おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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(承前)http://kaorusz.exblog.jp/19707251/
「空家の冒険」でのホームズとの再会の場面だって怪しいことばかりだ。周知の通り、目の前にホームズがいるのを見たワトスンは気を失ってしまい、本人はそれが最初で最後の経験だと言っている。だが、ワトスンにとってはそうでも、ホームズ物語の中には真っ当な紳士や淑女として通っている人物が、死んだと思っていた過去からの訪問者を目のあたりにして死ぬほど驚くという話がいくらでもあるではないか。「グロリア・スコット号」のトリヴァ老人など、ホームズにある人物と「たいへん親密な関係がおありでしたが、その後はその人のことを忘れてしまいたいと努めていらつしやいます」と言われただけで失神している。
 それまで他人事[ひとごと]として反復されてきたことが今度は他ならぬワトスンの身に起り、そして実はこちらの方が本質的なのだ。トリックの目新しさが命であるかのように書き継がれたホームズものの真の主題は『モロー博士の島』の場合と同様、二人の男の関係(その可能性の探求)であるのだから。

 周知の通り『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に“二人の男”はおらず、“独りの男”がいただけであった。ジキルの友人だったはずの孤立した独身者たちはスキャンダルに対してどこまでも無力であり、ある者はジキルに先んじて自滅し、ある者はジキルの跡を継ぐよう定められた。ハイドの悪の正体は作者の友人たちにとって公然の秘密であり、その運命は身につまされるものであっても、表立っての抵抗など考えられないものであった。『ドリアン・グレイの肖像』の場合も主題が同性愛であることは明白で、作者の悪徳も知られていたが、ドリアンは男たちを破滅させはしてもポーに倣った結末に明らかなように、彼には分身しかおらず“二人”ではなかった。ヘンリー卿も実のところ彼の理解者からは遠かったのである。そして『ジキル博士とハイド氏』でハイドがそこから通りに出てくるドアのある家が登場人物によって「ゆすりの家」と呼ばれるほど、同性愛をゆすりと切っても切れないものにした法律が、やがて現実の作家を破滅に追いやることになる。彼とボジーの関係などは藝術の見劣りのする影に過ぎまい。

 ドイルがものを書きはじめた頃、彼は当然そのような分身譚、幻想小説、そして同性愛が置かれた状況を意識していたはずだ。ホームズを彼はいつから“そのような人”として考えるようになったのか? 最初からである。そうでなければ、あのように明らかな伏線を随所に張りめぐらしはしなかっただろう。

 あるいはそれは無意識のうちにだったかもしれない。ワトスンがホームズを徐々に知っていったように、ドイル自身によってもそれは書きながら、書いたもののうちに、書こうとするものの中に次第に形作られ、彼自身によっても発見されていったのかもしれない。いずれにせよ彼は前人未踏の領域に到ったのであり、いかなる作家にも似ていない達成を成し遂げることになった。それは単純なバディもの(ホモフォビックな解説者が今日なおこれは同性愛ではないと口を挟み続けるような)でもなければ、たとえばヘッセの『デミアン』のような、分身としての友人が主人公の成長とともに消え去る思春期のイニシエーションとも勿論違う。そうした未熟な若者の話なら、無論世間には受け入れられやすかったはずだ。

A charming week and a lovely trip
 ドイルがホームズを殺そうとして「最後の事件」を書いたとか、読者の非難や要求のために「空家の冒険」で再びホームズを登場させたとかという話は、たんに世間に流通し好んで語られるという以上の意味を持たないだろう。「最後の事件」は恐しく奇妙な話なので、ストランド・マガジンで当時これを読んだ人たちが小説家を非難して、再開しろと哀願や脅迫をしたと言われても俄かには信じ難いくらいだ。こんな出鱈目な話を読ませるなと言ったのならまだわかるが。なぜなら、「最後の事件」は、すでに述べたように本当にあったことを隠すためのスクリーンとして再構成された夢であり、実は「空家の冒険」もそうであるからだ。

 前者は先述した「閉ざされた夢想の部屋」からワトスンが結婚によって出て行ったあと、残されたホームズが深夜別れを告げに来て、そのまま二人で大陸へ向かった道行の顛末、すなわちホームズは行方不明になりワトスン一人が帰ってきたという話を、そして後者はつつがなく「大人」になって一家を構えていたワトスンの前に三年前死んだはずのホームズが現われて、元のベイカー街の部屋へ引きずり込み、再び、いや今度は本当の、「秘密の共有者」になるまでが書かれているのであり、モリアーティには(モランにも)何の関係もない。

 こうしたことを何も考えなかったとしても、たかがモリアーティが逮捕されるまで英国を離れているというだけの理由で、どうして「財産はロンドンを発つ前にすつかり始末して兄のマイクロフトにわたしてきた」などということになるのか、リアルタイムの読者は不思議に思わなかったのだろうか。

「最後の事件」における、実在の“モリアーティ”(無論作品内世界で)に関する記述とワトスンの書いたフィクションとの繫ぎ目は「『最後の事件』ノート」http://kaorusz.exblog.jp/19549811/でtatarskiyさんが綺麗に腑分けしてみせている通りで、モリアーティの影を一掃してみれば実際に何が起ったかは見やすくなるが、それも彼女がもう書いている。

 それにしても危険が迫っていると言ってホームズが自分を帰そうとするのをワトスンが拒んだあと、「一週間、私たちはローヌ河の渓谷を歩きまわつて喜んだ」とか「足下はもう春の美しい緑、頭上はまだ冬の処女雪――それは楽しい旅路だつた」というお花畑状態、何も知らずに読んでもどこか変だと誰も思わなかったのだろうか。「喜んだ」とか「楽しい旅路」とか英語では何なのだろうと思い今回はじめて原文を読んでみたが、 “For a charming week we wandered up the Valley of the Rhone, ” “It was a lovely trip, the dainty green of the spring below, the virgin white of the winter above;”と、もう完全に道行き文だった。「草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る」(近松門左衛門)

 いよいよライヘンバッハの滝へ行くと周知の通り「土地の若ものが」「肺病の末期にあるイギリス婦人」が喀血して同国人の医師の診察を求めていると宿の亭主からの「手紙をもってとんでくる」。言うまでもなく偽手紙だが、モリアーティは最初からいないのだから、この場面全体が実は作り事である。
と言ってもそこに意味が込められているのは勿論だ。まず使いの若者だが、「スイス人の若ものはついに発見されなかつた。その筈であろう、彼はモリアティの多くの配下の一人だつだのだもの」とあり、これは「(存在しない)モリアティの配下なのだから発見されるわけがない」と読みかえられるべきものだし、ワトスンが患者を診に行くあいだ「使いにきた若ものを、案内者兼帯の話し相手としてのこしておくことに話がきまつた」と書いてあるのに、ホームズの手記の中にモリアーティが現われた時彼がどうしたかが書かれていないのが不自然である。むしろ若者はワトスンを先導して宿に戻ったと(気がつくと姿が見えなかったとでも)した方が自然で、これはドイルが話はこびの不自然さを気づかせようとわざとこのようにしておいたのだと思われる。それでも、「モリアティの配下だから」見つからなかったと言われただけで、大多数の読者は納得してしまうのだろう。

 次に肺病のイギリス婦人、この人も存在しない訳だけれど、「空家の冒険」でホームズが帰ってくるまでにメアリが死んでおり(実際は彼女が死んだから彼が帰ってきた訳だが)、その死因が結核だと[作品外で]言われていたり、ドイルが最初の妻を結核で亡くしたことまでも知ってしまうと、この幻のイギリス婦人はメアリの幻としか思えなくなる。
 滝の前でホームズと別れて宿のイギリス婦人のところへ向かったワトスンとは、実はホームズと滝に飛び込んで死ぬのを思いとどまって踵を返し、メアリの下へ帰って行ったワトスンなのだ。しかし結局メアリは失われてしまう――幻のイギリス婦人のエピソードとは、ワトスンのそういう幻想が、あのような形で定着されたものだろう。

 ワトスンはホームズ失踪から二年目に「最後の事件」を書いており、ホームズの帰還は翌年だとすると、執筆時にメアリはすでに作り話の中の「イギリス婦人」のように病篤かったと考えられる。しかも帰ってきたもののワトスンは脱け殻状態で、何があったかメアリに悟らせてしまったろうし、要するにホームズと自分で結果的に彼女の死期を早めたも同然とワトスンは思っていたに違いない(『シャドウ ゲーム』でホームズとワトスンの代役であるモリアーティとモランにメアリの代役のアドラーを“結核で殺させた”脚本家は、よく原作を読み込んでいると言えよう)。

 ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」。黒くはっきりと見える幻。無論モリアーティだが、あとで思えばあれがモリアーティだったのだ、などとはさすがにワトスンは言わない。“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。実はこれがワトスンが間違いなくまさ目にみた唯一のモリアーティ(しかも、ホームズにあれがそうだと言われてそっちを見た時と違いこの時はそれと知らずに)なのだが、いったいこれは何か? 影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」。

 ホームズと別れてメアリ(と彼女に象徴される英国での真っ当な生活)の下へ向かうワトスンがそれと知らずに見たのは、自分の代りにホームズと滝へ飛び込むべく急ぐ彼自身の「影」だったのであり、彼が「そのことを忘れて」イギリス婦人の下へ急ぐのはけだし当然であろう。そしてイギリス婦人は幻でワトスンには救いようがないとは、もはやメアリの下へ帰っても手遅れであることの暗示でもある。

 医者が間に合わなくて実際に死ぬ結核の女性は、ホームズ生還後の『スリークォーターの失踪』に再び現われる。ポーの小説さながらの死美人は「ベッドに横たわっているひとりの女性――若く、美しい。穏やかだが、血の気のない顔、うつろに大きく見ひらかれた青い目――豊かに渦巻く金色の髪のなかから、その顔が凝然と天井を見ている」と描写され、傍で悲嘆にくれる夫がホームズとワトスンを医者と思って告げる――もう遅い。彼女は死にました。

 最近、これもtatarskiyさんから指摘されたのだが、この美女は蝋人形である――「空家の冒険」のホームズの蝋人形が存在せず、モラン大佐(実は彼自身もホームズの狙撃者としては存在せず、よそから借りてこられたのである)や読者の目を惹きつける囮であったように、彼女も異性愛のラヴ・ストーリーという表向きのプロットのために借りてきて据えつけられた作り物なのだ。スリークォーターはなぜ失踪したのか、本当の愛は誰と誰の間にあるものなのか、これは短篇で登場人物も少ないので、ぜひ御自分で確かめて頂きたい。

