おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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tatarskiyさんのツイートまとめ第二弾。  2/23補足

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「腐女子のBL好きは病気であり、卒業してフェミニストになれば治る」だそうですよ。 

RT @guriko_: BLつーのを読んでもつまんねぇと思うけどスネークの物語ならつまんなくないだろう。男同士がセックスしてればいいってのはもう卒業したんだよ。
posted at 14:22:05
[1月13日]

RT @amezaiku: @guriko_ 貴方の理論に沿うと、私は貴方のような考えを「卒業」できたという事になるので嬉しいです。貴方と同じ所に堕ちなくて良かった。
posted at 14:22:35


RT @_pasenow: フーン性について卒業するとかいえる感性が驚きだわ昔はよく同性愛を卒業して異性愛にならないといけないといわれていたそうね卒業ってどこかの学校でもお出になったのかねえ
posted at 14:22:51


RT @guriko_: なんか話しがまた違ってきてるわね。性を卒業するってダレがいってんだかw
posted at 17:37:26


私はぱーぜなうさんが言ってたことは一つも間違ってないとしか思わないけどね。BL(ここでは男同士のエロティックなイメージ一般)が「特に趣味じゃない」だけなら別に抑圧的とは思わないが→
posted at 20:35:14

→「BLなんか読めない」と公言しながら、しかもそれを「自分の健全さの証し」だと勘違いしてる差別的な馬鹿はいっぱいいるよね。あ、男は「読めなくて当然」なのでこういう奴らはみんな女ですが。
posted at 20:40:27

まあ、自称健全な女性の「BL苦手自慢」なんて「あなたが男だったらただのホモフォビアと思われるだけだし、女だって本当は同じことですよ?」とせいぜい冷たく忠告してあげましょうね。
posted at 23:59:08

RT @guriko_: おもしろかった!RT @kuko_stratos: @guriko_ BL作家の野村史子さんが、なぜBL書きから卒業したのかって話が、参考になるかも。http://t.co/OsIBi7o8 http://t.co/x2V0GEUR
posted at 12:41:44[1月14日]

RT @amezaiku: 「BLはつまんねぇがスネークの物語ならつまんなくない。」「BLは男同士がセックスしてればいいだけのもの」「卒業」自身を持ち上げるために特定のものを自身の基準で「○○である」決め付けた上でその決め付けを元に「卒業」と言っているのに腹を立てているのに「単語が悪かった」とか言い訳乙
posted at 14:24:29


RT @futeneco: 卒業発言、誤解してるんではない。明確に「男同士セックスしてるだけのBLなんて卒業したの」と書いてある。ファンタジーに優劣をつけていると思うのは当然。
posted at 14:32:12


RT @carpe_diem435: @futeneco 私も「以前の自分は未熟だったから好きだったけど、今はもうそこから脱却したし~」以外の読み方出来ないと思います。どう見たって目的論的な考え方して優劣つけてる様にしか理解出来ません。
posted at 14:33:35


RT @carpe_diem435: おぞましい、ね。
posted at 14:34:18


RT @amezaiku: 時間無いからもう行くけど、私はあの発言も、あの発言に同調した者も、あの発言を見て「BLは卒業するべき論」を正しいと勘違いする野朗も絶対に許さない。
posted at 14:35:43


上の一連のRTを見て。言うまでも無いが、人間のクズ(本人的には“正しい女”)ぐりこは語るに落ちるな。「そんなのは誤解する方が悪いのよ」と開き直った直後に“正しいクズ”仲間からの「BL作家もこう言ってるんだもん“卒業”は間違ってないわよね~」というツイートにホイホイ乗っかる醜悪さ。

結局はBL表現と愛好者に対する丸出しの蔑視と「私は正しい女だからこんな奴らとは違うのよね~」とアピールしたい本音がダダ漏れ。私が以前に批判したフェミニスト気取りの映画研究者の女性もそうだったけど

carpe_diem435さんとfutenecoさんの会話にもあるが、問題なのは性的ファンタジーを「正しい目的」に合致するものか否かで序列化し、合致しないものは「卒業すべき“幼稚”なもの」として蔑視するという態度そのもの。特定のBL作品の内容を比較して云々するのは差別的な馬鹿。

馬鹿には当然理解できなかったようだが、私が「BLなんか読めない」と公言しながらそれを「健全さの証し」だと思っている差別的な女の態度が、男だったならホモフォビアと変わらないと書いたのは「文字通りの意味」である。

今回の場合「BL表現なんか女が描いてる偽物で本物の同性愛じゃないから馬鹿にしていいもの」だという暗黙の前提無しには生じ得ない醜悪な言動が渦巻いていたが、BLの作者が本当は覆面のゲイ男性だったり、女性の作者が後から性転換してFTMゲイ男性にでもなれば途端に差別できなくなるの?

要はなぜ「男同士のエロティックな表象」を描いて/愛好しているのが女性である場合、その人のセクシュアリティは蔑視されねばならないのかということだ。それは「“男同士”に現を抜かすなど彼女が現実に“女”としての正しい性的対他関係を取り結ぶ役に立たない」と見なされるからだろう。

だが言うまでもなく、人のセクシュアリティが「現実的な正しい目的」に沿って組織されねばならないというイデオロギーこそ差別の根源である。上のぱーぜなうさんのツイートにもあるが「未熟で無目的な同性愛から、生殖に繋がる異性愛へ移行することこそ正しい成長の証し」だとされてきたように。

早い話が、女の性的ファンタジーなんて「当然の制度である“正しい”異性愛」「道徳としてのフェミニズムに代表される“政治的な正しさ”」のどちらかに沿った“正しい”ものでない限り認められないのだ。

女が正しさとは関係ない純粋な表現としてのファンタジーを愛する権利など無く、そんなものは「女の分際で身の程知らずな」だけなのだ。だから平気で「正しさに奉仕する望ましいファンタジー」か、そうでない「間違ったファンタジー」かの差別的線引きをして恥じないのだ。

男は「ホモではなく、当然女に欲情する」のが正しい男なのであり、女は「男を補完する男にとっての女であること」が正しいのである。男が当然ホモフォビックであるように、女は「男にとって余計なもの」を持たないのが当然であるべき存在であり、「BL嫌い」はそのアピールに他ならないのだ。

「制度としての異性愛」を「道徳」に入れ替えても同じことである。「男に規定された、男にとって望ましい女」から「道徳に規定された、道徳的に望ましい女」になるだけだ。当然「道徳的でないもの」を持つことは許されず、正されるべき悪しき誤りとしか見なされない。

どちらの場合も彼女のセクシュアリティは「その望ましい目的に合致するものか否か」で測られ、彼女は「当然」それに従属すべき存在にすぎない。男の“女”か、道徳の“女”か。いずれにせよ“女”とはそういうものである。もっと言えば、道徳もまた女を“女”にする“男”なのだ。

そして「道徳という名の男」に成り下がったフェミニズムなど世俗の規範とは別種の抑圧に過ぎず、女の味方でもなんでもない。今でもすべての現実の女の立場は、男のための娼婦か良妻賢母か道徳的な修道女でしかなく、彼女がそのいずれであることにも奉仕しない性的ファンタジーは逸脱でしかない。

前に笙野頼子はクズだって話でも書いたけど、女が「男同士のエロティックなイメージや物語が好き」であることを自らのセクシュアリティとして肯定しうるような尊厳など最初から与えられていないのだ。そんな「女らしくなく」「正しくない」ものなどさっさと“卒業”しなければ蔑まれ続けるだけだ。

