おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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この件の前段についてはこちらを参照。

ある若い“腐女子”への手紙

はじめまして。先ずは返信を下さったこと自体に対しては御礼申し上げます。

本題に入らせていただく前に確認しておかねばならないことが色々あるのですが、例の大河ドラマについての文章以前に私の表裏両方のアカウント(両方ともプロフィールからツイログが見られます)を見たことがあれば、私がこれまで何について発言してきたかはおわかりになることと思います。

また、友人のブログには例の文章も含めて私がこれまでに書いたことをまとめたエントリーを「tatarskiyの部屋」というタイトルでいくつも掲載してもらっています。http://kaorusz.exblog.jp/
それらをご覧になればわかることですが、私は一貫して女性の性的ファンタジーに対する通俗な偏見と蔑視、及びその原因そのものである、この社会を支配する権力的な制度としての男性のヘテロセクシズムとホモフォビアへの批判を行なってきました。

そしてその中でも必然的に最も主だった話題は、男性同性愛の表象を愛好する女性が“腐女子”として“正常な女”からは分離したものとして扱われ、「女としてふさわしいあるべきセクシュアリティから逸脱した異常な存在」と見なされつつ、それに対する善意の“処方箋”として「ちゃんと“女としての自分”を受け入れられればまっとうな女として現実の男と関係できるようになる」だの「男同士の表象なんかに逃避せずにちゃんと“女性としての生き辛さ”を受け入れてフェミニズムに目覚めれば“成長”できる」だのという不当な中傷を受けることに対する抗議でした。
それもそうしたことをweb上で書くようになった直接的なきっかけは「腐女子がBLとして男性同性愛の表現を“消費”するのは、ヘテロ男性が女性に対して行なってきたのと同様の“搾取”であり、道徳的に糾弾されて当然の過ちだ」というゲイ男性による噴飯もののミソジニーに基づく暴論(それも言い出したのは立派な肩書きのあるアクティビストやクィア研究者です)から派生した、いくつもの不当な言いがかりを目撃したことでした。
本当に私が試みなければ誰も正面から反論しようとしなかったからです。

今でもそうですが、私は私以外に抗議すべき物事に対して抗議する人が存在し、それによって十分な効果を発揮していると判断できる状況であるならば、あえて自分からそうした物事に対して発言したいとは思いませんし、むしろ自分自身の性格としては本質的にはまったく不向きであると思っています。だからどれほど苛烈で自信ありげにみえる文章で抗議しているように見えても、内心では億劫で仕方がないほどですし、どう転んでも抗議した対象やその関係者からの恨みを買うのは避けがたい以上、なぜ私ばかりがそうした損な(時には“損”では済まないこともありました)役回りを引き受けねばならないのかと呪わしい気持ちを抑えがたいこともままあります。

あの大河ドラマについての文章も、完全にそうした必要やむをえざる取り組みの一環であったのですが、たまたま話題がそれまで私が関わっていたそれらよりもメジャーであり、その結果として貴方の目に留まることにもなったわけです。

そして、これが一番大きなことかもしれないのですが、何よりも私がこれまで書いたどの文章の中でも、自分のことを“腐女子”だとは名乗っておらず、そうした自己規定そのものを一切していないことの意味を認識していただきたいのです。
個人的な嗜好について言うのであれば、言うまでもなく私も男性同性愛の表象を愛好する女性の一人ですが、私が抗議し続けていることの本質として、それが私を有徴化される必要の無い“正常な普通の女性”から隔てられるべき“特殊な性癖”の持ち主として規定される特性を意味するという、極めて差別的な社会的前提そのものを受け入れるわけにはいかないからです。

もっと簡単に言えば「腐女子じゃない」ということが「私は男性同性愛の表現そのものも、そうしたイメージや関係性を明示されていないものの中に見出すようなことも好みませんし興味を持ちません」ということを意味すること、男性同性愛の表現を好むか好まないか、興味を持つか持たないかが女性に対する“踏み絵”として働いていること(他の性表現が女に対してこうした意味を持つことなどまずありえません)そのものが、女性に対してヘテロセクシャルを当然の基本とする現実の性的関係以外の「空想としてのセクシュアリティ」を本質的に認めようとせず、かつ当然のようにホモフォビックである制度的な男性のヘテロセクシズムによる抑圧の結果でしかないからです。

逆に言えば、男性同性愛のイメージを愛好する女性が“腐女子”を名乗っていることは、この社会の権力者である世間並みにホモフォビックなミソジニストとしてのヘテロ男性及び彼らの価値観を無自覚に内面化した男女にとっては、「正常な女のありようからは逸脱した“腐った”女が、その分際に相応しいレッテルを受け入れている」ことを意味し、それは彼女の性的ファンタジーや彼女の感受性と知性に基づいた発言それ自体と、実際に紛れもなく存在しているホモエロティシズムを感受することそのものを「取るに足らぬ“腐女子の妄想”」として片付けてかまわないという見下し──「どうせ腐女子だからそう思うんでしょ?」という蔑みに満ちた見解を補強してやることです。