コナン・ドイルとは何者か
 帰還後の彼らの夢想の部屋は荒波にさらされる。彼らは本当のカップルになり、自分たちを否定する社会に対抗することになるのだ。ホームズが女嫌いだとはワトスン自身がそう書いてもいて、いくらでもそれを繰り返す人がいるのも事実だが、本当の「女嫌い」の推理小説とはレイモンド・チャンドラーのそれのようなものだろう。チャンドラーのことは以前ブログでもちょっと書いたことがあるが、特に彼と較べた場合、ドイルの特徴は際立つ。ホームズがホモソーシャリティから切れているのは、マジョリティの男たちのネットワークから否応なしにはみ出てしまう存在だからだ。一方、一匹狼を自認するハードボイルドの探偵とは、女を憎みながら女と性交する男であり、同じスタンスの無数の男たちが彼を支えている。

 もしワトスンがいなければ、ホームズは他の“犯罪者”たちと、そして/あるいはジキル-ハイドやドリアン・グレイやオスカー・ワイルドと同様の、さらにはロジャー・ケイスメントのような最期を遂げていたかもしれない。孤立無援の彼の唯一の砦にワトスンはなったのだ。植民地の人権問題に尽力し、アイルランドのために働いたロジャー・ケイスメントは、性的な秘密の暴露という理不尽なやり方によって殺された。ホームズの「帰還」以降、つまり彼らがカップルになって以降のワトスンが秘密主義になり、ホームズが事件の記録の発表を嫌うようになり、彼らがマイクロフトを通じて政治や謀略の領域により深く踏み込んでゆくようになったのもけだし当然と言えよう。変わり者の探偵とアマチュアの友人がベイカー街の部屋を訪れる市井の人の奇妙な訴えに耳かたむける「冒険」の世界は去り、秘密を握られ身を危うくする前に進んで他人の秘密を握ることこそ、自分たちを守るものであることを彼らは知ったのだ。

 ワイルド裁判の衝撃の下に明確にテーマを設定して書いたウェルズと違い、ドイルは少なくともはじまりにおいては、意識的に彼らの関係をメインの主題と意識していた訳ではないだろう。ホームズものの最初の二つの長篇は、伝奇小説であったり、臆面もないラヴ・ロマンスであったりという面を持つ。また、探偵小説の始祖としてのみならず幻想小説家としてのポーの衣鉢をも彼は受け継いでおり、それは「最後の事件」のウィリアム・ウィルスンを髣髴とさせる分身の描写一つ取っても明らかだ。しかし、ポーのデュパンと無名の語り手をモデルにホームズとワトスンを創造したドイルは、自らの小説の真のオリジナリティ――形式をまねた追随者のついに及ぶものではない探偵と親友の関係の魅力――の本質に向かって、ゆっくりと成熟して行ったのだ。

 ここでは私たちの見出した証拠のいちいちを述べることはしないが、少なくとも短篇第一作では、ホームズをクィアーとして描くことにドイルは腹を決めていたと思われる。そして彼は運命的にケイスメントに出会った。彼と、彼をあのような形で失ったことは、ホームズの話に人に知られることのない、しかし決定的な痕を残すことになった。周知のようにポーは「幻想小説」や「探偵小説」の祖として見なされてもその藝術性は担保されているが、ドイルは平気でたんなる凡百のミステリ作家の祖として片づけられてしまう。しかし、トールキンがファンタジー文学の祖であるなどということが全くないように、ドイルもまたその唯一無二の達成をヘテロセクシズムとホモフォビアのせいで今日まで認められることのない作家なのだ。
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by kaoruSZ | 2012-12-22 08:44 | 批評 | Comments(0)
「その夜寝台[ねだい]に二人の男あらむに」と聖書は記せり 黒き紅葉  ――塚本邦雄



ワイルド裁判と『モロー博士の島』
『モロー博士の島』出版(一八九五年)から三十年後に、H・G・ウェルズが自らの全集の序文で、この小説はオスカー・ワイルド裁判を念頭に置いて書いたと述べていることはエレイン・ショウォールターの著書『性のアナーキー』で知った。しかし、ショウォールターはその意味を完全に取り違えている。

 ウェルズ曰く――「その頃、スキャンダラスな裁判が、一人の天才のぶざまで哀れな失墜があった。この物語は、人間とは、動物が荒削りにされて形を成しているにすぎず、本能と禁止とが絶えず内部でせめぎあっている存在であることを思い出させるかの裁判への、想像力ある人間からの反応であった。この物語はそのような考えの体現であり、それ以外にはいかなる寓意も持たない。これは、荒削りで、混乱し、苦しむ獣としての人間というコンセプトをできるだけ鮮烈に描き出す、ただそれだけのために書かれた」

 批評家が「ワイルドとウェルズのつながり」を無視してきたとショウォールターは言う。しかし、彼女が主張する「つながり」とは奇妙なものである。『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物を引き合いに出し、次のように述べているのだ。

「ヘンリー卿と同じくモロー博士も生体解剖者であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし、彼の場合は動物から人間を創造しようとする」「博士はまた(…)唯美的な科学論にのっとって苦痛や感情に無関心となり、その実験室はユイスマンスの部屋もしくはヘンリー卿のサロンの裏ヴァージョンで、そこで博士は科学のための科学のもたらす絶妙な感覚を楽しんでいる」

 そんな事実は全くない。ヘンリー卿が「解剖者」であるとは心理分析に長けていることの譬えにすぎず、モローは世紀末の唯美主義者になどおよそ似ていない。「女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし」云々に至っては、切り離して何が悪い(というか最初から切れてるだろう)というのを別にしても、読者にフェミニズム的な怒りをかき立てるための捏造である。結局のところショウォールターはフェミニズム的アピールの材料に使うため、ウェルズもワイルドもねじ曲げていると言わざるをえない。

 ショウォールターは『モロー博士の島』で手術台に繋がれている牝のピューマを、当時の「新しい女」と同一視したり、「この[獣人の]女たちは博士の文明化の試みにとくに頑強に抵抗する」と主張したりしている。ペンギン・クラシックス版『モロー博士の島』の解説者は作家のマーガレット・アトウッドだが、彼女もまた、ショウォールター的な主張を踏襲し、女=抵抗者と見なすことを熱望しているので、「ピューマは抵抗する」だの、「モローを殺すのは彼女である」だの、男の犠牲者に甘んじない抵抗の表象として牝の獣を祭り上げたがる。

 だが、こうした偏見なしに読めば、当然のことながら、ここで問題にされているのは現実の女ではない。抵抗する牝のピューマは、男の女性性――男が否認し、女に投影したもの――の表象だ。この小説が(ショウォールター自身言っているように)「大きな意味をはらんだジェンダーのサブテクストを持っている」ことも、「ワイルドとウェルズ」のつながりも、ウェルズがワイルド裁判を念頭に置いてこれを書いたと述べていることも、そう考えてはじめて意味を持ってくるだろう。

 ショウォールターは、「ワイルド裁判を念頭に置いた」というウェルズの文章を読んで、動物を生体解剖して学界から追放されたモロー博士をワイルドだと思い込み、ワイルドの別の小説の登場人物ヘンリー卿の特徴でモローを補強しようとしたのだ。信じられない。それでは全く主題との有機的繫がりが無いではないか。

 ワイルドをモデルにしてウェルズが描いた人物は、モロー博士のすぐ傍にいる。医学生だった十一年前、酒を飲んで、「ある霧深い夜に十分だけ正気を失った」ため、「スキャンダラスな裁判」の主人公と同様、「ぶざまで哀れな失墜」の結果、人間社会から追放され、モロー博士にスカウトされて島に来た、「混乱し、苦しむ獣」モンゴメリーだ。失敗の中身は語られないが、主人公プレンディックはモンゴメリーから身の上話を聞いたあと、「じつをいえば、若い医学生がロンドンから放逐された理由など、あまり知りたいと思わなかった。私にだって想像はつく」と言っている。ウェルズは読者に想像力を期待しているのであり、それはさして難しいとは思われないのだが。

コナン・ドイルとケイスメントの黒い日記
 コナン・ドイルにとって、ウェルズにとってのワイルドに相当するのがロジャー・ケイスメントであろう。日本では ワイルドに較べれば勿論、そうでなくても知名度が格段に違うこの名前は、日本語ウィキぺディアの記事としては最初の概説しか見当たらず、しかも英文ウィキの当該部分の最終節(全体の四分の一を占める)に当たる記述を完全に欠いている。外交官としての功績でナイトの称号を授与されながら、第一次大船中にドイツと通じたとされ、叛逆罪とスパイ容疑で処刑されたこのアイルランド独立運動の活動家は、英文ウィキによれば、逮捕後、ブラック・ダイアリーズと呼ばれる日記にかかわるスキャンダルに見舞われた。彼の日記には、若い男性を好むpromiscuous homosexualとしての行動が記されており、このことは彼の支援者に手を引かせる効果があったのだ。彼を擁護した者の中には、W・B・イェイツやジョージ・バーナード・ショーといった錚々たる名前が見られるが、コナン・ドイルの名はその筆頭に挙げられる。ドイルは以前からケイスメントと交流があり、彼の大きな功績である、ベルギーのレオポルド二世の支配するコンゴ自由国での原住民への残虐行為の告発を基に、大部のパンフレットを書いている。

 tatarskiyさんと電話で話すうち意見が一致したのだが、映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』に出てくるモリアーティの「赤い手帳」とは、要するにケイスメントの「黒い日記」だろう――「彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処」の記録ではなく。いや、確かに犯罪ではあっても別の「犯罪」であり、モリアーティはロバート・ダウニー・Jrのホームズにモランとの愛の日記を盗み読まれた上、ロンドン警視庁へ通報されたのではないか。

 すでにtatarskiyさんが論じているが、あの映画の(実は原作でもだが)モリアーティの犯罪は多分にホームズの妄想くさく、彼とモランをつけまわしたホームズが実際に目撃しているものといえば彼ら二人の親密さだけであり、モリアーティが鳩に餌をやりながら手帳を開いているのを見ただけで、それが犯罪と隠し資産の記録だと“気づいて”しまう始末だが、それでも当時の法に従えば、ホームズは単なるリア充カップルを(ケイスメントのように)破滅させられるだけの証拠を、確かに集めていた訳だ(手帳の中身を知ったレストレードはさぞ驚いたことだろう)。

『モロー博士の島』が科学技術をめぐる寓話ではなく、プレンディックとモンゴメリーという男二人の同性愛的な関係をめぐる話であることを私に指摘したのは、去年この小説をはじめて読んだtatarskiyさんだった。その後私(たち)はそれを実証する記述をテクストの中に次々見出すことになった。上に述べたのはそのほんのとば口である。『モロー博士の島』はここではとても書ききれない隠喩で満ちみちているが、「血の味」を知ることが同性愛の隠喩になっていること、実のところプレンディックが、発端から、言葉では拒否しながらたびたびそれを味わっていること、さらに、獣人と人間の連続性(進化論が可能にした認識)が、“同性愛者”という特殊な人間が存在するという“種族化”の不可能性の喩であることだけは指摘しておこう。
tatarskiyさんのホームズ物語読解(『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』分析の副産物)の一部はすでに公開したので(http://kaorusz.exblog.jp/19549811)、ウェルズの小説の二人の男が、ドイルの場合はワトスンとホームズに相当すると言ったとしても、心ある人には受け容れられよう。


