おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

<   2013年 04月 ( 3 )   > この月の画像一覧

幻の女の冒険(前篇) 

 ここに叙べようとする事件の真相は公表すれば多大な波紋を呼ぶ性質のものなので、はるかな年月が過ぎてなお、発表は問題外としても単にこの話題を取り上げることすら、ためらわれるほどである。どんなに言葉を選んでも、少なくとも私の生存中は公にするのは難しいと思ってきたし、今も思っている。とは言え、かつて私は『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』と題してこれを短篇に仕立てたこともある。本当にミルヴァートンの家に忍び込んだのかと訊かれたことは数知れず、あれは冗談ですよと何度答えたか分らない。時には、実際にやったとしてそれを認めると思いますかと訊き返したこともある。むろん金庫破りについては断固否定した。シャーロック・ホームズは女中を口説いて容易にたらし込むほどの凄腕なのかと尋ねてくるのはもともと悪意を持った連中なので、私は一度ならず、女中は知らないが馬丁やコックなら簡単に手なづけるだろうと答えて二の句を継げなくさせた。彼らがホームズと私の「噂」を広めるのに少なからず貢献したであろうことは言うまでもない。

 フィクションであることをいかに強調しようと人々の好奇心は容易に止まず、長い年月にわたって、表題の人物のモデルの現実の死について私の小説に手がかりを求めようとする者が後を絶たなかった(そして例外なく見当はずれに終った)。とりわけ、物語の最後で私たちが見出す女性の写真に関して、由緒正しい貴族にして高名な政治家だった人物の、たまたま小説発表に先立って逝去した未亡人の名が取沙汰されたのは、思いがけぬ偶然とはいえ、故人と遺族に申し訳ないことであった。だが、そんな出来事も、老い先短い人々の、いやましに黄昏の色を加える回想の中にしか存在しなくなった今日、この事件に関する唯一の、真実の証言を残しておいてもいいのではないか。少なくとも、あの時に書いた言葉を今こそ繰り返すことができるだろう。事件の中心人物がこの世の裁きの及ばぬところへ去った今、筆を抑えることさえ心がけるなら、誰にも害の及ばぬ形でこれを記述することができるかもしれない、と。わが友シャーロック・ホームズ氏にとっても私にとっても、これは生涯唯一無二の体験の記録である。


 今は遠い昔となった凍てつく冬の六時頃であった。ホームズと私は例の夕方の散歩から帰ってきた。ホームズがランプの火を大きくすると、卓上に置かれた一枚の名刺がその光に照らし出された。一瞥するや、彼は嫌悪の叫びを発して、名刺を床に払い落した。私はそれを拾い上げた。

   仲介代理業 
   チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン
   ハムステッド
   アプルドア・タワーズ

「誰なの」私は尋ねた。
「ロンドン一の悪党さ」ホームズは座を占めると暖炉の火に足を伸ばした。「裏に何か書いてあるかい」
 私は名刺をひっくり返した。
「今夜十時に裏口より御来駕乞う C・A・M」
「まだ時間はあるな。ねえ、君、動物園で蛇の前に立って、するすると動きまわるあのしなやかな毒持つ生き物、あのおぞましい邪悪な目やひしゃげた顔を見ると、背筋がぞくっとして鳥肌が立ってくるだろう? ミルヴァートンってそんな感じなんだ。僕はこれまで五十人からの悪人を相手にしてきたが、その中の最悪の男にさえ、こいつから受けたような嫌悪感は持たなかった。それでも僕はこいつとの取引を避けられないんだ」

「いったい何者なんだ」
「恐喝王だよ、ワトスン。秘密だの悪い噂だのをミルヴァートンに握られたが最後、蛇ににらまれた蛙のようにおしまいなんだ。富や名声を持つ者の立場を危うくするような手紙類を、こいつは非常な高値で買いあさる。恩知らずの召使やメイドばかりじゃない、上流階級の純真な御婦人の愛やら信頼やらを言葉巧みにかすめ取る、紳士の仮面をかぶったならず者もこいつの客さ。それから、純真とは言えまいが、正真正銘の紳士が下層の若者を愛して裏切られるケース。たまたま知ったんだけど、そうした紳士の二行の手紙に対して、あの蛇は七百ポンド支払った。最終的にその貴族にして政治家の、良き家庭人として知られ、それまで経歴にしみ一つなかった紳士は、銃で自分の頭を吹っ飛ばして果てた。さらに卑劣なことには、要求した額を払えない相手には、あるいは、払えたとしてもこいつの好みに特に叶う相手の場合は、男女は問わないんだが、身体で払うよう求めるんだ。僕は、ある夫人が要求に屈してこいつに身をまかせた翌日、耐え切れずに自殺したのを知っている。実のところ、夫に秘密を知られるのを恐れるこうした貞淑な夫人こそ、こいつの大好物なのさ」

 あまりのことに言葉を失っている私を見つめて彼は身震いした。
「およそ市場に流通しているものは、すべてミルヴァートンのところへ集まってくる。この大都会には、その名を聞いて青ざめる人間が何百人といる。誰が、いつ、どこで、こいつの餌食になるかは予測できない。金なら唸るほどある上に、狡猾だから、目先の利益のために急いで投資を回収する必要はないんだ。儲けが最大になる時まで、切り札は何年も手元にとっておく。ロンドン一の悪党とさっき言ったけど、かっとなって連れ合いを殴るごろつきと、すでにはち切れそうな財布にさらに金を詰め込むために、じわじわと人の心をいたぶり、苛み、真綿で首を絞め上げるこういう輩が、そもそも較べものになると思うか?」
 ホームズがこのように激しい感情を剝き出しにして話すのは珍しいことだった。

「しかしどう考えても」と私は言った。「そんな奴は法の手が放っておかないだろう?」
「理屈はそうだけど実際には無理だよ。たとえば奴を捕まえて投獄してみたところで、出てくるまでの数ヶ月、破滅を先延ばしにするだけだとしたら、脅迫されている婦人になんの利益がある? 犠牲者は反撃なんかしない。もし奴が後ろめたいところのない人物をゆすれば、もちろん反撃の余地はあるけれど、あいつときたら悪魔のようにずる賢い。駄目だね、奴と戦うには別の手で行くしかない」
「それで、どうしてそんな奴が君を呼び出したんだ」
「それは──」ホームズは一瞬口ごもった。「高名なある依頼人から、気の毒な事件の処理をまかされたからさ。ミルヴァートンはその婦人が無分別な若い時代に書いた手紙を、大金を支払わなければ配偶者に送ると言っている。僕は彼と会ってできるだけ好條件で取引してくれと頼まれたんだ」

 通常、ホームズは依頼人の実名を私に(私にだけは)伏せることはまずなかったので、この言葉の濁し方は引っかかった。しかしすぐに、私を信頼しないのではなく、よほど秘密を要求される要人の内室なのだろうと思い直した。
「それにしてもその女性の夫君は、寬い心を持ってはいないのかね。結婚前のことなんだろう。許してくれると思えるだけの信頼が、お互いのあいだにないのかしらん。ほら、あのヒルトン・キュービット夫人だって」と、私は以前の事件を引き合いに出した。「夫の愛が自分の過去を許容するほど深いと信じられれば、彼にすべてを打ち明けてあの悲劇を回避し、幸せな結婚生活を全うすることもできたと思うんだが」
「そうかもしれない、そうでなかったかもしれない」とホームズは言った。「助けられなかった依頼人のことはともかく、今回の件にかぎって言えば、かの婦人の夫は十分寛大な心の持主だと思うし、送りつけられた手紙を読んでもたぶん動じないだろう。問題は、僕の依頼人がとてつもなく自尊心が高くて、彼に手紙を読まれるくらいなら死を選ぶくらいの心持ちでいることなんだ」
「僕なら、手紙を送りつけられてもそのまま読まずに火中に投じるね」
 ホームズの片頬をすばやい笑みがよぎった。「君ならそうするだろう、ワトスン。だが、今回の依頼人の場合、もう一つ問題があってね。夫にだけでなく、世間に対しても、知られては都合の悪いことを公にすると脅されている。そうなれば夫にも大変な迷惑がかかる。いや、迷惑なんてもんじゃない、今の職にもとどまれまいし、社会的に息の根を止められるだろう。もとより婚姻関係の破綻はまぬかれない」