ところでBLなんかを“卒業”して今は何を愛好するどんな立場になったのか言ってごらん?娼婦?良妻賢母?フェミニズム的修道女?政治的レズビアン?どの道「正しくない」同性を抑圧することで歪んだ自尊心にエサを与えてもらう権力の犬だよね。醜いと言う他にないね。

kaoruSZさんのブログのこちらの文章が参考になるが、「現実」とは常に「これが現実であると信じられるべきである」とされる「覇権的なファンタジー」の産物であり、それに隷属するべき側が「違うファンタジー」をもつことを認めないものである。

だから女が「自分のための性的ファンタジー」を捨てて「現実」を受け入れるというのは「隷属」でしかなく、それを「成長」と言って誇るのは恥ずべき奴隷根性というものだ。馬鹿馬鹿しい。

RT @futeneco: ここのやり取りがマジ糞過ぎて打つ手が怒りで震えるレベル。これでも擁護する人とかいるのね。マジで馬鹿じゃねーの。 https://twitter.com/kuko_stratos/status/158070684990455808
posted at 22:41:53


RT @guriko_: 「少年マンガの登場人物たちの関係を解釈する方法として、恋愛という女性分野に位置づけられたものを使うことによって、男性を排除し、女性同士のコミュニケーションを効率化し、女性同士が自分の解釈を発表し共感し議論し合ったりできるようになる」 http://j.mp/wKhpAS
posted at 14:26:30


RT @guriko_: 「何故「やおい/BL」は恋愛を描くのかという、非常にラディカルな報告でした。…女性たちが自分に強制されてきた愛のコードを使い、女同士の絆を高め、かつ、ヘテロセクシャリズムの意味をずらすことにも使っているとの指摘… 」 http://j.mp/wKhpAS
posted at 14:28:15


RT @kuko_stratos: @guriko_ 講座の講師としてお呼びしたい[鈴木註;東園子氏を]けど恥ずかしい(*μ_μ)σ| モジモジ・・・うちは田舎なので、もうちょっと都会のイコーラム(東大阪)あたりがやれば、盛況じゃないかと思うの。個人的に、BLの卒業後はぜひフェミへ!と思うので、両者をつなぐ仕掛けがあればと。
posted at 15:19:22


RT @guriko_: @kuko_stratos なーるほーどー!!BL→フェミってのは、そのまま私だ!
posted at 15:21


RT @kuko_stratos: @guriko_ いわゆる「こじらせ」の要因は社会的なものであって、腐はその一表象にすぎないと私は考える。自分のこじれとの対話と、こじらせたものへの抗議がフェミニズムであり、こじれを結晶状態で抱えている腐こそは、フェミニズムの種を純粋培養しているものと思う。
posted at 15:34:31


RT @guriko_: @kuko_stratos うん、私もそう思うなー
posted at 15:37:41


RT @kuko_stratos: @guriko_ なのでこう、ね、種を土におろして、ぐりこさんみたいな大輪のフェミの花を!とw
posted at 15:39:01


RT @guriko_: いやいや、大輪なんて…orz でもフェミニズムを知ると色んなものが腑に落ちるよね
posted at 15:42:13


RT@kuko_stratos guriko: うんうん。今までいろんなこと知ったような顔して、「矛盾もしょうがないよね」みたいだったけど、結局それは男の目で語られた物語で、あんたの目をちゃんと開いて、あんたの立ち位置から見てみなさいよ、ほら、って言われた感じだった。
posted at 15:53:25

RT @kuko_stratos: でもまあ個人的にはちゃんとBLを修めてフェミに入学している人はうらやましいな。それだけ幅がある。興味はあるけど結局入れなかった。入試をサボった。お誘いはあった。でも、早熟な私は私私私私ーっ!と欲望する視線より欲望される視線を取りにいった。んでこのザマよ。
posted at 16:10:54

RT @futeneco: @miraiko 今見ました。そのやり取りで完全に例の発言だけでなく、ぐりこ(さん付けも馬鹿馬鹿しい)の認識がダメダメなのが露呈してますね。腐はこじらせとまで言ってますし、ホモフォビックなやり取り、かつフェミが正しいのよと言わんばかりのノリでため息しか出てきません。
posted at 22:06:33


RT @futeneco: 男性同士のエロティックな表象に萌える人は「こじれてる」んですって。ふーん、で、フェミはこじれてないとか正しいとか言いたいの?馬鹿じゃねーの?そりゃ自然に「卒業」とか言えるわけだ。あほらし。
posted at 22:08:20


RT @amezaiku: https://twitter.com/kuko_stratos/status/158074498359365632
はははは!!ははっは!!!BLはこじらせwww @guriko_ の野朗も同意していやがるww何が「個人的な事」だwwあははwwwクソ野朗!!
posted at 22:08:56


RT @amezaiku: @guriko_ に関してはもう何も言うまい。「BL=こじらせ」と発言しても「個人的な事です!」で通ると思っているカスだ。そんなフェミニズム滅んでしまえ。
posted at 22:17:22


RT @amezaiku: @Hornet_B 「BL=こじらせ」で「BLを”卒業”してフェミへ」と言われても我慢しろと?私はフェミニストの奴隷ですか?
posted at 22:17:37


RT @futeneco: @aintootiru 「BLなんて卒業した」と言った人が別にBLは貶めてないと言っていたのに、BLは性についてこじらせた結果だから次はフェミに来てほしいと、明らかにBLを蔑視してる発言をしたやり取りです。
posted at 22:44:44


↑RT一覧:ぐりことクーコ、ゲスな人格が丸出しだが、こいつらの発想ってさあ、昔社会党の向坂逸郎が「ホモは病気であり、ソビエト社会主義者になれば治る」とか言ったのと同じだよね。ソビエトロシアではイデオロギーがセクシュアリティを規定するらしい。とっととシベリアで木を数えてこい。posted at 22:41:44

@amezaiku フェミニズムを宗教や社会主義みたいな党派による思想として内面化する必要や義務なんかないので、amezaikuさんにそんな抑圧感を与えるようなフェミが間違ってるだけです。自分の性的嗜好を含めた人格より偉い「フェミ的正しさ」なんかありません。
posted at 23:12:49


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「BL作家の野村史子さんが、なぜBL書きから卒業したのかって話」とはどんなものか参考までに(鈴木薫のツイート 1月15~16日)

あらためて読んでもキモいレポートだな。政治的に持ち上げることは政治的に貶めることと表裏一体。お前の性ファンタジーは女の解放や女の連帯につながると言われてそれが何か? http://wan.or.jp/reading/?p=745  http://wan.or.jp/reading/?cat=16

うぜー「SM的な関係は最も萌えるファンタジーの一つでしたが…一方ではリブの活動をしながら、もう一方では支配-被支配の関係に萌える自分がいる。この矛盾は中野さんを苦しめました。…JUNE作品を書くことにより、自分は何故このような性的ファンタジーを好むのかが分かってきたといいます→
posted at 09:01:23

→自分がいかに女性差別的な男性社会を憎んでおり、支配―被支配の男同士の関係、そして支配者たる男が破滅していくという物語を書くことによって自分の怒りをなだめていたのかが分かったそうです。…自分の怒りの方向性を認識することで、改めて現実の社会で闘っていこうと思い帰国されたそうです→
posted at 09:13:06

→物語を書くことによって、自己の中の怒りを発見し、現実に立ち向かっていく中野さんのお話はとても感動的であり、物語を書くことの力を改めて認識させられました。やおい/BL研究の中でも小説分野は今後ますます研究が必要な分野かと思いますので、非常に有意義なシンポジウムでした」
posted at 16:48:07

↑中野は昔の人だからこうだと思われるかもしれないが、大義の内容が変っただけで政治的な正しさに支えられたい連中が多いのはこのレポートでも分る。今はソフトに女子文化とか女の絆とか言っているだけ。追いつめられていた分正直なところもあり飯の種にして同性を搾取する連中よりある意味マシか。
posted at 22:18:01

