おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
まえおき
 七月十六日以来、ツイッターを利用して『文金風流』について書いていたが、登場する照姫と、『死者の書』の郎女の類似を述べようとして、後者について通常行われている解釈があまりに真実と違うので、『死者の書』に寄り道することになった。まず、大津皇子は、郎女の夢(と人々の語り)の中にしか存在せず、超自然的な出来事など何も起こっていないことを確認して、大津の亡霊が阿弥陀仏の姿に化って供養が完成するといった、物語の捏造を退けようと努めた。また、彼女の孤独は、女に許される水準から抜きん出た知性を持ってしまったところから来ることを示し、大津に誘びかれて彼の裸身を覆う布を作る「機織る乙女」になるといった、受動的な器ないし操り人形としてこの女主人公を捉える俗説を排そうとした。しかし、大津の存在が重要であること――初めて真に『死者の書』が書きはじめられる地点に折口を到らせ、自分がその小説を書かねばならぬ真の理由を初めて覚らせた事件そのものである夢の結果が「彼[か]の人」である事に鑑み、「三十年も過ぎてから、夢に見たことが不思議でならない。それを絵解きして見よう、そう思って書き出したのが、『死者の書』になった」と折口から加藤守雄が聞いた、その三十年前の彼自身がどういうふうであったかを髣髴とさせる『口ぶえ』を読み返そうとした。 
 しかしここで私は一つ思い違いをしていた。夢を見た時折口は五十二歳、三十年では中学時代に遡り得ない。実はそのことは、年齢を確かめた時に気づいていたが、二十二歳なら大学を出て中学校教師になった時期、かつての自分の年頃の生徒に接して思い出が甦り、それが『口ぶえ』執筆を促し、またこの頃、その友人と最後に会う機会を持ったのかと解釈したのだ。

 持田叙子氏の『「口ぶえ」試論』には、教師時代の折口の、その名も「生徒」という短歌連作が引かれており、すでに述べたようにその中に、私は、夢の中で白玉を抱く郎女を思わせる、「白玉をあやぶみいだき ねざめたる 春の朝けに 目のうるむ子ら」(青春の朝に目を潤ませているのは、『口ぶえ』の安良に認められる特徴でもある)や、「くづれ仆す若きけものを なよ草の床に見いでゝ かなしかりけり」という、『口ぶえ』で安良がそれと同じ動作をする生徒と、それを「愛[かな]し」と思って見つめる「われ」という構図を発見して、自分の予見が裏づけられたと考えた。

 また、これもすでに述べたが、飛鳥の古寺の「大理石の礎」という存在しないものを安良が思うことについて、陰鬱なキリスト教世界に対し晴朗な古代ギリシアを代表するものであるからで、メレジェコフスキーから「知らず知らずのうちに」折口が影響された結果ではとの、持田氏の見解に対し、大理石とは端的に古代ギリシアと同性愛を指し、折口は当然意識的にやっているのだと指摘した。

 なぜなら、「大理石」とは他ならぬ安良自身が鏡に己が身を映すくだりで「大理石の滑らかな膚を、日が朗らかに透いて見せた、近頃になつてむっちりと肉づいた肩のあたり、胸のやはらかなふくらみ」と、あからさまにナルシスティックでホモエロティックかつ両性具有的な描写に使われている言葉だからだ。

 この「大理石の」身体が、それから三十年後に書かれる『死者の書』では、郎女が幻視する「俤びと」の、「白玉の」指や上半身、また夢の中で「白玉」と一体となって水底に沈む郎女の、「白玉の身」になっているとは、これまでにまとめた分で書きもしたが、まだ中途であって論じ終えていないことでもある。

 折口の夢から遡ること「三十年」の『口ぶえ』に、『死者の書』の起源を探ろうとしたのは間違いではなかった。見つかったのは、たんに、彼が自身の少年時代をモデルにした安良が、どのように描かれているかだけではなかった。これもまたすでに書いたが、この二つの小説の細部の関連を注意深く読むならば、体操教師の手で上着を剝がれた「如月の雪」と形容される「いたましい」安良の裸体が、『死者の書』では、「明るい光明の中に、胸・肩・頭・髮、はつきりと形を現(ゲン)じた」「白々と袒(ヌ)いだ」「いとほしい」俤びとの半身に変っているのが認められよう。また、「一すぢの糸もかけて居ない」雪の膚[ハダエ]を衆人の目に晒すという、ナルシスティックでマゾヒスティックな安良‐折口の空想の方が先にあり、それが、多くの糸(で織った布)によって、寒さを防ぐ目的で(雪やその換喩としての白さとは寒さの喩でもある)裸体を覆うという合法的な筋書へと、(無論、無意識に)変形されたのであろうこともすでに述べた。

 このようにテクストの検討自体は問題なく進んだのだが、やはり私は思い違いをしていたのだった。単純に、富岡多惠子の『釋迢空ノート』が解明した事実関係を知らなかったということだが。富岡氏が明らかにしたところによれば、三十年前即ち明治四十二年、折口は、片思いの対象だったらしい元同級生とは比較にならない、大切な人と死別している。(ついでに幾つか訂正を。件の夢を見た時点で五十二歳と思いそう書いたが、正確には昭和十三年(一九三八年、折口五十一歳)のことのようだ。大学卒業が一九一〇年、教員になるのはその翌年なので、二十二歳で教師というのもありえなかった。『口ぶえ』執筆は二十六歳の時になる。)

 三十年遡って到りつくべき時は、中学時代ではなく、その人・藤無染の死の年(一九〇九年/明治四十二年)だったのだ。初めて上京して国学院に入る際、折口は彼の部屋にいきなり同居している。これは当然以前から知り合いだったからだと富岡氏は考えるのだが、折口は自作の年譜にその名を明記しながら、関係は勿論、彼が何者なのかさえ、話さず、知らせず、書き残さなかった。加藤守雄が調べようとしたがわからず、その後誰も調査した形跡のないこの人物について、折口の伝記的事実と夥しい彼の短歌を突き合せることで、富岡氏は事実を突き止めてゆく。「『藤無染』が具体的に姿をあらわしはじめると、なんのことやらわからなかった短歌の連作が、ドラマティックに動き出すのを見る思いがすることがあった。『藤無染』というピースをはめこむと、一挙に絵柄がはっきりするジグソーパズルのような気さえしたこともあった」と富岡氏が言う過程の幾らかは、この本を読みながら追体験できよう。

 こうして見出された物語は驚くべきものである。「『情況証拠』の積み重ねによる」推量は本文ではてきるだけさし控えたという「追記」の中身を先に記すなら、折口は中学二年、十三歳のとき初めて一人旅を許されて大和廻りをした時、現在のJR奈良線桜井駅で、二十二歳の僧侶・無染に出会ったのではないかと富岡氏は「推量する」。「一泊の大和旅行から帰ってすぐ、京都西山・善峯寺に滞在する無染からの誘いの書状にこたえて善峯寺に行った、とも推量する」

 京都西山――『口ぶえ』の読者ならすぐおわかりになるろう。初めての泊りがけの一人旅を終え、安良が帰宅してから二日後、上級生の渥美から手紙が届く。その中身を読むや、安良は母や同居の叔母に嘘をついて、渥美の滞在する西山・善峯寺へ赴く。実際には、旅先で知り合った男から折口が呼び出されたのを、小説ではそのように変形したと、富岡氏は「推量」しているのだ。

 相手を藤無染と同定しない「本文」での「推量」は、さらに大胆でさえある。というのも、『口ぶえ』が大胆なテクストであるからだ。一人旅の安良は、「灯ともし頃になつて疲れきつたからだを、ある停車場のべんちによせかけてゐた。(…)突然、彼の脇に歩みよつた若者がある。/『君は大阪ですか』/『ええ』」

 大阪のどこか、中学はどこかまでを聞き出して、一高生の柳田と名乗る相手は、渥美というのは自分の従弟だと言って、安良を駅から連れ出し、堤に座って話をする。十三歳の折口は、こうやって桜井駅で「若者」に声をかけられたのではないかと、富岡氏は言うのだ。

安良が帰宅するとすぐに受け取る、「京・西山にて」と書かれた手紙は、じつはこの「若者」からだったのではないか。
(中略)
安良が、このひとり旅から帰ってすぐ、手紙の呼び出しに応じ、アリバイを作りに父の実家へいくことさえして、「むにむさんに山をめあてに」善峯寺へ向ったのは、旅での忘れられぬ思い出を残した「若者」が寺に待っているからではなかったのか。


“夢の仕事”が辿られるのを見るような鮮やかな分析だ。

 また、富岡氏は、『口ぶえ』の次のような細部に注目している。「若者」に“偶然”出会う前、安良は、蜜柑畑の中の野番小屋に近づいていた

つきあげ戸から覗きこんだ彼は、そこにあさましいものを見て、思はず二足三足後じさりした。小屋のなかゝらは、はたちあまりのがつちりした男が、愚鈍なおもゝちに、みだらなゑみをたゝへて、驚いたといふ風に戸にいざり出て、こちらを見つめてゐた。

安良はをりをりあとをふりかへつた。さうして蹲つて、耳をそばだてた。深い檜林には、人音も聞えなかつた。目を閉じると、淡紅色の蛇が、山番の裸体の肩や太股に絡みついてゐるのが、まざまざと目にうつゝた。

 駅での若者との出会いを経て安良は帰宅するが、一人旅ではなく、斉藤と言う同級生と一緒だと嘘をついていたので、留守の間にそれが露見したふうはなく、母や叔母が「何も知らぬ容子に胸を撫でる」。そのあとの叙述――

その夜は大きな蚊帳のなかに、唯一人まじまじとしてゐた。露原にわだかまる淡紅色の蛇が、まのあたりにとけたりほぐれたりして、ゆらゆらと輝いて見える。(中略)夜なべに豆をひく隣の豆腐屋の臼の音が聞える。あたまから蒲団をかづいて、その下で目を固く閉ぢた。蒸れかへるやうななかで、自身の二の腕を強く吸うて、そのまゝ凝つて行く人のやうにぢつとしてゐた。しかし、そのうち汗や湿気に漂うて、彼は昏々と深い眠りにおちた。

 なるほど、そう言われて見ると、「若者」との場面で“検閲” されたものが、前後に滲み出てきたかのようだ。若者との会話自体は、勉強も大事だが運動をよくしろと渥美に言ってくれなどと、ほとんど夢の中の会話のように意味がなく、従兄という名で渥美の分身が現れたようでもあるのだが、富岡氏の言うとおりであれば、そもそも若者の方がオリジナルで、渥美はそこから派生したのか?

 富岡氏は、「渥美を、中学同級のアコガレびととしているのは、「おとり」で、渥美と若者は同一人物だとすれば、すべてツジツマが合ってくる」と書く。(なんでも「加藤守雄も中村浩も」「『小説』にまんまとだまされて」、渥美を、折口の夢に現れた中学時代の同級生・辰馬桂二と、ほとんど同定しているのだという。)

 先に引用した、駅で出会った「若者」とのエピソードの前後に置かれた二つのくだりについて、富岡氏は言う。

これはあきらかに、この大和へのひとり旅で、安良少年がはじめてのなんらかの性的体験をしていることを示しており、この体験は、渥美とは無関係で、むしろ突然あらわれた、渥美の従兄だという「若者」との出会いがそこにかかわっている気配がある。
 
 また、

『淡紅色の蛇』のからみ合い、という幻視はあまりにもわかりやすい性的な象徴だが、『自身の二の腕を強く吸う』というのは体験の回想、或いは反復のように思える。そしてこれは、現実の体験が小説に『使われている』のではないか。

 エクリチュール以前の現実の探求に関して、富岡氏の「推量」は感嘆すべきものであり、私は全面的に信用する気でいる。ここで引いた解釈も、面白いと思うし、基本的に反対することはない。ただし、短歌が対象の場合であれば、折口の歌はほとんど日記のように折口の人生と重なって見えたから問題がなかったが、小説になるとそうではない。

『口ぶえ』もまた短歌と同様、ある時期の折口の人生を模した「物語」であるかに見える。だが、これは、あくまで「見える」だけであり、この類似は作品にとっては偶然に過ぎない(本当は短歌も同じだが)。作品は「現実」とは別の構造を持つのであり、折口の歌の場合、そのずれが相対的に目立たないだけだ。

 たとえば先程の「自身の二の腕を強く吸う」というのが「体験の回想、或いは反復」であり、「現実の体験が小説に『使われている』」のだろうという話でも、「現実の体験」は作品の中に置かれる時、その意味はあくまでも、それまで書かれた言葉との関係の中にしかない。だから「自身の二の腕を強く吸う」とは、まず何よりも、その前に読まれる「淡紅色の蛇が、山番の裸体の肩や太股に絡みついてゐる」の、「回想、或いは反復」であろう。「わだかまる淡紅色の蛇が、まのあたりにとけたりほぐれたりして、ゆらゆらと輝いて見える」という幻視ではおさまらず、安良はそれを、自分の身体で表現‐再現しているのだ。

 また、「『淡紅色の蛇』のからみ合い、という幻視はあまりにもわかりやすい性的な象徴」と富岡氏が言うイメージにしても(闇の中に見る蛇は一匹の様に思えるが)、蜜柑畑の小屋を覗いた安良が何を見たのかは必ずしも明らかではない。彼を「思はず二足三足後じさり」させた「あさましいもの」とは何なのか。

「愚鈍なおもゝちに、みだらなゑみをたゝへて、驚いたといふ風に戸にいざり出て」こちらを見ている「がつちりした若い男」が、彼の拒否する(実は惹かれてもいる)上級生・岡沢の同類なのはすぐ分るが、いざり出てこちらを見つめる足萎えめいた男から、いったいなぜ「をりをりあとをふりかへ」りつつ、安良は必死に逃げるのか。

「淡紅色の蛇が、山番の裸体の肩や太股に絡みついてゐる」とは、雷神たちがその上に蹲る、黄泉のイザナミをも連想させる姿だ。『死者の書』はオルフェとしての折口が三十年後に敢行した地獄下りであろうが、この森番は、墓で目覚める「彼[か]の人」を遥かに予告するようにも見える。無論大津は「つた つた つた」と足音をさせて忍び寄るがそれは郎女の夢の中でのこと、昼の光に晒されれば、正体はこれと変らぬ(あるいはそれ以上の)「あさましさ」なのではないか。それは安良あるいは折口が旅で知り合った「若者」の反面でもあり(でなければ安良は床の中で、あのように熱心に闇の中で出会いを反芻しはしないだろう)、郎女の「俤びと」と死霊の解消不可能な分裂の起源でもある。とはいえその出会いは本当にあったのか。折口にとってはあったとしても、安良にとってはそうでないとも、あるいは夢の中でしか起らなかったとも言えるかもしれない。まるで夢の中の出来事のように、テクストの表面から消去されたのは正しかったのかもしれない。

 なぜなら、自分の腕を吸って眠りに落ちる安良のナルシシズムとオートエロティシズムは、他の男に向ける眼差しに先立って、またそれ以上に『口ぶえ』を特徴づけるものであり、自分の外に自分のなりたい理想の近江を創造した三島と違い、折口は、現実の自分より美しい、鏡を見て自足する少年として安良を創造したのだから。

別セリーで書いたが、https://twitter.com/kaoruSZ/status/644923237621587973 富岡氏のやっているのは「作家の人生を理解するために作品を役立てること」であって、短歌の場合はそれがうまく行っていたのだった。折口が意図的に隠したものを補うことで、もとの連関に戻してやり、文脈が通るケースだったからだ。それが作品の構造を見つけることだったからだ。だが、『口ぶえ』や『死者の書』は、「現実にあったこと」をそこから見つけるための資料として読んでいたのでは、何も理解できないたぐいの書き物だ。そして作品を理解することなしに作家の人生を理解することなどありえない。

 長い年月、誰もそんなことができるとは思いもしなかった調査をした富岡氏のお陰で、今では私たちは折口が出会いから九年後に無染の死に遭い(上京して同居した翌年、無染は結婚、その翌年長女誕生、さらに翌年妻は結核で死亡、翌年無染自身も結核で死去)、『口ぶえ』はその四年後に二十六歳の青年によって書かれた、輝かしい青春の形見であることを知っている。四半世紀後、夢に見た「古い故人の罪障消滅と供養」のために折口は小説を書いた。何が供養になるのか、罪障とは何に対しての罪なのか。はっきりしているのは、供養と称しながら故人を骨の化け物として甦らせるのが小説を書くことだということだ。

2 http://kaorusz.exblog.jp/24969092/ へ

[PR]
# by kaoruSZ | 2015-10-07 04:46 | 文学 | Comments(0)
※見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(2)


 郎女は死ぬだろう。當麻にしばしとどまった彼女は、再び人知れず立ち去って、ただ一人残りの行程を辿るだろう。「浪に漂ふ身」「水底(ミナゾコ)に水漬(ミヅ) く白玉なる」身とは、水底のエクスタシーに沈むとは、死の予行演習であった。「山越しの阿彌陀像の畫因」で、折口もしきりに畳みかけていたではないか。

四天王寺には、古くは、日想觀往生と謂はれる風習があつて、多くの篤信者の魂が、西方の波にあくがれて海深く沈んで行つたのであつた。熊野では、これと同じ事を、普陀落渡海と言うた。觀音の淨土に往生する意味であつて、淼々たる海波を漕ぎゝつて到り著く、と信じてゐたのがあはれである。(…)日想觀もやはり、其と同じ、必極樂東門に達するものと信じて、謂はゞ法悦からした入水死(ジユスヰシ)である。(…)さう言ふことが出來るほど、彼岸の中日は、まるで何かを思ひつめ、何かに誘(オビ)かれたやうになつて、大空の日を追うて歩いた人たちがあつたものである。