「いったいそんなことをしてそいつに何の利益があるんだ」私は憤慨して言った。「他人の幸せを踏みにじって何が面白い。第一、そんな無体なことをしても、金が取れなければ、たんに人を破滅させるだけで、元も子もないというものだろう」
「そのとおり、女性を破滅させてもミルヴァートンには一文にもならない。大金を吹っかけるより、妥当な金額で折り合いをつけた方が絶対に得なはずだ。ところが、こいつは僕に言ったことがあるんだ、ワトスン。秘密を一つ暴いてみせれば、それだけで間接的に少なからぬ利益が上がる。同様の案件はいくらもあるので、時々残酷な見本を示しておけば、金を出ししぶっている連中もたちまちずっと物わかりがよくなるんだと」
 ロンドン市民の取り澄ました日常のすぐ下に、それも生活のためにやむなく犯罪に手を染める下層階級というわけではない人々の中に、このように憎むべき輩のいることを知って、私はあらためてホームズの仕事が根を下ろしている闇の奥深さを垣間見る思いがした。「ホームズ、君は前にもこの男とかかわったことがあるのかい」
「一、二度ね」声の調子であまり話題にしたくないことが察せられたが、それでも彼は言葉を継いだ。「何しろ、仕事柄、秘密には通じている奴だからね。ずいぶん前の話だけど、奴に気があるようなふりをして近づいたことがあるんだ。もちろん、シャーロック・ホームズとは知らせずにだが、あとになって向うもこっちの正体をつきとめて来た。あの時は必要な情報を全部引き出したあとで手ひどく振ってやったから、今でもうらんでいるはずだよ」
「そんな私怨があったんじゃ、交渉人としては具合が悪いだろう」
「なあに、いつかはけりをつけなきゃゃならなかったんだから、これを好機と思うべし、さ」

 ホームズは暖炉の前の椅子に深く腰をおろし、両手をズボンのポケットに突っ込んだまま、あごを胸元に埋め、赤く輝く熾火を見つめて身じろぎもしなかった。半時間ほど黙ったままそうしていたが、やがて決意を固めたように勢いよく立ち上がると自分の寝室に入って行った。しばらくして、山羊髭を生やした粋な身なりの若い職人が、クレイ・パイプをランプで吸いつけ、威張った足取りで通りへ階段を降りて行った。「遅くなるから先に休んでいてくれたまえ、ワトスン」そう言い残し、ホームズは夜の街に消えたのである。私はその時、彼が確かにチャールズ・オーガスタス・ミルヴァートンを相手に闘いを開始したことはわかっていた。だが、その闘いが、あのような異様なものになるとは夢にも思わすにいた。


 翌朝、私が目を覚まして居間へ入って行った時、ホームズの姿はなかったが、浴室でしきりに水音がするのが聞えた。やがて朝食の用意がととのい、顔が映るほど磨き上げられたポットから注いだ湯気の立つコーヒーを前にテーブルについていると、タオルにすっぽり身を包んだホームズが入ってきた。
「おはよう、ホームズ。先にやってるよ」
「おはよう、ワトスン」ホームズは応えたが、声がおかしかった。
「風邪でもひいたの?」返事はなく、振り向いた私が見たのは、自分の部屋へ入って行くホームズの後ろ姿だった。
 結局ホームズは、その朝、食事をとらず、私が寝室をのぞくと、少し眠りたいからと言って毛布をかぶってしまった。その日私は雑誌の編集者とランチの約束があり、午後は別の編集者と仕事の打ち合せの上、彼の案内で出版社の社主と会食した。社主は私が長篇を書くなら好條件で買い取りたいと言い、私は浮き浮きと帰ってきてホームズに真っ先に知らせようとしたが、彼はすでに寝室に入った後だった。私は自分の寝室で連載用の原稿を書きはじめ、興に乗って明け方まで書き続けたが、気がつくと部屋着姿のホームズが寝室の入口に立っていた。

「邪魔しちゃったかな」
「いや、ちょっと前だったらそうだったけど」と私は言った。「そろそろ寝ようと思っていたところさ。具合はどうだい」
 私は蠟燭を吹き消したが、それでもあたりは水のような仄明りに満たされていた。冬のしらじら明けが近づいていたのだ。私は立ち上がると、自分の幸運についてホームズに話そうとしたが、友はそっと手をあげてそれを遮った。
「ずいぶん筆が進んだね、ワトスン」思いのほか明るい声で彼は言った。「連載決定おめでとう。君が書きたがっていた歴史小説か。冒険小説も出版できそうじゃないか」
「君のやり方は知っているが」私は嘆息した。「驚いたね。聞いてみれば例によって簡単なことなんだろうが」
「そのとおりさ。君の右手の中指の左側に広がっているインクの丸い染みは、長時間ずっと書き続けていなければそんなに大きくはならない。誰と会うかはおとといの散歩の時に聞いているが、昼間食事をした相手は雑誌編集者だから、頼まれたのは連載に違いない。歴史小説なのは、机の上に広げた資料から推測がつく。それから、晩餐を御馳走してくれた出版社のお偉いさんだが、ホームズものの愛読者だろう」
「そう言ってたよ! なんでそんなことまでわかるんだ」
「昨日のモーニング・ポストで、彼、インタヴュー記事で愛読書を訊かれ、H・R・ハガードとドクター・ワトスンのホームズものと答えていたんだが、見落したようだね。ホームズものはストランドが独占しているからいくら好きでも参入は無理だ。君にハガードばりの冒険小説を書かせてみたいと思うんじゃないかと考えたんだが正解だったね。なあに、君が書く“ホームズ”の推理と較べたら月とすっぽん、とんと沍えないあてずっぽうさ」

 ホームズは面白くもなさそうに言ったが、私は声を上げて笑い、そのせいでさらに幸福感が増すのを感じた。疲れていたが、眠くなかった。頭は沍えたままで、身体もむしろ余韻のように力を残していた。
「ホームズ」その背中に腕を回した途端、私はそんな時間に部屋の入口に立っていたホームズの意図を読み誤ったことに気がついた。私が触れると彼はびくっとして私の手から逃れ、二三歩あとずさった。私は驚いて彼の顔を見たが、その時、それまで蔭になっていて読み取れなかった表情が光の中にはっきり見え、私は相手があごが尖って見えるほどやつれており、大きな目の周囲にも隈ができているのを認めた。「どうしたんだ」
「風邪……うつすといけないから」ホームズは私の問いを誤解して答えた。だが、風邪などではないと私は直観的に悟っていた。
「ちゃんと食事しなくちゃ駄目じゃないか」
「食べてるよ。ハドスンさんが心配して特別に用意してくれたからね」

