おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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ロマネスク

二つの語からインスパイアされた断章。「診断メーカー」の140字で書く企画(お題は日替り)を利用した。#novel_odai http://shindanmaker.com/244907
(2月24日―3月15日)

探偵は『晴れ』と『病』を使用した140文字小説を書きましょう。

何を気にんでいるのか。白い波頭を見やって探偵は独りごちた。醜聞を退け、彼らの名誉と関係を守るため、友は結婚した。家庭を持ったからには来られないことだってある。それは分っている。しかし…。その時風に乗って探偵の名を呼ぶ友の声が耳に届き、彼は急に晴れ晴れとした顔になって振り向いた、

探偵は『鋭い』と『数』を使用した140文字小説を書きましょう。

「少年の矢問ひよる念者ぶり」そう呟いて探偵は続けた。「ハイカイポエットの句さ。昔バリツを習った日本人に教わったんだ。少年というのは」「エフェべだろう」「流石鋭いね。『行く春やおもたき琵琶の抱き心』これもブソンの作だ。僕にあるのは軽いヴァイオリンだがこれで惜春の心を奏でてみよう」

ワトスンは『耳障り』と『肌』を使用した140文字小説を書きましょう。

僕はヴァイオリンを弾きますがと言われ下手な演奏は耳障りだがそうでなければと答えるとそれなら問題ないと相手はにこにこして何だあの自信はと鼻白んだがいざ楽器が鳴り出すと納得した、音がそこを通って出てくる粘膜の理をそのまま感じさせる人間の声そのものの音色に思わずぞくりとしてワトスンは

メアリは『そんな』と『病』を使用した140文字小説を書きましょう。

快く送り出すのはあの蛇が怖いから。引き止めたらもっと恐しいことが起るでしょう。蛇に呼ばれると人のことも私のことも忘れて夫はついて行く。そんなそんなことあるわけないわ。自分の頭に浮んだ考えに思わずメアリはかぶりを振った。いつかあの蛇に夫は連れて行かれて二度と戻って来ないなんて。

ワトスンは『不機嫌』と『白』を使用した140文字小説を書きましょう。

彼はなぜ不機嫌なのか。デイマリー大佐とトルコ風呂に行ったことなど気づかれるはずがないのに。「奥さんだけが男じゃないんだよ」そう大佐が言うのを断りきれなかったのだ。ばくれて彼の前に足を突き出す。「なんでトルコなの?」「え、この靴英国製だよ」私はとぼけた。「そんなに若い子がいい?」

メアリは『恋』と『もし』を使用した140文字小説を書きましょう。

階下に降りて行くと蛇が食堂にいて温めたミルクを飲んでいた。遅かったんで二人とも居間で寝たよと傍の夫。私は作り笑いを浮べ朝食を作らせますわと言いドアに向ったが、その時夫には見えない真実が天啓のように閃いた。もしあの蛇が夫にしているのだとしたら。振り返って蛇の氷のような眼に出会う。

探偵は『信号』と『病』を使用した140文字小説を書きましょう。

「その娘さんは青年を好きなのに相手の方が自分に惚れて信号を送っていると思い込みその意味を解いていた訳さ」と探偵は言った。「で、恋は成就したのかい」「彼女は今院の中だよ」「可哀相に。その種の妄想は女性に多いと学校では習ったよ」「信号を送られても気づかない鈍い男なら知っているさ」

デイマリーは『スカート』と『視線』を使用した140文字小説を書きましょう。

トルコ風呂に連れて行った一件ではえらく恨まれちまったようで昨日も彼と一緒だったんだが人混みで視線を感じて振り向くと長身で鷲鼻の若くない美人が鋭い目でこっちを見ていてスカートをひるがえして立ち去ったところであっと気がついたんだがほんとワトちゃんも大変だね深情けで焼餅焼きの奥さんで。

デイマリーは『醜い』と『月』を使用した140文字小説を書きましょう。

彼が顔をの方へ向けると私は息を呑んだ。後年彼が、女に硫酸をかけられて醜い顔にされた男爵の話にそれを仕立てた時には作家魂に舌を巻いたものだが。「再婚の話、したんだね?」相手を紹介したのは私、さぞ恨まれていることだろう。「他に道はないんだ」引っかき傷だらけの顔でワトスンは言った。

マイクロフトは『手紙』と『楽しみ』を使用した140文字小説を書きましょう。

秘書が小包を受け取って去った。中身はいつもと同じ、唯一の楽しみだと弟が言う「ストランド」最新号。添えた手紙にはこれも恒例の奴の近況が書かれている。だが今回は特別だ。奥さんがいよいよ危ないらしい。巨体を椅子に沈めマイクロフトは独りごちた。弟は帰ってくる。今度こそ二度と奴を離すまい。

モーティマーは『答え』と『指』を使用した140文字小説を書きましょう。

妻の死後ロンドンで悪徳に耽った結果、非業の死を遂げたある人が私のモデルなんだ。訊かれても名前は答えられないけどね。私の妻はどうしたって? 元がワトスン先生の夢だから不整合は仕方がないよ。サー・ヘンリーと私の船出がし示すのは、水辺で別れた先生とお友達の遂げられなかった夢の成就さ。

ワトスンは『吐息』と『卑屈』を使用した140文字小説を書きましょう。

「なぜそんなに君は彼に対して卑屈になるの?」デイマリーに訊かれて私はほっと吐息をついた。「そんな風に見える?」何と説明したらいいのだろう。私がこうして生きているのはあの山中で彼が私を道連れにせず一人姿を消すことを決めたからで、そこまで彼を追いつめたことの償いを今私はしているのだ。

ヘンリー・バスカヴィルは『机』と『黒』を使用した140文字小説を書きましょう。

これが彼の、そしてこれが彼のい手帳で、中には私の名前と小説の最初のアイディアが、いインクで書き込まれている。彼の頭脳から生まれた私は彼が私を考えることをやめても消滅することがないが、それは私が最初から全く実在せずそれでいて彼がいなくなったあとまでも存在し続けるものだからだ。

貴方はワトホムで『入れ替わり』をお題にして140文字SSを書いてください。

↑こういうのもあったけどワトスンが若いボーイを指名したはずなのに若くない美人に入れ替わっていて実は…というのしか思いつかないから書かない。

ワトスンは『音』と『なびく』を使用した140文字小説を書きましょう。

黒雲は嵐の記号…なるほど。記号学概論なる本を彼に見せたいと私は列車の中でもぺージを繰っていた。探偵術にも通じよう。前回は流れ出るヴァイオリンのが彼が中にいる記号だった。今日は…留守のようだが多分…五分も歩くと海の手前の窪地から、彼がそこにいる記号として紫煙がなびくのが見えた。

