おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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関連エントリ
「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」http://kaorusz.exblog.jp/19972391/

上記エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/

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柄谷
...あることを断定すれば、それは現状では一種の権力の行使にもなってしまいますけどね。しかし、何かぼくはそこのところを楽天的に考えてますね。
蓮實
でも権力の行使を恥じたらば、なぜものを言うのかということになってしまう。あらゆる言説は権力の行使だとは当然のことですが、ただし問題なのは、好きでもないものを好きだと思いこんでしまうことが、大衆的なレベルでもあるわけですね。その人の関係の絶対性を外れたところで好きだと思いこむ物語性は、依然として支配的であるわけです。
 強靭な人やある確信をもった人というのは、その関係の絶対性をいつでも再現しうるんですけども、そうでない人たちは、どうしてあんなもの好きだったんだろうと思ったり、あるいは、そのことにも気づかずに、好きでないものを好きになる目利きでない人は、たくさんいるわけでしょう。
 
『柄谷行人 蓮實重彦 全対話』より




【書き下ろしまえがき】
下の文章は、今年の6月頃までに裏アカで断続的に書きついでいた「Sherlock」についての補足的なツイートのまとめである。本当は本文に当たる表アカでツイートした文章も含めて、シリーズ通しての完全な批評をまとめて書こうと思っていたのだが、正直あまりにも憂鬱で気乗りのしない仕事で、各エピソードについてのメモだけは大量に取ったのだが、未だにまとめて人に見せられる文章にはなっていない。だが、暫定的な調査結果としても間違いなく言えることは、このドラマの世界観そのものになっているミソジニーとホモフォビアのトーン自体が、ある種の露悪的なパロディであり、それはおそらくゲイティス氏ただ一人の確信犯的な作為によるものであろうということだ。そして彼は原作がいったいどういう話なのかを完全に理解した上でしらばっくれており、モファット氏を始めとした周囲と調子を合わせつつ、彼らが理解せず、認めるはずもない、「自分だけが知っている本当のホームズの特質」をちゃっかり自分が演じるマイクロフトの役に割り付けることで、密かにナルシシズムを満たしつつ世間を欺いているのだろう。おそらく、他のスタッフも出演者も一般の視聴者以上のことなど本質的には何も知らないのだ。そのシニカルさと、その原因であろう彼のある種のルサンチマンを思うと正直ぞっとさせられるが、つくづく「彼はゲイなんだからSherlockがホモフォビックなはずなんかない」と私を攻撃してきた人たちの鈍感なおめでたさには溜め息しか出ない。

また、私はその後グラナダ版のいくつかのエピソードをあらためて見たのだが、その結果、グラナダ版におけるホームズがマイクロフトともども自らのセクシュアリティを抑圧した同性愛者として設定されていること、幾つかのエピソードの登場人物にも同性愛者が存在していることがわかった。(私が見た範囲では「ギリシア語通訳」「プライオリ・スクール」の二つのエピソードに顕著なので、興味がある方は確認してみてほしい)ちなみにワトスンは、ホームズに心底懐いてはいるが彼を決して対等に理解することは出来ず、社会人としての実態もはなはだ曖昧な“ペットの犬”状態であり、彼らの関係性そのものが、ちょうどペットとその主人のような、無時間かつ無根拠な親密さだけで成り立っている。(おそらく製作者たちもそれには意識的だったのだろう。グラナダ版「バスカヴィル家の犬」に登場するモーティマー医師とそのペットである忠実な猟犬は、二人の鏡像として設定されていた)

時代も含めた種々の限界は如実に窺えるものの、グラナダ版は明示できないものを「隠しつつ表わす」ための工夫を凝らしながら、ホームズやその他の登場人物たちを同性愛者として描きえていた。それは製作者たちがホームズの世界観を忠実に描き出すためには「避けては通れない」核心的な要素であることを十分に理解していたからだろう。逆に言えば、グラナダ版ですら達成していた地点から「Sherlock」は遥かに後退しているのであり、それ以上に不必要な悪意に満ちている。

また「Sherlock」に登場したディオゲネス・クラブのインテリアや従業員のスリッパが、グラナダ版のそれのほぼそのままの引き写しであることもわかったのだが、つまり「21世紀のシャーロック・ホームズ」として喧伝され、ホームズとワトスンを始めとした主要人物たちの容姿もキャラクター性も、原作やグラナダ版のそれとは似ても似つかない“今風”の設定であるにも関わらず、マイクロフトと彼自身を象徴する空間だけは、グラナダ版=19世紀のそれそのままのアナクロニックな引き写しであるわけであり、このこと自体、マイクロフトこそが“本当のホームズである”ことを意味する記号として機能している。言うまでもないが、「Sherlock」の製作者の中で、グラナダ版のホームズ兄弟の抑圧されたセクシュアリティを始めとした同性愛表象を読み取ることができたのも、そうした技巧を前例として意識的に取り入れることが可能だったのもゲイティス氏のみであろう。

グラナダ版からのそれに限らず、「Sherlock」の作中に“引用”されていたものの持つ意味は、ミソジニーとホモフォビアを“当然の前提”として見過ごす視聴者の目には映らず、理解されることも無い。コメンタリー等でのゲイティス氏の公式な発言を鵜呑みにすることは、実は「彼が本当に見ていたものを見ない」に等しいのだ。(流石に「Sherlock」は極端な例であろうが、そもそも表象を読み解く際に“作者の発言”など当てにするものではない)まして「本人がゲイだから」彼の発言を絶対視するというのは愚の骨頂だし、一般論として言うなら、そうした作者の一個人としての属性を無前提に作品の内容と結びつけて疑わないのは差別的ですらある。まずは作品の内部で表現されたものだけを十全に読み解いてこそ礼儀というものだし、賞賛と批判のどちらであろうと、その結果としての評価でなければ真に価値があるとはいえないだろう。私は「Sherlock」の製作者たちに対して、これまでに公にした文章の中でも、十全に礼を尽くしてきたつもりである。全体のまとめになる文章もいずれ発表するつもりでいるが、その前に私自身のスタンスを確認しておいてもらいたいと考えた。

P.S
ヒント:S2E1「ボンド・エアー」と「007」→「ゴールドフィンガー」及び「プッシー・ガロア」で検索されたし。


2013年2月27日

表アカの続き書く前にやっぱり見ておいた方がいいだろうと「シャーロック」のシーズン2第一話をレンタルDVDで視聴、アドラーの扱いがどうなっているのか確かめた。結論から言えば案の定というか予想を上回る酷さと悪質さだったのだが。シーズン1最終話がホモフォビア編ならこっちはミソジニー編。

アドラー、どう見ても男向けレズものAVにも出演してる安い娼婦程度にしか見えない。女王様と呼ばれてはいてもちっとも女王様じゃない。もちろん原作のようなジェンダーを超越した魅力などまったくなく、異性装の要素も削られていた。当然これはホームズ自身にジェンダーを超越した魅力など無いから。

つまるところは「ただの下らない男」にお似合いの「ただの下らない女」に成り下がっていた訳だが。まあ原作の「女優であり元プリマドンナであり一国の王の元愛人」みたいな華々しく誇り高い美女と、あんな単なる女嫌いでホモフォビックなオタク男でしかないホームズが釣り合う訳が無いのだが。

そして結末も、彼女がホームズを見事に出し抜いて愛する人と舞台を去り、ホームズが彼女に素直な敬意を表する原作の爽やかな読後感とは全く相容れない、どこまでも女を馬鹿にして優位に立たなければ気が済まない男の狭量さそのものの胸糞の悪い代物だった。

要は「いくら頭がよくても女は所詮女、遊びのつもりでも男に本気になって結局は道を誤る。男は一時は女に惑わされても理性で感情をコントロールできるので最後は男が勝つ」「女=男の当然の性の対象であり本質的に感情的、男は絶対そんな愚かな存在とは違う」という悪質なセクシズム丸出しの女嫌い。

しかも「敗北を認めしおらしくなった後なら命だけは助けてやってもいい」という男の傲慢な優越感をくすぐってくれるエピローグでオチがつくという徹底ぶりだった。しかも唐突で脈絡も無く合理的な説明は皆無なので非常に妄想臭い。あれはついでに中東の人への無用な偏見を煽りたかったのか?

そしてある意味例のシーズン1最終話より酷かったのが、このドラマにおいてワトスンがホームズにとって必要な理由など本質的には無く、彼の本質は“母”と“女”さえいれば用は足りる「性的に抑圧された本来はヘテロセクシュアルな男」に過ぎないことを露呈していたこと。

彼らの「絆」の描写が基本的に「女なんかより重要」という、ミソジニー的な描写によって女を下げることによる「相対的な優先順位の高低」でしか示されない空疎なものであることを露呈していたことだ。別にワトスンが居なくたって“母親”のハドスンさんと仕事とコネを提供してくれるレストレード、 自分に気があってどんなに邪険にしても言いなりになってくれるモリー、ついでにこっちも勝手にアプローチしてきてくれるあからさまにセクシーな女のアドラーがいれば事足りる安上がりなオタク男でしかないのがこのドラマのホームズなのだ。

彼らが一緒に暮らしている理由も探偵をしている理由も、ワトスンがホームズを優先的に気にかける理由も、ホームズがワトスンに(なぜか)最初から心を許した理由も、「彼らがホームズとワトスンと名づけられたから」でしかなく、このドラマの中でのオリジナルな動機付けは実は全く欠けているのである。

だから原作やグラナダ版やガイ・リッチー版のような「二人きりの親密でゆったりした間」など描けず、とにかく外部の事象や第三者である他の人物に対してひっきりなしにリアクションさせる以外に手がなく、二人の関係性もそうした第三者に「台詞で言わせる」ことで内実の空疎さを糊塗しているのだ。

つまりは「二人きりになるのが怖い」のであり、製作者が「二人を二人きりにさせることができない」のだ。説明するまでもなくこの恐怖感こそ、文字通りのホモフォビアそのものである。そしてこうしたホモフォビアとミソジニーを除けば驚くほど何も残らないと言っていい程にこのドラマの細部は貧しい。

そんな中で唯一の収穫だったと言えそうなのは、マイクロフトがこの女嫌い狂想曲に満ち満ちたどうしようもなく下品なドラマの中でほぼ唯一の、「女に下劣な性的関心を示さず嫌いもしない」ニュートラルな存在であるのがはっきりわかったこと。彼がメインの場面だけは明らかに不快指数が下がっていた。

結論を少しばかり明かすと、つまりマイクロフトこそが、(中の人の話ではなく)少なくとも裏設定として、おそらくこのドラマの中で唯一の「レギュラーメンバーに入れられており、否定的に扱われることもないゲイ男性」なのであろうということなのだが。

そして彼の服装や紳士然とした物腰から察するに、彼は意図的に「原作におけるホームズ自身の写し」として設定されているのだろう。つまり原作におけるホームズを「ホームズ」として描くことが今時のアクチュアルなタブーに触れ、その“検閲”された部分がマイクロフトのものとして移されているのである。


2013年6月21日

Sherlockのセカンドシーズン2話「バスカヴィルの犬」と3話「ライヘンバッハ・ヒーロー」を視聴完了。まだファーストシーズン2話が未視聴になっているがさして重要な話ではないようなので(手元にあるから後でこれも見るが)一応作業の第一段階は終了と思ってよさそう。

で、見終わってから初めてウィキで各話の脚本家を確認してみたら、私が思いっきり引っかかったホモフォビア話であるS1E3「大いなるゲーム」もS2E2「バスカヴィルの犬」も見事にゲイティス氏の担当だった。ただし脚本の構成自体のレベルが高いと思ったのもこの2つの話で、実はそれは必然。

この作品の「意味のある細部」は、実はホモフォビアとミソジニーに関する部分に集中している。逆に言えば、それ以外の意味性はスカスカで、だからホームズとモリアーティの能力の性質やライバル関係にも、それ自体としての物語性が欠落している。要は「本筋」自体が在って無いようなものなのだ。

つまるところこのドラマには「あの二人のホモ疑惑」→「その拒否/否定としてのホモフォビア+ミソジニー描写」の繰り返しの他に見るべきものは何もないし、だからこそその構図が最初から最後まで枠組みとして一貫している「ゲーム」と「犬」の出来栄えは抜きん出てよかったわけだ。

しかしながら「バスカヴィルの犬」のエピソードは非常に悪趣味かつ秀逸だった(半分は厭味ではない)。原作を非常によく読みこんであるのだが、それによって核心的な裏のモチーフとしての同性愛の扱いを肯定から否定へと180度変えている。あの爆死していた犯人の真の罪は実は同性愛である。

