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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

装身具

初出 2022年4月8日 骨董品モチーフSS


https://x.com/kaoruSZ/status/1512333237556719621?s=20


「母の失踪後、繰り返し見た夢ーー僕は残忍な王の息子で、母は姦通の罪を着せられ三人の王子とともに処刑されることになる。末の僕だけでも助けようと、お妃は自分の指輪を抜いて鎖を通し、眠っている僕の首にかけて脱出させた。大人になったときに証拠の指輪をはめて、父に会いに来られるようにね。それでお妃の遺品からは指輪が欠けているんだ」


「でもそれはこのセットのことではないわね」と私は言った。「残忍な王がいたのは昔のことで、この装身具一式は現代のもの。それに肝心の指輪をあなたは持っていないじゃない」


「そうさ、母はお妃と違って本物の罪ある女だからね。指輪以外は、僕とともに置いて行った。だから残されたこれらは無価値な物の象徴なんだ」


「もうそんな話はお忘れなさい」と私は言い、彼から贈られたばかりの指輪が光る手を差し伸べた。「お母さまのお品はお仕舞いになって。そして二度と開かないで」


    彼はその通りにした。だから今日、夫の遺品を売り立てることになった私の手元の目録にはあの装身具一式もある。


    物は人より長持ちするし、人の手から手へと移りもする。後の世の人が一式の中に指輪が欠けているのを不審に思い、その空白を新たな物語で埋めようとするかもしれない。残忍な王の血なまぐさい子供部屋の夢よりも、もっと奇しく、もっと美しい物語で。


# by kaoruSZ | 2023-12-22 21:21 | Comments(0)

スターゲート

初出 2023年9月9日 骨董品モチーフSS


https://x.com/kaoruSZ/status/1700466467848986625?s=20


 これを探していましたの。星座盤を手に静かな声で老婦人は言った。見つかるなんて思いもよらなかった。


 思い出がおありなんですね。水を向けると堰を切ったように語り出す。


 ずっと昔になくしてしまったんです。七つの私に従兄がこれをくれて、 スターゲートだと言いました。この門から飛び込めば別の世界に行きつける。その時のための道標(みちしるべ)だと。


 ある晩、星がひときわ輝いて、私は寝室の窓がスターゲートに変るのを見ました。そして星座盤を手に、窓から飛び出し、星の海を渡ったのです。


 気がつくとベッドの上でした。この星座早見が私のスターゲートに似ているのと同じくらい、その寝室は私の子供部屋に似ていました。けれども私は、これこそが私の本当の部屋で、これまでの私の生活とはこのベッドで夜ごと見ていた夢にすぎないのだと知りました。今日からは全く別の、本当の人生をはじめることになるのだと胸を躍らせました。


 そして朝と失望が同時に来ました。そこにあったのはいつもと変らぬ風景、同じ顔ぶれ、退屈な一日にすぎませんでした。


 けれども一つだけ違うことがありました。星座早見がないのです。私の手元にないばかりでなく、尋ねても誰もそれを見たことはないと言い、従兄でさえ、そんなものを私にやった覚えはないと言うのです。あの星の海を渡るとき、きっとどこかで落してしまった星座早見。それを思いがけず今日、こちらのお店の飾り窓に見つけたんですわ。


 もう一度スターゲートをくぐりますか。品物を手渡しながら私は言った。


 いいえ。今では、そこにあるのは暗黒と死と錯乱だと知っていますもの。それに私が本当のスターゲートをくぐる日もそう遠いことではなくなりました。


 私の否定の身ぶりを彼女は微笑で遮った。


 人生で失ったもの、得られなかったもの、二度と見出せないものの象徴として、これをいただきたいの。


 小さな包みを手に、彼女は私に背を向けた。その姿が角を曲って見えなくなってしまっても、しばらくのあいだ軽い足音は廻廊の石畳と私の頭蓋にひびいていた。



# by kaoruSZ | 2023-12-22 20:07 | 文学 | Comments(0)

初出 2022年11月5日 骨董品モチーフSS


https://x.com/kaoruSZ/status/1588732469255475200?s=20


 これが君の家に伝わる祈祷書か。燕脂色の天鵞絨に私は指を走らせた。見てもいいかな。


 もちろん。


 Dは笑顔で答えたが、その息づかいの荒さを私は聞き逃さなかった。大丈夫なのかい、心臓は。


 父と同じで、いづれはこれが僕を殺す。だが今は大丈夫だ。


 D家は、長命の家系とは言い難かった。それは代々の当主の燕脂色の祈祷書への書き込みが、速い周期で筆跡を変えているのでも分る。壁に掛った彼らの肖像ほどにも、それらの文字には共通したところがない。しかし、一見似ているようには思えない肖像画が、よく見ると世代を超えてD家の特徴を顕しているように、てんでんばらばらの手跡は癖の強さという点で一致していた。


 その点、わが友は変りだねで、たまによこす手紙の文字は惚れぼれするほど流麗だった。僕の先祖には時々死を超えて生きようとする奴がいてね、と彼は言った。人間の見果てぬ夢さと私は言った。所詮無駄な抵抗だ。


 そうでもないんだ、とDは祈祷書の頁を繰った。ここに僕と同じ病気で死にかけた先祖の一人がいる。彼は病状と快癒の願いを記録している。このあと、筆跡が変っている。


 息子が跡を継いだんだね、と私。いや。白い手が素早く頁を遡る。見ろ、同じ手だ。私は覗き込んだ。似ている。だが、同じ人間ではありえない。そう答えたのは、さらに百年前の日付だったからだ。そう、ありえない。でもありえないことも起るんだ。彼は先祖から命をもらって生き延びた。


 何を言ってるんだこの進歩の時代に、と私は言った。今は十九世紀じゃないか。そう、何世紀も前の話さ。Dは力なく微笑した。今の僕は先祖の命でも欲しいよ。


 くれぐれも養生してくれたまえ。手を握って私たちは別れた。帰りの馬車の中で、私はDの話を考えた。それは命をもらうのではなく、先祖の一人に身体を乗っ取られるということではないのか。何にせよ心弱った男の妄想だ。

 

