おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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前回の続きをtatarskiyさんが連続ツイートにしたので以下にまとめた。こんなことをわざわざ言うのは野暮であり馬鹿らしいのだが、一言だけ断わっておきたい。これはドイルの小説をネタにした“妄想”などでは全くなく、原文を偏見なしに読めばまさにそう書かれていると(ちょうどホームズの推理が彼がいなければ誰にも気づかれないままの事柄だとしても説明を聞けば納得できるように)誰にでも理解できることである。世の中には(たとえば)ワトスンの結婚の回数について片言隻語を取り上げた議論をして知的遊戯と称する人も多いようだが、これがそうしたたぐいと根本的に異なり、たんに“批評”であることも言うまでもない。(kaoruSZ)



「三人ガリデブ」でワトスンはなぜあんなに感激したのか


前回は原作の「最後の事件」と、「三人ガリデブ」「高名な依頼人」に出てくるワトスンの二度目の結婚の関係について触れたが、実はまだまだ細かい証拠はいっぱいある。あえて書かなかったネタも含めていずれ原作篇としてまとめるつもりだが、ここでは一つだけ追加しておきたい話を。

「三人ガリデブ」の、あの、撃たれたワトスンをホームズが介抱する場面。普通に読んでいて感動的なのは確かだけれど、よく考えるとワトスンの感激の仕方は非常に不自然なのだ。

なんで今の今まで自分を思いやっているのかも確信が持てないような相手に「多年にわたる私の取るにたらぬ、しかし心からなる奉仕の生活」というほどの無私の奉仕を捧げていたのか? それにここまで読んできた読者からすれば、ホームズがワトスンを信頼し必要としていたことはまったく疑う余地がない話。

つまり、ワトスンとホームズの間に読者には明かされていない事情があり、ワトスンの「奉仕」というのはそれに対してのもの、早い話が“負い目”があるからだったとしか考えられない。

彼の「この天啓の一瞬に頂点に達した」ほどの感激も、あの撃たれた自分を気遣うホームズの反応によって、“それ”が許されたこと、許されていたことを確信したからだ。先に挙げたエントリーに書いた話の続きだが、実はこのエピソードこそが、ワトスンが再婚に踏み切った直接のきっかけと見て間違いない。

ワトスンに、それがたとえホームズのためであろうとも再婚をためらわせる原因となっていた負い目、このエピソードはそれが払拭されたことを示している。もう言わなくてもわかるだろう。それはワトスンの最初の結婚と、そもそもそれに端を発した彼らの最初の破綻──あの「最後の事件」に他ならない。

あの一件の真相からすれば、ワトスンは一度はホームズを完全に追いつめて死なせたに等しく、本来ならモリアーティではなく彼こそが、ホームズと共に滝壺に身を投げるべき心中の片割れだったのだ。

彼はあの時ホームズが自分を道連れにすることを思い止まり、一人姿を消すことを選んだからこそ生きながらえたのであり、メアリーが死んで戻ってきたホームズが、実は自分に対して無言の内に償いを要求していることを知っていたのだ。

帰還したホームズから二度目の同居を申し入れられ、それに同意してからのワトスンの生活は、実はひたすらホームズに対して「あの時」を償うためのものだったのだろう。ワトスンがどれほど彼を愛していようと、再び彼を裏切ることなどありえなかろうと、「あの時」の負い目は彼らの間に、深い傷跡と無言のわだかまりを残していたのだろう。

だがワトスンは、今度こそホームズを守り抜くこと、二度と「あの時」と同じ思いなどさせないことを誓い、読者の前に示されている事件の際の直接的な暴力との対峙やホームズの心身のケアのみならず、おそらく彼らに向けられていたであろう、ありとあらゆる社会的な非難や疑いからも守り抜いていたのだ。皮肉なことに、そのためにワトスンに結婚歴があることは非常に役立ったに違いない。

だが、「三人ガリデブ」の事件の直前には、彼らはどうしても、もう一度明示的に“疑惑”を払拭する必要に迫られていたのである。それは何故か、私が皆まで言わずとも、この事件の冒頭でワトスン自身が触れているのでそれを確認してもらえれば十分だろう。

ワトスンには、疑惑を払拭するためにはもう一度どちらかが結婚するしかないこと、そしてホームズには到底そんなことは出来ない以上、自分が再婚するしかないことがわかっていただろう。

だが言うまでもなく「ワトスンの結婚」とは、ホームズにとってはあまりにもトラウマティックな思い出そのものであり、それは否応なくワトスンの裏切りを意味してしまうのだ。

たとえ頭では自分たちの名誉を守るためであると納得していようとも、いつホームズが「あの時」と同じ錯乱に取り憑かれるかもしれないことを、ワトスンは恐れていたのだ。それはそのまま、彼が本当に自分を許してくれているのかという恐れそのものであっただろう。

あの「天啓の一瞬」に、ホームズの反応からワトスンがすでに自分が許されていたことを悟ったのはなぜか。あの場面の状況での直接のメッセージ、それはホームズが「ワトスンに死んでほしくない」ことをはっきりと言葉に表したことだ。

これは実はあのライヘンバッハの滝の断崖での、置手紙を残しての失踪という行動によって示されていたのと同じものなのだ。それこそが彼らの苦い後悔の原点であり、ホームズが帰還してからの彼らの歳月は、すべてそれを取り戻すためにあったと言っても過言ではないのだ。

つまり、彼らの間に影を落とし続けていた「あの時」のリグレットは、ここで生身のホームズの「言葉」として解放されたのである。そしてそれはワトスンのホームズに対する“償い”の時の終わりでもあったのだ。

これが読者の目に見える形での彼らの“愛”のクライマックスなのは必然である。これ以降、ワトスンはホームズに「今度こそ最後まで一緒に生きるために」自らが再婚し、ホームズが隠棲し、そして再婚した妻が死ぬ時まで耐え忍ぶよう説き伏せたのだ。過去への償いではなく、共に生きる未来を摑むために。
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by kaoruSZ | 2012-11-25 06:02 | 批評 | Comments(0)
ドイルと因縁浅からぬロジャー・ケイスメントの件は鈴木薫のツイートの21日から22日のところhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121121にある話題。モリアーティの手帳やモランの風貌というのはガイ・リッチーの映画の話。「ケースメント」で検索しても実り少なかったが、写真は画像検索で多数見られる。(kaoruSZ註)
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「最後の事件」ノート                         

ふと思い立ってロジャー・「ケイスメント」で検索してみたらかなりマシでした。

http://d.hatena.ne.jp/Mephistopheles/20090124
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016693804
http://b.hatena.ne.jp/complex_cat/Ireland/
>ロジャー・ケイスメントとは誰なのか?―コンゴ、同性愛、アイルランド蜂起 /友人の友人が彼の伝記をまとめ上げたが,そのドキュメントはアイルランド政府に押さえられた。かなりやばい話が入っているらしい。 2009/07/22


一番下のはその上の論文のブクマコメントで、大学関係者なら論文参照ネットワークで閲覧できるでしょうが、一般に出回っているものではないようなのが残念です。
ケイスメントは向こうではゲイアイコンとして知らない人はいないようで、モリアーティの手帳もモランの風貌もガチでオマージュでしょうね。

あと、『事件簿』読み返してて気がついたんですが、ワトスンの主観の中ではホームズと別居していてもほとんど「離れて住んでるだけ」に近い意識しかなくて、その時彼が結婚していたんだとわかるのは「白面の兵士」でのホームズの語りがあることでかろうじてです。
そしてワトスンの主観では一貫してホームズこそが最優先で、自分がどれほど彼に尽くしていたかについてはとても饒舌です。

で、諸々の状況証拠を合わせて考えるとですが、1902年6月末という設定の「三人ガリデブ」の冒頭(1925年1月発表)に何の説明も無く朝一緒にいる描写があるんです。そしてホームズともう一緒に住んではいないことを初めて彼が口にするのは、「三人ガリデブ」の三ヵ月足らず後(1902年9月3日)に設定されており、発表時期自体もその翌月と翌々月(1925年2月~3月)にあたる「高名な依頼人」冒頭です。
あのみんなが知ってる撃たれて介抱のラブシーンからほんの2ヶ月ちょいでいきなり再婚してて、しかも別居の理由が再婚であることを読者に言わないっておかしすぎますし、実際ほとんど続けて書いたに等しいでしょうからドイルの記憶違いとかでもありえません。

このことへの一貫性のある説明としては「実は二度目の結婚そのものすらホームズのためだった」ということしかありえません。そしてその理由は、メタレベルでの現実世界に対してのそれも含めて「彼と自分の名誉を守るため」以外には無いでしょう。だからメアリーの時とは違って妻に関して何一つ情報が無い。彼女に対するロマンスの実質なんて皆無だからでしょう。そして相手の女性がどんな人だったかも想像がつきます。
医者である彼に素直に依存してくれる、ひどいですがあまり長生きはできないことがわかっている相手。つまりは彼の患者でしょう。ワトスンがはっきり医者に戻っているのもそれと関連しているんでしょう。

で、さらに推測を進めると、どう考えてもホームズが戻ってきてからのワトスンが彼こそを最優先して守り抜くことを固く決意していたことは疑いようがない。そしてあの最後の事件こそが、メアリーとの家庭とホームズとの曖昧な関係との間で明らかに前者に傾いていたワトスンに、ホームズと一緒に死ぬ覚悟さえ決めさせる転機であったとしか思えない。だからあの表面だけでは意味不明な心中旅行の最中に決定的な何かがあったとしか考えられない。

で、あの例の電報の返事を受け取った後、帰れ帰らないの押し問答で30分費やして、その後はふらふらスイスの山の中をさ迷い歩いて死に場所を探していたとしか思えない“心楽しい旅”をしつつ、ホームズが「私たちがたとえどこへ行こうとも、執拗に後を追ってくる危険から完全にのがれさることはできないことを覚悟していた」という一連の流れ。
ホームズが自分でワトスンを連れ出しておきながら「帰国して医者の本業に戻りたまえ」とか言っているのは、本当は単に「帰れ」で十分なはずで、要は「メアリーのいる本来の家庭に帰れ」ということの置き換えでしょう。当然あの電報もモリアーティの一味云々ではなく、いきなり行方不明になったのであろうワトスンの消息を訊ねる連絡が来ていることを確認してしまったんでしょう。