「思ひつめ、何かに誘(オビ)かれたやうになつて」當麻へやって来た郎女が、このような者たちの一人であるのは誰にでもわかる。しかし、彼女は、それを最後まで歩き切った人とは思われていないのである。

【九月三日】tatarskiyさんから電話あり、『死者の書』序章の大津の独白後、二では語りの視点は俯瞰になり、月光の照らす山、谷、川筋、さらに難波江即ち大阪湾の光る水面にまで語り及ぶ、つまり郎女のやって来た道筋に加え、語られない最後の行先まで、要するに物語の舞台のすべてを、あらかじめ見せているのだという。一見たんなる地形の説明のようだし、二上山に入って郎女の魂を招び返そうとする人々が、塚穴の底から響く甦った大津の声を聞く(明らかに集団催眠である)結びばかりが注目されてしまうが、実はこの部分が重要なのだと。

 その部分を読んでみよう。

月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りにあたるものが少かつた。山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、澤山の峰があつた。黒ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隱れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て來た霞の所爲(セヰ)だ。其が又、此冴えざえとした月夜をほつとりと、暖かく感じさせて居る。
廣い端山(ハヤマ)の群(ムラガ)つた先は、白い砂の光る河原だ。目の下遠く續いた、輝く大佩帶(オホオビ)は、石川である。その南北に渉つてゐる長い光りの筋が、北の端で急に廣がつて見えるのは、凡河内(オホシカフチ)の邑のあたりであらう。其へ、山間(アヒ)を出たばかりの堅鹽(カタシホ)川―大和川―が落ちあつて居るのだ。そこから、乾(イヌヰ)の方へ、光りを照り返す平面が、幾つも列つて見えるのは、日下江(クサカエ)・永瀬江(ナガセエ)・難波江(ナニハエ)などの水面であらう。


 これはミニアチュアだ。それを俯瞰で撮っているのだ。なんという巧みな、全知の語り手による客観描写(という詐術)。

 ありえないことだが、もしこの小説が郎女の一人称で書かれていたら、読者はこの娘の「異常さ」に気づかずにはいないだろう。彼女が幻を見る人であることを知り、大津皇子の存在を疑ったことだろう。

 序章で語りは、「彼[か]の人」のモノローグにぴったりよりそって来た。ほとんど、「彼」が「我」であるかのように、墓の中の「おれ」は語りつづける。「尊い姉御」つまり大伯皇女[おおくのひめみこ]が墓の外で歌をうたいあげた時にはそれが聞えたというが、これは二で、魂まぎ人たちの声が大津に届き、彼の耳に彼らの声が届くのを自然に見せるための伏線だ。郎女の魂を呼び返そうとする男たちは、大津の非業の死とそれにまつわる物語で頭が一杯で、その話を互いにしあい(読者に聞かせ)、大津の塚の前で「こう こう こう」と呼ばわって塚の中から洩れる唸りを聞いてしまい、飛び上がって四散する。

 彼らが自己催眠によって大津の甦りを確信したように、読者も作品内世界での彼の実在を信じてしまうのだ。さても折口の技の巧みなことよ。

 月光の照らす「白い砂の光る河原」は不吉である。かつてそうした水辺のどこか(磐余[イハレ]の池の堤)で、大津は、「鴨みたいに、首を捻ぢちぎられ」たのだから。日下江・永瀬江・難波江の「光りを照り返す」水面は不吉である。郎女は山を越え、海に至って、白玉の身をそこに沈めることになろうから。そして山中の光る川筋には、いかに細くて目にとまらなかろうと、安良たちが身を乗り出した、崖下の谷底を流れるものも含まれていよう[後日の註:これは崖下でなく、その前に渥美が水に入ったり、青い淵に見入ったりする川を挙げるべきであった]。安良は未遂だが、郎女が海まで行くのは必然で、『文金風流』の照姫も観客の前では心中せず、此の世の外へ向う船に乗るのだ。

 安良は死なない。「(前篇終)」と記された先がどう続くはずだったにせよ、安良には未来がある。「女子供」ではなくなる未来が。安良がどうなるかと言えば、折口になるのだ。十年後には彼は、当時の自分と同年齢の教え子たちの“春のめざめ”を見つめつつ、思い出を甦らせて『口ぶえ』を書くだろう。

 そして長い時が経ち、「夢の中の自分の身が、中將姫の上に」なる夢を見て、当時の自分、即ち安良を、女に換えた『死者の書』を書く。郎女の閨を訪なう骨の指もつ死者と、彼女が幻視する白玉の指の俤びとの対立は、二人の上級生の間で、霊と肉、「浄らかなもの」と「けがらわしいもの」との間で引き裂かれ、葛藤する当時の安良の意識の投影に他ならない。しかし、安良のような、予定調和的に止揚すべき霊と肉との単純な二元論は郎女にはあてはまらない。なぜなら、女である郎女は、最初から不浄の側に割りつけられているのであり、そうでなければ、女人結界を破ったとして寺に留めおかれることもなかったからだ。

 郎女とは何者か。郎女の客観的な立場は、大伴家持と郎女の叔父・恵美押勝のパートによく描き出されている。南家の姫君が神隠しに遭い、「當麻の邑まで、をとゝひ夜(ヨ)の中に行つて居た」と聞いて家持が思いにふけるのは、姫の父に代って実権を握りつつある押勝(五十を過ぎているが三十代のように美しく、家持の長女を息子にくれとせがんでいて父同士で歌のやり取りをしているーー「先日も、久須麻呂の名の歌が屆き、自分の方でも、娘に代つて返し歌を作つて遣し た。今朝も今朝、又折り返して、男からの懸想文(ケサウブミ)が、來てゐた」)ーーのことである。「五十になつても、若かつた頃の容色に頼む心が失せずに ゐて、兄の家娘にも執心は持つて居るが、如何に何でも、あの郎女だけには、とり次げないで居る」と以前人づてに知った家持は、「其を聞いて後、家持自身も、何だか好奇心に似たものが、どうかすると頭を擡(モタ)げて來て困つた。仲麻呂[押勝のこと]は今年、五十を出てゐる。其から見れば、ひとまはりも若いおれなどは、思ひ出にまう一度、此匂(ニホ)やかな貌花(カホバナ)を、垣内(カキツ)の坪苑(ツボ)に移せぬ限りはない。こんな當時の男が、皆持つた心をどりに、はなやいだ、明るい氣がした」というのだ。

「當時の男が、皆持つた」というのは目眩ましで、男同士で恋文の贈答をし、相手の女関係を仄聞しただけで忽ち「若い色好みの心」を刺戟されて浮き浮きしてしまうというのには男色の匂いがぷんぷんするが(「當時の男が、皆持つた」とはそちらのことかもしれない)、それはひとまず措くとして、ここでの郎女は、第一に、誰のものになるのかが男たちに取沙汰される性的対象物である。 たとえそれが、結局は神の嫁にしかなるまいという、諦めに落ち着くとしても。実際、郎女に文を渡そうとする男は大勢いるが(『文金風流』の狂女は世俗化された郎女であろう)、すべて阻止され本人は知らぬ。郎女が語部の婆から聞き、夢に見る大津皇子は、だから彼女が初めて目のあたりにした求婚者とも言えよう。

 現に、「女盛りをまだ婿どりなさらぬげの郎女さまが、其力におびかれて、この當麻(タギマ)までお出でになつたのでなうて、何でおざりませう」と語部の婆は暗示をかける。しかし姫は信じない。彼女の幻視する美しい俤びとと過去の因縁話などには何の関係もないことが直観的にわかっているからだ。

「大津皇子と彼のために機を織る中将姫との直線関係」(持田)など無い。墓の中の死者の、「おれには、子がない。子がなくなつた。(…)子を生んでくれ。おれの子を。おれの名を語り傳へる子どもを――」という独語は、郎女が振り捨ててここまできたものの象徴でこそあれ、彼女の望んでいるものなどではない。

『春のめざめ』や『飈風』を、確かに折口は読んだのだろう。思春期や性欲を主題とした文学を目のあたりにし、小説でそういうものを書けるのだし書いてよいのだと 知り勇気づけられもしたことだろう。だが影響はそれまでだ。折口は、これは違う、自分が読みたい(書きたい)のはこのようなものではない、そういう作品は 自分で書くしかないと痛切に思ったことでもあろう。それはヴェデキントや谷崎の小説が異性愛を描いているのに対し、折口が同性愛者だったからということではない。『春のめざめ』や『飈風』の同性愛版を作ればいいということではない。同性愛者の性の目覚めを描けばいいというものではない。

 そうではなく、少年少女が何も分らないまま子供を作ってしまうとか、男が女に接して淫蕩の血が目覚め遊女を相手に荒淫の限りを尽し実を滅ぼすとかいったものが、ラディカルな性表現だと信じられている世界にあって、どうしようもなく鈍感で蒙昧な俗情と結託したその前提を崩さなければならなかったのだ。

 湯上りの安良の、「ふりかへると斜に傾いた鏡のおもてに、ゆらゆらとなびいて」「うつつてゐ」た自らの鏡像――「大理石の滑らかな膚を、日が朗らかに透いて 見せた、近頃になつてむっちりと肉づいた肩のあたり、胸のやはらかなふくらみ」――が、夢の中の郎女の「白玉なる身」に通じることはすでに述べた。安良の未分化な身体は自らの受動性を、女という、男にとって当然の性的対象として外在化し、穢れとしての女と自分を峻別し、自分の平穏を乱し、悪しき欲情を搔き立てるそもそもの原因と見なされた女を本質的には憎みながら欲望する、ヘテロセクシュアリティの体制にはまだないのである。

 だから彼の注意は自分自身に、先ほどのように鏡を見ながら「ふと腕をあげて、項のあたりにくみあはせる。ほそやかな二の腕のまはりに、むくむくと雪を束ねる。自身のからだのうちに潜んでゐた、不思議なものを見るやうに、好奇の心が張りつめて來た」と、自分の感覚と自分自身に集中している。

 あらためて『口ぶえ』を――『死者の書』の先行作品と気づいて――読んでみると、最初の方だけでも『死者の書』との類似の多さに驚くのだが、この裸体の描写は、すでに、開巻まもない、安良がシャツなしでじかに上着を着て登校したため、体操教師の上着を取れという命令に従い得ず、手荒に上衣を剝がれた上、号令をかけるべく壇上へ追いやられた際にもあったものである。

彼は壇上に顕れた。彼の状態は、一すぢの糸もかけて居ないのである。彼の顔は、青白く見えた。心もち昂(アガ)つた肩から、領(エリ)へかけて、ほのぼのと 流れる曲線、頤から胸へ、胸にたゆたうて臍のあたりへはしるたわみ、白々として如月の雪は、生徒等の前に――」と、白さを強調した「雪」という隠喩がここにも使われている。「同年級の生徒のある者は、さすがにいたましい目をして、彼を見た。

「一すぢの糸もかけて居ない」いたましさ。『死者の書』の郎女が 入り日の中に幻視したのち夢で見た、「明るい光明の中に、胸・肩・頭・髮、はつきりと形を現(ゲン)じた」「白々と袒(ヌ)いだ美しい肌」の初出はこれ だったのだ。「いたましさ」が、「いとほしさ」に変ったのだ。

あゝ肩・胸・顯はな肌。――
冷え冷えとした白い肌。をゝ おいとほしい。郎女は、自身の聲に、目が覺めた。夢から續いて、口は尚夢のやうに、語を逐うて居た。おいとほしい。お寒からうに――


「神の嫁」という題名で「横佩垣内の大臣家の姫の失踪事件を書かうとした(…)その時の構圖は(…)藕絲[はすいと]曼陀羅には、結びつけようとはしては居なかつたのではないかと思ふ」という折口自身の証言は、本当のことだろう。最初にあったのは、衣服をとられ、「一すぢの糸もかけぬ」雪の膚[ハダエ]を人目に晒すという、空想の方なのだろう。その空想が、無数の蓮糸で織り成した布で「寒くないよう」裸体を覆うという合目的的で合法的な筋書へと逆転した時、それは姫の失踪事件と結びついて、折口に『死者の書』のプロットを可能にさせたのだろう

 その日、安良がシャツを着てこなかったのは、汗かきなので「寝間を出るから、ねつとりと膚がたるんでゐる様に感ぜられた」ためと説明される。雨の朝、教室の「窓ぎはにゐる安良は、吹きこむ細かな霧に湿うた上衣の、しつとりと肌を圧する感覚を、よろこんでゐた」と、ひたすら自分の感覚に忠実な安良である。

 体操に先立つ国語の時間、教師が読本[とくほん]を読む声が安良の耳に入ってくる。「教師は今、おもしろ相に『こゝにおいて、ふりっつは、その狼を戸にむかつて、力まかせにうちつけるよりほかには、しかたがなかつた』と大きな声でいつた」。しかし狼と戦い勇ましく制圧するその話は、安良には「おもしろ」くない。「安良は、はじめから、この教科書の内容に、興味はなかつた。岩見重太郎や、ぺるそいすの物語に、胸をどらしたのも、二三年あとに過ぎ去つてゐた」。

 岩見重太郎やペルセウスという選択も意味ありげだが、まずは、ふりっつの話を、自分の欲望に合わせて、彼がどう変えたか見てみよう。

それでも、ふはふはした雪のうへに、ふりっつの白い胸から、新しい血の迸るありさまをおもひ浮かべてゐた。その夢のやうな予期が、人間の力を思はせる、やすらかな結局になりさうなのを、つまらなく感じた。


 またしても白い胸、そして雪が、この受苦の少年が安良自身であることを容易に指し示す。

「ふりっつ」の話は、直ちに『仮面の告白』の、少年時代の「私」が殺された王子が甦るのが気に入らなかった、同巧の挿話を思い出させる。それを男性同性愛者に特有などと言うつもりはないし、折口と三島が似ているとさえ思わないが、少なくとも彼らは「狼を戸にむかつて、力まかせにうちつける」ことに快感を覚える攻 撃的な大人の男ではなく、成長した男にはあるまじき受動的なファンタジーに浸っているのである。続く体操の時間の出来事について、持田氏は「そのひそかな 愉悦感を罰せられたかのように、今は安良自身が白い胸を露わに皆の前に立たされているのである」と言うが、これは事態の半分しか明らかにしていまい。確かにそれは罰として起り、安良を易々と従わせるが、しかしその罰自体が安良の幻想を実現させるものなのだ。安良の内面の「ひそかな」願望であったものが、衆人環視の下、彼自身の身に現実化するのだ。彼は欲望を満足させ、しかもそのことを罰せられない。なぜならそれ自体が罰なのだから)。

「同年級の生徒のある者は、さすがにいたましい目をして、彼を見た」というが、この「ある者」とは誰だろう。なぜ、「ある者」であって、複数の生徒ではないのだろう。「一すぢの糸もかけていない」白い胸に注がれる目は安良が鏡の中の自分を見つめる目でもある。「同年級の」「ある者」もまた、スペクタクルとしての 安良を見て楽しみたいのだ。そのうしろめたさを伴う「いたましい目」で相手を見た。「ある者」は安良の分身にして共犯者であり、いたましいのは、目であり安良の姿でもある。

 マゾヒズムはサディズムの単なる逆転ではなく、法に従うことで法を無効にするものだと説いた哲学者の説を援用するまでもあるまいが、「蝦蟇(ガマ)といはれてゐる」「太い声の」「大きな教師」の意図は完全に無効にされており、壇上から生徒らに号令をかける安良の「澄み透つた声は、生徒らの耳に徹した。俘虜 [トリコ]のやうに見えた彼は、きびしいゑみを含んで、壇をおりて来る」。

 体操の時間のこの事件は、この小説で描かれる学校生活のうち二日目にあたる。これに先立つ一日目、彼は、遅刻しかけて教室に駆け込み、汗かきのせいで級友に頭が火事だとからかわれる。この二場面をまとめて持田氏は「受苦のあと甦る神のように、安良も同級生や教師に辱められた後必ず一種の昇華を得ている」と言うのだが、これではベクトルが逆ではないか。ここでは「辱め」自体が、一種の「昇華」としての快楽なのだから。彼は白昼夢として展開される欲望(の俘虜[とりこ]であること)から解放されて壇をおりて来たのだ。その後にあるのはむしろオーガズム後の鎮静であろう。持田氏が一日目の「昇華」として引いている一文、「しばらくして、 安らかな涼しい心地が、彼に帰つて来た」も、そう解釈した方が平仄が合うというものだ。

 これに続く叙述は次の通りである。

その時間は、とうとう先生は、出なかつた。 生徒らは、のびのびした気分で、広い運動場に、ふっとぼうるを追ひまはつた。
 安良は朝の光を、せなか一ぱいに受けて、苜蓿草[ウマゴヤシ」の上に仆れて ゐた。青空にしみ出て来る雲を、いつまでも見入つてゐる。