@carpe_diem435 野村史子=中野冬美って男同士の話が好きなのに「やおいは女の自己否定」と思い込みしかも〈女〉が大嫌いという人だったんですね。小説は知らないのですがこんな先人が!と思って以前書いた文章の最後に註として載せましたhttp://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-5.html
posted at 08:57:47

→誰かが彼女に、女だから女であることを素晴しいと思えという命令などは突っぱねたっていいんだ、そこにいるあなたという女を架空の女に従属させないからといってミソジニスト呼ばわりされる筋合はないと言ってやれればそんなに苦しまなかったでしょうにね。@carpe_diem435
posted at 10:24:10



◆引用したツイート中、前出のツイートを指す「下の」は「上の」に↓は↑に直しました。
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by kaoruSZ | 2012-02-16 12:45 | 批評 | Comments(0)
twitterで140字ずつ投稿するのにすっかりハマってしまい、久しくこっちに戻っていなかった。                                        

http://twitter.com/#!/kaoruSZ
http://twilog.org/kaoruSZ
   
連続ツイートもしているので、長いものはおいおいこちらにまとめるつもり。
 
今回は私のではなく、一緒に文章を書いている(http://kaorusz.exblog.jp/322048/参照)tatarskiyさんのツイートのまとめに場所を提供した。このシリーズは今後も続く。


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佐藤亜紀氏が私への中傷を重ねている件については、上記ツイッターの5月24日以降のポストもぜひご覧下さい。
佐藤亜紀氏の読者のような良い趣味をお持ちの方なら、私の記事は当然お気に召すことでしょう(「最新の記事」欄を参照されたし)。どうぞごゆっくりお過しください。(鈴木薫)



(2012年6月5日ツイートより追記)

tatarskiy1@tatarskiy
色々途中ですが、馬鹿には何で私が笙野頼子はただのミソジニストだと言ったのかわからないようなので。たとえば「人種差別はよくない」とかもっともらしいことを言ってる奴が同じ口で「ホモや女装をするような奴はリンチされても仕方ない」と言ってても人道主義者だと思えるのかと小一時間(ry→


6月3日N/A ‏@carpe_diem435
私にとって、ずっと辛かったのは、「BLは 、フェミニズム的な意味を持つからこそ、価値がある」とされてきた事かもしれない。それは、正しい女であるために好きな物であり、加えて、何故か「いつかは卒業すべきもの 」とされていたな。うん。
tatarskiyさんがリツイート

tatarskiy1@tatarskiy
要は笙野頼子のやったことは上のRTで指摘されてるような抑圧的な意見の典型なんだよ。どんなにもっともらしく女性差別への批判をまくし立てていようが、「私はあんな道徳的に間違った女たちとは違う。一緒にされたくない」とわめいたならそれだけで貞淑な差別主義者の馬脚を現しているにすぎない。→

tatarskiy1@tatarskiy
「女性差別は不当だが、BLを好きな女は道徳的に間違っているから差別されて当然。断罪された後フェミに目覚めることで“健全”になるのが望ましく、自分はそのモデルケースだ」とアピールしてただけだよあれは。女の空想上のセクシュアリティは今も間違いなく最も認められていない人権の一つだね。→

tatarskiy1@tatarskiy
結局、性欲や性的ファンタジーをヘテロ男性をモデルに考えて罪悪視してるから「自分にはそんなものは無い」と言い張らなければ男を批判する権利がなくなると思い込んでるんだよね。つくづく凡庸な臆病さの発露でしかないけど。何度も書いたがヘテロ男性のそれは制度=権力でその女版なんか無い。

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笙野頼子(一人で)アンチスレ      tatarskiy


笙野頼子がフェミニスト面して持ち上げられてるのって、最低最悪におぞましい光景だわ。『幽界森娘異聞』って、森茉莉を一方的に政治的な正しさの高みから見下しながらダシにした、腐女子の人に対する悪質なヘイトスピーチ集でしかなかったと思うが。

要は「私はちゃんとフェミニズムに目覚めたからやおいなんていう政治的に正しくないものは卒業したの! 私は正しい女なの! だから私のような正しい女になれない腐女子のことは率先して断罪するの! それは森茉莉みたいな著述家としては優秀な人だって例外じゃないの!」っていう幼稚な自己正当化がやりたかっただけ。“貞淑な女”アピール乙としか言いようが無い。女が道徳的な正しさに基づいて「性的に堕落した」同性を断罪してみせるという古臭いミソジニー的な構図の再生産にすぎない。

女が美的に描かれた男性同性愛の表象を愛好することに、倫理的な問題なぞ本当は何も無い。卑屈になったり、誰かに謝ったり、模範的であるとされる態度を率先して示さなければならない理由など何一つ無い。あるのは、「女の分際をわきまえろ」という権力からの通俗的な脅しと、権力からの脅迫を内面化した女たちの、自分だけは堕落した女だと思われまいとしての同性に対する魔女狩りへの加担だけである。その根拠にフェミニズムだのゲイの権利だのの名前がついていたとしても何も変わらない。いるのはミソジニストと、彼らの憎悪の標的とされた女性たちだけである。

芸術とはモラルも含めた通俗的な根拠から離れた、アモラルな自由と洗練に基づく。道徳的な貞淑さを内面化した女の出る幕などない。笙野頼子のような女は、女性にとってのアモラルな自由と美的な表現を愛する権利を要求することは、男からの差別に抗議するためのモラルに基づいた根拠を失うことだと思い込んでいるわけだ。要はフェミニズムと道徳律(モラル)を同一視しているわけだが、そもそもこれが誤りの元。男が正しいこと=モラルだけではなく、正しくないこと=アモラルなものを享受することを許されているからといって、「男も正しいこと=モラルだけしか許されないようにしろ」というのは、そもそも実現性なぞ無く、思想としても非人間的な全体主義の奨励でありおぞましいだけ。効果としては「男にモラルを要求する以上、自分達はより率先してモラル的であらねば!」という風に内部粛清の動機を強化するだけである。

フェミニズムは、女性が女性であるという理由で排除されている一切に対して、その根拠の不在と排除の理不尽さを指摘する行為ではあっても、社会の道徳律の改良運動ではない。彼女がそれに抗議するのは、単に彼女に対する理不尽な抑圧があるからであり、道徳的な間違いだからではない。

面倒になってきた。要はフェミだろうがなんだろうが、既存の道徳に沿った形でしか自己肯定を許さないってのは女を人間扱いしない思想でしかない。

あと、笙野頼子みたいなバカは、男のヘテロセクシュアリティの本質を見誤って闇雲に嫌悪しているがために、やおい(BL)に対してもその嫌悪感を投影して「男が女にしたことを女がゲイにするのか!そんなことは許されない!」と頑なに思い込んでいるわけだが、(前に書いたが)そもそも全てのエロティックな快楽の源泉は「愛される/犯される客体」としてのナルシシズムにあり、単にこれをストレートに認めることが出来ないが故に女性に投影しつつ蔑視するしかない男性のヘテロセクシュアリティが特殊なだけである。この図式の女性版など存在するはずも無い。

男性の作り出したヘテロセクシュアリティという「それこそが当然であるものとしての制度」は権力そのものであるが、その反映としての三文エロメディアの類は、単に通俗な代物であり、制度から生じる結果ではあっても原因ではない。
そして、必然的に唯一の覇権的な制度としての男性のヘテロセクシュアリティ以外のものに、このような支配的な力などあるわけがない。

前にも述べたが、エロティックなファンタジーは本質的にアモラルなものなのであり、故に、問題とされるべきなのはファンタジーの内容が通俗的な道徳に照らして望ましいものか否かでは断じてない。そのような通俗的で抑圧的な基準でファンタジーそのものが序列化されることはあってはならない。