夢想の部屋
「最後の事件」を久方ぶりに読み返して驚くのは、ワトスンがこんなに“信頼できない語り手”だったかということだ。勿論、一番目立つのはホームズの追跡妄想だが、モリアーティについての情報がホームズの口から出るものに限られるのと同様に、読者の知りうることはワトスンの語りに限られている。実は、犯罪王モリアーティさえ、ホームズから聞かされたという体裁を取った“作家”ワトスンの創作と考えるべきであろう。そう、私たちはホームズの助手だの伝記作者だのという慎ましい肩書、文筆には素人である医者の片手間仕事という見せかけに騙されて、ワトスンを見くびってきたのではないか。

 それはまた、同様の経歴を持つコナン・ドイルが“作家として”まともに扱われてこなかったということでもある。彼は志と異なるものが偶然売れてしまい、自分の書いたものの価値が理解できなかった作家ではない。たとえ小説が書けたとしても短歌よりもなお悪かったであろう新聞記者あがりの歌人とは違うのだ。

 ホームズとワトスンの登場する話は、多くの(正確には五十六の)短篇と四つの長篇として散らばっているが、実際にはひとつらなりの、ワトスンが下宿をシェアすることになった驚くべき人物に関心を寄せ、相手を知ろうとするのにはじまる長い関係とその終り(どのような?)が書かれているのであり、結局ドイルも彼らと人生をともに歩むことになった。始まりでは二人とも二十代の終りくらいだが、ワトスンは従軍と戦傷のせいで引き延ばされたモラトリアム状態にあり、彼らはコンラッドのThe Secret Sharerのように住まい(と秘密)を分かち合うことになる。

 ホームズとワトスンに比べればあまりにも短い時を共有する、コンラッドの船長と海から来たその分身については以前書いたことがあるhttp://indexofnames.web.fc2.com/etc/conrad_men3.htm が、そこで私はロラン・バルトがジュール・ヴェルヌの『海底二万里』について、閉ざされた「室内」に引きこもり自分だけの夢想に浸る喜びこそが幼年期とヴェルヌに共通する本質であると論じている文章を引き合いに出した。最近、創元推理文庫版の『シャーロック・ホームズの復活』を読んでいてその「解説」に、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に収められたシービオクとマーゴリスによる「ネモ船長の船窓」が、ノーチラス号とベイカー街の下宿との共通性を説いていることが紹介されているのに出会ったが、彼らは無論バルトを参照している。この「共通性」は、彼らを引用している解説者が思っている以上のひろがりを持つものだ。
ワトスンをこの閉ざされた夢想の部屋(そのあまたの“冒険”にかかわらずホームズはずっとそこにとどまっている)からともかくも一度は出て行かせることになったきっかけは、言うまでもなく『四つの署名』で知り合ったメアリ・モースタンとの結婚である。そしてその結果が「最後の事件」に他ならない。

「最後の事件」とは何か
「最後の事件」は、それが発表された現実世界のドキュメントに見せかけたプロローグとエピローグ、そしてその間に挟まれた“妄想”から成る。最後のものは、一見、妄想に取り憑かれたホームズを、それに気づかぬ鈍い語り手のワトスンがリアリズム的に描いているかのようだが、それがワトスンの詐術である(いや、詐術などと言わずとも普通に「小説」と呼んでいいのだが)。彼らの同時代人だったフロイトが示したように、妄想と夢と小説は同じ品柄でできており、同じ論理に従う。それが或る時は現実の写しと見せかけていたり、ホームズの言動のようにあからさまに妄想的だったり、ワトスンの語りのようにニュートラルな叙述と見せて実は“夢”だったりという違いがあるだけだ。
 例の『シャドウ ゲーム』は、ほぼ全篇ホームズの夢と言ってよさそうだが、「最後の事件」は、本当に起こったことを明かすわけにいかないワトスンが代りにペンを持って紙上で見た、とりつくろわれ、再構成された夢なのだ。

 モリアーティが実在しないのはまず間違いない。ドイルも、はっきりそれを読者に示すつもりで書いていると思われる。ホームズは言う――「僕は幽霊など信じはしないが、いまがいま考えにふけっていた当の本人が、とつぜん目のまえに現われたのには、思わずドキンとなった」。幽霊ではないにしても、ドッペルゲンガーだろうそれは。
 すでに別にツイートしたがhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121104 ホームズによって描写されるモリアーティの外見自体、彼自身のものとして私たちが知っているものにそっくりなのだし、そもそもそうやって話しているホームズの、深夜のワトスンの診察室への出現そのものが、語られているモリアーティのホームズ訪問の反復である。さらに、モリアーティの部下に襲撃されたとホームズが主張する出来事は、どれも単なる偶然が、ホームズの妄想に取り込まれたとしか思えない。モリアーティの姿を見たと彼が言っている箇所も同様だ。

 ここまで明らかなことをワトスンはなぜ指摘しないのか。なぜホームズに、それは君の妄想だろうと一言云ってやらずに口をつぐんでいるのか。理由は簡単だ。その妄想を作り出しているのは実はホームズではなくてワトスン自身、作中人物ではなくてそれを書いている作家としてのワトスンだからである。(続く→http://kaorusz.exblog.jp/19707256/
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by kaoruSZ | 2012-12-22 07:47 | 批評 | Comments(0)
私は時として、あの戰が鬼側の勝利に歸してゐたらと夢想することがある。桃太郎は勿論犬猿雉爺婆に到るまで奴隸とされ晝夜を分かたぬ酒宴とオルギアが續くだらう。しかしこの榮耀の後にはすみやかに虚脱と自己嫌惡の日日が周つて來るかも知れぬ。そしてその方がよりロマネスクだ。#ももたろう文体模写

併し昔の人間が我々が生きてゐるやうに生きてゐるといふことに就てはそれが人間でなければならないといふ前提があつてその手掛りが得られない時にはそれは犬猿雉その他何だらうと学術上の研究の対象にはなつてもその時代にも流れてゐた筈の桃が我々のものにならない。(昔話一)#ももたろう文体模写

「ワトスン君、僕は行かなきやなるまいと思うよ」ある朝一緒に食卓についている時ホームズがいつた。「行くつてどこへ?」「鬼ヶ島さ―桃太郎事件だ」べつに驚ろきもしなかつた。むしろ私は今都中で噂の種になつているこの事件にホームズが関係しないのを不思議にさえ思つていた。#ももたろう文体模写

きび団子はそれを眺めただけで味わってみなかったあいだは何も私に思いださせなかった、というのもおそらくそののちしばしば菓子屋の棚でそれを見かけたがたべることはなかったので、それの映像が鬼ヶ島のあの日々と離れて他のもっと新しい日々に結びついてしまったからであろう。#ももたろう文体模写

見わたすと、その桃の色彩はガチャガチャした色の階調をひつそりと球体の身体の中へ吸収してしまつて、カーンと冴えかへつてゐた。おばあさんは埃つぽい丸善の中の空気が、その桃の周囲だけ変に緊張してゐるやうな気がした。おばあさんはしばらくそれを眺めてゐた。#ももたろう文体模写

桃太郎にあってはきび団子は遭遇を告げる一つの符牒であるかのように、人と鳥獣とを結びつける。そして多くの場合、桃太郎的「存在」は、その遭遇によって後には引き返しえない時空へと自分を宙吊りにすることになる。#ももたろう文体模写

お腰につけた黍団子という表現が桃の丸みを反復するこの引用にあっても、黍団子の説話的機能はあまりに明確であろう。語り手に一つの場面から別の情景へと移行するのを許すものは、ほかならぬ黍団子への言及なのだ。黍団子授受の描写というよりむしろ黍団子の一語を口にすること。#ももたろう文体模写

桃太郎はいつも縄の帯をしめて、わらつて森の中や畑のあひだをゆつくり歩いてゐるのでした。ある年、山がまだ雪でまつ白く野原には新しい草も芽をださないとき、桃太郎はいきなり走つてきて云ひました。「ばあさ、おらさきび団子七百箇作つてけろ」「きび団子七百箇、どうするべ」#ももたろう文体模写

桃太郎のうちの人たちは、ほんたうによろこんで泣きました。まつたくまつたく、この鬼から奪つた宝物の、緑玉石のりつぱなみどり、さはやかな珊瑚、すずやかな水晶、月光色のオパアルが、これから何千人の人たちに、ほんたうのさいはひがなんだかを教えるか数えられませんでした。#ももたろう文体模写

桃太郎は自分をつまらないもの、偶発的なもの、死すべきものとして感じることをすでにやめていた。一体どこから彼にやってくることができたのか、この力強いよろこびは? それはこぶ茶ときびだんごの味につながっている、しかしそんな味を無限に超えている、したがって(後略)#ももたろう文体模写

鬼ヶ島の凄惨な光景はよく書けてゐてそれがこの作の最大の美点と思ひますがそれは探小本来の興味ではありません。また筋の上ではホームズが突然鬼ヶ島に現れる所など最も面白い箇所ですが、之も理知興味ではありません。小生の好きな不可能興味が殆ど無いのです(井上良夫宛書簡)#ももたろう文体模写

好意的な運命が貴方を許容したこの一つの時間では、貴方が鬼ヶ島にこられました。もう一つの時間では、桃を切るとお婆様は貴方が死んでいるのをみつけられた。しかしもう一つでは、私はこの言葉をそっくりそのまま話してはいますが、誤謬であり幻にすぎないのです。(篠田一士訳)#ももたろう文体模写

鬼は俯伏せに横たわっていた。金棒を握ったままの腕が苦しげにねじれている。ぼくはそれから目を離せなかった。死とはこうまで迅速なものか。桃太郎の姿はどこにもなく、見あげる空は砂の色に照りかがやき、苦悶するコウモリのように旋回し、鋭い叫び声をあげた。(宇野利康訳) #ももたろう文体模写

わたしは川で洗濯をする老婆を見た。流れる桃を見た。この世のありとある鏡を見たがどこにもわたしは映っていなかった。ボルヘスの古びた邦訳本を見た。山をなす黍団子、犬、猿、雉を見た。鬼ヶ島の隆起する砂浜とその砂の一粒一粒を見た。突撃する鬼たちを見た。(牛島信明訳) #ももたろう文体模写