 現在形で記された、一瞬がそのまま永遠になる少年の時。持田氏の紹介している、中学教師時代の折口作の教え子を題材にした歌三種のうち、「白玉をあやぶみいだ」く一首が『死者の書』に通ずることはすでに述べたが、もう一首、「くづれ仆す若きけものを なよ草の床に見いでゝ かなしかりけり」は、まさしくこの時の安良の姿ではないか。その日ついに出なかった、そこにいない(恐らくは)若い「先生」は仆れてゐる安良を背中の方から眺めているのだし、見られているのに気づきもせず、「青空にしみ出て来る雲」にいつまでも見入る者とは、そのまま不在の「先生」の過去なのである。

 郎女の「俤びと」のオリジンが『口ぶえ』の安良の裸身であり、一すぢの糸もかけていない裸にされる「いたましさ」から無数の糸で織った布地で「いとほしい」裸身を覆うことへと変形されていること。それが當麻寺の曼荼羅の伝説とうまく接続されたのだ(折口は、芸術家が白昼夢をいかに加工して社会的に受け容れられる形にするかについて書かれたフロイトの「詩人と空想すること」も共感を持って読んだに違いない)。あれは全く阿弥陀仏などではない(実は郎女もそれが阿弥陀ほとけではないかと思ってそう呼んでいるだけなのがちゃんと書かれている。肌の白さが強調され金色の髪を垂らしている阿弥陀如来などいない)。

 これをキリストの像だとする研究は以前からあるようだ。俤びとではなく、壇上に立って見上げられる安良について持田氏は、「胸から血を流すふりっつの幻想と重り、磔刑のキリスト像を強く強く連想させる」と言っている。それはその通りなのだが、その際重要なのは、そもそも磔刑のキリスト像自体が、狼に嚙まれて血を流すふりっつや裸にされて衆目に晒される安良と同じく、マゾヒスティックでエロティックなイメージだということではないか。

 持田氏はホモフォビックな男の研究者とは違うので、折口の奇怪な一首「基督の眞はだかにして血の肌[ハダエ] 見つつわらへり 雪の中より」を引いて、「真裸で衆目に晒され、血を流しその後よみがえるキリスト」を「官能的イメージを軸としながら」とまでは言うのだが、そこでスサノオやヤマトタケルを並列し、「彼らと通底する一旦卑しめられる神として折口を強く引きつけた」とまとめることで、台無しにしてしまうのだ。

 まして「一度は処刑されながら、その後水の女である中将姫との交感によって新しい神としてよみがえる『死者の書』の大津皇子の中にも、キリストのイメージが色濃く看取される」に至っては何をか言わんやである。語部の婆のせいで郎女の夢の中に出てくるようになった幻に甦りもへったくれもあるものか。

中将姫の前に示顕する大津皇子は、白い胸と黄金の髪を持ち、憂わしげに姫を俯瞰する若く美しい神である。

だからそれ、大津じゃないって!
(ついでに言えば、中将姫でもない。)

体操教師に 上衣を剝がされ壇上に立たされる少年安良の造型にも、既に磔刑のキリストを具体像とする、傷つき賤しめられる神のモチーフの萌芽が見られる。

 いや、違う。先に安良の身体が「如月の雪」「むくむくと雪を束ねる」と形容され、彼の空想の中で、ふりっつの白い胸から血は白雪の上に迸る(それがキリストと重なるのは、そもそも磔刑像がそうした図像の一つだったからだ)。基督の血の肌[ハダエ]の短歌は、まさに裸体と血と雪の三位一体である。

 俤びとが「冷え冷えとした」「白い」肌を持つのは無論こうしたイメージにつらなるものであるからだが、その時にはエロティックな含意は、変形され、隠されている(郎女はひたすら、寒さから救うためにその裸体を覆いたいという欲望に駆られているかに描かれる)。しかしこれは神のモチーフなどではなく、折口の作品を貫くモチーフなのであり、「傷つき賤しめられる神」は、復活ゆえにではなく、その傷ゆえにエロティックな価値を持つのである。


もう口ぶえは吹かない 1 【見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(4-1)】へ続く
[PR]
# by kaoruSZ | 2015-09-18 19:01 | 文学 | Comments(0)
※見よ眠れる船を(1)

『死者の書』をあらためて読み、これははっきり南家郎女を主人公とする芸術家小説だと判った。郎女は作品を完成するが、それは (そして彼女がなぜそれを作ったのかは)同時代の誰にも理解されない(実は、というか結果的に、これはこの小説と折口が未だに理解されていないこととパラレルになっている)。

『死者の書』続篇は、以前、tatarskiyさんの解釈を聞き、はじめて読んだ。この草稿は、旅の左大臣(藤原頼長と同定される)が、予定を変えて當麻寺に立ち寄る手前で中断しているのだが、tatarskiyさんはこの先を、頼長は寺で郎女作の曼荼羅を見たのち、夢の中でその作者と邂逅すると推定している。郎女には、のちの世の理解者にぜひとも伝えたかったことがあったのだ。要するに夢幻能の形式である。

 頼長は、郎女が作品ゆえに得る、時を隔てた理解者であるが、それ以前に、美しく、教養があり、自由に振舞える力ある者である。すでに『死者の書』本篇にこのような男たちは登場していた。大伴家持と恵美押勝がそれで、彼らは一方的に郎女の噂はするが、彼らの世界と郎女の世界とは交わることがない。そして実はそれこそが郎女の孤独の核心を成す。

 折口のラジオドラマ『難波の春』は、『死者の書』続篇の内容を考える上で、極めて重要な資料たりうる。ここにも家持が登場し、夢の中で東歌の女作者に出会う。そして作品の真実を彼女から聞かされるのだ(『難波の春』については以前連続ツイートした。参考までに)。

『死者の書』の内容紹介と称するものを見ると、家持と押勝は当然省略、大津皇子の死霊を異様に重視、俤[おもかげ]びととこれを同一視(ムリ)、郎女の曼荼羅で大津も郎女も救われたと、映画パンフレットの「あらすじ」並みの捏造だ。「絶対的に現代的」な作家がそんなものを書くわけがないのに。

 まず、作中での現実のレヴェルと、そうでないレヴェルを分けねばなるまい。いくら目立とうと大津皇子は後者だし、作品の因となる郎女の幻視もそうだ。男たちの世界が一方にあり、一方には、そこで話題にされるだけの郎女が、失踪し、発見され、物忌み中に手仕事をする世界がある。この対立という現実から一切がはじまっているのだ。

『死者の書』を本気で紹介しようとすると、巧みなというよりはひねくれた折口の構成に、舌を巻くと言うよりは舌打ちしたくなる。序章で大津に思うさま喋らせ、二では二上山中で、失踪した郎女の魂[タマ]呼ばひする者たちが、あたかも本当に死者の声を聞いたかに思わせて、三で寺と庵の描写説明に行数を費やした挙句、ようやくヒロインを登場させるのだから。

 素直な人はここまでの記述のせいで、死人が郎女を誘[おび]き寄せたか、あるいは二上山中で「こう こう こう」と騒いだのが死者を目覚めさせたと(おや、どっちだろう?)思うだろう。だが、それは、人に耳を傾けてもらえなくなった時代遅れの語部の婆が、郎女が来たのをこれ幸いと.恐い死者の話を聞かせ、信じさせようとしたようなものだ。

「語部の古婆(フルバヾ)の心は、自身も思はぬ意地くね惡さを藏してゐるものである。此が、神さびた職を寂しく守つて居る者の優越感を、充すことにも、なるのであつた」と書く折口もまた、意識していようといまいとこの古婆だと今回気づいた。石室で目覚めて、死に際に思いを残した女の代りを現世に求める死者の話とはそのようにして語られたものなのであり、「人の語を疑ふことは教へられて居なかつた」郎女でさえ、「言ふとほり、昔びとの宿執が、かうして自分を導いて來たことは、まことに違ひないであらう」と認めつつ、なぜその罪びとと、光り輝く雲の上に自分が見た俤とが同一なのかと訝るのは、至極当然なのである。

『死者の書』は幻想小説ではない。少なくとも「超自然」の介入があるわけではないという意味ではそうである。要するにここにお化けは出ていないのだ。先へ行って郎女は、帳臺に近づく「つた つた つた」という足音を聞き、「細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳[トバリ]を摑んだ片手の白く光る指」を見ることになるが、これは語部の婆に聞かされた話のせいで見た夢として説明がつく。何よりも(評者に無視される)男たちの会話の中で、藤原南家の姫が神隠しに遭ったことは取沙汰されても、二上山の死人が目覚めたなどとは言われていないわけで、いかに大津のパートが姫の主観で語られていなかろうと、これは現実のレヴェルにある話ではないと考えるのが妥当なのだ。

 もちろん死者の語りは欠くべからざる部分、それなしでは小説がはじまることのなかった、また標題の拠ってきたるところにもなったパートであり、ブリコラージュする人としての折口が、 中将姫伝説、来迎図、日想觀、山越しの阿彌陀像と拾い集めて、作品の統一をもたらすものとして最後に見出したピースでもある。閨に忍んでくる骨の指(と、先ほどの引用でも明記されていないところがかえって恐しい)の死人と、夕陽に荘厳されて雲の上に現れ出る俤びととは別物である。大津もまた「天の神々に弓引いた」天若日子の一人であるゆえ「顏清く、聲心惹く」のだという語部の婆の返事は答えになっておらず、この齟齬は最後まで解消されることはない。

 墓の中での目覚めと独白という、現在『死者の書』の導入部になっているものについて今述べたことは、言うまでもなく、『山越しの阿彌陀像の畫因』においては、折口が『死者の書』の起源について、「横佩垣内の大臣家の姫の失踪事件を書かうとして、尻きれとんぼうにな」り、「その後もどうかすると之を書きつがうとするのか、出直して見ようと言ふのか、ともかくもいろいろな發足點を作つて、書きかけたものが、幾つかあつた」、つまり折りにふれ繰り返し試みながら果さないでいたのが、ある時についに作品の真のはじまりに到達したと語っているエピソードに相当する。周知の通り、その「發足點」は折口の見た「夢」であった。

 中断していた小説に関して「少し興が浮びかけて居たといふのが、こぐらかつたやうな夢をある朝見た。さうしてこれが書いて見たかつたのだ。書いてゐる中に、夢の中の自分の身が、いつか、中將姫の上になつてゐたのであつた」と折口は書いている。そしてそれを「死者の書」という小説として書くことが「亦、何とも知れぬかの昔の人の夢を私に見せた古い故人の爲の罪障消滅の營みにもあたり、供養にもなるといふ樣な氣がしてゐたのである」

 これについては有名な加藤守雄の証言がある。「ある朝、奇妙な夢を見た。中学生のころ、友人だった男が夢の中に現れて、自分に対する恋を打ちあけた。その 人がそんな気持ちを持っていたとは、その当時はもちろんのこと、いまのいままで、ついぞ思っても見なかった。夢の中で告白されて、はじめてそうだったのか と思いあたることがあった。まるで意識していなかったのに、三十年も過ぎてから、夢に見たことが不思議でならない。それを絵解きして見よう、そう思って書き出したのが、『死者の書』になった」と折口から聞いたというのだ。

『山越しの阿彌陀像の畫因』という文章は、タイトルからして、本当なら「『死者の書』縁起」とでもすべきものがずらされており、「私の物語なども、謂はゞ、一 つの山越しの彌陀をめぐる小説、といつてもよい作物なのである」と控えめに称しながら、実は唯一無二の彼の作品について、書いている時には意識していなかったことまでもあとになって気づき、しかも誰もそう読んではくれないので自ら書いたものだ。「これを書くやうになつた動機の、私どもの意識の上に出なかつた部分が、可なり深く潛んでゐさうな事に氣がついて來た。それが段々、姿を見せて來て、何かおもしろをかしげにもあり、氣味のわるい處もあつたりして、 私だけにとゞまる分解だけでも、試みておきたくなつたのである」と、これもつつましやかに折口は書いているが、いや、到底、「私だけにとゞまる分解」などではありえない。精神分析という語が何度も使われているのはかりそめではない。

 しかし折口は「日本人總體の精神分析の一部に當ることをする樣な事になるかも知れぬ。だが決して、私自身の精神を、分析しようなどゝは思うても居ぬし」などと高慢と謙遜の織りまざったようなことを書いたので、小説を読む能力に欠陥があり、しかもホモフォビックな人々は、日本人の宗教観を絵解きしたものと解釈してすませるようだ。勿論ここでは折口の「精神分析」だの、伝記的事実それ自体だのではなく、あくまで小説が問題なのだが、実際に三十年前の折口を彼自身が描いた小説があるのになぜ比較しようと思わないのか(と、tatarskiyさんに言われ、今度は『口ぶえ』を再読しなければならなくなった)。

『死者の書』について考察をはじめたのは、そもそも郎女と『文金風流』の女主人公との類似を確認するためなので、必要以上に横道にそれるのは避けたいが、しかし『口ぶえ』については、なるほど主人公の少年安良[ヤスラ]の身の上が、夢の中で「いつか、中將姫の上になつてゐた」と言っても全くおかしくない。むしろそれで辻褄が合う。

  南家郎女は女になった安良であり(どういう点においてであるかはこれから説明する)、折口の「中学生のころ、友人だった男」の変形された甦りとしての死者に出会う者であり、折口が観察した、同時代の、自由を求めて苦闘する女でもある。いや、むしろ、自由に生きることが不可能な女と言うべきなのだが、最後のものは、繰り返しになるが、「女嫌ひ」と称される折口がそんなものを描こうとは、誰も夢にも思っていまい。だから郎女は、何やら作者の手中で操られている傀儡のようにしか見なされず、彼女のパッションは誰にも(周りの者にも読者にも)理解されないのだ。

『死者の書』における現実/非現実のレヴェルははっきり分けて考えるべきであり、また分けられることを先に見たが、同様に、郎女にとっての善きものと悪しきものの区別もまた、多くの読者が見誤るのとは異なり、判然としている。

 要するに、大津の死霊は、郎女の見る俤びと=阿弥陀ほとけではないのであり、前者が鎮魂ないし昇華されて後者になったりはしないのである。これが、『口ぶえ』における主人公の性意識と対応することは、tatarskiyさんに指摘された。具体的には、彼と関わる二人の上級生、岡澤と渥美として具現されていると言うべきなのだが、前者は安良を「肉欲」の対象として、手紙を渡したり、つけ回したりし、後者は「浄らかな人」として、安良の憧れの対象であるのだ。これだけでもそのまま郎女にとっての大津と俤びとであるが、加えて、安良が岡澤と渥美それぞれと川で泳ぐ場面があることは、郎女が寝入りばなに死霊の訪れを受けてのち、夢で等身大の白玉を抱いて水底に沈む、美しいくだりを思い起こさせずにはいない。

『口ぶえ』で「激しい息ざし、血ばしつた瞳、ひしびしと安良に壓しかかる觸覺」と描写される岡澤に、安良は水泳の最中、水中で抱きつかれ頬に接吻される。一方、夏休みに西山の寺に籠る渥美からの手紙に応えて、安良は彼を訪ねてゆき、一緒に川で泳ぐことになるが、彼らは「裸形をはぢらふやうに」離れて衣服を脱ぐ。激しい反発と極端な抑圧の危うい均衡は、自分が実は岡澤に惹かれてもいて、渥美に対する気持ちも同じところから来ているという自覚によって破れずにはいない。二人の少年がとどのつまりはともに死のうとして崖の上から身をのり出すところで、『口ぶえ』は未完のまま中断している。

『口ぶえ』から四半世紀のち、安良が(折口がではない)女になった郎女の上に、その出来事はどう起こったか。前者の、渥美に呼ばれての大阪から奈良への旅を、俤びとという幻を追っての、都から當麻への西へ向かう旅として逆向きになぞり、そこで、折口の若き日の思い出の中の男(たち)の甦りである、大津皇子=天に弓引く天若日子が、この世に心残して、藤原家当代の姫君の中から最も美しい娘を求めてやって来ると、婆に吹き込まれた郎女は、「俤に見たお人には逢はずとも、その俤を見た山の麓に來て、かう安らかに身を横へて居る」はずが、横たわる床に忍び寄る足音を聞き、「その子の はらからの子の/處女子(ヲトメゴ)の一人/一人だに/わが配偶(ツマ)に來よ」という、婆の聞かせた歌が甦る。

帷帳(トバリ)がふはと、風を含んだ樣に皺だむ。
ついと、凍る樣な冷氣――。
郎女は目を瞑つた。だが――瞬間睫の間から映つた細い白い指、まるで骨のやうな――帷帳(トバリ)を掴んだ片手の白く光る指。

 咄嗟に阿弥陀ほとけの名を唱えて郎女は逃れるが、
白い骨、譬へば白玉の竝んだ骨の指、其が何時までも目に殘つて居た。帷帳(トバリ)は、元のまゝに垂れて居る。だが、白玉の指ばかりは細々と、其に絡んでゐるやうな氣がする。

 骨の指なのか、白玉の指なのか。言葉の(夢の)詐述[しごと]は、「山の端に立つた俤びとは、白々(シロヾヽ)とした掌をあげて、姫をさし招いたと覺えた。だが今、近々と見る其手は、海の渚の白玉のやうに、からびて寂しく、目にうつる」と、骨と白玉のダブルイメージのうちに、郎女を「海の渚」へ導く(たぶん折口は、「夢の仕事」についてのフロイトの記述を、深い実感を持って読んだろう)。

「渚と思うたのは、海の中道(ナカミチ)である」。左右から波が打ち寄せてくるそこを歩きながら、郎女は砂に混じる白玉(真珠)を拾おうとするが、「玉は皆、掌(タナソコ)に置くと、粉の如く碎けて、吹きつける風に散る」。しかしついに白玉は彼女のものになる。