 私のさぐるような視線を避けるかのように、彼は白い両手を上げて顔を覆ったが、その時、袖口が落ちて、あらわれた手首に生々しいあざが並んでいるのが見えた。片方の手に五つ、もう一方の手にも五つ、計十箇の、四本の指と親指のあと。「どうしたんだ、その手」
 ホームズの顔がさっと紅潮して私の手を振り払い、両手を灰色の部屋着の袖に隠した。「ちょっと立ち回りがあってね」彼はほほえもうとしたが、それが途中で凍りついて苦しげな表情になった。
「見せてくれ。他に怪我はないのか」私はなおも言ったが、彼は両手を背中に回して拒んだ。
「大したことじゃない」
「取引はどうなったの」
「あとで話す。元気になったらね」ホームズはそう言って私に背を向けると自室に向かい、すばやく身体をすべり込ませて扉を閉ざしてしまった。

 しかしホームズは元気にならなかった。それから数日、彼は明らかに様子がおかしく、何を訊かれてもうわの空で、必要なことにもろくろく言葉が帰ってこず(仕事のことについては目処がつくまで私に話さないこともあるのでそれ以上詮索はしなかったが)、いや、それ以前に、ピリピリしていて声をかけるのもはばかられる状態だった。それでも夜になると、最初の晩とはまた違う職人風に身をやつし、行き先も告げずに出かけて行った。あるいは昼間もいない時があったが、そうかと思うと一日ベッドで過ごす日もあった。私の方は相変らずミューズの訪れが続いており、その間は何もかも忘れて執筆に没頭した。そうでなかったらもっと彼を気づかったに違いないのだが、それでも、彼が私に話したいと思った時のためにつねに彼に対して心を開いていようとは努めた。私の仕事が忙しい時、とりわけ昼夜逆転して、深夜、寝室で書いている時はそれぞれのベッドで休むのが不文律になっていたが、そもそもホームズはこれを好まず、ただ私の首っ玉にしがみついているためだけでも同じベッドで寝たがるのがいつものことで、それが自室から出てこないというのは尋常ではなかった。あれ以来、明らかに私は拒まれていた。

 けれどもついに、風が唸りながら狙いすました猛禽のように窓ガラスに襲いかかってがたがた音を立てる夜、帰宅して変装を解き、暖炉の前に腰をおろしたホームズは突然こう叫んだ。「なんて素晴しい夜だ!」
「この天気がかい、ホームズ」
「僕の目的にはぴったりなんだよ。ワトスン、僕は今夜、ミルヴァートンの家に押し入るつもりだ」
 私は耳を疑った。「なんだって、ホームズ……正気か?」
 ホームズはまっすぐ私を見た。ここ数日の混乱から恢復したその目は完全に正気だった。「それ以外、方法はないんだよ」
「馬鹿なことはやめてくれ。いったいどういうつもりなんだ」私は半ば驚き、半ば腹を立てていた。「君はなんにも話してくれないが、僕はそんなに信用に値しない男か」
「ワトスン君、心配かけてすまない。うるさく質問したりしないで黙って見守っていてくれてありがたいと思っている。僕は心から感謝してるよ」
 ホームズの口から出るには殊勝過ぎる言葉に私はむしろ途惑った。
「だけどこれは僕の問題なんだ──むろん依頼人のためだけれど。ミルヴァートンとは過去のいきさつがあるからね。これは僕の撒いた種で、僕が刈り取らなきゃならない。君に迷惑をかけるわけにはいかないんだ」
「何を水くさいことを言ってる。及ばずながらこのワトスン、君のためならいつでも手を貸す用意があるぞ」
「あいつの目的は──」私の昂奮を冷ややかに見下ろしてホームズは言った。「僕の依頼人なんだよ。先夜の会見でそれがはっきりした。受け入れる余地のない條件だろう? 押し入って強奪する以外に、あの手紙を取り戻す方法はない」
「後生だからホームズ、自分が何をしようとしているか考えてくれ。他に方法があるはずだ」私は叫んだ。この時はまだ、なぜホームズがそこまでするのか、まるでわかっていなかったのだ。

「ワトスン、これは十分考えた上でのことだ。僕はもともとけっして早まった行動をするたちじゃないし、もし他に手段があれば、ここまで荒っぽい、しかも危険と判っているやり方なんかしやしない。問題をはっきりと公正な立場から見てみよう。僕のしようとしているのは、あいつによって不当な目的に使われようとしている物を奪い返す、ただそれだけなんだ。厳密に言えば犯罪だとしても、これが道義的に許容しうる立場だということは認めるだろう?」
「確かに、それだけなら道義的には許容できるかもしれん」
「道義的に正当だとすると、残るは身にふりかかる危険の問題だけだ。もしも今夜、思いどおりにならなければ、あの悪党は脅しを実行するだろう。そして彼女を破滅させるだろう。僕にできるのは依頼人を見棄ててその運命に追いやるか、それともこの最後の切り札を切るかだ。僕は自尊心と面目にかけて奴との決着をつけたいんだ。一人の女性が名誉を失おうとして必死に助けを求めている時、紳士たる者、わが身の危険などかえりみるものではないという意見に、君は賛成してくれると思うが」

「確かにそのとおりだが」私はためらった。「君が引き受けようとする危険が大き過ぎやしないか」
「ワトスン、君だから本当のことを言うけど、僕の依頼人は、実は相手の言うだけのものをすでに支払ったんだよ。奴の言いなりになったんだ」
 私は息を呑んだ。「何てことだ──」
「だけど、あいつはそれでも満足しなくて、手紙の一部だけを返したものの、肝心な部分は手元に残している。しかも、要求に応じたことそのものが、新たなゆすりの材料に加わっているんだ。このままではきりがない。僕の依頼人は今の生活を壊したくない。今の夫は彼女にとって、他の何ものにも代えがたい存在だ。だが、今夜再びミルヴァートンは、彼女から二回目の支払いを受けるべく待っている。僕はそこへ乗り込んで行って、破滅するのはどっちか、はっきり分らせてやるのさ」
「あまり気は進まないが、やるしかなさそうだな」私は言った。「何時に出る?」
「君は来なくっていいんだよ」
「じゃあ、君も行かせない」私は叫んだ。「名誉にかけて言っておくが、それから、生まれてこのかた、こうすると言ったことに反したことは一度もないが、 君がこの冒険に僕を連れて行かないのだったら、僕は今すぐ馬車を拾い、警察に直行して、君がしようとしていることを話してやる」
「君に助けてもらえることなんてないんだ」
「なんでそんなことがわかる? 何が起るかわかったものじゃないだろう。ともかく、僕はもう決めているんだから。自尊心や面目があるのは君だけじゃないんだぜ」
 ホームズは眉をひそめて黙っていたが、不意に明るい表情になって私の肩に手を置いた。「わかったよ、ワトスン、そうしよう。何年も同じ部屋で一緒に暮らしてきたんだから、同じ檻の中で終るのも悪くないかもしれないな。君、音がしない靴を持ってるかい」
「ゴム底のテニスシューズがある」
「結構。覆面はどうする」
「黒い絹で二つ作ろう」
「君という男はこういう仕事に生まれつき向いているんじゃないかしらん。是非それを作ってくれ。出かける前に軽く夕食をとろう。そして観劇帰りの二人連れに見えるよう正装しようじゃないか」

