろう。つまり権力を批判するとは、疑うことを許されない“当然の正しさ”に異を唱えることそのものだ。

構造的な必然として、「最も批判されるべき有害な表現」とは「最も正しく疑ってはならないとされるイデオロギーの反映」である。誰もが「あれはひどいね」と頷き合ってくれるようなわかりやすい悪などでは決してない。批判とは根拠の無さの指摘であり、「別の当然の正しさ」をぶつけることではありえない。

“女性による表現”を例にとるなら、真に問題とされるべきは、イデオロギーが要求する“正しく当然な女性像”を「女として女らしく」再生産することであり、「女ごときに本物が描けるはずのない」彼女の理想の男性イメージの表現に対してではあるまい。BLと違って母性崇拝は圧倒的かつ具体的に有害だ。

「“女”であることを受け入れた女」として振る舞うことこそ女性が要求され続けてきたことであり、女性が創作をする際はそうした“女”を描くことのみが世俗のヘテロセクシズムとモラルの期待に沿うことだった。だから彼女が彼女自身の快楽として“男同士”の表現を選ぶことは、いわば二重の逸脱なのだ。

そして逸脱と自由の余地の無いところには、真の尊厳もまた宿らないだろう。女性にとって必要なのは、その逸脱を“正しさ”として弁護してくれる別の権威ではなく、自己の人格と不可分なセクシュアリティそのものを肯定できる一個の人間としての自尊心である。

私もまた現実には力の無い一人の女に過ぎないが、これまでに私の書いてきたことが、たとえ見知らぬ誰かであれ、その人の自己肯定の一助になり得るのであればこの上なく幸いである。今より少しでも多くの女性が、自由にファンタジーを享受し、自由に思考することができるようになることを願っている。
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by kaoruSZ | 2012-06-30 15:22 | 批評 | Comments(0)