 しばらくして、Dが快方に向ったと聞いた。春になったらまた来てくれと手紙が届いた。私は喜んだが、新しいもの嫌いの男がタイプライターを使っているのには驚いた。しかも署名までタイプとは。


# by kaoruSZ | 2023-12-20 19:03 | 文学 | Comments(0)

頭文字

初出 2019年12月7日 骨董品モチーフSS


https://twitter.com/kaoruSZ/status/1203325242044645377


 遠い夏、植民地で財をなした大叔父を父と訪ねた。父も私の年頃に滞在し当時は彼の友人もいたが今は召使のみ、それでも釣りをしようと袖を捲ると精悍だった昔が偲ばれる。肘の内側に刺青を消そうとした痕を見たのはその時だ。


 珍しいかねと大伯父は言い、私は不躾を詫びたが、相手は終始笑顔で、身体に刻みつけたいほどに愛した相手を肉を削いでも忘れたいと思うようになることもある、坊やも今に分るさと言った。


 数年後何かの拍子に大叔父の名を出すと、父は、あのイニシャルは叔父さんの植民地での偽名という噂もあってねと意外なことを言った。大叔父は逝き父も今は亡い。ある日美しい少年が訪ねてきて大叔父の名を出し、唯一残る縁者の私に返還をと印章を取り出した。


 この傷、父がやったらしいです。父は養子でしたが、先頃亡くなる前に、昔この印章で祖父とやり取りしていた相手、つまり貴方の大叔父さんの手紙を全部焼きました。父が嫉妬からイニシャルを削りかけた印章はご親族へと、遺言が。


 少年が去ると夕べの窓に私は印章を横たえ、思いにふけった。肉に食い入って消せなかった文字の記憶とまさ目に見る月光色の印章は、何ごともなかったように闇に沈みつつあった。



# by kaoruSZ | 2023-12-20 11:12 | 文学 | Comments(0)
『舞姫』を読み返しての感想を書くだけのつもりが、書きはじめる前には考えていなかった内容と長さになってしまったが、これでようやく六草いちか著『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』(単行本二〇一一年、文庫(改訂)版二〇二〇年)の話ができる。まずは、これ自体六草氏の本を読んで気づいた、拙文「『舞姫』ノート(上)」中の事実関係の誤りを一つ、急いで指摘しておきたい。小泉喜美子の「森於菟に」と、その宛先とされた於菟の文章についてである。

 於菟の文章が「『舞姫』にモデルのあったことを世に知らしめた初めとは今回ネット検索していて知ったが、どうやら小金井喜美子にはこれがてんから気に入らなかったらしく」云々と私は書いた。この話は、同書の六十五頁に早速出てきた――「鷗外とその恋人について触れたものは、鷗外の長男森於菟が書いた「時時の父鷗外」が最初という」(出典は山崎国紀『森鷗外〈恨〉に生きる』)。これは昭和八年『中央公論』に掲載されたもので、その十年後の文章で於菟はこう書いている。「叔母は初め私が中央公論に発表した『時時の父鷗外』を読んで、私に寄せた形の『森於菟に』一篇を、昭和十年冬柏第六巻に連載」……ん? 中央公論? 冬柏? 「森於菟に」は『鷗外追想』で読んだばかりだったので、初出は昭和十一年と覚えていた。載ったのも「冬柏」ではない、「文学」だ。しかも於菟の記事について喜美子は「高千穂丸のサロンでお書きになったものを新聞で拝見しました」と書いているのだから、喜美子があげつらっているのは「中央公論」に載った文章ではない……

 読み進んで、九十三ページ先で謎が解けた。六草氏も、抜粋のみを目にしていた「文学」版のつもりで、同題とは知らず、最初、もう一つの方を入手して内容の違いに当惑していたのだ。

「まさか二種類あるとは思いもしなかった」(一五八頁)。全くである。

 エリスのモデルについてはじめて公に筆にしたのが於菟だったというのは間違っていないが、喜美子が「文学」版の「森於菟に」で対象としている文章は於菟が「高千穂丸のサロンで」書いて「」に載ったものであり、「時時の森鷗外」ではなかったのでここに訂正しておく。

✳︎

 さて、喜美子の回想(「文学」掲載版)の抜粋をあらためて読んだ六草氏は、私がそうではないかと思った通り、まさしく、帰国したエリスの消息として鷗外から伝えられたという「帽子会社の意匠部に勤める約束」に注目していた。「(…)実際とは異なる内容を綴ってしまう喜美子だけれども、その中に事実が点在していることも確かだ。(…)帽子会社に勤めることになったと虚偽の公表をすることが、森家に有利に働くとは思えないだけに、あながち嘘でもないかもしれない。『ヴィクトリア座の踊り子にまた戻った』などと書かれていたなら眉唾モノだけれども、帽子会社の意匠部とは、意表を突かれはするものの、手先の器用さに関連する職業だけに真実味を感じる」(一六一頁)。

 このあと紆余曲折の末(これは是非実際に読んで頂きたい)、著者は、喜美子の証言に一致するエリーゼ、すなわち(会社勤めではないが)婦人帽製作者を名乗るエリーゼ・ヴィーゲルトが「少なくとも一八九八年から一九〇四年のあいだベルリンに在住していたこと」を確認している。

 六草氏によれば、一八八八年の九月十二日に横浜に来航したエリーゼ・ヴィーゲルト(この名前が、当時横浜で発行されていた英字新聞「ジャパン・ウィークリー・メイル」掲載の、海外航路の乗船者名簿にあることが一九八一年になって発見されたのは私も知っていたが、六草氏の著書には、これについても、件の名簿の写真を添えて詳細が書かれている)については、於菟の「時時の父鷗外」以降、「森家の人々による回想合戦が繰り広げられ」、「私がざっと数えただけでも」「三年の間に実に七本も立て続けに公表されている」(六十五頁)。具体的には昭和九年(一dw九三四年)から十一年四月まで、書き手は於菟、杏奴、喜美子である。

 なぜこの時期なのか。志げ(一九三六年没)の目にもはや触れる心配がなくなっていたのだろうか。死ぬ前に鷗外が“エリス“からの手紙や写真を焼き捨てさせた話は、杏奴が母の志げ自身から聞いたものでこれは読んだことがあったが、杏奴の著作は他の子供たちのとは違って単行本で通読してはいないので、何かに収録されていたのを見たのだと思う。

