おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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tatarskiyの部屋(31)

※下の文章は以前こちらの記事http://kaorusz.exblog.jp/22596833/に書いた話の補足的な内容になっています。

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小野不由美嫌いな話は前からしてるけど、十二○記だの悪○シリーズだの読む前に『緑の我が家』と『過ぎる十七の春』をセットで読めば作者の凄まじい母親憎悪マザコンミソジニーは丸わかりなのである意味おすすめ。本人がこの2作が自分の原点とマジで言ってるし。

本質的に「思春期を迎えた少女の母親への憎しみ」でしかありえない話を少年におっ被せてるだけだから「少年の心理」としてはリアリティないし小説としても出来がいいとは思わないんだけど。「母親憎悪+少年への自己投影」に『緑の我が家』の方は“母”=“汚らわしい女”と異性愛への憎悪の反対物としてBL(とあまり言いたくないが)要素が入ってて、まあ単に通俗。

自分の女嫌いの本当の原因である「社会と男様の女性蔑視」は絶対直視せず女性性を抑圧して名誉化して逃げてるだけなんだよね。あとこの2作共ホラーなので彼女の描くホラー的要素の核が凡庸なJホラー的ミソジニーで、そういう意味でも名誉なのがわかる。http://bit.ly/2jdOCn1

余談ながら某君の名はの作者の『言の葉の庭』というのは思春期の少年にとっての(自らの性の目覚めと同期した)「“母”もまた“女”であり、“女”は“母”ではない」ことを知ってしまったことによる“母”の喪失という男性のヘテロセクシュアリティの原点(父親が不在の『ハムレット』のバリエーション)と、(靴職人を目指す主人公の少年にとっての「女物の靴を作ること」に象徴される)“母”=失われた永遠の女性への憧憬こそが作家に作品を作らせ続ける、というベタな男性作家の自画像話としては、抑圧されたミソジニーからの逃避も含めてリアルで興味深かった(同作者としてはキモ度低いし)

要は少年を描いても「母=女への嫌悪と不信感だけてんこ盛りで(リアル男ならそれと表裏一体で存在してしかるべき)女性性への憧憬がまるでない」から不自然で感じが悪いだけなんだよね。女としての“女”への反感や怒りは女のものとして描くべきで、男の口を借りてもミソジニーへの加担にしかならない。

長野まゆみや24年組の一部の作家とかもそうだけど、http://bit.ly/2jedb3m
http://bit.ly/2jdJCy 男性同性愛表象の文化的な価値やそれが女性作家にも描けるかという話と、女性作家の描いた男性同性愛作品に“女”や“母性”への嫌悪や忌避が多く見られることは全く別問題で本質的に無関係だし、本当に問題なのは「女性が“母”になること以外の可能性や尊厳を認めない男様仕様の社会からのミソジニー」と、http://bit.ly/2eW7fulそれが抑圧に抗して作家になった女性のことも総じて深く傷つけていて、しかもそういう怒りを直接露にすることを許されていないという、何重にもクソな男様からの抑圧であって、それを「やっぱり女性は一見男の同性愛なんか描いているように見えても、本質は“少女”としての母親への複雑な気持ちなんですよね~少年(男)に見えても本当は少女(女)ですよね~」と本質化しておもちゃにする男目線の偏見は最低最悪のクズだし、http://bit.ly/2eUtp04そういう偏見を“フェミニズム的な評価”としてありがたがって内面化していた連中がセクマイ様に同性を叩き売る女衒クズだったのも当然なんだよね。http://bit.ly/2eUqg0a

「女が男性同性愛表象を描くこと」そのものの価値と権利を正面から要求できない腰の引けた貞淑さと、男様からの“女”としての承認を求める男尊女卑な権威主義の悪魔合体の結果が「BLのフェミ的読解()に群がるクズ共の大量発生」だったわけで、個別の作家・作品への妥当な読解と男様への本当の批判は今でもろくに存在しない。毎度のことだがクソ茶番。


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by kaoruSZ | 2017-09-10 02:11 | 批評 | Comments(0)