そしてこの流れの中では、ワトスンが自分が「帰らない」ことを証し立てて旅を続けた、言い換えれば一緒に死ぬ場所を探すことに同意したとしか考えられないわけで、つまり橋に火をかけるような「後戻りできないこと」をしてやったとしか思えません。
要するに、あの電報後の押し問答から“心楽しい旅”が始まるまでの間に彼らはプラトニックではなくなっている。逆に言えば、だから死ぬしかないわけです。帰れるわけがない。ワトスンが帰れたのはホームズが死んだことで、“罪”を知る相手がいなくなったからにすぎません。
帰ってきてからではもう悪い夢だったことにしたいような話でしょうが。
それにしても空き家の冒険でホームズが帰ってきてからは、完全にいったんは忘れたことにした悪夢の続きみたいなもので、考えると怖い話です。そりゃ気絶もするわ。
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by kaoruSZ | 2012-11-23 21:07 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(4)          

tatarskiy

(3)から続く

手帳と鳩
場面は昼のエッフェル塔下のカフェへと移り、待ち合わせの時間に遅れて現われたホームズは、ワトソンにモリアーティを尾行して得た情報を話して聞かせ、画面にはその尾行の際の様子が映される。ホテルのラウンジで昨夜の爆破事件の記事が一面に載った新聞を広げているモリアーティ。そこにやってきたモランが「後四十分で列車が出ます」と出立を促す。二人がラウンジから出て行こうとすると、手前には眼鏡に白い髭面の老人に変装してこのやりとりを聞いていたホームズがいる。二人とは別の通路を通って先回りしつつ、早変りで今度はホテルの制服を着たポーターに変装すると、何食わぬ顔で、やって来たモリアーティの外套を預かろうとするが、鞄だけでいいと断られる。画面が一瞬カフェでの会話に戻り、ホームズが「だが……」と言葉を継ぐと、画面には再びホテルの廊下を連れ立って歩くモリアーティとモランの姿が映る。モリアーティがどこか嬉しげに「いつものあれをする時間なら十分あるだろう (We have enough time for me to indulge my little habit.)」とモランに向かって言い、モランも「ええ(Yes.)」と答えて微かに笑うと、画面はモリアーティが公園のベンチで鳩にエサをやりながら例の赤い革の手帳を広げている情景に切り替わる。ホームズの声がナレーションとして被さりつつ画面は再びカフェに戻り、モリアーティの言う「いつものあれ」とはチュイルリー公園の鳩にエサをやることで、列車の発車時刻までにそこから行ける駅はパリ北駅だけであり、そこからベルリン行きの列車に乗るつもりであろうことを突き止めた次第が語られる。

上の場面で表に出ている情報の中で最も重要なのは、モリアーティが「いつものあれ」と言っただけでモランには何のことか了解しうるという形で示される、彼らの日常的な親しさだ。おそらく彼以外にそれを鳩へのエサやりのことだと理解しうる人物は、彼らを尾行していたホームズのほかには存在しないのであろう。これまで詳述してきたように、モリアーティとモランの親密さは常にお互いだけに通じるなんらかの“合図”や“符牒”という形で表現されており、その形式自体が“言葉にできない秘密”を象徴している。

例の手帳はこの公園の場面が二度目の登場になる。先述したクライマックスでの種明かしの席で、ホームズは、変装してオスローでの講義に潜り込んだ時にモリアーティのポケットにあったこの手帳に目をつけていたこと、鳩にエサをやりながら手帳を開く彼の姿を見た時に、その内容が彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処を暗号化して記したものであることに気づいたこと、それ以来ずっと手帳を手に入れる機会を窺っていたことを自ら語っているが、繰り返しになるが重要なのは、手帳と暗号の初出がモリアーティとモランのやりとりの場面であったことであり、それ自体が彼らの秘密裡の“親密さ”の象徴であることだ。

そしてもう一つ重要なのは、ホームズが手帳に書かれていることの内容に気づいたのが、鳩にエサをやりながらモリアーティが手帳を開く姿を見ていた時だったと言っているのは、なぜ手帳の内容がわかったのかという合理的な理由付けにはまったくなっていないことだ。だが裏の意味を読み取れば、実は鳩へのエサやりというシチュエーションと例の手帳というアイテムの重なり自体が、「ホームズがモランと同様にモリアーティの秘密の内容を理解した」ことを意味しており、それはそのままホームズが“二人の秘密”について知っているということなのだ。繰り返し書いているが、モリアーティの陰謀とは完全に表向きの筋書きを構成する口実である以上、ホームズがモリアーティを尾行することで目にしたものは、実はこの場面に至るまでに観客自身が見てきたそれと同様、彼とモランとの親密さそのもの以外にはありえず、例の手帳とはその象徴であることを理解したからこそ入手することにこだわったのだ。

二組の“カップル”
そして次に、ある意味ダメ押しのような決定的な場面であるのが、これも先述した武器工場で、ワトソンが瓦礫の下からホームズを救出して互いの絆を確認する場面の直後のそれである。ホームズとワトソンの脱出が描かれた後、画面には先ほどワトソンがホームズを救出した瓦礫の山で、今度はモランがモリアーティを助け出そうとしている姿が映る。取り除けた瓦礫の下にモリアーティの姿を見つけたモランが「教授」と呼びかけると、モリアーティは呻きながらも懸命に顔を上げ、彼を制止するように片手を挙げながら「私は大丈夫、私は大丈夫だ。(I’m all right. I’m all right.)」と繰り返し、「私の世話をして時間を浪費するな。(Don't waste time attending to me.)」と命じる。丁度その時部下たちが駆けつけて来るが、モランは彼らを振り返ってドイツ語でホームズたちを追うよう命令すると、再びモリアーティに「必ず奴らを見つけます。必ず奴らを見つけます。(I’ll find them. I’ll find them.)」と繰り返し、怒りの表情でその場から立ち上がる。

この後ホームズとワトソンを追跡したモランは、他の部下たちがすべて返り討ちに遭い、自身もワトソンに撃たれて一度は倒れ臥したにも関わらず、執念で再び起き上がると、通りかかった貨物列車の貨車に乗り込んで逃げようとしていたホームズたちを目がけて発砲する。弾は彼らに同行していた案内役のジプシーの一人に命中し、もう一人のジプシーが悲痛な声で仲間の名前を叫ぶ。それを聞いたモランが肝心のホームズたちを撃ち損じたことを悟って執念深い怒りを滲ませた表情を映しながら、逃亡と追跡の場面は終わる。

ここに至る以前の場面では常に不気味なほど落ち着き払った態度で描かれていたモランに、これほどの怒りを覚えさせたのは、モリアーティに危害を加えられたことであるのは説明するまでもなく明らかだろう。この場面以外では、彼が殺人を実行したのはただモリアーティの忠実な手足として淡々と任務をこなしていたに過ぎず、彼がはっきりと自分で殺意を持って相手を殺そうとするのはこの場面だけである。モリアーティがモランに向けて自分が無事であることを強調し、自分の世話をして時間を浪費するなと言ったのは、そう言わなければ自分の傍を動こうとしないことがわかっていたからだ。そして言うまでもなくここでの二人のやりとりは、つい先ほど同じ瓦礫の下から救出し救出された、もう一方の二人のそれと完全に重なるものなのだ。もうおわかりであると思うが、この一連の場面が真に強調しているのは、ホームズとワトソン、モリアーティとモランという、この二組の“カップル”の同一性そのものである。

“私は彼を愛している”
これまで詳述してきたように、モリアーティとモランの関係のキーワードとは“言葉にできない秘密”そのものであり、それは実はそのまま、ホームズとワトソンの関係にも対応するものだ。レストランのホールでのアドラー毒殺、講演後のサイン会での暗号とチケットをめぐるやりとり、そして武器工場での瓦礫の下からのモリアーティ救出、モリアーティとモランが共に登場するこの三つの重要な場面のすべてで、本章の冒頭で述べたように、 “秘密”は言葉の代りに小道具やシチュエーションによって表わされている。そして、その“秘密”とは言い表せばどんな言葉になるものなのか。もうお気づきになっていることだろう。それはただ一つだけである。「私は彼を愛している」という言葉だ。

最初のアドラー殺しの場面における、二人の男が親密な合図を交わしあいながら、冷然と眉一つ動かさずに女を謀殺した情景は、言うまでもなく、彼らの暗黙の親しさとそれと反比例するかのような“女嫌い”の表出であり、サインを求める来場者の前での暗号とチケットをめぐるやりとりは、彼らの親密さそのものが、公式な社会的関係への裏切りであることの暗示である。この二つの場面をそれぞれ言葉に“翻訳”してみれば、それは「私は彼を愛しているから彼女を殺す」「私は彼を愛しているから社会を裏切る」というものでしかありえない。

そして、ホームズがモリアーティから奪った手帳に暗号として記されていたのも、この「語ることを許されない愛」にほかなるまい。それが表向きの筋書きの中では犯罪の証拠であり、それによって得た資産の隠し場所を記したものであること自体、ホームズが「悪者が罪を犯すのに理由など無い」と言い張っていたモリアーティの犯罪の真の動機をそのまま明かしてくれている。彼が彼の愛する男と共にしていることは、彼らの愛を「語ることを許されないもの」にし続けている、世界とそのモラルに対する復讐なのである。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:59 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(3)          

tatarskiy

(2)から続く

第二章

上演された夢
モリアーティとはいったい何者か? これまでにも何度も述べたように、端的に言ってしまえば彼はホームズのアルターエゴである。彼の行動やそれによって暗示されている彼のパーソナリティのすべては、例外なくホームズが潜在的に保持していながら、自身のものとしては抑圧した願望である。つまり、モリアーティについて語られていることは、ホームズ自身のものとしては語るわけにいかなかったものなのだ。