あと例の巨大な魔の犬が同性愛を意味するものであるのも実は原作のそれの踏襲。また、ドラマの世界観の中で強迫的に繰り返し登場していた「女=男に対する性的誘惑の換喩としての汚物」も、ヘンリーが持っていたコーヒーの染みのついた紙ナプキンに書かれた女の電話番号としてしっかり登場しており、既婚の男に騙されたハドスンさんの相手との修羅場とそれを嘲る二人組という、ダートムーアへ行きがけの駄賃とばかりに感じの悪い描写と合わせて開始早々実に嫌な気分にさせてくれた。ちなみにこうした穢らわしい汚物としての女と一切無縁なのはマイクロフトのみで、彼は“神”=作者というわけだ。

また、マイクロフトと彼の所属するディオゲネス・クラブのインテリアに象徴される、塵一つ無く洗練された威圧=貴顕紳士のホモソーシャリティとは、穢らわしい汚物としての女とそれに誘惑され堕落した卑しい男たちの「みじめな薄汚さ」のイメージの完璧な対立物である。

これが階級とジェンダーを巡る差別的描写の一例であることは言うまでもなく、本当に21世紀のドラマとは思えない反動ぶりである。製作者たちが意識的に導入しようとしていたのはおそらくホモフォビアだけであったろうが、それが必然としてミソジニーや階級差別まで呼び込んでしまうわけだ。

そして原作を徹底して読み込み「自分が何をやっているのか」を完璧に把握して脚本を書いていたのは、三人の脚本家のうちでもおそらくゲイティス氏のみであろう。他の二人の手になるシナリオとは完成度がまるで違っていた。また彼の手によらない回のシナリオにも彼の意向は強く反映されていたであろう。

何が言いたいのかといえば、あの露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーの構造は、おそらくゲイティス氏自身の確信犯的な設計によるものなのだろうということなのだが。そして彼はそれを「ゲイであることをオープンにしている」という自身のメタレベルの属性とセットで作品世界に織り込んだわけだ。


2013年12月27日

前にも書いたがBBC版の中でも「バスカヴィルの犬」のエピソードだけは一見の価値がある秀逸な出来だった。逆に言えば、その一話前のいろんな意味で最低の出来だった「ベルグレービアの醜聞」とは何の繋がりも無い代物で、同じ出演者が同じ役で出ていても全くの別人としか言い様がないのだが。

要するにゲイティス氏は、明らかに素でホモフォビックなミソジニストである単純なヘテロ男のモファット氏を、権威付けとカモフラージュのために上手いこと利用しているのだろう。ゲイティス氏は明らかに原作のホモエロティシズムを読めているが、当然そんなことをモファット氏に教えたわけがない。

脚本家によってエピソードごとの完成度にもシャーロックの性格付けにもムラがあり、場合によってはまるで別人になっていたのだが、その中でもマイクロフトの役割にだけは一切ブレがなかった。流石に黒幕としか言いようがないが、裏を返せば彼だけは他の登場人物と同じ平面に存在していないわけである.

彼だけが登場人物であると同時に“神”=作者であり、他の登場人物たちは彼の操り人形に過ぎない。彼は他の操り人形たちにあらかじめ彼らの“運命”を予告した紙=シナリオを渡し、自らは傍観者としてその行方を見届けるのだ…と、実は全くこの通りのシーンがS2E3に存在するのだ。

このわざと稚拙に作られたとしか思えない悪意に満ちた“偽物の世界”において、リアリズムを装った表面的な理由付けはまるで当てにならない。登場人物の挙動や表面上のシナリオに違和感を感じた時は、それが納得できる“自然な”情動を補完してしまいたくなるのが人情だが、実はそれこそが罠なのだ

登場人物に“共感”しようと寄り添うことをやめ、画面に映るもの全てを不自然な作為としてありのままに受け止め目を凝らした時、実は最初からこの世界が、その創造主の意図そのままに、精巧な人造ダイヤのような冷たい輝きを帯びていたことに気づくだろう。私はその技巧には決して賞賛を惜しまない。
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by kaoruSZ | 2013-12-23 14:53 | 批評 | Comments(0)
『ナボコフの文学講義』は『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に一章を割いているが、この中でジキル博士の隠された悪徳、具体的にはハイドが耽っているとされる“悪”について、ナボコフはこう説明する。「アタソンが先ず考えたことは、ハイドが善良な博士を強請っているということだった――独身の男が蓮っ葉な淑女たちと付き合ったところで、強請りのたねになるどんな格別な理由が出てこようか、とても想像できぬことだ」

 これにならって、コナン・ドイルの『ボヘミアの醜聞』について、「独身の君主が玄人女と写真を撮って何の問題になろうか」と問うことができよう。ボヘミア王の元愛人には、どう考えても別の秘密があったのだ。ナボコフはハイドの悪徳について「推量できる唯一のことは、それがサディスティックなものだということである」と言うが、女性相手の通常の放蕩を上のように否定しながら、ナボコフは「かかるヴィクトリア時代風の寡黙はおそらくスティーヴンソンが予期もしていなかったような結論へと」現代の読者を導くとして、それが同性愛である可能性をを早々に否定する。

「たとえば、ハイドはジキルの被保護者でありかつ彼の恩人だと呼ばれているがハイドにはもう一つの形容詞がほのめかされている、つまりヘンリー・ジキルのお気に入りというのだがこれはほとんど“お稚児さん”というも同然に響いてひとは面喰らうだろう。(…)すべて男から成る様式というのも、ちょっとひねって考えれば、ジキルの秘密な冒険は、ヴィクトリア時代のヴェールに包まれながら、ロンドンでさかんにおこなわれていた同性愛的所業であったと、勘ぐれないこともあるまい」
 なぜ、そう「勘ぐって」はいけないのか。ナボコフの文中に、それを否定し、原作者が想像もしない結論と決めつける根拠は何一つないのだが。
 

 この小説に独身男しか登場しない理由として、ある批評家が、ロバート・ルイス・スティーヴンスンは「『ヴィクトリア時代の禁制の下で仕事し』、物語の中にその修道士めいた様式にそぐわない異質な色合いをそえようとは欲しなかった」ので、「ジキルが耽溺した秘密な快楽の上に彩られた女性の仮面をかぶせるのを、意識的に避けたのである」と主張しているのを引くナボコフは、ジキルの「秘密の快楽」として、女性相手のサディズム以外のものをはなから排除しているようだ。

 確かに、ジキルとハイドのイメージをポピュラー化した映画の中には、彼らの快楽を、女を鞭で打たせることで表現したものもある(だが、サド侯爵だってたんにサディストだったのではなく、従僕に犯されるのが好きで自分をラ・フルール(澁澤龍彦によれば「お花ちゃん」)と呼ばせたのだから、これはいかにも安易で早計ではないか)。

 ナボコフはこれを小説の技法的な問題として処理しようと試みる。女を出すと話が複雑になり、ハイドの陰気な姿と「陽気な伊達男」を共存させるのは「芸術[技術]的にたいへん困難なことになっただろう」から、スティーヴンスンはそうしなかったのだと言う。悪徳の正体を描写しないままの方が「この芸術家にとって無難だった。だが、この無難、この安易な方法は、この芸術家のなかの一種の弱さを示していないか」。しかし彼は、ここで隠されているのが、「ロンドンでさかんにおこなわれていた同性愛的所業」であるとだけは考えないのである。同性愛だなどと取られるのは予期すらしていなかったと決めつけられ、しかも“弱さ”を指摘されてしまうスティーヴンスン。

 実を言えば、ナボコフの本から十年後に出たエレイン・ショウォールターの『性のアナーキー』を見ると、これはすでに解決済みの問題のようだ。無論、ハイドの悪徳とは同性愛であるという線で。ショウォールターによれば、男性同性愛が違法とされたせいで、当時の読者は「ゆすり」という語が出てきただけで、容易に同性愛を連想しえたという。

 ゲイル・マーシャルは"Victorian Fictions"という本で、このショウォールターの見解が、同時代の医学・心理学的言説を考慮に入れたものであると述べている。そして、攻撃的で暴力的に見えるハイドが、実は、小柄で、神経質で、ヒステリー的な発作を起こす、つまり、通常、女性的とされる特徴を持つことを指摘する。『ジキル博士とハイド氏』の世界には、「女性的なもの」が不在なのではなく、男ばかりから成るこの小説の設定が、スティーヴンスンに、彼の男性登場人物のうちに女性的なものを発見し、男だけの世界の隠された意味を追求できるようにさせたと言うのである。

『ジキル博士とハイド氏』を構成する語り、「弁護士たちと医師たちの間で手渡される語りの断片」(マーシャル)を、ショウォールターは「中断が多く、一貫性がなく、矛盾に満ちた、ヒステリーの女たちがフロイトに語った物語」にたとえたが、マーシャルによればこうした語りの断片は、ヴィクトリア時代の男性社会の「底流をなす隠された世界」に関連する語や、そうした世界への「暗号化された言及」の形をとっており、「裏のドア」「名前を持たない不具」「ゆすり」といった語の意味するものゆえに、「一八九〇年代に主流になる同性愛と両性具有の探求」を扱った小説に、この小説も含まれるとされる。

 ちなみに「一八九〇年代に主流になる同性愛と両性具有の探求」の小説に、ドイルのホームズものも明らかに含まれると私たちは考えている。ドイルの達成は比類のないもので、『ジキル博士とハイド氏』の血を引きこそすれ、その後「黄金時代」を迎える、「推理小説」の初期形態としてすませるのは、トールキンをファンタジーの始祖と呼ぶたぐいの俗説に過ぎなかろう。

 今回、『ジキル博士とハイド氏』についてのナボコフの講義を再読するうち、詳細に、当然のことながら素晴しい筆致で作品を紹介してくれる彼のおかげで、『唇のねじれた男』を書く際に(阿片窟の描写がオスカー・ワイルド写し(『ドリアン・グレイの肖像』)であることをすでにtatarskiyに指摘されていたのだが)、ドイルが明らかにスティーヴンスンの小説を参照していることに気がついた。これこそナボコフの言う、芸術[アート]を読むことだと信じるが、エンフィールドとアタスンが通りから実験室の窓に顔色の悪いジキルを発見して言葉をかわすところ 、「[ジキルの]顔にほほえみが浮んだが、それは忽ち窓下の二人の紳士の血を凍らせるような惨めな恐怖と絶望の表情に変わった。二人はちらっとそれを垣間見ただけであった。窓はとたんに閉じられてしまったからである」というくだりを、ドイルは、ネヴィル・シンクレア夫人が思わぬ場所で、三階の窓からこちらを見おろす夫の姿に出遭う場面に使っているのだ。

「窓はひらいていたから、夫の顔ははっきり見えたが、夫人はその顔に激しい動揺の色を見てとったと言っている。夫は気でも狂ったように夫人にむかって手をふりまわしていたが、それもつかのま、いきなりすっと窓の奥に姿を消してしまった。なんとなく、背後から抵抗しがたい力でひきもどされたような感じだったという」とホームズは語る。無論最後の説明は犯罪をほのめかすミスリーディングで、本当はそこにネヴィルしか(あるいは彼とその変装した分身しか)いないのだが、それはまたジキルの場合の真相、そこにいるのは彼 だけなのに、ハイドへの「変容が突如として襲ってきた」ので「この出会いが唐突に終りをとげた」とナボコフが言うところに一致する。

 
 もはや薬による不断の刺戟なしではたちまちハイドと化してしまうジキルほどではないにしても、ネヴィルの変容は迅速で完璧だ。「もとの物乞いの衣裳をひっかけると、顔を塗ったくって、かつらもかぶった。妻といえども、ぜったい見破れない変身ぶりです」と、本人があとで探偵に語る通り。

 シンクレアの秘密とは、けっして、三日やってやめられなくなった乞食道楽などではあるまい。この話は、妻の友人の頼みでワトスンが、阿片窟に入り浸ったままの夫を連れ帰りに行くところから始まるが、シンクレア夫人も、言われているようにたまたまそこを通りかかったなどというわけでは実はあるまい。

 真相は、一部は、メアリの友人の話として置き換えられているのだろう。シンクレア夫人は思いあたることがあって、自ら夫を探しに行ったのだろうし、ネヴィル・シンクレアがその三階に着替用の部屋を持っていた阿片窟は、実は阿片窟でさえないのだろう。そしてワトスンが偶然出会う、阿片中毒の老人に身をやつしたホームズさえ、ネヴィル失踪を調査に来たというのは額面通り受け取れる話ではない。ありていに言えば、それはホームズがそういう男たちの一人であることを示すものだ。例によって「しなびていた全身がしゃきっとし、顔の皺は消え、どんよりしていた目に輝きが宿った。そして、おお、そこの火鉢のそばにすわって、驚く私ににこにこ笑いかけているのは、だれあろう、わがシャーロック・ホームズその人ではないか」という、そして一瞬ののちには「そのときにはすでに、いままでどおりのよぼよぼの、締まりのない口もとにもどっていた」という、とても現実とは思えない魔法のような、というか実のところ現実ではない変身ぶりは、内容まで込みでジキルとハイドの変身に類するものと見るべきだろう。