要するに一種の屏風繪であり、綺麗に切りとられたフィルムの一こま、繪葉書の一葉である。犬も猿も雉も舟の上でぴたりと靜止したまま動かない。むしろ動くべき言葉の一つ一つがわざと殺してあるとしか思へない。静物畫化された風景畫であり、桃太郎は決して作者自身ではない。#ももたろう文体模写

兜は山高で角を隠し、頬にぴったりついた頬当てがある形のものでした。黒の陣羽織には雪のような花をつけた一本の木が白で縫い取ってありました。今では鬼ヶ島の何人もこれを着用せず、ただ、かつて白の木が生えていた噴水の庭の前に立つ城塞の護衛の鬼にのみ許されていたのです。#ももたろう文体模写

ヘーゲルはある有名な文章の中でいっている。《それは最もひややかで最も平凡な死であり、桃を二つに切る、または、一箇のきび団子を食べること以上の意味もないのである。》なぜか? 死は自由の完成、すなわち、最も豊かな意味のある瞬間ではないか?(ブランショ 篠沢秀夫訳)#ももたろう文体模写

もともと桃太郎に幻を視る以外の何の使命があらう。薔薇色の頬、銅[あかがね]色の胸、桃の實の緋色をうつす腿と腕[かひな]の雄雄しい童男[をぐな]は、罪と血と罰の色を染めた鉢巻の下の無垢な眸で獣らを魅了する。東海の夜明と君がくちびるとわが思ふことおほかた赤し(寛)#ももたろう文体模写

2012年12月9日~14日


【作者のみなさん】塚本邦雄 吉田健一 アーサー・コナン・ドイル マルセル・プルースト 梶井基次郎 蓮實重彦 宮澤賢治 江戸川乱歩 ホルへ・ルイス・ボルヘス J・G・バラード J・R・R・トールキン モーリス・ブランショ 
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by kaoruSZ | 2012-12-21 08:42 | 日々 | Comments(0)
              彼は再発明された愛、そして永遠だ。――「イリュミナシヨン」

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 昨日はtatarskiyさんとまず上野へ、上高近くの古い住宅を改装した隠れ家的ティーハウスを見つけてお茶したあと、紅葉終りかけの不忍池でスワンボートに乗る。ボート三隻しか出ていない水面に鷗の群が低空飛行。最後に、明日まで夜間開園の六義園へ。その前、上野駅のつばめグリルにいた時に地震。
 帰ってきて椅子でうたたねしていたら電話で起こされた。別れたばかりのtatarskiyさんが、ホームズとワトスンを“ブロマンス”の例とするツイートが多数出回っているのを見つけて、怒り心頭でかけてきたのだ。そりゃひどい。ホームズはホモソーシャリティから切れた人。彼が「男の友情が」とドヤ顔するなんて考えられるか? 「僕の友人は君だけ」の人だよ。ワトスンと二人で全世界に対抗する白い手と甲高い声のクィアーじゃないか。性的であることをあらかじめ絶対的に除外するというのはたんにホモフォビックだと知るべき。

“ブロマンス”の代表ならイシハラとハシゲとでもしておけ。(それにしてもアレをつかまえて自分の牛若丸って、みじめだと思わないのか。若さに輝いていた頃の弟のような青年ならともかく。TV無いから見てないけど薹の立った牛若丸もデレデレだったらしいね。醜悪極まる。)そもそも「女」や「ホモ」を石原が憎むのは内なる女性性を死ぬほど恐れているから。感じるように考え考えるように感じるホームズのような人とは正反対なのだ。(12月8日)

§§
 tatarskiyさんが映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』を見たことに端を発して、ホームズ物語(それ以外のドイル作品も)再読と発見の日々ははじまった。その直前まで私たちは、主に折口信夫の小説作品に関して同様の発見の日々を分かち合っていたはずなのだが、とりあえず折口は脇に置き、トールキンのことも忘れて。トールキンと言えばコナン・ドイルは、いろいろな意味でトールキンに比較されるべき作家であろう。先入見(前者は大衆小説、後者は学者の手すさびの“児童文学”と見なされて)によって真価を知られないままであることにおいて。新しいジャンルの創始者と思われているが、実は隔絶した孤高の作家であることにおいて。そのジャンルの後継者を自認する者はあまたいるが大半は凡庸なジャンル作家そのもので、創始者は理解されないまま、しかもその理解されなさのほどが半端ではない!
 そして何と言っても、同性愛を明示的に描くことが不可能だった時代に、それを主題として書き(勿論巧妙に隠して、しかもあらわに見せながら)、そのことが今なお発見されずにいるという点において。

 すでにtatarskiyさんの書いたものを映画についても原作についても載せているが、私の連続ツイートも以下にまとめてみた。別に中断しているものもあるが、完了させたらたら載せるつもりだ。

§§§
 昨夜は図書館で河出書房版(オクスフォード版の翻訳)のホームズ全集の(おもに『事件簿』の)注釈と解説をチェックしていた。ホモフォビックなのはかねて聞いていた通りだったが、ホモフォビックとは、たんに「ここには同性愛を示すものが何もないということを指摘しておく価値がある」という文句が突然出てきて唖然とさせられるという現象だけを指すのではない。そもそもそういう精神は批評に全く向いていないのだ。
 とはいえ、これは警察の捜査のようなもので、組織的にやってくれるからこっちとしては大いに助かる。だが、悲しいかな彼らには読み方が分っていないから、膨大な集積もとんちんかんな解釈の連続、宝の持ち腐れなのである。

「高名な依頼人」については別にツイートもしたばかりだが、あの中にホームズが「ヨーロッパ随一の危険な男」と呼ぶグルーナー男爵について次のように言うくだりがある。「複雑な性格と見えますね。犯罪者でも“大”のつく連中は、みんなそうしたものです。わが古馴染みのチャーリー・ピースなんかはヴァイオリンの名手でしたし、ウェインライトも並みの芸術家ではなかった。ほかにも枚挙にいとまなしということです(…)」

 このウェインライトなる犯罪者が実在したことを注釈で知った。オスカー・ワイルドが『ペン、鉛筆そして毒薬――緑の研究』をものしている毒殺魔というではないか。注釈はそれ以上触れていないが、これは “Pen, pencil and poison”に“A study in green”と副題してワイルドがドイルへのオマージュとしたものだ(ちなみに塚本邦雄の歌集『緑色研究』の題はここから来ており、無論ワイルド→男色=緑色の意)。

 ホームズが名前を挙げた「大犯罪者」二人のうち、前者はヴァイオリンの名手ということで明らかに彼自身に重なり、もう一人がこのウェインライト、調べてみると「芸術家」とは比喩ではなく、文学も絵画も手がけたらしい。「ペンと鉛筆と毒薬」とはその道具の謂と今さらながら知る。それらを使うわざ(毒薬以外)にいそしみつつ流刑先のタスマニアで没した由。塚本は歌集で二つの「研究」の表題を挙げ、自分は毒の方に関心があると称していたが、私たちの解釈を聞く機会に恵まれていればドイルとホームズにより関心を抱いたであろう。ホモソーシャリティに安住した女嫌いでは、見える幻にも限界があるというものだ。

 実在の、そしてオスカー・ワイルドと関連づけられたウェインライトが、犯罪者と芸術家を兼ねるのは、そしてホームズ自身が彼と同一視されうるのは偶然ではない。探偵は犯罪者でもある――ホームズはいかなる意味でも警察の側の人間ではなく、警察がその典型である制度的な見方とは違うふうに感じ/考え、見、読み取り、享受しうる。これは芸術家には絶対的に必要なことで、だからこそホームズは芸術家でもありうるのだし、制度的な異性愛の男が考えることと感じることを切断されて住まう貧弱な世界とは違うありようを生きる者でもありうるのだ。

 だが、なぜそれが“犯罪”なのか? R・L・スティーヴンスンが『ジキル博士とハイド氏』を発表したのと同じ月に発効した、そして『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌の同じ号に『ドリアン・グレイの肖像』を書いた作家を失墜させた法律が、かの探偵の活躍期間を通じて有効だったのは確かである。この間[かん]、英国において同性愛は名実ともに犯罪であった。すでに畏友tatarskiyが端的に指摘しているが(kaorusz.exblog.jp/19664604/ )ホームズ物語に顕著な「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、実はその大半が同性愛を主題に持ちながら異性愛のデコレーションで偽装されており、中のケーキは誰も手をつけないままであるのだ。

『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』は、「ゆすりの家」と名づけられた家の「秘密のドア」(ハイド氏が出入りするのがが目撃される。実は、ジキル邸の、別の通りに面したバックドア)についての会話に始まり、ジキルの書斎のドアが強引に打ち破られることによる秘密の暴露と主人公の死で終っていたが、ホームズと“彼の”犯罪物語は、「秘密」「恐喝」のモチーフを直接受け継ぎ、男たちの孤立した寒々しい死しか想定されなかった地点で始められながら、ついには「愛の再発明」(アルチュール・ランボー)にまで到らしめるという稀有な達成を遂げ、しかもそれを誰にも知られぬままだったのである。

 tatarskiyさんも前記の「『シャーロック・ホームズの冒険』読解メモまとめ」でほのめかしているが、初期の短篇のホームズは『ジキル博士とハイド氏』や『ドリアン・グレイの肖像』の世界から直接やって来たのであり、その「二重の魂」(ポー)は、先輩格の元祖引き込もり探偵にばかり倣った訳ではない。犯罪捜査と称して阿片窟に入り浸ったり、コカインを用いたりするのは、ハイド氏(ホームズもまた魔法のように別人に変身する)の夜の街での“悪徳”の正体がけっして明言されなかったのと同じ置き換えであり、彼は自分が熟知するロンドンの犯罪者と実は一つ穴のむじなである“犯罪者”であるのだ。

 一方、ワトスンはアフガン戦争での負傷によってモラトリアムを引き延ばされ、恩給と恐らくは親の遺産(とその運用)でホームズと下宿代を折半する暮しをしながら、作家になる夢も捨てていない医師として、つまりは開業していることを除けば彼らがその頭から出てきた当時のドイルと似た境遇の青年として登場した。彼は少なくともドイルに匹敵する力量を持つ作家になり、向う側の世界、すなわちドイルが存在せず、ワトスンが同居する探偵と彼自身との冒険物語の作者として知られる世界では歴史小説の(この分野に少なからぬ野心を持つ)書き手でもあったろう。周知の通り彼は『四つの署名』の依頼人として知り合ったメアリ・モースタンと結婚し、この仮住いをいったんは捨てて一家を構えることになる。

 tatarskiyさんが言うように、自身は秘密を持たぬ常識人のワトスン(ホームズより知力の劣る凡庸な人物という誤解を生んだ)は、ホームズとは誰であるかを、読者に代って、読者とともに探求する視点人物であった――ある時点までは。言うまでもなくその時点とは、原題をThe final problemという「最後の事件」の時で、ワトスンの結婚すらやりすごして先送りされ誤魔化されていた問題がついに表面化した時、彼がそれまでホームズと自分の間に存在することさえ気づいていなかった――と言えば嘘になろう、彼がホームズのうちに見ていたもの、彼を惹きつけてやまなかったものはまさしくそれに関連するのだから――問題が最終的な形であらわになる時であった。

