おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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tatarskiyの部屋(19) ”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビアへの反響2】の続篇ですので、先にそちらをお読み下さい。

管理人によるはしがき
“Sherlock”の脚本家の一人(マイクロフト役の俳優でもある)がゲイだとわざわざ教えてくれた人がいる。いや、正確には、シャーロックの感想書いてるあの人それを知らないんだろうかとdisってるのを見かけたのだ。しかしゲイだったらどうだと言うんだ? 度し難い権威主義者め。ゲイであればこそなおさら迎合する/しなければならない場合もあろう。女の書き手がセクシストである例などいくらでもある。出来上がったものが全てだしそこからtatarskiyさんがあれだけ緻密に読んで他人に判るように書いたものに対してよくそんなことが言えるな。 

 しかもそう書いているのが、名前を変えているが以前はbioに「BLの加害性について考えたい」とか書いていたのをtatarskiyさんのツイートに啓蒙されて外した人なのだからこれは恩を仇で返すというものだ。昨日から延々と投じてきたこの連続ツイートはtatarskiyさんを掩護するためのものだからこれは叩いておかなければ。そう思ってもう一度戻ったときにはしかしツイートがごっそり消えていた。相変らず臆病だわ。確かに、他にも鍵アカ相手によからぬことを話していた。見つかりたくなければ私のツイートをRTなんてしなければいいのに。

 ホームズは考える時指先をつき合わせたポーズを好んでする。彼の白い手を繰返し描写するワトスンによってそのことは原作に記しとどめられている。実は他にもtatarskiyさんにweb上で批判された恨みを持つ人が(あの時には同時に救ってももらったはずだが)、彼女に対抗するつもりで(?) ”Sherlock”を持ち上げはじめていると聞いた。なんと、権威主義的でないところが原作よりもいいとほめているそうだが、それが、シャーロックがものを考える時に手を合わせる恰好をするのが権威主義でないと言っているそうだからふるっている。

【反響2】として前回まとめたtatarskiyのツイートに対し相手の「そ @sh_1895」がよこした、客観性を装った失礼で見苦しいリプのRTを下にまとめ、そのあとにそれに対するtatarskiyの発言を掲載した。 
鈴木薫

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RT @sh_1895:@black_tatarskiy tatarskiy女史の呟きはちなみにこちらよりご参考のこと。>RT
[鈴木註:tatarskiyの部屋(19)にまとめられたものを指す。なお、「そ」が参照先を付けたのはこれが最初。] 

2/5より始まり、2/11完了までに合計28のログ。画面で見るには長く判りづらいので、以後引用は最初のログから順に振った番号で行うこととする。確認は各自にお任せしたい。

論の構成は、論の導入(何故自分が今回論じるのかの動機)、BBC某ドラマ内にあるホモフォビックとミソジニーについての関係の再指摘、(途中脇道としてホームズのキャラクターについての一考)、ホモを取り扱った作品についての考察と紹介、最後にそに対する私信。以上のパーツに分かれる。

(1)~(4)呟き:論の冒頭部分だが、まず認識が間違っているため実は意味がなかった。 ・まず、彼女が主張するところの「中傷」が行われていないこと。自説に対する異論を中傷と取るのは間違い。

・他者の呟きに対してリプライ、RTをするかどうかの判断基準はあくまでそ側にあると。 ・物事を論ずるのに「同じ手順を踏んだ上で」と、物事の見方と方法を画一化しようとしていること。←研究者としては致命的。

・そもそもそは自分の雑感を呟いたに過ぎず、tatarskiy女史と論ずる気持ちがまるでないこと。論も否定していない。自説に対する異論を否定と取るのは間違い。

(5)~(10)呟き:ホモフォビックを出せば何故観客が安心するかの説明がない。(現にtatarskiy女史は安心できていない)。

またこの論に沿うと、シリーズ内におけるモリー(男に色目を使う愚かな女の代表例)の成長が説明できない。

(11)~(15)呟き:「また注意深く読めば彼が同性愛者として設定されていることもわかるように書かれています」←論の一角をなす考察であるが、結論はあっても説明がない。

どの話のどの章を読んでそう読み取れるのか、論ずる側として補足が必要。キャラクター考察については人それぞれの感想があるため、そ側からの意見は割愛。

(16)~(18)呟き:BBCドラマシリーズ中、SHには特定の彼女はいないが、Jにはいるという点についての検証と説明があれば可。

(19)~(25)呟き:明確な認識の違い有り。そはtatarskiy女史が世の中に多数ある作品の中から特に、「これは(エロティックな男性同士の絆を扱ってはいるが)ホモフォビックではない」と判断した資料に興味を持ったに過ぎない。

作品そのものを未読と断じるのは間違い。

(26)~(28)呟き:同感です。そのまま貴方へ。

以上を通しての雑感まとめ:tatarskiy女史は結局のところ、論じたかったのか、そを非難したかったのか、恨みつらみを言いたかったのかが全て曖昧。もしも論じるつもりであるのならば、徹頭徹尾そこに集中するべきだった。残念。

以下私信:何かを論じる際には、まず個人的感情を出来る限り混ぜないようにしましょう。文章を読み通していくと、必要ない文が多々挟まっています。「(笑)」などは論外、減点対象です。折角正論を述べようとしてもそれだけで門前払いです。

他人の同意を得たいのならば、得られるに値する文を書きましょう。


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↑RT @kaoruSZ kaorusz.exblog.jp【「tatarskiyの部屋(19)”Sherlock”に見てとれる『美しい友情』の代償としてのホモフォビア」への反響2】完結しました

@black_tatarskiy↑私のツイートの全文はこちらの友人のブログで読める。「そ」氏からの返信も先にRTしておいたが、最初のエアリプとまるで態度が変わっていないのは一目でわかる。どこまでもご自分の体面にしか興味が無いようだ。不毛なのでリプライにするつもりはないが、理解力の欠如については指摘しておきたい。

そもそも彼のエアリプの内容はまったく私の文章の趣旨を理解しないまま、とうてい批評とは言えないレベルのそれこそ“主観的”なキャラや筋書きへの思い入れを格好をつけて呟くための踏み台にしていただけである。あれを“異論”などとは笑わせてくれる。私は主人公たちの関係性に対する「ホモなんかとは違う」という強迫的な差別化の描写からはっきり見てとれるホモフォビアと、それとセットの女性蔑視という構造そのものを指摘していたのにも関わらず、「ジョンがシャーロックに恋愛感情を抱いていたとしても彼は幼稚だから理解できないと思う云々」などという、私が書いた文章とは何の関係も無いどころか、あのドラマを見た感想としても無理のある「頼まれもしないキャラ語り」を並べ立てていただけだ。

そして私は彼へのリプライの中で、あのドラマのそれに限らずホモフォビアとミソジニーの描写は「ノーマルな男性視聴者」のためであること、それは“ホモ”と名指されることは激しく拒みながらも、“男同士の絆”の物語そのものは男性にとって普遍的に希求されるファンタジーであるからであり、あのドラマのホモフォビアとミソジニーの描写も彼らがそれを“安心”して享受するための安全弁であるという「構造そのもの」を重ねて説明している。

ここまで書いたように、私はそうした“安心”が必要とされる構造と、必要としている主体が“ホモフォビックな男性”であることをはっきりと指し示している。女性である私とは何の関係も無い。こんなことは普通は誤読しようがないと思うが。なにが「現にtatarskiy女史は安心できていない」だ。