 ホームズがシンクレアのメーキャップを、濡らしたスポンジでぬぐい去ってしまうくだりは、ラニョン博士が目撃する。ハイドからジキルへの変身――「叫びが起こった、男はよろよろとよろめき(…)男は大きくなったように見えた――顔は突然黒くなり、目鼻立ちが溶けて面がわりしたように見えた(…)次の瞬間、私は椅子からはっと立ちあがり、壁ぎわに飛びすさっていた。(…)「ああ、神よ! ああ、神よ!」私は何度も何度も絶叫した。眼前に――血の気も失せて、おののき、なかば失神状態で、いま死から甦ったばかりの者のごとく両の手を前にさし出しまさぐっている――そこに、ヘンリー・ジキルが立っていたのだ」のパロディであろう。こんなおどろおどろしく大袈裟なことなど何一つなしに、熟睡中にホームズの手であっさり元の顔にされてしまったシンクレアは目覚めて驚き慌てる。

 ジキルの秘密、ハイドの悪徳は、結局「殺人」という究極の悪により、あらわにされると見えて置き換えられ、覆いかくされることになる。だが、注意して見れば、カルー撲殺事件自体、実はそれらを指し示してもいるのだ。「この物語の焦点をはっきりさせる端緒の事件だ」とハイドのカルー殺しを言うナボコフは、この最後の点に全く気づいていない。

 この挿話の、殺される老紳士の「美しさ」は何のためにあるのか。翻訳者も途惑ってか、aged and beautifulという被害者をあらわす形容は、「上品な老紳士」とか「年配の上品な紳士」とかに訳されてきた。だが、『性のアナーキー』での引用では「老齢の美男子」であり、ナボコフの翻訳者も「美しい」を落しはしなかった。そして明らかにこの方が妥当である。ショウォールターの示唆に従えば、目撃者の目には老紳士が道を尋ねていると見えた事件の真相は、要するに年を取っても容姿に自信のあったサー・ダンヴァーズ・カルーが、深夜の路上で若い男を誘って殴り殺されたのである。

 ナボコフは『ジキル博士とハイド氏』の独身者ばかりの登場人物を、アタスンからジキルの執事であるブールに至るまで列挙しているが、カルーをもその中に入れるべきだろう。ついでにドイルの『ブルース=パーティントン設計書』にも、「長身で美貌の、うすい顎ひげをつけた、五十がらみの」紳士が出てくるのを思い出そう。『ブルース=パーティントン』でも、ホームズ、ワトスン、マイクロフトを含め、登場するのはおおかた独身男だが、その中の一人はホームズの罠と知らずに訪ねて来て、待ち構えた男たちの前で気を失うことになる。
「倒れたとたんに頭から鍔の広い帽子がふっ飛び、口もとから首巻きがすべりおちて、ヴァランタイン・ウォルター大佐の長くてうすい顎ひげと、やさしくうつくしく優雅な顔があらわれた」。

 気を失うこと自体、すでに女性性の指標であることに加え、美と傷つきやすさと受動性をかくもたやすく人々の面前にさらしてしまったこの男は、ドイツのスパイに情報を渡したのであり、ジキルの変身をまのあたりにして生き延びられなかったラニョン博士のように、彼の独身の兄までも、真相を悟ってそのまま死んでしまう。今回、再読する前から、美しい大佐はドイツのスパイと愛人関係にあったのだろうとtatarskiyに言われていた。ヴァランタイン・ウォルターはホームズたちに言う――「あいつのおかげで、私は破滅し、没落したのです」まさしくそういうことである。

 ゆすりと同性愛の密接な関わりを知ったあとでは、ホームズの話に頻出する恐喝と「秘密」にも、別の光が当てられることになろう。しかし、スティーヴンスンと較べてドイルには明確な違いが一つある。前者では醜いハイドとしてしか表象されなかったものが、「美しく」「優雅」と形容されうることだ。マイクロフト・ホームズは『ジキル博士とハイド氏』の語り手アタスンのような人だと、これもtatarskiyから指摘された。成程スティーヴンスンの小説の独身者たちは、ディオゲネス・クラブの会員にふさわしい孤独な中年男ばかりだった。アタスンは、本当は年代物のワインが好きなのにジンを飲みながら神学の本を読んで夜を過ごし、芝居好きなのに二十年も劇場のドアを潜っていない男として私たちに紹介される。ショウォールターに言わせると、彼は空想的なものに怯え、無秩序な想像力の領域を恐れているのだが、自宅と役所とクラブを規則正しく移動するホームズの兄も似たようなものである。

「マイクロフトにはレールがあってね、けっして脱線しないんだ。ペル・メルの下宿、ディオゲネス・クラブ、ホワイトホールの庁舎、そこを循環するだけなんだよ」と彼の弟は言う。「それが脱線するなんて、どんな大変化が起こったんだろう?」
「私は習慣を変えるのはいやでたまらないのだが、そんなことをいっておられない情勢だ」と、ベイカー街に現われたマイクロフトは言う。かくも強迫的な習慣への固執は理由のないことではありえない。自分を縛っておかなければ「無秩序な想像力の領域」へ脱線してしまうのではという恐怖。軌道を踏み外した結果は彼らの前に、もう一組の独身の兄弟の形をとって現れる。多数の勲章と肩書を持つジェイムズ・ウォルター卿は、ホームズが面会を求めた時にはもう死んでいた。弟の罪はそれほどに重いものだったのだ。

 マイクロフトの弟に、ヴァランタイン・ウォルター大佐のような罪とスキャンダルの心配がない――ないということはあるまいから、より少ないと言っておこうか――とすれば、それはもはや、彼が、あの陰鬱な独身者たちの行き来する。スティーヴンスンの暗い夜の住人ではないからだ。いや、「ない」と言うのは無理にしても、いわばジキルとハイドのあいだを自在に行き来する、魔法のような力を持った演技者でシャーロック・ホームズがあるからだ。すでに『緋色の研究』で、彼は「目に見えない聴衆の拍手にこたえるかのように」振舞うのを初対面のワトスンに目撃されているが、以後はもっぱらワトスン一人のために、その魅力的な姿を演出することになるだろう。短篇第一作の『ボヘミアの醜聞』では、はっきりと演技者と呼ばれ、アイリーン・アドラーの家の内外で起こる出来事は、ホームズによる“上演”に他ならない。ワトスンはその観客として召還されているのである。

 いや、ホームズの合図で室内に発炎筒を投げ込む役目を負っているのだから、観客参加型演劇か……。ともあれ、ホームズはワトスンを連れ出してスペクタクルを“見せたい”のだ。「これから演じる新規の役のための衣裳替えといこうか」そう言って寝室に姿を消し、数分で役になりきって出てきた彼を、ワトスンはこう描写する。「思いやり深い笑み、善意の好奇心にあふれた目で、のぞきこむように見つめてくるようす、どこから見てもその人物にぴったりで、(…)ホームズはたんに衣裳をとりかえるだけではない。表情から、物腰から、さらにいえば心の持ちようまでが、新たな役柄に応じて一篇してしまうのである。」

 社会的役割に縛られてその人らしくあることに汲々とするのではなく、軽やかに境界を超えるトリックスター、ホームズ。理性的で感情を排した頭脳だけの存在というのは建前に過ぎない。ホームズ自身がそれらしいことを言っているので、単純で善良で感じることができず、文章の字面しか読めない人は簡単にそう信じるが、彼の女嫌いと称されるものは彼が“女性的”であることを妨げない。彼の思考について行けないで嘲弄されるワトスンとは、多分に作られた虚像である。実際には、彼はホームズに魅せられ、その謎を解きたいと思っているのであり、ホームズは彼に語りかけ、その意見と賞賛を求め、彼を驚かせ、魅了しようとしている。

 ワトスンと変装したホームズとが連れ立ってアドラーの家の前に来ると、「私たちがその家の女主人の帰宅を待ちつつ行ったりきたりしているうちにも、ひとつまたひとつと街灯がともされていった」。観客の期待を煽るべく、舞台のライトが明るくされ、夢の現場が作られてゆく。「家自体は、私がホームズの簡潔な描写から像していたとおりのものだったが、なぜかこの界隈では、人出が予想していた以上に多いようだった。いや、それどころか、閑静な住宅街の、小さな通りだというのに、これが驚くほどにぎわっている。粗末な身なりの男たちの一団が、角にたむろして煙草をふかしたり、談笑しているかと思えば、流しの鋏研ぎ屋が回転砥石をまわしている。近衛連隊の兵士がふたり、子守りっ子をからかっているかと思えば、葉巻をくわえてぶらぶら歩きまわっている、身なりのよい青年の姿も二、三目につく」。ワトスンの観察は正しい。これはホームズがワトスンのために用意した、現実そっくりの舞台に他ならない。

 いよいよアドラーを乗せた馬車が近づいてくると、小銭を貰おうと突進した浮浪者同士が衝突し、つかみあいをはじめ、近衛兵と鋏研ぎ屋がそれぞれに加勢し、降りてきたアドラーもそれに巻き込まれ、牧師姿のホームズがそこへ飛び込んで行ったかと思うと声をあげて倒れ伏し、近衛兵と浮浪者が二方向に逃げ去ったあとに身なりのよい男たちが近づいて血を流している牧師を介抱し、アドラーに向かって各自が台詞を口にして、牧師が家の中へ運び込まれる。先に文章中に出てきた浮浪者、鋏研ぎ、近衛兵、身なりのよい青年たちを残らず回収しながら場面を収拾するドイル‐ワトスンの見事な手並みだ。

「そのあいだ、私自身は窓のそばの持ち場を離れず、そこから一部始終を見まもっていた。ランプがともされたが、ブラインドはあがったままだったので、私にも寝椅子に横になっているホームズの姿がよく見えた」とフレーム内フレームに切り取られたアドラーの居間で上演される劇を覗き見ることになったワトスンは言う。物語のはじまりで、実はこれに似たブラインドの下りた窓を彼は見ている。往診の帰りにベイカー街を通りかかって、「煌々と明かりがともってい」る「彼の」部屋を見あげ、そうしている間にも「その長身の、痩せた姿が、黒いシルエットとなってブラインドの向こうを横切る」のを、「二度までも見てと」っているのだ。言うまでもなくこの記述は後の『空家の冒険』を思い出させずにはいない。あそこでもブラインドは下ろされ、周知のシルエットが浮び上っていて、それをこちら側の建物の暗い部屋の中からホームズとワトスンが見ていた。

 私たちは『空家の冒険』を検討した結果、あれは完全にワトスンがあとから再構成した情景であり、ベイカー街の彼らの部屋に銃弾が撃ち込まれることもあの蝋人形もなかったという結論に達しているが、それについては今は触れない。ただ、「たまたま」通りかかったワトスンが「なぜかとつぜん」ホームズに再会したくてたまらなくなって呼び鈴を鳴らし、上がってゆく、「かつては一部が私のものでもあった部屋」、ワトスンが結婚によって去ったその部屋が再び“二人の部屋”になる(ホームズが強引にそう図る)話こそが、『空家の冒険』であることを確認しておきたい。

『ボヘミアの醜聞』において、ワトスンはホームズから、舞台上での出来事から絶対的な距離を置くようあらかじめ指示されている。アドラーの家の戸口の前で、何が起きようと近づかず、手出しをせず、発炎筒を投げ込む役割だけを担わされて、明るく照らし出された窓の内側で演じられる情景を、手の届かない夢物語のように、絵本に眺め入る子供のように覗き見るよう命じられ、その距離はわずかに発炎筒を投げることでしか埋められない。

 周知の通りこの「距離」は、モラン大佐にとっては、“魔法の銃”(口笛とミルクで操られる蛇やバスカヴィルの犬同様ありえない兇器)によって踏破されるべきものだった。開いている窓からロナルド・アデアに撃ち込まれた銃弾は、それでもまだ物語内においては存在しただろうが、説明される動機は偽りで、まして彼がホームズを狙ったなどという事実はない。『ボヘミアの醜聞』のエキストラにまさる大がかりな舞台装置を取り除くなら、『空家の冒険』は空家自体が存在せず、もはや夢物語の観客ではないワトスンが、「ざらざらした現実」(ランボー)を抱きしめて、再びホームズと生きることを選ぶ(選ばされる)話なのである。