 いかに私がこれまでこの件について無知であったかに触れつつ進める次第になるけれど、於菟と杏奴二人の回想について六草氏が言う、「どちらも、鷗外を諦め切れなかった恋人が鷗外の帰国後、後を追って横浜までやって来たというもの。鷗外は恋人に会うこともなく、於菟によると鷗外の弟の篤次郎と親戚の某博士が、於菟によると鷗外の友人が、鷗外に代わって横浜港外に停泊中の船に出向き、恋人を船から降ろすことなく説き伏せて、金を与えて帰らせたという内容である」という程度の認識が、結構長く続いたと思う。於菟の本を読んだのも後年なので、やはりもう覚えていない何かで見たのだろうが、このヴァージョンが本当なら、周囲の男どももたいがいだが、なんといっても日本まで追って来た女を上陸もさせず、親族や友人に対応させて自分では会わなかったという鷗外がひど過ぎると誰もが感じるだろう。『舞姫』の相澤による代行を、何やらなぞったような、とその時は思いもしなかったが、前にも書いたように当時は『舞姫』を書いたあとに起きたこととばかり思いちがいしていたので、「あはれなる狂女」にして(少なくとも作品中では)片付けたはずの相手が、生きた人間として突如海の向うからやって来た、という印象を持っていた(現実にはしかし、何も終っていなかったのである)。

“エリス“が実は船を降りて「築地の精養軒」に滞在し、説得を受け入れて円満に日本を離れたという話をその後知ったが、喜美子が二番目の兄篤次郎について書いた「次ぎの兄」という文章を読んだことはないので、やはり何か他のところで見たものだろう。六草氏の引用を借りれば、喜美子は「兄篤次郎の生涯を振り返ったその文の中に、『あわただしく日を送る中、九月二十四日の早朝に千住からお母あ様がお出になつて、お兄い様があちらで心安くなすった女が追って来て、築地の精養軒にいるというのです。私は目を見張って驚きました』と、いきなり鷗外の恋人来日騒動の顚末を持ち出した。//(前略)八日お帰りの晩に、お兄い様はすぐその話をお父う様になすったそうです」(七十一頁)。鷗外の父も母も当時千住にいたのだが、八日とは九月八日、帰国当日の父への報告ではないか。やはり“エリス“は一方的に追いかけて来たのではない、百歩譲って示し合わせてではないとしても、彼女が今にも横浜に到着することを、鷗外は知っていたのだ。

「目を見張って驚いた」という喜美子は、続けて自分ヴァージョンの『舞姫』を熱心に語りはじめる。太田豊太郎と違って健在だった父に、鷗外がしたという釈明は、「ただ普通の関係の女だけれど、自分はそんな人を扱う事は極不得手なのに、留学生の多い中では、面白ずくに家の生活が豊かなように噂して唆かす者があるので、根が正直の婦人だから真に受けて、『日本に往く』といったそうです。踊もするけど手芸が上手なので、日本で自活して見る気で、『お世話にならなければ好いでしょう』というから、『手先が器用なくらいでどうしてやれるものか』というと、『まあ考えてみましょう』といって別れたのだそうです。」

 この中で注目すべきは(帽子作りとの関係で)「手芸が上手」「手先が器用」くらいだろう。「心安く」する(「森於菟に」にも「エリスという女とは心安くもしたでせう」とあった)も、「普通の関係」も、正式な妻にする必要のない女と性的関係を持つことの婉曲表現なのか。エリスが金目当てだったという印象は、エリスに会った夫の小金井良精が、どんな様子の人かと妻に訊かれて言ったとされる、「何小柄な美しい人だよ。ちっとも悪気の無さそうな。どんなにか富豪の子のように思い詰めているのだから。随分罪なことをする人もあるものだ」という、“ちっとも悪気の無さそうな“台詞で増幅される。しかし、毎日ホテルに通って説得した結果(向うも話相手が欲しくて待っていたと主張される)、ついにエリスが諦めて、帰る日も決まり、「忙しいので二、三日間を置いて、また精養軒へ行って見ましたら、至って機嫌よく、お兄いさん[篤次郎のこと]と一緒に買物したとて、何かこまこました土産物を並べて嬉しそうに見せたそうです。(…)その無邪気な様子を見て来て、 /「エリスは全く善人だね。むしろ足りないぐらいに思われる。どうしてあんな人と馴染になったのだろう。」/「どうせ路頭の花と思ったからでしょう。」という会話に至ると、もはや無邪気さの衣からのぞく悪意が隠しようもなく、「どんな人にせよ遠く来た若い女が、望とちがって帰国するというのはまことに気の毒に思われるのに」と書いたところで、気の毒だなどと毫も思っていないのが見え見えだ(傍目にも気の毒な状況なのに「舷でハンカチイフを振って別れていったエリスの顔に、少しの憂いも見えなかったのは不思議」だったと、「足りない子」扱いを重ねてするためのレトリックである)。

 極め付けは、「エリスはおだやかに帰りました。人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考えさせられました。」「誰も誰も大切に思っているお兄い様にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした。」こんなことを書いて、未来永劫反感を買わないと信じられたのが不思議である!

 かくして「小柄で美しく善良そうで、本職は踊り子だが手芸も得意な、『舞姫』のヒロインと同じ「エリス」という名の女性は、無理やり日本に押しかけた挙句、喜美子に「路頭の花」との烙印を押された。/こうして、人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けた哀れな女「鷗外の恋人エリス像」が誕生した」(七十五頁)。

「誰も誰も大切に思っているお兄い様にさしたる障りもなく済んだのは家内中の喜びでした」とは、この一年余り後の一八九〇年一月に『舞姫』が発表されて好評を取り、「今までの何か心の底にあつたこだはりがとれて、皆ほんとに喜んだのでした」という、先に引いたこれも喜美子による一行を思い出させる。

