おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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夢は永遠に類似物に帰着する類似物である。 モーリス・ブランショ

今朝、谷崎潤一郎の短篇『過酸化マンガン水の夢』(1955年)をはじめて読む。夢の生成過程を身辺雑記的リアリズムの文体でたどることが、そのまま、小説がいかに生成されるかの実演となってゆく驚くべきドキュメント。(2014年3月25日)


『過酸化マンガン水の夢』は、 谷崎と明らかに同一視される主人公が「予」の一人称で語る、「家人」以下、親族の女三人とともに上京した八月八日、九日の出来事と、熱海の自宅へ帰って見たその夜の夢の話である。「予」は、初日は女たちともども「日劇小劇場ミュウジックホール」の「ストリップショウ」を見たあと、田村町の中華料理店で夕食、翌日は、「アンリ・ジョルジュ・クルウゾオ」の『悪魔のやうな女』を日比谷映画劇場で見て、「大丸地下辻留」で鱧料理という、眼と口腹の慾をともに満たしたあげく、帰宅する。ところが、「御馳走の食ひ過ぎ」で腹が張っている上に、心臓に異状を覚える事態になり、不安を紛らわすため睡眠薬を飲んで「半醒半睡の境に入る」

「予」の身体的状況は、それまでに詳細に記述された「食べたもの」の結果だが、彼がその状態で見るものもまた、そこに至るまでに積み重ねられた言葉の結果である。二日に渡る美食は改行の無い文章でページをびっしり埋めていたが、不注意な読者にも分るように、ここでもう一度おさらいがされる。「鱧の真つ白な肉とその肉を包んでゐた透明な半流動体」という記述は、「白い肉」つながりで、日劇の舞台の「実演」で入浴シーンを演じた春川ますみ(「予」が一番魅せられた娘)を呼び起こし、さらに、「葛の餡かけ………ぬるぬるした半流動体に包まれていたのは鱧ではなくて春川ますみ」とあからさまな重ね合せがなされる。この、類似による横滑りが、言葉の、そして夢の技法であるのは言うまでもない。彼が見た映画の記憶もまた、「昼の残滓」としてこの生成に奉仕する。

「校長ミシェルが浴槽にゐる。シモーン・シニョレの情婦がミシェルを水中に押し込んでゐる。(…)濡れた髪の毛がぺつたりと額から眼の上に蔽ひかぶさり、その毛の間から吊り上つた大きな死人の眼球が見える」――『悪魔のやうな女』の冒頭には、見ていない人に結末を言うなという断り書が出たという。そう記しながら、平気で「予」は、食べたもの同様、懇切丁寧に、誰が犯人かは勿論、映画の細部に至るまで、微に入り細をうがって描写し尽しているのだが、これは、それらが鱧や中華料理と同列の夢の素材として、徹底的に利用されるからこそである。

 夢と言うよりは「半醒半睡の」入眠時幻覚として(といっても、そう思っている時すでにそれは夢なのだが)現れてくるものは、回想であるとと同時にその場で生成される幻覚、スクリーンに見る物質的な投影と主観的には変ることのない現実性を持つイメージだ。それを実況的に語りつつ、「その時もう一つ奇怪な幻想が這入つて来た」と「予」は告げる。「もう一つ奇怪な幻想が」――それは「予の書斎」の、「予の専用の水洗式の洋式便所」の便器の中の情景だ。ここで、今食事中の方はと断った方がいいのかもしれないが、しかし「予」自身も、「日本式水洗ではあまり露骨で見るに堪えないが、洋式のものは水中に沈んでゐるのでアルコール漬の摘出物を見るやうに冷静に観察し得る」と言っているし、私自身、パン屋兼カフェのカウンターでパンを食べ終り、珈琲の残りを飲んでいる時、このくだりにさしかかったが問題はなく、後述するように、夢の中の物はつねにそれとは別の何かなのだから、諒とせられたい。表題の「過酸化マンガン水」の名がここではじめて出てくるのだが、それがたとえば足穂風の理科趣味として受け取られることこそあれ、便器に注ぎ入れる赤い消毒薬だなどと誰が想像するであろうか。