「モリーの成長が云々」に至ってはなにをかいわんやだ。私は「主人公たちの親密さを示すために、彼らの出会いの場面でその片方に気があるとされる女性を冷淡にあしらわせ踏み台にしている」という極めて具体的かつ重要な場面での“機能”を例示したのであり、そこで道具にされた女性キャラにどんな後日談がつけられていようとまったく無関係な話でしかない。「キャラ」と「おはなし」しか理解できないような幼稚な読解力の持ち主以外には説明するまでも無いことなのだが。

そして私が原作のホームズについて言及した内容もその意味もまるでわかっていない。そもそも私が原作におけるホームズが注意深く読めば同性愛者として設定されていることについて述べたことはあくまで“おまけ”であり、まったく私の「論の一角をなして」などいない。

幼稚な俗物には「ホモかホモじゃないか」という低次元な問題としか理解できないのだろうが、そもそも私の文章の趣旨そのものが「ホモかどうか」などという話では全くなく「絶対にホモなんかじゃない」という線引きそのものの差別性を問題にしたものであること自体を理解できないがゆえの必然であろう。

だからこそ私はグラナダ版のそれを例に挙げ「同性愛者とはされていなかったがまったくホモフォビックではないホームズ像」であり、従ってBBC版のような問題は一切なかったと論じている。また私が原作のホームズについて述べたことは「人それぞれによって違うキャラ語り」などではまったくない。

この場でもう少し親切に補足するなら、原作におけるホームズの推理力と変装の達人としての演技力という、誰にでも読める表層にはっきり記されている彼の特性とは、その同じ表層でワトスンや彼自身によって言及されているように「想像力」の賜物であり、それは彼が「芸術家」であることを示すものだ。

彼が実に頻繁かつ巧みに他者の境遇やそれに基づいた感情を読み取り、また他者が望む役割を演じてみせることができるのも、人並みはずれた想像力と、その源となる感受性に恵まれていればこそである。そしてこれは芸術家にとっての芸術的資質そのものでもあり、事実彼はそう呼ばれそう自称しているのだ。

「白い手」と「甲高い声」を持つ彼はまったくもって明示的に、人の目を瞠らせる魔術師であり、他者になりきる驚くべき演技力を持つ俳優であり、自身うっとりと陶酔しながら歌うようにヴァイオリンを奏でる演奏家であり、そしてその全てが示唆しているように“成人男子の規範”から逸脱した存在である。

誰かさんのように「男の体面」に固執し凝り固まった自我を生きる者に、「他者のありようを想像し、他者になりきる」能力などあろうはずもない。もうおわかりだろう。ホームズの特異な能力とは「制度が定めた男としての規範を生きる者」にはありえないもの──彼の“女性性”にこそ由来しているのだ。

そして「芸術」とそれと結び付けられた「女性性」とは、特に原作と完全に同時代である19世紀末の文学作品(ワイルドやスティーブンソンがその代表例だが)において同性愛を象徴するモチーフとして描かれていたものであり、実はドイルはそうした先行作品からのあからさまな引用を随所で行なっている。

もっと言えば、同性愛と芸術の結びつきの扱いにおいても、ドイルが最初に、そして最大の影響を受けたのは、表面的なジャンルとしての「犯罪小説」や「探偵小説」としてのそれと同様、かのE.A.ポーからのものであろうが、それらについてはひとまず置くとしよう。

だがはっきり言っておくべきなのは、「ホームズが同性愛者として設定されている」ことの傍証となる細部は、それだけが独立したものではなく、他の幾つものテーマと結びついた広がりを持ちながらテクストそのものの至るところに鏤められているのであり、実はそれこそが単純な筋書きを超えた原作の魅力の源泉であるとすら言えるものだ。

逆に「ホームズが絶対に同性愛者であるはずがない」という意見は、それこそ始めから「それ以外の答えを許さない」強圧的な決めつけであり、テクストに対する検閲であり、細部に対する読解の禁止であるにすぎない。

あらためてBBC版の話題に戻ろう。ここまで解説してみせたように、原作におけるホームズの推理力と演技力という特異な才能が、彼の成人男性としての規範からはずれた“女性性”に由来するものである以上、今回のBBC版のようにそうした“女性性”を持たない人物として設定するのであれば、当然彼の能力の性質やその由来にも「原作とは別の理由づけ」が必要だったのだ。念のために言っておくが、これは「ホームズを必ず同性愛者として描かなければならない」ということでは全くない。

何度も言っているが、グラナダ版の場合ホームズは他者と性的な関係を持とうとはしない人物として設定されていたが、物事に対する子供のように無邪気な熱心さと女性的な繊細さを併せ持ち、他者に対して無神経な振る舞いに及ぶことなど決してないキャラクターであり、つまり同性愛者とはされていなくとも、彼の能力は原作におけるそれと同様、成人男性にありうべからざる“女性性”に由来するものとして描かれていたと言える。余談ながらこうした意味でもジェレミー・ブレットのホームズは単なる容姿の類似以上に原作における彼の本質をよく捉えていたと言えるだろう。

だが、あのBBC版におけるホームズの描き方からはこうした“女性性”が全く欠落しており、他者に対して無神経である上にどう考えても不必要にホモフォビックな「単なる頭のいい変人」でしかない。それでいて他者の心情を読み解く能力や変装の達人であるとかヴァイオリンの演奏を好むといった、原作写しの特性だけはおそらく何も考えずに持ってきているのだから、実のところは全く筋が通らない人物造形になっている。繰り返すが、原作におけるそれらは彼の“女性性”と結びついていたからこそ意味のある細部であったのであり、「断じてホモではないし女っぽくもない」ことにしたいらしい人物にそんな特性を付与しても、それは単に彼に「ホームズ」という名前が与えられていることとセットの空疎な記号にすぎないのだ。

もし本当に「原作とは違う、女性的ではないホームズ」を描きたいと思ったのであれば、女性性ではない彼の能力の由来の明確な設定と、ヴァイオリンなどではなくそれを示すはっきりした独自の特性を持たせるべきだったろう。もっとも、ホモフォビアだけはどうあっても言い訳できないが。

しかしながらあのドラマの製作者たちは、大して原作を読み込むこともせずにホームズの能力や特徴の表面的な部分だけを真似しつつ、「人付き合いの悪い変人」という程度の通俗なイメージをなぞるだけで事足れりとし、設定を現代に置き換えたという目新しさを売りにしつつも本質的な独自の工夫も無く、結局のところ彼らがもっぱら腐心してみせたのは、「どうすれば絶対にホモには見えないか」というくだらないにも程がある差別的なこだわりに過ぎなかったのだから、その安直さには溜め息しか出ない。

つまるところホームズとワトスンの関係性の描写も、「人付き合いの悪い無神経な変人が、ワトスンとの友情によって多少は人間らしくなる。絶対にホモではないが、お互いの存在は女との関係より優先される」という程度の、最初から落としどころの見え透いた、極めて陳腐なものにしかなりようがないのだ

前にも書いたが、ホームズの側にも女をあてがっておくという手が使えたなら、彼にあんなにもホモフォビックな態度を取らせる必要はなかったであろう。だがそうすれば、彼にはホームズと名乗る必然性も、ホームズと呼ばれるだけの説得力も持たないことがあまりにも明らかになってしまっただろう。

ホモフォビアが必然的にミソジニーに由来するものである以上、「ホームズは絶対にホモなんかじゃない。ホームズとワトスンの関係がホモなんかであるはずがない」という強迫的なバイアスは、実はそのまま原作で描かれているホームズの“女性性”を決して見まいとすることでしかありえないのであり、つまり同性愛以前に、男の持つ“女性性”そのものが未だにアクチュアルなタブーなのだ。そして原作におけるホームズのキャラクターは、未だにこのアクチュアルなタブーに触れるものなのであり、皮肉ではあるがそうした意味でもまったく古びていないと言える。