問題なのは断じて通俗的な善悪ではなく、制度とそれに基づいた権力という構造的な不公平の問題であり、自己欺瞞的な男性のヘテロセクシュアリティこそがその排他的な独占者であることに由来するものである。

もう何度も繰り返し言っているが、女性が描いた男性同性愛の表象にはいかなる意味でも覇権的な力など無い。それどころか、こうした表現を愛好することは“正しい女”から外れることしか意味せず、避けがたく理不尽な侮蔑にさらされることになる。
何より、既存の常識や道徳の後ろ盾を奪われているということは、それを自らのセクシュアリティとして肯定する尊厳すら与えられていないということだ。

笙野頼子のようなケースは、その状態に耐えられずに自らのセクシュアリティとそれに基づいた美意識を否定し、同性を侮蔑する側にまわることで歪んだ自尊心を保とうとしたにすぎない。心底軽蔑すべき臆病者だが、彼女のようなケースは余りにもありふれていると言える。
差別的な態度を隠そうともしない世間並みの男がろくでもないのは明白だが、フェミニストやクィアを自称しながら“腐女子”を蔑視して憚らないような輩はなおさら恥を知るべきだ。
それは「堕落した売女なぞと一緒にされてたまるか」とばかりに女に石を投げつける類の、伝統ある卑しむべき“貞淑さ”の反復にすぎないからだ。
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 tatarskiyさんのtwitterとtwilogは以下の通り。

    https://twitter.com/#!/tatarskiy1
    http://twilog.org/tatarskiy1

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by kaoruSZ | 2012-02-15 18:57 | 批評 | Comments(0)

ちょっと違うんでェw

 拙ブログについて、繰り返し好意的に言及して下さってる方を見つけたんだけど――。

 私が、「腐女子の幻想はゲイ男性の貧相な性愛感から彼らを救う」と書いていると、そして、それは“名言”だと……。
 まさか、そんなこと私言ってないからw

 これは、石田論文を批判した2008年の「ウェブ評論誌コーラ」掲載の記事のことでしょう。

http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.html

 コンラッドにしてもトールキンにしても、私はこういう男性たち(彼らが「ゲイ男性」かどうかはともかく。というか、そう呼ぶ必要さえ全くないと思うけれど)の、あるいは「ゲイ・エロティック・ライティング」のアメリカ作家たちの豊かな「幻想」に感嘆こそすれ、「ゲイ男性の貧相な性愛感[ママ]」なんて微塵も思ってないから。

 あ、腐女子は現実のゲイに配慮すべきかなんて、贋の問題を立てる連中の「貧しさ」なら思うけどね。

 ついでに言うと、腐女子がどうこうなんて文章を私は書かない。少なくとも、腐女子とやらを実体化して主語に据えたりはしない。

 で、リンク先に元の文章はあるけれど、そこでは名前を確認していなかった研究者というのは、リンダ・ウィリアムズというアメリカのフィルム・スタディーズの人。ポルノ映画について本を書くためにポルノ映画をたくさん見たけれど、結婚している女である私向けでは全くない男同士のフィルムに萌えた[意訳]と、出来上がった本のあとがきで言っているわけ。

 彼女を腐女子と呼ぶとしたら――そうだねえ、パムクの『わたしの名は紅』に出てくる、十七世紀の細密画家を“ゲイ”と呼ぶようなものじゃない?

 その先を終りまで引用しておく。三年前の文章だから、私自身、立ちどまって他人の書いたもののように読むところがあるけれど、特に注釈のいる文章じゃないでしょう。

+++++++++++++++++++++++++++++++++

 既婚の女のためのポルノグラフィが考えにくいのは、彼女の性的欲望が家庭内に封じ込まれ、もっぱら夫との関係のうちにあると考えられるからだろう。それは生殖という目的に添って組織されたセクシュアリティを持ち、思春期に月経がはじまって自分が女であることを自覚し、異性間性交し、妊娠し、出産し、子育てをして、更年期を迎える女だ。

 だが、むろん、そんな女などどこにもいない

 彼女は現実の異性愛に飽きたらず、ゲイのイメージを利用したのだろうか? これは必要悪であり、いつの日か「[異性]愛の再発明」(ランボー)が実現した暁には、男との性愛における彼女のみじめさは取り除かれ、彼女はもはやゲイポルノに性的昂奮を覚えなくてすむようになるのだろうか? いや、異性愛が再発明されることがあるとすれば、それは異性愛が唯一の「正しい欲望」ではないと認められる時だろう(それに、再発明される日まで異性愛のすべてが〈悪〉というわけでもあるまい――そこまで異性愛を「ガチ」と思い込まずともいい)。

 ゲイポルノで「萌え」られる彼女は、幸いなことに真理に――彼女の「正しい欲望」に――至りつくことがない。

 彼女は女であることのみじめさから救われるためにゲイのイメージを利用したのだろうか? いや、むしろ、彼女はやおい化することによって、男のファンタジーを救うのだ。彼女の欲望はゲイのファンタジーを「やおい的なもの」にする。同じものに性的昂奮を覚えても、その主体が女であれば「やおい」である――だから、(やおいが差別するのではなく)「やおい」は差別語なのだ。だが、そのとき、ゲイのファンタジーもまた(ひいてはゲイ・アイデンティティそのものも)、それが仮の命名に過ぎず、自分が単一の実体ではなく複合的に構成されたフィクションであることを、「自律」したものではありえぬことを明かすだろう。享楽する者の身元をそのとき誰が尋ねようとするだろう?

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by kaoruSZ | 2011-08-20 14:41 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
先に(上)の平野さんの論考http://kaorusz.exblog.jp/14384401をお読み下さい。

さらに後日談あり 
http://kaorusz.exblog.jp/14892828 



 鈴木薫です。
 当ブログ内の関連エントリーとして平野さんが挙げた“「彼は私をブランチと呼んでいた」”というタイトルのものの外にもう一つ、“お知らせとメモ”というのがあります。
“「彼は私をブランチと呼んでいた」”で検討していることの一つは、「男が流用した女性性を女が再流用して享楽する」可能性です。
 こういう場合に、“男の流用した女性性なんてけしからん、こういうものは否定して女の手で「正しい」「本物の」女を表象すべき”という方向へ行かないのは、一つには私が根っからの快楽主義者だからでしょう。以下の考察もそのような人間の視点からのものです。

 鷲谷さんの論考の最後の部分について言えば、“ホモソーシャルなもの”はつねにすでにホモエロティックだったのであり、これからもそうであろうこと(鷲谷さんが言うような「アリバイ」などではありえません)を看過するという、ありがちな(かつホモフォビックな)間違いを犯し、おまけに「女性観客」の「リビドー」を貶めるのみならず、彼女たちを「ホモソーシャリティ体制の共犯者」扱いしてしまうところは、かつて溝口彰子さんが書いた、やおいは「ホモフォビアに依存しつつさらにそれを再生産する二重のホモフォビア装置」というその後大勢の馬鹿によって繰り返されることになったフレーズと同様最悪で、これがあるためにそれまでの部分を台なしにしているのは最初に読んだ時からわかっていました(しかし世の中にはこの最後の部分にばかり注目して、重要なことが書かれているとかなんとか言い立てる人がいるんですねえ、呆れ果てました)。

 それがなぜ平野さんのような透徹した認識と歯に衣着せぬ批判へ直ちに繋がらなかったかといえば、強いて言うなら私の個人的心理の問題であり、それについて書いたところで誰も面白いとは思わないでしょうからやめておきますが、その代りとして、鷲谷さんがここで唐突に持ち出している、「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆく」という文句の付けようのない(?)「性向」をそなえた書き手がいったいどのような主体であれば、それまでの部分と齟齬を来さないかを考えてみます。