先述したように、彼が始めて観客の前に姿を見せるのはレストランでアドラーを毒殺する場面である。この場面の印象の強さと重要性の一端についてはすでに触れたが、ここでもう一つ、鍵となる要素を追加してみよう。モランがスプーンでグラスを叩いて合図すると、他の客たちが突然立ち上がって出て行ってしまい、モリアーティの登場とアドラーの死は、三人の他には無人となったホールの只中で、まるで舞台の上での出来事のように上演される。
筋書きの上での合理化された説明としては、他の客たちはモリアーティの手による仕込みだったということであるのだろうが、ここで実際に目に見えるものとして生起する無言の群集の一斉の移動と消失、そしてメインの登場人物たちによる“芝居”という一連の演出は、あたかも楽曲のPV映像かミュージカルの一場面のように、リアリティーの欠如とインパクトの強さを同時に伴った、象徴的な“作り物”であり、明らかにそのあからさまな作為自体が“判じ絵”としての絵解きを要求しているものだ。そう、これは“夢”なのである。

そしてこの場面に限らず、モリアーティが登場する場面の多くはこうした“判じ絵”としての“夢”であり、それ自体が言葉としては語られえないものが小道具やシチュエーションとして置き換えられた、抑圧された願望の表現なのだ。このことを踏まえた上で、モリアーティに焦点を合わせるとしよう。

モリアーティに関してアドラー殺しの次に来る重要な場面は、言うまでもなく、ある意味このシーンと明示的に一続きになっている、研究室でのホームズとの対面の場面である。これはあまりにも核心に近いため、ここではひとまず後回しにするしかないが、繰り返しになるが押えておくべきなのは、彼らが態度として目に見える形で観客に示している情動は、実は、彼らが喋っている台詞の字面通りの意味と見せかけのシチュエーションには対応しておらず、そこからずらされた裏の意味にこそ対応していることだ。

“ラヴ・シーン”
続く場面は、ホームズがワトソンを連れて最初に向かう地であるフランスでの出来事だ。画面がホームズとワトソンの船旅の場面から、船が目指す先にある陸地を望みながら切り替わり、次いで街角の掲示板に貼られているらしいモリアーティの講演会のチラシ、そしてその会場と思しき城館のような大きな建物の外観が映される。次いで机に向かうモリアーティと彼の前に整列している一見して学者風の人々、そして彼が以前ホームズにしたように差し出された自著にサインをしている姿が映り、モリアーティが二人より先に自身の講演会のためにフランスに来ていたことがわかる。と、そこに横からモランが現われて傍らに座り、サインをしているモリアーティの机の上をそっとすべらせるようにして、暗号らしい数字が書かれたメモを示す。

モリアーティはサインをした本を相手に返してフランス語で挨拶しながらさりげなくメモを確認し、机の上にあった赤い革の手帳にはさんでしまい込むと、そこでようやく口を開き、「and my ticket?」(吹き替えは“席はとれたのか?”)とモランに訊ねると、モランは上着の内ポケットから「ドン・ジョヴァンニ」の演題が記されたチケットを取り出してみせる。チケットは二枚あり、モランは一枚を机の上においてモリアーティの方に押しやりつつ、手元に残ったもう一枚を名残惜しそうに見つめている。モリアーティはそれを見ると、「残念だったね。君のぶんは必要ない。(Unfortunately, you won’t be needing yours.)」と言い、モランはそれを受けて「本当に残念です。教授。ドン・ジョヴァンニを楽しみにしてたのに。(That's a shame, professor. was looking forward to Don Giovanni.)」と答える。このやりとりの後、外の街路に出たモランは部下に、標的である財界の要人マインハルトを尾行するよう指示を出し、カメラは命令を受けた部下たちがマインハルトの馬車を監視する姿を追って切り替わる。

この場面は、表面的な筋書きの上では、この後オペラ座でモリアーティが「ドン・ジョヴァンニ」を観劇中に、彼の命を受けたモランがマインハルトを暗殺する場面の伏線として機能している。モリアーティがモランから受け取った数字による暗号のメモとそれをしまい込んだ赤い革の手帳については、クライマックスであるライヘンバッハの滝を望むテラスでの彼とホームズとの直接対決の場面で、手帳に暗号で記されているのが彼自身の犯罪記録と犯罪によって得た莫大な隠し資産の在り処であったと明かされるが、しかしその時には、ホームズがすでに暗号の解読法を見破った上に本物の手帳を盗んで偽物とすり替え、それをメアリーを通してロンドンのレストレード警部に送ることで、モリアーティの資産のすべてを差し押さえさせてしまったとも語られる。このわかりやすい筋書き上のキーアイテムとしての機能は、しかし表面的なものでしかない。本当に重要なのは、この場面が初出である手帳と暗号が、あからさまにモランとのやりとりのためのアイテムであることだ。

まず、よく見れば気づくことは、この場面のシチュエーション自体の不自然さである。常に慎重かつ老獪であり、裏では恐るべき規模の犯罪と陰謀の実行者でありながら、ホームズ以外は誰一人として彼を疑うことも無く、表向きにはこれ以上望むべくも無いほどの社会的地位を築き上げているとされるモリアーティが、学者として講演を行なった後の来場者に対する自著へのサインという、まさに彼の社会に対する表向きの顔を象徴する場で、たとえ暗号化されたメモのやりとりとはいえ、裏の仕事の片腕との犯罪の打ち合わせを人目のある場所で同時に行なうということ自体が不自然に思えるし、一見それをカムフラージュするためであるかのようなチケットをめぐるやりとりも、今まさに自著へのサインを求めて目の前に並んでいる、学者としての彼の心酔者であろう人々を無視してまで語り合う必要性のあることだとは到底思えない。つまり、そもそもこの場にモランが現われること、しかも来場者の目の前でモリアーティの傍に座ること、そしてやりとりの内容に至るまで、すべてがリアリティーに反しているのだ。
それを認識した上であらためてこの場面を見直せば、重要なのはこのシチュエーションそのものの非現実性、公共の場でモランとやりとりする、つまり「公衆の面前での秘密の語らい」という、本質的に相容れない組み合わせそのものであるのが了解されよう。

見世物小屋には他にも大勢の客が入っていたようだが、「大勢の人」というのは「類型夢」の一つであるから、その意味はフロイト博士に訊いてみるといいかもしれない――「夢の中で「たくさんの他人」に会うのが何を意味するかご存知ですか。たとえば裸の夢などではしばしばそういうことが起こって実に恥ずかしい思いをしますね。その意味するところは他でもない――秘密ということです。つまりそれは反対のものによって表現されているのです」(『著作集』6「隠蔽記憶について」)
<『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』より>


上は先に挙げた鈴木薫と筆者の共同論文『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』の註13からの引用であり、ここで例示されている見世物小屋の場面とは、主人公フランシスと友人アランが縁日でカリガリ博士の見世物小屋に入り、大勢の見物客の前で博士の操る眠り男チェザーレから不吉な予言を受けるというものだが、実はこの「たくさんの他人に囲まれるというシチュエーション」とは上述の通り“秘密”を意味し、この場面自体が、あたかも夢の中での出来事のように、“それ”を隠しつつ表すものとして象徴化されたものなのである。

勘のいい方ならもう察しがついたと思うが、モリアーティが自著へのサインの求めに応じながらモランとやりとりをする場面も、そしてこの二人の初登場シーンであるレストランでのアドラー毒殺の場面も、この『カリガリ博士』の一場面と同様、「群集の只中で/それをあからさまに人払いした後の無人の空間で」、象徴化された“秘密”が暴露されるという、本質的に同じ性質を持った重要な場面なのだ。加えて、先述したように、特にここで取り上げているサイン会の場面での二人のやりとりの性質自体が、彼らを取り巻くオフィシャルな聴衆とは相容れないものであり、それに象徴される公式な社会的関係への彼らの秘密裡の裏切りを暗示する。

暗号の数字が記されたメモと、それがしまい込まれる赤い革の手帳はそのまま、二人が共有する“秘密”とその在り処を示す。そして続く「ドン・ジョヴァンニ」のチケットをめぐるやりとりは、表面に出ている会話の意味をそのまま追うだけでも、元々の予定ではモランもモリアーティと共に観劇するつもりでいたこと、そして従者であるモランが主人に命じられたチケットの手配を当然のように「自分の分まで」行なっていたことからして、彼らにとってそれはおそらく「いつものこと」であり、モランが同行できないことの方がイレギュラーな事態であったであろうことを明かしてくれている。おそらくあの暗号のメモには、マインハルトの暗殺予定時刻がオペラの上演時間と重なってしまうことが書かれていたのだろう。暗号のやりとりによる彼らの無言の会話と後に続く明示的な会話とは、完全に一続きのものであったのだ。

もうおわかりだろう。つまりはこの一連のやりとりの本質は悪事のための打ち合わせなどではなく、プライベートな楽しみの外出を共にすることを約束していた者同士の片方が、都合がつかなくなったことを相手に連絡しているものなのだ。彼らが行なっていることが “犯罪”と呼ばれるのは、彼らの関係へのカムフラージュであると同時にダブル・ミーニングであろう。つまり、作品の舞台として設定されている19世紀末(あるいは20世紀初め)のイギリスにおいて、“それ”が本当に刑法に触れる罪であったことをも踏まえていよう。

“秘密を分かち持つ”
『カリガリ博士』の、社会的地位のある行ない澄ました紳士(医師)が実は犯罪者だったという表のストーリーは、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のあからさまな流用であろう[☆6]。類似はそれだけにとどまらない。スティーヴンソンの小説の場合も、殺人を含むハイドへの疑惑は「表のストーリー」であり、「裏のストーリー」は伏せられている。いや、近年の研究を見ると、それは隠されていた訳では全くなく、『性のアナーキー』の著者エレイン・ショウォールターによれば、スティーヴンソンの周囲では暗黙の了解があった上、この小説が刊行されたのは英国で男性間の性行為を犯罪化する法律が施行されたのと同年同月(1886年1月)であり、冒頭に出てくる「ゆすり」という語は、それだけで当時の読者には同性愛を連想させうるものだったという(ちなみに、『性のアナーキー』のこの章は「ジキル博士のクローゼット」と題されている)。つまり、殺人という表面上の嫌疑の下に、当時ドイツでも英国でも実際に刑法に触れる犯罪であった同性愛の主題が潜んでいるという点も含めて、『カリガリ博士』は『ジキル博士とハイド氏』を“粉本”として使っている。
<『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』より>