そしてあのBBC版でのホームズの描き方は、彼とワトスンとの関係性に対するそれと同様、通俗なホモフォビアとミソジニーによる検閲の結果であるに過ぎず、「こうした描き方しか許さない」という抑圧の反映として以上の価値や意味は、およそ見出しがたいものであるとしか言えない。

あとは本アカの文章の続きに譲ろう。もっとも、そちらもある種の二度手間込みで書かねばならないことを考えると気が遠くなるのだが。純粋に好きなことをするつもりで原作について書き出した当初は、また人の恨みを買うのを承知で文章を書かねばならない日が来るとは思っていなかった。

ちなみに「そ」氏の馬鹿さ加減には事細かにつきあう気は最初からなかったのだが、私がはっきりと書いていることを明らかに自分のプライドのために無視していたのには正直苦笑した。特に、格好をつけたつもりでいるらしい結び。なにが「他人の同意を得たいのなら、それに値する文を書きましょう」だ。

私ははっきり「お前と積極的に話すつもりなどなかったが、一度は示しをつけておかねば済まないから」話しかけたのだと書いたのだが。つまり私はあらかじめ「お前の同意を得たいなどとは微塵も思っていない」と通告していたのだ。読解力の欠如を憐れむべきだろうか。

もっとも、こちらを「女史」呼ばわりしつつ、いかにもこちらが「感情的なだけの女」であるかのように見せかけ、自分は「冷静で分析的な男」ぶってみせていること自体で、それこそ「差別的な男」としての馬脚を現しているが。

元々私の文章について(最初から読解力の欠如丸出しであったが)言及した動機そのものが、自分がいかにも知的で公平に見えるように振る舞うための踏み台として使うために過ぎなかったのであろうが。その踏み台が直接口を利いて自分に文句を言ってくるとはまるで思っていなかったのだろう。

他にも今回私の書いたことについて差別的で理不尽な物言いをしてくる男女はウンザリするほどいて引きも切らない。私がゲイ男性や肩書きのあるクィア研究者であれば、これほど大勢から無礼な物言いを投げつけられることは決してなかったであろうが、私は誰かが言わねばならないことを言ったまでである。

自分の言ったことについては一切間違っているとは思わないし、後悔もしていないが、本来なら私以外に、私より先に言うべきであった人がいたはずだという思いもまた確かである。もっとも、こんな後書きめいた感慨に耽る余裕はまだ無いのだが。ともかく今日はこれまで。今度は本アカの方でお目にかかろう。

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by kaoruSZ | 2013-02-26 19:36 | 批評 | Comments(0)
続篇掲載しました(2月26日)。http://kaorusz.exblog.jp/20073529/
★もう2ツイート分脱けていました。●を付してあります。2月14日訂正
★最後の段落を落していました。2月12日訂正(kaoruSZ)

RT @sh_1895 twitter上でとあるSHERLOCK論を読んだんだけど、なんか論点がずれている気になって今ひとつふに落ちなかった。なんつーか、口唇期の子供をセクハラだ!と非難しているような違和感。

自分が嫌だったからこれは間違っている!というスタンスに感じられたんだよな。いや自分の論理と感情を黄金律のように設定するってどうよ、というような。うーん、あるいはそういう問題に対するこちらの理解不足という面があるからかもしれないが。

twitter上で見かけた「Sherlock」論がまだ続いていたので、ついつい読みふけっていた。…うーん。三度ほど読み返してみたけどやはり腑に落ちない。

長文を要約すると、あの二人の関係を表すのにホモフォビアとミソジニーがセットになって常に用意されている(それはとても愚かなことであり許せないことである)、という話になるのだけども、その根拠というか、着目の仕方が多分自分とは違うんだろうなあ。だから多分、飲み込めないんだろう。

あのドラマがホモソーシャルを主点というか、二人の関係を表すのに重要な要素として扱ったかどうか。あの二人がずばりゲイであるかどうか。互いに対してセクシャリティな感情を持つことがストーリー的に外せなかったかどうか。そこを問題にしなければならないかどうか。自分は問題にしなかった側だ。

どちらかというと、あのドラマの主点は主人公であるシャーロックの人間的な成長(という言い方すら自分の友人は嫌うが)を扱っていて、S1の1話から3話まではだから彼の対人間関係の未熟さ加減を目立たせている。彼は女性にのみ対して厳しいのではない。彼自身に対する周囲の無理解に対して厳しい。

仮にジョンがシャーロックに対してセクシャルな要素も含めた好意を持っていたとしても、彼は理解できなかったのではないかと思える。そのくらいS1の彼は好意という感情が未分化だ。例えるならば子どもが自分の周囲にある人間を「好き」と「嫌い」の二択で判断しているに過ぎない。

そんな人間の行動がホモフォビアとミソジニーで成り立っている、と言われても正直自分はピンとこなかった。うーん、彼はそこまでまだ成長していないんじゃないかなと。

しかしこの方の言うところの、「「シャーロック」のような下品なホモフォビアをまったく用いずにエロティックな「男同士の絆」を描ききった名作がいくらでも作られています。」という名作の名前が後学のためにも知りたいなあ。どこがどう違うのか興味がある。


RT @kaoruSZ そういう名作枚挙に暇がないんだけど。The Celluloid Closetでも読んだら(棒)。男の友情物語は男が男のために作って同性愛の含意ゆえに長年「男を」魅了し続けてきたものなんだが。
この人、彼女の文章三度読んだそうだが()なぜリンクしないんだろう。読者がすぐに比較して判断できるのにね。だからしない? tatarskiyさんは主役二人の関係が同性愛かどうかなんて話してないだろう。「性的な可能性を前もって強迫的に排除する事」をホモフォビックだと言っているんだ。


@black_tatarskiy: @sh_1895 エアリプでの中傷おつかれさまです。わざわざ「三度ほど」も読み返していただいたらしい文章を書いた本人ですが、はっきり言って悪意すら感じるほどに「読めていただけたいない」ので、まずはこの場でもう一度読み返して下さいね。http://twilog.org/tatarskiy1/date-130131

私に対して直接リプライしないどころか、私の文章を直接RTすることもなかったのは貴方のフォロワーの方に私の文章を直接参照されては困るからでしょう?貴方の言っていることがまるきり的外れな中傷なのがわかってしまいますものね。

友人が先に書いてくれたのをRTしましたが、私は貴方が中傷なさったのとは違い、あのドラマの映像そのものに現われていた構造的な差別そのものを、全て具体的な該当箇所を例示して解説しています。印象批評や思い込みではまったくありません。

貴方が私の論を否定なさりたいなら、同じ手順を踏んだ上で、誰の目にも私以上の正確さを示さなければ無意味です。ご自分の主観的なキャラ語り(笑)以外に根拠のないあやふやな印象論を、フェアな手続きに従って作品を論じていた私を踏み台にして語っているのは貴方の方です。

●そしてこんな常識的なことを、いい大人であろう方に言って聞かせねばならないこと自体情けないのですが、そもそもフィクションの中の出来事に「たまたま」や「偶然」はありえません。

●映像であれ文章であれ、その表層に描かれた全ては観客の目に映ることを前提に“演出”されたものであり、全て「観客のために必要な情報だから」提示されるものに過ぎません。あのドラマの中でのホームズやワトスンのホモフォビックな身振りも結局は観客を“安心”させるためです。