 第一に、鷲谷さんが“「素敵な女性」を性対象にする男性”だったら全く問題はなかったわけで、平野さんが“男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じ”と書いているとおりです。

. 女である主体がこのような発言をするのには、本質的に無理があるのです。だからこそ、それを行なった場合には異化効果が生じます。
 といっても今回の場合は、鷲谷さんの動機は、平野さんが掌を指すように示してみせた安っぽいものでしかなく、その効果も空振りに終っているのですが。

「スクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主」が“レズビアン”を名乗るのなら、これまた話は簡単でしょう。もっとも通常、そうした言説は“レズビアン=異性愛男性の女版”程度の認識しかもたらさないので(そういう認識ですませている“レズビアン”当事者だっていくらでもいるので無理からぬことですが)、異性愛のオルタナティヴなどには絶対になりえず、“レズビアン”の一語はむしろ人を安心させる政治的に正しいレッテルとして機能して、ヘテロセクシュアルな男性主体を一ミリも脅やかすことはないでしょう。

(馬鹿を対象に書いているのではもちろんありませんが)馬鹿も読みに来るのだからもっとわかりやすく書けと平野さんに言われたのでこの緑文字部分を追記します。鷲谷さんが以下のような主体であると私が主張しているわけでは全くありません。「鷲谷さんはこう書けばよかった」ということでさえありません。そもそもそれが可能な人なら、正しく見えそうなことをなんとなく書いてしまったりはしなかったでしょう。

 私は、たとえば――自分は「素敵な女性」の官能的イメージに萌える、しかも「素敵な女性」を欲望の対象にするのではなく彼女に同一化してオーガズムを得る性向の持ち主で、とりわけ、能動的で男勝りの強い女性が危ない目に逢ったり、敵に捕えられたり、拷問にかけられたり、時にはもっと酷い目にあったりというのが、性的指向という分類なんぞ自分には何の意味もなかったのだとあらためて実感させられる“嗜好”の持ち主なので、近頃は男あるいは男同士を官能的に描く映画ばかりでまことに残念だ――というのであれば、筋が通っている(現状を分析したそれまでの論考の内容と整合性がある)と思いますし、それはそうだろうと納得しますし、道徳的にであれ他の意味においてであれ正しくないなどとは全く考えません。

 むろん、そうした主体(念のため言っておきますが、女性とは限りません。男性主体とは性的指向にかかわらず、その成立条件からして必然的に「女になって犯されたい」という無意識の願望を抱え込むものですから)が、「お前は女だから女に同一化するのが正しい」というメタ・メッセージを発しているのであれば話は別ですが。

 以上、ながい蛇足でした。

──補足──

 平野さんが鷲谷さんの分析している映画の内容にまで踏み込んで補足したもので、私ももう一言。
 チャン・イーモウの『LOVERS』がそんなふうなら(ちなみに取り上げられた映画、私はどれも未見です)、むしろ私が過去ログで言及した(その後、コメント欄で恐れ多くも鷲谷さんが「参考になりました」と言って下さった)『肉体と悪魔』にこそ、鷲谷さんの指摘はふさわしいことになりますね。あれは正真正銘ヒロイン無視(しかも死亡)で男同士抱きあってましたっけ。思えばこれ以外にも例として選べたフィルムはあったので、たとえばハワード・ホークスのある作品(題名を思い出せないのですが、フィルムセンターのホークス特集で見ました)では、親友と妻の姦通という『肉体と悪魔』と全く同じシチュエーションながら死ぬのは妻ではありません。最後は妻を寝取られた船長が大怪我をして、死にゆく船長の左右に妻と親友を配した構図に。ところがそこでキャメラは船長と親友に寄って妻はフレームの外に追いやられてしまい(二度と戻って来ない!)、スクリーンは男二人を大写しにして、許しと和解と愛の再確認、そして永遠の別れという感動的な場面(「お涙頂戴的な場面」ではありません)で終ります。そう、「ヒロインの存在が消されたまま」で。

 しかしあれは果たして(男同士の)「真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)」(実際、昔の映画ですが)の発露だったのでしょうか。

 そうした映画は要するに異性愛のラヴ・ストーリーとして“パス”しつつ、実は男同士のホモエロティックな関係を表現していたわけです(そこには単に多数派に受容されるための手段にとどまらないものがあるようにも思えますが、それはまた別の話)。そこで作動していたのが、もっぱら、鷲谷さんの言う、(何やらやたら獰猛なばかりで快楽を欠いた)「みずからを増幅強化する」ような「ホモソーシャルな体制」なんてものだったとはとても思えません。「昔ながらの」ではなくアクチュアルな――「腐」呼ばわりして(しなくても)女を攻撃し、ストレート男性とゲイ男性が頷き合う、そして権威主義的な女性が彼らに気をつかい同性を非難する――今どきのニッポンのホモソーシャル体制ならまぎれもなく存在しますが。

 これ以上長くなるのは避けたいのでこのくらいにしますが、最後にこれだけは言っておきます。強制的異性愛体制(ヘテロセクシズム)下にあって男とつがうこと以外の可能性を否定されている女性(レズビアンであってもこの条件は変わりません)は、しばしば男性のホモエロティシズムを甘美なオルタナティヴとして(再)発見するのです。異性愛が規定する〈女〉とされることへの反発と拒絶(こうした反応自体、至極まっとうなものです)は、原因ではないとしても、そこに確かに含まれています。しかしそれを「ミソジニー」と中傷し、自己否定扱いするのは、まして「ホモソーシャリティ体制の共犯」に繋げようとするのは、絶対おかしいし、最低です。

 なお、平野さんが触れている“「コーラ」に共著者として書いた拙稿”はここにあります。
(実はこの論文中には私の不注意によるミスが二つあります。「失われた道」の主人公を「オックスフォードの歴史学教授」と呼んでいますが、彼の勤務先はオックスフォード以外の大学でした(作者とつい混同)。それから、アレゼルだけでなくニエノールも黒髪であるかのような書き方をしてしまいましたが、彼女は言うまでもなく金髪です。幸い論旨にはさしたる影響はないものの、ここで訂正しておきます。)
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by kaoruSZ | 2010-11-11 01:03 | 批評 | Comments(6)
後日談あり http://kaorusz.exblog.jp/14892828  

            
僕はただ、女嫌いで女性を出さないというふうに見ている人も多いと思うけどね。あの物語に関しては、久生を除いて女性に出てこられちゃ困る、という感じなんですね。 ――中井英夫
                             
                               

 なかなか更新できないでいますが、今回、友人の平野智子から場所を貸してほしいと原稿をもらい、これは広く読まれるべきものだと考えましたので、ゲスト・エントリとして掲載いたします。
 
 これは、現在、以下で読むことのできる、鷲谷花さんの論考について書かれたものです。、

http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223647850
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081017/1224253971

 鷲谷さんの文章については、私自身、大分前になりますが、むしろ好意的に言及しています(参考までにあとで読んで戴ければと思います)。
 そこにも書いていますが、私は最初、個人ブログでないサイトに他の書き手とともに載っているのを見つけた、才能ある若い女性研究者とお見受けした鷲谷さんの論考の、「腐女子」という種族化・属人化、「BL」という商業ジャンルへのゲットー化ではない、メインストリームの文化に見てとれるようになった〈やおい文化〉という包括的な捉え方や、具体的な映画作品を対象とした冴えた分析に注目し、さらには、〈やおい文化〉が「インターネットの普及をきっかけに、かなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつある」とか、『ロード・オブ・ザ・リング』がそこでは大きな役割を果たしたとかいう、私が全く通じていなかったトピックに引かれて、フェミニストを自任する、しかし「やおい」については知識のない人たちが少なからず集まる場所で少々話した際に、資料として使わせてもらいました。