そしてそれは同時に名乗る側の「皆様から馬鹿にされる存在であることはわきまえています。どうせ“腐って”いるのですから、何を言っても“しょうもない妄想”として大目に見てください」という差別との直面や摩擦の回避と表裏一体です。
これは完全に構造的な問題であり、「そんなつもりで名乗っているわけじゃない」という言い分が通用する次元の話ではありません。またそれは必然的に、「私のような女はそうやって馬鹿にしてくださってかまわないことを受け入れております」というメタ・メッセージを発することを意味し、男性同性愛のイメージを愛好する女性全てに対してそうした侮蔑の対象であることを“同類として”押し付けることでもあるのです。
もっとも、そうやって自虐的なレッテルの下で群れていれば、“全体”として侮蔑されることを受け入れることと引き換えに“個人”として浮き上がって叩かれる可能性からは遠ざかっていられるのでしょうが。
そして決まって「“腐的な妄想”とは別にちゃんとしたファンでもあるから」と嘯きつつ、自分が持つホモエロティシズムの魅力に対する感受性への蔑視を内面化していることを「ちゃんとわきまえている証拠」だと倒錯した己惚れと自己欺瞞を抱いているものです。

私が決して“腐女子”などと名乗ることなく、“ただの女”として一切のホモフォビアとミソジニーとヘテロセクシズムを前提とした女性に対する蔑視に抗議することは、自分自身の感受性と知性によって理解しうること、快楽であると感じられることの全てに対する不当な抑圧と──その抑圧者が何者であろうと──正面から向き合うことであり、必然的に“個人”として発言し注目され憎まれるリスクを否応なく引き受けること、その結果としてある種必然的に孤立することです。そして一度そうと決めた以上は、どれ程しんどいことがあっても投げ出すわけにはいかないことです。それでも友人の支えが無ければとっくに心が折れていたでしょうが。

そしてここからが本題なのですが、つまりは貴方と私では最初から“覚悟”の程がまったく違っていたこと、それ故に発言しうることの内容も、発言する際の前提として引き受けていたリスクそのものも、およそ比較にならないものであったことをまずは認識していただきたいのです。

失礼ながら貴方はおそらくさしたる抵抗感も無く“腐女子”と名乗りながらツイッター上で“公式”と無批判に戯れる無邪気なファンの一人として振る舞っておられたに過ぎず、そういう貴方がはっきりとした批判的意図を持ってあのドラマを批評した私の文章に対して、否定的ではない興味を持ったこと自体がある種のダブルスタンダードですし、その上「完全に同意できるわけではないけど」などという留保をつけたコメントをこれまた無邪気にしてくださった日には呆れるほかにありませんでした。
あの友人のRTとコメントはそれを見た私の精神的な苦痛と嘆きようを愚痴として聞いたからこそです。友人が「tatarskiyが何をやっているのかわからないからそんなことが言えるのだ」と言っていたことの意味は、ここまで読んでくださったならもうおわかりだと思いますが。

はっきり言えば、私があの文章の中でドラマの構成そのものにこれ以上ない程はっきりと浮かび上がっていた通俗なホモフォビアを指摘していたことなど、「“公式”を愛する無邪気な“腐女子”ファン」である貴方には、ツイッター上で具体的に言及することなどおよそお出来にはならないことでしょう?そして実際「同意できないのは結論じゃなくて細部なのに」とか嘯いておられただけでしたよね?なら私の“結論”と貴方が違う解釈をなさっていたらしい“細部”がどういったものであったかについて、もしお出来になるのであればそれぞれはっきり言及して下さい。
そんな“公式様”に対する批判がましいことが貴方に意識的に口にできるわけがありませんよね?
それとも今からでも「同性愛を悪や病理としてしか扱えなかった通俗なホモフォビアは残念だけど、ドラマとしては好きだし面白い」と仰って筋を通そうと思われますか?
後で詳しく述べますが、私がやったことは単に「誰かがやらねばならなかったこと」にすぎません。そしてそれをしたところで、私が得るメリットなど何一つありませんし、むしろ損失を被るばかりです。こうして貴方にツイッター上で悪口雑言を振りまかれ、メールで長文の説明に及ばねばならなくなっていること自体がいい証拠でしょう。

また私が最初にポストしたドラマ自体に対する批評の“細部”そのものが“結論”と不可分なものであり、そもそも批評において全体と照応しない細部などありえません。私が書いたあの文章は全体で作品の内と外に亘る一つの構造の指摘でしかありえないもの(同性愛や男性の女性性が悪や病理として意味づけられていたこと及びそのメタレベルの意味)です。そしてそれは私個人の好き嫌いや「自然な人それぞれの感想」などとはおよそ次元の違うものです。言っておきますが、そうしたそれぞれの感想それ自体は私も好んで収集していますし、貴方のところからも幾つか収集させていただいたことがあります。ですが何かを批評するというのはまったく違う次元の手続きが必要な話です。はっきり言えば、私が書いたものより「より精緻な批評」というのはありえても、「それぞれ平等に違う批評」などというものは成り立ちません。それは単に「どちらかが間違い」でしかありえません。

それから「直接こっちに言えばいいのに」とか言っておられましたが、そういう貴方が何について何を言われたのか最初はまるで明かしておられませんでしたよね。横から“助け舟”を出してくれたお友達の尻馬に乗っておられただけでしたよね?そしてお二人で私と友人を実に適当に悪者扱いにして悦に入っておられただけでした。あんな醜悪な真似をなさらなくても、私と友人のどちらにでも話しかけてくだされば、それがどんな内容であろうとたとえ罵詈雑言であろうと一対一でお聞きしましたが。
あの時の貴方は、それこそ“腐女子”として“分をわきまえて”群れている人の「個人としてリスクを負わず群れの一匹として仲間に頼る」という特権にぬくぬくと浴していたわけです。貴方が私のような否応なく孤立した、“公式”に対しても批判的な一個人でしかなかったら、あんな助け舟を出してくれるお仲間に恵まれたはずもありませんよね?