姫は――やつと、白玉を取りあげた。輝く、大きな玉。さう思うた刹那、郎女の身は、大浪にうち仆される。浪に漂ふ身……衣もなく、裳(モ)もない。抱き持つた等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。
 姫はそのまま水底へ沈む。
水底(ミナゾコ)に水漬(ミヅ)く白玉なる郎女の身は、やがて又、一幹(ヒトモト)の白い珊瑚の樹である。脚を根、手を枝とした水底の木。頭に生ひ靡くのは、玉藻であつた。玉藻が、深海のうねりのまゝに、搖れて居る。

 これを読んで第一に連想されるのは、アポロンの求愛を逃れようとしたダフネが月桂樹に化ったエピソードだ。ギリシアのあの変身する女たちの一人に、郎女はここで身をやつしているのではあるまいか。もう一つ、白玉と珊瑚へのこの変身は、シェイクスピアの『テンペスト』で、父王の船が嵐で難破したと知り、父親が死んだと思って悲しむフェルディナンド王子に、エアリエルが歌う、
Of his bones are coral made; 
Those are pearls that were his eyes;

を思い出させる――彼の骨は珊瑚になった、この真珠は彼の眼であった。あまりの一致に、これは私が知らないだけで誰かが指摘しているかもしれないと思うが、もしそうでないとしたら、それは「日本」だの「古代」だので折口が出来上がっているという思い込みのせいだろう。

 その時代、「大陸から渡る新しい文物」はまず太宰府に入った。「あちらの物は、讀んで居て、知らぬ事ばかり教へられるやうで、時々ふつと思ひ返すと、こんな思はざつた考へを、いつの間にか、持つてゐる――そんな空恐しい氣さへすることが、ありますて」と家持に洩らす、恵美押勝の気持ちはそのまま折口のものだろう。「唐から渡つた書などで、太宰府ぎりに、都まで出て來ないものが、なかなか多かつた。學問や、藝術の味ひを知り初めた志の深い人たちは、だから、大唐までは望まれぬこと、せめて太宰府へだけはと、筑紫下りを念願するほどであつた」。蓮糸で織った布地に絵を描こうとて、郎女が奈良の館に取りにやらせたのが、「大唐の彩色(ヱノグ)」であるのもゆえなき細部ではあるまい。

 郎女が「大浪にうち仆され」たあとの記述を、さらに細かく見てみよう。

浪に漂ふ身……衣もなく、裳(モ)もない。抱き持つた等身の白玉と一つに、水の上に照り輝く現し身。


 郎女は一糸纏わぬ姿となり、「等身の白玉と一つに」抱き合った裸身が水の上で輝いている。そして海底に沈むと、「水底(ミナゾコ)に水漬(ミヅ)く白玉なる郎女の身」と言うのだから、もう白玉は対象ではなく、完全に一体となってしまって、彼女自身が白玉なのである。ナルシスティックでエロティックな夢。このあと、月光が水底にさし入って、郎女は水面に出て息をつき、即ち夢だったことを知る。

  そして仰ぎ見る天井の板には「幾つも暈(カサ)の疊まつた月輪の形が、搖(ユラ)めいて居て」そこに彼女は、再び俤びとが現れるのを見る(それもまた夢なのだが)。

胸・肩・頭・髮、はつきりと形を現(ゲン)じた。白々と袒(ヌ)いだ美しい肌。(…)乳のあたりと、膝元とにある手――その指、白玉の指(オヨビ)。

 夢の中で「抱き持つた」、そして彼女自身がなっていた白玉が、再び距離を取り戻して、彼女の寝姿を見下ろしている(この豊かな肉体が、骨の指を持つ死霊の対極にあることは強調されていい)。

 ところで、この「白玉なる身」という表現は、次のように記述される 安良の身体にもふさわしいのではなかろうか。

ふりかへると斜に傾いた鏡のおもてに、ゆらゆらとなびいて安良の姿がうつつてゐる、大理石の滑らかな膚を、日が朗らかに透いて見せた、近頃になつてむっちりと肉づいた肩のあたり、胸のやはらかなふくらみに、思ひ無げな瞳をして、ぢつと目を注いでゐた。

 湯上りに、鏡に映った自身の姿に見入る場面である。鏡が水鏡めいていること、裸体の描写に男性と特定される要素が薄いこと、膚を大理石に喩えていることなどが一見して目につく。

『「口ぶえ」試論』で持田叙子は、安良が飛鳥の古寺の「大理石の礎」を思い浮べることについて、ここで安良の膚の比喩に使われた「大理石」の一語にも言及しつつ、 メレジェコフスキーの『背教者ジウリアノ』において、「陰鬱なキリスト教世界」に対してジウリアノ(ユリアヌス)の憧れる古代ギリシア世界が大理石に代表されることから、「こうした大理石のもつ意味に、折口は知らず知らずのうちに影響されているのではないだろうか、それゆえに安良は大和飛鳥のイメージとして、実際には稀有な「大理石の礎」のイメージを思い浮べてしまうのではないであろうか」と言っている。折口の西洋的教養の拠って来るところを、このように具体的に指摘して貰えるのはまことにありがたい。しかしこの大理石とは、端的にGreekの指標ではなかろうか。

 理想化された古代ギリシアの同性愛。晴朗な空にそびえる大理石の神殿と、ヴィンケルマン的な純白の神々の像。鏡の中の安良の肉体は、その石像とナルシスティックに同一視される。ヴィクトリア朝から二十世紀初頭の英国においてヘレニズムに傾倒した文学者たちを、折口が知らなかったわけもあるまい。

 先に見た郎女の夢が、オヴィディウスやシェイクスピアの引用と、フロイトから学んだ知によって織りなされ、純粋に日本的なものなどほとんど見当らないように、ここでも彼の構築する作品は「西洋渡りの新しい文物」を「基」に成り立っている。「大理石の」は、衣の下の鎧のように、真実を覗かせているのである。

「こうした大理石のもつ意味に、折口は知らず知らずのうちに影響されているのではないだろうか」という修辞的設問は、だから到底成り立ちうるものではない。「大理石」は、古代ギリシア=男同士のエロティシズムという含意ゆえに呼び込まれたのであり、意識的なものでしかありえない。第一、飛鳥の古寺に大理石を使ったものなどまずないと、折口が知っていなかったとも思えない。知っていたからこそ、わざと出したのであろう。大理石の礎の寺がほとんどないように(一つだけあるそうだ)、金の垂れ髪の阿弥陀仏など例がないのに、「俤びと」に平気でそのような容姿を与えたのは、「知らず知らず」やったことではないだろう。

 持田氏の論文から論旨とは別に一つ教わったのは、折口が中学教師時代(『口ぶえ』発表と同時期)、自分の教え子たちを題材に短歌を詠んでおり、のちに連作「生徒」の中に組み入れて『海やまのあひだ』に収録された三首のうち、一首が
白玉をあやぶみいだき ねざめたる 春の朝けに 目のうるむ子ら
だったことだ。これは白玉を抱く夢を見てめざめた郎女であり、そのプロトタイプではないのか。

 ただし持田氏は、『口ぶえ』とヴェデキントの『春のめざめ』との関連を議論するためにのみこれらの歌を出してきており(「生徒」については、折口自身が、「『この連作はうえできんと[原文傍点]の「春のめざめ」を下に踏んでをり、』と述べている」そうだ)、この歌と『死者の書』の関連についての言及は見当らない。

『春のめざめ』は、性について無知なまま、少年少女が関係を持って、少女が妊娠し云々という、当時としては衝撃的な内容であるが、「少年少女の性欲の具体的な描写などは全く無い」「淡々とした」ものであり、それに比べると『口ぶえ』の描写は「蒸せかえるような熱気を孕んでいる」と持田氏は言い、もう一つの先行作品として谷崎潤一郎の『颱風 』を挙げて、その類似と相違を述べる。しかし、確かにこれらの作品は折口に影響を与えたであろうが、言うまでもなく最大の違いは、『口ぶえ』における欲望と憧憬[しょうけい]が同性に向けられていることだ。無知な少年少女は勿論、「初めて女体に接」して「淫蕩の血が目覚め」た男が「荒淫の限りを尽して頓死」する、 「根太や膿、血などのおぞましいもの」に満たされた『颱風』も、折口からはあまりにも遠い。

 無論持田氏は、「同じように身体感覚に注目しながらも、「口ぶえ」にはそうしたダイナミズムはない。折口は、メリヤスシャツの肌ざわり、目覚めの倦怠感、 寝汗など、少年の身体の内側に刻まれる繊細で微弱な日常のリズムを据え、そのことによって返って生々しく少年の性愛に迫るのである」と結論し、それはその通りで『口ぶえ』の特徴をよく捉えていると思うが、その「性愛」が男同士のものであることがなぜ名指されないのかが、解せない、

 勿論、主人公と岡澤や渥美との関係について持田氏は、「安良は二人の上級生に心惹かれるが、二人は対極のタイプである」「かたや肉欲、かたや精神性を強調される岡沢と渥美」「岡沢と安良の水中シーンをなそるかのように、西山の谷川で二人が泳ぐ場面がある」と、適切な指摘をしており(私もこの論考の元となった連続ツイートの途中で読み返し、多くの示唆を受けた)、『口ぶえ』がそういう話であることは、小説を読んでいない者にも容易に理解されうるのだが、最終的に持田氏は、同性愛のモチーフそのものについての考察は無しで済ませている。

 この詰めの甘さが、『死者の書』においては「大津皇子と彼のために機を織る中将姫との直線関係に」「構図が凝集」され、「最終部の大津皇子の復活に向けて鮮明な浄化感を形成しているのに比べ、「口ぶえ」の最終部は糸の切れた風船のようにたよりない。渥美と安良は蓬々と吹く夕風の中、途方にくれて見つめ合う。彼らを導くものはもはや死しかない。しかし悩みつかれ、万策つきてお互いをみつめるその蒼ざめた少年の顔の哀れこそ、この時点での折口の最も描きたいものではなかったか」という散漫な結論部に至るのを見る失望感は大きい。

 まず、郎女が機を織ったのは大津のためではないし、最終部で彼の復活を示す記述は全くない。「郎女が、筆をおいて、にこやかな笑(ヱマ)ひを、圓(マロ) く跪坐(ツイヰ)る此人々の背におとしながら、のどかに併し、音もなく、山田の廬堂を立ち去つた刹那、心づく者は一人もなかつたのである。まして、戸口に消える際(キハ)に、ふりかへつた姫の輝くやうな頬のうへに、細く傳ふものゝあつたのを知る者の、ある訣はなかつた」というのが『死者の書』の最後から二番目の段落である。浄化感はおろか、安良と違って郎女には、見つめ合う目すらなかったのだ。

(3)へ
[PR]
# by kaoruSZ | 2015-09-09 19:41 | 文学 | Comments(0)

彼〔か〕の船は此の世の涯より
汝〔なれ〕が幽〔かそ〕けき欲望〔のぞみ〕すら
叶へむとして来〔きた〕るなり。
ボードレール「旅への誘い」


【七月十六日】折口の戯曲について、先日またtatarskiyさんから電話で聞く。『文金風流』というのだが、検索しても全集の収録リストに出てくるばかりだ。論じている人いないのか。手すさびとしか思われていないのか。溝口か成瀬に黒白で撮らせたかったような話というか、聞きながらそういう映像で浮かんだ。

  語り物の知識などさっぱりなので初めて知る名前だが、豊後節の祖で、実在した宮古路豊後掾(みやこじぶんごのじょう)が主人公。といっても、『死者の書』が中将姫伝説に取材しながら全く別なものに書き換えているのと同じく、豊後掾の前身が侍というのも、それ以外の登場人物も、皆折口の創作らしい。そして『死者の書』の郎女に相当する女がここにもいる。

 一言でいえば才能があってもどうにもならない女、女であるためにそれを生かすことのできない女、豊後掾がそうであるように自由には生きられない女だ。もう一人、狂女がいて、実はこの二人を合わせたのがかの郎女というわけだ。 

  狂女の話の方で登場する僧の物語には、明言されない男色がかかわっているらしい。だがそれは脇筋で、メインは女(姫君である)に同情した豊後掾が、彼女との心中を承知する話。実は彼の得意は心中物で、文金風と呼ばれた髪型・衣裳のダンディズムばかりか、心中までも真似る者が続出、相対死[あいたいじに]は 禁止され豊後節は弾圧されたというのは歴史的事実らしいが、面白いのは、姫君がそれに憧れたわけではなく(それではボヴァリー夫人だ)、二人が恋人同士ではないことだ。当時、この反メロドラマを誰が理解しえたのか。折口の作家としての才能の凄さは弟子に“伝えることのできる”学者としての業績を軽く超える。そうあらためて確信しつつ、今度コピーをもらって読むのを楽しみにしている。

【八月五日】おとといtatarskiyさんから、『文金風流』、コピーを糸で綴じたのを恵贈さる。歌舞伎台本(ラジオドラマではなかった)で、実質生前未発表作。凄い。ミイラの棺を開けたらみづみづしい色あざやかな花束が現れて、それが目の前で塵と化したのではなく、今時ひらいたどんな花より鮮やかに咲きつづけているという凄さである。

  解題によれば雑誌『新演劇』の脚本募集に応じたものというが、不採用だったという意味なのか、それとも実際応募しなかったのか、いづれにせよ上演されていないのだろう。また、まともに読まれたこともないのだろう。tatarskiyさんの認めた『死者の書』との類似に、これまで誰も気づいた形跡がない以上。

『死者の書』などよりよほど“普通に”理解できる筋書を持つ、巧みに構成され、洗練された戯曲なので、上演されたことがないのが惜しまれるし、歌舞伎台本としても完成されたものだと思われる。あまりに完璧過ぎて、もし実際に審査されたとしても、当時の人にはその新しさが分らなかったに違いないほどに。

  風俗壊乱の廉で江戸を追われた浄瑠璃語り豊後掾の実話に、折口は武士という前身と、姫君との“心中”という結末を接いで『文金風流』を仕立てた。序幕で主人公の存在は、姫路城下の花見の幔幕の中から聞える謡の美声の主としてまず感知される。このあと彼は、同輩が狂女を斬ろうとするのをやめさせようとして誤って相手を殺してしまい、武士を捨てて出奔するのだが、その場で切腹しようとしたのを止めた僧、慶円に、「此芸能もて世に立たれたら、恐らく天下第一の名人となられる」と言われる。

 これが、彼が豊後掾になる発端なのだが、慶円も実は偶然そこに居合わせただけではない。後の豊後が助けたお兼は、「文ひろげの狂女」とあだ名され、「あまた家中[かちゅう]の人々より彼に寄せたる艶書の数々」を「喜んで披露しある」いている(豊後に殺された男もかつてお兼に文を遣った一人である)。しかし彼女が好きになったのは慶円だけで、その結果今のようになった、つまり彼自身は与り知らぬ事ながら、自分に叶わぬ思いを抱いて狂ってしまったと慶円は語る。これは、道成寺から奇妙に内実を抜き去ったエピソードで、慶円の傍観者性(手出しをした豊後との対比に於ても)を際立たせる。

 第二幕は江戸の芝居小屋横ではじまる。大入りで入れず、豊後をいわば出待ちする人々の会話だけで十五年後の彼の状況を髣髴とさせる、折口の手腕は水際立っている。序幕でも彼の容姿は家中[かちゅう]の侍女たちから、「あのお容子であのお声」「あんな男を持つ人は、どうした果報の姫御前であらうぞ」と言われていたが、ここでは専ら男たちによって彼の美しさが語られる。

町人一 したが文金の声も声だが、男振りと来ちや一層たまらないや、業平が絵馬堂から抜け出した様な顔をして、三日月なりの小袖に、片身変りの片衣をひつかけて、舞台を斜めに、見物の方を向いて坐つた容子なざあ、女の子にやほんに眼の毒といふもんさあ。
町人二 いかな役者もあの男と並べた日には、お月様の前に出た星よりももつとみじめだ。あの男が結ひ出して、当時流行[ハヤリ]の文金髷、この辺[あたり] にもたくさん見えるが、あのまつ黒な大たぶさに、金糸を高く結び上げた恰好なんぞ、何ともかとも言はれない。あの時ばかりは何だかこちとら野郎に生れて来たのが、まゝならねえやうな気がすらあ。女の子にとつちやたまるめえ。


 江戸っ子の町人二人、本当は自分が「たまらねえ」のが見え見えなのに、女の子がと言っているところが可笑しい。

 あるいは、「あの声を聞いたが最期、家も名聞も打ちやらかして、思ふお方と死にたくならあな」――だから結婚していてよかったという男。これに続く会話からは、折口のユーモアのセンスも窺われよう。「いつもと違って歌から芝居に持ち込んだ」、つまり芝居とコラボレートした豊後の新作は「文ひろげ」といい、 文金風の髪型・ファッションのみならず、情死まで流行らせた彼は、「若い身でこれ聞かねば、江戸に生れた甲斐のない娘・息子の仲間外れぢやといふ程な浄瑠璃」として、若い男女の熱狂的な支持を得ている。

 ここで、序幕の反復めいた事件が起る。先ほどは狂女が殺されかけたが、今度はお忍びの姫君一行が悪御家人に因縁をつけられたのを、小屋から出てきた豊後が助ける。侍三人を向うに回し、鮮やかな立ち回りで相手を制圧する伊達男は、文武両道のスーパースターだ。豊後が去り、人々が散ったあとに、傍の茶屋の中から、一部始終を見ていた慶円が現れ、文ひろげの狂女までが登場するが、慶円の顔を覗き込んでも判別はつかない。