 しかしそれは、鷲谷さんの説明を借りて彼女たちに効率的に情報を与えた上で、話を発展させられる(異論の提示を含め)と思ったからであり、〈やおい文化〉という括りに私が心から満足していたことは一度もありません(そのあたりはあとで挙げる私の関連エントリからも窺えると思います)。

 今回の平野さんの論考は、私よりはるかにラディカルな鷲谷さんへの批判です。

 平野さんの文章は私と違って非常に明晰なので、この上私から付け加えることは何もありません、と言いたいところですが、蛇足ながら最後にもう一度出てきて一言申し述べます。


鈴木 薫

 今回、この分析は、平野さんによって、いかに根拠のないものかが完膚なきまでに証明されてしまった。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  


二年間持ち越していた鷲谷花氏への批判、あるいは「ミソジニストはお前だ」

はじめまして。平野智子です。
鈴木さんの共同執筆者として「web評論誌コーラ」の記事に名前を連ねたことはありますが、単独で書いたものを掲載してもらうのはこれが最初になります。
さっそくですが、以下の文章は鷲谷花さん個人に対する批判であると同時に、彼女の論考「複製技術時代のホモエロティシズム」の最後の部分での、腐女子に対する“道徳的蔑視”をもっともな意見だと思われたような方たちに対してのものです。

まず、私が最も憤りを感じた部分からですが、

しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。


この文章は「私はこういうミソジニー的なホモソーシャル体制に無批判に“萌え”てとりこまれているような愚かな女達とは違うのよ。私は女性の方が素晴らしいと感じて女性の活躍こそを楽しみにしている、“政治的に正しい”女なのよ」
という、それこそミソジニー的なメタメッセージを内包しています。

それこそ「じゃあ貴女はそういった“活躍する女性”をオカズにしているの?」と聞き返してやりたくなりますね。上の論考の中で、彼女は映画の二次創作を楽しんでいる女性達を、一貫して「男同士での性関係を快楽の対象とした性的ファンタジーの持ち主」として表象しているので、本当に自分を「そういう女たちとは違う女」として表象なさりたいなら、「私のオカズは男同士じゃなくて男女or女同士のこういうパターンです」というところまで表明しなければ無意味です。
“野暮ないちゃもん”とか和らげたつもりになってみせたところで、こういう文字通りの差別化をせずにはいられないところで馬脚をあらわしています。

しかも「女性が活躍する映画が見られなくなったのは男同士の話を好む女が増えたせいだ」とでもとれるような結び方ですが、鷲谷氏はそれまで「女性の観客が男同士の話を好んで二次創作をするという消費の仕方がネット時代になって目立つようになった。映画そのものもそういった女性たちをあらかじめ観客として当てにして演出されているようにも思える」という論旨を展開していただけで、「男同士の関係をクローズアップした映画が増えたせいで女性の活躍する映画が減った」という論証をしていたわけではないのに、この結びの部分で無視できない(悪質な)印象操作的な飛躍をしているわけです。

これって、彼女がそれこそ女だから「こういう女たちとは違う」という形をとりましたが、本質的には男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じです。要するに、“男同士での性的なファンタジー”を享受する主体は不健全であるとする病理化です。

え?「男同士のファンタジー自体が不健全なわけではない。ゲイ男性なら問題無いけれど、女がそれを好むのはやっぱり異常だ」とおっしゃりたい?
まず、“男性による女性イメージの横奪”こそ歴史的には現在に至るまで続く制度化されたお家芸です。
下の(まだ私が鷲谷氏はおかしいと意見する前に)鈴木さんが書いたエントリーにその一例が取り上げられていますが、
http://kaorusz.exblog.jp/8729974
端的に言って、“女”なるものは男性が自分のものとしては抑圧した受動性を女性に投影したイメージであり、また、能動性としての“男らしさ”とは、「受動性を“女”として外在化し続けること」すなわち抑圧によって成り立つものであり、つまり“男”も“女”も“男のもの”なのです。
この秩序は必然的に、「男性が同じ男性に対して受動的であること」つまり男が“女”になることを最大のタブーとしますが、それ故にこそ、「男でありながら受動性=“女”を自分のものとして体現する」男性は「女以上に“女”らしい」ものとして受容されます。

馬鹿でない方にはもうおわかりでしょうが、前者は基本的に“異性愛”と呼ばれるものの基本的な図式であり、後者の「“女”を自らが体現する男」とは“同性愛”と呼ばれてきたものに本質的な関連を持ちます。(ここで「女性にも同性愛はあるじゃないか」とか言い出そうとした貴方は単なる馬鹿です。ホモ/ヘテロという区分を自己の主体化の為に大問題とするのは常に男性であり、本質的にこの区分自体が“男のもの”です。女性は「男の差別につきあう」形でそれを内面化=補完するのです)

そして、この“受動性”こそエロティシズムの享楽には欠かせないものであり、「私は能動的な女が好きなだけ」という言い逃れは通じません。
また女性にとっては上に述べた「男性のヘテロセクシュアリティの図式」を補完する「“女”であることを受け入れた女」であることしか許されておらず、「男を補完せず、また“政治的に正しい”とは評価されない性的ファンタジー」を持つことは侮蔑の対象にしかなりません。(“男同士”ファンタジーはまさしくこれに該当します)

繰り返しになりますが、だいたい“男同士”ファンタジーに対して“単品の女”(としか読めない)という反論になっていないものを持ち出してきているのが卑怯ですね。この場合、“男女”か“女同士”でなければ持ち出す意味は無いです。(たとえその場合でも「性的ファンタジーに道徳的ヒエラルキーを持ち込んで差別した」という噴飯物の性的人権侵害がより明示的になるだけですが)

つまり鷲谷氏が結果的にやったのは、「女のくせに、受動性を“女”として受け入れないのはけしからん。不健全である」という、「女の分際をわきまえろ」という最悪の意味での保守的な説教であり、より直接的には「女は女らしくするべきなのに、今時の女は生意気になっちゃって、同じ女として恥ずかしいですわ」という実にミソジニー的な“貞淑さ”のアピールです。
だいたい、「“正しい女像”に同一化できない女は不健全である」という使い古された差別的なテーゼを用いてフェミニスト面をするというのが信じられません。
「男同士というパターンの性的ファンタジーを持った生身の女性より、“スクリーンで活躍する女性たち”とやらに自己投影できる私の方が“健全”である」という浅ましい蔑視です。

また、彼女が言うような「潜在的にホモエロティックなホモソーシャルの映画」が最近になって急に出てきたという事実はありません。
変わったとすれば、それが「どうせ女向けの偽物」という実にホモフォビックでありミソジニー的な“安全化のラベリング”の対象になり、そのラベリングに基づいた(男性にとっては、あらかじめ余裕を持って侮蔑することを許された)“マーケティング”<>が行われるようになったというだけでしょう。

たとえば彼女が持ち出していた映画『ヴァン・ヘルシング』の原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』ですが、この小説も含めた吸血鬼表象そのものが、近代以降の文学においては、同性愛の伝統的と言ってもいいほどのメタファーになっており、彼女自身もそれを知らなかったとは思えません。
(ちなみに狼は『吸血鬼ドラキュラ』の中でもドラキュラ伯爵の変身した姿として登場し、草稿の一部である短編『ドラキュラの客』では語り手とドラキュラ伯爵である狼との極めてホモエロティックな描写があります)

また映画『ロード・オブ・ザ・リング』とその原作『指輪物語』を比較すれば、フロドとその従者サムとの親密な絆が、ヘテロセクシャルな要素の大幅なクローズアップによってぼやかされ、(特に滅びの山の麓での場面のように)原作において感動的な場面に決定的に水を差しているのが見て取れます。