 時間になって寝室から出てきたホームズを見て、私はあっと驚いた。ヴェールの付いた帽子の下にはつややかな黒髪が結い上げられ、黒いマントの裾から黒と見紛う暗い緋色の絹のドレスが覗いている。もっとも、スカートを引き上げてみせると、そこにはズボンを穿いた脚と、ゴム底の軽い靴に包まれた足があったが。ほっそりした手がヴェールを上げ、非のうちどころのない化粧をほどこした顔があらわれた。確かにホームズでありながら、意志の強そうな美しい女性としか思えない顔がそこにあった。
「驚いたよ、ホームズ」長手袋に隠したその手を取って私は言った。
「歳月も彼女を枯れさせること能わず、また習慣もその変幻自在の才を朽ちさせることを得ず」誇り高い頭を上げると、クレオパトラの科白でホームズは応えた。
「だけど、どうして女性に?」
「ミルヴァートンは、今夜、僕の依頼人を待っている。今夜の僕は依頼人の代理だからね。ねえ、ワトスン、今夜僕のしようとしているのはただの押し込みなんかじゃないんだよ」ホームズは再びちかぢかと私の目を覗き込んだ。先刻の判断が間違いであったことを私は知った。彼は恢復していなかった。それは奥でちらちらと鬼火の燃える狂気の目だった。「僕は今夜、あいつを殺してやるつもりなんだ」

「ホームズ、どうしてそこまで! 君は君が追いかける殺人犯と同列になり下がるつもりか」
「ワトスン、僕がこれからやろうとしていることは、結果として多くの人を救うことになるんだ。これは殺人犯のけっしてしないことさ」彼は私から目をそらし、風が窓格子をつかんだ狂人のように力いっぱい揺すぶっている窓の方を見やって続けた。「無理してついて来なくていいんだよ。これはミルヴァートンと僕とが正面切って渡り合う、いわば一騎打ちなんだから。最初の手合わせでは手ひどく一本取られたが、二度と同じ過ちは犯さない。僕にしたことを後悔して、血の涙を流しながら地獄へ行くようにしてやる」
「ホームズ、僕はそれを見届けるよ。立ち会って見届ける。何があってもついて行くし、何を見ることになっても君から離れたりしない。いったい君は、僕が“見る”だけで“観察”できないと思ってるのかい。僕は僕の小説に出てくる“鈍い”ワトスンとは違うんだ」
 その時、窓の外で稲妻が閃き、闇に沈んでいた室内と美しい横顔とを浮び上がらせたので私は息を呑んだ。耳をつんざく雷鳴が通り過ぎる一瞬、私は自分の推測が正しかったことを確信した。痛ましさで胸がいっぱいになったが、すぐに、これが友への、私の愛と忠誠とを証明する千載一遇のチャンスだという思いが湧き上がってきた。ホームズが私の方に向き直った。
「さあ、ミルヴァートンを殺しに行こう」

幻の女の冒険(後篇) 
[PR]
by kaoruSZ | 2013-04-30 23:08 | 文学 | Comments(0)
幻の女の冒険(前篇) 

 固い決意をこめてゆっくりと発せられたその言葉を聞くと、私は鳥肌が立ち、首の後ろの毛まで逆立つ思いだった。彼が私の手を取って握りしめたので背筋がぞくっとした。というのは、一般には「空家の冒険」として知られている、ホームズが三年間の不在から帰還した際の出来事の中で、そうやってホームズに手を引かれて暗がりを進んだことを思い出したからだ。
 と言っても、あそこに書いたほとんどは実際には起こらなかったことであり、突然帰ってきたホームズに手を取られた私が、蛇に魅入られた蛙のように(最初ホームズを見たとき私は失神してしまった)ベイカー街の古巣に引き込まれたというだけの話であり、ホームズが死んだと信じて、あの懐しい部屋から繰り返し冒険へ出発した私たちのお伽話を書くことで作家となった私の前に思いがけず戻ってきたホームズに、ついて行けば今度こそおしまいだと思いながらついて行き、そして私たちの新しい生活と新しい物語がそこからはじまったというだけのことなのだが。

 あの時と違うのは、私がホームズに一方的に引きずられているのではなく、はっきりと自分の意思で行動をともにしていることだった。ホームズがミルヴァートンを殺そうとして失敗するようなことがあればこの手でとどめを刺すつもりだった。病み上がりの元軍医としてあの部屋で彼と暮しはじめたばかりの頃、そしてそれからの数年間、原稿を何度出版社に送ってもはかばかしい返事が返ってこず、何の後ろ盾も定職もないまま、鬱屈して、ホームズの気持にも気づかずにそのヴァイオリンに耳をかたむけていた若い日を私は思った。そして医者の仕事に戻ることを決心して、彼から離れ、一家を構えて、もはやホームズと冒険に出ることもないだろうと思い、それでも彼に誘い出されて、のちの「ホームズもの」になる材料を書きとめたノートだけが増えてゆき、しかしホームズが、実は、私が自分もその一員と信じ込んでいた善良な市民には想像もつかぬ形で裏の領域に入り込んでいることを知っておぞ気をふるい、次第に彼の呼び出しにも応えなくなり、彼との関わりを断つ決心をし、フランスからの手紙にも返事を書かずにいるうちに、ついにホームズが深夜、私の診察室に現われて、ライヘンバッハの滝で終る道行に連れ出されたあの時代を。

 私はなんと変ってしまったのだろう。なんと遠くまで来てしまったのだろう。あのことがなければ私は(メアリの病気があんなに早く進まなければ)父親になっていたかもしれないし、少なくともメアリをあれほど苦しめることにはならなかったに違いない(彼女の善良な魂に安らぎあれ!)。町医者を続け、再婚して家族を養っていたかもしれない。イギリスを離れ、アルプスの山中をさまよったあの時、私たちは一度世界の外へ出てしまったのだ。もうこのまま死んでもいい。そう私が言うのを聞いて、妻の下へ私を返す決心をしたとホームズは言った。ホームズは身を隠し、私は帰ってきたが、それはもはや同じ私ではなかった。ストラスブールとマイリンゲンの間で私は別人になってしまい、二度とメアリの忠実な夫には戻れなかった。

 とはいえイギリスに戻ってみるとすべては夢であったかと思われた。深い喪失感の中で、二度と会えないホームズとの日々を必死で呼び返そうとし、のちに『シャーロック・ホームズの冒険』と『思い出』としてまとめられる短篇を書き継ぐことでかろうじて自分を支えたあの月日がなければ、私は暇な医者の手すさびとして二つの長篇を出しただけの、無名のアマチュア作家で終っていたかもしれない。兄のように独り寂しく死ぬことだけは避けたいと思い、家庭の幸せを求めた私が、今、私の運命を変えた、職業も家も手放させて自分との生活に引き戻した、私を破滅させるかもしれない、私のミューズであり恋人である秘密の共有者に導かれ、人殺しの片割れとなるべく道を急いでいるとは。だが、そのことに何の後悔もないと私は思った。あの時ホームズは私を信じられないでいた。私が彼を置いてまた出て行ってしまうのではないかと疑い、恐れていた。彼の思いに気づかずに結婚し、三年間彼に姿を隠させた償いに、私は時にホームズから理不尽なことを言われても黙って耐えてきた。だが、耐えるだけでなく彼への愛を積極的に証明するチャンスが、今、めぐってきたのだ。これによって私は彼に示すことができるだろう。私が何を措いても守るべきはホームズと、ホームズとの生活であり、それが危機に瀕している今、それ以上に考慮に値するものは何一つないのだのと。