 豊後の向かった先は兄弟子・都千中の住いである。第二場はそれに先回りして、千中の妻で芸者上がりのおこのが、自宅で家主と対坐するところからはじまり、込み入った事情を 会話だけで明かす。家主は、芸一筋で頑固一徹(そのため家賃が払えない)の千中に、檀那衆に稽古をつけて援助を受けることを奨め、「此頃流行 [ハヤリ]の豊後節は、こちらの弟々子[オトトデシ]で、京から一処に下つた国太夫半中と言つた男が初めたんだとか言ふことだが、此頃は猿若の芝居に出て、時にはお大名の館へも上り、高家の姫君様迄が忍んで聴きに御座るげな。兄弟子が蹶落されてゐて、残念だとは思はないのかねい」と言うが、千中は国太夫即ち豊後の新作の節回しに意見することしか頭にない。 

 河東節の名手おこのを芸を捨てるのを条件で娶った千中の話は、一見昔ながらの芸道ものだが、実は慶円と狂女お兼、そして豊後と照姫のカップルと重ねられることで新たな意味を持つ。これは芸道ではなく芸術の話であり、折口は絶対的に現代的(absolutely modern)な書き手なのだ。

 豊後は千中の意見を容れず、千中は豊後の援助の申し出を断って、兄弟弟子の縁どころか、亡き師に代り師弟の縁も切ると宣言、盆ぎりで立ち退かねばならぬから、二日後には京へ帰ると豊後を追い出す。するとおこのが、情熱の失せたまま夫婦を続ける気はなくなったから自分はとどまって尼になると言い出し、二人は“熟年離婚”を決める。  

  第三幕は第二幕と同じ元文五年(その二日後)の設定で、これは実在の豊後の没年だが、彼はその二年前に江戸八百八町の芝居小屋お構いになって帰京しており、また心中も史実ではない。だから作品においては照姫との関係こそが重要なのは当然だが、それは語り手が虚構として語ったものを自らなぞって死ぬことになるという意味ではない(それでは豊後節に煽られて死ぬ者と同じになってしまう。千中は彼らを、「おぬしの浄瑠璃聞いて死ぬる者が多いとの噂、何を盲千人の世の中、文句は訣[わか]つても、節につまされて死ぬといふことはあるまい。高々、死んでも浮き名が謳はれたい阿呆どもぢや」と言っている)。ここでは、そう思ったのは間違いだった(芸の素晴しさで感動させているわけではないと千中は豊後をそしっている)という話になっているが、真実は、大衆には文句、即ち物語しか分らぬという方にあろう。 

 逆に言えばここでの折口の営為は、見る目を持たぬ多数派にも分る文句(メロドラマ)として二人の関係を織り成しつつ、選ばれた少数の耳には間違いなくその節[ふし]を届かせんとするものなのである。

 第三幕は、大名家下屋敷の大川べりにある垣の切り戸から「白無垢の袿[ウチカケ]が逆に懸けてある」長持ちが運び出されるという、ただならぬ情景ではじまる。船で去るのを陰ながら見送るのは照姫づきの埴科、急死したのは乳母の篠の井、埴科の独白によれば姫君は「お乳[ち]殿のおしつけで、何一つ欠点[オロカ]のないお育ち、とりわけ、糸竹の道は家中は素[モト]より、検校、勾当の間にも、をさをさ及ぶものもない御鍛錬」。糸竹とは管弦、音曲のこと。これはつまり序幕で侍女らが、「去年京から下つた宝生の太夫も、舌を捲いたと聞いた」と噂していた、豊後と同様の才の持ち主で照姫があるということだ。

 しかし武士を捨てても生きられる豊後と違い、「惜しやこれ程の芸能持つて、お生れ遊ばし乍ら、大名の姫君とあるお身の不肖、聞き知るもののない御殿帳台の中に持ち腐れに遊ばさうと、わたしも素より好きの道とて、いとほしがつてお思ひ遣り申したが」誤りだったと埴科が述懐する通り、姫君にはそもそもそれを生かす道がない。

「永のお気鬱をお霽し申さうとて」「お気発散の御為とて」姫を外出させたと埴科の科白はさりげないが、要するに照姫は以前から鬱だったのであり、それは彼女が封建時代の姫君などではなく、折口がそうしたものを描くとは誰も思わぬのであろう自由に生きたいと望む女、近(現)代の自我のある女だからだ。

【八月十七日】
『死者の書』久方ぶりに通読する。青空文庫に感謝(現代仮名遣い版なんて愚かしいものまで揃えることは全くないけど)。さらにtatarskiyさんから、富岡多恵子の『釈迢空ノート』について電話で聞く。tatarskiyさん、『文金風流』の狂女のモデルが分ったと言って……うーん、これは決定だね。安珍清姫の形式を借りながら内容が抜けている理由もそれで説明がつくし、第二幕終りの狂女再登場時の、「十五年経つた割合ひに若い顔をして」というト書きに感じた妙なリアルさもそこから来たものかと気づく。

 詳しくは富岡の本手に入れてから書くが(図書館飛んで行こうとしたが土日閉館時間が早くて果さず)、背景が判ってみれば、「叔母が部屋で召し使うたる」女が自分を「隙見し」、「様々思ひ悩んだ末、心みだれて狂ひ出」たと「叔母より承り、存じもよらぬ事とは申しながら、罪深い事致したと」と慶円が言うのは、少なくともそう言わせる折口は、とぼけているのだ。

 幼少時に寺に迎え入れられた跡継ぎでありながら、師の坊(恐らくは愛人)に死なれ、出奔する慶円は、明らかに折口の投影だが、彼はまた、相手と関ることのない傍観者でもある。その分、物語の案内役であり、豊後に芸で生きることを奨めて、まるで作者のように筋書きを進めた人でもあるのだが、その 彼が唯一積極的にその手もてする行為は、姫と豊後が死ぬために入った船のもやいを解くことである。

 この第三幕第二場の幕切れは一篇の幕切れでもあるのだが、読み返すとこの辺り、全くリアリズムに則っていない。前段で姫は尼寺へ入ることに、豊後は江戸での公演禁止と決り、これが最後と豊後が謡った翌朝、おこのと別れ京へ上る千中と、橋上で和解し見送った豊後の前に、切り髪姿の姫が現れるが、その後を例の悪御家人どもが追って来る。

 そんなところへ今さら三悪人が出てくる道理がないので、これはもう「一人の手を捻ぢ、一人の肩を抑え、一人を踏んで(…)色々悪侍をあしらうて、果は二人を斬り、一人を川へ投げ込む」という豊後大活躍の場を作るために過ぎないが、同時に、第二幕で姫一行を助けた時の、「侍三人を色々にあしらうて、とゞ一人を 当て身で仆し、一人を踏まへ、一人を後向きの立身に捻ぢ上げる」の変形された繰り返しでもあり、序幕で狂女を救った出来事の反復でもある。

 あの時はこうした形ばかりの立ち回りではなく、相手の命を奪った事件が彼の運命を変え、また、『文金風流』一篇を可能にしたが、今また同じ型が反復されるのは、これから彼が姫との決定的な関係に踏み入ることの徴でもあろう。

 また慶円は、まだ千中が去る前から、上手から出て様子を窺っているのが観客から見えているのだが、この僧、序幕でその場に居合わせたことについては詳しくいきさつが語られ、第二幕でもお盆の経を頼まれた茶屋のうちより騒動を目撃したと一応の説明がなされているけれど、もうここでは何の因果もなしに柳の陰に立っている。

 今は尼となった姫君と豊後が「一処に」死ぬことを決め、「此処で死んでは、お家の名折れ」と、豊後が「あれにて」と船を指し、二人が入ると「僧せはしく出て、艤ひを解」き、船の簾を上げて豊後が「断末魔の苦悩を救ひの御経[オンキヤウ]」を頼み入るが、実は十五年後の江戸に慶円が来ていることを、豊後はこの時まで知らなかったはずである。観客は何の疑いも持つまいが。

 一方、文ひろげの狂女の第二幕第一場での登場はいささか不気味ながら、続く第二場での豊後の科白「十五年前、国を出る砌、ちと恩を受けた方のみよりの者、江 戸で計らず廻りあひ、見るに見かねて連れ戻りました」で合理的に説明される。老婆をつけて「うちに養うて」あるのだが、脱け出し「狂ひ回る」こともあるという。

 だが、船が河心へ出るのを橋上から僧が見送り「黙拝」するところへ、「突然橋向うから出る」狂女は、婆の目を盗んで出てきた訳ではあるまい。「船中から幽かに念仏の声。続いて悲鳴」という修羅場にただただ「黙禱」を続ける僧を補完して、最後の絵を完全なものにするために、彼女は枠組の外、物語の外からやって来たのだ。

「狂女橋詰へ出て、文を両手で捧げて、拡げる。」これが最後のト書きであり、あとは「静かに幕」という指定があるばかりだ。狂女が掲げる文、男たちの恋文とは何だろう。少なくとも、心中する男女の称揚や鼓舞に繋がるものでないことは確かだ。慶円が狂女との因縁を打ち明けるよりも前、侍女らが豊後(の前身)に語った、お兼発狂のいきさつは、慶円のものとはいささか異なっていた。奥の中老(慶円の叔母である)に仕えた町人の娘お兼は、「大勢の殿方に思ひを寄せられ、聞かねば死んで呪ふと言ふもあり、心に従はずば殺さうと囃すお侍衆もあつて、あんまり恐さ、煩さゝにとりのぼせて、とうとう正銘の気違ひになりました」。そして自分の恋文を人前で読まれて頭に血が昇った男に斬りかかられたところを豊後が助けるのだから、「文ひろげ」という行為はどう見ても恋の側に立つものではなく、文をよこす男たちへの揶揄でさえありうるものだ。そして僧慶円と狂女の奇妙なカップルは、「思ひ合うたる二人の心、うそいつはりのないからは、二人連れ立ち死出の旅」と、美しい紋切型で謳われる、豊後と照姫の関係を異化するものに他ならない。

 乳母篠の井の死ではじまる第三幕第一場に戻って、誰にも解る「文句」(=紋切型)が、当事者たちと観客に、豊後と照姫の愛-死を納得させるに至る過程を辿らなくてはならないが、その前に、せっかく『死者の書』を再読したことでもあり、『文金風流』と『死者の書』の類似について押えておきたい。

見よ眠れる船を――折口信夫の『文金風流』(2)へ
[PR]
# by kaoruSZ | 2015-09-08 19:22 | 文学 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(29)

下に転載したのは最初8月5日に裏アカでツイートした文章だが、それをRTした藤本由香里氏が、私を「極論を述べる過激派」扱いしつつご自身の「穏当な私見」を述べる踏み台にした結果、私の発言の文脈をまるで理解しない人々によるRTと無礼なエアリプが殺到したため、一度やむをえず削除して藤本氏に抗議した後、8月7日に再投稿したものである。おまけとして事の顛末を述べた8月15日のツイートとkaoruSZさんのコメントも載せておいた。

今読み返しても、この程度の現実的な認識を述べたに過ぎない見解を「利用はしたいが絶対に自分が同じだと思われては困る過激な発言」としか受け取れないデフォルトの卑屈さには呆れるばかりだが、一応はプロの批評家として名が通っているはずの人からしてそれ程に貞淑従順な自意識の持ち主であったこと自体が、「どれ程女を見下したミソジニー的な罵倒に対しても、それがゲイ男性からのものであればうかつに反論してはいけないし、どうしてもしたい場合は可能な限りの気遣いが必要」だという男尊女卑そのものの前提が、いかに深く“腐女子”やBLを云々する人々に内面化されている(いた)かを物語ってくれているだろう。それも結局は女性のセクシュアリティや性表現自体が、それを擁護しようとしているつもりの人々にすら、ヘテロ男性をモデルとした「性欲=暴力」という図式の“女版”としか考えられていないために、あたかも「女にも反省すべき罪がある」ことを認めることが“公平”であるかのように誤解されているためであろう。

私はずっとそうした「暴力=原罪」的なセクシュアリティ観こそが間違いの元であり、それは性的快感の根源である受動性(受身で愛される/犯されるというファンタジー)を自身のものとしては決して認めえず「女のものとして」蔑視する他ない制度的なヘテロ男性のメンタリティこそが“スタンダード”とされていることに由来していることを説明してきた。批評家や研究者ではない一個人として出来ることは既に十分に行ったつもりでいるし、本当はそうしたあまりに基本的な啓蒙からはもう引退したつもりでいたのだが。なんにせよ、これまでに書き溜めてきた論考で十分にカバーできる範囲の問題なので、以下のリンク先から参照して欲しい。
tatarskiyの部屋(4)
tatarskiyの部屋(7)
tatarskiyの部屋(27)


********************

tatarskiy @black_tatarskiy 8月5日
「同性愛者でなければ同性愛表現をしてはいけないというのはおかしい」という話。これだけ見ればもっともなようだが、その前段になっている、BL叩きの口実として「腐女子の描いたBLは同性愛者に失礼」と言われ続けていた話の本質は完全に男尊女卑の問題なので、実は話がずれてしまっている。

そもそもずっと(女性)同性愛だろうが異性愛だろうが男が女を描くことは「当然」である上に男の描いた女は「生身の女より高級」「女の手本」でさえあるという前提がまかり通ってたのに、女の描く男はそれが同性愛表象か以前に「女の描いた男だというだけで」嘲笑の対象だったんだから完全な非対称。

ぶっちゃけ、腐女子に対する「同性愛者でないのに云々」は、本質的にそういう「当然の前提としての男尊女卑」をストレートにそのまま吹っかけたのでは流石にもっともらしく聞こえないからこその“カモフラージュ”に過ぎなかったと思う。当然本音は完全なるミソジニーで1ミリの正当性もありゃしないが。

そして決まってこういう話になると「同性愛者の腐女子もいる」みたいな方向に話がズレるんだけど、要は「話の都合で」いつのまにかレズビアンが名誉ゲイ扱いになってるわけだ。この話のおかしさについても以前に書いているのでこちらを参照してほしい→http://kaorusz.exblog.jp/21519413/

要はBLや腐女子云々の話に対しての「同性愛と異性愛」「同性愛者と異性愛者」という問題の設定自体が欺瞞的なわけで、構造としての男尊女卑の問題を隠蔽することになってしまう。本質はあくまで「男が女を描くこと」と「女が男を描くこと」の非対称=権力差の問題であることを誤魔化させてはならない。


*******************

tatarskiy@black_tatarskiy 8月15日
先日の藤本由香里氏に迷惑を被った一件の話http://twilog.org/black_tatarski/date-140805あの時は一刻も早く切り上げたかったからあえて突っ込まなかったけど、向こうがRTを取り消したんじゃなくて、私がRTされたのを全て削除してから向こうの便乗ツイートを削除しろと言っただけなんだよね。

(続き)http://twilog.org/black_tatarski/date-140806要は“踏み台”を消されてしまった以上、脈絡もなく私の名前を晒して過激派扱いしてる意味不明なツイートだけ残しておいても仕方ないからこっちの要求に従う他に道がなかっただけ。あれ以上向こうの面子を傷つけて逆ギレされても厄介だったから、最低限のことしか言わなかったけど、明らかに「踏み台に使った素人の反応」なんて考えてもいなかったのが明白だった。そのくせ私の中傷ストーカーから太鼓持ちされれば「私も貴方の言う通り自分が正しいと思いますが、相手が嫌がるからやめてあげたんです」と面の皮の厚い台詞を吐いてたのには呆れた。

そもそもご当人が、腐っても有名人でプロの文筆家のくせに無名の素人を盾に使って「私はここまで過激じゃありませんが」なんて姑息なエクスキューズを用意しなければ物申せないような卑小な御仁でなければこんなくだらないトラブルは起きようがなかったのだが。次に私以外の人がダシにされないよう願う。


鈴木薫@kaoruSZ 8月15日
tatarskiyさんの再投稿されたtwはこちら。
https://twitter.com/black_tatarski/status/497076121427382272
この一連に含まれるリンク先を読めばコンテクストはより明らかになろうが、これは彼女がネット上で地道に積み重ねてたきたいわゆる“腐女子”に対する啓蒙活動の一環であり、「極論だしそこまで言うと違うと思うが私も以前から同じようなことを考えていた」などと、自分が矢面に立つ気のない人間にお手軽に利用されていいようなものではない。
第一、ここでの主眼は、レズビアンを名誉ゲイに回収して“腐女子”を孤立させる詐術への批判な訳で、「こんな極端な奴と同じだとは思われたくはないが利用はしたい」という人の考えていたのとは「同じようなこと」でさえないだろう。

[PR]
# by kaoruSZ | 2014-09-02 17:48 | 批評 | Comments(0)
tatarskiy@black_tatarskiy
裏アカを全く関係ない話題で再稼動することになった。腹立たしいので手短に。昨日(7月31日)の夕方BSで流れていた子供向け番組http://www3.nhk.or.jp/d-station/program/waracchao/が、露骨なホモフォビアと女性差別を幼児に刷り込むのが目的としか思えない最低の代物だった件について。