また別の話になりますが、私があの大河についての文章を書いたのは、ある種の予防的先制攻撃としての意味合いも大きかったのです。

というのは、あの文章の追記にも書いたことですが、要は“腐女子”への罵倒は本質的に男性同性愛に対する嫌悪感のすり替えであり、“腐女子”の人の自称自虐というのはそうしたホモフォビアを内面化した通俗な世間へのおもねりです。つまりその“自虐”は必然的にホモフォビアへの加担でもあるわけですが、当然ながらそれは女性が自身のセクシュアリティに対する自尊心を剥奪されている結果にすぎず、彼女をエンパワーメントすることなくさらに抑圧してもなんら解決しないことです。ですが呆れたことにゲイ男性(もしくはそのシンパ)の側でも権力者であるヘテロ男性との衝突の回避もしくはある種の“緩和”として「腐女子も自分たちへの差別に加担している」と言い立てたがる手合いが少なからずいます。

私はそうした手合いの妄言を相手にしたことは何度もありますし、正面から論破すれば一応はそれで済むのですが、ある意味彼ら自身より厄介なのが、そうしたこけ脅しの妄言を真に受けて「ちゃんと他の“腐女子”を批判しないと私までゲイ男性を差別してると思われる」と思い込み、ろくでもない“啓蒙”に奔る“模範的腐女子”が後を断たないことです。

そして私が危惧したのは、歴とした“肩書き”のあるゲイ男性もしくはそのシンパや何らかの“性的マイノリティ”、または“クィア研究者”が先にあの大河ドラマの内容への批判を然るべき場所で発表し、その中で直接ではなかったとしても、それに影響された連中が「あの大河での差別的な同性愛の扱いに“萌え”ていた腐女子も同罪だ」とでも言い出すことでした。
そしてそんな事態が現実になってしまえば、たちまち自称腐女子の人たちの間で近親憎悪的な“反省”合戦が始まるのは目に見えています。あるいは一切に目を瞑って“萌え”続ける人と二手に分裂して、後者が「腐女子の無反省の証し」としてヘイトスピーチの種に使われることになることも考えられますが。

それはともかく、あのドラマの中での同性愛の扱いそのものに倫理的な問題があり、それがドラマ全体のテーマや構成にまで及ぶ核心的な問題であるのは明白なのですから、そのことに対する指摘は、「必ず誰かがやらなければいけないこと」です。もっと言えば、私のやったことは、貴方がなさってもよかったはずのことに過ぎません。

tatarskiyより
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by kaoruSZ | 2012-08-29 16:55 | 批評 | Comments(1)
tatarskiyの部屋(10)「NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて」追記


例の大河についての文章で私が何を言わんとしているのかまるでわからない人が複数いるようなので追記。あの時はドラマそのものの内容についての一番コアな部分を抜き出すので精一杯だったのでそこまで手が回らなかったのもあるが、皆まで言わずともわかる人にはわかっていたのだが。

私があの文章を書いたのは、件の大河ドラマの中での同性愛(及びそれをネガとして成立しているポジとしてのホモソーシャリティの描写)の扱いとそれに対する視聴者の反応そのものが、今現在の日本社会における同性愛への欺瞞に満ちた態度の縮図だったからだし、もっと言えばこうした指摘は肩書きのある本職のクィア研究者が公式な仕事として取り組むべきことだったと思う。そういう意味では何の肩書きも所属も持たない私が個人として矢面に立ってああした文章を書かねばならなかったこと自体が非常に歯がゆいことだと思っている。

要はあの大河の内容とそれに対する“健全な視聴者”の反応が象徴しているのは「明示的同性愛は悪や病理でしかなく、しかもそうしたネガティブな描写ですら“腐女子狙い”だとされ、それと対立する“健全なホモソーシャル”からホモエロティックなものを読み取ることも“腐女子の仕業”だと言い張り、そうして男の同性愛の描写のすべてを女のせいにする(はっきり書いてみるとこんな無茶が成り立つと思える認識自体が甚だしい転倒でしかないのは明白である)ことでホモフォビアを発散することが野放しにされる一方、史実としての登場人物たちは後ろめたさなど欠片もない両刀遣いでしかなかったことは実は皆が知っている」という甚だ滑稽でグロテスクな茶番でしかない。“腐女子”呼ばわりされる女性たちもまた「自分たちのしていることは妄想としてわきまえてるから」という従順さでそれを受け入れてしまっているが。

それにしても『ハートをつなごう』とかおためごかしを並べて「性的マイノリティへの理解」を語る一方でハリウッドなら50年代レベルの倫理コードを適用した“悪の同性愛者”の描写を看板番組で流すという某国営放送のダブスタぶりには恐れ入る。要はこうした偽善こそが今時の“良識的態度”な訳だが。

つまるところが現在の日本社会そのものが、「同性愛者の人権」については一応は異を唱え難い前提として人口に膾炙させている一方、属人化されえない「表象としての同性愛」については未だ明示することをタブーとし、それを開かれた場で肯定的に語る言葉を持たないことこそが諸悪の根源なのである。そして“腐女子”呼ばわりされている女性たちは、このダブルスタンダードの狭間で「同性愛者を差別するわけにはいかないが、同性愛は気持ち悪い」という通俗な世間のホモフォビアの生け贄とされているにすぎないのだ。

真に必要なのは、種族としての同性愛者ではなく“同性愛そのもの”への普遍的な肯定であり、そうしたことを語りうるだけの個別の表現への批評のモデルの提示である。またそれは女性がそれを語ることに対する“腐女子”呼ばわりの蔑視(という偽装されたホモフォビア)への当然の批判を伴うべきものだ。