彼らの罪、彼らの秘密(中)
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by kaoruSZ | 2013-12-14 05:06 | 批評 | Comments(0)
『ボヘミアの醜聞』にはいろいろおかしなところがある。たとえば、結婚後久しぶりに会うワトスンに対してホームズが無言であること(「それでも目には親しみぶかさをたたえて」とかごまかしているが)。「医者の仕事にもどるつもりだったとは、聞いた覚えがなかったが」とホームズが言うのも変だ。こうした会話が自然に思われるとしたら、それはこの話全体がワトスンの夢である場合だろう。そう言えばアドラーについての前置きのあとにワトスンが自分の結婚について触れ、新聞で見るホームズの近況を述べたあとに、たまたま通りかかって見上げた窓にホームズのシルエットが見えるという展開も、いかにも嘘っぽいのだ。むしろ、かつて二人で暮した懐しい部屋の窓は最初闇に沈んでいたのが、ワトスンの夢想の中で昔通りに灯が点り、するとホームズの影が映ったので喜んで入ってゆくと友は変らずそこにいる(そして最後は再び暗い窓で終る)というのが、映画にしてもよさそうな展開だろう。

 そうしたことを話していたらtatarskiyに、この時ホームズはもう死んでいたのだと言われて驚いた。『最後の事件』の後、ホームズが死んだとワトスンが信じていた時期に書かれたという設定だから、全てが過去になってしまったところから、亡きホームズを思い出してワトスンは書いているというのだ。

 成程それならこの不吉で暗いトーンも腑に落ちるというものだ(から騒ぎのあたりは対照的に祝祭的だが)。ホームズが無言なのも(夢の中の沈黙は死を意味するとフロイトも言っていた)、どこか噛み合わない会話も。私たちは夢の中で死者に遭い、しかもその事実を思い出さない時、こんなふうに話すことがある。

 例によってドイルは出自の違うピースを巧みにつないで(繋ぎ目は目立たない)一篇を組み立てているのだが、たまたまワトスンが立ち寄ったその夜、謎の依頼人が訪れることになっており、その正体はボヘミア国王だったなどという展開がリアリズムから程遠いことなど、まるで指摘されたことがなさそうだ。寄り道を終えて元の流れに戻るけれども、一度知ってしまったことは忘れるわけに行かないから、この上演も、窓の外で見ているワトスンの目に映るホームズも、そのような二度と還ることのない回想としての夢の中のまぬかれ難い憂愁にひたされたものだということは覚えておこう。

 それにしてもいったい、注文や評判の結果として行き当たりばったりに書いてシリーズにしたと思われている、ホームズものによって知られることを喜ばず、金のために再開したように言われるこの“長い小説”の構想を、ドイルはいつ立てたのだろうか。『空家の冒険』の巧緻で複雑な構造と驚くべき大胆な(隠された)内容から見て、『最後の事件』で中断後の再開時には、もう最後までの構想があったと以前から私たちは考えていたが、しかし『ボヘミアの醜聞』が私たちが見出したようなものであるならば(確実にそうだと思っているが)、すでに短篇第一作からドイルの構想は定まっていたのだし、一貫して全くブレはないのである。

 ワトスンは再びベイカー街に向かうが、ここでの「あの家にたむろしてた連中、あれはみんなぼくの共犯なんだ。今夜一晩、雇っただけなんだよ」というあらずもがなの説明と、「そんなことだろうとは思っていた」という応答もやっぱり変だ。どこかの劇団でもそっくり借りてきて、しかも一糸乱れぬ演技を見せなくてはならないのだから、ボヘミア国王からいくら調査料を貰っていたとしても、そう簡単に(時間的にも)できることとは思われない。写真を見につけていないか二度調べたと王様が言うのも、サクラを雇うのもエドガー・ポー写しだが、『盗まれた手紙』ではせいぜい数人の男に路上で騒がせただけである。その程度ならまだ分るが……。しかしこれはポーと違い、今は亡き(この時点では)ホームズから、懐しい部屋を訪れて死者を思い出してくれたワトスンへの贈り物としての上演なのだから、そこまで大がかりでも手が込んでいてもけだし当然であろう(短篇第一作だから読者への椀飯振舞かと思ったが、そうではないのだ)。

『空家の冒険』に到ってドイルは、ホームズとワトスンの「僕たちがそこからささやかな冒険の数々へ出発したなつかしい部屋」(our old rooms -- the starting-point of so many of our little adventures)を、あの時のアドラーの家のようなスペクタクルの対象にしてみせる。ベイカー街の通りを挟んで向かい合う鏡のように、しかも自分たちは見られることなく見るための恰好の場所へ、ホームズの冷たく細い指に手首をつかまれて連れてこられたワトスンは、あの夜と同じようにブラインドに浮ぶホームズの影を見て、驚きのあまり手をのばして傍のホームズに触れ、本当にそこにいるか確かめて笑われているが、これは見かけほどに笑いごとでもワトスンの単純さを示すものでもない。これに先立って自宅にホームズが現われた時、ワトスンは二度も彼の腕を摑んで「亡霊ではないようだ」と言っているが、実際、この場面は、鏡の向う側の世界が本物だとすれば、こちらを存在しない贋物‐亡霊にしてしまいかねない構造のうちにあるのだから。そして事実、「こちら側」は存在しないのだから。

『空家の冒険』の「空家」“empty house”は文字通り「空」“empty”であり、そこで起こったとして語られる「冒険」は、ベイカー街の彼らの旧居で何が起こっているかを読者の目から隠す(アドラーの家の上げられたブラインドと正反対だ)ブラインドと同様、本当にあったことの代りに読者に与えられた囮であり、ブラインドに浮ぶホームズの像とは、モラン大佐を狩り出すための囮であるのと同じくらい、読者のための囮である。「見張り番が見張られ、追跡者が追跡されている」とはそういうことだ。ホームズの虚しい影を追い求めるモラン大佐、誘蛾灯に寄る蛾のように彼が引き寄せられるのを「こちら側」で待ち受けるホームズとワトスン、そのすべてに立ち会っているかに見えて実は囮しか見せてもらえていない読者。それにしてもワトスンを驚かせたあの蝋細工、名人の手になるというふれ込みの半身像が、ベイカー街の室内に置かれていて、ハドスン夫人が膝をついてそれを動かしていたなどという話を誰が信じようか。『最後の事件』の時には名前さえ出てこなかったセバスチャン・モラン大佐の存在を、モリアーティの片腕としても、あるいはロナルド・アデアのような素人の若造にいかさまを見抜かれる賭博師としてさえ、誰に信じられようか。しかし彼は現われるのだ。待ち受けていた者たちが期待していたのとは逆の方向、ありえない「こちら側」の家の裏手から。

 モラン大佐、『空家の冒険』の発端で、殺されたロナルド・アデアのカード仲間として現われる名前、まだらの紐や魔犬同様ありえない兇器である、なにがしの手になる特製消音銃を手に空家の窓に歩み寄り、黄色く輝く窓の中央の黒い影を狙撃して窓ガラスと蝋人形の頭を砕いたと言われる男。手前の闇に潜むホームズとワトスンの(そして読者の)目前で繰り広げられるこのスペクタクルは、しかし重ねて言うが全く無かったものであり、それは直後にホームズの呼び子に応えて飛び込んでくるレストレードと部下達(his merry men)にしても同様だ。この言い回しは普通に従者を指すが、河出書房版全集(オクスフォード版の邦訳)の注釈は「ここでホームズがレストレイドと彼の部下の警察官達を、ロビン・フッドの物語に登場するならず者達になぞらえている」のはまず疑いないと言っており、こういうところは本当に役に立つ。残念ながら、直後にモランをノッティンガムの代官になぞらえているところで台無しだけれど。

 なぜ彼らがロビン・フッドと楽しい仲間たちなのか。この全ては作り話であり、ホームズ物語でおなじみのレストレード警部と部下たちを名乗ってはいるが、彼らは『ボヘミアの醜聞』でホームズが束の間のショーのために雇った俳優たちのようなもの、あるいは(同じことだが)『テンペスト』の精霊たちのようなものなのだろう。河出版の注釈は、これに先立って、すでに引用したホームズの言葉――「そこからぼくたちのささやかな冒険(our little adventures)へ出発したなつかしい部屋」についても、ヒントになる素晴しい情報を提供してくれている。原稿では"our little adventures”が”your little fairy tales”(君のささやかなおとぎ話)となっている」というのだ。これはホームズがワトスンによる現実の加工――「冒険」からおとぎ話への書き換え‐虚構化――を揶揄してのものではないだろう。むしろ本当にあったことに大仕掛けな虚構を加えて現実の再会の十年後にこれを書いているワトスンの、自らの仕事への言及と見るべきだろう。

 ロナルド・アデアもモラン大佐も(彼らには別の物語があるのが分っているが省略する)、アデア殺しをホームズの助けなしに解決してモランを逮捕したのであろうレストレードも彼のmerry menも、皆おとぎ話の妖精として、現実からワトスンの小説に引用されて来たに過ぎないので、fairy taleが終ると同時に、すなわち手柄はみなレストレードのもので、ホームズ殺害未遂など存在しなかったのだとホームズが宣言すると同時に、残らず消滅してしまう。「部屋にはいると、実際あの部屋だろうか、と思うほどきちんと整頓されていたが、主要なものはすべて当時と同じ場所に置かれていた」とワトスンは言う。そう、そこはけっして偽物などではない彼らの部屋、同じ構造を持ち、あまりに似すぎているために“本物と見紛うばかりの本物の部屋”なのだろう。そこ以外に彼らの部屋がある訳ではない――実際の221Bやパブに“再現”された類の部屋を除くなら。二人きりではなくハドスン夫人と胸像がいたと語られるのなら、それは掛値なしに本当なのだろう。どの道ハドスン夫人なしでは直前までの“上演”は不可能であった。ホームズの感謝の言葉を合図に、ハドスン夫人も消え失せる。「いくつか君と話し合いたいことがあるんだ」と会話を中断させることさえなしにホームズは続けて、蝋人形から脱がせたガウンをまとうが、“本当に”その時ホームズがしたことの中でここに残っているのは、多分話があると言ったこととガウンを着たことだけであろう。

 私たちは事件に決定的に遅れてしまったのだ。それは空っぽの部屋で起こりはしなかった。そうではなく、昔と変わらぬ物で満たされた室内で起こったのだ。黄色い窓もブラインドに浮ぶ影もその奥にあるものの実在を何ら保証しないのに、私たちが囮に目を奪われていた間に、肝心なことは向うの部屋で起こってしまった。それはアドラーの開いた窓の内側の舞台のように、明るい光に照らされて起りはしなかった。むしろこちら側の闇の中で――ホームズが微かな声を洩らし、ワトスンの唇を片手でふさいで引っ張り込んだ部屋の一番暗い隅のように、暗く沈んだ闇の中でそれは起こった。「私を摑んだ指は震えていた」。だが、モランは、至近距離まで来ても闇に沈んだ彼らに気づかずそばを通り抜ける。なぜなら彼らがいたのはけっしてそこではないからだ。

 モランが向かいの部屋の窓を押し上げ、窓枠に銃身を乗せて黄色い光を背景にした黒いフィギュア、「あの驚くべき標的」を打ち抜くなどというおとぎ話を、私たちが息を詰めて見守っている時、彼らはすでに私たちの視線の先の、しかしあらかじめ禁じられた場所にいた。彼らはこちら側の室内のいっそう暗い隅にはいなかったが、記述された激しい情動だけは本物だった――「私を摑んだ指は震えていた。ホームズは今まで見たこともないほど昂奮していた」

 そもそもその空家とはどこだったのか。ベイカー街を見下ろす、彼らの懐かしい下宿の向かいの建物? 壁紙がリボンのように垂れ下がるという、オクスフォード版の注釈も『緋色の研究』との類似を指摘する(しかし彼らはその意味を知らない)描写のあるそこは、ワトスンにとってホームズとのはじめての“冒険”の思い出の場所(勿論記憶の中の)であり、あとから小説のために作り込まれた情景だ。「ホームズの冷たく細い指が私の手首を摑んで長い廊下を先へと導いてゆく」というのも、記憶の中か夢の中にこそふさわしいさまよいだ。そしてワトスンは実際にはけっしてこのようにホームズに連れられて空家を歩くことはなかった。

 なぜなら、向かいのカムデン・ハウスの空き部屋へ彼らが行くなどということはけっしてなかったからだ。四月の夕刻にホームズがワトスンの前に現われて驚かせた時、ホームズがワトスンの書斎でこれまでの出来事を長々と聞かせたなどということがありえなかったであろうと同じくらいそれはありえない。“生きていたのか。今までどうしていたの?”そう訊ねたあとはろくに説明のないまま、“僕たちの部屋はそのままにしてある。一緒に来てくれるね”と有無を言わさず「冷たく細い指」に摑まれてベイカー街のホームズの部屋(彼のものでもあった、そしてその日から再び彼らのものになる)へ連れて行かれてしまったのだ。悠長な長話があったわけがない。ついて行けばどうなるか知りながらワトスンはついて行くしかなかった。「どうやら彼は私に不幸があったことを知っていたらしく、言葉というより態度で同情を示してくれた」というのは大嘘だ。ホームズが一瞬の眼差しですらそんなものを示したはずがない。同情を示したことにしないと変に見えるという以上に、ワトスンが妻を亡くしたという情報を最低限読者に与える必要から、このような書き方が選ばれたのだろう。そして名は勿論妻とさえ記すことなしに、ホームズが寡黙だが思いやり深い人物であるかのような印象を読者に与えることに成功している。