「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件[ケース]」とはそのままシャーロック・ホームズの事件簿に入れても(或は症例研究でも)おかしくない表題だ。ジキル博士が怪しげなハイドを遺産相続人にしているのを心配するアタスンがベイカー街で辻馬車を降りたなら登場する独身男がさらに二人増えていただろうというのは些かアナクロニックであるが。『ジキル博士』刊行の1886年1月は英国で男性同性愛が犯罪化された月であり、ウィーンの医師が男性ヒステリー研究でデビューしたのもこの年、ロンドンで患者の来ない眼科医が待ち時間に書いた『緋色の研究』の発表に漕ぎつけたのは翌年だった。
<鈴木薫のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121101より>


上の引用で『ジキル博士とハイド氏』と『カリガリ博士』について述べられている、「社会的地位のある行ない澄ました紳士が実は犯罪者だった」という表のストーリーと、それが隠蔽しつつ示唆している「“真の罪”としての同性愛」という図式は、まさしく今回の『シャドウ ゲーム』におけるモリアーティの罪そのものである。モリアーティとモランの関係は文字通りの“共犯者”であり、暗殺にまつわる暗号のメモと「ドン・ジョヴァンニ」のチケットをめぐる二人のやりとりは、約束していた晴れの外出を共に出来なくなったことへの軽い無念さと、今夜はたとえ離れた場所にいようとも、犯すことを約束した罪それ自体を分かち合うのだという暗い喜び、そして何も気づこうとしない自分たちの周囲の社会に対する密かな優越感すら入り混じった、甘美な秘密の共有なのだろう。この「“共犯者”として表された親密さの表現」というモチーフは、最初のアドラー殺しの場面ですでにモリアーティとモランのものとして示されていた。

もう一人のワトソン
パリでホームズとワトソンは、モリアーティが計画している爆破事件を阻止すべくオペラ座に忍び込むが、この時ホームズに続いてワトソンが一瞬振り返ってから楽屋裏への通路に入った直後、通路の片隅に蹲っていた人影が立ち上がると、それがモランであることがわかる。布に包まれた細長い荷物を抱えた彼は、二人が通り過ぎるのを意味深長な視線で見送る。結局、オペラ座に爆弾が仕掛けられていると思わせたのはモリアーティの罠であり、ボックス席で悠然と観劇しながら舞台の後ろに忍び込んだ彼を見つめるモリアーティと目が合った瞬間にすべてを悟ったホームズは、本当の爆破現場である通商会議の会場のホテルへと急行するものの間にあわず、出席していたマインハルトを始めとする財界の要人たちは会議室もろとも爆殺されてしまう。

爆破事件は阻止できなかったものの、現場の柱とマインハルトの死体の頭部に弾痕があるのを発見したホームズは、彼がホテルの向かい側のオペラ座の屋上から狙撃されたらしいことに気づいて、ワトソンと共にそちらへ赴く。二人は屋上で狙撃犯の使ったと思しき三脚と風速計の痕跡、そしてタバコを消した跡を見つける。だがそこからマインハルトのいたホテルの窓まではあまりにも遠く、ワトソンがこれほどの距離をものともせずに標的に銃弾を命中させうるほどの腕を持っているのはヨーロッパでも数人ほどだと言うほどだった。ホームズは、犯人はその中でもアフガニスタンへ派遣された人物だと言い、その証拠としてトルコ産のタバコの葉が落ちていたのを拾い上げ、ワトソンに差し出して「君たち皆が吸っていたのと同じでは?(Wasn't that the blend you all smoked?)」と問いかける。周知の通りワトソン自身、かつてアフガニスタンへ軍医として派遣されていたのである。ワトソンが頷くと、先ほどのオペラ座の楽屋裏への通路でワトソンが一瞬振り返る場面がフラッシュバックし、次にホームズが「(狙撃手の)大佐について何か読んだことがあったかな?(Didn't I read something about a colonel?)」と自問する。それに対してワトソンが「セバスチャン・モラン」と答えると、それに合わせてさっきフラッシュバックした場面の続きが映るが、ここでは、ワトソンの後姿が通路に消えた後にモランの立ち姿が現われ、そこにワトソンの「陸軍一の狙撃手だ」という台詞が重なるという演出がされている。実はこの映画の中でモランの名前が明かされるのはこれが始めてである。画面が再び屋上での会話に戻り、ワトソンは更に「不名誉除隊になってる」と付け加える。
「で、殺し屋になったわけか。奴の犠牲者を見るのは二人目だ」「巧妙だな。誰も爆破現場で銃弾の痕など探さない」というやりとりで会話が締めくくられると、再びフラッシュバックして、砲身の長い狙撃用の銃、それに弾を装填する手元、それが照準を合わせたホテルの窓辺にいるマインハルトの姿がつぎつぎ捉えられる。そして銃声と共にカメラが後退し、標的に向かって引き金を引くモランの姿が挿入された後で場面は暗転する。

まずは表面に現われた意味を確認してみよう。言うまでもなく、ここでの一連の流れはホームズの対等な好敵手としてのモリアーティの巧妙な手強さを、その忠実な手足であるモランの不気味な存在感や彼の狙撃手としての並ぶ者の無い驚異的な腕前と共に、強調するものだ。だがここで示されている真に重大な手掛かり、というよりほとんど種明かしに近い収穫であるのは、モランの名前と経歴が明かされる場面における、かつて軍務でアフガニスタンに派遣されていたというワトソンとの共通性、それを具体的に示す「君たちが皆吸っていた」トルコ産のタバコの葉、そしてその前後にフラッシュバックで反復され、強調される、オペラ座の通路で振り返るワトソンの後姿に重なるようにすり替わるモランの姿という、ちりばめられた細部による示唆そのものだ。
ここまで来ればもうおわかりだろう。モランはほとんど明示的に、もう一人のワトソンなのである。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:56 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(2)          

tatarskiy

(1)から続く

“影”からの呼び出し
観客の前でモリアーティが始めてホームズと対面するのは、ワトソンの結婚式の後のことである。ホームズとワトソンは結婚前夜の最後の乱痴気騒ぎでボロボロになったまま、二人きりで自動車に乗り、無言のまま式が行なわれる教会に到着する。ホームズは式の一部始終を他の出席者たちと共に見届け、ワトソンと新婦のメアリーは腕を組んで幸せそうに教会の外に出て皆の祝福を受ける。ホームズは人々の輪から外れた庭の入り口の木陰でそれを見守り、そして背を向けてその場から立ち去る。画面が切り替わり、ホームズが屈んで自動車の状態を確認していると、ふいに自分に話しかける声が聞こえ、目線を上げるとそこにはモランが立っていた。モランは「教授の使いで来た」と手短に告げ、モリアーティの教えている大学まで来るように伝言する。

次の場面は大学の構内で、ガウンを着た学生や講師と思しき人影が行き交う中をホームズが通り過ぎると、回転するレコードが映り、続いて壁一面を占めた大きな本棚の陰からホームズが現れる。彼の台詞によってこの部屋に流れている曲がシューベルトの『鱒』であることがわかる。カメラがホームズの視線を追って切り替わった先には、この研究室の主であるモリアーティと、その後ろに控える学生の姿がある。モリアーティは振り返って学生に用事を言いつけ、さりげなく人払いをした後おもむろにホームズと向き合う。
ホームズは持ってきたモリアーティの著書『惑星運動の力学』にサインを求め、モリアーティは承知して自分の机に向かいペンを取る。さり気なく室内を観察するホームズに、モリアーティはサインをしながら「あの医者は今日結婚したそうだな?」と話しかける。ホームズは、ワトソンの結婚式は滞りなく終わり、もう自分と組んで仕事をすることもないだろうと答えて、暗にワトソンを巻き込むまいと釘を刺す。本が返され、二人はあらためて握手して挨拶を交わすが、この時モリアーティは「うれしいよ、やっと君に会えた……正式にな」と皮肉気に言い、ホームズが変装してモリアーティを尾行していたことを窺わせる。ホームズは本を開いてモリアーティのサインを確認すると、半ば唐突に「筆跡学の知識はお有りですかな?」と話しかける。ああいったものは学問とは呼べないと苦笑するモリアーティに構わず、ホームズは筆跡による心理分析にかこつけてモリアーティの性格を「非常に高い知性と創造性を持ち、かつ几帳面であるが、激しく自己中心的であり、モラル意識に至っては破綻している」と言い当ててみせ、モリアーティは怒りを抑えつつそれに答える。

「君は先ほど暗にワトソンを巻き込まないようにと釘を刺したようだが、答えはノーだ。天体力学の法則によれば二つの物体が衝突する際には付随する物にもダメージが及ぶ。例えを挙げてみようか。二人の紳士が正反対の目的に向かって進む。一人の女性がその間で引き裂かれる。彼女はその緊張に耐えられず突然病で倒れる。なんとも悲劇的な結末だ。珍しい型の結核で彼女の命はあえなく散った」
モリアーティはこう言って駒の並べられたチェス盤の上に、アドラーの遺品である、彼女のイニシャルが入った血の着いたハンカチをほうり出す。この時画面には実際にレストランの床に倒れ臥したアドラーと、それを冷ややかに見下ろすモリアーティとモランの姿が現われ、彼女の傍らに落ちた血の着いたハンカチをモリアーティが拾い上げる。

モリアーティはチェス盤から黒い駒の一つを取ると、明らかに動揺しているホームズに「本気でこの私とゲームをするつもりなのか?(…)はっきり言っておこう。いいか、私を破滅させるつもりならば、破滅するのは君の方だ」と告げ、それに対してホームズは「(…)もしあなたをこの手で破滅させられるのなら、命など惜しくはない」と答え、ハンカチを手に取ると出て行こうとする。モリアーティはホームズに「幸せなご夫婦によろしくと伝えてくれ。それではまた」と付け加える。ホームズが立ち去った後、モリアーティが手にしていた黒い駒でチェス盤に一手目を指す手元を大映しにしながら画面は暗転する。