私が書いた文章もまた、微力ながらそうした取り組みに寄与するものであればと思っている。後日また加筆修正した増補版を発表するつもりでいるが、骨子だけのラフスケッチのようなものであっても、まとめて公開しておく意義はあると考えた。思うところのある人には何某かの参考になれば幸いである。

<追記の追記>思い違いをされると困るので留保をつけておくが、私は今回の大河ドラマ自体に魅力を感じることそのものが間違いであるなどと言いたいわけではまったくない。

たとえば江戸時代に作られた歌舞伎の演目は、作中の舞台が室町時代であろうと(今回の大河と同じ)院政期末の源平合戦であろうと、幕藩体制のイデオロギーであった儒教に基づいた倫理観が適用されてしまっているものであるが、今日の観客がその様式美や筋書きの面白さのみならず、当時はそれを取り入れること自体が義務でもあったろう忠義や親孝行といったモチーフに魅力を感じたとしても、何一つ問題はないだろう。それは言うまでもなく、既にそうしたイデオロギーを従うべき権威として流通させていた封建的な身分制度そのものが崩壊しているからだ。作品に残されたイデオロギー自体がもはや物語を成立させるための素材以上の意味を持たず、むしろ過去の価値観を窺い知ることのできる貴重な資料であると同時に、結局は時代と共に過ぎ去り変容してしまう通俗なイデオロギーの無常さと、それに対して時代を超えて生き残りうる芸術そのものの価値とを教えてくれるだけだ。

つまり問題は「今現在のアクチュアルな差別的イデオロギー」が、“当然の前提”として作品に無批判に反映されてしまっていることであり、それはその差別的な前提を支えている社会の多数派の意識が変化してしまえば――新たな問題が常に生まれるにせよ――問題の所在ごと忘れ去られ無害化していくものだ。今回の大河ドラマもまた、同性愛に対する差別的なダブルスタンダードが消滅した未来において再放送され、過去の魅力的な作品として人気を博したとしても、その時には非難すべき理由は何もないであろう。ただし、その時の視聴者の目には、同性愛の扱いに限らず、今現在の私たちにとっては“自然化”されている無数の無自覚な“偏り”が――ちょうど今の私たちの目に歌舞伎がそう映るのと同じ様に――“作品が作られた時代の刻印”としてはっきりと映されることではあろうが。
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by kaoruSZ | 2012-08-27 06:51 | 批評 | Comments(0)
NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて



8/26 追記あり http://kaorusz.exblog.jp/18889616/


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RT: 大河見てた。来週怨霊ホラー回で崇徳院退場予定か。それを見たら前にも言ったことがあるけど文章を書く予定。ドラマとしては完全に出来のいいアニメの延長として面白いと思うけど、同性愛の意味づけ周辺で言っておかないとまずいことが色々あるし、「ホモは女のせい」ってふざけた態度は放置できない。(2012.7.29)

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表アカでの予告ポストを引いてきたが、実際に先週の崇徳院退場回を見た感想としては、予想の範囲内であったとはいえ、はっきり言って崇徳院じゃなくて私が憤死しかねない勢いで腹が立った。ネタを先に言えば典型的な健全なホモソーシャル(勝ち組)vs不健全な明示的同性愛(負け組)の構図だった。

要はあのドラマの中での明示的な同性愛の要素は、保元の乱の敗者である頼長&崇徳院の「負け組であり、悪役である由縁」として設定されていて、それは主人公である清盛たちの「健全でホモソーシャルな友情や主従愛や兄弟愛」に敗北すべき運命にあるという描かれ方で見事なまでに一貫していた。

先週の崇徳院の生霊が起こした嵐の中で絆を確認しあう男たちの描写なんて、もう完全にその縮図だった。TLでは経文じゃなくて西行を海に投げろコールが巻き起こってたけど、ここまでちゃんと見ていた人たちなら誰でもそう思うわな。あのドラマの崇徳院って実はジェンダーとしては“女”なんだよね。

西行への崇徳の片思いの描写って、このドラマの中での負け組フラグ=同性愛を崇徳に背負わせつつ、伝説にある母親の待賢門院と西行の悲恋の話と繋げてそれを崇徳の失恋の原因にすることで、主人公の友人ポジションである西行の方は“ノンケ”として免罪するという見事なパズルになっている。

だから退場回での怨霊化も史実とは意味づけがまったく違う。史実ではあくまで政争の敗者としての“男”の怨念だが、有り体に言えばドラマの中では出生の秘密ゆえに父の愛に恵まれなかった辛さを遠因とした同性への片思いと失恋、致命傷になったのは我が子を失った悲しみという、完全に“女”の情念。

つまりは父(鳥羽院)や片思いの男(西行)の愛を得られなかった“女”が、それ故に男たちのホモソーシャリティの敵になってしまったという話なわけで、要はあの大河での崇徳の怨霊化は完全に“魔女化”だったわけだ。

ちなみにノベライズでは崇徳が息を引き取る場面で聞こえる声は例の子供が謡う遊びをせんとやではなく、西行がかつてその心を解してやった崇徳本人の御製(百人一首のアレ)を詠みかけてやる声であるらしい。その方が露骨な分だけまだしも浮かばれたろう。国営放送では修正が入ったのかね?