この番組、ワラッチャオとかいうらしいが、後述の通り全然笑い事ではないという意味で笑えないので、タイトルが皮肉にしかなっていない。後で調べたら私が見てしまったのはリボンつけたあしゅら男爵みたいな可愛くない猫(キャサリンとかいうらしい)が主役のコーナー「キャサリンのマウステッキ」で、この猫が魔法のステッキを使って町の中のいろんな物に魔法をかけて口が利けるようにしてお話しするという趣向らしいが、私が見たのは電柱とお話しする回だった。まず、一本目の電柱に魔法をかけると、黒い線で書いたような口が浮かんできて、男の声が一人称俺で愚痴を言い出す。

曰く、自分は毎日休まずみんなのために電気を送って働いているのに少しも感謝されない上に嫌がらせばかりされている、と不愉快な出来事を列挙しだすのだが、その口調と不満タラタラで投げやりな態度だけでも、「いかにも男」の横柄さが滲み出ていて正直非常に不愉快だったが、これは文字通り序の口。

この長台詞の最後、不満タラタラ電柱男は「列挙してきた不愉快な出来事の中でも極めつけに屈辱的で情けない経験=“オチ”」として「酔っ払いのおじさんに延々プロポーズされてめちゃくちゃ気持ち悪かった」ことを挙げて我が身を嘆きだすのだ。明らかに「ここで笑ってね!」という文脈で差し出される「コントのオチ」としての「軽いホモフォビアネタ」だが、作り手の自覚のなさと幼児番組という舞台の食い合わせがなんとも陰惨な気分にさせてくれる。「こういうのが“笑える”ポイントなんだよ!男が男にプロポーズされるなんておかしいよね!」というホモフォビックな“笑いのツボ”の早期教育だよね。

しかも話はここで終わってくれないのだ。リボン猫はすっかり捻くれてしまった電柱男を説得するために、今度は向かいの電柱に魔法をかける。すると今度は真っ赤なルージュを塗った妙にぷっくりした唇が浮き出てくると、高い女声が露骨な女口調でしゃべり始める。台詞の細かい内容は覚えていないが、要は「あなたのことは私がわかってるわ」という文字通りの「甘いささやき」でもって「傷ついた“男のプライド”を慰撫してあげる女」というあまりにも陳腐な図式で、先程のホモフォビアネタだけでもこれ以上ないほどゲンナリしていた気分を更に下降させてくれた。

で、このホステス紛いの電柱女の台詞に励まされてどん底から一気に有頂天になった電柱男は「君に抱きつきたいけど抱きつけな~い!」と浮かれた台詞を吐き、リボン猫の「よかったね」という内容のコメントと共にめでたしめでたしでコーナー自体が終わる。思い出す度に何度でもウンザリ出来るクオリティ。

食い足りないので追加の解説。後半のベタベタな女記号まみれのホステス紛いの電柱女の登場は、実は前半のホモフォビアネタを受けた必然的なもの。

つまり、男に言い寄られる=女扱いされるという屈辱を受けて傷ついた男としてのプライドが「女らしい女」から慰められつつ「男として立ててもらう」ことによって回復されるという一貫したストーリーを構成していて、見事なまでにホモフォビアとヘテロセクシズムの必然的な結びつきを物語ってくれている。

しかしエロ漫画なんかより、本当はこの手の「健全で微笑ましい差別意識の刷り込み」の方が徹底して批判されるべき「有害な表現」だよね。明らかに「子供の教育に悪い」んだから。

でもこの番組の存在自体が証拠みたいなものだけど、公共放送の幼児向け番組の製作者みたいな、「何が健全か」をジャッジする権力者の側が「明らかに差別的な表現」を“健全”と見なして奨励すらしているわけだ。要は未だに日本でのホモフォビアと女性差別は「微笑ましい健全さの証し」ということだろう。

しかし馬鹿はこの手の幼少期からの絶え間のない文化的刷り込みという前提を無視して「ホモが気持ち悪いのは自然で当然」とかよくのたまえるよね。そしてNHKはこの手の差別的刷り込みの主犯の一角を担ってるくせに『ハートをつなごう』とか、面の皮が厚いにも程がある。完全にマッチポンプだろ。


鈴木薫@kaoruSZ
↑番組の作り手にはホモフォビアとミソジニーを教え込む意図さえあるまい。「内面」から出てくるものを「自由に」表現したら、規範でドクサで差別まみれのステレオタイプになるんだから救いようがない。頼まれたわけでもないだろうに。「表現の自由」があっても「自由な表現」ができるとは限らない。

「表現の自由より自由な表現を」とは晩年の澁澤龍彦が新聞の文化欄に書いていた。

きんちゃん@kinchan666
同性から告白されて気持ち悪い刷り込みってテレビからの影響めちゃめちゃ有るよな…百害あって一利無し
[PR]
# by kaoruSZ | 2014-08-09 19:09 | 批評 | Comments(0)

覚え書き in progress

6月23日
tatarskiyさんと昨日までに電話で話したこと。覚え書きとして、以下に。


【トールキンと折口信夫】
まず、トールキンと折口が“古代人”ではないこと。トールキンはモダニストではないが前世代の耽美主義の継承者であり、パーソナルなファンタジーの(ジャンルのではなく)創造者だ。折口の場合も同じで(ともに学識に目を眩まされがちだけれど)、彼の小説は、たんなる「男」でしかない書き手による時代小説、歴史小説とは全く異なる、“女性的”でパーソナルなファンタジーだ。

tatarskiyさん、折口全集の戯曲の巻を読んでいるそうで、『死者の書』未完続篇のありうべかりし形の傍証として、具体的に戯曲の内容を示さる。また、トールキンへのフィオナ・マクラウドの影響確実ならむと。

Il faut être absolument moderne.
さらに言うなら、“絶対的に女性的でなければならない”。さもなければ批評はありえない。

7月1日
覚え書きまだ続くはずが日が経ってしまった。書くべきだったのは、コナン・ドイルの長篇『四つの署名』に関すること。その後さらにつけ加わったのは短篇『悪魔の足』について。それからヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』について。忘れないうちにメモを取っておかないと。

今日は書く暇なかったのにまた電話で話し、書くべきこと増えた。 以下とりあえずのメモ。『竹取物語』原典についての大塚ひかりの妥当な解説と、フェミぶった駄目アニメと。作者、紀貫之でなくとも“ネカマ”ならむ。『源氏』との関係と差異と。小津。ドイル式部のホームズものと女装との関係。マイクロフトは何者か、等々。


【ジャンルとしての探偵小説の(不)成立】
初期探偵小説(ポーとドイル)の特質を以下に挙げるなら、反俗のダンディズムと同性愛、世紀末の耽美主義、様式としてはアール・ヌーヴォー。探偵の推理が芸術鑑賞のパロディであること。探偵は芸術家にして批評家であり、芸術家としての批評家(ワイルド)である。探偵と犯人との共犯性、分身性、ノーブルな選民意識。《秘密の共有者》。物語上の表層的な謎解きは囮だが、ポーについてはその部分しか注目されず、本領であるゴシック性は幻想作家としてのポーのものとして取りのけられた。ドイルはポーの何を受け継いだかを理解されず、真に読まれぬまま現在に至っている。探偵小説はドイルで始まりドイルで終った。 例えば乱歩は稀有な継承者だが、それは作家としての特異性(そして共通性)であり、ジャンルの問題ではない

7月7日
昨夜tatarskiyさんと以下のこと電話で話す。


【『竹取』と『源氏』】
『竹取物語』はいわば翁と姫のどちらにも己を投影した男作者による、父(翁)と男(帝)のどちらも選ばず天に帰る女の話であり、紫式部はそれを紫の上(“養父”と結婚)から浮舟(結婚せず)に至るリアリズムで書いた(小津映画の娘も結婚という名の下に姿を消す)。いや、正確に言うなら、『源氏物語』は、“帝と結婚した結果死んだ女”(桐壺)からはじまっている――tatarskiyさんの指摘に驚かさる。
『竹取』が終ったところから『源氏』ははじまる。拒んで天に帰ることのできない地上の女の現実を、女の書き手である紫式部は書いたわけだ。

【『死者の書』について】
『死者の書』の場合、“地上の女”である郎女の孤独が、ホモソーシャルな美しく自由な男たちとの対比で描かれるとtatarskiyさんは指摘する。郎女は中将姫伝説から切れた作者のオリジナルであり、彼女を訪れる大津皇子の死霊が最後の阿弥陀如来像へ昇華されるわけではない。大津皇子は不気味な骨の指をした亡霊であり、作中「美しい男」として描かれるのは恵美押勝だ。彼や、大伴家持、久須麻呂(ここでは明示されないが万葉に相聞歌あり)は、郎女の手の届かない知的な男のサークルを構成しており、そこでは彼女は政略結婚の道具である身を、噂にされる存在でしかない。とはいえ、押勝もまた、大津(そして続編の藤原頼長)と同様、敗死を予定されている。

『死者の書』続編では、男色のモチーフは左大臣頼長を中心に据えることで鮮明になり、彼の教養、彼の美貌、彼の自由が描かれる。優れた男の書き手である折口は、『竹取』の作者同様、女の作者に先んじて女の状況の本質を記しえた。 そして男であっても近代人である彼に頼長のように生きる可能性は閉ざされていた。

【『未来のイヴ』について】
未来のイヴはハダリーではない。 tatarskiyさんにそう言われて、ああ、未来に現れるべき現実の女という意味かと膝を打った。『未来のイヴ』は、内容がSF/未来小説的だから「未来のイヴ」と呼ばれるのではない。精巧な自動人形に実在の女をコピーすれば事足りるとたかを括っているエディソンが作った、あの人造人間が未来のイヴなのではない。物語の中の現在であるリラダンの執筆当時、存在したのは「現在のイヴ」、すなわち男のナルシシズムの投影であり、補完物である、人形であることを期待される現実の女だけだった。少なくとも、『未来のイヴ』を構想し、自ら書きうるような女はまだ生まれていなかった。

通常信じられているのとは違い、男の《理想》である自動人形ハダリーは、偶発的なアクシデントによって失われたのではない。リラダンは男の美しい夢が海の藻屑と消え、悲劇的な喪に服するなどという安っぽいメロドラマを書いたのではない。
『未来のイヴ』は、高貴な美青年エワルド卿に人工の女を贈ろうとしたエディソンの傲慢が、 存在しないはずの自我のある女(繰り返すが彼女はその時代に生存不可能だった)によって打ち砕かれる話である。リラダンの驚くべきフェミニストぶりが読者の目に映らないとしたら、それは時代が彼の先進性とラディカリズムにまだ追いつかないということなのだろう。

7月22日
再び書くべきことのメモ。折口について論点残るが、その前にルイス・ キャロルについて。彼が小児性愛者ではないことについて。『ロリータ』のハンバート・ハンバートが少女にしか欲情しない男ではなく通常の異性愛者であるこ とについて。そして通常の異性愛者である批評家が揃って陥る誤読について。



以上は最初ツイートとして書かれ、まとめる際、部分的に手を入れた。この続きはhttps://twitter.com/kaoruSZ にて現在も進行中。
[PR]
# by kaoruSZ | 2014-07-23 14:13 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(27)

以下の文章は、今年の2月に@amezaikuさんへの私信として書いたものをtwitterに掲載した文章と、それに対する@amezaikuさんの公開での応答、及び彼女が私からの私信の続きを独自に掲載してくれたものをまとめたものである。きっかけとしては個人的なやりとりとして書いたものであるが、結果としては普遍的なセクシュアリティに関する男女の非対称性とヘテロ規範の本質についての解説になっていると思うので、こちらにもまとめて掲載することにした。何某かの参考になれば幸いである。


【私信より引用】以前私が書いた記事
http://kaorusz.exblog.jp/20773748/
http://kaorusz.exblog.jp/21287837/
を読み返して欲しいと思ったのですが、そもそもはっきり言えば「男同士」と「女同士」が「同じ非へテロ」という前提が反動的なまやかしです。

ヘテロ規範の本質は「男女」ではなく「エロ=女」という決め付けで、性的対象であることを女の本質とする一方で、男がエロティックであることを否認/否定するというホモフォビアです。

だから百合豚の男というのは往々にして究極の処女厨で、当たり前ですがミソジニストなわけです。そして腐女子がその“女版”なわけがありません。

そして、男にとってのヘテロセクシャルな男女関係というのはそれが「当然」である一方、「当然のように汚らわしい」ものでもあるわけです。それは彼らにとっての女の本質が「男に対して受身であること」という「もっとも恥ずべき行為」の外在だからで、ここでも性嫌悪=ミソジニー=ホモフォビアなのがわかります。だから、彼らにとって女同士というのは「男に愛され犯されるなんていう“穢れ”とは無縁の清らかな処女同士」という夢想を投影できる対象なわけです。

だから、不用意に「男女」だとか「ヘテロ」だとかを叩くのは、「男に対して受身になる女は汚らわしい」という反動的な思想への加担になってしまう。

批判されるべきなのはあくまで「性の対象=エロいのは女だ」という決めつけと、それと表裏一体の男のホモフォビアであって、「男同士も女同士もいい。ヘテロじゃなければいい」というのはどうしたって反動的な誤魔化しへの加担になってしまうわけです。

あなたにそんな悪意があったとはもちろん考えていませんし、上のようなことを状況に応じてきちんと書くのは実は難しいのですが、なるべくなら「クィアぶったヘテロ叩き」みたいな安易な方向へは行かないでほしいと思ったので。

上のエントリーにも書いたことですが、特に今の日本的世間の風土では「百合も好き」なのが正しいという雰囲気は、そのまま「百合も好きと言えない限りBLを好きである“正統な”資格はない」という抑圧に直結してしまいます。

もし「百合も好き」と言いたい時には、それが必然的に“有利”な発言であることを踏まえた上で、抑圧に加担しないような留保を付けてほしいと思ったのです。【了】

※2017年5月追記
3年しか経っていませんが、私は率直に言って今では“百合”という単語を女性同性愛に冠する事自体に倫理的な問題があると考えているので、補足として以下のリンクを追加しておきます。

@amezaiku
↑こちらの文は数日前に私が
https://twitter.com/amezaiku/status/433577619087298562 を始めとした発言に対する指摘です。安易なヘテロ叩きはそのまま男に対して受け身である女性への蔑視へ繋がるものになります。あくまで問題なのは女性=エロ=汚れているという図式に乗っ取った権力であるということを踏まえてなければ権力への荷担になってしまいます。今後は気をつけたいです。
tatarskiyさんから転載の許可をいただいたので、メールからの引用を載せます。


正確に言えば「ヘテロ規範=男女」ではなく「ヘテロ規範=エロいのは女」だという非対称の問題で、つまり男にとっては百合も「エロいのは女=ヘテロ規範の内=俺にとって都合の良いもの」だということです。

だから男女とかヘテロを叩くのが悪いというより、「男に対して受身であること(愛される/犯されること)」を叩くのが悪いということですね。ヘテロ規範とは「男が男に対して受身であること」を“恥”と規定し、「そんな恥ずべきことをするのは女だけだ(=ホモフォビア)」とした上、「そんな恥ずべきことを喜んでする女は汚らわしい(=ミソジニー)」として、更に「男に犯されていない清らかな処女はなんて素晴らしいんだ(=性嫌悪・処女崇拝)」というマッチポンプです。つまりヘテロ規範を否定するためには、そもそもの出発点である「男が男に対して受身になること(ホモエロティシズム)」を否定する男のホモフォビアへの批判が絶対的に必要なわけで、それをしないまま「男同士」と「女同士」を「反男女=反へテロ」として並列してしまうことは、「男女の非対称と男のホモフォビアの隠蔽」にしかならないというわけです。

以上はtatarskiyさん(@tatarskiy1)からのメールより引用しました。

※上とは別の機会に書いたものですが、補足的な内容になっているのでこちらもおまけとしてリンクしておきます。

[PR]
# by kaoruSZ | 2014-05-23 09:45 | 批評 | Comments(0)
※2017年5月追記
3年しか経ってないですが、今からすればまだまだ権威を疑いきれてない甘ちゃん小娘だったようで、小野不由美との対比で山岸凉子を持ち上げるような格好になってしまっているのがまことに遺憾なので、その後に書いた山岸凉子へのちょっとした批判のつぶやきをリンクしておきます。日々是精進。

わかりにくくなってしまいましたが、元になった文章の初出は2012年9月にツイッターの裏アカで連続ツイートしたもので、http://twilog.org/black_tatarskiy/date-120905それを元に大幅に加筆修正したものを2014年5月にアップしたのが下の本文になります。

********************

色々他にやることは多いけれど、ずっと書こうと思っていたネタを好きに書いておこう(そもそも裏アカ作った目的が表より人を選ぶ話がしたかったからなのだが)。今回のネタは私が小野不由美を(よしながふみを嫌いなのとは別の意味で)人として好きになれない理由。

端的に言えば自分のミソジニーの強さを倫理性と取り違えている女嫌いぶりと、それゆえの本質的な同性への見下しの強さが鼻持ちならないわけだが。「恋愛は苦手だから書けない」とかインタビューで言ってたのも「女が嫌いだから書けない」だけで、「“男同士”の愛なら好き」というのが本当のところだよね。

男同士の愛の話が好きな女性が必ず女嫌いだというのは中傷だが、本人の中でそれが結びついている場合というのはままあって、それは「男同士の愛の話が好きな女の自分」を嫌悪している場合。なぜかといえば本人がそれを自分のずるさだとか逃げだとか思っているから。

本当は受動性のファンタジー=愛される/犯されるという夢想は万人に共通したもので、制度的なヘテロセクシズムの中では、それが男のものとしては否定され“女の本質”とされているに過ぎない。だから女性にとっての受動性のイメージは“女らしさ”という外部からの押し付けになってしまうわけだ。