 周知の通り「最後の事件」は、〈二人〉が死に向かい、〈一人〉だけが帰ってきた物語である。〈二人〉をホームズとモリアーティと見せかけたのはドイル=ワトスンの小説家としての手腕、語りえぬものをいかに語るかという追求の結果であった。ライヘンバッハの滝壺には彼ら二人が今も横たわるとワトスンは記すが、本当はそこでホームズと一緒に死ぬはずの者は彼だったのであり、ここでワトスンは己の死を幻視しているとも言えよう。十年後、ドイルが「空家の冒険」を発表することで公式には帰還者はホームズとなる。しかし、モリアーティは(作品世界において)本当は存在しないのだから、〈二人〉とはホームズとワトスンであり、帰ってきた〈一人〉はワトスンなのである。

「最後の事件」の隠された物語についてはすでにtatarskiyさんが書いている。http://kaorusz.exblog.jp/19549811/ それに続くエントリも併せて参照されることをおすすめする。「最後の事件」と「空家の冒険」に関しては私たちはすでに、本当にあった出来事の順番や詳しい細部まで突き止めているが、それについては別の機会に譲りたい。

 あらためてお断りしておくが、私たちはこうした読解を「多様な解釈」の一つとして提出しているわけでは全くない。一見似たような試みと私たちの仕事とは何の関係もない。これは対象についての恣意的な空想ではなく、あえて言えばホームズのやっているのと同じ推理によるわけで、いかにありえないことに見えたとしても妥当と思えるならそれが真実なのである。対象を本当に知る気があれば、これらの物語はこれ以外に読みようがないと、そしてその気になればそれは誰にでもはっきり見てとれるものだと私たちは考えている。

 急いで付け加えておくと、これはいわゆる二次創作的なものの否定ではないし、細部をあれこれ想像することを「恣意的な空想」と貶めたいわけでは全くない。評判の映画やTV番組も(私はTVを持ってすらいないので見られないだけで)機会があれば見たいと思う。そうしたものはすべて、特に二次と称する必要もない普通の「創作」だし、ホームズとワトスンの関係をホモエロティックなものとするのは原作がすでにそうなのだし、明示的に描くわけにいかなかったドイルが様々な工夫を凝らしたところでもある。

 私がクズだと思うのは、例えば二人について「同性愛でない」といちいち断わらなければいられない輩であり、「最後の事件」後の行方不明期間にホームズはアイリーン・アドラーと暮していたとか言う世にも下らない空想を書いていると漏れ聞くグールドとかいう男である。はっきり言っておくがホームズ物語はガチである。そういうヘテロ妄想は原作と原作者に対する冒瀆だ。

 アイリーン・アドラーについて言えば、おしなべて顔のはっきりしない女しか出てこない原作の中で、なぜ彼女だけがくっきりと鮮やかな輪郭を持つのか。the womanだから? その通りなのだが、そういう貴方がthe womanの意味を判っているとはとても思えない。女と聞いただけで、ヘテロセクシストどもは男とつがわせることしか頭にないから、ホームズと同棲とか言う馬鹿げた発想が出てくるのだ(というか、それ以外の発想はないのだろう)。原作を観察してみよう、ホームズのように。あんな短い話で、アドラーについての言及はさらに短いのに、どうしてみんな見落すのだろう。

 アドラーに夫がいることをどうしてみんな無視するのか。彼女の夫についてホームズが何と言っていたか思い出してごらんなさい、というのがtatarskiyさんからののヒントである(私は思い出せなかったが、その後電話で話すうち、彼女も気づいていなかった「アドラーの本当の正体」に思い至った)。

 ホームズの失踪と帰還という折り返し点以降の語り手としてのワトスンに話を戻すと、ホームズの「正体」を知った彼には、それまでのように読者の代りとしてホームズを見、事件について率直に語るというポジションは不可能になる。tatarskiyさんが言うように、以降は読者に対する“裏切り者”であるしかなくなった。逆にそれはホームズとの共犯関係が成立したということでもあり、再びベイカー街に戻ってきた(というかむしろ連れ戻された)後のワトスンは、ホームズとその秘密――あるいはむしろ“彼らの”秘密――を守ることに力を注ぐ。

「過去の因縁」「秘密」「恐喝」等のモチーフはここでも重要な役割を果たす。「空家の冒険」はほとんどセルフ・パロディであり、仲間を死なせて一人戻ってきて今は経済的にも安定し、申し分ない紳士として行いすまして暮している(メアリは真実を知ってしまったことだろうが)ワトスンの前に、昔の悪い仲間の亡霊としてのホームズが現れて気絶させる。チベットに行ったとか何とかいうのはハガードの読み過ぎで、女と一緒だったとは作り話としてもお笑い草である。実際にはメアリの容態をマイクロフトから絶えず知らせてもらっていて、ワトスンが独り身に戻ったらすぐさま帰る気でいたのだろう。ヨーロッパを離れたりする訳がない。

 河出版の解説(やっとここへ戻って来た)では、ある時期以降のワトスンの秘密主義、孤立化、親密さ(ホームズとワトスンの、またワトスンと読者の)が失われてゆくことが指摘され、それは正しい観察だが、しかしロブスンとかいうこの解説者は、何とそれを英国の衰退に結びつけて感傷的なお喋りをしている。要するに、芸術が分らないから時代背景とか政治問題を論じて批評と称する者がここにもいたのだ(それならば最初から芸術について語ったりしなければいいのに)。無論彼らに「空家の冒険」のホームズが、ワトスンの秘密の共有者、脅迫者にして性的誘惑者であることなど分る訳がない。

 ワトスンの秘密主義や孤立化、読者との親密さの喪失といったものは、tatarskiyさんの言うワトスンの読者への“裏切り”によって説明される種類のものである。ホームズとワトスンの親密さが減じて見えるとしたら、それは二人の関係の新たな段階を隠そうとした結果に他ならない。

 ドイルの作品はロブスンが考えるような安易に時代を反映する通俗小説ではない。ホームズものの同時代の読者たち、「最後の事件」に怒り、「空家の冒険」に殺到した読者たちの生きる世界はドイルの生きていた世界そのものだったが、作中世界は創造者としてのドイルの息吹によって生を与えられた別世界、この世界と細部に至るまでそっくりでありながら別物の、言ってみればJ・R・R・トールキンなら「アルダ」と呼んだものであったのだ。ホームズとワトスンが“現実に”生きるその世界は、ドイルの明確な意図をはっきり反映したものである。そこではサー・アーサー・コナン・ドイルの名など誰も聞いたことがないが、ナイトの称号を辞退したシャーロック・ホームズは実在し、彼を男のミューズとする作家ワトスンがホームズ物語の作者として知られている。そこで彼らは勝利する。ドイルはサー・ロジャー・ケイスメントを助けられなかったが、彼処ではホームズとワトスンが社会から抹殺されることなく添い遂げるのだ。

 たぶんそこではワトスンは私たちが読んで受ける印象より遙かに有名人で(ドイルがいないのであるから)、存命中は陰口や中傷やもっと深刻な讒言の種であった彼らの関係は、次第に広く、当然のこととして認識されるようになり、今では公然たる男同士のペアとして通用していることだろう。ホームズが隠遁し、ワトスンも二度目の(偽装)結婚相手が死ぬとそこへ行って住んだ家に近い、英仏海峡の白亞の断崖を見下ろす彼らの墓は(ワトスンは探偵小説と限らず大きな影響を受けたポーの「アナベル・リー」の詩句を墓碑銘に選んだかもしれない)ゲイの巡礼地になっているに違いない。ワトスンのブリキの缶の中に残されていた書類や原稿も今では出版され、彼らの画期的な伝記も書かれていよう。グラナダTV版はあったろうが21世紀に入るといよいよ当時は発表不可能だった彼らの本当の話が映像化され、感動を呼んでいるはずだ。ブロマンスとか下らない事を言っていないで現実も早く虚構に追いつくべきだ。

 河出版の注釈にはケイスメントの黒日記のことが載っている、しかも「高名な依頼人」の茶色のノートの発想の元ではないかと書かれていることも、tatarskiyさんからすでに聞いていた。そんなふうに一般に知られているのなら『シャドウ ゲーム』の赤い手帳は絶対そこから引用したね!と思った訳だが、実際に見ると残念ながら結構首をかしげる内容だった。

 ケイスメントのことはこのあたりでも(H・G・ウェルズについてのあとで)http://twilog.org/kaoruSZ/date-121121 書いたが、今ではウェルズにとってのワイルドにも増して、ドイルにとってのケイスメントは重要だったのではと考えている。

 ロジャー・ケイスメントは英国外交官としての功績でナイトに叙せられた後、職を辞してアイルランド独立運動に身を投じ、第一次大戦中の1916年、ドイツと手を組もうとしたとして帰国時に逮捕され、絞首刑になった。その際ドイルは弁護費用の大半を負担して他の文化人とともに彼を擁護したが、「ポルノグラフィックでホモセクシュアルな」Black Diariesのスキャンダルで多くの擁護者は手を引いた。現在では名誉回復されてサーの称号も復活(ホームズの叙爵話と較べ合わせて頂きたい)、遺骨はダブリンへ戻されて国葬後、再埋葬され、彼自身はゲイアイコンにもなっているという。

 このケイスメントの“日記”について、注釈は「高名な依頼人」の登場人物グルーナー男爵が女たちとの情事を綴った「茶色いノート」の「着想の源に」なっているのではないか、「彼にこうした武器の有効性という着想を得させたのはケースメントの一件だったかもしれない」と述べており、それ自体は妥当であろうが、しかし、ケイスメントという人物のドイルにとって意味するところの重大さに較べ、単なる「着想」とはまた随分枝葉末節(のみ)にこだわったものだ。「武器」とはこの場合、世間知らずの令嬢に男爵の色魔(古い言葉だ)ぶりを示して彼との結婚を諦めさせるためのそれで、間違っても男爵を死に至らしめるようなものではない。