貴方はワトホムで『こりないやつ』をお題にして140文字SSを書いてください。

↑こういうのもあったけど、デイマリー大佐と二人乗り馬車でトルコ風呂に行ったワトスンが、ホームズに叩き出されて、失踪したフランシス・カーファックス姫を探してヨーロッパ中を転々としつつ謝罪の電報を送り続け、やっと許されて戻ったがまた懲りずに…という話しか思いつかないので書かない。

ワトスンは『面倒』と『料理』を使用した140文字小説を書きましょう。

今日は山鳩を料理して御馳走するとホームズは言った。「嬉しいねえ。羽を毟るのは僕がやるよ」「奥さんは最近どう?」珍しい事を言う。再婚した病弱な妻が死んだらここへ来て一緒に暮す約束だ。「面倒なら僕が片付けるよ」はっとして顔を見ると「鳩だよ」。長い腕を伸ばして土間から鳥を取り上げた。

マイクロフトは『答え』と『面倒』を使用した140文字小説を書きましょう。

「いくらお前の頼みでも今度はな」と私は言った。「このままでは噂になる。いやなってる。どちらかが結婚するしかない。お前には無理だろう」弟は答えない。「彼が面倒を引受けてくれたんだ」弟の肩に手を回す。「分った。僕は引退してサセックスで彼を待つよ。ところで牝猫にきく毒って無いかしらん」

メアリは『醜い』と『歌』を使用した140文字小説を書きましょう。

彼は美しくヴァイオリンの音色もまた美しい。どう言えば彼が醜いと夫は信じてくれるのだろう。灰色の眼は私に向けられる時冬の陽のように冷たく私は心臓が止りそうになる。「御主人をお借りしますよ」「ちゃんと返して下さいね」冗談を言っているのではない。夫は何も気づかず鼻混りに彼の後に続く。

探偵は『シャツ』と『醜い』を使用した140文字小説を書きましょう。

醜聞を避けるための別居を承知した探偵は勘が鈍っていたのだろう。その午後訪れた友に不意に押し倒されても嬉しい驚きしか感じなかった。真相を知ったのは結婚式の招待状を渡された時だ。彼は相手の顔を掻きむしりシャツは血に塗れた。色魔の男爵に酸をかけ醜い顔に変えるキティ嬢のモデルは彼である。

探偵は『そんな』と『不機嫌』を使用した140文字小説を書きましょう。

新聞を開いてワトスンは笑い転げていた。「この『夫の浮気を目ざとく見つけてしまう妻』からの相談、回答が『そんなシャーロック・ホームズみたいな奥さんでは気の休まる暇もありません。少しは不機嫌を直して…』だって」彼は探偵の顔を見たが不意にその表情は凍りついた。誰が相談者かわかったのだ。

ホームズは『恥ずかしい』と『恋』を使用した140文字小説を書きましょう。

“そんな恥ずかしいものが書けるか(怒)”

メアリは『ペン』と『染まる』を使用した140文字小説を書きましょう。

夫は帰ってきた。でも本当には帰ってきていない。ひどく窶れて昼は昏々と眠り続けそれでも一度ペンを握るとどうしてもこれだけはやらせてくれと私の懇願も聞き入れず空が青と薔薇色の朝焼けに染まるまで死んだ男との冒険を書き続けまた倒れ込んで眠る人は心は今も彼と一緒にアルプスの山中にいるのだ。

探偵は『歌』と『ペン』を使用した140文字小説を書きましょう。

僕が君を誘惑していると信じていた時、心をこめて弾くヴァイオリンの音色の中でうっとりとあの女のことを思っていたなんて許し難い裏切りだったけど、でも漸く分ってくれたんだね、あれがセイレーンのだったと、そして、難破をまぬかれた君は、今、ペンからほとばしる欲望に身をゆだねているのだと。

ワトスンは『恋』と『本』を使用した140文字小説を書きましょう。

僕は恐れていたんだ兄のように孤独に、作家として無名のまま自分も死ぬんじゃないかと。医者の仕事に戻り家族を持つべきではなかろうか。僕は知らなかったんだ、だけがエロスだけが作家にを書かせてくれるのを、そして僕のミューズが既に一つ屋根の下で一緒に暮していたのを僕は知らなかったんだ。

メアリ・モースタンは『花』と『切り替え』を使用した140文字小説を書きましょう。

ハイウェストで切り替えオレンジのを飾ったドレスは自分で縫った。私が投げたブーケを受けた長身のご婦人はどなたかしら。そう言っても誰も知らない。本当にいいお式だったと皆に言われるのが嬉しい。ホームズが帰国したら食事に呼ぼうとジョンが言う。きっと来ないわと言いたいのを我慢して頷いた。

探偵は『太陽』と『白』を使用した140文字小説を書きましょう。

「何だいこの『母の葬儀の直後に女と寝てアラブ人を殺し“太陽のせいだ”と言う男』って」卓上に置かれた紙片を見て探偵は尋ねた。「君の留守中にH・G・ウェルズが来てね。未来からの忘れ物だと言って置いていったんだ」探偵は虫眼鏡を取り出した。「見たこともない紙とインクだ」「外国製?」「いや、世界中探してもあるとは思えないね」「『この小説はいライティングで書かれている』って何だろう。何かの暗号かな」「いや、違うだろう。ウェルズは例の実験、続けてるの?」「もう諦めたと言ってたよ。でも未来を垣間見たとか」「多分そうなんだよ」「いライティングって何だろうねえ」

デイマリーは『なびく』と『病』を使用した140文字小説を書きましょう。

こんな話をするのは君が初めてだとワトスンはいつになく雄弁だった。彼がついになびくまで探偵が待たなければならなかった年月にも、帰還以後の束縛ぶりが的なのにも驚いたが、もっと驚いたのはそれを小説に書かないのかねと言った時に返ってきたもう書いているんだが分らないかねという答であった。

ホームズは『名前』と『サイン』を使用した140文字小説を書きましょう。

彼の小説を読むことで私は作家が登場人物の名前に如何に腐心するかを知った。ホームズものには彼の両親の名前も私の両親の名前も出てくるし作中で名を変えられている人の元の名前や彼のミドルネームも読者にサインを送っている。私の探偵術とtatarskiy氏の論考を参考にぜひ見つけてくれ給え。