 オックスフォード街で私たちは馬車を拾い、ハムステッドまで行った。そこで馬車を返すと、身を切るような風の中、私は厚地の外套の襟元までボタンをはめ、ホームズはマントをきっちり巻きつけて、ヒースの原のへりにそって歩き出した。
「実際は押し入る必要などないのさ」昂奮を押し殺した声でホームズは言った。「奴は逢引と信じて、裏門にもヴェランダの扉にも鍵をかけずに待っている。扉の内側は書斎で、書類を入れた金庫はその中にある。書斎の奥が寝室でミルヴァートンはそこにいる。猛犬を飼っており、夜の間はそいつが放されて庭をうろついているが、女が来るというので繋がれているはずだ」
 ここだ、とホームズが言って、私は、私たちがミルヴァートン邸の傍に達したことを知った。裏門から難なく敷地に入り、私たちは月桂樹の茂みを横切った。周囲を庭に囲まれた宏壮な屋敷は、どの窓にも明りが見えず、静まりかえっている。そこへ忍び寄る前に、私は黒絹のマスクで顔の上半分を覆った。あとで使おうと言って、ホームズもマスクと脱いだ手袋をしまい込んだ。タイル貼りのヴェランダが建物に沿って延びており、その奥に窓が幾つかと扉が二つあった。

「こっちの扉だ」ホームズが囁いた。「奴は寝室にいるはずだから、まず君の隠れ場所を確保しよう」片手で私の手をつかんだまま扉の一つを押すと、それはたやすく開いて私たちは中へ入った。暖炉が燃え、煙草の煙が濃く立ち込める別世界で私たちはほっと息をついた。火は盛んに燃えており、室内は明るく照らし出されていた。暖炉の横に背の高い緑色の金庫が見える。「あの間仕切りカーテンの向うが寝室だ」ホームズが私に囁いた。暖炉の反対側の横にもどっしりしたカーテンが下りており、外から見えた張り出し窓を覆っているのだと思われた。私たちがそこから入ってきたヴェランダへの扉はその向かい側にあるのだった。
「あのカーテンの後ろに隠れていてくれ。僕はもう一度入り直す」ホームズは窓を指して言い、私の手を離すと音もなくヴェランダへすべり出た。私は足音を忍ばせてそのとおりにし、すぐに抜けるよう懐の拳銃を握りしめた。すぐに扉が叩かれた。もう一度、さらにもう一度、もっと強く叩く音がした。

 寝室との境のカーテンが微かに波打つように揺れた。鋭いカチッという音がして、電灯の眩い光が昼のようにあたりを照らし出した。本能的に、私はカーテンの合わせ目を閉じて息を殺した。強い葉巻の臭いが鼻をつき、足音がゆっくりとヴェランダへ向かう。好奇心に抗しかねて、私はカーテンの隙間を細くあけ、電灯の光の下ではじめてチャールズ・ミルヴァートンを見た。大きな頭の五十がらみの小柄な男で、髪には白いものが混じり、肉づきがよく、ひげのない丸顔に金縁の眼鏡、口の端からは黒く長い葉巻が突き出している。着ているのは軍服のようなデザインのスモーキング・ジャケットで、濃い赤紫地に黒い別珍の襟があしらわれていた。ヴェランダのドアの把手を引くと、「鍵はあいているぞ」と滑らかな声が言った。「そのまま入ってくれてよかったんだ」
 部屋の奥にミルヴァートンが戻ろうとした時、こちらに顔が向いたので、私は再び隙間を閉じた。緊張のため鋭くなった私の耳に、入ってくるホームズの微かな衣擦れの音が届いた。一呼吸置いて、私はまた合わせ目を開いた。

 ミルヴァートンは暖炉の前の赤い革貼りの椅子に腰をおろしていた。上体をそらせ、脚を伸ばして、葉巻はなおもその口から尊大な角度で突き出ていた。その視線の先に、明るいところへ引き出された生贄のように、電灯の光をまともに受けて、長身の、ほっそりした、黒髪の女が立っていた。顔はヴェールで覆われ、マントにあごを埋めている。その息づかいは速く、しなやかな身体全体が強い情動に震えていた。
「時間に正確なのは昔どおりだな」ミルヴァートンは言った。「おや、どうした、なんで震えているんだ? ああ、それでいい。しゃんとしたまえ。さて、仕事の話だが」彼は机の引出しからノートのようなものを取り出した。「君の望んでいるものは金庫の中だ。約束通り、代償を払ってくれればお渡ししよう……おや、これは──」
 ホームズは一言も喋らずに、ヴェールを上げ、マントを床に落ちるままにして、夜会服に包まれた優美な全身をあらわにしていた。黒髪に縁取られた端正な顔がミルヴァートンと向かい合い、強い意志を表わす濃い眉の下で長い睫毛が灰色の目を昏くしていた。まっすぐな薄い唇は危険な笑みをたたえていた。

「君は女に生まれていても十分私の獲物だったな」ミルヴァートンは身体をゆすって笑った。ホームズの表情は変らないまま、眉の間の縦皺が深くなるのが見えた。「誇り高くて強情な女というのも私の好みでね。そういう女のプライドを打ち砕いて従わせるというのはいいものだ。こうして見ると、君はそういう女に扮するのにぴったりの女優だ」
 ミルヴァートンは立ち上がると、葉巻を手に、ゆっくりとホームズのまわりを一周しながら、美術品でも嘆賞するように眺め入った。そして、あいている手を彼の肩にかけて手近な椅子に座らせると、葉巻を置き、身をかがめてその唇に接吻した。私のいるところからはミルヴァートンの、てらてらと電灯の光を反射している薄くなった頭頂部と、両脇にだらりと垂らしたホームズの腕の先で白い指が引きつるのが見えた。私はもう少しでカーテンの蔭から飛び出して、ミルヴァートンの禿げ頭を銃把でぶちのめすところだった。しかしその時、ミルヴァートンが不意に鋭い悲鳴を上げ、ホームズの両肩を突き飛ばしたので彼は横ざまに床に倒れた。

 ミルヴァートンは口を押えて立ちつくし、私は今の声が外に洩れなかったかと耳を澄ましたが、何の物音もしなかった。床から身を起こしたホームズは、帽子とかつらが脱げ落ちていた。口の周りに赤いしみが広がり、それは口元から手を離したミルヴァートンの方も同様だった。口紅と彼自身の血を手で拭うと、ミルヴァートンは床に薄赤い唾を吐いた。
「こんな真似をしたところでどうにもならないぞ」その発音から察するに、ホームズは奴の舌を完全には噛み切ってやらなかったようだった。「私がここで騒ぎ立てさえすれば、使用人が駆けつけてお前は逮捕される。第一、そうなったら困るのはそっちだろう。どうしたんだ、このあいだはずいぶんとおとなしい子猫ちゃんだったの……」
 ミルヴァートンは言葉を途切らせた。いつの間にかホームズの手に黒光りするリヴォルヴァーが握られていて、その銃口が彼の顔にまっすぐ向けられていたのだ。
「金庫を開けるんだ」

「私を殺せるはずはない」声を震わせてそれでもミルヴァートンは言った。「そんなことをしたら貴様もおしまいだ」
「お前が金庫にしまっているものを公表されたらどの道おしまいなのさ」ホームズは低い声で言った。「彼が読むことを恐れているんじゃない。何があろうと彼は僕の味方だし、僕を愛してくれる。だが、僕たちの関係が世間に知れて糾弾され、万が一にも彼と引き離されるようなことがあれば、それこそ僕は生きちゃいられない。あの夜、だからこそ、僕は心乱れて、そこの扉から入ってきて、お前に慈悲を乞うたんだ。そしてお前は僕をあざ笑った。今も一生懸命笑おうとして、唇がひきつるのを止められないようだな、臆病者め。そう、お前は僕と、ここでもう一度こんなふうに対決することになろうとは夢にも思わなかった。しかしあの夜、これからも言いなりになると約束しさえすれば、お前は喜んで無防備な一対一の差し向いで会うと知ったんだ」