 しかし、それはあくまで現代から見てのことであって、当時の人々には消毒薬として知られた名前だったらしい。つまりこの名前だけで、それが赤い液体の夢であることは当然理解されたものであるようだ。
 
 語り手は、過去に、「便通の度毎に水が真紅に染まるのに気づき」不安な数日を過したことがある。しかし、「それは朝食にレッドビーツ(サラダ用火焔菜)を好んで食べるのが原因であることが分り、安心した」。胃潰瘍の下血と違い、「レッドビーツの場合は実に美しい紅色の線が排泄物からにじみ出て、周辺の水を淡い過酸化マンガン水のやうに染める。予はその色が異様に綺麗なので暫時見惚れてゐることがある。その紅い溶液の中に浮遊してゐる糞便も決して醜悪な感じがしない」

「過酸化マンガン水」とは、ネット検索したところでは、「過マンガン酸カリウム水溶液」が誤ってそう呼ばれていたとのことである。 「分析試薬としてお馴染みの過マンガン酸カリウム水溶液も,その昔チフスやコレラなど消化器系伝染病の患者の排泄物の殺菌処理に使われました.谷崎潤一郎の「過酸化マンガン水の夢」という作品はまさにこの強い紅紫色がテーマになっています」http://www.kagakudojin.co.jp/special/qanda/index07.htmlと、恰好の解説があった。「過酸化マンガン水」とは、そもそもそういう用途に使われるもので、ここでも、その結果、水を赤く染めていたというわけだ。また、谷崎は「奇怪な幻想」と呼んでいるが、「予」は食べ過ぎでお腹が張っているのだから、ここで排泄物が登場するのは実はなんら不思議ではない。

「予」が「決して醜悪な感じがしない」と言うそれは、「他の物体の形状を思ひ起させ、人間の顔に見えたりもする」。そういうが早いか、たちまちそれは思ったものそのものになる。すなわち、「シモーン・シニョレの悪魔的な風貌に」変り、紅い溶液の中から「予」を睨むのである。「予は水を流し去ることを躊躇してぢっと視つめる」。すると顔は、「粘土が崩れ出したやうに歪み、曲りくねつて又一つに固まり、ギリシア彫刻のトルソーのやうになる」。シニョレの顔変じて、「高祖の崩後呂后に妬まれて手足を断たれ、眼を抜かれて 厠の中に置かれた」戚夫人、すなわち「人豚」になっているのを「予」は見る。

「予が過酸化マンガン水の美しい紅い溶液の中に四肢を失つた人間の胴体、牝豕(めすぶた)の肉のかたまりに似たものが浮かんでゐるのを見てゐると、『御覧、その水の中にゐるのは人豚だよ』と云ふ者がある。振り返ると予の 傍に漢の皇太后の服装をした婦人が立つてゐる。『あッ、この人豚は戚夫人ですね』と云つて予は思はず眼を蔽ふ。予は予の傍にゐる貴婦人が呂太后であり、予自身は考恵帝であることを知る」

「透明な半流動体」に包まれた「鱧の真つ白い肉」―「葛の餡かけ」―「ぬるぬるした半流動体に包まれていたのは鱧ではなくて春川ますみ」と、故意に混同され、ひとつながりにされた食欲と性欲の対象は、「予」によって消化され、というか、ほとんどどそのままの形で肛門から出てきて、過酸化マンガン水の紅い溶液の中に浮ぶ。これは男の出産の夢、昼のものとして重ねた言葉が変形されて作品をかたちづくるのと同様に、腹に食べ物を詰め込んだ結果、排泄物として形成された作品を、水中の異形のものとして見出す夢なのだ。血かと思われた水に混じる紅い液体は、レッドビーツであり、過酸化マンガン水であり、しかもなお分娩に際して排出される血液を含んだ体液でもある。その中に浮んでいるのは、彼の作品であると同時に、四肢を失い眼をえぐられた人間、すなわち去勢された彼自身に他なるまい。