 しかし一八八八年の九月十二日に横浜に来て十月十六日に去ったドイツ人女性が、本当に喜美子の描いて見せたような人物であり、鷗外との関係がそれだけのものだったなら、於菟が祖母から言われたような「あの時私達は気強く女を帰らせお前の母を娶らせたが父の気に入らず離縁になった」とか、当時鴎外が苦しんで非常に痩せ、大切な息子に万一のことがあってはと、「祖母は、自ら勧めた結婚ではあったけれど、今度は率先して、離婚を望むようになった」とか(杏奴が母から聞いた話)は、起らなかったろう。しかし喜美子は、甥の書いたものを否定しても、大切な「お兄い様」のイメージを守りたかったようだ。

「ところが喜美子の築き上げた虚構が音を立てて崩れる日がやってきた」(七七頁)。「そのきっかけとなったのは、一九七四年に星新一氏が発表した『祖父・小金井良精の記』(河出書房新社)だ」。

 これは知らなかった。本の存在と星新一の血筋は承知していたのだが。六草氏によれば、一九五六年に出した『鷗外の思ひ出』で、喜美子は「再びエリス来日の顛末を回想している」。そこでは「夫、小金井の日記も引用しつつ」、「恋人は『エリス』という名だったこと、鷗外は会いに行かなかったこと、夫が日参し説得に当たったことを改めて強調していた」という(七八頁)。「ところが星氏によって良精の日記には恋人の名が「エリス」であるとはどこにも書かれていないことや、鷗外は恋人の滞在中、頻繁に会っていたことが露呈した」(!) 夫の日記を参照しながら、それでもそう書いたのなら、これは記憶違いなどではありえず、完全な虚構、いや虚言ではないか。「説得」についても、「小金井が日参したのは最初の三日だけで、その後は四日も間を空け、一度訪ねてまた一日空け、次に訪ねた折には『こと敗る。ただちに帰宅』の事態に陥り、その後は日参どころではなくなっていく様子が明らかになった」(七八頁)。「毎日主人は精養軒に通いました。あちらも話相手が欲しいので待っています」(「次ぎの兄」)とは何だったのか。

 だいたい「エリスが来た」という話で一番引っかかるというか、納得がいかなかったのは、はるばる海を渡って見知らぬ異国へやって来ながら、“エリス“が鷗外に会わずに帰ったというところだった。船から降りてホテルに滞在したというヴァージョンでさえ、「鷗外自身は彼女が帰国を決心するまで会おうともせず、帰国の交渉から旅費の調達や旅券手配に至るまでを喜美子の夫一人に奔走させ、遂に滞在を断念した彼女を喜美子の夫と連れだって横浜の港まで送って行った」(七四頁)とされていたのだ。

 六草氏も言っている。「エリスが帰国を口にするまで鷗外は会いに行かなかったと言うが、そんなことが可能だろうか。鷗外本人は姿を見せることなく、『弟の篤次郎です』、『妹の夫の小金井です』と、入れ代わり立ち代わりやってくる見知らぬ男たちを前に、エリスはそれらの人々が鷗外の家族や親族であると、どのようにして知ったのだろう。『根が正直の婦人』ゆえ、言われるままに真に受けてしまったというのか」(七十七頁)

 その昔、エリスが鷗外を追って来たと聞いて、高校生の私はなぜ驚いたのだろう。シンデレラが身籠った「生ける屍」と化して王子様から千行(ちすぢ)の涙を濺(そゝ)がれるアンハッピーエンドの彼方から、その前のペテルブルクへの手紙に見る、豊太郎への強い愛と強い意志とを併せ持った「現実の女」が現れたのをを感じ取ったからではないか。

 小金井良精はいったい何に敗れたのか。「『こと敗る』のすぐ前には『林太郎氏の手紙を持参す』と書かれている」(七八頁)。六草氏の記述によれば、どうも小金井が小細工を弄して、エリスを怒らせたらしい。「星氏によると、小金井自身も留学中に女性と関係があったが自分で結末をつけて帰国しており、後輩たちの女性問題に口をきくことが何度もあったという。その解決方法は金銭しかないとも言い切っている」(八〇頁)。要するにこれが、女との「普通の関係」だったのだ。

「森於菟に」(「文学」版)の中で喜美子は、「エリスという人」についてこうも言っている。「快よく帰国したのは、主人が一二度行つて話す中(うち)に、家庭の偽らぬ様子がわかつてあきらめたのです。其頃はまだあちらの人達に日本の国情がよくわからず、幾分生活状態を買ひ被つて居たのだと聞きました。そんな例はいくらもあつたさうで」。これは鷗外が父に言ったと喜美子が伝える「家の生活が豊かなように噂して唆かす者がある」や、良精の「どんなにか富豪の子のように思い詰めている」と同様、美しいが少し足りないくらいの女が、 誤解から軽はずみにも財産目当てで押しかけて来たというのと同工だが、それはまた、「解決方法は金銭しかない」(金で解決できる)という男たちの認識の反映でもあろう。もしエリーゼがのちに彼女をモデルに書かれるエリスのように「君は故里(ふるさと)に頼もしき族(やから)なしとのたまへば、此地に善き世渡のたつきあらば、留り玉はぬことやはある。又我愛もて繋ぎ留めでは止まじ」と考える人だったら、金の話ばかりする“やから“どもには怒りと絶望しかなかったろう――「頻繁に会っていた」という、恋人からの言葉がなければ――しかしその恋人は、太田豊太郎のモデルなのである!

 六草氏によれば「『こと敗る』の内実は定かではない。けれども『こと敗る』の事件の後、小金井はこの件を避けるかのような日々を過ごし、一週間ほど経ってから、鷗外の親友、賀古鶴戸の訪問を受け、鷗外のことについて話があったと、再び本件が浮上する」。(!)