話が前後するが、息子の重仁親王が生まれたことが描かれてもその母が出てこないのも、作中では崇徳自身が“女”だからだ。崇徳の出生そのものに象徴される朝廷の昼メロ的な泥沼劇──男女の裏切りやそれに端を発した親子のすれ違い──は“女性的”な属性であり、それは清盛たち武士によって刷新されるべき旧体制の病理そのものでもある。言うまでもなく武士が象徴するものは健全なホモソーシャリティとしての“男性性”である。朝廷という“女”の病理に、武士という“男”が勝利するに至るまでの物語の図式であるわけだ。

崇徳はこうした構図を象徴する、その結果としての“哀れむべき被害者”であり、そのために彼には同性への愛という“女性的病理”と、それに至るまでの同情すべき理由付けの物語が設定されているのだ。

崇徳のそれに比べれば、頼長の同性愛が担っていた役割は単純なものである。清盛と弟の家盛の“健全な兄弟愛”を危うくし、家盛の死の原因となるべき悪役の悪事であり、彼自身その報いとして敗死すべき伏線を張るだけだ。
ちなみに悪や病理としての同性愛とそれに対比される“健全な絆”がセットになっているのは、崇徳の西行への片思いに対する、西行と清盛の友情も同じである。

頼長のそれ以外の役割も、これもまた武士のマチスモに対比されるべき「いけ好かないインテリ、鼻持ちならないエリート」というものであり、義朝から彼が主人である頼長の陰険さと書痴ぶりを嫌っていることを聞いた清盛が「珍しく気が合う」と喜ぶのと、その直後に二人の紐帯となる女(常盤御前)が登場するのは象徴的だ。言うまでも無く、直接的な同性愛のタブー化と女を介した連帯の強調、それが悪役の明示的な同性愛とセットとされるのは、ホモソーシャリティの描写の定石である。

また息子の義朝と異なり、それまではあくまで頼長に従順だった為義が、保元の乱の最中に自分を守れと言う頼長を罵るきっかけも、戦闘の現実を知らない知識人頼長が夜襲の案を退けたために劣勢となり、最期まで心ならずも息子と敵対した為義を気遣う忠臣であった鎌田通清を失ったことに激昂したためで、このことからも、基本的に頼長が他の男たちの“男同士の絆”のネットワークからは排除された、それに対する“引き立て役”として配置されていたことがわかる。頼長自身にも唯一“健全な絆”として信西との友情とライバル関係があるが、これは頼長に続いて彼に勝利した信西自身が破滅に至る伏線である。

その前夜までの悪役ぶりとは一転し、乱に敗北した後の頼長の最期は、父の忠実に一目会いたいという切なる願いと、同じことを望みながらも罪人となった息子と対面することは叶わない忠実との親子の情愛のドラマによって締めくくられているが、これは信西が自らが政敵として葬った頼長の遺言を目にし、それによって政治への志しを新たにする描写と合わせて、頼長を最後にホモソーシャルの内部の“共感可能”な人物としてあらためて位置づけ、それによって信西もまた志しのゆえにかつては友でもあった政敵と同じ運命を辿ることを予告するためだ。

信西が遺言を目にする場面で、在りし日の頼長が初めてその息子たちと共に描かれることも象徴的である。最後には不気味な男色家の悪役としてではなく、父に愛された息子として、息子に志しを伝えようとする父として、そして遺言を通してかつての友に決意を新たにさせる政治家として描くことで、頼長の存在は完全に親子愛とライバルとの友情という健全なホモソーシャルの内部へと回収され、視聴者にとっての印象のある種の浄化と、平治の乱での信西の破滅への伏線の設置が同時になされるわけだ。

明示的な同性愛のみが描かれ、当然あるべき妻妾との関係が描写されないという偏りは崇徳と同じであっても、頼長の場合はあくまで社会的な立場とそれに基づいた同性との絆を持つ“男”であり、父からは嫡男とも望まれた愛された息子という、ある意味では崇徳とは対照的な位置づけを持っていて、それ故にこそ最後にはホモソーシャルの内部に迎え入れられることが約束されていたともいえる。同性愛の意味づけに関しては単なる悪役であるのも、同情できる説明が与えられていた崇徳の場合と正反対であるが、これも結局は頼長は“男”であり、崇徳は“女”であったからだ。

頼長の行動は悪事としての同性愛も含め、あくまで自律的で社会的な力を持つ“男”のそれであり、それ故に責めを負うべき“悪役”でありえたのに対し、実は崇徳には男としての社会的な関係と呼べるものが何一つ無い。

崇徳はその母の不義による出生の時点から、「思うままにならぬ」運命に翻弄され、他律的な存在であることを周囲から強いられ続ける。その苦悩は、父には愛されず母にも心をかけられない孤独の内に育ち、思いを寄せた男は母と密通し、弟にも裏切られ、最後には我が子に先立たれて絶望するという、完全に私的な愛情問題に終始するものだ。我が子を帝位に就けようと望むのも、白河院が鳥羽院を疎んじて実の子である崇徳を帝位に就け、それを恨んだ鳥羽院が今度は“叔父子”崇徳から実の子近衛帝へと譲位させるという愛憎の連鎖の一環であり、それがドラマの中における「父としての息子への愛情の証し」と「自らの父への報復」を意味するからだ。崇徳は権力者だった父に愛されず、それ故に半ば社会的に疎外され、他律的に生きることを強いられていた自らの力を取り戻すために、「我が子を愛し帝位に就ける父」として自らを愛さなかった父に成り代わろうとしたのであり、それは自らに他律的な存在──つまりは“女”であることを強いてきたものに抗おうとする試みでもあった。だがそれは敗北に終わり、崇徳は流罪となることによって今度は完全に社会から疎外されてしまうのだ。