 彼をそのような目にあわせたのは『悪魔のやうな女』のシモーヌ・シニョレのような女なのだろう。彼女は睡眠剤を飲ませた愛人を浴槽で溺れさせる(「予」が帰宅した夜、睡眠剤を飲むのと重なる。また、一日目の午後、旅館で昼寝をしようとして、暑さと建築工事の騒音のため、「已むを得ず」「久しく用ひたことのなかつた睡眠剤を少量服」したのもすでに伏線であった)。

 さらに、すでに引用した「その毛の間から吊り上つた大きな死人の眼球が見える」とはまるでバタイユの眼球譚のようだが、本当は、死人ではなく生きていた男 (ポール・ムーリス演じる校長ミシェル)が、殺された時と同じ恰好で浴槽に漬かっているのを、シニョレが、共犯として抱き込んだ校長の妻(夫は死んだと信じている)に見せ、するとミシェルが「満身にびつしより水をしたゝらしつゝ浴槽から立ち上」るので、心臓の悪い妻は白目を剝いてその場でショック死するが、この時ムーリスが「死に顔を一層怖く見せるために嵌めていた義眼を「両手を眼の中にさし込んで」取り出す」のは、観客の方が目を蔽いたくなる去勢の実演だったのである。

「予」が浴槽ならぬ便器の中に見出すのは、最初シニョレの顔であるが、これはもちろん、本当は自分であるのが偽装されているのだ。これに先立ち、東京から戻っていったん就寝した「予」は、傍の「家人」が夢にうなされ呻き声を上げたので揺り起こす。その後、彼自身が睡眠剤を飲んで夢の実況語りとなるのだが、在京二日目の午後、女達は「予」とは別行動をしながら、やはり日比谷映画へ行って同時刻に同じ映画を見ていた。しかし「予と約束した時間に遅れることを懸念し、中途で退場」したと聞いた語り手は、「いつたい家人は彼女自身が心臓が悪いと医者に云はれてゐ、平素ショックを受けることを恐れてゐた」ので、「中途で退場したところを見ると、矢張幾分ショックを恐れる気持があつたのかと察せられる」と言っていた。その時には他人事[ひとごと]だったものが全て、ここでは「予」にもかかわってくることになる。

 即ち、妻の心臓の弱さが彼にも伝染したかのように、「久しく起らなかつた脈拍の結滞」――「何か心臓に異状のあることが察せられあまり気持のよいものではない」が「起りつゝあ」ると感ぜられるのである。「過食する時に起り易い」と医師に忠告されていたそれは、「此の二日間の鮎や牡丹鱧や八宝飯や芙蓉魚翅の祟りであること云ふまでもなし」なのだから、作品の素材をぎっしりと詰め込んで腹を脹らせたあげくに〈女〉になって出産しなければならなくなるのは当然だろう。夢に先立っては、「家人」の心臓の不調に倣うかに、「胃の真上の鳩尾の辺」がピクリピクリとしたし、夢の終りで、「御覧、その水の中にゐるのは人豚だよ」と言われた時は「目を蔽ふ」しぐさをしているが、これは前日、映画館でミシェルが「両手を眼の中にさし込んでその義眼を取り出した時」、「予の隣席にありし婦人が微かに『あッ』と言つて顔を」蔽った身振りを正確になぞっているのだ。

 勿論それは、婦人に倣うしぐさによって自らを女性化すると同時に、「目を蔽ふ」身振りによって、逆に、蔽わねばならぬ眼が失われていないことを証明しているのであり、「予自身は孝恵帝であることを知る」とある通り、水中の女の顔(女である彼自身の顔)も、眼球損傷と去勢の不安を伴うミシェル‐人豚のイメージも己からは切り離し、最終的には帝である男としての自身を確認しているのだと言えよう。

 水中の顔は、これより三十七年前に発表された『人面疽』を思い出させる。若い谷崎の映画への強い関心を窺わせるこの短篇では、女優の膝に醜い男の顔が取り憑く。正確には、小説内映画としてそういうフィルムがあり、主演女優は身に覚えのないうちにそのような作品を撮られてしまったと主張する。女が「膝の腫物」にガーゼをあて、固い靴下をぴったり穿いていたにもかかわらず、人面疽が歯で靴下を食い破り「鼻から口から血を流しながら、げらげらと笑つて居る」というグロテスクな場面をクライマックスとするこの短篇について、野崎歓は次のように書いている。「美しい女の脚に隠された秘密の暴露とは、すなわち女の恥部の暴露であり、結局のところは性器の露出そのものではないか」