でもそれに気づけない女性が“男同士の愛”に惹かれても、「自分の女らしさから逃げている」と思うことになってしまう。そして彼女の中では「受動性=女らしさ=自己の主体性を否定されるネガティブなもの」のままなので、“それ自体”を純粋に価値や魅力のあるものとして肯定して享受できないのだ。

その結果として彼女の内面には「“男並みに”主体的で知的な存在でありたい自分」と「“女として”は受け入れられないものなのに、“男同士として”描かれた受動的なエロティシズムのイメージには魅力を感じてしまう自分」という分裂とそれに対するジレンマが生まれるわけだ。

だが馬鹿馬鹿しい必然として、この“性的なもの”と“知的なもの”との分裂はヘテロ男性のメンタリティの模倣に過ぎない。彼らの場合“性的なもの”は女の本質として丸投げすることで“知的なもの”だけを自らのものとして誇ることが当然であり、それゆえに安定した自我を保てるというだけの話だが。(こうした問題については以前に詳述しているhttp://kaorusz.exblog.jp/18345164/

だいぶ話が遠回りになったが、つまるところ小野不由美の書くものというのはこの見え透いた女嫌いゆえのジレンマの周りをグルグル回っているだけなので、そこに気づいてしまうと非常に気持ちが悪いし、“読者=自分以外の少女”に対する見下しまで仄見えてしまうのがまた嫌な気分にさせられるのだ。

『悪霊シリーズ』から『十二国記』も『屍鬼』も『東亰異聞』もみんな“女嫌い”と“男同士の愛”の間での分裂と自己欺瞞の外には実のところ一歩も出ていない話で、彼女はその間を埋める言葉を持たないまま、「女である前に人間として考えているだけです」という欺瞞的なポーズを取っているだけなのである。

細かいことを言い出したらキリがないのだが、象徴的な話だと思うので『悪霊シリーズ』の結末を例にとっておこう。(以下ネタバレ)読んだ人ならみんな知っている話だが、ラストでヒロインの麻衣が好きだった相手はナルではなく物語の始まる前に死んでいた彼の双子の兄ジーンだったことがわかり、この「人違い」という処理によって、この結末に至るまで読者に表向きのプロットとして示されていた「ヒロインの恋物語」という筋は唐突に打ち切られ、続編では無かったも同然の扱いになっている。これは物語として非常に不自然であるとしか言いようがない。案の定というか、読者からの抗議でシリーズ自体が頓挫してしまったらしいが。そして作者の言い訳というのは「恋愛を書くのは苦手で、レーベルの方針上盛り込んでいたに過ぎないから」というものだったのだが、本当はそんな問題ではありえないのはご本人が書いたもの自体を検分すればわかることだ。

まず結末そのものの不自然さだが、物語のセオリーとして「相手を好きになったきっかけが人違いも含めた何らかの勘違いである」という設定はありふれたものだし、むしろそれが明かされるまでの関係の進展によって読者を十分に感情移入させておくことで、「勘違い」が明かされた後に「きっかけは勘違いでも、今の気持ちは本物」という着地に対するカタルシスを増す効果を狙うものだ。そして実際そうした着地に相応しいだけの進展は描かれていたし、普通に考えてヒロインの恋愛自体をまったくの反故にする理由が無い。

読者の感情移入を損ねるのは目に見えているのに、作者がそんなことをしたのはどうしてか? 身も蓋もない答えだが、つまり彼女は「ヒロインの恋物語に素直に感情移入できるようなナイーブな読者の少女が嫌い」であり「そうした読者の感情移入の対象になるナイーブな少女であるヒロインが嫌い」なのだ。要はあのヒロインの恋物語という表向きのプロットの裏で進行していたことが最後に明かされる「ナルの正体」についての一連の謎解きそのものが、実は表向きのプロットに象徴されるヘテロセクシャルな恋愛物語や、その中で持て囃される“無垢な少女”に対する作者のルサンチマンの表明なのである。

謎解きとその後の麻衣とナルの対話によって明かされる真相は、ジーンとナルがそれぞれ稀有な超能力を持ち、テレパシーによって精神をも共有する双子であったこと、麻衣の夢の中で彼女にたびたびアドバイスを与えてくれた「優しいナル」こそがジーンであったこと、ジーンが自分の死後、自分に代わってナルを支える存在として麻衣を選び、そのために彼女の潜在的な超能力を引き出す手伝いをしていたことである。そしてナルにとっての麻衣は、かつての自分たちと同様孤児であり、ぶっきらぼうな自分とは正反対に他者に対して同情的であったジーンを思い出させる、偶然だったにせよ初対面で自分を愛称で呼び捨てにしたことも含めて、最初から他人とは思えなかった親しい存在であったことだ。つまり物語の始まりからジーンは残された自分の半身と麻衣とを結びつける存在として動いており、麻衣の能力的な成長やナルとの関係の進展も彼の意図したものであったわけだ。

これらから予測されるあるべき結末とは、麻衣がナルにとってジーンに代わるパートナーとなるに相応しい能力的な成長を遂げ、またそれと同期した恋愛の成就によって伴侶として結ばれる(少なくともそうした未来を予感させる)こと以外には無いだろう。「きっかけ」としては人違いであったことが発覚するのもその布石でしかありえまい。

この「あるべき結末」に至るまでの物語をナルの側から見れば、分身的な絆によって結ばれた同性の喪失を経た異性愛への移行という古典的な物語の一類型であり、読者の側に明示されていた麻衣の側からは、寄る辺のない無力な孤児の少女が自らの隠れた才能を引き出してくれる援助者にめぐり会い、後にその援助者と結ばれて幸福を得るという、これもまた『あしながおじさん』の類型としての古典的な物語であるものだ。そして作者は明らかに意図的かつ巧みにこうした物語の類型を操っており、最後に“ちゃぶ台返し”のようにこの「あるべき結末」を反故にしたことも含めて確信犯でしかありえまい。

先述したが、ヒロインの恋の行方という表層のプロットの構成は巧みなものであり、有能だが人当たりが悪く他者に無関心な人物として設定されているナルの側が、麻衣に特別な関心を持ち更に関係を発展させる理由づけ(かつての自分たちと同様孤児でありジーンを偲ばせる人柄と能力の持ち主だった)が過不足なく織り込まれている。

言うまでも無いが、これは少女向けフィクションにおける「平凡な少女である主人公が非凡な少年に恋をし、最終的に結ばれる」という定型的なプロットに則ったものだ。この種の物語の肝は当然ながら「非凡な少年の側がなぜ平凡な少女に好意を持つのか?」であり、そこが駄目では単なるご都合主義になってしまうわけである。その「肝心な部分」を巧みに処理していながら、その後にあるべきカタルシスとしての「恋愛の成就」という結果だけは頑なに欠落させているのだから、読者が消化不良を起こすのも当然なのだ。だがそれも結論から言えば、作者が“平凡な少女”が“非凡な少年”と結ばれることを嫌ったからに過ぎない。

“平凡な少女”――ヒロインとそれに自己を投影する読者――を嫌っている作者が自己を投影しているのは誰か? 言うまでもなく、“非凡な少年”である。そしてその少年の“非凡さ”の質こそが、そのネガとしての彼女が少女の“平凡さ”を嫌う理由を解く鍵でもある。

最後の「謎解き」によって明かされる“非凡な少年”――ナルのキャラクター設定そのものは、ある意味古典的過ぎるほどにわかりやすく定型的なものだ。稀有な能力を持った双子として生まれながらそれゆえに周囲に疎まれ、幼くして孤児となり、片割れだけを道連れに生きながらえる日々を送った後、理解ある養親に引き取られて能力をコントロールする術を身につけ、片割れとの協力によって若くして成功を修めたものの、その片割れの突然の失踪と死によってそれも中断を余儀なくされる。という、いずれも「双子、異能、片割れの喪失」といった神話的とも言える要素――要するに“お約束”のみで出来ているようなものだ。麻衣の前に現れた時点での、つまりは物語に登場した際の印象からして、「年の離れた青年(リン)を“従者”として使う謎めいた美少年」というもので、これは後に麻衣がナルに関する事情を知るまどかから「実はナルとリンは駆け落ち中なの」とからかわれるというギャグまで含めて、作者がナルというキャラクターを耽美的な(BLと言った方が通りがいいが)フィクションの定型的な登場人物のある種のパロディとして意識的に造形していたことを窺わせる。

しかも手の込んだことに、これは実は単なる“パロディ”ではないのだ。先述したように真相として明らかになるナルに関する事実そのものはまったく“お約束”の域を出ないものであり、特色(及びある種の作者の悪意)はあくまでその“見せ方”にある。

それまで麻衣という「自身の恋で手一杯であり、それゆえにナルに関する数々の不自然な事実を見落としていたヒロイン」の一人称というヘテロセクシャルなプロットを通して物語を眺めていた読者に対して示される一連の「謎解き」が、ほぼ男同士の協力のみで進められていたこと、それもナルの正体を知る前から、自身の知的好奇心からデイヴィス博士に心酔していたぼーさん主導で行なわれたことは象徴的である。ジャンルとしては少女小説であってもストーリー全体の本質に関わる肝心な局面では女性は蚊帳の外であり、頭脳を駆使した話し合いや秘密の共有、それを通して認め合うことは“男同士の絆”の中にしかないという、本質的にホモソーシャルな構造なのだ。そしてこの男たちの手による「ナルの正体」に関する謎解きから明らかになるもう一つの物語である、ジーンとナルという双子の兄弟の愛と片割れの喪失という悲哀の物語は、表向きのプロットのヘテロセクシュアリティに対するアンチテーゼを形成する“男同士の愛”そのものなのだ。

そして麻衣は結局のところ、このナルとジーンという兄弟の愛と別離の物語を見届けるべき傍観者だったのであり、彼らの“特別な絆”の証人であったに過ぎない存在として処理されてしまう。ジーンがすでに死んでいることを知っても、ナルではなく彼を想い続けることを麻衣が自分で選んだように描かれているのは口実なのだ。

つまるところが少女向けフィクションのお約束としては、“無垢で平凡な少女”である麻衣はその“無垢な平凡さ”ゆえにこそ報われるべきなのであるが、作者はある種の悪意をこめて、ヒロインがその無垢な平凡さという名の“鈍感さ”ゆえにこそ状況から疎外され想いも報われないという結末にしたわけだ。また、このシリーズに対する賛辞として「主人公の少女の一人称であり、恋愛要素がなければならないというレーベルの制約を逆に利用した傑作」だと言われるが、ここまでに述べたように、そうした“恋する少女”に自己投影できる素直な読者に対する作者のメタレベルの悪意の反映まで読み取るべきだろう。

“真相”を突き止めた後に物語全体の構造を見回してみれば、麻衣の本質的な立場は少女小説のヒロインというより、少年漫画的な物語における女性のサブキャラクターに近い印象すらあるし、実際続篇における彼女は三人称への変更に伴って絶対的な視点人物の座から明示的に降りてしまっているのだが。

続篇ではまた、ナルが鏡に映った自分の影を通してジーンと交信する様子を見ていたメンバーが、その絵に描いたような“ナルシスト”ぶりにドン引きする描写があるが、今更言うまでも無く双子や分身、鏡像といったモチーフは同性愛と切っても切れない関係にあり、彼は最初から“そういう”キャラクターである。また超能力やそれを用いた分身とのテレパシーといったモチーフの方も言うまでも無く、官能の延長としての交感のメタファーであり、そうした排他的でエロティックな絆で結ばれていた同性の分身の喪失を契機とした異性愛への移行というのも、そこから派生するお約束のドラマである。

このシリーズも本来であればそうした異性愛によるハッピーエンドによって幕を閉じたはずであるし、またそうなっていればナルに関する“耽美的”な設定も正しく“パロディ”で済んだであろう。もっと言えば物語の約束事として異性愛というゴールを本質的に必要としていたのは、麻衣ではなくナルの方だ。

だが作者にとって、そうした成長の象徴としての異性愛へのシナリオは、たとえそれを拒否することと引き換えに物語の落とし所を見失ったとしても受け入れがたい代物であったようだ。続篇は読者からの不評が原因で頓挫したようだが、たとえそうでなくても問題なく話が続いたとは考えにくい。

そして実は、この表のプロットと裏のプロットの重なり合いから生じている、麻衣とジーンとナルとの相互分身関係ともいえる錯綜の図式の真の意味――物語の結末そのものが明かすと同時に隠蔽していることは、実はこの物語の裏のテーマがかの山岸凉子の『日出処の天子』と本質的に同じものであり、そのラストにおける残酷な真実の暴露とそれによるヒロインの絶望とを、欺瞞的に和らげたヴァリエーションに他ならないことだ。割り振られている表面的な属性にはズレがあるが、おおむね刀自古が麻衣、厩戸がナル、毛人がジーンにあたり、また超能力による問題の解決と平行して主人公の“秘密”に関わる物語の進展を見守るナビゲーターとしては、麻衣は毛人の役割をも兼ねているといえる。

『日出処の天子』のラスト、自身の半身ともいえる毛人に拒まれ、彼を失った厩戸は、その悲痛さからの苛立ちをたまたま彼の秘密に近づいてしまった毛人の妹刀自古にぶつけ、真実を知らされた彼女は絶望の淵に沈むのであるが、皮肉にもその衝撃は、彼女がいつの間にか実の兄である毛人から厩戸に心を移していたことを自覚させる。言うまでもなく、刀自古が知ってしまった秘密とは、厩戸が彼女と同じく毛人を愛していたこと、そして彼女に対してのみならず、彼が決して女を女として愛することができない者であることだ。残酷にも刀自古は自分が決して厩戸から愛されることはないことを、自分が彼を愛していたことと同時に悟るのだ。

そして『悪霊シリーズ』のラストでの麻衣とナルの対話の真の意味もまた、この刀自古と厩戸の対話における真実の暴露と同じものなのだ。より正確には、その前段階に設定されている厩戸と毛人の対話での、彼らが超常的な力を分かち持って生まれた対であることの再度の説明と強調(言うまでもなく、こちらではナルとジーンのそれにあたる)という機能が統合されているが、これは先述した通り、麻衣が物語のナビゲーターとなる視点人物としては毛人をも兼ねていることから来る必然でもある。

最愛の半身を喪失した男による、同じくその半身を愛した女への残酷な宣告――自分がどれ程その半身を必要とし愛していたかと、自分が彼女を愛することは決してないこと――麻衣に対しての場合、さらに残酷なのは、毛人に拒まれた厩戸とは違い、ナルが死してなお彼を守ろうとするジーンから愛されていることだ。

ナルは麻衣からたびたび彼女の夢にあらわれたジーンに、彼女が潜在的に持っていた超能力を活用するためのアドバイスを受けていたことを聞くと、「死んだ後までおせっかいな奴だ」と呆れてみせ、麻衣がそれに対して「ナルのことが心配だったから、私が少しでも自分の代わりになるように指導してくれていたんじゃないかな」と微笑ましく思いつつ彼を気遣ってみせているのも、本当のところは「ジーンが麻衣を気にかけ指導してくれたのも、残された自分の半身を思えばこそだった」という身も蓋もない真実を、「麻衣自身の口から」あたかも彼女自身の自主的な思いやりからでた言葉のように語らせているに過ぎないのであり、要は少し見方を変えれば、実はそのやり口自体が彼女に対して極めてシニカルで残酷なものなのだ。

先述したように、ナルとの最初の出会いの時、麻衣は「ナルシストのナル」とからかうつもりで彼を「ナル」と呼び、それが偶然ごく親しい人間しか知らないはずの彼の本名に由来する愛称であったために彼を非常に驚かせたのであるが、実はこれは「麻衣自身の意図を超えたところであらかじめ彼の本質を言い当ててしまっていた」ことの象徴的な表現である。最後に明かされるぼーさんによる表面的な謎解きの中での「ナル(Noll)はオリヴァー(Oliver)の愛称だった」などというこじつけめいた解釈はある種の目眩ましに過ぎないのだ。

表面的な謎解きの中で最後に明かされたナルの目的とは、彼が超能力(サイコメトリ)によって遠い異国でのジーンの死と、殺された彼が山中のダム湖とおぼしき場所に投げ込まれるのを目撃し、その場所とジーンの遺体を捜すために来日したことであり、同時にそれによって、ゴーストハントを請け負うオフィスを開設していたのもそのための手段に過ぎなかったこと、麻衣たちのあずかり知らぬところで彼がリンと共に日本全国を飛び回り、ジーンと彼の眠る場所を捜し続けていたことも明かされるのだが、こうした一連の事実は、表面的な謎の回答としての機能を超えて、まさしくそれ自体が「彼が最初に麻衣が言い当てたとおりの人間である」ことを証し立てているものだ。彼は最初から、文字通り水鏡の向こうに沈んだ“もう一人の自分”を探し求めるナルキッソスであったのであり、麻衣たちとの出会いもなんら彼の本質には影響を及ぼすことのない一つの挿話であったに過ぎない。

自らの半身以外を真に愛することは決してない双子のナルキッソス。それが彼らの正体であり、だからこそ麻衣は彼らに惹かれ、そして拒まれる宿命にあったのだ。「麻衣が最初から彼の“名前”を言い当てていた」ことは、その象徴的な表現であり、彼女の思いの「行き場のなさ」があらかじめ定められた必然であったことを意味するものなのだ。