崇徳が写経した経典を後白河の許へ送り、それが父に抱かれた幼子の未来の高倉帝に引き裂かれて戻ってくるのは、かつて崇徳自身が鳥羽院に送られた写経の文を引き裂いたことの反復であると同時に、父に愛された息子(高倉帝)からの、父に愛されなかった息子(崇徳)への意図せざる残酷な仕打ちであり、それは崇徳の生涯に及ぶ敗北と疎外そのものが、父に愛されなかった故であることの象徴である。讃岐に流され、政治的な力を全て失った崇徳は、意識的には自らの手で大乱を引き起こしたことの償いとして写経を送ったのであるが、その真の望みは形を変えた父との和解に他ならなかったのだ。それを残酷な形で拒まれ、我が子にも先立たれることで“愛の対象”全てを失い、悲憤のうちに怨霊と化すのだ。つまり崇徳は最後まで、父という男から愛されなかったが故に周囲からも疎外され、それでも愛されることを求め続けた“女”であり、それはこのドラマにおいて、実は「父から愛される」ことこそホモソーシャルの構成員としての一人前の“男”であるために不可欠な条件であることの逆説的な証明である。父に愛されなかった崇徳には男たちの連帯に参与する資格が無いのだ。先述したが、崇徳と頼長との決定的な違いもそこにある。

彼に一人前の“男”である資格を与えてくれる“息子を愛する父”とは、たとえば清盛にとっては忠盛であり、義朝にとっては為義であり、頼長にとっては忠実であり、頼長の息子たちにとっては頼長であり、頼朝にとっては義朝であり、清盛の息子たちにとっては清盛である。

それは、彼を自らの後を継ぐ者として承認し、彼に自らと同じ目的を与え、そのために連帯すべき最初の“男”となることによって、彼をホモソーシャリティの輪の中に参与させてくれる相手である。「父に愛されない」ことは、この同性に求めるべき“健全”な承認と交際のモデルから排除されることなのだ。

実はもう一人、“父”との関係に障害を抱えていたが故に“男”であることに失敗していた人物がいる。他ならぬ鳥羽院である。絶対的な権力者として君臨する祖父白河院に抑圧され続け、妃である待賢門院を寝取られ続けた上に不義の子である崇徳を押し付けられ、白河院自身が崩御した後もその影に脅え続け、それから逃れるために新たな妃として迎えた美福門院と待賢門院との女の争いの板挟みになり、右往左往し続けた鳥羽院は、要は“父”に脅えるあまり男としての自らに自信が持てず、それゆえに女に縋り、女に支配されるという悪循環を生きていたのであり、“叔父子”である崇徳を疎んじたのも、怒りや憎しみではなく白河院の影への脅えと、待賢門院への愛憎の分裂ゆえに崇徳を“藁人形”にしていたのであり、それ自体が逃避であったに過ぎない。鳥羽院のこうした女々しさがホモソーシャリティに相応しいはずもなく、“男同士の絆”とは無縁なのは当然だ。

つまり彼自身“男”であることに失敗していた鳥羽院には、最初から息子を“男”として承認してやれるような父性など欠けていたのであり、実はそれこそが彼の妻や息子たちも含めた関係性の病の大元だったのである。そしてその全てが鳥羽院の白河院に対する萎縮に起因することは言うまでもない。

先述したが、こうした朝廷の人々の病理は清盛と彼を中心とした男たちの健全なホモソーシャリティに対比させられている。だが清盛自身、本来は白河院の落胤であったのを忠盛が引き取ったものとして設定されており、つまり同じく白河院を実父とする崇徳の不幸と挫折は、異母兄清盛の成功のネガなのだ。

そして崇徳と清盛との差をもたらしたのは、言うまでもなく“父”からの愛と承認の有無である。養父である忠盛から惜しみない愛情と薫陶を与えられ、“父のような男”であろうとした清盛には彼を慕う仲間が集い、清盛は彼らを率いて、実父である白河院を象徴する旧体制としての朝廷に挑み勝利するのだ。

白河院の影をものともしない清盛の強さは、当然それに脅え続けていた鳥羽院からも一目置かれる要因となり、それまでは兄崇徳と同様、女々しい父と空虚な母の間に放置され、投げやりな不全感を抱えていた後白河もまた、清盛に親しみと競争心を抱いたことによって大きく成長し、後には幼少の頃の清盛の庇護者であった乙前(祇園女御)から自身も精神的な支えを受けて即位に臨んだことで、崇徳との決定的な差をつける。後白河は平治の乱後の滋子との婚礼(滋子が乙前と同じく例の今様を口ずさんで後白河の目に留まるのも示唆的である)によって名実共に清盛の義兄弟ともなるが、実は登場した時点から、後白河はいわば清盛の“弟”として設定されており、彼はその繋がりによってこそ男たちのホモソーシャリティの中へ加わりえたのである。そしてこれもまた、疎外され続ける“女”であることを運命づけられた兄崇徳との残酷な対比となっているのだ。

清盛が理想的な“男”になりえたのは、忠盛という健全な男の養子となることで、白河院の影に支配された“女”の病理の巣窟である朝廷から逃れたからであり、成長した彼がそこに変革者として影響を及ぼすことは、彼のネガである崇徳に対して悲劇的な結果をもたらす運命にあったのである。