「後述の石黒日記には、同日、石黒が賀古に鷗外のことについて相談したとも書かれている。『林太郎氏の手紙』が引き起こした何かのために、代わって賀古が奔走していたのかもしれない」(八〇頁)。まるで『舞姫』をなぞるような“相澤“の影がここにも――いや、むろん話は逆であって、この時期に起ったことがやがて『舞姫』の材料となったのだ。

「エリスを帰国させるために一人奔走したという、あの森家の英雄」(六草氏の皮肉)小金井良精の実態が明らかになった翌年には、鷗外の上司石黒忠悳の日記の抜粋が鷗外全集月報に公開されたそうだ。「この日記によって、鷗外と石黒が帰国すべくベルリンの駅を出発した直後に、鷗外が石黒に恋人の来日予定を報告していること、その後、日本に辿り着くまでの鷗外の挙動に変化が起きていること、抱えた思いを漢詩にしたためていることなどが明らかになった」(八二頁) やはり「詩に詠じ」ても「心地すがすがしく」はならなかったようだ。そして「エリスが来る」ことは、晴天の霹靂ではなく、完全に予定の行動だったのだ。

 それにしても喜美子はなぜそこまで喜美子版『舞姫』のでっち上げに熱心だったのか(“大切な「お兄い様」のイメージ“と書きながらも、一体どんなイメージ?と考えていた)。嘘で固めてまで、何を守りたかったのか。エリスが「路頭の花」(これはstreet girlの意味なのだろう。なお以前の引用時に路頭を路傍と打ち間違えていた)などではなく、鷗外の愛に値する人で、結婚の約束をして日本に来たという話ではなぜ駄目なのか。もともと私は、小金井喜美子の名は、エリス追い返しに女たちが熱心だったと読むまでは、『於母影』の共訳者で鷗外の妹の才媛としてしか知らなかった。「分別くさいオバサン」などとは、間違っても書くはずがなかった。

 鷗外の「次の兄」の下に生まれた妹なら、喜美子は“エリス“来訪時、二十一歳だったエリーゼ・ヴィーゲルト(この年齢は六草氏の調査で確定した)とあまり変らぬ歳だったのではないか。生年を確かめたところ、エリーゼより四つ下である。留学時の女性関係を金で始末して帰国した年長の医師の後妻になったばかりだった。新婚の喜美子の目に、といっても夫に聞いた話から想像するだけで直接見てはいないのだが、恋人を追って他に誰ひとり知る者のない国まで波濤を越えてやって来た「常ならず軽き掌上の舞をもなしえつべき少女」(『舞姫』中の文句だが、小柄な美しい人だと夫に聞いたと回想しながら、『舞姫』にそうあるのも頷けると喜美子は書いている)はどう映ったのだろう。喜美子は、会うことのついになかった、この異国の女に何を感じたのだろう。まずは嫉妬だろうが(自分で選んだ愛する男を持つことと、「お兄い様」を取られることへの)、それだけではあるまい。十七歳の喜美子は本当に、「人の言葉の真偽を知るだけの常識にも欠けている、哀れな女の行末をつくづく考え」たのだろうか。その時点で、失うもののあまりの大きさに“森一族“総出でエリーゼを追い返したのはまだ分る。だが、「お兄い様」の死後十年も経って甥に説教するのは何を守ろうとしたものか、やっぱり分らない。

 先に良精がエリスに渡した「林太郎氏の手紙」について、「どうも小金井が小細工を弄してエリスを怒らせたらしい」と委細を省略して書いたが、そこで六草氏が参照していたのは,、林尚孝著『仮面の人・森鷗外―「エリーゼ来日」三日間の謎』であった。実は右のツイートをしたその日に、林氏のサイト《森鷗外と舞姫事件研究》  http://ntk884.blue.coocan.jp/index.html を見つけた。サイト主はすでに二年前、故人となられていたが、そこには多くの論文や講演記録が残されており、小金井日記も石黒日記も十分な翻刻が出ていなかった当時に、原典を精査して幾つもの発見をしていると知った。六草氏は、件の「林太郎氏の手紙」と鷗外作の短歌との関連を主張するくだりを、同書から次のように引用していた。

「林尚孝氏はこの手紙に関して(…)『護謨をもて消したるままの文(ふみ)くるるむくつけ人と返ししてけり』の一首を挙げ、まさしくこの件を詠ったのではないかと指摘する。氏はこの歌を『消しゴムで消した跡のある手紙を寄こした無作法な人にそれを突き返しました』と訳し、消しゴムの跡さえ見える鉛筆の下書きのようなものを鷗外からの手紙として差し出し、エリーゼを怒らせたのではないかと推測している。」

《森鷗外と舞姫事件研究》にも同じ内容が読めた。さらに、これより前、良精が三日連続で築地精養軒に通った(そして続く四日間中断した)その最終日である九月二十七日の小金井日記について、林氏は面白いことを書いている。この日、良精は「午後四時ヨリ集談會出席、医学會ハ欠席ス」と記している(原文ハコノ通リ片仮名デアル)。「研究を重視する小金井が学会出席を取り止めてまで精養軒に赴いたわけで、(…)一方、鴎外は、小金井の医学会出席を予想して、この時間帯にエリーゼを訪ねたのではないか」と林氏は言うのだ(「鴎外の帰国からエリーゼの離日まで─ 「舞姫事件」考(その八)」http://ntk884.blue.coocan.jp/ougai8.html ) 日記は、「五時半過/出テ/築地西洋(ママ)軒ニ到ル、林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル」と続く。「良精は、思いがけず鴎外と顔をあわせたため、『暫時ニシテ去』った」と、林氏は推測するのである。「森家代表として交渉に当たっていた小金井は、林太郎がエリーゼと密かに会っていることを知り、彼が交渉の不成立を図っていると考えたものであろう」

 喜美子の書き方では、現地で心安くしただけなのに身の程知らずにも押しかけて来たお騒がせ女にともかく本人を会わせまいとして、義弟(良精が年長なので兄?)や実弟が矢面に立って奮闘したかのようであった。だが、実はこの時、“森一族“は大きな問題を抱えていた。林氏の文章で正確な時期をはじめて知ったが、「九月一八日に、鴎外の祖母於清が西周に対して赤松登志子との婚約につき「承諾」の返事を行い、森家と赤松家の婚約が成立していた事実」があったのだ。