ここまでの場面は、素朴に見たところでは、ついに結婚の日を迎え、いよいよ自分から離れて行こうとするワトソンを見守るホームズの寂しさと友情、これから幸せな新婚生活に入ろうとしているワトソンを巻き込むまいとしての気遣いと、宿敵と正面から対峙したことによってあらためてはっきりと示された死をも辞さない覚悟、そして彼と互角な存在であるモリアーティの存在感の大きさが、アドラーの死を告げられるという形で示されているものに思えよう。

だが、まず奇妙であるのは、なぜここであらためて(表面の筋書きの上だけではその必然性すら定かでない)アドラーの死が強調されねばならないのかだ。それも最初に示されるレストランでの場面では彼女が倒れる姿を直接は見せず、ホームズがそれを知る時に初めて観客にも確認させるという凝った演出を用いて。そしてモリアーティの台詞の字面だけを見れば、それは女をめぐる男二人の三角関係を示唆するのが自然なものであるにもかかわらず、画面に映されるアドラー殺しの情景は、先述したとおり彼女に対する一切の感情的な温度を欠いたものであるというちぐはぐさが、極めて不穏で不気味な雰囲気をかもし出しているのだ。

言うまでも無いがこれも素朴な鑑賞のレベルでは、あらかじめ観客には示されていたアドラーの死を、ホームズと一緒に確認させることであらためてショックを与え、モリアーティの悪事に対するインパクトを強めるためのものに思えようが。

そして極めて印象的な小道具である、アドラーの血の着いたイニシャル入りのハンカチ。モリアーティはわざわざこれを拾い上げ、ホームズに直接見せつけて引き渡しているが、これだけは先に明かしておくと、この行動の本当の意味は、表面的な筋書きの中でのホームズに対する警告としてのそれを超えた、ホームズとモリアーティとの同一性の証左である。そしてこのハンカチを受け取ったホームズの動揺も実はアドラーの死がショックだったからではなく、自らの分身から自らの“罪”の証しを突きつけられたからだ。これに先立つ彼らの会話の本質も、表面の筋書きを形作る字面通りのやりとりではなく、ホームズと彼自身の抑圧された本心──彼のアルターエゴとの対話なのだ。そして先述したように、それを滅ぼすことは自身もまた滅びることを意味する以上、この最後の台詞のやりとりはあらかじめ定まっている運命を互いに確認しあっているに過ぎない。

ここではまだ詳細を述べることはしないが、まず認識しておくべきは、モランによってモリアーティの許に呼び出される寸前のホームズが、ある意味向き合うことを先延ばしにし続けてきた、ワトソンの結婚によるパートナーとしての彼の喪失という事態がついに現実のものになる日が来てしまい、結局はただ友人としてそれを見守る他に何も出来ないという、外目にはいかに諦めて友人を祝福しているように見えようと、内心は無力感に打ちのめされていなかったはずもない状態であったことだ。

そして実は、ここでモランが彼を呼びに来ず、モリアーティからの宣戦布告がなかったなら、ワトソンの結婚をめぐるホームズの苦悩の物語も、この日で否応無く終わりを告げねばならなかったはずなのだ。実際にはこの会見の後、ハネムーン中のワトソン夫妻は列車の中でモリアーティの手下による襲撃を受け、それを予期して乗り込んでいたホームズは、メアリーを文字通り列車から突き落として排除した後、ワトソンと共にモリアーティの陰謀を阻止すべく、大陸ヨーロッパを巡る冒険旅行に旅立つのだ。言うまでもなく、この展開そのものが露骨に明らかにしているのは、ホームズにとってモリアーティの陰謀こそが、邪魔なメアリーをワトソンから一時的にでも排除し、再びワトソンと共にあることの出来る時間を与えてくれたことだ。

“女”を投げ捨てる
ご覧になった方なら誰でも印象的に記憶にとどめておられようが、この列車での大立ち回りの場面はかなりきわどい笑いを誘われるものだ。ワトソンとメアリーが奮発して乗った一等車の車室でくつろいでいると、突然車掌に変装したモリアーティの手下が襲いかかる。一人目をかろうじて撃退した直後、室外でも銃声がし、ワトソンが様子を見ようとドアを開けると、二挺拳銃を振り回す大柄な女が通路に立ちふさがって奮戦していて、こちらにやって来て見ればそれはなんと女装したホームズなのである。彼は唖然とするワトソンに向かって「ひどい変装だが時間が無かった」と理由にならない理由を述べた後、ワトソン以上にショックを受けているメアリーに対して「気持ちはわかるよ。招かれざる客。そうだろう?」と殊勝に同情を示してみせる。ワトソンがまだ残っている外の敵を追って行っている間に、ホームズは再びメアリーに「私を信じるか?」と問いかけるが、彼女の返事は「まさか!」というつれないものだった。ホームズは「仕方ない」とつぶやくと、いきなりメアリーを窓から車外へ突き落とし、彼女は悲鳴を上げながらちょうど橋の上にさしかかっていた列車から下の川へと落ちていく。そこにワトソンが戻ってくるが、その場にメアリーがおらず、ホームズが彼女を列車から突き落としたことを知ると、彼女が殺されたと思って逆上したワトソンはその場でホームズを締め上げて押し倒し、二人は揉みあいながら延々言い争う。結局はホームズがメアリーを突き落としたのは彼女を安全な場所に逃がすための算段だったのであり、彼女は下の川に落ちた直後にボートに乗って待機していたホームズの兄マイクロフトに救助されたことが明かされるのだが、このいささか悪ノリが過ぎるほどのきわどい場面が笑いを取りつつ明らかにしているのは、今までホームズの苦悩と嫉妬にも正面から反応を示さずに友人として振る舞っていたワトソンが、実は彼の気持ちをすべて承知の上であえて気づかぬ振りをしていたに過ぎないこと、ホームズが嫉妬のあまりメアリーを殺したとしてもおかしくないと思っていたことだ。ホームズが女装して乗り込んでくるのも完全にメアリーへの当てつけで、しかも本当に彼女を列車から突き落として自分が代わりにワトソンと旅行に行ってしまうのだからまったくシャレでは済んでいない。

モリアーティの手下を撃退して一息ついた後、君のせいだと自分を責めるワトソンに対してホームズは、「残念ながら君にも半分責任がある。君らが結婚の準備に夢中になっていなければ、今回の件はすでに解決していたはずだ」と返すが、これは当然恨み言である。
続く会話は、
「つまりだな。我々の関係は……」
「関係?」
「探偵と助手の関係は、まだ復活はしていないが……。我が親愛なる同志よ。もし君がこの事件を最後まで見届けてくれるのなら、もう二度と助手を頼むことはない」
というものだが、これだけでもこの二人の“探偵と助手”や“親友”といった名前に収まりきらない“関係”をめぐる過剰さこそが真の問題であることは明らかだ。そして観客はこれに先立つモリアーティとの対話の場面で、ホームズが自身の死を覚悟していること、つまり「この事件を最後まで見届けて欲しい」とは「自分の最期を見届けて欲しい」の意に他ならないことをも知っているのだ。

これに続くフランスへ向かう船旅の場面で、二人が甲板の椅子に座り、ホームズがこれからの予定を話していた時、ワトソンはふと荷物の間に例のアドラーの遺品のハンカチを見つけて手に取る。ホームズは見てほしくなかったものを見られてしまったような、そしてまるで彼の手の中のハンカチに嫉妬を感じたような表情でそれを彼からそっと取り上げると、彼に背を向けて甲板に立ち、ハンカチに一度口づけてからワトソンを振り返り、そして海に投げ捨てる。これは一見するとアドラーの死を悼んでのことのように思えようが、実はこの一連の流れそのものが二人の関係を象徴している。彼らの冒険旅行の相談を中断させた一枚のハンカチは、ホームズにとって二人の関係を阻む“女”の影の象徴であり、同時に自らの彼女に対する抑えがたい嫉妬心をも意味するものだ。口づけてから投げ捨てるという、それ自体感情的なアンビヴァレンスの表現そのものである動作は、ワトソンの手の中にあったそれへの嫉妬の表れであると同時に、封印することを決めた自らの思いに対する訣別でもあるのだろう。

ワトソンとの道行き
ホームズとワトソンはモリアーティの陰謀を追って最初はフランスへ、次いで山中を馬で進んで国境を越えてドイツへ向かい、モリアーティが密かに買収した武器工場へと潜入する。だがいよいよ敷地内へ入ろうという時、ホームズはワトソンに唐突に問いかける。
「幸せか?」
「は?」
「だから今、ブライトンに新婚旅行に行ったくらい幸せかと訊いているんだ」「お答えする気にもならないな」
「幸せか?」
「そんなこと言ってる場合か」
「まあな」
「早く」
「答えを」
「早くしないと見張りが戻ってくるぞ」
というのが一連のやりとりで、確かに常識的に考えれば場違いとしか言いようがない問いかけであるのだが、しかしここまで見てきた観客にとっては、これがホームズのワトソンに対する切実な問いであり、「自分と一緒にいて幸せだ」と言って欲しいだけであることは、切ないまでに自然に了解できてしまうものに過ぎない。そして常識的な振る舞いを盾にとって、自分に対して向けられたホームズの切実な感情を見て見ぬふりをするワトソンの残酷さもまた、この期に及んでいつものことであろうことも、たやすく察しがついてしまう。

結局ワトソンが答えないまま時間切れとなり、ホームズはワトソンに居住区に行って郵便局からマイクロフト宛の電報を打つよう言いおいて、自分は一人で先に工場内に潜入する。だがそこには部下たちを引き連れたモランが待ち構えており、ホームズは捕らえられてモリアーティの前に連れて行かれる。ホームズは彼の、世界大戦を引き起こし、軍需物資の供給を一手に握ろうとする陰謀を見抜いたことを告げるが、モリアーティはそれには構わず、ホームズの肩に鈎針を突き刺して天井から吊り下げるという拷問にかけ、彼の悲鳴を例のシューベルトの『鱒』と共にスピーカーを通じて工場中に流すことでワトソンをも誘き出そうとする。郵便局から戻ってきたワトソンは、残されていたホームズのメッセージを読んでから自身も工場内に潜入し、そこでスピーカーから流れるホームズの悲鳴を聞くが、モランに発見され銃撃戦となって動きがとれない。結局ワトソンはホームズのメッセージをヒントに砲台を動かして砲撃で監視塔を破壊し、その瓦礫の下にモリアーティもろとも埋まっていたホームズを救出するのだが、この時必死にホームズを呼ぶワトソンの声に「ここだ、ゆっくりでいい」と答えた後、彼に助け起こされたホームズは「Always good to see you, Watson.(字幕は“来ると思っていたよ”)」と嬉しそうに言い、言われたワトソンは微かに笑う。