私ははっきりとあのドラマの構成を指し示し、あの二人の親密さが描かれる場面の前には、必ず明示的ゲイ男性と彼らを差別化する要素が組み入れられていること、また、性的関係の要素を女とのそれに限定した上で、「男に色目を使う愚かな女」を侮蔑し、彼らの関係を「そんな女との関係よりも重要」なものとして演出していると論じてみせたはずです。これはそれこそ“要約”して差し上げれば、「女との性的な関係より男同士の関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」ということであるのは明白でしょう。

言葉の意味を知らないでいらっしゃるようですから教えてあげますが、「ホモソーシャル」とはこのように「性的存在としての女性の蔑視」及び「男同士の親密さを明示的同性愛と強迫的に差別化する」ことによって成り立つもののことです。

その二者関係が性的なものであるかどうかではなく、「非性的な関係でなければ絶対に肯定できない」というジャッジを下している規範それ自体の本質的な差別性の問題です。これは私の書いた文章を読んだだけではっきりわかることで、誤読しようが無いと思いますが。

そしてあのホームズの描き方も、原作においてはっきりと女性に恋愛感情を持たない人物であることを強調されており、それが彼のアイデンティティにとってあまりにも重要である以上はヘテロセクシャルに描きようがなく、かといって「絶対にホモにはできない」ために過ぎません。

ついでに言えば原作のホームズは女性に対して無礼な口をきいたことは一度も無く、本質的には“女嫌い”ではまったくありません。また注意深く読めば彼が同性愛者として設定されていることもわかるように書かれています。あのドラマの製作者は絶対に読み取りたくないのでしょうが。

またこれは表アカの文章の続きとして詳述する予定ですが、ホームズの推理力というのは彼の常人とは異なるセクシュアルな感受性と切り離せず、それは彼を人並み以上に「他人の感情に敏感な」人間にさせているものです。情緒的に幼稚な人間にあんな能力はありません。

グラナダ版でジェレミー・ブレットが演じていたホームズも狭義の同性愛者ではなく他者と性的な関係を持とうとはしない人物として設定されていましたが、原作と同様他者の視線や感情へのセンシティヴな感性を持っていることが窺えるように描かれていました。

もちろんBBC版のようなホモフォビックな要素など一切ありません。つまり、ホームズは「子供のように無邪気」な面を持つ人ではあっても決して「子供のように無神経」ではありえないわけです。そんな鈍感な人物には推理力も演技力も備わっているわけがないからです。

ホモフォビアの話に戻りますが、大体あの「ゲイ男性に鏡を覗き込ませた後わざと至近距離からフラッシュを浴びせて歪んだ顔を大写しにする」一連の場面なんか、鉄パイプで殴って顔を歪ませるのと意図するところは大差無く、ほとんどヘイトクライムと言ってもいいくらいのものです。

これも彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられてさえいなければ、ここまでひどい描写をする必要はなかったでしょう。彼らの名前は「男同士の友情」のアイコンとしてあまりにも有名なものであり、それは男性にとっては彼らの関係に惹かれていれば惹かれているほどに「絶対にホモであってほしくない」ということを意味します。加えてホームズの側にアリバイとしての女をあてがうという手を使えないことが、ますます直接的なホモフォビアの描写を助長したことも間違いありません。

そしてここまで懇切丁寧に解説したからには、おわかりいただかねばその甲斐も無いというものですが、「男同士の絆の物語」とは、男性にとっては“ホモ”と名指されることを恐れながらも同時に強く希求される普遍的なファンタジーであり、それ自体がある種の神話的な原型であるとさえ言えるものです。それこそ古今東西の本当の神話や英雄譚(イーリアスでも平家物語でもいいですが)から現代の映画作品に至るまで連綿と続くあまりに普遍的なものであり、当然枚挙に暇もありません。知らない方がおかしいようなものです

映画なら戦争物や冒険物や西部劇といったジャンルにおいて繰り返し描かれています。興味がお有りならぜひご自分でお探しになって下さい。また、明示的ゲイ男性を主人公たちとの差別化の為に踏み台にするようなホモフォビックな描写の登場自体が実は極めて新しいものです。

それ以前の“アリバイ”的な描写としては単に女性の恋人役を配置しておくだけで事足りていたのです。つまり「女にはわからない男同士の絆」という符牒だけで、ゲイもヘテロも関係なく男性の観客からの共感を当てにできたわけで、完全に「男のための」ものだったのです。

そしてエロティックな含意なくして魅力的なモチーフでありえるはずもなく、当然その魅力の源泉は男同士の関係性そのものに内包されたエロティシズムです。つまり“ホモ”と名指すこと/名指されることはタブーでありながら、“それ”なくしては成り立たないという本質的なアンビヴァレンスを内包しているものです。ちなみに「下品なホモフォビアを全く用いずにエロティックな男同士の絆を描ききった名作」を一つだけ挙げてさしあげれば、原作の『シャーロック・ホームズ』シリーズこそがその中でも最高の傑作の一つだと言っておきましょう。

ドイルが書いた同性愛モチーフの作品は他にもたくさんありますが、ホモフォビックな描写は一切ありません。またドラマと同じく最近の映像化作品であってもガイ・リッチーによる映画版は原作のエッセンスをよく汲み取ったもので、当然まったくホモフォビックではありませんでした

エアリプで私を見下して言いたい放題の小馬鹿にしきった態度を取ってくれた方と、積極的にお話したいとは思いませんでしたが、他にもウンザリするほどいるであろう貴方のような方への反論として、一度は示しをつけておかねば済まないことでした。

私は好き好んであのドラマを批判したわけではありません。何の権威も無い一個人であり女でありながら覚悟も無く軽はずみな発言が出来るほど馬鹿ではありません。私は貴方のような「いいご身分の方」とは違うのです。私の文章の趣旨をまともに受け取る気なんか端からお有りにならない方に、いい加減な口を出されてはたまりません。

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by kaoruSZ | 2013-02-14 23:13 | 批評 | Comments(0)
RT @tanadanada BBCシャーロックのホモフォビアについては恥ずかしながら言及されるまで考えてもみなかったけどゲイティス氏だったかモファット氏だったかが前に「これシャーロックとジョンのラブストーリーだから」みたいなこと仰ってた記憶があるので制作サイドとしてはシャーロックとジョンのホモソーシャルを主張するというよりもホモソーシャルとホモセクシャルの間というかそのどちらにも属さない関係を提供するためのアレかと思ってたよ

でも「この二人仲良しすぎだろ」→「ホモなの?」→「ホモじゃないってさ」→「ホモじゃないにしてもただの友達ではないよね」っていう流れ作るための展開なのかと

友達だけどただの友達じゃないよっていう

そこにホモフォビック的な意思は感じなかった 私が(今のところ)ヘテロセクシャルだからそういうのに疎いだけかもだけど


@tatarskiy1:@tanadanada @tatarskiy1ですが、あちらでは長文の連投中につき裏アカにて失礼します。上にRTさせていただいたツイートは私の文章に対するエアリプでしょうが、まったく内容を理解されていないようですね。その無理解ぶり自体がはっきり言って有害だと判断せざるをえません。

まず、明示的にセクシュアルではない親密な男同士の関係性を描くだけなら、ホモフォビアなんかまったく必要ありません。それが必要なのは「性的な関係」そのものを蔑視し、それを女とのものに限定することを当然とするミソジニーに由来するものであり、つまりホモフォビアが現われる時は必然的にミソジニーとセットです。そしてあの「シャーロック」というドラマは典型的にその図式をなぞっており、「男に色目を使う女」への蔑視と「女みたいで気持ち悪い」明示的ゲイ男性への差別を露呈していました。