 実際にはホームズは絶対にメアリのことなどおくびにも出したはずがないしワトスンも出せない。何も言わずともメアリを亡くしたことをホームズが知らないわけがなかった。そうやって彼が帰ってきたこと自体、彼女がいなくなったからだし、本当にあった『最後の事件』も彼女がいたから――ワトスンが彼女と結婚したから――起こったことなのだ。モリアーティも例の格闘もなかったのであれば「あの恐しい深淵からどうやって生還したか話してくれたまえ」もチベットもへちまもありはしない。

 だが、すでに述べた、ワトスンが二度もホームズの腕を摑んで肉身のホームズを確かめていることには意味がある。当初からワトスンの目はしばしばホームズの手に注がれている。二作目である『四つの署名』は、ホームズがその「長く、白い、強靭な」指で注射器を操り「筋肉質の前腕」にコカイン溶液を打つ描写で始まり、事件が終って「長く白い手」をコカインの瓶にのばすところで終る。あの頃は「長く白い」だった形容詞が「冷たく細い」になっている。つまり以前は見るだけだったのが今では触れ合っている。ホームズと知って腕を摑み、「もう一度彼の袖をつかみ、その下のやせて筋張った腕の感じを確かめ」ることができたのは、その下の身体をワトスンがすでに知っているからだ。『四つの署名』でモースタン嬢が結婚を承知してくれたと告げた時のホームズの反応をワトスンが誤解し続けた結果はついに、『最後の事件』まで行きついた。そして生還以後のホームズはコカインをやらなくなるのだが、その理由も『四つの署名』の最後から明らかだろう。たんに必要がなくなったのである。

「悲しみには仕事が一番の薬だよ」と再会時にホームズは言うが、これもワトスンの“悲しみ”を気づかってのものというより、自分がワトスンのいない悲しみをいかに仕事に紛らしていたかという、むしろ嫌味であろう(仕事はマイクロフトから回してもらった諜報の仕事と思われ、ちなみに以降の短篇を見れば、診療所を取り上げられた(!)ワトスンは空いた時間をもっぱら執筆にあて――自分のことを語らないので見過ごされてきたが――作家として名を挙げつつ、ホームズのパートナーとして二人組のエージェントであったと推測される。市井の人の持ち込む奇妙な謎を追うというのは期間限定のイメージなのである)。

『空家の冒険』に嵌め込まれたアデア殺しもホームズ(像)狙撃も、その意味を理解できれば本題と密接な関連があることが判り、それは古書店主に身をやつしたホームズが関わる二冊の本の題名についても同様である★。しかし今は人目に触れさせても差しさわりのない形に整えられる以前の出来事の見極めに話を限ろう。するとアデア殺しも愛書家老人も消滅して、たんに四月の夕にホームズがワトスンの前に現れたという事実だけが残る。ホームズはこの時何を話したか。ライヘンバッハがモリアーティがという「驚くべき話」はすべて作り事だからバッサリ切ってしまおう。あの時何があったかはワトスン自身が一番よく知っている★★。一緒に死んでもいいという言葉をワトスンから引き出したホームズは、最後の最後になって彼を死なせないため偽手紙で旅館に帰らせ、自分は姿を消した。医者を待つ肺結核で瀕死の英国婦人の幻は、その後発病して死に至ったメアリに重なり、ワトスンにあのような形で『最後の事件』を書かせることになった。脱け殻のようになって帰国したワトスンは妻の療養中もホームズとの思い出を懸命に書き継ぐことで生きていたのだ。

 そのメアリ(実はワトスンは以後彼女の名前を出さなくなる。後に『四つの署名』での船による水上の追跡を回想する時でさえ、彼女のことには触れない)が死んだとは最大の障壁がなくなったということだ(とホームズは判断した)。ホームズがお悔みなど言うわけがないし、仕事で悲しみを癒せと勧めたはずもない(仕事=自分なら別だが)。空家もモラン大佐も彼らを待ってはいないが、今夜二人でする仕事とはダブル・ミーニングかも知れない。さらに詳しい説明を求めるワトスンに、「朝までにはたっぷり見たり聞いたりすることになる」とホームズは応えている(確かにその通りになる)。だが、二輪馬車のホームズの隣に腰をおろして胸をわくわくさせていると昔に戻ったようだったというのは、作られた情景でなければワトスンの錯覚だ。行く手に待つのは『ボヘミアの醜聞』のあの魔術師ホームズに召還された光りかがやく舞台ではなく、ロマン主義的な美しい悪魔としての彼の暗い半面なのだから。

 この悪魔的な誘惑者の系譜において時代的にも地理的にもドイルに一番近いものとして、ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を挙げることができよう。この小説は『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌に発表され、彼らは二度会っており、互いの小説への讃辞も送り合っていた。『肖像』に『ウィリアム・ウィルスン』の影響があるとは誰でも言うことだが、ウィルスンの悪徳とは何だったか?(これについては、はっきりした証拠を最近tatarskiyが見つけた。)ポーの他の短篇についても、ホームズの前身としてのデュパンというよく知られた事実以上の、ドイルへの影響が見られる。そもそも、語り手である友人と二人暮しのデュパンとは何者だったのか。ポー、スティーヴンスン、ワイルド、ドイルを繋げて考察しなければならないだろう。この中で男の美しさを描いたのはただワイルドとドイルだけだ(時空を隔てて乱歩がいる)。演技者としてのホームズという性格づけについても、ドイルはワイルド作品から学ぶところがあったろうし、一方では、ポーの『群集の人』やボードレールの散文詩「群集」の、「詩人は、思いのままに自分自身であり他者であることができるという、この比類のない特権を享けている」と表現された、変幻自在の芸術家=探偵というアイディアにも親しんでいたであろう。

「彼はまた、しばしば変装をして、町から町へとさまよい歩きました。労働者になってみたり、乞食になってみたり、学生になってみたり、いろいろの変装をした中でも、女装をすることが、最も彼の病癖を喜ばせました」とは、二十世紀が四分の一進んだところで書かれた、西洋の遊歩者の模倣者にして正統な後裔の肖像である。シャーロック・ホームズはワトスンからデュパンを引き合いに出されて喜ばない(という自己言及をドイルはやっている)が、「彼」の場合は、「さまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽」り、そこには「いろいろの探偵小説なども混じっていました」と、ブッキッシュな出自を隠さず、浅草へ出かけて尾行だの暗号文を書いた紙切れだのを使った「遊戯」で「独り楽し」み犯罪者になったつもりで歩き回る。そもそも彼、郷田三郎に数々の犯罪物語を、けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくる」ように語りきかせたのは明智小五郎で、郷田三郎あればこそ、明智は“犯罪”を他人事[ひとごと]として語れるのだし、三郎を切り離し、外在化することで、彼の明晰さは保証されているのだから、これは明らかにジキルとハイドの変形である。

 ハイドの“悪徳”と呼ばれていたものは、探偵小説の勃興によって“犯罪”へと呼び名が変ったが、本家のイギリスでは『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』が発表されたのと時を同じくして同性愛が公式に犯罪化されたのだった。乱歩は本格を目指して変格を書いたと言われる人だが、実は“変格”こそが王道であり“本格”とは誤解に基づく通俗(世に行われる“異性愛もの”の大半が通俗であるように)に過ぎなかった。

 夜な夜なさまざまに変装して歩き回るうち、古着屋に下がっていた女物の袷に惹きつけられて、「芝居の辨天小僧のやうに、かう云ふ姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであらう」と思う谷崎潤一郎の『秘密』の語り手は、「探偵小説や、犯罪小説の讀者を始終喜ばせる「秘密」「疑惑」の氣分に髣髴とした心持で、私は次第に人通りの多い、六區の公園の方へ歩み運んだ。さうして、殺人とか、強盗とか、何か非情な残忍な悪事を働いた人間のやうに、自分を思ひ込むことが出來た」というのだから、乱歩に先んじて現れた、郷田三郎の双子の兄のような(少なくとも一篇の前半では)男である。そして望みどおり女の姿で「常磐座の前へ來た時、突き當りの冩眞屋の玄関の大鏡へ、ぞろぞろ雑沓する群集の中に交つて、立派に女と化け終せた私の姿が映つてゐ」るのを見る。しかしこのあと、「私」はそうやって化けた自分よりも遥かに美しい女に出会って「男」に戻り、「彼女」の謎を追及するが、結局、“夢の女とはついに男の夢に過ぎない”ことが発見されて一篇は閉じられる。

 ポーやボードレールやドイルの独身者たちの上に日本人の手によって重ね書きされた彼らに特徴的な、「女装」とは何であろう。シャーロック・ホームズがこのような若い美女に変装した例はない。しかし、その代りとして、『ボヘミアの醜聞』がありアイリーン・アドラーがいるのだ。the womanとはそれ以外の意味でないことがどうしてわからないのだろう。ホームズが彼女に恋愛感情を持っているわけではないとワトスンがあれだけ言っても、ヘテロセクシストは彼女をホームズの相手に仕立て上げることに熱心だ。要するに彼らには芸術がわからず、小説が読めないということか。


★これらの本の意味については拙稿を参照されたい。http://kaorusz.exblog.jp/21618742/
★★『最後の事件』で本当に何があったかは“tatarskiyの部屋(13)「最後の事件」ノート”http://kaorusz.exblog.jp/19549811/及び小説『晝顔―Beau de jour 』http://kaorusz.exblog.jp/d2013-05-22/に詳しい


彼らの罪、彼らの秘密(下)
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by kaoruSZ | 2013-12-14 04:58 | 批評 | Comments(0)
 the womanとは現実の女(a woman)ではない。「あの界隈の男たちはみんな、あの女に心酔しきってるようだ」「女として、この地球上にあれほどの上玉はいないと、界隈の連中は口をそろえて言っている」と、聞き込みをしてきたホームズの言う女が“地女”であるはずがない。本来雲の上でなければ舞台の上にいるべき、実際俳優兼歌手である彼女は、その演技性、音楽性においてホームズの同類なのだ。彼女の変装の才は、ベイカー街までホームズとワトスンを尾行してくる時、遺憾なく発揮される。

 ホームズはといえば、歌こそ歌わないが代りにヴァイオリン(人間の声に最も近い楽器)を嗜み、しかもその音色は「肘かけ椅子にぐったりもたれて、目をとじ、膝の上に無造作に横たえた楽器をでたらめにかきならす。ときにその和音は豊かに、哀調を帯びて響きわたるし、またときによっては、陽気な協奏曲のようにかるがるととびはねる。それは明らかに彼をとらえる思いを反映しているのだが(…)」とワトスンが言う通り、彼の感情そのものだ。

『ボヘミアの醜聞』の始めでワトスンは、精神の集中を妨げる強い感情はホームズにはおぞましいものでしかなかったと言い、その彼の心を例外的にとらえたthe womanで彼女があったことを強調するが、理性と感情の通俗的なこの二分法は表面的なものでしかあるまい。なぜなら、ヘテロセクシストを容易に納得させるこうした説明にもかかわらず、ホームズは最初から彼らの側にはいないからだ。そもそも彼が感情と理性を分離して、一般のヘテロ男性のように前者を女性に割りつけていたとしたら、感じるように考え、考えるように感じる、彼の能力はけっして発揮されなかったろう。

『四つの署名』の結末のあの残酷なすれ違い。ワトスンの結婚報告を聞いて、心からおめでとうを言うわけにはいかないというホームズに、自分の選択に不満があるのかと検討はずれに鼻白むワトスン。彼女にではなく結婚そのものに不満なのだと答えるホームズ。だがそれを“ワトスンの”結婚に反対なのだと言えないばかりに、恋愛と理性は相反するから、判断力を狂わせないために生涯結婚しないつもりだなどと、自身の話にすり替えてしまう。だから、自分の判断力はその試練にも堪えられると思うとワトスンに言われ、話は終る。ホームズが理性の人だなどというのがとんでもない誤解だということは、『最後の事件』でワトスンは思い知っただろうし、ホームズが帰ってきて、まるでメアリとの結婚生活など初めからなかったかのように診療所兼自宅を手離させられての “二周目”の同居生活ではなおさらだ。

