さようなら、わたしの傘よ
カラー、シネマスコープ、加山雄三といった、吟味したわけではなかろう手持ちの材料でブリコラージュ的に撮られた『乱れ雲』('67)には、それまでの成瀬的なものが至るところに組み込まれている。このことは、ろくに成瀬作品を知らないまま見はじめた新文芸坐での特集でこれを見たときでさえ感知されていた。『乱れ雲』というタイトル自体、『乱れる』『鰯雲』『浮雲』といったそれまでの作の延長上にあるいかにも間に合わせめいたものだ。見終わってから気づいたが、不注意なことに本作の空がどうなっていたか覚えがない(十和田湖は快晴ではなく、終始曇り空のトーンだったような気はするのだが、はっきりしない)。『君と行く道』の千葉早智子が見上げる雲間の月、『桃中軒雲右衛門』の、あれがなければ主人公のマチスモがさらに鼻についたであろう、最後に雲右衛門の見上げる空の雲(亡き人を焼いた煙でもあろう)、淡島千景の耕す畑の上に確かに出ていた鰯雲などは記憶の中からすぐに拾い出せるのだが。小津並みにいい加減な題名のつけ方——『乱れ雲』について言えば、『乱れる』から直接来ているのは言うまでもなく、その前には『流れる』もあった。加山雄三は高峰秀子の相手役として『乱れる』で出たあと、ここでは成瀬の最後のヒロイン司葉子につがわされている。美貌に翳りが差しはじめた(『女の座』を見ている者としてはこう判断してしまう)司葉子と、「ぼかぁ」と発声する〈若大将〉のメロドラマのどこがいいんだと思うと、これがいいのだ。
交通事故の被害者の妻と、加害者の男とが恋に落ちるという話なら、納得できるような筋になっていると思うだろうが、思い返してどうもそんな気はしない。地の果てということになっているラホールへの赴任が決まった加山が、甘ったれた根性を叩き直してきます、と司に言うが、(全くだよ、叩き直してこいよ)とこっちが言いたくなる甘ったれ・加山の科白は、自分の頭で考えて言っているのではないかと思うほど空疎でおバカで内容なし、それでも恋は発展していってしまうのだ。私たちどうしてこんなに出会ってしまうんでしょう、と司が言うと、もう場内は失笑寸前だが、それでも観客は楽々とついて行けてしまう。ここぞというところで風が吹き、音楽が響く、その音楽も気持ちよく聞ける。
実家である、兄の未亡人・森光子が切り盛りする旅館に司が戻ってからは、おなじみの開口部の多い日本建築を舞台にしたカメラワークが展開されるが、熱にうなされる加山と一泊することになった司が電話すると、受話器を取った森光子に愛人で家へ入れている他人の夫・加藤大介が戯れかかる。その前に、司もいるところで本妻のことで大ゲンカしたとき、キャメラはおなじみ、「一回外へ出る」をやっていた。建具の一部が素通しになっていて、外へ出ても内部が覗けるのだ(司と加山が泊まることになった部屋でも一度やっていたと思う)。その素通し部分に、このときは雨が降りしきっているのが見える。
空をきちんと見なかったが風は見た。冒頭で夫との待ち合わせのため官舎を出る司葉子。木々の梢の葉先が繊細にそよいでいた。運命の変転ののち、緑深い山の中で彼女が山菜を取っているところへ加山が来てキスに至るシーンでは、二人の心の揺れにつれて羊歯も揺れて(揺らして?)いた。別の日、十和田湖にボートを漕ぎ出したところで(十和田湖の自然がシネマスコープに映える)、加山雄三が寒けを覚える。帰ろうとして、ボートが上方にフレームアウトして画面が一面の水になり、そこを乱して雨が降りはじめるときの湖面をかすかに波立たせていた風。司が青森を引き揚げようとする加山の下宿を訪ねて(このときの、階段の上と下での二人の表情、秀逸)、タクシーの後部座席に、すなわちシネマスコープ画面の左右に、顏を並べて分け入るのも、山菜取りの場面と同じ緑深い山中であった。そこで、小さな橋を車が渡り、警報器が鳴り、踏切の不吉な赤いシグナル(映画の最初の方で、それは司の夫の死の前ぶれのように点っていた)が点滅し、行く手を遮る列車が通過するまでの長過ぎる時間のあとに、彼らはタクシーのウィンドウがスクリーンであるかのように、起こってしまった事故の残骸を目撃する。運転手の声だけが、カーヴした道を辿る車の座席で映画の観客のように黙って見つめるしかない二人の耳に響く。その先にあらわれた、大きな前庭のある旅館。二人きりになるはずだったその座敷で、サイレンの音を聞きつけて二人は窓辺に立ち、再び二人並んで、さして大きくはない池というか水たまりのようなものの縁を回って、ボンネットのある古風な救急車ともう一台の車(警察車?)が進入してくるのを見る。バックで勢いよく旅館の玄関の前まで入って救急車が停まると、旅館の中から、さっきの事故で運び込まれていたらしい顏を半分繃帯で覆われた男——司の夫と同じ形に繃帯が巻かれているのが憎い——の担架が出てきて、遺体確認時の司そっくりにすがる女とともに後部扉から救急車の中へ消える。変えられない過去が上演されるのを、手の届かない二階席で、再び映画のように二人は見る。