ここまでの経過を見ればまたしても明らかなのだが、つまりは工場への潜入の前にワトソンの拒絶によって傷つけられたホームズの感情は、モリアーティに捕らえられて拷問にかけられるというハプニングを経由して、そこからワトソンによって助けられることによる自身への愛情の確認によって癒されるのだ。これはこの冒険旅行の発端そのものである、ワトソンの結婚によって情緒不安定に陥っていたホームズが、モリアーティの陰謀の阻止という大義名分を得ることによってワトソンを妻との新婚旅行から奪い返したことの、ミニチュア化された繰り返しである。このように、物語内の機能としても明らかであるのは、ホームズがワトソンとの関係で傷ついたり、無理をしたりして、不満が溜まることこそ、モリアーティが登場する契機となっていることだ。先述したように、ホームズがモリアーティに呼び出されて初めて正面から対決したのも、まさにホームズのストレスのピークであっただろうワトソンの結婚式の直後であり、モリアーティがその際予告した通りにワトソン夫妻を襲撃してくれたからこそ、ホームズは再びワトソンをパートナーとして冒険に出ることができたのだ。ホームズにとってのモリアーティとは、決して認められない自らのネガであると同時に、自らが意識的に望むことを許されない抑圧された願望が叶えられる口実を与えてくれる存在でもあるという、アンビヴァレンスそのものの象徴なのである。

さて、ホームズとワトソンの行動を時系列に沿って追うのはひとまずこれくらいにして、次はいよいよモリアーティについて書いていこう。彼がなぜホームズにとって許しがたいもう一人の自分であるのか。それを解き明かさなくては真相には迫れない。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:53 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(1)          

tatarskiy

“My dear fellow, you know my methods.”   
- Sherlock Holmes in The Stockbroker’s Clerk

「ちょっと君の真似をしてみたのだよ」
―明智小五郎(『屋根裏の散歩者』)


今年の3月に公開された映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(原題:A game of Shadows)をDVDで見た。ご存じのようにシリーズ物の二作目で、筆者は一作目もDVDで見たが、正直なところ今一好きになれなかった。しかし、今回見た二作目の内容は非常に興味深いものだった。

まずはご覧になった方なら皆が気づかれたであろうレベルで明示されていたが、テーマやプロットとしては江戸川乱歩の『孤島の鬼』そのままであることに驚いた。もっと素朴なレベルで言えばアンデルセンの『人魚姫』とも言えるだろう(これも片思いしていた友人の結婚による作者の失恋が、執筆のきっかけの一つだという話を読んだ記憶がある)。また、原作と同じ英国の文学作品に先例を求めるならトールキンの『指輪物語』の結末とも重なるものだ。ワトソンに対するホームズは、箕浦に秀ちゃんとの幸福な結婚生活を与え自らは死した諸戸、人間の王女に心を移した王子のために海の泡になった人魚姫、妻と子供を得て未来を約束されたサムのために全ての財産を譲って西の海の彼方へ去るフロドと同じように、女との健全な幸福が約束された愛する男のために、自らを犠牲にする道を選び取るのである。

乱歩の『孤島の鬼』で自分に恋する美青年・諸戸と再会した箕浦は、連続殺人の犯人探しのため彼と“探偵遊戯”に乗り出す。「若い私たちの心の片隅には、確かに秘密を喜び、冒険を楽しむ気持があったのだ。それに、諸戸と私との間柄は、単に友だちという言葉では云い表わせない種類のものであった」
(中略)結婚したワトスンも“探偵遊戯”という口実があれば独身時代と同様ホームズと行動を共にしてくれるのだ。「諸戸は私に対して不思議な恋愛を感じていたし、私の方でも、無論その気持を本当には理解できなかったけれど、頭だけでは分っていた。そして、それが、普通の場合のようにひどくいやな感じではなかった。彼と相対していると彼か私かどちらかが異性ででもあるような、一種甘ったるい匂を感じた。ひょっとすると、その匂が、私たち二人の探偵事務を一層愉快にしたかも知れないのである」
『シャドウ ゲーム』のワトスンはどうやらこの箕浦と同じらしい。勿論この類似は不思議ではない。乱歩は言うまでもなくドイルを読んで書いたのだから。いや、乱歩が他の何よりもドイルから学んだのは犯罪実話のサブジャンルとしての探偵小説というより、まさしく「このようなもの」ではなかったか。
<鈴木薫のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121031より>


上に引用したように、今回の映画におけるホームズとワトソンの関係は、冒険にいたる経緯や結末まで含めて『孤島の鬼』の諸戸と箕浦に非常によく似ている。だが少々厄介なことに、主人公のホームズはいわば“信頼できない語り手”であり、観客の前に映し出される世界はあらかじめ彼の主観によって歪められているとも言えるのだ。非常に巧みな脚本と演出によって多くのシーンに、漫然と見ていたのでは気づかないであろう二重の意味が仕込まれており、その繋がりを追うことでしか発見できない“真相”が隠されているのだ。

第一章

“探偵の仕事”
プロローグに続いて、映画の本篇は、結婚式を明日に控えたワトソンがベイカー街のホームズを久しぶりに訪ねる場面から始まる。室内はホームズが栽培している植物でジャングルさながら、強心剤の原料になるというヤギまでが放し飼いにされている。ホームズ自身は特製の迷彩服で姿を隠しており、呆れるワトソンにおもちゃの矢を射掛けてからようやく姿を見せ、自分はワトソンがいなくなってからもこうした発明や「自分の探偵人生の中で最大の事件の捜査」に没頭して忙しく過ごしていたことを強調するが、ホームズがいったん席を外した隙に彼を気遣う大家のハドソン夫人がワトソンに語ったとろでは、近頃のホームズは「コーヒーとタバコとコカの葉しか口にしなくて、眠らないし、声色を変えて、役者さんみたいに喋ってたり……」という尋常でない様子であったらしく、いざワトソンから明日結婚することを告げられると、一応は祝福を口にしつつも動揺を隠せない。「少し痩せたか?」と自分を心配するワトソンに、ホームズは「その分が君についた。メアリーのマフィンをつまみすぎだ」と笑ってみせる。

前祝いにブランデーでも飲もうと言うホームズに続いてワトソンがかつての自分の居室に入ると、そこにはモリアーティの絡んだ犯罪の記事が壁一面に貼り付けられ、ピンを刺して留めた紐で記事が相互に結び付けられた、まるで蜘蛛の巣のような立体の相関図になっている。
ワトソンはホームズから、このところ世界各地を騒がせている要人の怪死やスキャンダルの中心に「天才的な数学者にして高名な作家であり教師。ケンブリッジの拳闘大会の王者にして現首相の学友」であるモリアーティ教授の企みがあること、ホームズがそれを阻止することに全力を傾けていることを聞くが、ホームズの我が身を省みようともしない異常な興奮と熱中ぶりに呆れ、医師としての忠告を口にしつつ彼を気遣う。

ここまでの流れで十分すぎるほどに強調されているのは、ホームズがワトソンの結婚によって彼から引き離されたことで、誰の目にも明らかに心身の安定を失っていること、文字通りワトソンが去った後の空白を埋めようとして新たな発明と、何よりもモリアーティの陰謀を阻止することに没頭していることだ。そしてワトソンは、ホームズの憔悴の真の原因が自分にあることにおそらく気づいていながらそ知らぬ顔を決め込み、あくまで友人として医師として、彼の健康を気にかけてみせるばかりなのだ。

これだけでもテーマと伏線の提示としてはほとんどの人に了解されるものであろう。そしてワトソンのホームズに対する残酷さもあまりに明らかだ。しかもここまでの情報で判断する限りでは、ホームズの語るモリアーティの陰謀は荒唐無稽としか思えない内容で、聞かされたワトソンが半信半疑なのも当然である。しかもホームズが不眠と栄養失調と極度の興奮状態にあったことははっきり示されており、すべてホームズの妄想であったとしてもおかしくないどころか、その方が自然でさえあるのだ。

もちろん物語内部の素朴なリアリティーのレベルとしてはモリアーティの陰謀は事実であり、ホームズはそれを自らを犠牲にしてでも阻止した英雄である。これに先立つプロローグ部分では、変装したホームズがモリアーティの使いの途中のアイリーン・アドラーと再会して夕食を共にする約束をした後、彼女がオークション会場で爆弾小包を渡して殺害しようとしていた医師ホフマンスタールをいったんは爆弾を処理して助けるものの、結局会場の外で毒針に刺されて死んでいるホフマンスタールを発見するまでが描かれている。ここでは下手人であることが暗示される形でモリアーティの腹心モラン大佐も姿を見せており、この一連の流れは表のストーリーの伏線を構成すると同時に、あらかじめ観客に対して、ホームズがワトソンに語るモリアーティの陰謀に真実味を帯びさせる役目を担っている。

だが、現実ならざるフィクションにおいて真に重要なのは、パンフレットに載っているようなそうした表の筋書きではなく、それを口実として提示される文字通りの目に見える“細部”であり、そうした“細部”の連なりから浮かび上がる意味と、その意味同士の繋がりである。フィクションとはいわば精緻化された夢であり、夢とは筋書きではなく細部によってこそ、見る人の“真実”を物語るものである。つまり、“設定”として妄想と現実のどちらとされていようと関係なく、画面に映されたものはすべて“真実”への手掛かりであり、観客はそれを読み解く意識的な目を持つ必要があるのだ。今お読みいただいている筆者による文章も、そうした試みの一例であり、ある意味ではそれ自体が“探偵の仕事”とも言えるものだ。