同じ白河院を実父としながらも、理想的な養父に育てられ、武士として生きる術を身につけて自ら運命を切り開けた清盛とは逆に、崇徳は父からは奔放な母の不義の子として疎まれ、愛に餓えたまま閉鎖的で病んだ宮中に閉じ込められるようにして育ち、そこから逃れる術などあろうはずはなく、その孤独な心を和歌を通して唯一解してくれた男──西行に思いを寄せたものの、あろうことか母との密通という形で裏切られるのだ。これは自分を不義の子として産んだ母の奔放さにも再び裏切られたに等しく、つまり崇徳は父に疎まれたことによる周囲からの疎外によって“男”になることを阻まれた上に、男からの愛を乞う“女”としても、その孤独感の元凶でもある母に敗れたのである。西行を失い、父にも死なれた後、崇徳は我が子を帝位に就けることで“男”になろうと試みるが、先述したように、このドラマにおいては父から愛されなかった者は“男”とはなりえない以上、この試みは敗れる運命にある。

和解を望んで書写した経文を引き裂かれ、我が子重仁親王を失ったことで怨霊と化した崇徳は、いわば父からのそれに起因する「愛されなかった」ことへの恨めしさの化身であり、これは先述したように女性的な情念である。

その悲憤の標的が清盛であり、その次男基盛の命を奪って皆を嘆かせたとされているのも、清盛こそ崇徳にとって「そうあることができなかった」自らの分身そのものであり、父と子と兄弟の愛とは、彼が疎外され続けたホモソーシャルで健全な絆そのものであるからだろう。

崇徳は一貫してこのドラマにおいて、あらかじめ敗北を運命づけられた本質的に女性的な存在であり、それは主人公であり勝利を約束された理想的なヒーローである異母兄清盛のネガとして対置されている。彼はいわば清盛の“妹”だったのであり、悲劇の“裏ヒロイン”であったといえよう。

長くなってしまった。 これでもドラマの中での同性愛に対する意味づけに絞るつもりだったのは変えていないはずなのだが。ちなみにこれまでに述べた通り、 同性愛が悪役&負け組の符牒とされている以上、 後白河に関してそうした要素が付与されることはありえないので、 信頼は単なるお笑いキャラだった訳だ。

だがそもそも、 同性愛が悪や病理というネガティブな意味づけを持たされていること自体がまったくの借り物なのだ。 院政期に限らず近代以前の本邦においてはそれは単なる“嗜み” であり、 今回の大河の登場人物たちも、史実としては現代人からすれば呆れるほどにフリーダムな両刀遣いであったに過ぎない。

つまりは同性愛をある限定されたネガティブな意味づけに押し込めることで特定のキャラクター性と結び付け、 それをイノセントなホモソーシャリティと対立させることでドラマを成立させているのであり、こうした約束事は言うまでもなく、 本質的にキリスト教文化圏である西欧由来の舶来品である。

要は今回の大河での同性愛の扱いは、「 明示的に描くなら敗北すべき悪役のものに限る」 という昔のハリウッドのヘイズ・コードの類であるにすぎず、 国営放送の看板作品がそうした法則に則っていることそのものが、 ドラマ自体の出来とは別に、現代の日本社会での同性愛への認識の程度を示しているだろう。


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by kaoruSZ | 2012-08-25 05:48 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(9)

“主にBL”を標的にした、女性のレイプファンタジーに対する“道徳的非難”の不当さについて

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実は色々あって先日一旦はtwitterの方での“啓蒙活動”は引退を発表したのだが、それ以前に批判したことのある御仁がまた性懲りも無く、まったく同じ論法で女性(同性)のレイプファンタジーを非難していたのを見て頭に血が昇り、やむなく再度の反論をさらにしつこく試みる羽目になった。事の顛末は下記を参照されたし。

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7月3日

RT @akio71: 「純愛のていをとった、男性ないし攻めからの一方的な恋愛コンテンツ」って、異性カップルを扱った作品だけでなく、同性カップル(主にBL)にも沢山あると思う…ってタイプしてて、「残酷な神が支配する」を思い出した。グレッグぐらい気持ち悪い存在が、素敵な恋人として描かれてるもの…

posted at 19:11:32

↑RT:誠に失礼ながら「男性ないし攻め」だの「主にBL」だのいう発想のフレーム自体が有害であると判断して少々。どこから話そうか迷うが、そもそも狭義のポルノか否かに関わらずマゾヒズムと結びついた「愛されたい」というファンタジーは普遍、問題はそれが「女の願望」として本質化されること。

だから仮に百歩譲って「暴力的な純愛」表現が“有罪”であるとしても、断じて「男女」として描かれたものと「男同士」として描かれたものが“同罪”であるわけがない。この辺りの詳細は以前に散々書いている。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2  http://twilog.org/tatarskiy1/date-120108

あと私怨で恐縮ですが、こういう発言を見ると「やっぱり暴力的な男なんか出てこない清く美しい女同士というファンタジーを愛する僕のセクシュアリティは正しいんだよね~」とうぬぼれたがるキモい百合豚が超喜ぶと思うので気色悪い。本当は男が男に愛されることなんか考えたくも無いホモフォウブだが。

あと『残酷な神が支配する』を振りかざして「ハーレクイン的なBLを愛好する腐女子の堕落」を非難してるクズを複数人目撃したことがあるので(自称腐女子も少女漫画読みとかいう男もいたが)その点でも嫌なことを思い出した。ともかく私は女の性的ファンタジーを道徳的に非難する言説は大嫌いだ。