どちらもあのホームズとワトスンの魅力的な関係が描かれた原作にはまったく存在しないものです。つまりあのドラマは19世紀の水準からも呆れるほど退歩しているとしか言いようの無いものです。

そして表現とは常に「描かれたものが全て」であり、事後的な言い訳など一切通用しないものです。映像作品なら「映像として表面にあらわれたもの」が全てです。そしてあのドラマはその映像の中で恥ずかしげもないホモフォビアとミソジニーを露呈し、男性同士で性的関係を持っているとされる登場人物は否定的にしか描写されません。そりゃあ本編中であれだけホモフォビックな予防線をたっぷり張っておけば後からいくらでも安心して“ラブストーリー”とでも何とでも言えるでしょうよ。「そこまでしないと男同士の愛を肯定できない」のがホモソーシャリティというものです。

そして「ブロマンス」とかいう区分自体、ゲイ男性を露骨に差別できなくなったのと平行して「友情」という言い方ではセクシュアルなニュアンスを否定しきれなくなったために過ぎず、そんな造語ができる遥か以前から「シャーロック」のような下品なホモフォビアをまったく用いずにエロティックな「男同士の絆」を描ききった名作がいくらでも作られています。

はっきり言えば、あれだけ念入りに「エロティックな可能性」を潰す描写をしてからおもむろに「友情」を描写するという手順を厳守した作りもなかなか無いくらいですよ?>詳細は本アカに書いた通りなので繰り返しませんが、あれは製作陣が男だろうが女だろうがヘテロであろうがなかろうが、言い訳の出来ないレベルだとしか言いようがありません。

私が腹を立てているのは別にゲイ男性のためではなく、ホモフォビアの元凶が常にミソジニーである以上、それは「私に対する差別」だからです。貴方がそれを「理解できない/したくない」とおもわれるならそれは勝手ですが、それを「人それぞれの解釈の違い」だとか言い訳しないで下さいね。

私が書いたのは適当な印象批評などではない厳密な読解であり、それを否定なさりたいのであれば、同じだけの精度が必要であることをご理解くださいますよう。それでは失礼します。



頭に血が昇ったままでなかなか眠れそうも無いので、ついでに追記。私の批評を読んで理解した上でそれでも『シャーロック』のドラマ自体は好きだというなら別にそれ自体を責めようとは思っていない。

この件については去年大河ドラマに絡んだ私信で述べたことがそのまま当てはまるので、URLを貼っておくhttp://kaorusz.exblog.jp/18901463/ホモフォビアは残念だけど、ドラマ自体は好きだし面白い」というなら、それはそれで構わない。

単に、それと正確な読解に基づいた認識は別であるというだけだ。「ホモフォビックな作品を好きなのは悪いことだ。だからホモフォビアと言われても否定しなければ」などど思う必要は無い。「面白いけど、ホモフォビアが無ければもっといいのに」と思っていれば済むことだ。

それはダブルスタンダードなどでは決して無い。真に責められるべきダブルスタンダードを露呈しているのはあくまでホモフォビックな製作者の側であり、作品に“萌える”女性視聴者ではありえないのだから。

RT @kaoruSZ tatarskiyさんよくきっちり書いてやったねえ。なんだこのどうしようもなさは。 https://twitter.com/mumeei/status/298002052704002050?p=v



RT @tanadanada:@black_tatarskiy リプライありがとうございます。まず初めに私の一連のツイートがあなた様のツイートへの批判と呼べるほど大それたものではなく、当該作品のいちファンとしての所感に過ぎないことをご理解ください。

と言いましてもあなた様のツイートを拝読の後の所感ですので、エアリプ・批判と受け取られても仕方がないことは承知しています。

当該作品の読解につきましては反論の言葉もございません。申し上げましたとおり私はこの作品のファンですし、さらにブロマンス、ホモセクシャル、という話題におきましても、(不快になられましたら申し訳ないですが)腐女子ですので偏った見方しかできません。

ジェンダーについても、数回講義やシンポジウムに参加した程度で大した知識はございません。何を語るにしてもただの素人です。

あなた様のお考えに対する悪意はまったくございません。無理矢理に論を進めているとも、突拍子のないことが書かれているとも感じません。ただ私は、このドラマを見てあなた様のような感想を持ったことがない。あなた様のツイートを読んだ後でも。

勝手な言い分ではございますが私のツイートはいち感想として流していただければと思います。思慮の浅いツイートであったことは自分でも承知しています。リプライありがとうございました。


@black_tatarskiy:@tanadanada お返事どうも、とだけ言って済ませられればよかったとこちらも心から思いますが、他のことは置くとしても「腐女子ですので偏った見方しかできません」とはいったい何のつもりですか?本気で意味がわかりません。

先に言っておくと、私は別にジェンダーやセクシュアリティの研究者ではありませんし、そんな単語を冠したシンポジウムに行ったことだって一度もありません。世間様から所謂「セクシャルマイノリティ」としてカテゴライズしていただけるような立場にもありません。
私は、単に男性同性愛の描かれた文学作品や映画の愛好者であり、女性であるに過ぎません。つまり貴方とは違う特権的な立場を保証された存在ではまったくありません。

しかしながら、自分が「偏った見方しかできない腐女子」であるなどという卑屈な自意識を抱いたことは一度もありません。表現とは表現されたものが全てであり、作り手の側であれ受け手の側であれ、その人が男だろうと女だろうとセクシュアリティが何だろうと、「その人が何を描くか、何を快楽として享受するか」には一切関係ありません。「関係がある」と思うのは善意であれ悪意であれ単に差別意識の表れです。

そして作り手としての表現の達成や受け手としての批評の精度としてその人がどれ程のことを成し得たかは、純粋にその個人の能力に依存します。性別やセクシュアリティの部分に人種や民族を代入すればそんなのは当たり前のことに過ぎないことくらいお分かりになりますよね?

それを謙虚ぶったつもりで「腐女子ですので偏った見方しかできません」などとおっしゃるのは、「女は馬鹿なので難しいことはわかりません」というのと同じことですよ?

貴方はその一言で「社会的に貴方と同じカテゴライズを強いられざるをえない」他の全ての女性に対する侮辱に加担したのです。もちろん私も否応無くその一人に入ります。私は貴方のような卑屈な男尊女卑を内面化してなどいないので非常に不愉快です。

今回の貴方の態度ににじみ出ているような、「女には男性同性愛の表現なぞ本当に理解できるわけがなく、それを男性に遠慮せずに享受する権利も無い」という女性に対する蔑視とその内面化は女性に対する差別そのものであり、言い訳の余地など無いことを肝に銘じておいて下さい

貴方がこうした恥ずべき言動をさらしてしまったのも、日頃から「男性様」や「権威ある作家様」、「れっきとしたマイノリティ様」には気を使っていらしても、「自分と同じただの腐女子」のことは馬鹿にしきっていて何も考えていなかったからでしょう。

私には貴方のそうした差別的なヒエラルキー意識や言動を修正する権限も手段もありませんが、できればなぜ私からこうして苦言を呈されたかについてはよくお考えになって、「女性に対する発言」についてももう少し慎重になっていただきたいと望みます。それでは失礼を。

@tanadanada:@black_tatarskiy「腐女子」という私の安易なカテゴライズが不適切でしたね。ごめんなさい。あなた様の男性同士の恋愛に対する楽しみ方は存じ上げませんが、二次創作的な男性同士の恋愛を楽しむ身としましては、常に原作者の意図を意識的に歪ませている、穿った見方をしているという意識がありまして。