 二人はしばらく無言でにらみ合っていたが、やがてミルヴァートンが肩をすくめると、暖炉の脇の背の高い金庫に近づいた。跪いてダイヤルを操作し、磨き込まれた真鍮の握りをつかんで厚い扉が重々しく開かれたところでホームズが命じた。「よし、そこから離れるんだ」そして暖炉の反対側の壁際に彼を立たせると、拳銃をつきつけたまま、カーテンの蔭の私に声をかけた。「ワトスン君、出て来い」
 私が姿をあらわすとミルヴァートンは明るい灰色の目を見張り、それから破顔一笑した。「これはこれは。はじめてお目にかかりますな。あなたがこの御婦人の献身的なナイトか」さすがに、私が彼に向けた軍隊式の拳銃を見ると、その丸い顔から笑みが消えた。
「ワトスン、金庫の中のものをすべて暖炉に放り込むんだ」
 ミルヴァートンは顔色を変えた。「待て。貴様に関係のあるものだけ持って行けばすむはずだろう」
「いや、残らず焼いてやる、お前はもうこれ以上、僕にしようとしたように、他人の人生を破滅させることなんかできやしない。これ以上、僕にしたように、他人の魂を踏みにじったりできやしない。僕は世の中から害悪を一つ取り除いてやるんだ」その顔は暖炉の炎に照らされて悪鬼のようだった。
「やめろ、それは私の財産なんだ」私が拳銃をなおもミルヴァートンに向けながら、片手で書類の最初の束を金庫から引き出すと恐喝者は叫んだ。
「汚れたその財産のために命を捨てたいのか」ホームズは相手の鼻先に拳銃を突き出した。
「私のその財産の中から、ケチな情報を欲しいばかりに」不意にミルヴァートンの声が嘲るような調子に変わった。「昔、さんざんサービスしてくれた顔の綺麗な小僧っ子がいたものだが。それが“奥さん”になるとこうも変るものか。いくらか薹は立ったが、柄にもなく操立てして嫌がるのを無理やりというのも、なかなか乙なものだったぞ」

 ホームズの拳銃が震え出した。右手を左手が押えて引金を絞ると見えた刹那、ミルヴァートンが思いがけないすばやさでその腕を下から払った。拳銃が宙に飛んだ。同時に、私がミルヴァートンに飛びかかり、その頭を銃の台尻で殴りつけた。
「ワトスン、どくんだ」
 言われて私は反射的に飛びのいた。ホームズは、拾い上げ、構え直した拳銃を、頭を押えて唸っているミルヴァートンに向け、二フィートもない距離から続けざまに引金をひいた。「食らえ、食らえ、食らえ」ホームズの甲高い声が響いた。ミルヴァートンの身体は二つに折れて激しく咳き込み、テーブルにつかまって立ち上がろうとしてその上に突っ伏した。それでも身を起こしてよろよろと足を踏みしめようとしたところを、もう一発撃ち込まれてあおむけにひっくり返った。「畜生」かすれた声でそう叫んだきり動かなくなった。ホームズはじっと見下ろしていたが、足を上げると、その顔を柔らかい靴底で踏みにじった。それからもう一度覗き込んだが、相手は何の声も立てず、ぴくりともしなかった。
 
 ホームズは肩で息をしていたが、拳銃を胸もとに押し込むと、機敏な足取りで廊下に通じる扉に近づき、錠を下ろした。同時に、遠くから人声がして、それが次第に大きくなりながら慌しい足音が近づいてきた。驚くべき冷静さで、ホームズは今度は金庫のところへ行き、手紙の束を腕いっぱいに抱えると暖炉の火の中に投げ込んだ。二度三度それを繰り返し、金庫が空になる頃には、誰かがノブをがちゃがちゃ回し、扉を激しく叩いていた。ホームズはすばやく周囲を見回した。テーブルの上にミルヴァートンのノートが、持主の血にまみれて残っているのを見ると、燃えさかる書類の中にそれを投じ、帽子とかつらを拾い上げてそれも無雑作に投げ入れた。髪の焦げる臭いが立ちのぼった。炎がヴェールや造花を舐めて脆い塊に変えるあいだに、覆面をつけ、ドレスを脱いで小脇に抱え、マントを元通り身にまとった。それから彼は、ヴェランダへ通じる扉から鍵を抜き、私を先にして出ると外から鍵を掛けた。「こっちだ、ワトスン。この方向へ行けば塀を越えられる」

 こんなに早く異変が家中に伝わるとは思いもよらないことだった。振り返ると、宏い家全体が煌々と明りをともして闇に浮び上がっていた。正面扉が開け放たれ、馬車道へ人々が飛び出してきた。庭にも人があふれて、私たちがヴェランダから姿をあらわすのを目ざとく見つけた男が一人、声を上げて追ってきた。潅木の茂みの間を縫うように走るホームズに私は続き、少し離れて先頭の男があえぎながら駈けていた。行く手を遮るのは六フィートの塀だったが、ホームズは女の服をその向うに投げ込むと、よじ登って乗り越えた。私が彼に倣った時、先頭の追っ手が私の足首をつかんだが、私は足をばたつかせて振りほどき、ガラス片の植わった笠石を這うようにして越えた。何かの茂みにうつぶせに落ちたところをすかさずホームズに助け起こされ、私たちはハムステッドの広大なヒースの野へと走り出た。二マイルも走ったろうか、ホームズがついに足を止めて耳を澄ませた時、背後は静まりかえっていた。ここまでくればもう安心、追っ手を振り切ったのだ。闇の中で私たちは言葉もなく抱きしめ合い、まだ息を切らしている唇を重ねた。
 

「もう起きるの?」私はシーツの下から手を伸ばすと、ホームズが着ようとしていたシャツの裾をつかんだ。
「レストレードが来る」私は彼の腰に腕を回したが、ホームズはその腕をはずして私の掌に接吻した。「君はまだ寝ていればいい」
 そうと聞いては寝ているわけにいかなかった。事の成り行きをぜひ見届けねばならない。私たちがいぶせき居間でゆっくりと朝食をしたため、朝のパイプをくゆらせているところに、しかつめらしく、もったいぶった、ロンドン警視庁のレストレード警部が案内されてきた。
「おはようございます、ホームズさん、ワトスン先生」と彼は言った。「早速ですが、目下ご多忙でしょうか」
「君の話を聞けないほどじゃないよ」
「もしも、今これといった事件を手がけておいででなければ、ゆうべハムステッドで起きたばかりの事件に、手を貸していただけないかと思ったのです」
「ほう」ホームズは言った。「どんな?」
「殺人です。富裕な人物が自宅の居間で至近距離から弾丸を撃ち込まれるという、非常に劇的な、注目すべき事件です。この種の事件にホームズさんがことのほか洞察力がおありなのはよく存じていますので、アプルドア・タワーズまでご足労願え、助言を頂戴できるなら非常にありがたいのです。どこにでもあるような犯罪では全くありません。殺されたミルヴァートン氏にはわれわれも以前から目をつけていまして、まあ、ここだけの話ですが、ちょっとした悪党でしてね。恐喝目的で手紙や書類を買い集めていることで知られていたんです。それも残らず、犯人たちに焼かれてしまいました。金目のものは盗られていません。かなり地位のある人物が、書類が外に出るのを防ぐ目的だけでやった可能性が高いのです」