王となる宿命を背負ったアラゴルンとその仲間たちであるボロミアやレゴラスとの絆は、なるほど確かに原作よりも分かりやすくドラマティックに演出されていた部分もありましたが、同時にアラゴルンの婚約者アルウェンを、原作では彼女の出番でない場面において、他の男性キャラクターの見せ場を奪ってまで男勝りの活躍をさせたり、回想やテレパシー的な夢を挿入するという形で登場させて濃密なラブシーンを描いたりして無理に“ヒロイン化”しており、結果的に原作とは似ても似つかぬ「凡庸なホモソーシャル映画」に仕上げています。(ついでに言えば、監督のピーター・ジャクソンがアカデミー賞の授賞式で、フロドとサムの関係をゲイではないかという意見について、「ユーモアとしては買うがアイデアとしては買わない」といったホモフォビックな発言をしているそうです)

ちなみに原作者トールキンの描いた世界が『指輪物語』に限らず、特に『指輪』の前史にあたる『シルマリルの物語』においていかにクィアーなものだったかについては、「コーラ」に共著者として書いた拙稿をご覧ください。

映画の中の虚像としての女がどれほど“政治的に正しく、能動的に”描かれたところで、性的ファンタジーを持った生身の女性の解放には繋がりません。
また、「“正しい表象”の方を愛好できない女は間違っている」というフェミニズムの名を借りた道徳律に基づく抑圧は、いかなる場合においても正義ではありません。
それは保守的な性道徳の強化にしかなりえず、女性を萎縮させる効果しか持ちえません。女性をエンパワーメントするために必要なことの逆なわけです。「お前の道徳に承認されない正しからざる部分は“罪”なのだ」という脅しですから。

ホモエロティックなものがホモセクシャルな関係でもあるものとして明示的に描かれることが忌避されなくなり(男の“女性性”の忌避の解消)、それを生身の女性が享受することが蔑視されなくなった時(女性が性的なファンタジーを持つことの純粋な承認)には、世の中の“女性観”そのものが真に変革されていることでしょうが、その時にスクリーンにはどんな“虚像としての女”が映っているのか、それはその時代の人にしかわからないことですが、その時に生きている人たちなら──個々人のセクシュアリティともイデオロギーとも関係無く──みんなが知っていることでしょう。少なくとも「スクリーンでの素敵な女性達との出会いを求めて」などという空疎かつ実はミソジニーそのものの欺瞞的な文句が、その人たちの口から出るとはとても思えません。

とりあえず以上です。この長文をここまで読んでくださった方には感謝いたします。

──以下註釈および補足です──

とはいえ、この“マーケティング”にも果たしてどこまで実体があるものやら個人的には甚だ怪しいものだと思いますが。それなりに製作者側が念頭に置いていると思われるのは──それでも“男性向け”のセールスへの意識よりも優先順位は低いだろうと思いますが──日本のアニメ市場くらいじゃないでしょうかね?とても“グローバル”なものとは呼べません。
というのも、少なくとも欧米圏においては「男性同士のホモソーシャルな/エロティックな表象」の担い手および享受者の双方の中心は「狭義のゲイを含めた“男性”である」という前提は、それを愛好する側にとっても差別する側にとっても揺らいだことは無く、ましてや「“政治的な正しさ”を表明することを目的としない男同士の表象」は全て「女のせいにする」という態度がまかり通ることはありえません。
こうしたミソジニー的な責任転嫁の横行自体が“日本ローカル”な代物でしょうし、そうなった原因はまた今回の一件とは別の話になりますが、少なくとも女性の側には一切非はありません。

また「女性にとって男同士のエロティックな物語が魅力的である」ということ自体はおそらく普遍的なことですが、その社会的な意味づけは時代や文化圏によってそれぞれ異なるものであり、たとえば欧米のスラッシュ文化を指して「海外にもBL(やおい)がある」というのは、「江戸時代や古代ギリシャにも同性愛者がいた」と言うに等しい錯誤に過ぎません。

また鷲谷氏が持ち出していた他の映画も、彼女が作った筋書きを裏付けてくれるようなものとは思えませんでした。
チャン・イーモウの『LOVERS』の場合は(アマゾンのDVDのレビューでも指摘されてましたが)そもそも映画のストーリー自体が破綻しきっており、とても引き込まれるような出来ではありませんし、単に映像美をすべてに優先させているという以外に一貫したコンセプトは感じられません。当然男女の三角関係の話そのものも、女を取り合う男二人の間に特別な絆があるというものではまったく無く、鷲谷氏が自説の根拠にしていた剣戟のシーンも、単にヒロインの見せ場ではない(このシーン以前にいくらでもありますが)から舞台の端で待機させられているだけで、それに特別な意味は見出せません。ちなみに最後は唐突なヒロインの死と、彼女の亡骸を抱いて嘆いている主人公というお涙頂戴的な場面でおしまいで、ヒロインの存在が消されたまま終わる映画なんかでは全然ありません。というか、スタンダードにヘテロセクシュアルな映画だと思うのが普通でしょう。

『トロイ』の原典は言うまでもなく古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』で、この中で語られているアキレウスとパトロクロスの友情の物語は“男同士の愛”のイコンとしてあまりにも名高いですが、言うまでも無く「腐女子が作った話」ではありません。そもそも古今東西の別なく戦記物や英雄譚の中心人物が男性であり、そこで展開されるのが友情やライバル関係といった男同士の絆や愛憎劇であるのは必然であり、女性が登場するのは“女”役割を担う物語の彩りに限られるというのは単に“イデオロギー”と呼ぶことは出来ない必然的なものです。単に女性キャラクターを活躍させればいいという問題ではありません。むしろ「男同士の絆のエロティシズムなんぞ見たくもない」といったホモフォビックな──必然的に本質としてはミソジニーなのですが──人物には歓迎される傾向にあるように思えます。「ちゃんとヒロインが活躍してたから腐女子が喜ばなくていい」といったような。つまり、安易に女性の存在を強調することは、「男性の“女性性”や同性愛」の排除を“健全”なものとして正当化しうるわけです。

「真に重要な場面からは締め出されるアリバイとしての女」は「親密な絆で結ばれた男同士がホモだと思われないために」というホモフォビアによってこそ要請されるのであり、「女との関係よりも男同士の絆の方が価値がある。ただし同性愛は認めない」という不文律を本当に“イデオロギー”として信じる/信じる必要があるのは男性だけです。「親密な男同士の関係」のホモセクシュアリティを女性が楽しむこととは関係ありません。彼女がそれを愛好しているのは「男同士の関係が魅力的だから」であり、「女が排除されているから」嬉しいわけでは当然ありません。

また、男性の登場人物や彼の同性との関係の描写の方が、女性の登場人物や彼女を対象とした異性愛の描写よりも優れていたり魅力的だったりする作品を鑑賞した時に、作り手の側を「監督がホモなんじゃないか?」とは言わずに「女受けを狙っている」と言うのは、二重にホモフォビックでありミソジニー的ですね。「同性愛男性を差別したと思われるわけにはいかないが、同性愛的な表現は気持ち悪い(もしくは気に食わない)。だが女のせいにすればいくら叩いても問題ない」というわけですから

ただ、上に書いたのはあくまで『イーリアス』について当てはまる話であり、『トロイ』の場合、アキレウスとパトロクロスの関係についてはろくにスポットが当たらない軽い扱いしかされておらず、重きを置かれているのは原典には無いアキレウスとトロイの王女とのラブストーリーや、時代錯誤な趣すらある、健全なヘテロセクシャルな夫婦(トロイの王子ヘクトルと妻アンドロマケー)を中心としたトロイ王家の“家族愛”であり、まったく“男同士の愛”についての話ではありません。早い話が「健全かつ陳腐なヘテロセクシュアリティを描いたストーリー」と「規模は大きいが『ロード・オブ・ザ・リング』の二番煎じの感が拭えない合戦シーン」を見せるためのものでしかなく、鷲谷氏がこだわっていらっしゃった“女性の扱い”については「原典とは比べ物にならないくらい重きが置かれた“健全”な描写をされてるじゃないですか?」としかお答えのしようがありません。