 しかし、『ボヘミアの醜聞』当時、ワトスンはまだそれを知らない。いや、実際には最後の事件後に発表して(悲しみを癒す方法として)いたのだとしても、「当時、私は、ほとんどホームズと会わなくなっていた。結婚したことで、独身のホームズとはなんとなく疎遠になっていたのだ。妻を持って、幸福そのものだったし」と語る“当時の”彼は、「ボヘミアン気質」のホームズの完全な対立物となっていたのだ。

「ボヘミアン」とは何か。『ボヘミアの醜聞』という小説の中でホームズの性質を指すものとして用いられたこの言葉こそ、実は表題の意味を、ボヘミア国王が「一般には身元不詳のいかがわしい女として記憶されている」俳優兼歌手とのツーショット写真を取り戻してくれるようホームズに依頼するため、ベイカー街の陋屋(ハドスン夫人、ごめんなさい!)に二頭立て馬車で乗りつけて、「ホームズがそう言っているあいだにも、高らかな馬の蹄の音、そして車輪が歩道の縁石にこすれる音が響き、それにつづいて、呼び鈴が鋭く鳴りわたった」という“お伽噺”のフレームに隠された真の意味を教えるものだ。さしあたってはフレーム部分が反シンデレラ譚(身分卑しい女が王子と結婚しない)であることと、アイリーン・アドラーが話の途中で結婚して夫がいることを確認しておこう(後者の重要性は、ボヘミアの意味とアドラーと探偵の分身関係についてもそうだが、例によってtatarskiyに教えられた)。

 彼らが鏡像関係にあるなら向うの弁護士(夫)はワトスンだし、男装して(物語的には全く必然性がない)あとをつけてきて家の前で「シャーロック・ホームズさん、今晩は」と声をかけたのに対応するイメージは、その時彼が扮していた温厚な牧師などではなく、アドラーを逆転させたもの、すなわち女になった彼自身だろう。そのイメージは実在する。周知の通り、ホームズがワトスンと王様とともにアドラーの住いを急襲した時、そこはもぬけの殻で、写真の隠し場所にはただ手紙と別の写真一葉が残されていた訳だが、アドラーと探偵が互いの分身ならその女装した写真こそホームズの姿だろう。

 最後に見出されるイメージ――『ジキル博士とハイド氏』のアタスンの場合、それは火かき棒と斧で書斎のドアを破って侵入した際に発見した、姿見であった。友人の姿はなく、醜いハイドの死体と姿見が残されていたのである。ショウォールターによれば「鏡はジキルのスキャンダラスにも男にあるまじきナルシシズムばかりでなく、同性愛を扱った文学において鏡を強迫的な象徴としてきた、仮面と「他者」の意味をも明らかに」する。残された鏡の中に、アタスンは「彼自身の、鏡に映った顏、火かき棒と斧によっても粉砕できない、酷く抑圧された欲望の姿を見る」。

 ジキル博士以外の独身者‐ボヘミアンにとっても、ハイドに代表される醜悪な分身は、彼らが共通して持つもう一つの顔であり、ドリアン・グレイが最後に見出した己も同様であった。しかし、同じようにボヘミアンであるホームズが鏡ならぬキャビネ版の写真に見出したのは、美しい女としての自分自身だったのである。

 それでも男装と女装が対称関係にあるとは思えないという方もおられよう。それはその通りである。「両性具有」が男の“特権”であり“贅沢”であることは、すでに名前を出した谷崎の『秘密』を対象の一つとして、以前論じたことがある(『男といふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島』http://indexofnames.web.fc2.com/etc/himitu1.htm
初出 http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html)。表題は女装者の“男であるといふ秘密”にかけたのだが、アドラーの最後の秘密も実はそれであろう。ワトスンが見た、外套を着た後ろ姿の「華奢な青年」とは、実は女装を解いた「彼」に他ならなかったのだろう。

 アドラーが男であるとすればいろいろなことが納得がゆく。ボヘミアの醜聞とは、ホームズがしばしばそう呼ばれている「ボヘミアン」(規範から外れた自由人;同性愛者)のスキャンダルなのだ。「一般には身元不詳のいかがわしい女として記憶されている」アイリーン・アドラー? では、本当はどういう人物だった? ホームズの唯一の想い人? とんでもない。彼/女は「身元不詳のいかがわしい男」だったのだ! ルートヴィッヒ二世のお祖父さんはアドラーのモデルとも言われるローラ・モンテスの存在を隠す必要などなかったが、ロールス・モンテスなら話は別だ。界隈の男たちが彼女にメロメロだったのも無理はない。彼女はreal womanではなく、彼らの夢そのものだったのだから。米国生まれなのは『ドイル傑作集』にある「時計だらけの男」のヒロイン(?)と合わせてあるのだろうか。

 毎日アドラーの家に通ってくる弁護士についてホームズは、「はたしてふたりはどういう関係なのか。彼がたびたび訪ねてくる目的はなんなのか。彼女はノートンの依頼人か、ただの友人なのか、それとも恋人なのか」としつこく問うが、普通そこまでしげしげ通っているなら、もっとすんなり恋人と考えるのが自然ではないか。実はこれは、やがて世間からホームズとワトスンとがどういう目で見られることになるかを示す言葉に他なるまい。

 ボヘミアンとはそもそも(と言ったのではアナクロニックになるが)、ベンヤミンがポーとボードレールを論じながら都市の遊歩者の別名として挙げた言葉であった。マルクスを介してそれは「職業的陰謀家」になる。ポーの語り手は群衆の中に見つけたいかがわしい人物を尾行するが、ボードレールに言わせれば、「群衆に沐浴するというのは、誰にでもできる業ではな」く、それが可能とされるのはまだ揺り籠の中にいた頃に妖精から「仮装や仮面への好みや、己が棲処への憎悪や、旅への情熱を吹き込まれた者のみだ」。

 定住する良き市民としてのアイデンティティを確立した者とは相反する、このような存在こそが、ボードレールにとっての詩人であった。「詩人は、思いのままに自分自身であり他者であることができるという、この比類のない特権を享けている。(…)孤独にして思索を好む散歩者は、この普遍的な融合から一種独特な陶酔を引き出す」(ジキル博士はこのような柔軟さを持たず、硬直した表向きの仮面を外すことは破滅しか意味しなかった)。アドラーやホームズがこのような他者になりうる演技者であるとすれば、結婚したワトスンはそれまでのモラトリアム状態から彼らの反対物へと移行したのであり、それでもなおホームズはワトスンを繰り返し「冒険」へと誘惑しつづけていたのである。

彼らの罪、彼らの秘密(上)
彼らの罪、彼らの秘密(中)
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by kaoruSZ | 2013-12-14 04:57 | 批評 | Comments(0)
『空家の冒険』でワトスンにぶつかられた古本屋の老人(実ハ変装したホームズ)が落した本の中に、ワトスンは『樹木崇拝の起源』という題を認める。そしてワトスンの書斎で老人が本棚の隙間を埋めるよう勧める際に名のみ出てくるのは『カトゥルス詩集』(カタラスとも。原文ではたんにCatullus)である。創元推理文庫版の後者に対する注(前者にはない)には「ガイウス・ヴァレリウス・カトゥルス(紀元前八四?―五四?)はローマの著名な抒情詩人」とあるのみだ。これでは何もわからない。

 一方、オックスフォード版の邦訳を河出書房新社から出したホームズ全集には、『樹木崇拝の起源』の方にかなり詳しい注が付いている。うち、「注14」はこの本を、『ガイウス・ヴァレリウス・カトゥルス作の「アテュス」英訳詩――アテュス伝説及び樹木崇拝の起源、並びにガリアンブス格韻律に関する論文付き』前オックスフォード大学マートン・カレッジ給費生グラント・アレン文学士著(一八九二年、デイヴィッド・ナット社刊)と同定し、“この本の論文(本全体の大半を占める)では、「全ての神々の起源は霊であり、神聖な樹木や木の神は、聖なる祖先の古墳や塚に生えていることで、その尊厳を得た」としている”と至れり尽せりの記述をしている(実はこのオックスフォード版注釈、どうでもいいことを長々と書くのが特徴の一つなのだ)。

 注14はここまででまだ全体の半分も行かず、あとは著者のフルネーム、生没年、生地、代表作、ドイルとの関りが記されている。アレンはストランド誌に小説を連載中に逝去、遺作をドイルが補筆完成させたというが、ここまでの間に、二冊の本に関しては、表題以外に有益な情報は全く出てこない。

 もう一冊の本、ワトスンが勧められる「カタラス詩集」 については、注17にこうある。“ 「カタラス詩集」 : 「樹木崇拝の起源」に関する注14参照のこと。”
 どう参照できるのか? 注14に「カタラス」なぞ出てこない。カトゥルスの英語読みだと気づかなければ参照しようがないのだ。

 それは翻訳者の問題だとしても、「カタラス詩集」に注せずに「樹木崇拝の起源」へ送り返してしまうとは。他ならぬ「訳者あとがき」にさえ載っている、「知る人ぞ知る、露骨な性愛の技巧をうたった詩集である」ことすら記さない。そしてカトゥルス(カタラス)が女への愛のみならず、少年愛をも歌ったことはどこにも記されていない。

 ところでさっきの、長い題名及び著者の長い肩書を持つ「樹木崇拝の起源」であるが、英語のキーワードを見つくろってGoogleにほうり込むだけで判ったことがある。1892年刊行のこの本は、ナット社がいまだに扱っており(アマゾンでヒットする)、しかもウェブ上で全文が読めるのだ。

 たとえ全文は読まなくとも目次と構成を見ただけで、また長ったらしい表題自体から判るように、この本は最初に「アテュス」(アッティス)全文の英訳を載せている。オクスフォード版の注釈者は、樹木崇拝の起源についての論文が「本全体の大半を占める」(そりゃ分量的にはそうだ)ともっともらしく主張することで、この詩を検閲したのである。

 ドイルが『樹木崇拝の起源』と『カトゥルス詩集』の二つの書名を『空家の冒険』に書き入れたのは、読者が、二つに切られた宝の隠し場所の地図を再び合わせるように、かの二冊を合わせて答を出せるようにである。それは、『樹木崇拝の起源』に引用、訳出された、「カトゥルス」の詩を参照せよという指示でしかありえない。しかし、オックスフォード版の注釈者は『樹木崇拝の起源』から、わざわざ関係のないところを抜き出した。読むべき部分はそこではない。注釈が無視した部分、カトゥルスの詩「アッティス」だ。

 ところで、T・S・エリオットの『荒地』をご存じの方なら、アッティスの名だけで気づかれたであろう。エリオットは『荒地』自註に、ウェストンの著作と並べてW・フレイザーの『金枝篇』、特にアドニス、アッティス、オシリスを扱った第二巻に、自分の長篇詩が多くを負うと明記している。要するに死んで甦る、冬に枯死して春に再生する植物神の話に――というだけならたんなる知識だが、カトゥルスの詩を知れば情景は一変する。

 アッティスは女神キュベレーの息子で愛人だったが、女と結婚しようとしたため、嫉妬した女神によって正気を失わされ、恍惚のうちに自ら去勢し、身体を八つ裂きにするという、血みどろの話である。さらに、キュベレー自身、もとは両性具有だったのが男根を切り取られ、そこから生えたアーモンドの木に生った実を懐に入れた女が身籠って、生まれたのがアッティスなのだから、キュベレーは母というよりむしろ父、あるいは父の身体の一部から彼が生ったようなものであり、またキュベレーはゼウスの子だが、アフロディーテーの場合に似て精液だけから生じており、二代続けて単性生殖と言ってよさそうなのだ。

 ホームズもののサブテクストとしての同性愛という点から見て重要なのは、言うまでもなく、アッティスの物語の中に見られる、性的アンビギュイティやサド-マゾヒズムである。さらに特に注目されるのは、これが、「結婚しようとした男が罰せられる話である」ことだ。

 キュベレーはライオンの引く車に乗っており、カトゥルスの詩では、「すべての場所に低いうなり声を響かせなさい。太い首にある黄金のたてがみを猛々しく揺らすのです」と言って女神が解き放ったライオンは、「白く輝く海岸の水辺にたどり着くと、いたいけなアッティスが海面の近くにいるのを目にし、攻撃をしかける」(中山恒夫訳)

 これに似た話をホームズものの読者はご存じだろう。「シャーロック・ホームズの事件簿」の一篇、ホームズが語り手となっている点で異色の短篇『ライオンのたてがみ』(ちなみにエリオットに酷評された)だ。鞭で打たれたような痕を全身につけて水際に倒れていた若い教師マクファースンは、「ライオンのたてがみ」というダイイング・メッセージを残して死ぬ。彼もアッティス同様、結婚しようとしていた。やがて見出される、水中の“アブジェクト”の描写はつぎのようなものである。