マイクロフトは『楽しみ』と『ネクタイ』を使用した140文字小説を書きましょう。

彼は一時、役所とベルメル街の下宿の間の店で、若い店員にネクタイを選んでもらうのを楽しみにしていた。無論彼には店員の出自、生活、可愛らしい恋人がいることなど全て分っていた。青年が店を辞めて彼の生活は元に戻り、父の轍を踏まぬため自分の外見を益々人目を引かないものにするよう気を配った。

メアリは『鋭い』と『机』を使用した140文字小説を書きましょう。

夫のを見たメアリは全てを悟った。何が変ったという訳でもないが、書置きもなしに出たとは言い訳のしようがないということだ。メアリの鋭い直感も役には立たなかった。彼女一人に分っても、信じてもらえねば何の役に立とう。そして漸く夫にも分った今、彼は行ってしまったのだ。あの蛇に連れられて!

ワトスンは『醜い』と『退屈』を使用した140文字小説を書きましょう。

君の小説は醜い人間関係と退屈なロマンスから成る。そう言われて笑顔を保てる作家はいまい。僕は君の物語を書く義理などないんだ、君の冒険につきあうのもこれで終りだしね。この推理機械に恋など分るまいと思ったがそれが間違いの始まりだった。彼は私達の関係とロマンスをこそ書けと言っていたのだ。

メアリは『面倒』と『月』を使用した140文字小説を書きましょう。

昼の空に紛れていた白いが今は銀の鏡となって地上を照らす。水を浴びせられたように背筋がぞっとする。蛇の眼に逢ってしまったように。夫が手紙の返事をしないのが面倒な事にならなければいいけれど。が見えない時でも空にあるように、あの蛇は私たちが眠っている時もあの鋭い眼で此方を見ている。

探偵は『弁当』と『黒』を使用した140文字小説を書きましょう。

“海苔弁なんて知るか!”

ワトスンは『答え』と『切り替え』を使用した140文字小説を書きましょう。

冷静に考えて答えを出した訳ではない。気持の切り替えがすっぱり出来た訳でもないんだ。どう考えても妻に無断で彼と旅に出る方がどうかしている。出発する時は先にあるものなど予想もつかなかった。僕は知らなかったんだ、すでに滝に飛び込んだかのように、僕達がとうに激流に押し流されていたなんて。

メアリは『心』と『先生』を使用した140文字小説を書きましょう。

先生」は本当はHが好きだったのね(これからは空々しい頭文字で書くことにするわ)。私のところへ来たのは同性のところへ行く前段階だったわけ? Hと「先生」がメアリお嬢さんを争っていたって書いたとんだホモフォビック批評家もいたわね。結局蛇の本に気づいていたのは私だけ。恋は罪悪よ。

探偵は『シャツ』と『面倒』を使用した140文字小説を書きましょう。

“僕がシャツを替えるのを面倒くさがってると言うのかっ!”

マイクロフトは『指』と『月』を使用した140文字小説を書きましょう。

愚か者はを差したを見てを見ずと言うが弟や私は皆がの方へ顔を向けている時にあえてを探す。というかそのが見えてしまう。これは恐しいことだ。を見せて他を見せまいとしている者が私達に気づけば恐しいことになる。などとありもしないものをてっち上げ人を煽動しているとも謗られる。

ワトスンは『机』と『空』を使用した140文字小説を書きましょう。

家の冒険』は完全な作り事で、モランのアデア殺しを素材に私のの上でペンの先から出てきたお伽話だ。明るい部屋の窓にくっきりと浮んだホームズの影は読者にとっても囮であり、本当の冒険は濃密な闇に沈んだ私達の部屋での暗い再会、人には語れず文章にするわけにはいかない歪んだ時間にあった。
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by kaoruSZ | 2014-03-15 05:45 | 批評 | Comments(0)
(上)より続く

まず押さえておくべきなのは、これも一般的なイメージとは裏腹に、ワトスンが医者を本業としていたのは、実はホームズと出会う以前の大学卒業から軍医時代までのごく若い時期と、メアリと結婚し開業医となってからの数年間に過ぎないことだ。
 
話が広がり過ぎるので、先述したようにここでは使う情報を基本的に「最後の事件」以前の前半のエピソードのものに限定しておく。本題に戻ろう。『四つの署名』冒頭の会話はワトスンがそれまでも度々目にしては苦々しく思っていたらしいホームズのコカイン依存の習慣に苦言を呈することから始まっている。ホームズはそれを軽く受け流し、話題は前作の事件のことに移るが、ホームズはワトスンの書いた小説『緋色の研究』のロマンスの要素が余計だとけなし、ワトスンは再びむっとする。ホームズは更にワトスンがその朝郵便局へ電報を打ちに行ってきたことを言い当てて自分の推理の確かさを示すが、ワトスンは今度は彼が最近手に入れたという古い高価な懐中時計をホームズに手渡し、その時計の元の持ち主がどんな人物だったか当ててみろと彼を試す。ホームズは、その時計はワトスンの兄が父から受け継いだものであるが、その兄は身を持ち崩して親譲りの財産の多くを失い、酒浸りになって亡くなったのだと言い当ててみせるが、ワトスンは自分にとってショックだった事実を言い当てられて怒り出してしまい、ホームズは彼にしては珍しく自分の態度が無神経だったことを詫びる。

そうこうするうちにメアリが依頼にやって来たことでこの会話は中断され、そして依頼内容を話し終えたメアリが退場すると、再び二人の会話となるが、この時にはワトスンはすっかりメアリに夢中になっており、ホームズはそれに対してあからさまに水を注す。ホームズが調査に出かけ、一人きりになったワトスンは、たった今別れたばかりのメアリに思いを馳せるうち「危険な考えまで頭に湧いてきた」ため「最近の病理学論文」にかじりつきつつ、「私としたことが、金もなく、脚のわるい一介の退職軍医の身で、そんなことを考えるなんて、何という身のほど知らずだろう!」と嘆き、自身の将来に「鬼火にも似た架空の光明なぞ求めるべきではない」と希望の持てない見通しに落ち込んでみせるが、これ以降の彼の頭にはメアリのことしかなく、彼女が父から受け継いだ莫大な財宝の所有権を持つことを知ると、そのために彼女が自分の手の届かない相手になってしまうであろうことで落ち込み、そして結末でその財宝が失われたことを知ると喜び勇んで彼女に求婚し、受け入れられると有頂天になっている。