「ここで成就されているのは、自らが女性性器にとって代わり、恥部そのものと化すことによって、女性におけるファロスの不在をなおも隠蔽しようとする、究極のフェティシストの欲望なのである。しかもそのそのとき、彼はすでに四肢も胴体も失い、ただ醜い顔だけの存在となりはてて女の脚に張りついている。それはいわば度を越して去勢されてしまっ たものの姿なのだし、捨て去られたファロスが浮遊していって女の脚に取り憑いたという奇怪な図でもある」(『谷崎潤一郎と異国の言語』)

 一見して、『人面疽』のヘテロ‐男根中心主義[ファロサントリスム]は紛れもない。野崎は、女の顔の美と性器の醜の「不整合」こそがエロティシズムの源だという有名な言説も援用しているが、ここで抑圧されているのが《美しい男の顔》であるのは言うまでもなく、あらためて見るなら、ジョルジュ・バタイユは何とミソジナスでホモフォビックであることか。

 野崎は、バタイユについて、「女性性器の『おぞましさ』に拘泥するそうしたエロティシズム論には、いかにも古典的フロイト主義の分析をまぬがれないような、去勢コンプレックスや女性恐怖の影が色濃く落ちている」とコメントし、「ただし、おぞましさを『恐ろしい醜男』の顔で置き換える 「人面疽」の映画のシナリオには、さすがに谷崎的な「Masochisten」ぶりが横溢しているではないか」と谷崎ならではの特質を抽出し、さらにそれを映画技法そのものへと繋げる――「焼き込み」すなわち一度撮影した上にさらに別の絵を撮影する「二重焼き[ダブル・エクスポジャー]」が映画の驚異を可能にするというのだ。「そもそもここで語られている人面疽とは、まさに女の脚と男の頭の『ダブル・エクスポジャー』そのものではないか」

 間然するところのない論のはこびであるが、今私たちが問題にしている短篇を、これとともに読んでみたとするとどういうことになろうか。

 小説内映画「人面疽」は、これまでの引用でも分るように、勝ち誇るファロス(しかもそのクロースアップ)の、けたたましい哄笑で終るフィルムである。ガーゼや靴下で押え込まれていたのを食い破って出現してきたそれは、母の腹を破って出てきた胎児さながらで(のちの『エイリアン』での、口から強姦された男の胸を突き破って出てきた怪物の孵化をも思わせる)、確かに出産の一方法ではあるのだろう。 対する『過酸化マンガン水の夢』の「夢」では、男が水洗便器の中に、赤い液体に浸かった女としての自身を見る。それは女の顔から、胎児の不定形と可塑性のうちに変容し、手足を切断された「人豚」という肉塊になる。最後に、それは「戚夫人」と呼ばれ、見ている彼は「孝恵帝」と呼ばれて夢は終る。

 名づけることによるこの同定は、しかし仮のものでしかないだろう。“それ”は本当は何なのか。『人面疽』の「二重焼き」は、女の脚と男の頭にはっきり分けられるものを、たんに重ねたに過ぎなかった。観客の前に露出することのできない、見せることのできない女性器の代りに、ファロスたる男の顔が大写しになる。 だがこの場合、それと重ねて“エクスポジャー”された女の脚とは、そもそも女にファロスが無い事に耐えられない視線がそれに直面する寸前に見出したファロスの代理なのだから、なんのことはない、それはファロスの二重写しであって、女など存在しないのだ(だからこそ主演女優には、映画を撮られた記憶がないのだろう)。