その他女性差別・蔑視・卑下意識などにつきましては、後付けになってしまいますがそんなつもりはないとしか言いようがありません。ですがあなた様のような受け取り方をなさる方がいらっしゃるという事実は受け止めたいと思います。失礼します。


@black_tatarskiy:@tanadanada 本当に頼みもしないのに余計なことを次々言って下さいますね。「二次創作的な男性同士の恋愛」を楽しむことが「原作者の意図を歪ませている」とはどういう意味でしょう? そもそも全ての創作は二次的なものですし、ある原作をドラマ化や映画化すること自体が二次創作と言え、それは、「元あったものに違うものを付け足して、新たな意味を持たせる」という営為です。これは所謂ファンフィクションであれ“公式な”ドラマ化や映画化であれ本質的な違いはまるでありません。違うと思うのは単なる権威主義です。

そして「元あった素材に付け足す素材」が男性同性愛である場合に限って「歪めている」だのという話になるのは単なるホモフォビアの内面化でしょう。

それに加えて「元あった原作自体」が本質的にホモエロティックなものであり、単に時代の制約によって明示できなかったに過ぎない場合が往々にしてあり、あのドラマの原作であるドイルの『シャーロック・ホームズ』シリーズはまさしくその典型的な例です。

「非難すべき不当な二次創作」というものがあるとすれば、あのBBCの「シャーロック」こそ原作には微塵も無かったホモフォビアを付け足してドヤ顔をしている「原作を歪めて貶めた恥ずべき二次創作」です。ファンの女性たちの、主人公たちのホモフォビア抜きの親密さを描いたファンフィクションの方が、よっぽど「原作に忠実」でしょう。

そして私個人の話をするなら、当然のこととして自分の美意識や好みを持ってはいても、私は常に単なる「読者、視聴者」であり、そうした私の目に映る全てのものの中に、ホモエロティシズムも画面構成の造形美もシナリオの秀逸さや稚拙さもホモフォビアもミソジニーも等しく含まれており、私は自分が読み取った全ての情報を分析し、それを最終的に自分にとっての「快/不快/倫理的な嫌悪感」として分類しているに過ぎません。

つまり私は「腐女子だから妄想している」などという卑屈なものの見方をしたことなど一度も無く、私がはっきりと論拠を示して言及できるほどにホモエロティシズムを読み取れるのは、それと同時にホモフォビアやミソジニーやそれ以外の多くのものをも余すところ無く読み取っているからです。そしてこれは「そうする勇気」さえあれば誰でも出来ることです。

まず貴方は何よりも、自分自身のホモエロティシズムに対する感受性を卑下なさることをおやめになるべきです。それをしない限り、「自分と同じ卑屈になるべき恥ずべき妄想の持ち主」に対する蔑視をあらためることはできないでしょうから。

「自分のことだけを言っているので貴方は関係ない」と仰りたいかもしれませんが、はっきり言って、貴方の自己卑下が構造として通俗な世間の差別意識そのものの内面化である以上、それは「世間が貴方の同類とみなす」全ての女性に対する蔑視の肯定です。

繰り返しになりますが、私に貴方の言動をあらためさせるような強制力はありません。ですが、今回の貴方の卑屈で有害な発言が、私の目の届く範囲で私の書いた文章を発端としてなされたものである以上、見過ごすことはできませんでした。それをご承知下さいますよう。では失礼を。
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by kaoruSZ | 2013-02-10 10:14 | 批評 | Comments(0)
1月30日~https://twitter.com/black_tatarskiyに掲載(終了)

関連エントリ
tatarskiyの部屋(24)「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」補遺http://kaorusz.exblog.jp/21704329

本エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/



RT @kaoruSZ 夜中にtatarskiyさんに電話するとBBCのSherlock(第一話と第三話)見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りでひどいダメージだと言う。
同性愛者を差別しないという表面的なポーズとセットの“ただしこの二人は違う”アピール、男ゲイを気持悪く描きエクスキューズとしてレズビアンを出す、女と同性愛者を踏み台にして強調される男の友情、ホモっぽく見せてくれさえすればどんな文脈でも萌えと言っていられて“公式様”を批判する発想のない卑屈な腐女子に耐え難いストレスというので、ツイートすることを勧める。
私はTVないからそもそも見ていないが、同じように感じてる人もいるのでは?


@tatarskiy1↑上のRTで相方が書いてくれたが、NHKで放映されているBBCの #シャーロック を見たらホモフォビアとミソジニーてんこ盛りの“ホモなんかじゃない健全な友情”万歳っぷりがまことにひどかった件について。正直こんなことを私個人の責任で書かなければならないのはあまりにも気が重いのだが。

何からお話すればいいのやら頭が痛いのだが、まず基本的な事実として、第一話においてウンザリするほど顕著だったが、このドラマの中でのホームズとワトスンの関係が「ゲイだという誤解に基づいて周囲から気遣いを受けカップル扱いされる」という描写の頻出そのものが、二人の親密さが本当にセクシュアルなものでありうること、またはそうした関係へと発展しうることをあらかじめ否定するためのものでしかないのだ。

あの第一話での周囲からのカップル扱いの頻出とワトスンからホームズへの「彼女いないの? じゃあ彼氏は?」という質問も、それに応えたホームズの側の「君の好意はありがたいしこちらも好意は持っているが“そういう意味”ではない」という含意の婉曲な台詞回しも、「それはこちらも同じだ」という意味のワトスンの応答も、彼らの間に存在する好意に“ゲイ”と分類されるような種類の感情が入り込む余地を慎重に排除し、かつ「彼らは絶対に違いますが、マイノリティであるゲイを差別する意図はありません」というポリティカリー・コレクトなエクスキューズをアピールするためのものだ。

それと非常にいやらしかったのが、ワトスンの家庭の事情に関するホームズの推理力を示す文脈で、ワトスンの姉がレズビアンであり、アルコール中毒でパートナーと別居したらしいこと、ワトスンは姉とパートナーの関係については理解があるらしいことが示唆されていたが、これも実は巧妙にポリティカリー・コレクトな“同性愛への理解”にみせかけたホモフォビアの表れだ。

なぜ原作では兄であったものを姉に変える必要があるのか? なぜ「兄がゲイ」ではいけなかったのか? 答えは簡単。「同性愛者を差別しない」という言辞で男同士のそれと女同士のそれを一括りにし、「差別しない例」として女同士のそれだけを取り上げるのは、“男同士の関係”を忌避しているからだ。

ホモフォビアとはその本質としてホモソーシャリティ≒“男の友情”のネガであり、つまりその絶対的な原義として「男同士の性的関係の忌避」である。それは権力者たる男が男であるために必要なタブーなのであり、そうした男同士が親密な関係を持つ上で絶対に厳守されねばならない掟なのである。

彼らはそのタブーが厳守されていることを確認してこそ始めて安心して“男同士の関係”の魅力を認めることができるのだ。あのドラマの製作者たちは、そのホモソーシャルのコードの厳守を示しつつ、その誤魔化しとしてレズビアンを“尊重”してみせた訳だ。(こうした扱い自体が女への搾取だと思うが)

女や女同士がいくら性的であろうと、ノンケの男にとっては痛くも痒くもあるまい。むしろポルノ的な文脈でもって喜びさえするだろう。どうもアイリーン・アドラーはそうした扱いであるらしいが。いかにもヘテロセクシストの考えそうなことである。