この直後、室内で司が加山に向かって言葉を発するが、階段の上と下の場面以後、私たちが耳にした科白といえば「事故だな」「こりゃひどい」といった運転手の声と、「あなた、しっかりして」と叫ぶ女の声だけで、実にここまで主演の二人には一言も科白がない。
以前の記事で「水の上の別れ」に入れてしまったが、加山は東京へ帰ってから出発するのだし、北海道ではないのだから船で発つわけではない。それまで何度も画面を横切った列車とは角度の違う加山の乗った列車が画面を横切るショットに続いて、誰もいない桟橋に立つ、グレイのスカートにブラウス姿の司葉子の後ろ姿をゆっくりと見せもしないでフィルムは終る。あれは、男が出発したあと、十和田湖畔の実家である旅館に戻ってのことなのだろう。だが、あえて言うなら、『まごころ』の入江たか子のようにもういないその人にさよならを言うために水辺にたたずむ必要があったからこそ、成瀬の遺作は最後にこの短いショットを持つことになったのではないか。
蛇足
『乱れ雲』という標題と内容がたぶん関係がないように、小文のタイトルも今回全く関係がない。たんに筆者の心情である……強引に関連づけるなら、ボートから降りて雨の中で司の傘に入って二人が立ちつづけるときの、あれはパラソルとして持ってきたものだと思うのだが、晴雨兼用傘なんだろうか?(だとしたら、当時から兼用傘というものはあったのか)。それとも、たんに日傘で雨をよけているだけなのだろうか。
交通事故の被害者の妻と、加害者の男とが恋に落ちるという話なら、納得できるような筋になっていると思うだろうが、思い返してどうもそんな気はしない。地の果てということになっているラホールへの赴任が決まった加山が、甘ったれた根性を叩き直してきます、と司に言うが、(全くだよ、叩き直してこいよ)とこっちが言いたくなる甘ったれ・加山の科白は、自分の頭で考えて言っているのではないかと思うほど空疎でおバカで内容なし、それでも恋は発展していってしまうのだ。私たちどうしてこんなに出会ってしまうんでしょう、と司が言うと、もう場内は失笑寸前だが、それでも観客は楽々とついて行けてしまう。ここぞというところで風が吹き、音楽が響く、その音楽も気持ちよく聞ける。
実家である、兄の未亡人・森光子が切り盛りする旅館に司が戻ってからは、おなじみの開口部の多い日本建築を舞台にしたカメラワークが展開されるが、熱にうなされる加山と一泊することになった司が電話すると、受話器を取った森光子に愛人で家へ入れている他人の夫・加藤大介が戯れかかる。その前に、司もいるところで本妻のことで大ゲンカしたとき、キャメラはおなじみ、「一回外へ出る」をやっていた。建具の一部が素通しになっていて、外へ出ても内部が覗けるのだ(司と加山が泊まることになった部屋でも一度やっていたと思う)。その素通し部分に、このときは雨が降りしきっているのが見える。
空をきちんと見なかったが風は見た。冒頭で夫との待ち合わせのため官舎を出る司葉子。木々の梢の葉先が繊細にそよいでいた。運命の変転ののち、緑深い山の中で彼女が山菜を取っているところへ加山が来てキスに至るシーンでは、二人の心の揺れにつれて羊歯も揺れて(揺らして?)いた。別の日、十和田湖にボートを漕ぎ出したところで(十和田湖の自然がシネマスコープに映える)、加山雄三が寒けを覚える。帰ろうとして、ボートが上方にフレームアウトして画面が一面の水になり、そこを乱して雨が降りはじめるときの湖面をかすかに波立たせていた風。司が青森を引き揚げようとする加山の下宿を訪ねて(このときの、階段の上と下での二人の表情、秀逸)、タクシーの後部座席に、すなわちシネマスコープ画面の左右に、顏を並べて分け入るのも、山菜取りの場面と同じ緑深い山中であった。そこで、小さな橋を車が渡り、警報器が鳴り、踏切の不吉な赤いシグナル(映画の最初の方で、それは司の夫の死の前ぶれのように点っていた)が点滅し、行く手を遮る列車が通過するまでの長過ぎる時間のあとに、彼らはタクシーのウィンドウがスクリーンであるかのように、起こってしまった事故の残骸を目撃する。運転手の声だけが、カーヴした道を辿る車の座席で映画の観客のように黙って見つめるしかない二人の耳に響く。その先にあらわれた、大きな前庭のある旅館。二人きりになるはずだったその座敷で、サイレンの音を聞きつけて二人は窓辺に立ち、再び二人並んで、さして大きくはない池というか水たまりのようなものの縁を回って、ボンネットのある古風な救急車ともう一台の車(警察車?)が進入してくるのを見る。バックで勢いよく旅館の玄関の前まで入って救急車が停まると、旅館の中から、さっきの事故で運び込まれていたらしい顏を半分繃帯で覆われた男——司の夫と同じ形に繃帯が巻かれているのが憎い——の担架が出てきて、遺体確認時の司そっくりにすがる女とともに後部扉から救急車の中へ消える。変えられない過去が上演されるのを、手の届かない二階席で、再び映画のように二人は見る。
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