 先程の引用において女性器は「秘密」「恥部」「おぞましさ」と呼ばれ、隠されるべき何ものかとして扱われていた。一方、男の頭――人面疽――の方は、 membreの切断という点で明らかに去勢を受けたものでありながら、頭部=男根という上下の入れ換えによって「捨て去られたファロス」でもありえ、 女性の「ファロスの不在をなおも隠蔽しようと」してその脚に取りつくが、それが隠すものは、(脚自体がファロスの代理なのだから)ファロスの不在でさえないだろう。『人面疽』において起こっていたのはこうした奇怪な事態であった。「鼻から口から血を流しながら」という「人面疽」の最期の姿は、 それが実は女性器であり、開口部から血を流しているありさまであると見ることが可能である。しかしそれは、通常、女性器とは受け取られまい。人面疽‐男の顔がいかに醜悪であろうと、それはスクリーンに絶対“エクスポジャー”されてはならない女性器のように「おぞましい」ものではついにありえないのだから。

『過酸化マンガン水の夢』においては、『人面疽』ではあからさまに流されていた血が、もはや血と呼ばれることすらない。最初血であることを心配された液体は、レッドビーツの色素へ、過酸化マンガン水へと横滑りして、男性(皇帝)であることを辛うじて保証された谷崎のまなざしの下で静かに“それ”を浸している。『卍(まんじ)』の光子が偽の流産を演じるのに血のりを使ったことを思い出させる、偽の血液に浸された、男根でも女性器でもないものが、その誕生の起源を語る物語を谷崎に綴らせた。『過酸化マンガン水』は、こうして作品の誕生の光景に私たちを立ち会わせるものになったのだ。
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by kaoruSZ | 2016-01-09 09:50 | 文学 | Comments(0)
 国立新美術館のマグリット展に行ってきた。今回の展覧会のポスターや図録の表紙にもなっている、無数の正装した山高帽の男が空中に浮いている『ゴルコンダ』――一見、クローンのような、取り替えのきく複製の男たちのようだが、よく見るとそうではなく、一つ一つ違った顔を持つ。マグリット自身、「それぞれ違った男たちです」と言っていた。「しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群衆を表すのです」

 これを読んで気づいたのは、彼の作品における男と女の逆説だ。男は「それぞれ違って」いる。だが、「それぞれ違った女」など(たとえ華やかに、個性的に着飾ろうと)、いるわけがない。どれも同じように見える男は、実は見かけの匿名性の下に独自性を保持しているのだ。

 たとえば、会場でこのすぐ前に展示されていた『傑作あるいは地平線の神秘』では、山高帽の三人の紳士の頭上に、それぞれ三日月がかかっている。これについてマグリットは次のように言う。「ひとりの男が月について考えるとき、彼はそれについての彼自身の考えを持ちます。それは、彼の月になります。だから私は、3人の男の頭の上にそれぞれの月がかかっているところを描いた絵を描きました。しかし、私たちは本当は月はひとつしかないことを知っています。」月とは女のことだろう。

「群衆」としての男たちは、それぞれ女について「彼自身の考え」を持つ。しかし彼らは「本当は女はひとりしかいない」ことを知っている。その女とは、たとえばすぐ隣に掲げられた『夜会服』と題された絵の、裸の腰から上に黒い髪をふさふさと垂らした、後ろ姿の女だろう。男三人がてんでの方角を向いているのに対し、女は真直ぐに月に相対しているが、それは彼女が月そのものであり、月が彼女の鏡であるからだろう。男たちが「地味な、同じ服装」であるのに対し、彼女が豊かな髪しか纏わぬ裸なのは、ホモソーシャルな「群衆」の中で、彼女だけが、唯一、エロティシズムの対象として見出されるべき(逆に言えば、それ以外の人間はそのようにまなざされてはならぬ)ものだからだ。

『ゴルコンダ』についての説明(画家へのインタヴュー抜粋)を読んだ時、私には、それが「男たち」について語られたものでありながら、同時に、それまで会場で見てきた、妻の裸体を描いた彼の絵の秘密を明かしていると思われた。“彼の月”は、一目で見分けられる彼の妻の顔をしているか、そうでなければ全く別のものに置き換えられている。妻でない女は、彫像だったり、魚の顔をしていたり(周知の通り、マグリットの顚倒した人魚は、女の下半身と魚の上半身を持つ)、あるいは『凌辱』のように、トルソが鬘をかぶせられて女の顔を形成する。あの、乳首の眼、臍の鼻、性器の口を持つスキャンダラスな顔は、“女”には独自の顔などないことを、猛烈な悪意をもって私たちに突きつけてくるものだ。