こうした手法についてのより詳しい解説を知りたい方は、筆者が以前に鈴木薫と共同で執筆した、サイレント映画『カリガリ博士』についての分析http://indexofnames.web.fc2.com/caligari/suna_nemuri-0.htmをご覧になっていただきたい。この文章の内容は、今回の『シャドウ ゲーム』についての分析とも直接繋がっている部分が多く、以下の文中でも随時引用することになるが、いずれも核心としては19世紀から20世紀初頭を舞台とした作品中に表れた、男性の抑圧されたホモセクシュアリティをめぐる表象を扱っている。

前置きはこれくらいにして、まずは本篇に戻ってみよう。先述したように、ホームズの語る全欧州を巻き込んだモリアーティの陰謀というのは甚だリアリティーを欠いた代物で、聞かされたワトソンはホームズに「それで彼はなにをするつもりなんだ?」と半信半疑で訊ねるのだが、それに対してホームズは「悪者が罪を犯すのに理由など無い」「モリアーティの死をこの目で見る。そして邪悪な陰謀が広がるのを必ず阻止する」「奴を止められるのは自分だけだ」と言い張るばかりで何の答えにもなっていない。だが構造として明らかなのは、自らの命と引き換えにしてでもモリアーティを滅ぼすことだけが、ホームズにとってワトソンを失うことに釣り合うだけの情熱の対象でありえたことである。

問題は「なぜモリアーティなのか?」であり、モリアーティが働いていたとされる荒唐無稽な悪事は、物語を合理的に見せる口実にすぎない。真に重要であり隠されたテーマそのものでもあるのは、「モリアーティとは何者であるのか?」であり、彼を標的に選んだホームズ自身の内面的動機である。

分身と“悪”
ホームズはワトソンに向かって自分のその一種異様な使命感を、「It’s a game, dear man, a shadowy game.」と表現している。日本語字幕や吹き替えでは「いいかい?これは影を追う戦いなんだ」と訳されていたが、タイトルとも関係する“shadowy”という単語には、影のようなはっきりしない曖昧さ、そして非現実的な・架空の・想像上の事物というニュアンスが含まれている。ここでは明らかに、彼を心配するワトソンにさえ怪しまれているようなホームズの精神状態から来るモリアーティの陰謀譚そのものの疑わしさと、ホームズにとって、モリアーティとの戦いが“影”──つまり自らの負の分身とのある種の独り相撲であることが示唆されているのだ。そして結論から言えば、「理由など無い」どころか、モリアーティの“悪”とは実はホームズが自らのものとしては抑圧した願望そのものであり、それは決してワトソンには「言えないこと」なのだ。自分自身の内なる悪の外在であればこそ、それを阻止し得るのもホームズ自身の他にはありえまい。そしてポーのウィリアム・ウィルスン同様、分身を滅ぼせば必然として本体も死に至るのである。

モリアーティがホームズの“影”であるのは、ホームズと同等の優れた頭脳と運動能力、高い知識と教養を持ち、格闘技に秀でているという最も表面的な類似からも明らかだ。また、二人の対決に際してはチェスが効果的な小道具として用いられ、ホームズが白い駒、モリアーティが黒い駒という、視覚的にもわかりやす過ぎるほどのシンボリズムによって対比されている。DVDに収録されている製作スタッフによるコメントでも、「モリアーティはホームズの邪悪な双子といえるだろう」「モリアーティは二面性を持つキャラクターだ。人並み外れて優秀だが、人の道を外れている」と語られるが、通常それは単にホームズと違って悪事を平然と行なう悪人だからだとしか思われまい。しかし、発言したスタッフの意図とは関わり無く、上のコメントの文句はどれも巧妙なダブル・ミーニングとしてとらえるべきものである。モリアーティを真にホームズの“邪悪な双子”たらしめている“人の道を外れた”行いとは荒唐無稽な陰謀などではなく、しかもそれを見出す注意深い目さえあれば誰にでも見ることが出来る、「映像という表層の細部」に巧妙にちりばめられている。

誰が“彼女”を殺したか?
モリアーティが最初に観客の前に姿を現すのは、アドラーが待ち合わせをしていたレストランのホールの場面でのことだ。彼女がテーブルで紅茶を頼んでいると、ふいに客席同士を仕切る深紅のカーテン状の衝立の向こうから、彼女に呼びかけるモリアーティの声が聞こえてくる。彼はアドラーがホームズのために仕事に失敗したこと、持っていた手紙を奪われたことを、言い渋る彼女から穏やかながら有無を言わさぬ威圧感を込めた口調で聞き出す。彼は彼女に話しかけながら、そこだけが映し出されている手元では紙に鉛筆で書き物を続けている。アドラーの席の斜め後ろ、彼女とモリアーティの席が共に見渡せる席には、モリアーティの腹心であるモラン大佐の姿が見える。モリアーティが「君は警戒していた。だから馴染みの店で、人の多い場所を選んだのだろう?」と問いかけると同時に書き物をしていた手を止め、鉛筆をテーブルに置くと、それが合図だったように、モランが手にしたスプーンでゆっくりグラスを叩く。とたんに周囲の客たちが一人残らず立ち上がり、次々と店から出て行ってしまう。三人の他には誰もいなくなり、その場が静まり返った瞬間、唐突に深紅のカーテンが向こう側から持ち上げられ、今までの恐ろしげな気配からすれば意外なほど特徴の薄い、落ち着き払った初老の紳士が現れる。モリアーティはアドラーに、ホームズへの思いのために仕事に支障を来たすようになった彼女には、もはや自分に協力してくれる必要は無いと告げ、解放されたアドラーは緊張に耐えられなくなったように一礼して立ち上がり、足早にその場を立ち去ろうとする。だが彼女が画面の外に逃れ、入れ替わりに再び席に落ち着いたモリアーティが映ったとたん、テーブルが倒れるガシャンという音がする。モリアーティがそれにはまるで無関心なまま、手元にあった紅茶のカップを啜るところで画面は切り替わり、約束の時間を過ぎても現れないアドラーを待ちわびながら、一人レストランの席に座るホームズが映される。

以上がモリアーティの初登場、そしてアドラー毒殺の場面であるが、この時の画面全体に色彩と共に満ち溢れている過剰な情動は、表向きの筋書きにおけるこの場面の機能を遥かに凌駕するものであり、先に明かしておくと、実はこれは全篇を通して最も重要な場面でさえある。この場面の絵解きから浮かび上がる真実とはそのまま、語られざる真のテーマそのものなのだ。詳しくは順を追って徐々に解き明かしていくことになるが、これを読まれている方も、上述の場面が示唆している真実のありかについて、一緒に考えをめぐらせていただきたいと思う。

まず、はっきりした印象を残すのは、モリアーティの女に対する冷淡さである。前作からの伏線を無理なく生かすのであれば、アドラーこそがホームズとモリアーティの関係の焦点に──早い話が三角関係として描かれるのが一番自然であったにも関わらず、こうして彼女は開幕早々あっけなく退場を余儀なくされ、モリアーティに従っていた理由もついにわからず仕舞いなのだ。そして、こうして観客の前に示されたモリアーティの人物像の第一印象もまた、まるで女を女として扱う気の無い冷酷な無関心さを如実に示しており、ずっと従えて利用していたという設定であるにも関わらず、アドラーとの間にいかなる関係性も想像しがたいような、奇妙なほどの共感性の欠如が目立つ。早い話がアドラーの彼に対する脅えにすら、その原因を想像させるような物語性が微塵も無いのだ。文字通り取り付く島も無い。

結論から言えば、こうした点は続篇の製作に際して関係性の焦点をホームズとワトソンのそれに絞ったことに伴う変更であり、つまりはアドラーは端からお払い箱だったということだが、それだけでなく、対するモリアーティのキャラクター性そのものも、この変更の影響を受けて確立されたものだろう。彼が忠実な従者であるモランを引き連れて登場するのはそれ故の必然であり、先に進む前に覚えておいて欲しいのは、この場面において真に重要なのが、「アドラーがホームズに心を傾けているのをモリアーティに知られたために毒殺された」などという表面のつじつま合わせの筋書きなどではなく、「親密な間柄にある二人の男が共謀して女を殺した」という、このシーンそのものの完結した一枚の絵としての意味合いであることだ。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:28 | Comments(0)
追記にあたる関連まとめこちらにも目を通してください。

7月24日に始まって途中休止していた、間借人tatarskiyの表アカ@tatarskiy1による連続ツイート、完結したのでまとめました。下のRTにも出てくる【tatarskiyの部屋(8)「ホモォ騒動の顛末について」http://kaorusz.exblog.jp/18675599/】の続きになります。東浩紀の発言というのもそちらで読めます。(鈴木薫@kaoruSZ)


H*O*M*O

RT @QueerESL: 【単語】naïve =「無知・考えの浅さが原因で、素朴である」

RT @QueerESL: (例)It was naïve for Hiroki Azuma to bring up the issue of yaoi so he could defend homophobes.(東浩紀が、同性愛嫌悪的なひとを擁護したいがためにヤオイの問題を持ち出したのは、安易すぎた)

RT @kaoruSZ: 折りよくtatarskiyさんのまとめ 「ホモォ騒動の顛末について」届いたのでアップしました(勿論偶然ではない)。

昨日は夏風邪でツイートできなかったのだが、上のRTの一件について。大元のしょうもない記事やそれへの反発に対して心無いホモフォウブが揚げ足取りをした話は確かにどうしようもないのだが、その後の東浩紀による最低な勘違い発言のせいでまたぞろこちらに火の粉が飛んできたらしいので。

早速私が見たはてなブックマークで自称腐女子が「私たちもホモなんて安易に言わないで気をつけないと、ゲイ男性様への差別になっちゃう」とかのたまっていたのにはウンザリし果てた。そして「ホモと言うなゲイと言え。LGBTと言え」と繰り返すだけで意味があると思っている連中には呆れ返る。

まず、あくまで日本語の世間一般を前提とした大ざっぱな話であることを断っておくが、そもそも「ゲイ」と「ホモ」では実はコノテーションの根本的な部分に差異がある。ゲイを馬鹿にした言い方がホモなのではない。