 黒い日記へのドイルの反応を記した箇所も全く適切とは思えない。「こうした性的妄想(ケースメントの場合は同性愛)は問題となっている重大事件に比べれば」些事にすぎないと「軽蔑的な指摘をして見せた」とあるのだが、問題とされたのは、性的な記述一般でなく、あくまで男同士のそれである。この注釈はそれが同性愛である事の重大さ(叛逆罪で処刑する程の罪状でないところをスキャンダルと併せて反感を煽れば文字通り葬り去れるほどの重大さ)を軽く見せると同時に、ドイルの軽蔑の対象と、彼にとって何が重大だったかを曖昧にするものだ。
 
 英文サイトにわかりやすい記述があったので紹介しよう。ドイルが日記の中身を見ようとしなかったのを同性愛に対する嫌悪感からのように言う人がいるが、ありえないと思う。

http://soalinux.comune.fi.it/holmes/inglese/ing_casement.htm
“…he[Doyle] controversially repelled the emissaries of the British Government who came touting the pornographic homesexual diaries ascribed to Casement - and,as he (and he alone) said, these could have no bearing on a charge of treason which was graver than anything they might contain. (by Giovanni Cappellini)

(大意; ドイルはケイスメントのポルノグラフィックでホモセクシュアルな日記を押しつけようとした英国政府の使いに対し、反論して彼らを追い返した。彼は(彼だけが)こう言ったのだ――これらの日記と叛逆罪の容疑とは、何の関係もない。日記に何が書いてあろうと叛逆罪の容疑の方が重大だ。)

 注釈はまた、ドイルは「男爵とケースメントを類似性のある人物としては描いていない」と指摘するが、写実的に描く以外の言及の仕方があるとは思わないのか。これもまた何も分かっていない――ケイスメントと同性愛を重要だと注釈者が考えない=考えたくない――からこういうことしか言えないのだ。「高名な依頼人」は現在進行中の別の連続ツイートで扱っているので、この話題はそちらに譲ることにする。※

※「『高名な依頼人』ノート」としてまとめた。http://kaorusz.exblog.jp/21426732/
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by kaoruSZ | 2012-12-20 07:50 | 批評 | Comments(0)
映画も原作もまだまだ作業中ですが、色々と調査の進展はあったので相方の@kaoruSZさんの方のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZをご覧下さい。ところで私からもちょいと楽しい中間報告を。短編集第一巻の『シャーロック・ホームズの冒険』を精読して割り出した、重要なお話リスト、そしてそのものズバリ、この巻の登場人物たちのガチホモ紳士録であります。というわけで【ネタバレ注意】それではどうぞ♪

『シャーロック・ホームズの冒険』所収の短編中で特に重要なエピソード
「ボヘミアの醜聞」
「赤毛組合」
「ボスコム谷の惨劇」
「くちびるのねじれた男」
「緑柱石の宝冠」
以上、全12編中5編。

【ネタバレ】ガチホモ紳士録【注意】

その1.シャーロック・ホームズ氏──言わずと知れた我らが主人公。証拠は多すぎるので割愛。というか、それを核心とした彼の一連の秘密を探り出すのが全編を通して読者に課せられた使命であると言っても過言ではない。

その2&3.ジョン・クレイ氏とその相棒──必要に応じて誰にでも化けられる、年齢不詳で札付きの知能犯。女のような白い手と親密な同性の相棒の持ち主。…誰のことだろうね。

その4&5.ジョン・ターナー氏とチャールズ・マッカーシー氏──愛してるから憎いのよ!金が目当てだったのね!

その6.ネヴィル・シンクレア氏──妻子ある健全な家庭人…と思いきやの二重生活者。我らが主人公と同じお店の常連さんです。気になる方は『ドリアン・グレイの肖像』をどうぞ。そっくり同じお店が出てきますよ♪二重生活の醍醐味については『ジキル博士とハイド氏』もよろしくね♪

その7&8.アーサー・ホールダー君とサー・ジョージ・バーンウェル氏──パパに怒られてでもあんなに貢いだのに!イトコと僕に二股かけてたなんて許せない!こんな冠なんかこうしてやる~!…「嫉妬とは緑の目をした怪物で、人の心を食い荒らして楽しむ」byシェイクスピア

はっきりわかる人たちは以上の通りだが、「ボヘミアの醜聞」も実は…。まあ、ともかく上で挙げた面子全てが先に述べた重要なエピソードの登場人物、かつほとんどの場合カップルなのは一目でわかるだろう。彼らの登場するエピソードにおけるホームズ自身の言動や行動も非常に示唆的なので要注目。あくまでヒントのつもりで半ばおちゃらけた調子で書いたが、シリアスな読解にはぜひ各自で取り組んでいただきたい。おそらくそれぞれに私も気づいていない発見があることだろう。

彼らの繰り広げた事件としてのドラマは、実は裏テーマであるホームズとワトスンの関係をめぐるドラマの展開の伏線であり、それ自体としては読者に明示されなかった彼らの秘密に対する、時と場所を違えた絵解きでもあるのだ。「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、言うまでもなくホームズ物語の全編に渡って繰り返し描かれる「悲劇の元凶」であり、そしてこれらは一見ヘテロセクシャルな関係に置き換えられている場合でも、全て作品そのものの根底的なテーマである「同性愛」と緊密に結びついている。

ある意味ネタバレだが、大長編としての『シャーロック・ホームズ』の物語は、構成としては「最後の事件」までを境に完全に第一部と第二部に分かれており、しかもラストは作品のテーマと真のドラマの展開を把握した上で読者が並べ直さなければ“絵”として完成してくれない仕掛けになっているのだ。

だがひとまずは長編の『緋色の研究』『四つの署名』そして『冒険』『回想』の短編集二冊分までを読み込めば、そのラストにあたる「最後の事件」の真の内容を理解するには十分である。そしてこの後に来る「空き家の冒険」以降の第二部の構成と重要なエピソードは、実は意識的な第一部の繰り返しなのだ。

また、この大長編を貫く縦糸はホームズとワトスンの関係性をめぐる物語であるのは確かだが、実はその明示的な開始地点は二作目の『四つの署名』からであり、それとは別に最初の『緋色の研究』から始まっており、かつ先述した二人の物語と絡み合いながら並走しているもう一つのテーマがある。

それは最初は完全に読者の代理人である、自身には秘密の無い常識的な視点人物として登場し、明らかに特異な人物であるホームズと関わりを持つことになったワトスンの疑問として明示されていたもの──つまりホームズに対するWho are you? という問いかけである。

語り手としてのワトスンは、同時にこの問いに対する読者の代理としての探偵役でもあり、ホームズに関して彼の知りえた情報は、ある時点までは確かに読者のそれとほぼ比例するものであった。つまり読者はワトスンを信頼し彼に完全にシンクロして読み進めることを当然の前提として刷り込まれている。

だがワトスンは実は物語の途中から完全に読者を裏切っており、それによってホームズに対するWho are you?という問いは、読者に代わってそれを追求してくれる作中人物を失うことで完全に宙に浮いてしまうのだ。そしてそれはこの物語全体の「真の結末」が隠されていることとパラレルである。

早い話があの「最後の事件」における語りから囮であるモリアーティを取り除くことで垣間見える真実とは、ワトスンが読者を置き去りに一人でホームズの「正体」を知ってしまったこと、それこそが真の「大事件」に他ならず、それによってワトスン自身も、読者に対する“裏切り者”になってしまったことなのだ。

要するに、「最後の事件」の詐術を弄した曖昧な書き方そのものが、ワトスンが読者の代理人であったそれまでとは正反対の立場──ホームズとその秘密を共有し、それを読者の目から守るべき立場に立たされてしまったからなのである。

そしてこれ以降のワトスンの記述と彼の実際にとったであろう行動は、全てこの「ホームズと彼の秘密を守る」という目的に沿ったものであり、読者に正確な情報を伝えることなど三の次なのだ。それに気づかずに読み進めても、侵入者を拒むための迷路に引っかかったように真相からは遠ざけられてしまう。

そして真実を知るためには読者自らが、ワトスンがその代理人であることを放棄した問い──ホームズへのWho are you?を自力で追求することを継続しなくてはならず、そのためにはワトスンが隠したがっていること、隠しつつも示唆していることに敏感であらねばならないわけである。

実は読者はこの物語の真相を探るための努力を通じて、図らずもワトスンが辿ったのと同じ道を行くことになるのだ。それは「誰かを理解すること」と「誰かを愛すること」との幸福な一致の──つまりは理想化された究極の“恋愛”の軌跡を辿ることであり、それは“論理”と“感情”のペアをめぐる「愛の再発明」の物語なのである。そしてそれはまた、“知的なもの”と“性的なもの”との統一された調和こそが芸術の源であり、この物語の源泉であることをも意味しているのだ。この物語は本質として“恋愛小説”であり、“芸術家小説”なのである。


P.S
【ヒント】「プライアリー・スクール」を「サセックスの吸血鬼」と重ねて読むとわかる前者の真相が色々衝撃的です。そりゃ口止め料1万2千ポンドでも安いわけだよ公爵様。いやマジで普通は鬼畜外道って言いません?あの秘書は可哀相すぎるが、結果としては彼にとっても生き地獄からの解放だったろう。
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by kaoruSZ | 2012-12-14 16:15 | 批評 | Comments(0)
※続編あり

モリアーティ教授について事実であろうと判断できることは、ホームズが「世間にも知られている事実」として語っていた経歴、彼が何らかの犯罪に手を染めており、ホームズにその証拠を握られて社会的な名誉を失い、おそらく逮捕される前に自殺したこと。そしてワトスンが彼についてホームズから話を聞いていたこと。彼にジェームズ・モリアーティ大佐という兄弟がおり、この人物が「最後の事件」でのホームズの失踪から二年後に、モリアーティ教授の名誉を回復しようとして公開状を持って世間に訴え出たこと。だがどれもあの「最後の事件」には無関係なのだろう。本当はワトスンがあの時起きた出来事についてそのままでは書けないものをなんとか形にしようと決意したのとたまたま同じ時期に、モリアーティ大佐による彼の兄弟の名誉回復のための訴訟が起こったため、それにカムフラージュのネタの着想を得たに過ぎないのだろう。

モリアーティ教授の職歴や年齢については事実であろうから、彼が少なくとも初老に達していたインテリであり、彼が行なっていた悪事が知能犯としてのそれであり、そして自分が計画した悪事の直接の実行犯として、複数人のごろつきを使っていたのも事実だろう。だが決して「犯罪界のナポレオン」などという妄想じみた万能の悪ではあるまい。彼の犯罪の証拠を握ったホームズによって警察が動き、先に実行犯だったごろつきたちは皆逮捕されたものの、モリアーティ教授は最初の手入れから逃れ、そして死によって自らの名誉を守ることを選んだのであろう。