7月22日

RT @summerslope: 60〜70年代の映画観てるともー当たり前のよーに「普通の男女の不器用な恋愛(だからピュア☆)」としてレイプが出てくるからなー。『氾濫』は寿司屋の二階で女子大生引っ叩いて結婚するって嘘ついてヤるし、三島由紀夫主演の『からっ風野郎』も愛してるって言いながら殴って無理矢理、だし。

posted at 02:55:55

RT @akio71: 漫画やらアニメやら二次創作やらで、いまだに生き残ってる価値観だなあ、そんだけ根深いのかと遠い目になる。(「普通の男女の不器用な恋愛(だからピュア☆)として出てくるレイプ)、ヘテロ恋愛のもの、BL作品、だと「だからピュア」どころか「不器用なほうが真実の愛!」ぐらいに発酵しててウヘエ

posted at 02:56:11

RT @akio71: 百合作品はあんまり嗜まないので、どういう傾向があるのかわかんないです

↑RT:だからいい加減何度私に同じこと言わせたら気が済むんだよ。http://twilog.org/tatarskiy1/date-120703腹が立ってしょうがない。だからなんで現実の権力関係を無視して女の性的ファンタジーを覇権的な男のそれと混同して道徳的に断罪しようとしたがるの?ミソジニーがダダ漏れで見苦しい。

先に言っておくと当然ながら先にRTしたさかのなつ氏のツイート単体では別に問題には思っていない。何度も言っているがレイプファンタジーそれ自体は普遍的かつ凡庸なものであり、問題は男がそれを自分のものとしては断固否認し女に押し付け「女は男に犯されて喜ぶのが本質」と規定することだけ。

男は自分にとってタブーである「男に対して受身になること」を女の本質として外在化する。そして男は自分を“本能的”に能動的な性欲を持ち女を犯す「暴力的な加害者」として規定するから、必然的に女のイメージは「処女である無垢な被害者」と「男を誘惑し堕落させる淫乱な娼婦」に分割される。

そして自業自得の帰結として、ある種の男は自らが“穢らわしい性欲”を持った“能動的な加害者”でしかありえないことに不満を抱く。そして「自分に穢らわしい罪を犯させる誘惑者」である“娼婦”を憎悪する一方、「性という罪や穢れとは無縁の清らかな被害者」である“処女”に羨望を抱くのだ。

娼婦への憎悪も処女への羨望も、どちらも同じミソジニーの裏表に過ぎない。そしてこの女への嫉妬の本質は、言うまでもなく男が自らに否認した「男から受身で愛され犯されること」の外在化に由来する。自らに対して禁じた夢を見ることが出来る者への妬みであり、当然このタブーはホモフォビアと一体だ。

私がある種の勘違い百合豚が大嫌いなのは、この清らかな被害者=処女への同一化を自分の道徳的正しさだと信じ込み、“処女同士”の関係を「男に愛され犯されるなどという穢らわしさとは無縁であり、“清らかで正しいもの”」と考えている傲慢さにある。本質はミソジニーとホモフォビアの固まりだが。

結論から言えば、レイプファンタジーを道徳を持ち出して叩きたがる心性は、そのまま性的ファンタジーそのものへの嫌悪であり、その本質は必然的にミソジニーである。女性の場合、それは「男に愛され犯される願望」を本質として受け入れることを要求されている自分の立場への当然の不満でもあろうが、その「当然の不満」を口にすることを許されるためには、女が“男同士”として描いた「男が男から愛され犯されるファンタジー」も“平等に”批判しなければならないと思い込んでいるあたり、骨の髄まで「女は貞淑に道徳的であれ」というヘテロセクシズムの不文律に馴致されていると言わざるを得ない。

しかし男の監督が俗悪でホモソーシャルな一般世間に向けて「女ってこういうもんだろ?」ってしたり顔で提出して「やっぱ女はこういうもんですよね」ってベタにまかり通る映画作品と「所詮女子供のおもちゃレベルの慰み」である少女漫画やBLの性描写を同列にできる時点で正気を疑う。弱い者いじめ乙。

ぶっちゃけ、性的ファンタジーに道徳を持ち込んだ途端に「女同士>対等(笑)な男女≒当事者(笑)による男同士>>男女>【越えられない壁】>不届きな女の描いたBLなどという代物」というくだらない“正しさヒエラルキー”に巻き込まれるだけなんだよね。

そしてこのくだらないヒエラルキーは、そのままそのファンタジーを好きな女の“正しい順”でもある。男はこんなものに拘束される必要など無い。彼らが性欲とそれに基づいた幻想を持つのは“当然のこと”であり、その内容が暴力的なものであればそれは「男らしさの証し」であるし、あえて女のように道徳的に“対等さ”を気にかければ「リベラルで立派な男性」だ。どちらに転ぼうと男に損失などありはしない。女は「道徳に従うのが当然である存在」に過ぎず、貞淑な従順さか逸脱を罰せられるかの選びようの無い二択があるだけだ。

「私は正しい女です!レイプファンタジーなんか間違ってるし、しかもそれを女の分際で男様が女如きのように犯される作品を描くなんて、もちろん言語道断ですわ!」って、随分とわかりやすい同性に対するヘイトスピーチですね。そういうモロな差別に加担する方が恥ずかしいと思わないの?

繰り返しになるが、「男に犯されるべき娼婦」であることを拒否したければ「どんな形でも“犯されること”を夢想することなどない貞淑な女」であらねばならないと思うから「BLのレイプファンタジーなんか嫌いだ」と言いたがるんだよね。それ自体ヘテロセクシズムのダブルスタンダードへの忠実さに過ぎないが。

私は“娼婦”にも“処女”にも分類されるのは御免だし、BLも男女もレイプファンタジーそのものも楽しんでいますよ?私は道徳を振りかざして同性を罵倒することで自分だけは安泰を得ようとするような悪趣味な卑怯者ではまったく無いし、恥じ入るべきところは何も無い。私のファンタジーは私のものだ。
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by kaoruSZ | 2012-08-11 00:25 | 批評 | Comments(0)