“人魚”や『凌辱』の攻撃性は一目瞭然だが、山高帽の男の背中にボッティチェリの『春』のフローラの像を重ねた『レディメイドの花束』もまた、そのスキャンダラス性においてはひけを取らないと私には思われた。『春』は、西風に触れられたニンフが花の女神に変身した瞬間を描いたもので、原画でフローラの右にいる、いきなり西風に抱えられて怯えるニンフは変身前で、美しい花模様の優雅な羅[うすもの]を纏って踏み出した女神フローラと、実は同一人物だと読んだことがある。

 しかし、こうした解釈の己の絵への適用を、マグリットはあらかじめ拒否している。彼は、ただ山高帽の男の「一部を隠す」ものが必要だったのであり、ボッティチェリの人物を選んだのは、たんに気に入ったからだと述べている。ボッティチェリが彼女に与えた寓意的意味について読んだことはないし、読みたいとも思わないというのは韜晦とも考えられるが(自分の絵が『春』と帽子の男との結婚のようなものだと言っているのは、西風とフローラの結婚という、原画の主題を前提にしてのことだろうから)、「私に関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです」という言葉は、額面通り受け取られねばなるまい。「私は《春》のイメージを選びましたが、観念を選んだわけではありません」

 彼の選んだ「イメージ」は、一枚の紙片のように、何の深みもなく山高帽の男の背中に貼りついている。実際、それを複製画から切り抜いて貼ってもよかったはずだ。しかし彼はその「イメージ」を、「この絵の中のボッティチェルリの人物は、どの細部も正確です」と自ら保証する技術をもって、自らの絵の中に再現した。どの細部も同一だが、元のコンテクスト(「観念」「哲学」)から文字通り切り離されたそれは、「女のイメージ」のたんなる引用にまで価値を限定、縮小されることで、初めて彼の作品の中に存在を許されたのだ。

 結婚、と彼は言っている。この絵は《春》と帽子の男との一種の結婚だと。だが、この結合のよそよそしさはどうだろう。彼らは背中合せで、女は宙に浮いている。貼り付けたわけではないから、剝がすこともできない。それとも、これこそが、彼が結婚と呼ぶものなのだろうか。その顔は引用だから、もちろん妻の顔ではない。だが、対象に忠実に細部までゆるがせにせず再現したこの技法は、まさしく彼が妻に対して取っていたものである。ジョルジェットをモデルにした絵を見て分るのは、彼が妻を理想化していなかったことだ。無論彼女は、そのままでも十分美しい。モデルに忠実に描かれたフローラと同様、彼女は彼によってあらかじめ選ばれたものなのだから。

 今回の展覧会では、マグリットの撮影したホーム・ムーヴィーの上映があって、動く夫人の映像によって、彼女がどんなに夫によって忠実に再現されているかを確かめることもできる。マグリット夫人とともに詩人のマルセル・ルコントが登場するフィルムもあるが、この人は、あらゆるものが石と化している室内を描いた『旅の思い出』に姿をとどめている。石の蝋燭の石の焔が石の果物の置かれた円卓に光を投げ、石のライオンが蹲り、石の壁に、マグリット自身の絵画が額ごと石化して掛かる部屋で、 石の山高帽と石の本を手に立つ石の男がルコントなのだ。この“モデル”問題についてマグリットの言っていることが、『春』の場合と全く同じなのが興味深い。

「人物像は詩人のマルセル・ルコントを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、マルセル・ルコントがモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」。彼はそう言っているのだ。彼はルコントを描いた。しかし“それはルコントではない”。ルコントは『春』の人物のようにただ引用されただけであり、ある人格の再現を目指したもわけではない、再現されたものはただのイメージだと、マグリットは言っているのだろう。