ワトスンはそれをホームズに報告した際に「君のお手並みを拝見するのもこれが最後だと思う。モースタン嬢は僕の妻になる承諾をあたえてくれたからね」と言い、聞かされたホームズは「悲しげにうめいて」「そんなことになりゃしないかと思っていた。だが僕はおめでとうとはいわないよ」と答え、そしてワトスンが自分は妻を、ジョーンズ警部は名声を得たが、君はいったい何を得るのだと問うと、ホームズは僕にはコカインがあるさと答え、彼が再びその「ほっそりした白い手」をコカインの瓶にのばす場面で物語は終わる。

ここまでに提示した場面とその要素を検証してみよう。まず、最初と最後に登場するコカインは、明らかに事件という接点を与えられない時のホームズの、社会からの疎外とそれ故の無気力の象徴であり、ワトスンにとっては自らには理解しえないホームズの不可解な側面そのものである。それは、最終的にワトスンとメアリが得た誰からも祝福される“当たり前の幸福”に対立する性質を持つものだ。そして誰の目にも明らかなことだが、メアリに心を奪われてからのワトスンは、冒頭ではあれほど気にかけていたホームズの自分への態度や彼の内面に対して驚くほど無関心になっている。要はワトスンはメアリに恋し彼女との結婚を夢見ることによって、それまで思い悩んでいた彼自身の問題と彼とホームズとの関係性の問題から逃避し、最終的にメアリから受け入れられることによってそれを完全に正当化したのだ。

そしてこの『四つの署名』の全体に及ぶあからさまなメアリとのロマンス自体が、冒頭でホームズに『緋色の研究』におけるロマンスの要素をけなされたことへの無自覚かつあからさまな意趣返しなのだ。ちなみにホームズがそうした明示的な異性愛のロマンスを嫌う本当の理由は、決して彼が彼自身の自己申告のような純粋な理性の人だからではないのだが、これもひとまず深入りは避けよう。だが注意深く読めば、この物語において対立しているのが「純粋な理性」と「人間的なロマンス」などではないことは容易に見てとれよう。

本題に戻ると、この一見すべてが明示されているかに見えるワトスンのメアリへの恋と結婚、そして『冒険』『回想』の短篇集で語られるワトスンのその後の職業生活と家庭生活にも、色々と不自然な点が見え隠れしているのだが、それは彼が自身に関して一貫して意図的に伏せている事実に由来しているのだ。

まず、いくらメアリが億万長者にはならなかったからといって、ワトスン自身の境遇が「金のない一介の退職軍医」であることに変わりは無いはずであり、それなのにチャンスと見るや迷わず彼女に求婚した上に、ホームズには君の手並みを拝見するのもこれで最後になるだろうと言っていることからして、婚約期間も置かずにすぐにでも結婚するつもりであることが窺えるし、そして続篇である短篇集で語られている状況からして、実際さして間を置かずに結婚した上に、ほぼ同時に医師としての開業権を買い取って診療所を引き継ぎ、開業医としての職業生活も極めて順調なスタートを切っているのだ。

また、日付を確認してみれば、『緋色の研究』の事件があったのは1882年3月であり、『四つの署名』の作中での日付は(※4)1888年7月である。この間、ワトスンは一体何をしていたのか?騙されてはならないのは、これ見よがしに「最近の病理学論文」を読んでみせていようと、彼が実際に医師として働くことを考えていた様子はまったく見られないことだ。そして『冒険』の最初の「ボヘミアの醜聞」で久しぶりにベイカー街を訪れたワトスンに、ホームズは「医者の仕事に戻るつもりだとは、聞いた覚えがなかったが」と言っている。この台詞自体、彼がホームズと同居していた頃は“医者ではなかった”ことの傍証であろう。ホームズと同居を開始してからメアリとの結婚までのワトスンの数年は、社会的には完全なモラトリアムだったのである。その間、彼は何をしていたのか?“探偵の助手”では答えになっていない。

※4 ここでは詳述しないが、実はこの日付、というかワトスンが結婚した年がいつなのかの記述がエピソードによって食い違っているのには、決してドイルの無自覚なミスではない明確な理由がある。

もったいぶっても仕方がないのだが、例によって答えは目に見えるところに書かれている。「本を書いていた」のだ。これも例によってミスリーディングを誘う書き方をされているが、ワトスン自身もホームズもワトスンが書いた本が『緋色の研究』1冊だけだとは一言も言っていない。ホームズに『緋色の研究』をけなされたワトスンが「私は彼自身を満足させるためにとくべつに書いた作品のことで彼と議論するのがばからしくなってきた。じつをいうと、私が彼の仕事のことを書きつづるのが、当然なさるべき価値あることででもあるかのように、彼が自負しているのも、すこし業腹でなくもなかった」と独白していることも、逆説的にそうしたホームズのために書いた“特別”以外にも、ワトスンの手による物語が存在するのであろうことを裏づけてくれているだろう。

そして、ワトスンの結婚と開業権買取のための資金がどこから出たのかも実は全く隠されてはいないのだが、それをワトスン自身がはっきりと言葉にしてしまうのは差し障りがあったのだ。まず、あのホームズとワトスンの会話での、例の懐中時計をめぐる事実からわかることは、あのごく近い時期にワトスンが兄を亡くし、それによって兄が父から受け継いでいた遺産が彼の手に渡ったことであり、そしてあの日の朝彼が郵便局から打った電報も、おそらくはその遺産相続に関する連絡、より推測を進めるなら兄が最後まで手放していなかった不動産の売却に関するものだったのだろう。

つまり、あの時のワトスンはおそらく最後に残っていた肉親を失い、それを契機に実家の地所も売り払うことになり、いよいよ根無し草の天涯孤独の身の上であることを否応無く思い知らされていたであろう状況にあったのだ。その一方、日々の生活を共にしている相手であるホームズは、興味の尽きない対象ではあっても、同時に極めて不可解な側面を併せ持ち、本当に相互に理解しあい心が通いあっているとは言いがたい関係であった以上、ワトスンが孤独感を募らせていたであろうことは容易に想像できる。また、ワトスンの兄がおそらく独身のまま不遇と孤独の内に死を迎えたのであろうことも、ワトスンにこのままでは自らもそうした寂しい死を迎えることになるかもしれないという危惧と、それを避けたいという切実な願望を生じさせていたに違いない。