先述したように、表面的な物語の結末としては、麻衣は思い人が別人であったことと彼の死とを結局は素直に受け入れ、「少女小説のヒロインらしく」「前向きに」立ち直ることで終わっているが、これは“無垢な少女”を、作者が意図している残酷な真実の提示そのものから「それを認知することにも値しない者」として更に疎外するものだろう。山岸凉子は同じ“真実”に直面し絶望する刀自古を通じて、少女/読者の疎外の救いのなさそのものを描き出したのに対し、この『悪霊シリーズ』一作を通じてはっきりと提示された小野不由美の世界観においては、無垢な少女という名の“愚か者”は、「いったい自分が何に拒まれ、何から疎外されたのか」を悟る資格すら持たないのだ。だがそれは同時に、作者自身に“少女に対する世界の真実の残酷さ”を直視し、対峙する勇気が欠如していること、そのルサンチマンを結局はありきたりなミソジニーでしか埋められないのであろうことを、意図せずに自ら暴露してもいるのである。

この『悪霊シリーズ』の裏の物語も含めた構造とそのメタレベルの意味とは、ほぼ明示的に兄弟ものだった『東亰異聞』や、これも実質的にボーイズラブだった(『十二国記』のプロローグでもある)『魔性の子』以前に書かれたものであることも含めて、作者の(正直なところ陰険な)特質を象徴するものだろう。

作者はどうしても平凡な少女の無垢よりも、非凡な少年の明晰さと異能の方が、予定調和な男女の愛よりも、対等な分身として互いに競い合い、認め合い、理解し合う“男同士の絆”の方が魅力的に感じるのだろう。それはそれでいいし、少女の無垢や異性愛という制度化された“女らしい”ナルシシズムの投影先に満足できないのは当然でさえある。

だが彼女の書くものにどうしても不快な印象が拭えないのは、それが一見中性を気取った道徳的抑圧としての“女嫌い”と、明示的に描く勇気を欠いた“男同士の愛”とに分裂したまま、次第に前者への傾斜を深めていくようにしか感じられないからだ。その方がシビアだとかの評価を得られるのか知らないが。

思えば十二国記の世界観そのものが、こうした“誤魔化し”の見事なシステム化であった。登場人物の大半は、中性化されエロティックな要素を捨象された男女であり、“人でなし”として設定された麒麟にだけ“女性性”が一元化されている設定には、なんとも居心地の悪い欺瞞がつきまとう。

最初に述べたジェンダーの構造的な非対称の問題であるが、男とは自身が世界に働きかける能動的な力を持つ主体であると同時に、エロティックな受動性をも兼ね備えた“両性具有”の存在であることが可能である。それに対して女は自身の受動性を制度から本質化されており、能動的な主体であろうとすればそれを丸ごと抑圧し“中性化”する他ない。そうした抑圧によって中性化された女=名誉男性とは、本物の男の持つ両性具有の可能性なぞ最初から持ち得ない、“出来損ないの男”に過ぎないのだ。

あの十二国記の世界観が無批判に踏襲してしまっているのもそうした古典的な欺瞞であり、それを指して「男女が平等に描かれている」と言われているのを見ても苦笑いするしかないのだが。おそらく『悪霊シリーズ』では読者の少女に対する悪意の形を取ったルサンチマンの、別様の帰結ではあろう。

彼女が本当に書くべきは少女に対する抑圧的な説教という他罰ではなく「なぜ自分は“女”が嫌いなのか」に対する内省か、さもなければ自分が本当に魅力的だと思える“男同士の愛”であったと思うのだが。はっきりしているのは、彼女にはそのどちらも描く勇気がなく、その間を埋められなかったことである。
[PR]
# by kaoruSZ | 2014-05-12 11:08 | 批評 | Comments(0)

ロマネスク 2

http://shindanmaker.com/244907に加えhttp://shindanmaker.com/375517も使用。(twitter初出 3月16日―4月4日)

メアリ・モースタンは『女』と『視線』を使用した140文字小説を書きましょう。

婚約後メアリは何者かの視線を身辺に感じるようになった。ジョンに打明けるとホームズに相談してみたらと言う。あの方には…言わないで。一度姿を見たの、腰の曲ったお婆さんだったわ。僕を好きな若いの変装かもしれないよ。メアリは笑わなかった。若い男の変装かもしれないとは口には出さなかった。

ジョン・H・ワトスンは『知らない』と『例えば』を使用した140文字小説を書きましょう。

例えばジョン・H・ワトスンのHが何か貴方は知らない(ヘイミッシュというのは知ったかぶり)。だが作家の書いたものは全て意味があるのでいずれは貴方がたも知るようになる。私達の暮したサセックスの家が私達の記念館になり(ゲイの巡礼地だ)私達の関係を誰もが知るこちらと同じようにそちらでも。

メアリは『鋭い』と『不機嫌』を使用した140文字小説を書きましょう。

私は勘が鋭いから気にし過ぎる、彼が不機嫌でも私のせいではないのだと夫は私を説得する。ただの女嫌いだ。どんな綺麗なご婦人でも―いや君ほどの人はいなかったけど―事件が終れば関心の外なんだ。いいえ違うわ。彼が嫌っているのは女ではなくあなたの妻。そしてそれに気づいてしまう私が嫌いなの。

マイクロフトは『林檎』と『金額』を使用した140文字小説を書きましょう。

幾らの林檎を幾つ買うと金額はなどという問題は彼には易し過ぎた。ピタゴラスの定理を教えると部屋中が図形で一杯になった。父からは天体の運動を教わったらしい。図形に飽きるとヴァイオリンを取り、妙なる調べを聴かせてくれる。この綺麗な瞳は星を覗くことになるのだろうかそれとも演奏家だろうか。

探偵は『しかし』と『恋』を使用した140文字小説を書きましょう。

夢の中で嵐の咆哮を聞いていた。うなされて起された探偵は言った。古い日本のの歌を読んだせいだ。あぢきなくつらき嵐の声も憂し。聞いていたのは自分の叫びだと探偵は思った。しかし夢は偽りだった。静かな夜、待つ日々は終り友は傍にいる。彼らはついに死ぬまで続く三度目の同居を始めたのだった。

マイクロフトは『楽しみ』と『揺れる』を使用した140文字小説を書きましょう。

弟の失踪だけでも騒ぎなのが楽しみを自分に禁じてきた私が休暇を取ったとあって驚く連中を尻目に私はミラノへ向った。弟を見ると気が抜けると同時に怒りが湧き揺れる心を抑えて私は言った。お前のためなら何でもしてやる。奴を殺してほしければしてやるぞ。弟は淋しく微笑む。そんなことは頼まないよ。

マイクロフト・ホームズは『シャツ』と『どこ』を使用した140文字小説を書きましょう。

取敢えずシャツとカラーの替えが欲しいと弟は言った。滝からの道は大変だったよ。金は芝居を頼むのに気前よく使ってしまったんでね。お安い御用だがこれからどうすると私は言った。英国には帰りたくない。兄さんの部下として使ってくれるだろう? それからどこにいても彼の消息は知らせてほしいんだ。

ワトスンは『なびく』と『髪』を使用した140文字小説を書きましょう。

なびくのを見たいからと金を結おうとした妻の手を止めさせ私たちは夜の浜に出た。本当に二人きりだ。「ねえ、彼、君のことほめてたよ。論理でなく直感で真実を摑むって」「私…私の心配を貴方に論理的に説明できたらいいのに。あの方本当は、私と同じ位直感的で感情的だと思うのよ」「どういう事?」

探偵は『ペン』と『面倒』を使用した140文字小説を書きましょう。


手紙を書くなどという面倒なことは普通しない。用事は電報で済む(ワトスンは婚約中も筆まめだったので、文通が続けられるよう少し結婚を先延ばししちゃあどうだいと冗談めかして言ったくらいだ)。その私がどうしてもペンを取らずにはいられなくなった。一八九一年春、ナルボンヌのホテルでのことだ。

ワトスンは『音』と『答え』を使用した140文字小説を書きましょう。

はっとして目を覚ましたが窓枠が風に揺すぶられてを立てているばかり、傍では妻が安らかに眠っている。鎧戸を叩く音や窓の外に立つ人影は私の不安が夢の中で増幅されたのだ。答えはもう出ている。手紙に返事をしなければ私のことなど忘れるだろう。私の方が拘っているだけだ。私はそう思おうとした。

同じお題ばかり出るんで他を試してみた。「貴方はワトスンで『世界の終わりに』をお題にして140文字SSを書いてください」以下、ホームズで『愛の逃避行』を、メアリで『唯一の、嫌い。』を、マイクロフトで『約束事項』を…できすぎw http://shindanmaker.com/375517

貴方はワトスンで『世界の終わりに』をお題にして140文字SSを書いてください。

「なんで酸素ボンベの値段なんて知りたいの」例によって友が言いあてる。「彗星の尾が地球を掠めて世界が終る小説を書いてるのさ」友は馬鹿にしたように呻いた。「ボンベで生き延びようとするんだ」「無理無理」「ねえ。世界の終りにはどこにいたい?」「ここに。君と一緒に」意外に素直な答が返った。

貴方はホームズで『愛の逃避行』ををお題にして140文字SSを書いてください。

作家仲間でお題を出し合い短い物語を作る遊びに彼も誘ったのだが、配られた紙を見るなり私に押しつけてきた――『愛の逃避行』。「いいんだよフィクションで」笑いをこらえて囁く。何も知らない奴が「理性の人には無縁なお話でしょうが」と言いホームズはますます苦虫を噛み潰した様な顔になった。

貴方はメアリで『唯一の、嫌い。』をお題にして140文字SSを書いてください。

唯一の、嫌い。『あの蛇』(the serpent)!”

貴方はマイクロフトで『約束事項』をお題にして140文字SSを書いてください。


「やあ、婿殿」ギリシア語通訳事件以来、いやヴィクトリア駅のホームから私達を見送るのを見て以来だった。「早速だが約束事項を決めておこう。君は私のエージェントとして弟と組んで働く。今度あいつを泣かせるようなことがあれば私が承知しないぞ」そう言いながらトドのような巨体が私を見下ろした。

貴方は探偵で『こんなにも愛されている』をお題にして140文字SSを書いてください。

例の作家の会、ワトスンの書いた『こんなにも愛されている』が最高点を取ってお開きに。中年の美女に惚れられた作家が愛の逃避行、一度は妻の下に帰るが、妻が死ぬと、死んだと思っていた女が戻ってきて仕事も家も奪われ、「囚われの男」状態になって心境を書き綴る話。つくづく作家って変態だと思う。

ジョン・H・ワトスンは『女』と『ペン』を使用した140文字小説を書きましょう。

私はペンとペニスを同一視するような男根主義者ではないし、の書き手が男に優る作品を書きうることも信じている。だが個人的には霊感を吹き込んでくれる“the woman”が私にとって不可欠なことも知っていた。そして“彼”が異性でないと私が理解するに至るまでには長い時間が必要だった。

シャーロック・ホームズは『吐息』と『机』を使用した140文字小説を書きましょう

「確かにこのは君がプシュケの吐息を吹き込まれつつあれらの短篇を書いた所に違いなかろう。でももう僕が側についているのだからこれでなくったっていいだろう」私は熱心に説得した。「なら君の使っていたのがそのまま置いてあるからね」彼の亡妻の選んだ机を私達の住いに入れさせるのは嫌だった。

マイクロフトは『先生』と『だから』を使用した140文字小説を書きましょう。

「こちらはワトスン先生。弟の婿のようなものさ」絵を見にきた同僚に彼を紹介する。勿論察するような相手ではないからそう言うのだ。「だから兄弟のようなものですよ」ワトスンは苦笑してそう言い、相手の手を握る。「その調子。嘘をつく一番いい方法は事実を言ってやることさ」婿殿の耳に囁いてやる。

マイクロフト・ホームズは『画面』と『風』を使用した140文字小説を書きましょう。

画面が吹き込んでいるように見えないかと言うと彼は大きく頷いた。「草が波打っている動きが捉えられていますね。それに光があたっているところとそうでないところの違いがはっきり描き分けられている」単に褒められたからというのではなく、鑑賞者としての婿殿の資質を知って私は気分が良かった。

探偵は『画面』と『はい』を使用した140文字小説を書きましょう。


兄の絵は一時、無人の街や自然の風景ばかりだったのがある時期から特定の人物が現れるようになった。画面が目に見えて明るくなったのはそれ以降だ。子供時代は専ら私がモデルをつとめた。人物を描くのはその頃以来だろう。彼をワトスンに紹介しようと兄がその名を呼ぶと「はい」と若々しい声が応えた。

チャールズ・ホームズは『太陽』と『月』を使用した140文字小説を書きましょう。


「曙は胸をゑぐり、はむごし、太陽[ひ]は苦し。……竜骨よ、砕けよ、われは海に死なむ」私は詩集を閉じた。海に死なないためには何が必要か。あの若い娘の顔を私はまたも思い浮べた。故郷の館での暮しにあのよるべない娘が満足してくれるなら。不名誉な死を遂げないために私には彼女が必要だった。

ホームズは『しかし』と『黒』を使用した140文字小説を書きましょう。

「お母さんの音楽の才は別にして、二人とも芸術に造詣が深いのはやっぱり大伯父さん譲りなのかな」マイクロフトの個展の帰りにワトスンが言った。「以前は、父から僕たちが受け継いだのは、々とした闇のようなものに思えたものだ。しかし今はそうでないと知っている」ホームズの声は穏やかだった。

貴方は探偵で『ひねくれた告白』をお題にして140文字SSを書いてください。


あたしにぴったりの題と
いうんでしょ絶対これ嫌   
しらない書かないよ書い  
てなんかやんないから語
るに落ちるわ縦に読んで  
よんだら消去ね約束した
ワよどこがひねくれてる
トいうの?変じゃないで
スか。言われてたわよな
ンて素直な子だろうって
君を愛してる誰よりもね


あかねさす昼なりしかバ
いはでものこと云はざリ   
しのぼる月に面影見えツ  
てる夕星はきみが明眸な
るべし走り去る稚き子ら  
よみがへる日々の記憶は
ワールドワイドウェブで
トく暗号の文づかひなど
スイスを発ち到着せるう
ンターデンリンデンあす
君と再会おもひ眠らざる夜

3
あぢきなきあらしも白き
いづこよりはなかげ望み   
しづかなる露台にゆめ見 
てふてふの飛跡も見えず
るる語る在りし日思へば   
よにふる身の話題の中心
ワイシャツの流行の生地
トカイワイン飲み突然死
スワンの舟で遊覧うんぬ
ンいつ到りつくべき岸べ
君見ずばここち死ぬべし

病膏肓ですが…
今回は白秋の「君見ずば心地死ぬべし寝室の櫻あまりに白きたそがれ」の前半を縦横に入れてみました。
「思へば」は「もへば」とよんで下さい。
トカイワインはぬれぎぬです。



あかるい部屋で君は昼寝
いつか行った雨の図書室   
しんしんと降る空からの 
てがみ?いえ灰の様な櫻
るびいのゆびわは十年余   
よそごとの様に指に嵌り
ワーキングシャツの青に
トナカイの胸毛と尾の白
スイカの赤おしきせのき
ンダーガーテンの服の黄
君と発つべきつひの黄昏

いくらでもできちゃうからこのへんにしておこう。
もう二度としません。(4月1日)



あまのがは扇のかぜに薄
い霧晴れ空蒼く澄渡るら
しかささぎの橋わたるあ
てなるひとよ深草にわか
るる日近き夕べなりけり
よる毎に物語する恋人に
ワンダーランドを具へた
トッテナムコート通りへ
スウィートテムズ流れぬロ
ンドンに奏でたり秋の心を
君がため果つる露の身か

美しきかなしき痛き放埓[ほうらつ]の薄らあかりに堪へぬこころか(北原白秋)


あいるらんどの緑の春野
いつか君かへるべき地を
しらが頭をかがめて述懐
てづまのごとき変装をし
る人もない儘の顔なじみ
より道して彼のため唯一
ワッフルを焼く婦人今夜
トスカを聞きに行かうね
スカフェより紅茶だよに
ンげんだもの秋は松たけ
君がため摘む濃菫のはる

春の野に菫摘みにと来しわれぞ野をなつかしみ一夜寝にける(山部赤人)


あさき夢かよふ道すらな
いこひにあはむとすれど
しきりに真水匂へる朝夕
てとりあひ渡る氷の海暮
るる照る月のぼる星岸に
よる波きらめくまひるま
ワンダランドの小人たち
トムボンバディル遥かな
ストロンボリへアイスら
ンドの火口を降りたまひ
君思ひ暗き道へと巡りけむ

あぢきなくつらき嵐のこゑも憂しなど夕暮に待ちならひけむ(藤原定家)


あたらしかりしもの皆崩れ
いこひなき身は追放され  
しらとりは北へ帰れどた
てごとの音のなほ残る塔
るり色の海の孤独な宮の
よるべなき人魚のアリア
ワーグナーの楽劇を聴キ
トリスタンの船出帆すタ
スマニアデビルもゐるニ
ンテンドーゲームマニア
君が思ひ人こそ甦へる王

「崩れた塔のアキタニア王」はネルヴァルの詩句。


貴方はメアリで『友情の一歩先』をお題にして140文字SSを書いてください。

“そりゃライヘンバッハの滝があるばかりよ!”
[PR]
# by kaoruSZ | 2014-04-04 22:02 | 批評 | Comments(0)