「犯人たちと言ったね」ホームズは言った。「複数犯なのか」
「ええ、二人組でした。もうちょっとで現行犯で捕まえられたんです。足跡が残っており、人相も分っています。すぐに見つけますよ。一人は結構すばしこい奴でしたが、もう一人は庭師の下働きに捕まりかけて、小ぜりあいの末逃げおおせました。中背のがっしりした男で、 角張った顎、太い首、口髭を生やし、顔の上半分を隠すマスクをつけていました」
「どうも漠然としてるな」シャーロック・ホームズは言った。「それだけならどこにでもいそうな男じゃない」
「実は、ホームズさんが興味をお持ちになるに違いない点は他にあるんですよ。ミルヴァートン氏には同じ時刻に、女性の訪問者があったのです」
「ほう」
 ホームズの関心を惹くのに成功したと信じて、レストレードは嬉しそうに揉み手をした。

「夜の十一時に女客があると言われて、メイドが裏門のかんぬきを掛けないままにしたそうです。犯人もそこから侵入したと思われますが、ここに一つ不思議なことがあるのです」レストレードはもったいぶって言葉を切り、ホームズと私はじっと次の言葉を待った。「私たちは、オックスフォード街からチャーチ・ローまで男女の二人連れを乗せたという辻馬車を見つけました。時間も事件の直前で、ぴったり符号します。観劇帰りらしく正装しており、女は黒いマントにヴェールの付いた帽子、ちらりと見えたその顔は、秀でた鷲鼻、きりっとした眉に鋭い目で、薄い唇の、それほど若くはないが、すらりとした、とびきりの美人だったそうです。一方、男の方は女よりも背が低いくらいで、人相も体つきも、ミルヴァートン家の庭師の手伝いの言うところと一致します。仲睦まじい様子で夫婦に見えたと馭者が証言しています。私が直接尋問したんですが、あんな女神のような女に惚れられるなんて幸運な男もあるものだと嘆息していました。この二人がミルヴァートン邸の庭を足早に横切るのを、メイドの一人が窓から見ています。客が忍んでくるのは知っていたので、二人であっても不審には思わなかったと言っています。彼女は寝つけずにずっと外を見ており、銃声がして騒ぎになったあと、ヴェランダから男二人が逃げ出すのも目撃しました。ところが、もう一人の男が入るのと、女が出て行くのは見なかったと言うのです。要約しましょう。女は確かにミルヴァートン邸に足を踏み入れた。しかし逃げる姿を大勢の人たちに見られたのは男二人です。二人目の男はどうやって入り、女はどうやって逃げたのか。さあ、ホームズさん、この謎をどう解かれますか」

「残念だが君の力にはなれそうにもないよ、レストレード」ホームズはあっさり答えた。「実を言うとミルヴァートンのことなら、僕もいささか心得ている。ロンドンで指折りの危険な奴と見なしていたさ。そして同時に、法律の手が及ばない犯罪もあるのを知っているから、そういう犯罪に対しては、ある程度、私的な制裁も許されると思っている。いや、議論の余地はないよ。僕の心はもう決まっているんだ。僕は被害者よりも犯人たちに共感するから、この事件を扱うことはこの先もありえない」
 ついに諦めてレストレードが辞去しようと背を向けた時、ホームズと私は目を見合わせた。ホームズはその長い人差指を唇に当てた。そして警部の足音が階段を遠ざかると、元の椅子におさまって私に言った。「連中が無実の人間を捕まえるようなことが万一あれば、その時は反証を挙げてやるさ。そうでもないかぎり手出しは無用だ。何か見つけられるとは全く思っていないけどね」

 そのとおりになった。ホームズが途中で投げ捨ててきたドレスさえ、警察が見つけることはなかったのである(あのあたりの浮浪者と古着屋を当たる才覚がレストレードにあれば見つかったろうとホームズは言った)。十分な時間が経ってこれを材料に短篇を書いた時、私は庭師の下働きが証言し、レストレードが説明した犯人の特徴について、「それじゃワトスン君の人相と言っても通るじゃないか」とホームズが応じ、レストレードが面白がるという愉快な細部をつけ加えた。ホームズの女装について言えば、あれほど見事に本物の女として無理なく通るのは、いや、それ以上に見えるのは、私の知るかぎりでは他にはアイリーン・アドラーと名乗っていた「いかがわしい女として一般には知られていた」人物だけだ。“彼女”の写真をホームズが手元に取っておいたというのは『ボヘミアの醜聞』の中でのみの話で(“ボヘミア王”から実際に贈られたのは嗅ぎ煙草入れてある )、ホームズは確かに彼のthe womanの写真を生涯大切に篋底に秘めていたが、それが彼の恋愛対象だなどと主張するのは、私の小説の「アドラー」が「ホームズ」の恋愛対象だと(そうではないと明記したのにそう思いたがる読者があとを絶たない)言うのと同じくらい馬鹿げている。かの記念すべき短篇第一作との関連を匂わすために、私は『チャールズ・オーガスタス・ミルヴァートン』の最後に、ホームズとワトスンがリージェント・サーカスの手前にあった貴顕紳士、その夫人、世に知られた名花の写真をショウ・ウィンドウに掲げた店を訪れる挿話を入れた。だが、たとえ、彼らがそこに見出したとされる「微妙なカーヴを描く鷲鼻、きわ立った眉、引き結ばれた唇、その下の小さいが強い意志を示す頤」が誰かの写真と一致しようとそれはただの偶然に過ぎない。ゆめお間違いなきよう願うものである。


縦書ビューア推奨です
[PR]
by kaoruSZ | 2013-04-30 23:07 | 文学 | Comments(0)
例のしょうもないBBCのドラマについての批判から派生したゴタゴタで嫌気が差したせいで、すっかりツイッターから遠ざかってしまっていた。あちらもいずれ始末をつけねばなるまいが、気分転換も兼ねて書いていた今のところwebでは発表する予定の無い文章が相当な量になったので、その一部を元に書き直したものを以前の「モリアーティはどこから来たか?」の続編としてアップしてもらうことにした。今回も主にモリアーティ教授に関する話題であるが、他にも追加した事柄がいくつかある。

まず「最後の事件」と「恐怖の谷」のベイカー街の部屋での導入部を読み合わせて得られる情報を照合し、前者と後者が矛盾した場合は後者の情報が偽りであることを心に留めて読解すること。そしてその結果として得られる真実であろう主な情報は以下の通りである。

● ワトスンは「最後の事件」で提示される会話以前にモリアーティについてホームズから話を聞いたことはない。当然、マクドナルド警部のような警察の人々にもモリアーティ教授の話をした事実は無い。

● モリアーティが大学時代に書いた著書は「二項定理に関する専門書」であり、「小惑星の力学」ではない。

● モリアーティは名門の生まれであり、立派な教育を受けて数学者としての将来を嘱望されていたが、あるスキャンダラスな噂のために大学を追われる破目になり、ロンドンで軍人相手の個人教師となった。つまり、彼は一度スキャンダルのために社会的信用と輝かしい将来を失った過去がある、脛に傷持つ身なのであり、現在の社会的地位は決して高いとは言い難く、「恐怖の谷」で言われているような「誰にも疑われない非の打ち所の無い名士」ではありえない。