 まさにエリーゼの日本滞在中、来るべき結婚準備は着々と進んでいたのである。

 林氏は、九月二十四日――(「早朝に千住からお母あ様がお出になつて、お兄い様があちらで心安くなすった女が追って来て、築地の精養軒にいるというので」喜美子が目を見張って驚いた日――の小金井日記の、「夕景千住ニ到リ相談時ヲ移シ十二時半帰宅」の一文に注目する(六草氏の本で読んだ、この朝、「同じ頃に弟篤次郎は喜美子の夫小金井を大学に訪ねて、鷗外の恋人の来日を報告した。それを受けて小金井は、その日の夕方に森家に立ち寄り、エリーゼを穏便に国へと追い返す役目を引き受けた」(頁)のもとになる記述が、これとその一つ前の「今朝篤次郎子教室ニ来リ林子事件云々ノ談話アリ」だった)。この時肝心の鷗外はどこにいたのか、私の視野からはすっぽり抜けていたけれど、彼もまたこの家族会議の場にいたようだ。さぞ針の蓆だったに違いない。

「仮に鴎外がこの時点でエリーゼの帰国に同意していたならば、相談は短時間で終わったはずである。十二時半帰宅ということは、議論が紛糾したからに相違ない。「長時間の議論の末、こうした既成事実[婚約成立]をつきつけられた鴎外は、エリーゼとの離別を心ならずも認めさせられたのであろう。帰国交渉を任せておきながら、良精に無断で鴎外がエリーゼと密会している事実を知り、小金井は交渉を中断したと推測される。/小金井の三日間の熱心な精養軒通いと、その後四日間の交渉中断の事実は、鴎外が、森家一族に対し面従腹背の態度を取っていたと考えて、はじめて理解することができる」(林)

 先に「金の話ばかりする“やから“」と書いたけれど、エリーゼが金目当てでないとすれば、鷗外との仲をあきらめさせるには、結婚ができない理由を具体的に提示するしかなかったろう。しかし「頼もしき族(やから)」がどんな理由を出してみせようと、もし鷗外が、それでもエリーゼと結婚するという決断をするなら、全てが崩れ去る。「林太郎氏の手紙」(日記原文では「林子ノ手紙」)は、その可能性を断つべく、十月四日、良精によって築地精養軒へ持ち込まれたのであろう。結果は、「午十二時教室ヲ出テ/築地西洋軒ニ到ル林子ノ手紙ヲ持参ス事敗ル/直ニ帰宅」であった。ちなみに、四日空いた訪問が再開された十月二日には、「『築地西洋軒ニ到ル模様宜シ六時帰宅』の文言からみて、帰国交渉は順調に進んでいたかに見える」と林氏は書いている。

「『舞姫』ノート(上)」で作品の内在的な構造の分析を試みた者としては、ここで小金井が“相澤“の役をやっていることに注目しない訳にはいかない。本来自分で言うべきことを、鷗外は義理の兄弟に――まさしく妹を介したホモソーシャルな絆で結ばれた相手に代行させている。小金井もかつて留学時にしたように、最終的には金で片づく話のはずだった。ところが、この“分身“が三日目に女を訪ねてみると、なんと不在のはずの“兄弟“がそこにいて、彼の努力を台なしにしているではないか。“分身“が、ショックのあまり、四日間姿を見せなかったのも無理はない。本当に、こうして明らかになった現実は、なんと未来の作品に奇妙な仕方で似ていることだろう。

 林尚孝サイト《森鷗外舞姫事件の考察》を少し読みすすみ、ツイートの下書きをしたところで誤って後半分を削除してしまった(それで昨日の分はない)が、気を取り直して本屋に寄り、『現代語訳 舞姫』(井上靖訳)を買った。先日見かけて手に取る気もしなかった本だが、「資料篇」として星新一の「資料・エリス」と未読の喜美子による回想文の一つ「兄の帰朝」、あと前田愛の文章(これは『舞姫のトポグラフィー』とか宣って『外的空間から内的空間に入り込んだ異邦人の豊太郎が、最終的にはエリスを破滅させ、ふたたび外的空間に帰還して行く、ほとんど神話的と呼んでもいい構図である』とか、本ッ当にどうでもいいんだが)が入っている。星は小金井日記原文の片仮名を平仮名に変え句読点を加えいわゆる「読みやすく」しており、(これに限らないが)こういうのを見ていると、林氏が現物を見たいと思った(尋ねあててしまうのがすごいが)のもよく分る。

 例の、峰が喜美子に急を告げるより十日前、良精は千住を訪ねて、林太郎の帰国後はじめて対面している。「いまや良精は、林太郎の義弟という関係になっている。もっとも、良精の方が年長であるが」。前に「義弟」と書いて(兄?)とカッコ書きしたが、そのあと、やはりこれは自分の身内を基準に呼ぶのであろうと思っていたところ、おととい図書館で、あまりゆっくり読めなかった鷗外の短篇集の中で『大発見』というのに、「僕の弟にも一人土器を掘り出して歩くのがある」という一行を発見、註に小金井良精を指すとあった。掘り出していたのはアイヌの骨ばかりじゃなかったのか。(ちなみに良精に喜美子を取り持ったのは賀古である。)この短篇の、鷗外と完全に同一視されうる、『舞姫』とはうってかわって愉快な語り手が、「僕は椋鳥として輸出せられて、伯林の間中に放された。ドロシュケに乗って公使に会いに行く」と言っている、その在ベルリン日本公使は妻がドイツ人だったそうで(貴族の娘とはいえ)、陸軍武官でさえなかったらほんとに国際結婚できたんじゃないか。閑話休題。星は喜美子の「次ぎの兄」から引用しており、私が読んでいなかった、エリーゼ来朝時の次兄の様子を綴った部分も引いていた。

「お兄いさん(篤次郎)は町の案内などします。気軽な人ですから、エリスともすぐ親しくなったのでしょう。私が『どんなようすですか』と、お兄いさんに聞きますと『僕は毎日、語学の勉強をしているよ』と笑って平気なので、人がこんなに心配しているのにと、ほんとににくらしく思いました」と、兄同様、医者でもあり、のちに歌舞伎評論の三木竹二になる、気の毒な最期を『鷗外追想』中の誰かの回想で読んだ記憶が新しい篤次郎の、さもあらんという様子が生きいきと書かれている。先に引いたようにこの人が“エリス“をエスコートして、街で彼女が日本の袋物などをいろいろ買ったというのも頷けて、そこは作り話でなかろうと思わせる。「何かこまこました土産物を並べて嬉しそうに見せ」る「無邪気な様子」を、「エリスは全く善人だね。むしろ足りないぐらいに思われる」と、「足りない子」のレッテル貼りに利用されてしまうのだが(ちなみにエリーゼの妹の孫を探しあてた六草いちか氏は、そういう品物の有無を尋ねているが、彼女が日本へ行ったことがあることは皆知っていたものの、袋物は覚えがないという返事だったそうである)。