そして生身の同性愛者の男は存在しないことにされるか否定的にしか扱われず、当然レギュラーメンバーにも入れられていない。有色人種ならいかにもおためごかし的にヤードのチームに入れられていたり、冤罪をかけられて殺害された不幸な犠牲者として原作から人種を変更して加えられているが。

こうしたホームズとワトスンの関係性の描き方へのホモフォビックな抑圧は、実はそのまま原作における二人のそれぞれのキャラクター性をまったく把握できていないことに繋がっていると同時に、ドラマの中での二人の関係性を女と同性愛者を踏み台にしなければ肯定できない原因にもなっている。

その象徴的な例として、まずは二人の出会いのシーンを比較してみよう。不愉快な方から先に挙げるが、ドラマでは死体の置かれた病院の研究室にホームズと検視官のモリーの二人がいるところから始まる。ホームズに気があるらしいモリーは彼の気を惹きたくて化粧しているが、ホームズはそれをそ知らぬ顔で小馬鹿にし、モリーは傷ついた表情で口紅を拭う。

そこにワトスンが紹介者であるスタンフォードに連れられて現われ、すぐに彼が自分が募集していたルームメイト候補であることに気づいたホームズは、いきなり彼が派遣されていた戦場がアフガンとイラクのどちらかと訊ねて驚かせた後、ベイカー街の部屋を見せるために彼を連れ出す。

ここまでが二人の出会う最初の場面で、この後大家のハドスン夫人にカップルと誤解されながら部屋を見ている間に成り行きでホームズの仕事について行くのだが、総じて他人に対して人当たりが悪く気遣いも窺えない「高機能社会不適合者」と自称していたようなホームズが、なぜワトスンに対してだけ初めから比較的好意的であり、仕事に連れ出して信頼を寄せるようになったのか、ドラマの展開の中では説得力ある理由はろくに示されていないのだ。

はっきり言えば、彼らの親密さを担保しているものは、まず第一には彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられているという単純な事実それ自体であり、もう一つは彼らの出会いに先立って、ホームズから(彼の登場とほぼ同時に)露骨に冷淡に扱われる哀れな女=モリーの存在である。

つまり、ホームズに色目を使いしかもまるで報われず冷たくあしらわれる哀れな女という、明白なマイナスの存在を踏み台にすることで、“彼女よりは遥かにまともな扱いをされる”という対比の形でホームズとワトスンの関係性を初対面から相対的にプラスに演出したというわけだ。

これだけでも露骨な女嫌い(蔑視)そのもののやり口であるが、先に述べたようにこのシーンの後にはさらに二人が「ゲイなんかじゃない」とアピールする描写が続くのだから「ホモソーシャリティとは女と男性同性愛の排除によって成り立つ」という教科書通りの図式を見事になぞっているという他にない。

しかもこのやり口は第三話において、今度は完全にホモフォビアとミソジニーが一体になったより悪質な形で反復されるのだ。研究室で作業中のホームズのところへモリーが新しい交際相手であるらしい男を連れて現れ、ホームズとワトスンの前で彼に向かってしなをつくって得意気にしてみせるのだが、ホームズはその男が自分に向かって挨拶してみせた直後に、冷然と「ゲイ」と一言吐き捨てるように言う。男は即座にその場から立ち去り、ホームズは動揺するモリーとなぜ彼女の交際相手にそんなことを言うんだと咎めるワトスンに対して、「眉を綺麗に細くして整髪料をつけ、いかにもなブランドの下着を見せていた」と言い、ワトスンは「整髪料くらい僕も使う」と反論するが、ホームズは「君の使い方とは違う」と言い、とどめに「自分に電話番号を書いたメモを渡していった」と男の置いていった紙片を示してみせる。

この場面における一連のやりとりそのものが、ホームズに相手にされなかったモリーの新しい交際相手を見せびらかすという彼へのあてつけが、彼女にとって最悪の形で裏目に出るという、露骨にミソジナスな“愚かな女”への嘲笑と、“ゲイ”とは“ノーマルな男”にはない特徴を持つ“特殊な人種”であり、それは「女のように身だしなみに気を使い、男のくせに男に色目を使う」という「男にあるまじき振る舞い」を意味するという「同性愛の人種化」であり、そして何よりも、それに対してホームズとワトスンが「そんな奴らとは違うノーマルな男」であることを強調する「差別としての差異化」を目的としたものであるのは明らかだ。しかもこの場面は第三話を丸々費やしたホモフォビアの発露の序章なのだから胸が悪くなる。

この後、彼らはモリアーティから制限時間内に犯罪の謎解きを次々とこなすというゲームを仕掛けられ、それと平行してマイクロフトから依頼された軍事機密のデータ盗難に絡んだ殺人事件の捜査の進展が描かれるのだが、これは当然原作の「ブルース=パーティントン設計書」が下敷きにされている。あのエピソードの犯人であるヴァレンタイン・ウォルター大佐は実はわかる人にはわかる形で同性愛者として設定されており、それはこのドラマでも変形させた形で踏襲していたのだが、その意味づけと描き方は原作への冒瀆としか言いようのないほどホモフォビックで醜悪なものだった。

先にドラマでのエピソードの概要を説明すると、原作での犯人ウォルター大佐とその兄でブルース=パーティントン計画の主任だったサー・ジェームズ・ウォルターは、ドラマでは本筋の事件の登場人物ではなくモリアーティからの課題として挿入されている小エピソードの登場人物に置き換えられている。サー・ジェームズの方はテレビの美容変身バラエティー番組の人気司会者の女性に、ウォルター大佐の方は彼女の番組でいじられ役を兼ねたアシスタントをしていたその弟に設定されている。彼は明示的にゲイであり、自分の愛人だった姉付きの美容師と共謀して姉を殺害したという話になっている。

そしてここからがあまりにも見ていて胸糞の悪かったシーンの説明になるのだが、先述した被害者の女性の弟に疑いを抱いたホームズとワトスンは、姉の死についての遺族インタビューを装い記者として彼の自宅を訪れ探りを入れる。

彼は中年の男性にも関わらず、紫のシャツを着て身だしなみを気にし、ペットの猫を可愛がるという、「見るからに女性的で薄気味悪い男」として描かれる。彼から話を聞いた後、カメラマンを装ったホームズが写真撮影を願い出ると、彼は鏡を覗き込んで顔と身だしなみをチェックするが、ホームズはこちらを振り向いた彼に断りも無く、いきなり至近距離からフラッシュを浴びせて連続撮影をする。画面には彼の眩しさのあまり目をかたく瞑った歪められた顔が、何枚も連続で大写しになる。そしてこの撮影が終わると、ホームズとワトスンはもうインタビューは済んだと言い、戸惑うばかりの弟を置き去りに退出する。

正直、解説するのも苦痛であるが、この一連の場面は露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーに彩られたものだ。視聴者に違和感と薄気味悪さを感じさせるように故意に演出された、ステレオタイプそのもののゲイ男性、彼の「男にあるまじき」ナルシシズムを象徴する、紫のシャツやペットの猫、そして何よりも、そうした彼自身の姿そのものである、彼が覗き込んだ鏡、そしてその直後のホームズにフラッシュを浴びせられ、一瞬前まで鏡に向かって取り澄ましていた同じ顔が歪められた表情で大写しにされるのは、説明の必要もないほどに露骨な、「男にあるまじき、女のようなナルシシズム」を持った男への懲罰である。

このあからさまな演出自体、このエピソードにおける弟の真の罪とされ罰せられているものが、姉の殺害などではなく、彼の「男らしさからの逸脱」そのものであるのは明白だろう。そして彼の愛人が表向きの罪である姉殺害の共犯者とされていることも、「彼らの関係が罪である」という裏の意味を含んでいる。