「……もつれた毛のかたまりのような異様なものだった。水中約三フィートばかりの岩棚に横たわって、奇妙にゆらゆら揺れたり、ふるえたりしている、黄色い房に銀色の筋のまじった毛むくじゃらなもの。それは息づいていた。ゆっくりと、重々しく、ふくらんだり、縮んだり、脈動をくりかえしている」

 ホームズと校長のストックハーストは、この怪物を退治すべく、岩棚の上の丸石を二人がかりで押して海中に落す。「波紋が静まってみると、石はまちがいなく岩棚にのっていて、そのふちから、黄色い膜状のものがひらひらのぞいている。どうやら敵が石の下敷になっていることは確かなようだ。やがて石の下から、なにかどろっとした油じみたアオミドロのようなものがしみだし、周囲の水を濁らせながら、ゆっくりと水面に浮いてきた」という気持ち悪さには、地元の警部ならずとも「いったいこりゃなんですか、ホームズさん?(…)こいつはサセックス根生[ねお]いのものじゃないですな」と、いや、むしろこの世のものではないと言いたくなろうが、ホームズは書斎に彼らを連れ帰ると、前日確認しておいた本を開き、まるで“電子計算機”を駆使しつつ謎の加害者を「ラドン」と同定した博士のように、「恐るべき毒針を持つ」クラゲ、キュアネア・カピラータこそ、被害者の膚に焼けた針金か鞭の痕のような、無惨なしるしをつけた犯人だと断定する。

 エリオットが「単に博物学の蘊蓄を傾けただけであって、とうてい探偵の仕事とは言えない」と書いたゆえんだが、しかしエリオットも通俗小説と舐めてかからず、ドイルの仕事に対してその達成に釣り合うだけの十分な注意と敬意を払った批評の仕事をするつもりなら、探偵の言葉を鵜呑みにせずに、ちゃんとこの生物を直視すべきであった。そしてその正体は本の中に求めるべきであったが、エリオットはその本が何かを知らなかったのである。『空家の冒険』に出てきた本、しかも彼にとってきわめて馴染み深い本でありながら。

 女と結婚しようとしていた男を襲った“ライオンのたてがみ”は、「たてがみ」であるからには、切断された頭部である。毛むくじゃらで、息づき、ふるえ、膨らみ、縮み、脈動する。これはメドゥサの首だが、メドゥサの首自体がそもそも去勢象徴なのである。メドゥサの首を見たものは“石になる”。フロイトによれば石のように固くなるとは勃起を意味し、去勢の脅威をまのあたりにしながらも、男の子にとっては自分が男根を失っていないという慰めでもあり、母の性器を覆う毛は同時に男根の不在を隠すヴェールでもある。蛇となったメドゥサの髪はそれ自体が複数化された男根であり、去勢の表現でありながら去勢の否定でもある等々と説明される。要するにそれは去勢(斬首)の脅威が現実に形を取ったものとして、泳ぎに来た男を襲ったのだ。

“ライオンのたてがみ”は本質的に女の怪物であり、 たてがみとはメドゥサの髪である蛇、去勢に対抗して多数化し、鎌首をもたげる男根に他ならない。“ライオンのたてがみ”とは、こうした葛藤の表現であり、現実には存在しえないものだ。間違っても「博物学」の下に分類される生物などではない。

 死んだマクファースンを愛していた別の男性教師の嫉妬がここには働いており、それは語り手であるホームズの、不在のワトスンへの感情を代行するものであるが、ここではそれに深入りはすまい。ただ、『空家の冒険』に先立って、ホームズ復活以前にドイルの書いた『バスカヴィル家の犬』もまた、女と結婚しようとした男の受難の話であり、「魔犬」とは“ライオンのたてがみ”と同種の怪物であることを指摘しておこう。言うまでもなく『バスカヴィル家の犬』では結婚は阻止され、ハッピーエンド(男同士の)に終る。

 二つの話の中で「犬」が果たす役割も見逃せない。『ライオンのたてがみ』の死んだ教師は小犬を飼っていたが、『バスカヴィル家の犬』のモーティマー医師もスパニエル(「テリヤより大きくてマスティフよりは小さい」)を連れている。「犬」の一語が表題に含まれている小説でのっけから犬を連れて現われる男。途中でいなくなってしまい、後に沼地の中の島で褐色の毛が付いた頭蓋骨が見つかる巻毛のスパニエルと、かのバスカヴィルの魔犬には何か関係があるのだろうか。結論から言えば両者は同じものなのだが、これについては稿を改めるしかあるまい。

 思えばホームズは学生時代の唯一の友人ヴィクタァ・トリヴァと、彼のブルテリヤにくるぶしに噛みつかれたことで親しくなったのだった。「散文的な友だちになりかたさ。だが効果的ではあった」(『グロリア・スコット号』)「おかげで僕は十日ばかり病床にはいたけれど、そのあいだトリヴァはよく見まいに来てくれた」

 実はこれは『バスカヴィル家の犬』で犬に喉を噛まれた(牙は通っていない)サー・ヘンリーが、モーティマー医師に面倒を見られる挿話のささやかなヴァリエーションである。ホームズは「その学期の終らないうちに」彼と「親しい友人関係に入」り、モーティマーはサー・ヘンリーのずたずたにされた神経と傷ついた心を癒やすため、ともに「世界漫遊の旅」(!)に出る。逆に言えばホームズが小犬に足を噛まれる話をうんとふくらませたものが『バスカヴィル家の犬』なのであり、ヴィクタァとホームズの関係もそこから逆に推測できようというものだ。

 バスカヴィルの魔犬の出典は「直接的な執筆のきっかけだった伝説のそれ以上に、ドラキュラ伯爵が変身した狼であろう」とtatarskiyさんが書いている(連続ツイートの一部を最後に載せておく)。ブラム・ストーカーには、公刊された、異性愛的でホモソーシャルな、女に対して懲罰的な『ドラキュラ』本篇からは外され、短篇として死後出版された『ドラキュラの客』があるが、そこでは狼の牙がかろうじてそれた状態で語り手が助け出されるという、サー・ヘンリーの場合と酷似した状況で、しかもドラキュラが恐怖と魅惑をともに体現する「父」であること、男性が異性愛体制から逸脱し、「父に対する女性的態度」(フロイト)を受け入れる時に可能になる快楽のありかを指し示しているという含意が見間違いようもない。喉に傷がない(と言われる)サー・ヘンリーの純潔は一見守られたかに見えるが、結局のところは御同類になってしまったのだろう。

 tatarskiyさんから電話があってあれらの犬たちについて話した時、『ライオンのたてがみ』の数学教師マードックが、死んだマクファースンの小犬をいじめたのは、『グロリア・スコット号』を読んで犬に噛みつかれれば男と仲良くなれると思って噛みついてもらおうとしたんじゃないの?と私が言ったのは冗談だが、なんで犬に乱暴を働いたのかは読み直してもやはり書かれていない。しかし、strangeと繰返し形容されているマードックが「ベラミー嬢にマクファースンが心を寄せるのを、快く思っていなかったと思われるふしもある」とは、ベラミー嬢を好きだったからではなくて、彼自身がマクファースンに心を寄せていたからであることは明白だ。つまり、今の一節で、ホームズの語りは確かに真実をついていたのだが、本当のことが判明しても読者には教えてくれないし、自分はベラミー嬢を愛していたが「友人のマクファースンを彼女が選んだと知ったときから」「自分は身をひいて、ふたりの仲介役に甘んじることにした」というマードックの告白は言うまでもなく最初の部分が嘘なのだ。人里離れた地の、うち二人は男子校の教師であるこの三人の独身者たち。校長のスタックハーストがマードックに対する疑いを詫びて「『どうかこれまでのことは水に流してくれたまえ、マードック』ふたりは仲よく腕を組んで出ていった」とはどうみてもカップル成立であり、成程tatarskiyさんの言うとおり、これはホームズが男を取られる話に違いない(通ってくる本命(ワトスン)がいるホームズの浮気の相手なのを承知の上で、スタックハーストはつきあっていたのだろう)。

 警部がホームズを大いに賞賛し、彼は謙遜気味に応えるが、これはもう探偵小説としての体裁をととのえるためのものに過ぎない。とはいえ、ここでのホームズの言葉が、水ぎわの境界領域をめぐってのものであることは興味深い。沼沢地方にせよ、かの滝にせよ、死は水辺あるいは水中で起こるのだから。

「祖国からも財産からも友からも親からも離れて行くのですか」と問うたアッティスは、キュベレーのライオンに追われて森の中へ逃げ込み、「そこで終生変わることなく女奴隷として過ごした」とカトゥルスは歌う。『空家の冒険』に戻るなら、ここには、ホームズに帰ってこられて、家も診療所も取り上げられ、ベイカー街で再び同居することになったワトスンの運命とのいくばくかの類似がうかがえよう(むろん、ここまでハードでないにしても)。一度はワトスンに結婚されてしまったホームズが、彼が再び独身となったのを知って戻ってきた時、本当に起ったこととは何か。今それについて述べる余裕はないが、遡って『最後の事件』で本当は何があったかを推理したtatarskiyさんの「『最後の事件』ノート」http://kaorusz.exblog.jp/19549811/で、さしあたっては渇を癒していただきたい。それでは足りないという方は、拙作『晝顔』http://kaorusz.exblog.jp/m2013-05-01/で、『空家の冒険』に至るまでの話をお読みになることをお薦めする。

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 tatarskiy@tatarskiy1                           1月11日

『具体的に言うとバスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は、ホームズとワトスンが実際に遭遇した他の事件=最初の長編2つやそれまでに書かれた短編の細部、作中世界ではワトスンが、現実世界ではドイルが参照した実在の事件の資料、そしてワトスン=ドイルが影響を受けた他の作家の作品という、由来の異なる三種の外部テクストの“引用”によって成り立っている。

これはメタレベルで言えば他のエピソードもすべてそうなのだが、他のエピソードが作品世界の時系列中に実際に起きた出来事に根拠を持つのに対し、この二つの長編はワトスンがある同じ目的のために書いた完全なフィクションなのだ。

これも具体的に言うと、実在した事件(または伝説)の資料とは、「犬」ではその巻頭の献辞にもある西部イングランドの伝説、「谷」ではアメリカで実際に起きたアイルランド系秘密結社をピンカートン探偵社の探偵が潰滅させたという事件の記録であり、誰にでもわかる外形的なモデルを形成している。

そして他の作家の作品とは、この場合は「犬」におけるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を指す。あの魔の犬のイメージの出典は、直接的な執筆のきっかけだった伝説のそれ以上に、ドラキュラ伯爵が変身した狼であろうし、作品のテーマと結末そのものが、ホモソーシャリティと異性愛の勝利に終わった『ドラキュラ』のそれを逆転させた、男の結婚の阻止と同性への愛の成就というパロディ的な意味を持ってもいるのだ。

普通にシリーズを通読した場合でも、「犬」が他の三つの長編と著しく異なる特徴として、事件の推理部分である第一部とその発端となった過去の回想である第二部という形式を取らないことが挙げられようが、実はそれを帰結しているのは、そのプロットにおける異性愛のロマンスの実質的な欠如である。



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昨年末から今年1月11日までのツイートに最小限加筆訂正した。
ドイルのテクストは延原謙、深町眞理子訳を使った。
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by kaoruSZ | 2013-12-11 08:29 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(23)

下の文章は、和紙子さん(@amezaikuさん)の“腐女子自重ルール”反対の投稿企画
http://nozityo.blog.fc2.com/ への鈴木薫(@kaoruSZ)と私との支持表明、及び私からの補足として、 11月12日http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131112~13日http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131113にかけてツイッターに投稿したものであるが、ツイートにはしていない書き下ろしの追記をつけておいた。私はこの企画の参加者ではないが、コンセプトそのものは当然支持している。和紙子さんへの中傷のツイートや悪意あるデマに惑わされた人にも、企画ブログにある彼女の説明を読んで判断してもらいたい。また、この後に湧いてきた中傷者たちとのやりとりや批判についても後半にまとめてある。


********************

鈴木薫@kaoruSZ 11月12日
@amezaikuさんの、女性の手になる作品への不当な自粛要求に反対する闘いを断固支持するが、涌いてくる有象無象が目に余る。参考に拙ブログ「ロワジール館別館」内の、tatarskiyさんの過去のまとめを紹介しておく。http://kaorusz.exblog.jp/18345193

http://kaorusz.exblog.jp/19518802 ←こっちは、腐女子に「ホモ」は差別語だとか味方のふりして説教する奴に見せるといいよ。“tatarskiy”のタグ作ったから彼女の他の文章もどうぞ。理論的な基本は既にtatarskiyによって書き尽くされている。