 星は祖母の文章をすっかり信用して、「女は少し足りないぐらい気がよく、軽く考えてやって来たとも考えられる」と書いている。この直前の文章は、“エリス“の旅費について、「林太郎からもらった手切金ではなかったろうか。林太郎はこういうことに不器用で、金を渡したはいいが、話をはっきりつけなかった」と臆測しているもので、これが、喜美子が帰国当日の「お兄い様」から「お父う様」への言葉として残している、「ただ普通の関係の女だけれど、自分はそんな人を扱う事は極不得手なのに」云々に基づいているのは明らかだ。それにしても鷗外からの手切金で“エリス“が日本へ来たという珍説ははじめて見た。

 良精がエリーゼを二度目に訪ねた九月二十六日、「三時半、出でて築地西洋軒に至る。いよいよ帰国云々」というのを、星は「それにしても、良精の説得はみごとである。二日目の面会で、彼女を翻意させ、帰国する気にさせてしまっている」と誤読している。これが誤読なのはすでに林氏の文章でも触れられているのを見たたが、その後の経過を知らなくても、二日目でいよいよ本題に入った意味であると普通に読めよう。結婚するつもりで来たのにホテルで待たされたあげくの帰国話に、エリーゼの驚きはいかばかりであったろう。星曰く「ドイツの大学教授風の身ぶりと、ゆっくりした口調とで話すと、相手は従わなければならない気分になってしまうのだろう。そして、解決法は金銭しかない。ほかに方法はないのである」。

 祖父の説得で二日目に早くも金額の折り合いがついたと星は見たようだ。これが全くの空想でしかないことは言うまでもない。実際、「かくして、この件も解決と思われたが、そううまく進展はしなかった」。エリーゼは、「その結末を自分でつけている」良精のドイツでのお相手や、彼が「女性問題の解決に口をきいた」「後輩たち」の場合とは違ったのか。それ以上に、金の話など出る段階では全くなかったという方がありそうだ。交渉二日目、いよいよ帰国云々。翌日は言うまでもなく、良精が大事な医学会を休んでまでエリーゼを訪ねた日である。

「五時半過/出テ/築地西洋軒ニ到ル、林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル」(この後半の文意については、星が「良精の日記は、自己の行動をしめくくって終るのが特徴で、この場合、暫時にして帰ったのは良精のほうである」と保証してくれている)。林氏が「良精は、思いがけず鴎外と顔をあわせたため、『暫時ニシテ去』った」と言っている、「暫時ニシテ去ル」である。

 良精の人のよい孫は、「当事者の林太郎は顔を出すべきでないのに、彼女に会いに行っている。なつかしさのあまりの行動なのだろうか。良精のすすめ、あるいは了解の上での面会なのだろうか」と、埒もないことを思いめぐらしている。さすがに、「彼女の滞在中、良精の日記にはないが、ほかにも何回か会っているのではなかろうか」とは思い至っているが。「林子ノ手紙」については、林氏(ちょっとまぎらわしい……林先生と呼ぼうか)の解釈を六草氏が引いている文をすでに引用したが、星はこの手紙のことはこう言っている。「林太郎の手紙を、良精は彼女のところに持参した。なにが書いてあったのだろう。なぜ彼女は感情を害したのだろう」

 確かに、「鴎外が、森家一族に対し面従腹背の態度を取っていたと考え」なければこれは分るまい。とはいえ、太田豊太郎の面従腹背(誰に対して?)ぶりと比較するなら容易に思いあたることだ。「子供が大人の父である」ように、現実が来るべき虚構を反映している。林太郎は「この情縁を断たんと約し」、その種の問題に長けた義弟に交渉を託すことを「承りはべり」と答えた。女のことを彼は父親に告げていた。しかし女がもう来ていて築地精養軒にいることは、二十四日まで一家の誰も知らなかった。彼はその間にも女を度々訪ねていたし、交渉二日目には良精が本郷に留まると踏んで女に会いに行き、やって来た義弟と鉢合わせするという気まずいことになった。

 しかしクロステル街の部屋と違って、築地精養軒に“人事不省の豊太郎“は存在しない。結婚の約束を信じている女と密会する、森林太郎がいるだけだ。「相澤」はその場でエリーゼに本当のことを言うわけにはゆかず、姿を消す。エリーゼは、この時もなお林太郎との未来を信じていたのだろう。私見では良精がエリーゼの部屋に「既ニ来テ在」ル森林太郎を見出すのは、相澤が屋根裏部屋を訪ねるのに匹敵するクライマックスである。相澤はその場で真相を暴露してエリスを「殺す」が、良精は一週間後、「林子ノ手紙」を渡すのである。

「喜美子の築き上げた虚構が音を立てて崩れる日がやってきた」と六草氏が書いているくだりで参照されている二つのテクスト、『祖父・小金井良精の記』の“エリス“に関する部分と、『鷗外の思ひ出』所収の「兄の帰朝」の両方を、『現代語訳 舞姫』(ちくま文庫)という二百ページ程の薄い本で一度に読めたことになる。有難いが、肝心の(なのでしょう?)「現代語訳」、ページを適当に繰っただけで誤訳が三つ四つ、目に飛び込んできた。こりゃなんだ。悪口言いたいけれど横道にそれるから今はやめておく。ただ、「赤く白く面を塗りて、赫然たる色の衣をまとひ、珈琲店(カツフエエ)に坐して客を引く女(をみな)を見ては、行きてこれに就かむ勇気なく、高き帽をいただき、眼鏡に鼻挟ませて、プロシアにては貴族めきたる鼻音にて物言ふレエベマンを見ては、行きてこれと遊ばむ勇気なし」の「レエベマン」に関しては、今回私は註釈なしのテクストを読んでおりドイツ語を知らないので推測するだけだったのが、この「現代語訳」の註釈に助けられた。曰く「男娼(ゲイボーイ)のことであろう」(現代語訳の単独での出版は一九八二年)。「本文中の「レエベマン」には男娼の意味はないが、ここでは、〈娼婦〉の対として用いられているので〈男娼〉とする」。私も全く同じ理屈で、この洒落者は客引きでなく自分が商品だろうかと疑ったものの、確信が持てないでいた。完全に対句だったか。二いろ揃っているならますますロチの『アジヤデ』に似る。