 マグリットの絵を次々見ながら、傍に添えられた彼自身のこうしたテクストを読んでいると、これらの断言は、ジョルジェットについても適用されるのに違いないと思われてきた。いや、彼女にこそ、マグリットの見出した“彼の月”にこそ、それはあてはまるのではないか。要するに、次のように彼は言い得たのではないか。「絵の中の人物像は 妻のジョルジェットを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、妻がモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」

 つまりこういうことだ。『春』は、そもそもがイメージであるので、その一部を切り取って二次的に自らの絵の中に再現したものは、コンテクストを切断されたイメージの引用に過ぎないと主張することはむしろ容易だった(若い頃に手がけたコラージュによってではなく、絵筆をとってそれを行なったのは、自らの画業が現実の複製ではなくイメージの複製なのだという、メタメッセージに見える)。『旅の思い出』ではルコントが、マグリットがどこかの図版から丹念に(『春』の“人物”を写し取るのと同様の忠実さで)写し取ったのかもしれないライオンと同列のイメージに、あまっさえ石にされているが、これがスキャンダルでないのは、彼の変哲もない服装と帽子が、むしろあの浮遊する「それぞれ違った男たち」の一人にいつでも加わる資格のあることを示し、抱えた書物もまた、彼が「月について考えるとき、それについての彼自身の考えを持つ」主体であることを表すから、要するにそれが「男のイメージ」であるからだ。

 絵の女がどれも妻であること、さもなければ顔がなかったり怪物だったりすること、妻は美しいがリアルに描かれ、理想化がないことなどを、同行のtatarskiyさんに言うと、(マグリットの場合)「夢から覚めると奥さんしかいないのよ」、だから奥さんを描くのだという応えが返ってきた。なるほど、同じように女は裸で男は着込んでいても、ポール・デルヴォーの世界は、存在しない同じ顔の“夢の女”で埋め尽くされている。フェルナン・クノップフの場合は、モデルとして最愛の妹がいたが、構図通りにポーズする彼女の写真を見ると絵の方が数段美しい。マグリットにはそういうこともない。ジョルジェットには美化、理想化の跡がない。マグリットが十四の時、母は入水自殺した。十四歳で見失った女が二度と見つからなかったのよ、この人は美人画を描けないね、とtatarskiyさんが言う。

『レディメイドの花束』は、男にとっての女とは、文字通りレディメイドでしかないことを明かしていよう。背中に貼り付けた「イメージ」は“夢の女”のものではない。帽子の男の「一部を隠す」必要があり、たんに気に入ったから選んだとマグリットが言う「イメージ」は、引用元がボッティチェリだから意味ありげに見えるが(そうしておいて彼はその意味を否定する)、たとえばヘンリー・ダーガーが気に入って、切り取ってコピーした“アニメ絵”だったとしても同じことだ。ジョルジェットのことも無論マグリットは気に入ったのだ――少なくとも、『春』の“人物”と同じくらい。彼は繰り返し彼女を画布に再現することになるが、それもまた引用なのだろう。

 女(la femme)は見つからず、代りに彼は、彼の妻(sa femme)に出会う。妻のイメージに邪魔されて、夢の女が見えなくなっているのだろうか。妻とは、女と彼のあいだにつねに割って入ってくる、“月”を目指す彼の探求を、常に挫折に終らせる邪魔者ではないだろうか。圧倒的な妻のイメージが、それ以外の女のイメージを、排除し、見えなくしているのではないか。いや、彼女が隠すのは夢の女の不在だろう。彼女がポーズしてくれるから、彼は「本当は一つだけ」の月が上るのを信じていられる。

“女”は存在しない。なぜなら、その別名は男であって、男たちが自分の中には存在しないと信じて、外部に空しく投影する“月”であるからだ。だが、妻が存在する時、彼女は、男がそのことを忘れ、目の前にいる女が自分の幻想には全く同調しない知的な生き物であるのを忘れることを、優しく許してくれる(少なくとも、男はそう信じることができる)。彼女が存在しないとはそのまま彼自身が存在しないことであり、彼がその恐しい事実に直面しないでいられるのは彼女のおかげなのだ。
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by kaoruSZ | 2016-01-01 11:26 | 批評 | Comments(0)