先に進む前に、この時点までのワトスンの境遇について推測がつくことをまとめると、元々ワトスンは、一度は軍医としてのキャリアを選択したものの、作家になる夢も捨てきれずにいた若者であり、図らずも戦傷を負ったことによってもたらされたモラトリアムと、その最中に彼の創作意欲を刺激する極めて特異な人物であるホームズと出会ったことによって、作家としての第一歩を踏み出すことになったのだ。だが(現実のドイル同様)処女作である『緋色の研究』は出版に漕ぎ付けたものの成功とは言い難く、その後もホームズとの冒険を重ねることで着想には恵まれたものの、作品として発表する機会にはほとんど恵まれずに過ごしていたのだろう。この時期のワトスンの生活は恩給と、おそらく父が亡くなったときに彼の取り分として残された遺産の運用によって成り立っていたのだと思われる。

ここまでの推測を踏まえた上で『四つの署名』冒頭の二人の会話に戻ってみれば、そこに現れている彼らのすれ違いの意味は明らかだろう。ワトスンが常になくホームズのコカイン注射を咎めだてしたのは、決して「昼食のときに飲んだボーヌ・ワインのせい」などではなく、定職もなく、作家としても一向に芽が出ないうちに、最後の肉親であった兄の死によって本当に天涯孤独となってしまったという状況から来る焦りと不安という極めて人間的な心理状態を、コカイン注射という、(今の自分が抱いているような常人の悩みへの共感は期待できないと感じさせる)ホームズの常人離れした不可解さを象徴する行為によって刺激されたためだ。そして、案の定とはいえそれをあっさり受け流された上、その後の会話でもホームズのためにこそ書いたつもりの処女作を貶されたことには当然傷ついたであろうし、(「最近の病理学論文」を手元に置いて読んでいたことが示唆しているように)作家を目指すのを諦めて医者に戻る方に傾きかけていた気持ちをますます後押しされてしまったに違いない。

ホームズに兄の形見の懐中時計を渡し、その元の持ち主がどんな性格や習慣を持った人物だったか当ててみろと彼を試したのも、肉親の遺品に象徴される自分の悲しみなど、常人離れした彼にはわかるまいという当てつけである。ホームズが時計が掃除されて間もないので推理の材料がほとんどないと言うのを聞いて「掃除していない時計だって、彼に何がわかるものか!」と、常の彼らしくない意地の悪い感想を持つのも、本当は「自分の気持ちなど彼にわかるまい」という憤懣やるかたない感情の表れなのだ。結局、ホームズはワトスンの兄の性格とその不遇な最期を見事に言い当てると共に、ワトスンの感情を傷つけたことを謝罪するが、つまりはここで示されている彼らの感情的なすれ違いと、この時ワトスンの置かれていた状況こそが、「ワトスンの結婚」という結果をもたらした事件の真の発端なのである。

ここまでの解説を読めばもうよくお分かりいただけただろうが、ちょうどその時に依頼人としてメアリが現れたことは、ワトスンにとってはまさしく渡りに舟と言える願望の実現の糸口であったわけである。彼があっという間にメアリに夢中になったのも、到底純粋な一目惚れとは言えない先立つ動機があってこそなのだ。だがそれは表面の記述の中では、ワトスンが兄の遺産を受け継いだことと、彼が作家志望であることが巧みに伏せられていることで、単純なロマンスとして印象操作されているのである。言うまでもなく、こうした“叙述トリック”の全てはワトスンを単なる素朴な記録者と誤認させるためのワトスン=ドイルの企みであり、その作為に意識的になることこそ読者にとっては“挑戦”への第一歩なのだ。

「最後の事件」に至るまでの二人の関係性の変化と真の展開を把握した上で、先に触れた『四つの署名』でのホームズとワトスンのすれ違いとワトスンの結婚に至る流れをホームズの視点から再構成すると、実に笑うに笑えない悲喜劇であることがわかる。読者にとって明示的なワトスンの視点からでは、冒頭のホームズのコカイン中毒に対する友人の心配を鼻で笑う態度や、友人が自分をモデルにして書いてくれた小説をまるで評価せずに通俗なロマンスが邪魔だと小馬鹿にする態度は、単に理不尽にしか映らず、やはり常人には理解し難い冷淡な人物なのだという印象を強めるばかりだが、実はホームズがワトスンの小説『緋色の研究』を気に入らない本当の理由は、実際の事件の調査において、ワトスンが異性愛のロマンスの要素に気をとられて見落としていた、それとは決定的に異質な(はっきり言ってしまえば非常にクィアーな)要素をホームズは見逃さなかったからであり、彼はそうしたワトスンの“凡庸さ”を揶揄せずにはいられないだけなのだ。

彼の「ユークリッド幾何学の第五定理に、恋愛物語か駆け落ちの話をもちこんだような結果になっている」というワトスンへの嫌味は、「目の前にあるクィアーな真相に気づきもしないで、そこにありもしないヘテロセクシュアルなロマンスばかりを想像でクローズアップするなんて、君は無粋なことをしたものだ」とはっきり言えないばかりの言い換えなのである。「ただ説明に値するのは、僕がいかにして事件の解決に成功したかという、結果によって原因をもとめうる解析的な論理の巧妙さあるのみだよ」というけんもほろろな言い草も、その本心は「その場にありもしなかった異性愛のロマンスに思いを致すよりも、彼の目の前にいた自分だけをもっとよく見ていて欲しかった」という微笑ましいほどの焼き餅なのだ。そして彼のコカインへの耽溺も、そうした「凡庸な人間の目には映らない手掛かりを容易く見つけられる」という稀有な能力と、それと不可分一体である彼の特異なセクシュアリティゆえの疎外に由来しているのだ。

しかし、皮肉なことに、こうした彼の「素直になれない態度」は、折悪しく常になく落ち込んでいたワトスンの気持ちを彼に対して閉ざさせる結果となり、そこにあろうことかメアリが登場したことによって、ホームズは完全にワトスンの心をメアリに奪われてしまったわけである。ホームズはメアリと接触したワトスンの反応ですぐにそれと覚って不満を態度に表し、(手料理を振舞ったりヴァイオリンを演奏したりして)懸命に彼の気を引こうと試みてもいるが、そうした努力もむなしくワトスンは結婚とホームズとの同居の解消を決めてしまったのはご存知の通りである。