 喜美子の「兄の帰朝」は、初めの方は、今では思いもつかない往時の風俗のこまごました描写が面白く読めるのだが(帰国する林太郎のために(自家用)人力車を新調、「出入の車夫には新しい法被を作つて与へました」、各所へ挨拶回りの後の林太郎の帰宅、近隣の人々に凱旋将軍のように迎えらる、喜美子は「駝鳥の羽を赤と黒に染めたのを」土産に貰った等々)、駝鳥の羽を「覚つかない手附で帽子に綴ぢつけなど」するまではよいが、あとは例によって喜美子むかしばなしである。もうすっかり堂に入った語り口で、「それから主人は、日毎といふやうに精養軒通ひを始めました。非常に忙しい中を繰合せて行くのです。(…)兄は厳しい人目があります。軍服を著て、役所の帰りに女に逢ひには行かれません」。(おいおい。逢ってたんだってば。)「林太郎子既ニ来テ在リ暫時ニシテ去ル」という夫の日記を見ていながら、白々しい。それにこっちは『鷗外追想』で、鷗外が夜店の古本漁りを好み、軍人姿では目立つので役所で着替えて行ったというのを、読んだばかりである。「何しろ日本の事情や森家の様子を、納得の行くやうに、ゆつくり話さねばなりません。かれこれするうちに月も変りました」。月は精養軒の客室で林太郎に出会ってしまい、中断しているうちに変ったのだ。「今度のことは、私としては、兄のためといふばかりでなく、父母のためにも、いひかへれば家の名誉のためにも尽力して貰ひたいと思うのですから、主人の日々の食事にも気を附け、そろそろ寒くなるにつけて、夜は暖かにしてなどと気を配ります」良妻アピール乙!

「思へばエリスも気の毒な人でした。留学生たちが富豪だなどといふのに欺かれて、単身はるばる尋ねて来て、得るところもなくて帰るのは、智慧が足りないといへばそれまでながら、哀れなことと思はれます」。二十世紀も半ばになっても、喜美子はこのように“エリス“を中傷して止まなかったのである。

 また喜美子はこの文中で、「独逸の婦人が兄の後を追つて来て、(…)その名はエリスといふのです」と断言している。六草氏も指摘する通り、これについては孫の星新一により、「良精の日記に、エリスという名は書かれていない」ことが明らかにされた。しかし読みすすむと、日記に記載はなくとも、祖父が祖母に話す際、この婦人を指してエリスと呼んでいたと“星が“考えているらしいと分る。それで祖母が彼女をエリスと書いていると、星は思っていたのだろう。星はエリスという名について、“祖父の日記には載っていない“としか言っていない。だから、「はたしてエリスという名だったかどうかも怪しい。うわさがひろまるのを防ぐため、良精が考え出した仮の名かもしれない」という、奇怪な文句が登場するのだ。『舞姫』より先に良精がエリスという名を「考え出し」、それを鷗外が自分の小説に使ったと言うのだろうか。

 さらに先では、祖父が留学中に知り合った(手切金云々とは別の)頭文字Eの女性について、「あるいは、その名がエリスだったのかもしれない」ともある。星が何を思い違いしているのか知らないが、喜美子の文中の「エリス」なる名は兄の小説中の名を流用したものでしかないと、確認するだけで十分としよう。

「こうして、エリスは名前を、喜美子は信用を失った」(八〇頁)と六草氏は端的に書いている。失われた“エリス“の名は、漸く一九八一年になって、乗船者名簿の記載からエリーゼ・ヴィーゲルトと判明し、そして来日後、実に百二十一年目に、六草氏が、当時ドイツ国内であり現在はポーランド領の「シュチェチン」の教会簿に、その出生記録を発見した。シュチェチンとは「わが東(ひんがし)に往かん日には、ステツチンわたりの農家に、遠き縁者あるに、身を寄せんと」エリスの母が言ったステツチン(ドイツ語ではシュテティーン)だそうだが、六草氏は狙って探し出したのではなく、まずエリーゼの両親のベルリンでの結婚記録を見つけた際、新婦の出身地としてその名を認めていた。最終的に、エリーゼもまたそこの生まれで、家族でベルリンに移ってきたことが、マイクロフィルム化された教会の記録から判明したのだ。

 そういえば「東に」往くにあたって、エリーゼは、ベルリンの住まいをたたんで母を親戚に預けたのだろうか。本当に、鷗外の言葉を信じて、彼の離独に先立ってブレーメンから船出して、日本で生きる決心で横浜に上陸したのであれば。六草氏もそう思い、エリーゼの手がかりが途切れた時は、「実際の母親も本当にシュシェチン付近の田舎に引っ込んでいて、エリーゼもそちらに身を寄せたのかもしれない。エリーゼ探しなど所詮無理な話なのだ……」(一六五頁)と落胆している。しかし六草氏は、「もし、私がエリーゼだったら、私は今、どこにいる?」と問うて次のように考えた。「プロポーズされて日本へ行った。なのに思いもしない事態に陥り帰国することになった。すべてを処分して出てきたのだから、ベルリンに戻っても何もない。親か友人の前に突然姿を現して驚かせ、とりあえずそこに身を寄せた。ハンカチイフを振って別れたのは私がバカだからじゃない。あれは精一杯のプライドだった。金さえ握らせれば片が付くと思っている小金井のような男の前でなど、絶対に涙を見せたくなかった。私は負け犬ではない。毅然と帰ってきたのだ」。そして十年後――「そう、遅くとも十年後には、しっかりとした生活を送っている。きちんと賃貸契約した住まいを構え、家賃もちゃんと支払っている」。果たして、間借り人では載らないベルリンの「住所録」に、「十年後」、「私」の名が現れたのである。

(つづく)

# by kaoruSZ | 2022-12-14 20:26 | 文学 | Comments(0)