そしてこのモリアーティ教授の自殺によって幕を閉じたであろう事件は、どの程度かは不明であるが「最後の事件」より以前のものであるのは確実であり、おそらくその前年にあたる1890年にワトスンが記録したという三件の事件のうちのいずれかである。ワトスンはモリアーティ教授に関する事件の顛末をそれなりにリアルタイムでホームズから聞き知っていたと思われる。つまり、二人のモリアーティに関する会話の内容は、誇張され歪曲されてはいるものの、まったくの事実無根ではあるまい。だがそれは決してあのスイスへの心中旅行の道中で交わされたものではないのだ。

ワトスンが「最後の事件」冒頭で「私の知るかぎりにおいて、この事件のことがおおやけに報道されたのは三度だけである。1891年5月6日にジュルナル・ド・ジュネーヴに載った記事、同5月7日にイギリスの各紙に載ったロイター通信、そして最後が前述の公開状である」と述べ、そして最初の二つはごく簡潔な記事だったが、最後のものは事実を完全に歪曲しているのでここでそれを明らかにするのだと言って「最後の事件」当時についての記述に入るのだが、これは完全に継ぎ目の見える見え透いた詐術である。そもそも最初の記事はその新聞の名前からして、ホームズが行方不明になったライヘンバッハの滝のある地元スイスの現地報道であり、その翌日のロイター通信の記事は知らせが本国イギリスにも一日遅れで伝わったことを示すものだろう。そして最後のモリアーティ大佐の公開状は、ホームズによるモリアーティ教授への捜査の不当性を訴えるものではあるにしろ、実はホームズの行方不明とはまったく無関係なものなのだ。そもそも「最後の事件」に書かれているようにホームズとモリアーティが格闘の末に滝壺に落ちた可能性があったのであれば、それは立派な殺人事件であり、その報道も「簡潔な記事」で済んだはずはない。そしておそらくリアルタイムで報道されたであろう事実は、「友人と保養のための旅行に来ていたシャーロック・ホームズ氏がライヘンバッハの滝付近で目撃されたのを最後に行方不明となった。同行していた友人の証言によると、失踪当時の氏は情緒不安定に陥っており、錯乱して発作的に滝壺に飛び込み自殺を図った可能性がある」といったところだろう。

そしてどう考えてもワトスン宛に残されていたホームズの遺書の本当の内容が、すべてを公にできるようなものだったとは思えない。それでもあらかじめ財産を整理してマイクロフトに託したこと、「奥さんによろしく」という文句があったこと、そして結びのワトスンへの呼びかけなどの細部は事実と一致するだろう。

また、「空き家の冒険」でワトスンはホームズと再会するが、これは別にドイルが無理やりホームズを生き返らせたわけではない。「最後の事件」における結末のそもそもの意味が「ホームズが死んだ」ことではなく、「ホームズがワトスンの前から姿を消すことを選んだ」ことだからだ。きっぱり殺そうと思えばワトスンの目の前ではっきりとホームズを死なせればよかったわけで、そうではない時点でおのずと察しがつくというものだ。

【追記】
12月3日
朝ポストした文章をエントリーとして載せてもらったが、その後はっきりしたことを補足。上のエントリーではモリアーティ教授の兄弟の名前が「ジェームズ」だったように書いたが、皆さんご存知のようにこのファーストネームは「空き家の冒険」ではモリアーティ教授本人のものとされている。

で、結論から言えばこのファーストネームはモリアーティ教授本人のものに間違いないのだが、同時にこの名前が「最後の事件」の際には彼の名誉回復訴訟を起こした兄弟のものとされていたのも必然であり、ドイルのミスではない。これは巧妙なヒントなのだ。

また、このモリアーティのファーストネームが明かされる場面が、モラン大佐の経歴について語られるのと同じ場面であることは、実はそれ自体が種明かしに等しいのだ。ワトスンはやはりドイルの分身である。この詳細についてはいずれ私から語ることもあろうが、それよりぜひ各自で謎を解いてほしい。

12月6日
3日のツイートのヒントの続き。相方に難しすぎると言われてしまったし、自分でもこれだけじゃわからないなと思い直したので。実は「ジェームズ・モリアーティ」も「セバスチャン・モラン」もおそらく彼らの本名ではないということ。正確にはそれぞれ姓と名前の「半分が本当で半分が嘘」の組み合わせ。

これは名前自体が「虚実の継ぎ目」を象徴しているわけで、要は彼らが登場する「最後の事件」と「空き家の冒険」がホームズとワトスンの間に本当にあった出来事のすり替えであり、モリアーティもモランも“作者”であるワトスンが(作品世界における)実在の人物をモデルにキャスティングした囮なのだ。

そしてホームズとワトスンの間に起きた出来事が本当はどんなものだったかわかれば、「何が実際には起きなかったことか」も同時にわかる仕組みになっている。そして読者に示されたあの「虚構の出来事」の中でのモリアーティとモランの役割が理解できれば、同時に実在した彼らについても推測がつく訳だ。

「最後の事件」でも「空き家の冒険」でも、実際にはホームズとワトスンはモリアーティともモランとも顔を合わせていないし、ワトスンに至っては作品世界の時系列のどの時点でも、ホームズからの伝聞を除いてはおそらく彼らの姿すら見ていないのだ。つまり彼らについての記述は実は全て“引用”である。

自分で真相を探ってみたい方は、まずは原作のテクスト以外にシェイクスピアの『十二夜』を読んでほしい。これは捕縛されたモランにホームズが言った「旅路の果ては恋人同士のめぐりあい」という台詞の出典だが、実は“引用”されているのはこの台詞だけではなく、非常に重要な手掛かりになっている。

そして「最後の事件」ではモリアーティについて、「空き家の冒険」ではモランについて、ホームズがワトスンに話して聞かせる場面に注意を払ってほしい。重要な共通点が見つかるはずだ。ネタを明かしすぎかもだが、特に後者の場面では実はあからさまに“記述の引用”を示唆するアイテムが登場している。

また、実はこの会話の場面に限らず、全ての出来事はそれが起こった後から“作者”であるワトスンが再構成したものであり、要は読者はあらかじめ彼の掌の上で踊らされているようなものなのだ。彼は決して彼自身がそう装っているような、鈍感な善意の記録者にすぎない素朴な人物ではない。

つまり小説としての『シャーロック・ホームズ』の読解とは、いわば読者とワトスンとの真剣勝負なのである。そしてこれは言うまでもなく、メタレベルでは読者とドイルとのそれなのだ。私たちもまだ始めてから日が浅いが、こんなに面白いゲームは無いと言える。ぜひもっと多くの人に参加してもらいたい。
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by kaoruSZ | 2012-12-03 10:39 | 批評 | Comments(0)

虔十公園林再訪

虔十公園林再訪   死後の作品の運命    


 宮澤賢治は死の床で自分の書いたものについて父親に、あれは迷いの跡だから捨ててくれとカフカのようなことを言っていて、そんなことをしそうにない相手に言ったのもカフカと同じだが、無論これは行く末を見届けることのできぬ作品への執着の裏返しに過ぎなくて、カフカは奇妙な小品『家父の心配』で、何の用途も目的も無く家の中を動き回っていて自分の死後までも生きつづける謎の物体オドラデクに対する父の気がかりという形でそれを書いたが、賢治は、「雨ニモ負ケズ」のデクノボーそのもの(ただし賢治のような実践は伴わない)である虔十=賢治の死後、「アメリカで教授になって故郷へ帰って来た」ような人によって真価を見出され(そのような“教授”自体彼には死後の栄光と同じほど空想的な存在だったろう)、虔十が作った杉林が遠い未来に「虔十公園林」としてその名を刻んだ「青い橄欖岩」の碑によって顕彰されるという、願望充足の夢それ自体を作品化した。

 どんな王侯の大理石や金の記念碑も私の詩よりは保たないからこの詩に歌い込まれた君は永遠に生きると英国の文豪も愛する青年に捧げた詩で言っていたが、賢治も本物の石碑より長生きする(無論その時点ではそれが確信できた訳ではない)作品の中に、現実の栄光に先んじて紙の上の顕彰碑を据えた訳だ。

『虔十公園林』は児童文学全集の最初に買ってもらった一冊「日本童話名作集」に入っていて、私が初めて読んだ賢治の作品だったと思う。その後いとこのお下がりで『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』『銀河鉄道の夜」『グスコーブドリの伝記』が一冊になった本をもらい、他に雑誌のダイジェストか何かで『注文の多い料理店』を読んだ。そして多分それより前に、「偉人」のエピソードを子供向け読み物にした本(これもお下がり)に入っていた、風変りな実践家(他の人とは違う先覚者で商品としての花を育てる人)として描かれた賢治像にも出会っていた筈だ。

『虔十』が他の「お話」と異質なのは一目で見てとれた。筋立ての特異な面白さも幻想的な道具立てもなく、エキゾティックな命名による異化もない(人名だけではなく、例えば『グスコーブドリの伝記』のオリザの正体にすぐには気がつかなかったが、そう名づけられていなければ普通に東北の悲惨な冷害と飢餓の話である)。

『グスコーブドリ』は、思い返すと、紫がかった薄墨か淡彩の抑えた色調で描かれた印象で、ブドリと妹のネリは飢饉以前は森で山鳩の鳴きまねをしたりブリキ罐で百合の花(だったか?)を煮たりして遊んでいて、およそかけ離れた環境にあって読んだ私にもその親密な空間は伝わってきた。東京で一番緑の少ない区で生れ育ち、庭の外へは一歩も出ずに弟と日々遊びを考案するのとそう違っては見えなかったのだ。

 火山島にしても博物館の模型のようで(実際クーボー大博士によってそのたぐいの仕掛けが示されもする)、要するに全体が作り物めき、箱庭めき、人形劇の舞台めいている。それが子供にとって魅力的な空間であることは言うまでもない。『銀河鉄道の夜』でも、少年だちが旅する銀河鉄道は、天澤退二郎も指摘するようにあらかじめジョバンニの回想の中でカムパネルラの所有する鉄道模型として示されている上、「午後の授業」で先生が教えるのは天の川が実は星の集まりであることだし、夜の町で照らし出された飾り窓にジョバンニが見出すのは、これから旅する世界の見取図に他ならぬ星座のミニアチュールである。

 そうやって密かに準備された断片があたかも計画されていたかのように組み合わさって、気がつくと昼の残滓のブリコラージュによる《夢の仕事》そのものとして汽車は走り出している。そこで彼が見出すカムパネルラは、私の読んだ古い版では、死者であることをすでにジョバンニが知っていることになっていた。いや、正確には、「カムパネルラの死に遭ふ」くだりが入眠の前に置かれることで、カムパネルラ自身は自覚していないその死がジョバンニには既定の事実であり、そのことが各自の態度に反映しているかのごとき効果か生じていたのだ。今では賢治がそのように原稿を配した事がないのを私たちははっきり知っている。