ワトスンは自分の結婚を素直に祝ってくれようとしないホームズに「君はこの結婚に不満な理由でもあるのかい?」と問いかけるが、ホームズはそれに対して、「そんなことはけっしてない」と答え、メアリ個人については、「あんな愛らしい婦人はいないとさえ思っている」ほどだし、「そうした方面の才能には恵まれている人」だから「僕らの仕事を手つだってもらっても、ずいぶん役にたつと思う」と高く評価しつつ、「しかし恋愛は感情的なものだからね。すべて感情的なものは、何ものにもまして僕の尊重する冷静な理知と相容れない。判断を狂わされると困るから、僕は一生結婚はしないよ」と締めているが、一見してこのやりとりのちぐはぐさは明らかだろう。ワトスンの結婚に不満な理由でもあるのかと訊ねられたのに、結局その答えはホームズ自身が結婚しない理由にすりかえられているのだ。そもそもワトスンは「君のお手並みを拝見するのもこれが最後だと思う」と言っている通り、結婚したらもうホームズと一緒に“仕事”をする気などないのだから、メアリに「僕らの仕事を手伝ってもらう」必要などないはずである。

皆まで言うのは野暮というものだが、つまりホームズの返答は、「自分がワトスンの結婚に不満な理由」が「けっしてない」どころか「けっして言えない」ものであるがゆえの苦し紛れの言い換えなのだ。メアリに僕らの仕事を手伝ってもらえる云々は、要するに「君と一緒に仕事をする機会がこれで最後になどなってほしくない」という意味であり、ホームズがメアリ個人にワトスンの配偶者にふさわしくない点があるとはまったく思っていないという表向きの情報とあわせて、「ワトスンに自分から離れてほしくない」という本音を隠しつつ表わしているのである。恋愛は感情的なものだから自分の尊重する冷静な理知とは相容れないという持論に続けての、「僕は一生結婚はしないよ」というどこか意固地に聞こえる台詞も、本当は「君に一生結婚なんかしてほしくない」という極めて感情的な心の中の台詞が、正反対の形で表わされたものに他ならないのだ。もうおわかりだろうが、この最後の場面での二人のやり取りは、最初の場面でのそれと完全に照応しており、どちらの場面でも、ホームズの一見するとぶっきらぼうで冷淡にさえ思える台詞の奥に、実は自分に対する感情が潜んでいることに気づかないワトスンと、それに密かに苛立ちを覚えつつも素直になれないホームズとのすれ違いが描かれているのだ。そして、最後の場面での二人のすれ違いは、最初の場面からのそれの結果であり、ホームズにとっては紛れもなく悲劇でありながら、ワトスンはそれに気づきもしないという滑稽さが二重底の悲喜劇を構成しているのである。

このワトスンの結婚以降、「最後の事件」に至るまでの展開は、実は『四つの署名』冒頭でのすれ違いを生んだ二人の齟齬が解消されるまでの――もっと言えば、ワトスンがホームズを今度こそ完全に理解し得るまでの過程である。ワトスンは最終的に、ホームズが自分の書いたものの何が不満であったのか、彼に見えていて自分に見えていなかったものは何か、何が彼を薬物の力に依存させるほどに疎外しているのか、そして彼は自分に何を求めていたのか、その全てを完全に理解し、もう二度と再び彼を裏切らないことを誓ったのだ。

そしてワトスンにとって、ホームズを理解することそのものがエロティックな“学び”であり、彼はそれによって真に作家として自立することができたのである。『冒険』『回想』の2冊の短篇集はまさしくその成果であり、その後に書かれた『バスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は、実は二人の葛藤と愛と、そして理解に至る軌跡のクライマックスだった「最後の事件」の二通りの変奏なのだ。

つまり、ホームズの長篇4冊は、『緋色』『署名』の2冊がドラマの始まりを、『犬』『谷』の2冊がそのドラマのクライマックスである「最後の事件」に至る物語全体の変形された繰り返しを担っているのである。いうなれば、後の2冊の持つ意味は「最後の事件」までの第1部そのもののダイジェスト版だともいえるが、前の2冊よりも遥かに濃密でマニエリスティックな構成になっている(逆に言えば、まったく素直には読めない)。そうした技巧の進化そのものが、ワトスン=ドイルの作家としての老成の証でもあろう。そして読者にとっては、非常に挑戦し甲斐のあるパズルでもある。ぜひ多くの方にチャレンジして欲しい。


P.S
おまけ。本文では「空き家の冒険」以降の後半のエピソードには触れなかったが、実は『四つの署名』冒頭でのホームズの推理――及びそれが示唆するワトスンの経済状況――に対応した細部が「踊る人形」冒頭に存在する。ファンの間では割と有名なネタではあるが、実はこれが遡って『四つの署名』でのそれがやはりワトスンの経済状況に関連したものであったことを明かしてくれているのだ。これを言ってしまうとほとんどネタバレなのだが、<あけっぱなし⇔鍵をかけられている>という対比はわかりやすい。というか、やっぱりホームズ怖い。帰還後は完全にヤンデレである。
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by kaoruSZ | 2014-03-10 11:41 | 批評 | Comments(0)
今回は、ホームズ物語の4つの長篇作品の持つ意味と、その位置づけについて語ってみたいと思う。ご存知の通り、そのほとんどが短篇で占められるホームズ物語のうち、最初の『緋色の研究』と『四つの署名』、そして「最後の事件」後に発表された『バスカヴィル家の犬』と、その更に後(ホームズ復活後の第四短篇集『最後の挨拶』所収の作品群と同時期)に発表された『恐怖の谷』の4つが例外的に長篇となっている。実はこの4つの長篇は、大長篇としてのホームズ物語を読み解く上で、いずれも欠くことのできない極めて重要な意味を持つものだ。

とはいっても、重要でない話などないのだから、より正確な言い方をしよう。作者であるドイルが丹精を凝らして作り上げたホームズ物語の56の短篇と4つの長篇とは、いわばトランプのカードのように、「どれひとつ欠けても成り立たない」ものとして一つ一つに重要な細部を鏤められ、それらが相互に参照しあうことで、隠された意味のつらなりを合せ鏡のように映しあうよう巧妙に配置された、希代の作家の手になる芸術作品である。またそれは、あらかじめ場に配置されて読者というプレイヤーの手に委ねられ、正確な意味とその組み合わせを解き明かされるのを待っている、極上の面白さを約束されたソリティアでもあるのだ。4つの長篇は、いわばこのホームズ物語というトランプの絵札のようなものであり、その位置づけ自体が他の複数の短篇の意味を照らし出してくれるメルクマールなのである。