● モリアーティは老年に入ってなお独身者であった。

● モリアーティには弟が一人いる。だがそれは「最後の事件」冒頭で言及されている、兄の死後兄の名誉のために訴訟を起こしたモリアーティ大佐であり、彼は当然ながら「西部のどこかの駅で駅長をして」などいない。

● 「最後の事件」ではホームズの語りとして、深夜のベイカー街の居間でのまるで彼自身のドッペルゲンガーのような(どう読んでも容姿の特徴が重なっている上にこちらがポケットから銃を取り出せば向こうも同じように手帳を取り出す)モリアーティの、文字通りとしか思えない出現と消失という全くリアリティーを欠いた幻想的な場面が挟まれているが、「恐怖の谷」ではホームズはモリアーティを調べまわってはいても本人に直接会ったことは一度も無いと言っている。これについては当然後者の方が事実であり、前者が最初から明らかな嘘として書かれている以上実は矛盾してはいない。

● ホームズはモリアーティの部下の一人に目をつけ、密かにポーロックと名乗る彼と連絡を取るようになっており、おそらくはそれこそがモリアーティの破滅に繋がった。

● ホームズは「モリアーティの弱点はポーロックである」ことを見抜いていた。

● モリアーティは部下たちには「裏切りに対しては死をもって処す」という態度で臨んでいたらしい。ポーロックに対する「疑っているのに問い詰めさえしない」という態度はおそらく極めて異例である。

● ホームズが言うところでは、ポーロックは「気取ったギリシャ風の字体で手紙を書いて寄越し、良心を捨てきれず、おだてにのりやすい」性格であるらしい。これらの特徴は彼がまだ若い男であることを示唆している。

● また、なぜ彼がモリアーティがふいに入ってくるような部屋で、よりによってホームズ宛の密告の手紙などを書いていたのか?実は上の項目に書き出してきた内容こそがこの疑問へのヒントであり、そこから導き出される答えこそが極めて重要なものである。

● ポーロックからの二通目の手紙の差出人の署名が「フレッド・ポーロック」となっていたことの意味。「フレッド」というファーストネームが登場するのはここだけであり、さりげなく署名として紛れ込ませているが実は非常に重要な意味を持っている。ホームズが話している通り、彼自身が名乗ってきた偽名はあくまで「ポーロック」であり、「フレッド」とは、「ポーロックがフレッドであること」を示す作者ワトスンからのヒントなのだ。作者であるワトスンがそれを記しているのは、ホームズがあらかじめそれが「フレッドから来た手紙」であることを知っていたからであり、後にワトスンもまたそれを知ったからである。つまり、ホームズはポーロックが手紙を寄越す前から「彼が何者であるか」を知っていたのである。つまり「ポーロックを見つけ出したければ、この後に続く物語の記述の中に“フレッド”をさがせ」ということだ。(以前「モリアーティはどこから来たか?」で詳述したが、この姓と名前の「半分が本当で半分が嘘」というヒントは、実はモリアーティとモランの名として前例があるやり口だ。)

以上が「最後の事件」と「恐怖の谷」導入部の照合から導き出せる「おそらく事実であろうこと」の一覧であるが、重要な前提を明かすと、「恐怖の谷」のエピソードは作中世界において実際に起こった事件ではなく、ワトスンが「最後の事件」と実際にはそれ以前に起きた「本当のモリアーティ教授に関する複数の事件」の、そのままでは公表できない顛末を変形させた形で描いた、いわば劇中劇のような“小説内小説”である。またこれは実は「バスカヴィル家の犬」も同じなのであるが、こちらはホームズとワトスンの個人的な過去と二人の関係性についての物語としての性質が強く、“種明かし”としては「恐怖の谷」の方がより重要であるといえるが、モリアーティに関しても「バスカヴィル家の犬」で先に明かされている情報があり、また同じシチュエーションの引用によって示唆されているネタもあるため、これも読み合わせる必要がある。答えの一部を明かすと、モリアーティの本当の名前は「バスカヴィル家の犬」に登場するある人物の名前として書きこまれている。

上で「本当のモリアーティ教授に関する複数の事件」と書いたが、「作中世界で実際に発生した、背後にモリアーティ教授がいた事件」は実は合計3つ存在する。これも完全にネタを明かせば、この3つの事件とは年代順に「緋色の研究」「くちびるのねじれた男」そして「最後の事件の前年である1890年に発生し、モリアーティ教授の自殺によって幕を閉じた事件」である。そして「恐怖の谷」とは実はこの3つの事件に「最後の事件」を追加した合成物なのだ。

また、ここまでに全くモラン大佐の名前が出てこないのに気づかれたかもしれないが、実はモラン大佐はモリアーティ教授の部下ではない。それどころか、両者の間に果たして面識があったかすら疑わしいのだが、これも二人の“本当の接点”が何であったかは「空き家の冒険」を読めばちゃんと読者の目の前にはっきり書かれている。

そして上の一覧でも明らかだが、直接登場さえしないにも関わらず、ポーロックは実は非常に重要な人物である。ホームズへのポーロックからの手紙に「これは本名ではないが、といってはたして何ものであるか、ロンドンにうようよしている幾百万の人のなかから、探しだせるものなら探しだしてみろ」と書いてあったというのは、実はドイルからの“読者への挑戦状”であり、「この小説の記述の中からポーロックを探し出してみせろ」という意味である。そして事実、作者の置いたヒントを注意深くたどってみさえすれば、“彼”を探し出すことは可能なのある。

ところで、作中に登場する本当にモリアーティの部下であった人物はポーロック以外にもう一人いる。しかも手紙の差出人としてしかでてこないポーロックと違って、実際に読者の前に姿を現してくれているのだが、それも別々のエピソードに二度も登場しているのだ。つまりレストレードやハドスン夫人のような“お約束”の脇キャラ以外ではマイクロフトの他には例の無い快挙であるのだが、それが誰のことかはぜひご自分で探してみて欲しい。

また「恐怖の谷」の第二部の内容は、実はホームズとモリアーティの組織との間で一体どんな駆け引きや暗闘が行なわれていたのか?という誰もが興味を抱く事柄に対する答えなのである。実はポーロックの「フレッド」だけではないフルネームもこの中にさり気なく書き込まれているので探してみて欲しい。また、彼に相当する人物は男女二人に分割されて登場しているが、この二人は「同じことを言う」のでそれが符牒となっている。ここまでに述べたことを踏まえて注意深く読めばきっと見つけ出せるだろう。

そしてこれも核心となる前提を明かせば、第二部の主人公であり、第一部の被害者と思わせて実は生きていたダグラスの過去の姿として設定されているマクマードとは、実はホームズ自身であり、つまりダグラス=ホームズ=マクマードという等式が成り立つ。これは第一部やエピローグの意味を読み解く上でも非常に重要なので押さえておいて欲しい。ヒントとしては、第一部の密室殺人と入れ替わりトリックは「くちびるのねじれた男」を、第二部のアメリカが舞台のロマンスと冒険、また第一部が殺人事件の推理、第二部がアメリカでの過去の物語という構成は「緋色の研究」を示唆していることを忘れないで読むべきであると言っておこう。

私からのヒントは以上であるが、勘のいい方なら上の文章を読んだだけでも真相の一端には気づかれたことだろう。この一連の謎を解こうとする試みは、その過程自体でドイルの小説家としての比類の無い手腕を存分に堪能できるものであることは保証しておく。ぜひ多くの方に楽しんでいただきたい。
[PR]
by kaoruSZ | 2013-04-24 02:29 | 批評 | Comments(0)