 それにしても、“お下がり”の版では夢の始まりと終り、『銀河鉄道の夜』が未完であることの明確な指標であるその部分に、(ここで何枚かの原稿が失われています)という文字が入っていて、もはやどうすることもできないとりかえしのつかないことがこの世にはあるという事実を、幼い子供にまで告げ知らせていたのだった。
 作者の死による取り戻しようもなさとはまた、それが自然発生的な伝承のたぐいではなく、固有の生と死を持つ作者によって操作されたものだという虚構性についての意識でもある。初期形ではジョバンニの夢を統御していたとおぼしい、「遠くから考へを伝へる」実験をしていた、虚構性そのものの具現とも言えるブルカニロ博士が夢のはじまりと終りに介入しているのだが、私が最初に読んだ版では覚醒後にのみ登場してジョバンニと言葉を交わす博士は、今日知られているところでは最終的には作品から消える運命で、入眠時と目覚めの際の原稿の混乱はその消滅の過程を物語るものであった。

 虔十の杉林に言いがかりをつけ、暴力さえふるった隣人平二の死を、賢治は、平二が虔十の頬を「どしりどしりとなぐりつけ」る憎むべきエピソードの直後に告げるが、読者が快哉を叫ぶ暇など無い。虔十自身の死がその一つ前の文で、「さて虔十はその秋、チブスにかかって死にました」と、これ以上ない簡潔さで記されているからだ。「平二もちょうどその十日ばかり前に、やっぱりその病気で死んでいました。」読者にほっとする間を与えぬ語りと時間のこの捩れ。杉苗を植えた者と杉林を脅かす敵とをたった二行で片づけた語りは、「そんなことはいっこうかまわず、林にはやはり毎日毎日子どもらがあつまりました」と続ける。そして、「お話はずんずん急ぎます」というあの驚くべき一行が来る。これは生きたまま死後へ踏み込んで行こうとする賢治の宣言であり、「そんなことはいっこうかまわず」とは、通常子供は作者についてなど気にしないという以上に(あるいはそれを口実に)、「虔十は……死にました」というノイズにできるだけかまうまいとする、死という事件をかぎりなく薄いものにしようとする、語りの意思のあらわれだろう。

「つぎの年」、村には鉄道が通り、停車場ができる。「そこらの畑や田はずんずんつぶれて家が立ちました。いつかすっかり町になってしまったのです。」しかし虔十の林だけは、「どういうわけかそのままのこっておりました。」「子供らは毎日毎日あつまりました」(とは、これで三度目の繰り返しになる文章である)。「虔十のおとうさんも、もう髪がまっ白です。まっ白なはずです。虔十が死んでから二十年近くなるではありませんか」と、賢治の筆はここでも僅かな行で時の経過を、変ったものと変らなかったものとを書きおおせる。これに匹敵する変化は『グスコーブドリ』にも見られるが、それはブドリが大人になるという、読者である子供には不可能な時間の経過があるからで、実は『虔十』の場合もここで真に必要だったのは、子供が大人になるまでの時間、つまり杉林に「毎日毎日」集まっていた子供たちが成長して、いったん村を離れて後、虔十のことを思い出し、杉林とその作者を別の目で見るようになるまでの不可能な跳躍に他ならない。

『虔十』が『グスコーブドリの伝記』や『銀河鉄道の夜』と異質なのは、そこがイーハトーヴなどではなく、賢治が現に生きていた辺り、鉄道が通ることによって早晩変貌を遂げ都市化してゆく東北の村であったからでもあり、子供の読者にとっても、それはジョバンニたちのいた架空の舞台ではなく、自分の生きている場所と地続きであることは明白だった。
 そこで「二十年」が経つ。子供にとって永遠と同義ですらある時間によって隔てられたその場所は、私にとって過去だったのか未来だったのか、賢治がすでに物故した「昔の人」であるからには、それは過去だと感じられたのだろう。第一、物語というものはすべて、過去のある時点ですでに起こってしまったもの、「とりかえしのつかないもの」として語られている。

「ある日、むかしのその村からでて、いまアメリカのある大学の教授になっている若い博士が、十五年ぶりでその故郷へ帰ってきました。」昔の面影をさらに留めぬ故郷で、唯一、変らないものを彼は見出す。「ああ、ここはもとどおりだ。(…)木はかえって小さくなったようだ。ああ、あの中に、わたしや、わたしのむかしの友だちがいないだろうか。」かつて虔十の林で遊んだ子供がそうなったという博士の顔は、私には想像できなかった(大人とは子供のあらゆる想像を越えたものだ)。とはいえ博士のこの感慨は、成長するにつれて共有せざるを得なくなったものではある。ここは今学校の運動場なのかという博士の問いに、彼に講演を頼んだ小学校長は「ここはこのむこうの地面なのですが、家の人たちがいっこうにかまわないで、子どもらのあつまるままにしておくものですから」まるで附属の運動場のようになってしまったが本当はそうではないと答える。「それはふしぎなかたですね。いったい、どういうわけでしょう」

「ここが町になってから、みんな売れ売れともうしたそうですが、年よりのかたが、ここは虔十のただひとつのかたみだから、いくらこまってもこれをなくすることはどうしてもできないとこたえるそうです。」そう言われてついに博士は思い出す。「その虔十という人は、すこしたりないとわたしらは思っていたのです。(…)毎日ちょうどこの辺に立って、わたしらの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ、まったく、だれがかしこく、だれがかしこくないかわかりません。ただどこまでも十力の作用はふしぎです。」その場所を「虔十公園林と名づけて、いつまでも保存するようにしては」と博士は提言する。「さて、みんなそのとおりになりました。芝生のまんなか、子どもらの林のまえに、「虔十公園林とほった青いかんらん岩の碑が立ちました。(…)虔十のうちの人たちは、ほんとうによろこんで泣きました。」

 そして実際「みんなそのとおりに」なったのだった。生前ほとんど無名だった賢治の死後、作品は出版され、その遺した原稿は花巻空襲からも家族によって守られて、「博士」たち(アメリカでなくフランス帰りだったかもしれないが)によって研究され、さらに真価を明らかにされ、編纂されて、それにも賢治の弟は協力を惜しまなかったのだ。「むかしのその学校の生徒たち、いまはもうりっぱな検事になったり、将校になったり、海のむこうに小さいながら農園をもったりしている人たちから、たくさんの手紙やお金が学校にあつまってきました。」時代を感じさせる肩書だが、これは権威主義によるのではない。彼らはみな、昔、虔十の林で作者のことなど気にもかけずに遊んだ者たち、つまり子供の頃に賢治の童話に出会った読者という資格で名をつらねている。

 しかしこれは子供こそが理想の読者だということではない。子供らは虔十を「少し足りない」と思っていたのであり、“イツモシヅカニワラッテヰル”のを「馬鹿にして笑っていたのだから。「ああ、全く、誰が賢く、誰が賢くないかわかりません」とは、子供は賢くなかった、虔十の価値をわからなかったということだ。虔十を馬鹿にしていたのは子供ばかりではない。「その芝原へ杉を植えることをわらったものは、けっして平二ばかりではありませんでした。あんなところに杉などそだつものではない、底はかたい粘土なんだ、やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんながいっておりました。」
 虔十とは、賢治が自身をカリカチュアとして自作に書き込んだものであると考えるならば、隣人の平二とは宮澤賢治の仕事を理解しなかったすべての者たち、作品についてのみならず、いつまでも親がかりでわけのわからぬ活動を続けていた(しかし虔十同様、家族からは経済的なものも含めた庇護をうけ、モラトリアム状態を続けていられた)肺病やみの賢治に無理解な目を向けた者たちの謂でもあろう。

「雨ニモマケズ」が叙述するのは周知の通り「サウイフモノニワタシハナリタイ」という賢治の理想像であろうがまた他人にそう思われたい姿でもあったろう。このうち「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」というあたりは虔十とも共通する一方、「雨ニモマケズ」にあって虔十にないのは、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という認識の人、また「野原ノ松ノ林ノ蔭の小サナ茅葺の小屋ニ居テ」という転調以降の東奔西走して献身する行動、実践の人としての姿である。

 一方で虔十には賢治が「雨ニモ負ケズ」のような公式の自画像(手帳のメモであり本人が望んだものでないにせよ)ではただの一言も触れなかったもの、すなわち作者としての彼自身という役割が与えられている。しかしここにはある種のねじれがあるように思われる。虔十はその為す所を知らざる者であるが賢治は違う。そして実践者賢治の姿が今日にまで伝わるのは文学者賢治がいたからだ。
 
 賢治の作品においてしばしば実践者の死は限りなく重い。とりわけ自己を犠牲にして得られるものは大きい。よだかはたんに誰かの餌食になるのではなく《星》になり、「今でもまだ燃えてゐ」るし、ブドリの死は農家の一軒一軒の肥料設計の相談に乗る(死の前日も賢治がやっていたことだ)のではなく、一度に気象を変えてしまう。彼らの死には「みんなのさいはひ」が賭けられており、実際、得られるものの大きさゆえに釣り合いが取られたと納得がゆく。少なくとも納得されうる。カムパネルラの死の向うにはジョバンニの未来が開けている。

 しかし『虔十公園林』における、羽毛のように軽くかすめて過ぎられた死はそのようなものではない。何ものでもないかのように装う、事件性をかぎりなく稀薄にされた死、「お話はずんずん急ぎます」と語りによってあたかも路傍に打ち捨てられてしまったような死だ。
 その代り得られたものは《死後の生》、実践者ではなく作者としての死後の栄光である。博士たちは賞賛を惜しまず、家族は泣いた。大勢の人々が青い橄欖岩の碑を見につめかけたし、これからもやってくるだろう。そしてなお、“賢い”人々は例のアメリカ帰りの若い博士によって発せられた「十力の作用」という言葉をなぞり、知識を競い合う以上のことはできないだろう。子供たちのように雨上がりの木立のしたたる緑を喜ぶ大人は少なく、たとえ作品に近づきはしても、テクストを読む以外のことなら何でもするのにそれだけはしない人々が大半なのであるから。

『虔十公園林』はたんに無邪気なものを讃える作品ではない。杉林の入口の青い橄欖岩の碑を見て満足して帰ることのない者たちは、そこにひそむ悪意、呪い(杉林の迫害者平二は作者の道連れでさっさと殺されてしまう)、願望が成就される彼岸としての現世、すなわち未来において死後の作品の運命を見届けたいというむなしい望み、死の向うまで行けたかに見せかける語りの詐術を見出すことだろう。そして自分の価値がわからないふりをしてみせるという最高の傲慢さによって、無邪気さを演じ切った賢治=虔十の作家の業[ごう]が大人になった私たちの胸を打つのだ。
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by kaoruSZ | 2012-12-01 16:28 | 文学 | Comments(0)