まず、ホームズの長篇4つのうち、あの世界における現実の時系列上の事件として考えていいのは、実は最初の『緋色の研究』と次の『四つの署名』だけである。残りの2つ『バスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は完全にワトスンの書いた小説で、先の2つの長篇とも短篇集にあるその他のエピソードとも質を異にしている。
 
具体的に言うと『バスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は、ホームズとワトスンが実際に遭遇した他の事件=最初の長篇2つやそれまでに書かれた短篇の細部、作中世界ではワトスンが、現実世界ではドイルが参照した実在の事件の資料、そしてワトスン=ドイルが影響を受けた他の作家の作品という、由来の異なる三種の外部テクストの“引用”によって成り立っている。これはメタレベルで言えば他のエピソードもすべてそうなのだが、他のエピソードが作中世界の時系列上で実際に起きた出来事に根拠を持つのに対し、この二つの長篇はワトスンがある同じ目的のために書いた完全なフィクションなのだ。
 
これも具体的に言うと、実在した事件(または伝説)の資料とは、「犬」ではその巻頭の献辞にもある西部イングランドの伝説、「谷」ではアメリカで実際に起きたアイルランド系秘密結社をピンカートン探偵社の探偵が潰滅させたという事件の記録であり、誰にでもわかる外形的なモデルを形成している。

そして他の作家の作品とは、(※1)一例としては「犬」におけるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を挙げられよう。あの魔の犬のイメージの出典は、直接的な執筆のきっかけだった伝説のそれ以上に、ドラキュラ伯爵が変身した狼であろうし、作品のテーマと結末そのものが、ホモソーシャリティと異性愛の勝利に終わった『ドラキュラ』のそれを逆転させた、男の結婚の阻止と同性への愛の成就というパロディ的な意味を持ってもいるのだ。

※1 「犬」におけるもう一つの重要な“出典”はディケンズの『大いなる遺産』である。

普通にシリーズを通読した場合でも、「犬」が他の3つの長篇と著しく異なる特徴として、事件の推理部分である第一部とその発端となった過去の回想である第二部という形式を取らないことが挙げられようが、実はそれを帰結しているのは、そのプロットにおける異性愛のロマンスの実質的な欠如である。

ご存知の通り、『緋色の研究』の第一部は戦傷を負って本国に戻され、ロンドンに流れてきたワトスンがホームズと出会い、彼の特異なパーソナリティに興味を抱くうちに、ある日舞い込んだ殺人事件の調査の依頼がホームズと共に非日常の冒険へと乗り出していく最初のきっかけとなるまでの顛末であり、「聖徒たちの国」と題された第二部は、その殺人事件の犯人が捕縛された後に明らかになった、事件に至るまでのアメリカを舞台にした過去の因縁の物語であるのだが、こちらは乾き果てた荒涼たる大平原やユタの開拓地の一面の小麦畑、峨峨たる山脈をめぐる隘路といった引き込まれる情景の中で展開される、誰にでもわかりやすい悲劇的なロマンスと冒険の物語である。

実はこの素直な物語にも裏が無いわけではないのだが、ここではひとまず深入りは避けよう。だがこの第二部の大半を占める饒舌なロマンスは、実は注意深く読めば明示されているようにあくまでワトスンの書いた小説であることと、(※2)その構造自体の持つ重要性は指摘しておくべきだろう。

※2 『恐怖の谷』も、基本的な構成としては『緋色の研究』の意識的な焼き直し=セルフパロディである。詳細は以前の解説を参照。

実際の犯人ジェファスン・ホープの供述はレストレードの手記にある通りの簡潔なもので、実は
それとラストに示される事件後の「エコー紙の記事」にある、被害者二人と犯人の出身地やモルモン教が関係していることといった、実はそれ自体の真偽も定かでない幾許かの補足こそが、事件とそれに至る因縁について現実に語られた全てであり、ワトスンはそれを基本の素材とした上に、おそらくアメリカの地理や気候風土についての資料(※3)を情景描写のための素材として追加して、あの「聖徒たちの国」という小説を書き上げたのだ。その手法と“製作工程”は、言うまでもなく現実のドイルが行なったそれと同じものである。

※3 実はそれらに加えてホーソーンの「緋文字」が重要な“出典”となっている。

またそれは暗に第一部の冒頭からの全てが、本質的にはこの第二部と同様、ワトスンの手によって事後的に構築されたフィクションであることを示しているのだ。この「作中人物としての作者の手による劇中劇」というマトリョーシカのような構造は、実は全ての事件のエピソードに共通するものであり、はっきり言えば4つの長篇と56の短篇からなるホームズ物語のうち、“ワトスンの手による小説”でないものは2篇の例外を除いては存在せず、それは現実におけるそれが全て“ドイルの手による小説”であることと絶対的にパラレルである。ワトスンとは厳密に“あの世界”におけるドイル自身なのだ。

上で“2篇の例外”と言ったが、これは共に『事件簿』所収のホームズの一人称による短篇「白面の兵士」と「ライオンのたてがみ」のことで、実はこの2篇の真の重要性は、それまでワトスンが隠蔽していたホームズ自身の素顔と、二人の真の関係性が垣間見えることであるのだが、それは別の機会に譲ろう。

補足のつもりの部分がだいぶ長くなってしまったが、つまり『緋色の研究』の時点で、この後に続くホームズとワトスンの物語を読み解くための基本となる鍵が提示されているのだ。まず一つ目は、第一部のワトスンのホームズとの出会いから事件の調査を通して彼についての認識を深めていく過程が、言うまでもなく『冒険』以降の短篇集の世界とも共通するフォーマットとなっており、それが実はそのまま、二人の関係の進展という裏のテーマ、つまり同性愛の物語を担っていることである。そして二つ目は、第二部が彼らが遭遇した事件の当事者たちの物語であり、それが明示的な異性愛のロマンスと、それを起点とした激しい愛憎を伴った、“過去の因縁”と“復讐”の物語であることだ。これはあらゆる意味で第一部と対照的な特徴をそなえた、色違いの双子のような関係にある。