有象無象は@amezaikuさんに酷い攻撃をする奴だけでなく、一見味方づらする奴の中にもいる。“男の自然で当然なヘテロセクシュアリティ”の覇権性に目をつぶり、「性的に消費」する点でお互い様とか寝言ぬかして媚びる奴は、ヘテロ男性には逆らえないから腐女子に八つ当りするゲイの男並みの臆病者だ。

「性的に消費」とは“男の自然で当然なヘテロセクシュアリティ”の対象である女のモノ扱いであり、しかもそれこそが女の栄光とされる。それ以外の部分は男にとって不必要、男同士の話を好むというのはまさしくこれに当る。お互い様とか言っている連中は男にこのような立場がありうると思っているのか。

ホモエロティックなものは、伝記的にはゲイとされていない男性作家の作品中にもしばしば存在する。「同性愛ではない、友情だ」と言い張るのは“女にされる”ことを死ぬ程恐れ、ホモ/ヘテロ の分割線を絶対的に必要とする“男の都合”であり、そのような禁止とは無縁の場所にいる女は容易にそれを見出し享受する。

tatarskiy@black_tatarskiy 11月12日
今更ですが、@amezaikuさんの投稿企画を応援しています。またぞろ沸いてきた馬鹿を相手に奮闘されているようだが、この手の馬鹿が難癖をつけてくるポイントについては以前に私がほぼ書き尽くしているのでまとめ記事を貼っておく。

「性的な表現は本質的に暴力なんだから女も反省しましょう」みたいな物言いに関しては→http://kaorusz.exblog.jp/18345193
「ゲイはいいけどホモは差別なんだから腐女子も気をつけなきゃ」というのには→http://kaorusz.exblog.jp/19518802
そして「女の男ファンタジーだって男の女ファンタジーと同じようなものなんだからお互い様だ。女だけが被害者面するな」というのには→http://kaorusz.exblog.jp/20773717

それから上に挙げた記事ではカバーしきれない部分への補足だが、賛同者面した連中も盛んに連呼していた「男と同じように性的に消費する」という実のところリアリティゼロの紋切り型と、それに輪をかけた「腐女子が同性愛者を性的に消費」云々というミソジニーに基づいた完全なヘイトスピーチについて。

正直今回の件で一番気になったのは腐女子叩きへのアリバイとして「レズビアンの腐女子もいる」みたいな物言いが出てくること。BLを「ヘテロ男のそれの女版としてのヘテロ女の横暴」と言い立てる連中への反論のつもりだろうが、完全に相手の術中に嵌っている。

こういうことを言う奴は、「性表現は搾取で暴力なんだからお前も加害者だ」と女を脅して萎縮させたいだけで、そのために“腐女子”をヘテロ男の女版に仕立て上げたいというだけ。つまりは最初から男女の非対称の隠蔽が目的。同性愛者か異性愛者かではなく、男か女かの問題であることを誤魔化している。

つまり、向こうが女から抗議の正当性を取り上げるために勝手にでっち上げたに過ぎない分断線に乗っかって「腐女子にもセクマイの人だっています」と言い出すのは非常に筋が悪い。ゲイだろうとヘテロだろうと男は権力者なのであり、女にはそんな力は無いという絶対的な事実を誤魔化させてはならない。

またそれはレズビアンだろうとバイセクシュアルであろうと全ての女性が“女”として差別されることから逃れられないことを隠蔽し、在りもしない“名誉男性”をでっち上げることでしかない。大体それは彼女たちを「ゲイ男性の女版」と見なすことでしかないし、それ自体が男を基準にした男尊女卑であろう。

言い足りないので補足。そもそも馬鹿がBLや腐女子について「男が女にしてたことを女が男にするのか」って言うのって、論理としてはそこで「ただしレズビアンなら別」になるのがおかしいんだよね。レズビアンも「女」なんだから「BL好きな女は皆加害者」じゃなきゃ一貫性が無いよ。

そこで「レズビアンなら別」になるのは決してレズビアンのためではない卑怯な男の都合でしかないんだけど、こうして見れば「叩いていい女」と「叩かれない女=名誉男性」を分断する線引きを「誰がしているのか?」すなわち「誰が権力者なのか?」は非常にわかりやすいと思う。結局男様が偉いんだよ。

そしてこんな線引き=分断を女が男に対してする力があると思う?考えただけでもナンセンスなのがわかるでしょ。そうやって男様から祭り上げられた名誉男性ポジションを真に受けて 「あんな“ただの女”と自分は違う」と思い上がっているような女には、セクマイだろうとなんだろうと軽蔑しか感じないよ。

今回の馬鹿どもの発言全般、渦中の人が@amezaikuさんなのも含めて妙に既視感があったんだけど、去年のこの時だったのを思い出した→http://twilog.org/tatarskiy1/date-120417こちらのログから見られますのでよろしければどうぞ。馬鹿の呆れるほどのオリジナリティの欠如がわかると思う。


【追記】上の文章を読み返したら、自分の本音からすればいささか優等生に過ぎる内容だったので追記。実を言えば上の文章を書いた動機は、TL上で見かける自称レズビアンやバイセクシャルの女性たち(自称腐女子の人も、普段は腐女子を見下している名誉ゲイじみた商業小説家もいたが)と、その周辺の発言に非常にイライラしたからだ。上に書いたことだけでも理解できるはずであるが、「腐女子でもレズビアン等のセクマイなら別」 であるかのような前提は、男の側が腐女子を「ヘテロ男の女版である加害者」として規定し、ゲイ男性を「ヘテロ男に搾取される女のような被害者」として偽装するためには、レズビアンを“名誉ゲイ”として“ただの女”から切り離しておく必要があるからである。

繰り返しになるが、 これは男女の絶対的な非対称を無視し、男(ゲイでもヘテロでも)の女性蔑視を正当化するための詐術でしかない。本当に見下されているのは「女のセクシュアリティ」そのものであり、それに気づかないまま、(他の“腐女子”を蔑視する意図が無かったとしても) 「私はレズビアンだから例外だって言い返せる」という前提で発言すること自体、無自覚であれ男による分断統治に相乗りしていることにしかならないだろう。

それから、「私はヘテロと言われてもしょうがないし、セクマイの皆さんみたいに抗議する権利なんて無い」と無自覚に思い込まされている女性たちが多いのであろうことも気になった。そもそも異性愛者/同性愛者という区分自体、それ(だけ)が本当に問題であるのは生まれながらに 「男としての特権」を持つ男性のみであり、女性はあらかじめ「男にとっての女であること」を義務として押し付けられている被抑圧者に過ぎない。つまり、 女性にとってのヘテロセクシュアリティとは特権ではなく「義務」に過ぎない以上、「ヘテロ男の女版としてのヘテロ女」など始めから存在しないのだ。

長くなってしまったが、私が言いたいのは、ヘテロであろうがなかろうが、そんなこととは一切関係なく、貴女には貴女に不当な扱いを強いてくる男に(そいつがゲイだろうがヘテロだろうが)反抗する権利があるということだ。それぞれの場所での皆様の健闘を祈って了としたい。


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上でも挙げた13日のログhttp://twilog.org/black_tatarskiy/date-131113にも残っているように、 この後に何人もの中傷者が沸いてきたのだが、その中でも特にひどかった一人が、私のことを「頭がおかしい。 在日は強制連行されて日本に連れて来られた被害者!だから日本人は一生、在日に償いましょう!って輩に似てる」と罵倒してきた、日頃からミソジニーだけでなく在日朝鮮人や韓国人への蔑視を隠そうともしないらしいレイシストの中傷者だった。更にくだらないことに、私がこの発言を差別発言としての“在日認定” であり、レイシズムだと批判したことに対して、腐女子叩きでつるんでいた周りの連中が、「これはたとえだから本当の在日認定じゃない」「ただのたとえだから人種差別じゃない」と逆に私が言いがかりをつけているだけだと中傷してきたのだが、それに対する私の再批判と、私や和紙子さんへの中傷ぶりを見かねてレイシストに意見してくれたふてねこさん(@futenecoさん)の会話が読めるツイログのページと主なツイートの個別のURLを貼っておく。

(私のツイログ及び個別のツイート)
http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131119
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402528622855995393
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402532227512152064
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402533536529268736
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402534774259990528
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402536241595297792

(ふてねこさんのツイログ及び個別のツイート)
http://twilog.org/futeneco/date-131116
https://twitter.com/futeneco/status/401387255660412929 https://twitter.com/vvfuukavv/status/401386751442182144 https://twitter.com/futeneco/status/401415851154210816 https://twitter.com/futeneco/status/401523479406596096 https://twitter.com/futeneco/status/401526500802846720 https://twitter.com/futeneco/status/401527750982262784 https://twitter.com/futeneco/status/401531307533950977 https://twitter.com/futeneco/status/401531357009956864
また上にある私の11月19日のログには、上のレイシストの仲間の一人で腐女子を装って和紙子さんを叩くためだけにアカウントを作ったらしいミソジニストの百合豚と、ふてねこさんとの会話も残っている。それに対する鈴木さんと和紙子さんのコメントも載せておく。

鈴木薫@kaoruSZ 11月19日
ふてねこさんに絡んでた奴、「腐女子浪人生」じゃあり得ないな。

それから昨日ふてねこさんと絡んでいた@tea_shake、私がtatarskiyの過去の連続twをRTした直後RTして嘲笑、大学教授や知識人向けなら分るが学生や若い社会人にはもっと易しくという権威主義と反教養主義のコンボで「腐女子浪人生」という名乗りは最初から違和感があったが→

→ふてねこさんとのやりとりで大体判った。あれはホモフォビックな男、多分腐女子嫌いの百合豚で、男同士の話が好きな女なんて「腐ってます」と自己卑下してくれなきゃ我慢がならないんだろう。ツイートも最近始めたばかり、和紙子さんを攻撃するために作ったアカウントだね。

和紙子@腐女子であることは罪ではない‏@amezaiku 11月19日
正直言って腐女子ルールに縛られている腐女子がゲイで男であるふてねこさんをあそこまで罵倒するのが考えられない。そういった腐女子は「本物であるゲイor男に偽物の腐女子めが申し訳ありません」となるのが大多数。TL読んでもの凄い違和感。

腐女子から腐女子への批判には「当事者性」が大きく関わっている「当事者ではない自分たちがこんなことしていいのか」と(もちろんそんなもの気にする必要はない)それなのに腐女子でありながら相手が「ゲイ」や「男」であっても腐女子批判を軸に罵倒できる腐女子というのは存在しないと言ってもいい。


【追記2】このミソジニーネカマ男のことは翌1月半ばに再度話題にしているのでその時のログも貼っておく→http://twilog.org/tatarskiy1/date-140116その後いったんは消えていたのだが、和紙子さんの企画の実行にあわせて性懲りもなくまた出現しては見苦しくはしゃいでいたようだ。つくづく醜悪なクズである。その後も和紙子さんへの常軌を逸した嫌がらせは続いており、和紙子さんはその実態をブログで公開している。http://nozityo.blog.fc2.com/blog-entry-7.html このなりすましの正体も、腐女子で浪人受験生のティーフロと名乗っていたネカマであるのは文体から一目瞭然だ。


読んでみれば、絡んできた連中の一分の理も無い醜悪さは一目瞭然だと思う。腐女子叩きでつるめる仲間なら、たとえレイシストであろうと見逃してかまわないどころか批判する方が悪いらしい。ミソジニーで目が眩んでいるとしか思えないが、そもそもまともな人権感覚があれば 「在日」だろうが「腐女子」だろうが、「いくらでも差別していい奴がいる」などと思い上がるわけが無いのだから、これは完全に病理として同根というべきだろう。上でふてねこさんに意見されていたレイシストも、同時に同性愛差別者であった。そのことをツイッター上で公言しながら() “差別ではない”と言えてしまう時点で人としてどうしようもなかろう。つくづく下らない話ではあるが、ネット上で空気のように蔓延しているミソジニーとホモフォビア及びレイシズムの“担い手”が、必然として重なり合っていることの傍証ではあろう。図らずもだが、そうした構造を炙り出した意義はあったと言える。


(註) バタフライ@vvfuukavv 11月14日
>RT 残念だけど同性愛は普通にはなれない。何故なら繁殖できないから。生物として子孫を残せない存在は自然界では異質になるじゃないですか。そういう意味で「普通じゃない」のは当たり前かなって。差別以前の問題で見てる。繁殖機能はあるので繁殖だけ異性と関係を持つとかできるかもしれないが。(https://twitter.com/vvfuukavv/status/400278904977383424
別に萎縮する必要も、同性愛を普通の存在に持って行く必要性も感じないんだけどなぁ。何でこんなに差別差別って叫んでいるのかわからない。皆違って皆良い。(https://twitter.com/vvfuukavv/status/400279916542820353

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by kaoruSZ | 2013-12-03 07:13 | 批評 | Comments(0)