つまり、この小エピソードは、流石に最近ではあからさまに差別することは許されないゲイ男性に対する、製作者であるヘテロ男性の密やかな“憂さ晴らし”と、彼らの製作するドラマの主人公であるホームズとワトスンを、そうした“変態たち”とはっきりと文字通り“差別化”するためのものなのだ。

原作者のドイルも紛れもなくその一人である、ホモエロティシズムに心惹かれていた過去の優れた作家たちは、まさにこのドラマの製作者たちにとっては嫌悪と蔑視の対象でしかないらしい“明示することを許されない愛”を描くためにこそ技巧を尽くしていたのだが。「隠して愛する」ために技巧を尽くすのではなく「隠して差別する」ためにそれをすることこそが最新のトレンドというわけであろうか。

そしてこの第三話とシーズン1そのもののクライマックスである、夜のプールサイドでのホームズとモリアーティの直接対決の場面。モリアーティは前もってワトスンを人質に取り、ジャケットに爆弾を括りつけられた彼の姿をホームズに見せつけてからおもむろに姿を現すが、それは前にモリーの新しい交際相手として紹介され、ホームズにゲイだと看破されて退散したはずの男である。モリアーティはホームズを試すためにあえてゲイのふりをして彼の前に姿を見せたのだと言い、以前から彼に興味を持っていたことを彼の能力への賞賛と揶揄を交えながら語ってみせる。

ホームズはモリアーティに要求されたブルース=パーティントン計画のデータが入ったメモリースティックを引き渡すが、モリアーティは「こんなものはいつでも盗めた」と吐き捨てると、メモリースティックをプールに投げ捨てる。ワトスンはその動作の隙をついて背後からモリアーティを羽交い絞めにし、ホームズはモリアーティに銃を向けるが、モリアーティはまるで動じないままワトスンのことを「忠実なペットだが情が移るのはまずい」と揶揄してみせ、同時にどこからか警告するように赤い光線がホームズの額にマーキングするように当てられる。

下手に動けばホームズが狙撃されると悟ったワトスンはモリアーティから離れ、二人にはもはや打つ手がなくなるが、モリアーティはホームズに「自分から手を引かないとどうなるかわかっただろう。今君を殺してもつまらないからそれはこの先の特別な機会にとっておく」と言い残してその場から立ち去る。

モリアーティが姿を消すとホームズは即座にワトスンに駆け寄り、爆弾を括りつけられた彼のジャケットを脱がせて投げ捨てる。ホームズは「さっき、君が僕のためにしてくれようとしたこと、凄い」と、珍しく感謝を言葉にし、それを聞いたワトスンは「誰もいなくてよかった。君に暗いプールで服を脱がされたのを見られたら大変だ」と冗談で返す。緊張の解けた二人は「噂じゃすまないな」と笑いあう。このやりとりは実質的なこのエピソードの締めくくりである。

実際にはこの直後にいきなり戻ってきたモリアーティが姿を見せると同時に、二人の体にライフルの照準を示す赤い光線が当てられるという、いかにもクリフハンガー的な引きが付け足されているのだが。

このプールサイドのシーンでの一連のやりとりは、前半のホモフォビックな挿話がなぜ必要であったのかを明かしてくれている。このそこだけを抜き出せば感動的であろうホームズとワトスンの絆を示す場面を描くためにこそ、彼らが「絶対にゲイではない」ことを幾重にも保証しておく必要があったのだ。

ラストを締めくくるワトスンの冗談も、前半の挿話の中で彼らがあらかじめ「本物の同性愛者」から峻別されているからこそ、完全にイノセントな“純粋な友人”同士の“単なるほほえましい冗談”として成立しているのだ。

つまりこの台詞は彼らの関係にセクシュアルな危うさが存在する可能性を示唆するものではなく、「そんなことはありえない」ことをお互いに完全に了解しあっていることをはっきりと示し、彼らのイノセントさを強調するものであり、そしてそれが同時に“純粋な友情”の象徴として機能しているわけである。


また、ここまでの論証をご覧になっていればおわかりになるだろうが、この同性愛に対する「仄めかしてから排除する/排除するべく仄めかす」という扱いは、ホームズとワトスンの関係の演出においてだけでなく、ホームズに対するモリアーティの位置づけにおけるそれとしても反復されているのだ。

筋書きの上ではなんら必然性が無いにも関わらず、モリアーティがホームズに気のあるゲイの男であるかのように登場させられていたのは、ホームズとワトスンの互いへの好意と同様、モリアーティのホームズに対する執着に対しても、最初は同性愛的な要素の仄めかしによってそのインパクトを強め、しかる後にそれを否定することによって観客のホモフォビアを慰撫し安心させるという手続きであり、また同性愛という逸脱を“事実”としては完全に否定しつつ、その上澄みとしての“効果”だけを得るという巧みなやり口でもある。

つまりホームズのパートナー(ワトスン)との関係とライバル(モリアーティ)との関係の双方において、同性愛の要素を仄めかしつつ否定することによって「イノセントさの確保と関係の重要性の強調」を同時に演出しているわけであり、しかもワトスン、モリアーティのどちらの場合も「病院の研究室が初対面の場であり、モリーという女性が“踏み台”にされる」という全く同じシチュエーションの反復であるというのが厭味なまでに徹底している。

つまりどちらも「女ごときよりも男同士の友情/ライバル関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」という、露骨なミソジニーとホモソーシャリティに満ちたメッセージなのであり、同性愛イメージを搾取しつつ否定するという巧妙な仕掛けでもあるわけだ。

そして結局は生身のゲイ男性は悪役としてさえ「あらかじめ存在しなかった」ことにして一丁上がりというわけであるが、これも建て前としては「本物のゲイを悪役にすることを避けるポリティカリー・コレクトな配慮」と言い抜けられるのだろう。本当は「悪役としてさえ存在を許す気が無い」だけなのだが。

また、これは裏アカで先に書いた話の続きになるのだが、このドラマにおけるモリアーティとマイクロフトのそれぞれの特徴は、実は原作のホームズ自身の特徴の写しである。具体的には、モリアーティの場合は人質となっていた盲目の老女の言葉にもあった「柔らかな」つまり男らしからぬ調子の声音と、芝居がかった演出を好み、常に余裕ありげで飄々としたトリックスター然とした態度であり、マイクロフトの場合は金時計の鎖の下がった三つ揃いの背広に杖代わりの雨傘という、19世紀の紳士然とした出立ちそのものと、(後日詳述することになると思うが)シーズン2第一話のアドラーとの関わりにおいて歴然と示されていた、女嫌いでさえない全くニュートラルな女への無関心であるが、これは特にホームズ自身に対する強迫的なまでにしつこい“童貞”扱いと際立った対比を成しており、製作者がいかにホームズを単なる“童貞”だと、つまり「まだ女との経験が無いだけの未熟だがノーマルな男」だと思いたがっているのかを露呈していた。

もうお分かりになるだろうが、この原作のホームズ自身からモリアーティとマイクロフトに移されている「高い調子の声音」も「トリックスター然とした剽軽な態度」も「女への無関心」も、つまりは「男らしくない」とされるものだ。要するに、製作者はホームズが「ノーマルな男らしくない」ことを許さず、原作の彼自身を“検閲”したわけである。そしてその代わりとして、原作の彼にはありえなかったような、周囲の人々に対する無神経さと、女と女のような男=ゲイ男性への蔑視的な態度とを付け加えたわけだ。
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by kaoruSZ | 2013-02-10 05:21 | 批評 | Comments(0)