「ゲイ」とはある種“人種”化された社会的属性であり、基本的に“当事者”個々人の名乗りであり、それは本質的に“ヘテロ男性”に対置される、彼らと同等の社会的権利を要求する別の立場の主張である。だからこそ「ゲイの権利」という言い方が成り立つのだ。そして「ホモ」ではこれは成り立たない。

なぜ「ホモ」ではそうしたパブリックな権利の主張にそぐわないと感じられるのか?「差別用語だからだ!」と短絡的な反応をする前に、そもそも「ホモ」という単語をヘテロ男性が侮蔑語として用いる場合、彼は何を意図しているのかをよく考えてみるべきだろう。

“ゲイ男性”を差別すること?いやそれ以前の問題だ。彼が嘲る対象とは「男のくせに女のように同じ男と寝るような、受身であることを恥とも思わぬ男らしくなさ」そのものであり、彼はそうした「男にあるまじき態度」を「同じ男として」憎悪しているのだ。彼が差別しているのは人種ではなく行為である。

ホモフォビックなヘテロ男性にとっての真の恐れとは「男が男にとってのエロティックな対象であり得ること」そのものであり、それは彼自身が男でなくならない限り、決して排除しきれない可能性である。「ホモ」とはその後ろ暗い可能性の尻尾としてのレッテルであり、疑惑の対象は常に彼自身でもある。

「お前ホモじゃないか?」という嘲笑の疑問符は、「裏切り者はお前だろう?」というこの疑惑の他者化であり、本質的に“他人事”ではありえないからこそ、彼は常にそれを繰り返す必要があるのだ。

こうした相手に「自分はホモではなくゲイです」と言ったところで、それは「お前のような裏切り者は男じゃない」という罵倒に対して「自分は貴方とは別の種類の男です」と返すに等しく、本質的に反論たりえていない。相手が「そうか」と引き下がるとしても、それは極めて欺瞞的な手打ちに過ぎないのだ。

いや、端から相互不可侵条約を結んで“休戦”することが目的ならそれでよいのかもしれないが。「男が男にとってエロティックであるなどという現象は、“ゲイ”という限られた種族の間のみの特殊な例であり、スタンダードたるへテロ男性の世界観には関わりの無いことだ」というわけだ。

もうおわかりだろうが、この欺瞞に満ちた紳士協定はヘテロ男性の“ホモ”ソーシャリティが支配すべき“公共の場”での“ホモ”エロティシズムの可能性の抑圧に合意するものだ。存在を許されるとしたら、それはエロティシズムを漂白された「ゲイ男性の人権」を擁護するための啓蒙的広告のみであろう。

「ホモ」とはパブリックな男たちの「合理的で対等な」関係性の影に潜む、アンオフィシャルな汚名と疑惑の影である。それはエロティックで不合理な可能性であり、彼らはそれを互いに対して抑圧することによってのみ、“名誉ある組織の構成員”たりえるのだ。

ゲイは「ホモ」ではないという言い分もまた、この抑圧へ合意した“正規の構成員”としての承認を求めているに過ぎない。だがそれによって表面上は“平等”に遇されたとしても、ホモフォビアの存在は微動だにしないだろう。全ての男は男である限り「ホモであるかもしれない」容疑者であり続けるからだ。

ところで、この男たちの相互監視によって成り立つホモソーシャリティに支配された世界の中で、女性とはどのような存在であろうか?外的な立場としては、言うまでもなく彼女は彼女自身の固有の権利や名誉を持たない男たちの補完物であり、それを下支えさせるべくホモソーシャルの外部に疎外された者だ。

だが彼女がいかなる特権も名誉も持たないことは、男たちがそれと引き換えに縛られている“女ではないもの”としての自己規定─ホモフォビアの呪縛からも無縁であることを意味する。彼女にとって“男同士の絆”とは、その本質そのままに、ただありのままにエロティックなものとして享受されるだろう。

そしてそれは彼女にとって、時として彼女自身の義務として課せられた「男にとっての女の物語」よりも、遥かに甘美な魅力を持つだろう。だが彼女がそれを愛すること、男と男の間にあるエロティックな絆を描くことは、正にそれを否認することによってこそ均衡を保っている男たちにとっては、秩序の撹乱であり許しがたい逸脱をしか意味しない。女がただ男から愛されることだけを望み、男たちの間の秘密についてなどおよそ感知し得ない愚かな愛玩物としての客体であってこそ、このあるべき秩序は保たれるのだから。

女性によるBL表現という形でのホモエロティシズムの顕現は、彼らにとって、自らが抑圧したものが「女のものとして」回帰して来ることを意味する。実はこれは通常“女の本質”とされる「男を愛すること」が“男が抑圧したもの”の外在に他ならないことの、新たな形を取った繰り返しに過ぎない。

男とは、自らが自らに禁じたことを許されている者であるがゆえに“女”を憎むものである。ミソジニーとはすべてこうしたものであり、男をエロティックな対象として捉えることは、その禁止の核心に位置する。そして言うまでも無くホモソーシャルとは、禁止によって作り出される秩序に他ならない。

秩序を回復するためにこそ、彼らは“それ”を憎むのだ。それは“ゲイ”という限定された範囲内でポリティカリーコレクトに扱われるべき人種のやむをえざる性質としてではなく、「あらゆる男にとっての、あらゆる男が」エロティックな対象でありうるなどという無秩序な“ホモ”を描いたものであり、それも「男の当然の性的対象であり、本質としてそれを望むもの」であるべきはずの女が、「女の分際もわきまえずに」描いたものだ。ヘテロ男性にとっては単におぞましいものとして、ゲイ男性にとっては「女如きが俺たちの領分を侵す不届きな所業」として、罵倒し蔑むのが当然の代物だ。

彼らは口を揃えて言うだろう「俺達はこんな“ホモ”なんかじゃない」と。そして罵倒される女性たちの主観としては、彼女たちがそれを“ホモ”と呼んでいるのは、由緒正しい人種としてのゲイとも“普通の男性”とも無関係な、卑しい自分たちの単なる妄想であるという“わきまえ”の証しであろう。「男同士の絆が魅力的でエロティックに見えるのは、女の身の程も知らない私の妄想なのはわかっています。女如きに本物の男性なぞ描けるわけもありませんし、偽物なのはわきまえています」というわけだ。言うまでもなく彼女が蔑んでいるのは自らのセクシュアリティであり、ゲイ男性であろうはずもない。

女の描いた偽物の“ホモ”を叩くことは、ヘテロ男性には自らが由緒正しいマイノリティたるゲイ男性を憎んでいることを、ゲイ男性には自らが非の打ち所の無い“立派な男”であるヘテロ男性から憎まれていることを忘れさせ、「あの忌々しい女どものせいで」不快な思いをしていると信じさせてくれる。

だが男たちが彼女に負わせ、彼女自身も自分の罪と信じ込んでいる“ホモ”という汚名は、「男にとって男がエロティックであること」の可能性と美意識と世界観そのものであり、現実の社会においては、それを抑圧することの利得によって全ての男は共犯である。「ゲイ男性に失礼」とは大した言い逃れだ。

言うまでもなく「女こそ男にとって当然にして唯一の性の対象であり、男が望む形の美を体現することこそ、女の義務であり存在意義である」とする男性によるヘテロセクシズムの世界観とは、現実にこの社会を支配し「何が当然の前提としての従うべき“現実”であるか」を規定する覇権そのものである。

BL表現を愛好する女性たちがそれを“ファンタジー”と呼んでいるのは、それが本質的に“従うべき現実”としてのヘテロセクシズムの世界観に反するものであるからだ。それは決して彼女の“妄想”の産物などではなく、“従うべき現実”によって抑圧されている“もう一つの可能性”そのものであり、それは女こそを当然の対象とする通俗からは離れた、オルタナティブな美意識の表現である。そして「通俗以上の何か」を表現しうるものとは、あらゆる芸術の目指すところそのものだ。

勘のいい方ならもう気づかれたと思うが、ホモエロティシズムの表現とはかつて名だたる芸術家の─つまり“男”の手になる傑作を生み出してきた普遍的な美の対象であり、それは近代的なヘテロ/ゲイという二分法やそれに基づいたホモフォビアなど及びもつかぬ、文化そのものの始まりと共にあるものだ。

以前に制度的なヘテロ男性のメンタリティの問題として論じたことがあるが、http://kaorusz.exblog.jp/18345164/ 近代的なヘテロセクシズムとホモフォビアの機能は“性的なもの”と“知的なもの”との分離にあり、それは合理主義的な理性の優越による、官能的で不合理な感受性の抑圧である。

そして芸術とは、自らの官能的な不合理に基づくファンタジーを、知的な技巧を凝らして表現することによって、他者にも快楽として享受されうる普遍の域に至らしめようとする営みである。それは特定の個の感受性から発しながら、洗練を経ることで多数の個の感受性に働きかける力を持つことだ。

“性的なもの”と“知的なもの”の一致なくして芸術的な表現はありえない。そしてヘテロセクシズムの要諦とは両者を分離し、前者を“女”の本質とすることによって後者を男が占有することであり、それに対して芸術としてのホモエロティシズムの表現とは、本質的にこの二つの一致を象徴するものなのだ。

それはまさしく両性具有の実践であり、そこから生み出される表現もまた、個々の性別や性的指向を超えて人を魅了する力を持つだろう。ただ制度的なヘテロ男性のホモフォビアとヘテロセクシズムだけが、それが彼自身にとって魅力的であることと、彼のものであるべき女がそれに惹かれることを認めぬのだ。

この文章をここまで読んでこられたなら、本当に大切なことが何かはもうおわかりだろう。ホモエロティシズムのイメージ自体が蔑視されたまま、種族としての“ゲイ”だけは差別されないなどということはありえず、そんな欺瞞をヘテロ男性との“相互理解”であるとする錯誤はミソジニーの温床に過ぎない。

“それ”がなんと呼ばれるのかが問題なのではない。必要なのは彼自身が、それがイメージであれ現実の他者であれ、“ゲイ”ではない自らもまたホモエロティックなものに惹かれうること、その可能性そのものを肯定することだ。
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by kaoruSZ | 2012-11-18 16:56 | 批評 | Comments(0)