戦傷を負ったワトスンが流れ着いた「下水溜めのような大都会」ロンドンの人の群れ、ホームズと出会った病院の研究室、ベイカー街の二人の部屋、事件の現場となった殺風景な空家、馬車が行き交う街角や下町の風景といった場面は、いずれもくすんだ窓ガラス越しに映る景色のように彩りを欠いており、それは言うまでもなく、第二部のアメリカの大自然の鮮やかな描写と対比されるものだ。そしてそれを背景に展開される、はっきりとした物語性と強い情動のドラマもまた、ホームズとワトスンの淡々とした日常や、強い感情のやりとりや対立のないまま連れ立っているかに見える二人の関係性、またその二人の関係性そのものに、表面を流し読みしている限りでは、全巻を読み終えても変化やその契機が窺えないであろうわかりにくさと正反対である。勘のいい方ならもうおわかりだろうが、この“わかりやすさ”と“わかりにくさ”の対比は、実はそのまま“異性愛”と“同性愛”に対応したものだ。

結論から言えば、ホームズ物語におけるそれぞれの事件の当事者たちの物語や、その中で描かれる強い情動には、実はホームズとワトスンの二人の間に本当にあった出来事や、それに伴う彼ら自身の情動が投影されている。正確に言えば、それらはワトスンによってそうした機能を果たすよう再構築されたのだ。

またそれぞれのエピソード同士でも、明示された異性愛のエピソードは、実は明示されない同性愛のエピソードと対応しており、前者がそれ自体としては語りえぬ後者の真実の絵解きとして配置されているのだ。端的な例として「第二の血痕」と「ブルース=パーティントン設計書」の対応関係を挙げておこう。

また、これはドイルの作家としての特性そのものでもあろうが、『緋色の研究』に端的に見てとれるように、物語の真相は常に、過去に設定された因縁の発端から、現在におけるその顕在化と破綻としての“事件”に向けての、直線的な強い情動のドラマとして語られる。それは過去からの来訪者=脅迫する者と、脅迫される者との間の、“過去の秘密”をめぐる愛憎劇であり、もっと言えばこれはほとんどの場合、ある男とある男の間の問題である。男女の場合は総じて男同士のそれほど相互的な強い情動を書き込まれてはおらず、むしろその置き換えであると言えるのだ。

つまり、三つ目の鍵とは、「推理パートとして提示されるホームズとワトスンの関係性=同性愛の物語」と「真相としての“過去の因縁”の物語=異性愛のロマンス及び男同士の復讐譚」に分割された物語の構成そのものが、“作者”であるワトスンが再構築したフィクションに他ならないことであるのだが、これほどの構成能力と文章力を併せ持つワトスンが、ホームズと出会って『緋色の研究』を執筆するまでなんらの文学的野心も持たない単なる退役軍医であったとは思えないし、事実、これ以降の物語の細部を注意深く読み込めば、ある時点からの彼が完全に作家に専念しており、ホームズ物語以外にも歴史小説を執筆し、おそらくは現実のドイルに匹敵する成功を収めたのであろうことが窺える。だが、ドイルはそうした細部を読み取る目を持たぬ読者にはワトスンが作家であることを意図的に伏せており、実はそれこそが全篇を通したある種の“叙述トリック”を成立させているのである。

大長篇としての『シャーロック・ホームズ』の物語の進展は、ホームズとワトスンの長い長い恋愛の成就に至るまでの過程であると同時に、実はそのまま作者であるワトスンの作家としての成長と成功に至る軌跡である。またそれは言うまでもなく、現実のドイルのそれと完全に同期したものだ。そしてホームズとはワトスンに物語を書かせる者、つまり霊感を与える彼のミューズであり、彼らの愛とはそうした物語=芸術の源であると同時に、決して語ることを許されぬ“犯罪”でもある。そして、それは必然として、公認される望ましい関係性=異性愛に基づく健全な家庭生活と社会参加の反対物なのだ。

『四つの署名』で語られる、ワトスンの結婚に至るメアリの登場とそれに対するホームズの嫉妬は、実はワトスン自身の芸術と社会生活の間での葛藤そのものでもある。この第二作は、構成としては『緋色の研究』と同様「事件の捜査」とその発端となった「過去の因縁」の組み合わせであるが、前作より「過去の因縁」の比重が遥かに軽く、第二部として後半を丸々占めていた前作に対して、こちらでは最後の一章が割かれているのみである。それは前作では「過去の因縁」の物語に託されていたロマンスの要素が、こちらでは「事件の捜査」のパートにおけるホームズとワトスンとメアリの三角関係として現在進行形のドラマを形成しているからだ。そしてこちらの「過去の因縁」の物語は単に財宝をめぐる男同士の復讐譚であり、つまりロマンスの要素がどちらにあるかによって比重が偏るパートが決定されているのだ。

そしてこれは言い方を変えれば、この『四つの署名』における真の“当事者”が、明白にホームズとワトスンであるということであり、このエピソードの真の意味が、ちょうどこの頃にあったある出来事をきっかけに、自身の現状や将来の展望について思い悩んでいたワトスンが、メアリの出現によって、彼女との結婚によって現状を打開するという選択肢を思いつき、最終的に事件の解決による障害の除去によってそれが実現するまでの経緯であることだ。このエピソードにおいて最も重要なのは――これに限らずホームズ物語の極めて特異な性質による必然でもあるのだが――冒頭から依頼人であるメアリの登場までの間の、ワトスンのホームズとの会話と地の文での彼の独白である。そしてこの部分で示唆されている問題がワトスンの結婚という決着を見た後の、結びの部分での再度の二人の会話は、その決着こそが二人の関係の不穏な転機となることを暗示するものだ。
 
話をわかりやすくするために、これ以降に出た短篇集である『冒険』と『回想』から得られる情報で推測を補強しつつ語ることにする。その前に述べておくが、この長篇2冊と短篇集2冊からなる「最後の事件」以前の物語は、依頼のあるたびに断続的に書き継がれたとは思えないほど一貫した物語になっており、通俗的なイメージとは全く逆に、大長篇としてのホームズ物語には『緋色の研究』から『事件簿』に至るまで、物語としての本質的な齟齬や矛盾は一切存在しない。それは真のテーマが一貫してホームズとワトスンの二人の関係性=彼らの恋愛の不可逆的な進展の過程であったからこそだろう。


tatarskiyの部屋(25) トランプの絵札――ホームズ物語の4つの長篇について(下) へ続く

 
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by kaoruSZ | 2014-03-10 11:23 | 批評 | Comments(0)