また、単に「主役級である男の俳優が格好良くセクシーに演出されている」ことと「男同士の愛が描かれている」ことはまったく別の話で、つまり『トロイ』は前者には当てはまっても後者には当てはまるとは全く思えません。

『ヴァン・ヘルシング』も実のところ単にクリーチャーの造形や特撮CGを用いたクリーチャー同士の闘いがセールスポイントの娯楽映画であるという必然から製作されているという印象が強く、鷲谷氏が「腐女子目当て」で演出されているように言っていた要素も単に「その場での演出」に止まっており、ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やその草稿の一部である短編『ドラキュラの客』のような、テーマの表出として必然的に存在するホモエロティシズムではありません。

つまり、彼女は最初から「映画そのものが“女性向け”に演出されている」という自分の結論に都合のいいバイアスのかかった説明をしようとして、実際には単にヘテロセクシュアルな物語であるもの(『LOVERS』)や、男の監督自身はホモエロティックな演出を避けたがっていたが、原作にあるそういった要素が物語の構造と不可分であったために結果的に残ったもの(『ロード・オブ・ザ・リング』)
題材に選んだ時点でホモエロティックな雰囲気になるのは必然的でありながら、時代錯誤ですらある“健全なヘテロセクシャル”的な脚色がされたもの(『トロイ』)
伝統的に同性愛のメタファーとされるモチーフを生かした演出がされたシーンは当然ホモエロティックにも見えるに過ぎないもの(『ヴァン・ヘルシング』)
といった、まるでバラバラの内容である上に実はどれ一つとして彼女の主張したがっている結論の証拠にはなっていない映画を、あらかじめ決まりきった結論のために利用したわけで、これは証拠の捏造に等しいです。

鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(下)へ
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by kaoruSZ | 2010-11-11 00:45 | 批評 | Comments(0)
                              例ふれば恥の赤色雛の段    八木三日女    


 昔、国語の教科書に伊藤整の小説『若い詩人の肖像』の一部「海の見える町」が載っていて、感想文だか何かを書かされた。小樽の学校に進学した文学青年が自分の同類を見出す話、と当時の私は受け取ったようだ。私自身、高校に入って出会った同級生を、ついに自分に似た存在(本の話ができる相手、むろん女の子)を見出したと思って恋うていた幸福な時期だったこともあり、この感情はひどく親しいものに思われて、その線でまとめたらしい。なにしろあまりに時間が経っているので、どこからか出てきたとして(出てきてほしくないが)、記憶が現実とずれていることは大いにありうるが。

 それから十年あまり後に小樽へ行くことになり、ふと思い出して事前に『若い詩人の肖像』の文庫本をもとめた。教科書に載っていた部分はすぐ見つかったが、驚いたことに見覚えのない文章が肉に混じる脂身のようにあちこちに入り込んでいる。併せれば相当の量になろう。どこが教科書に採られ、どこが削除されていたのか、まだ若くて写真のような記憶力を持っていた頃だから、継ぎ目はくっきりと見分けられた。こんな孔だらけのものを読まされていたのか。

 削除されていたのはすべて、生徒間の男色にかかわる記述であった。それらを取りのぞいた上で、あたかもはじめからそうであったように整形されていたのである。

 このエピソードを思い出したのは、斎藤美奈子が《中学2年の国語教科書の定番教材》『走れメロス』について書いているのを読んだからだ。一篇の結びを斎藤は次のように紹介する。

ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げ、セリヌンティウスがメロスに言うのだ。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」。そして最後の一文。(勇者はひどく赤面した〉                        
「名作うしろ読み」読売新聞2010年6月4日付夕刊

 はて、「この可愛い娘さんは」ではじまる一文は、私の使った教科書にあったろうか。《ちなみにかつての教科書にはこの部分を(裸は教育上よろしくないという理由で?)カットして載せていたのもあったらしい》と、斎藤も言っている。しかし、「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい」と「勇者はひどく赤面した」には間違いなく覚えがあった。ひょっとして、《かつての教科書》には、「この可愛い娘さんは」云々だけをカットしたヴァージョンがあったのだろうか?

 さらに斎藤は言う。《それだと》――つまり、裸の出てくる部分を削除すると――《「万歳、王様万歳」という群衆の歓声で終わる『走れメロス』は友情の物語、メロスは王を改悛させた英雄になってしまう》。そして、《だけど、ほんとうにそうなのか》と問うて、次のように論じる。

 小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わるのがポイントだろう。赤い顔で激怒していた赤子のようなメロスが最後は赤い顔で恥じ入る。いいかえれば、単純素朴だった青年が恥ないし世間知に目覚める。そこから遡れば、この小説は感情のままに猪突猛進する者、あるいは「心もまっぱだか」な者の恥ずかしさを暗に描いているともとれるわけ。
 マントを手にした少女も「君は裸だ」と指摘した友も「メロス、オトナになろうよ」と促しているように見える。メロスが赤面したのは単に自分が裸だったからなのか、それとも自己陶酔に近い自分の行為に対してだったのか。いずれにしても最後、メロスはコドモからオトナに変わるのだ。


 なるほど、友情物語、信義の大切さ、真摯な行為が人の心を変えうること、などを読み取らせようとするドクサを、ここで、メタ・メッセージを引き出すことで斎藤がくつがえそうとしているのはわかる。《それを成長ととるか俗化と解釈するかは微妙だが、ひねくれ者の太宰だもん。ただの感動小説のわけないじゃない》というのが記事の結び。だけど、ほんとうにそうなのか。結果として友情や信実の称揚に代わって、「オトナになること」(《成長か俗化かは微妙にしても》)を掲げることになった斎藤は、十分に《ひねくれ者》でありえただろうか(むしろストレートなのではあるまいか)。

 そもそも斎藤の読みは、私に見覚えがないように思えたあの一文――「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」――への考慮なくして成立している(ただし、ここで抑圧されているのは、少女とメロスの異性愛の表出ではない)。セリヌンティウスが彼女の内面を推しはかっていうこの言葉には、一片のリアリティも感じられず、彼女はマントを腕に掛けてハンガーのように立っている木偶人形としか思えない。これは、少女にかこつけてセリヌンティウスが自らの心情を吐露したものでなくてなんであろう

 それにしても私の使った教科書には、本当にその部分がなかったのだろうか。いつもなら探している蔵書はけっして見つからない本棚をちょっと捜すと、何とも恐しいことに中三の国語教科書があっさり出てきてしまった。見ると巻末に『メロス』が載っている(二年の定番と斎藤は書いているが、これは三年)。はたして件の科白はちゃんとあった(どうやら、私の記憶が検閲されていたらしい)。

 そうであれば、やはりあの科白も、恥ずかしさに拍車をかけたに違いない。思えば『走れメロス』は恥ずかしい小説である。メロスが赤裸を恥ずかしがるだけでなく、中二か中三の男女とりまぜた教室で《まっぱだか》の男を全員がイメージせざるを得ない状況に置かれ、あまっさえ運の悪い一人はそのくだりを朗読しなければならなかったという記憶によってのみならず、メロスとセリヌンティウスが、一度だけ互いを疑ったという内面を告白しあって、一発ずつ殴り合い、「ありがとう、友よ」と「ふたり同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた」なんて、もう最高に恥ずかしい。おまけに、理不尽に人を殺していた暴君までが、あろうことか改心したいじめっ子のように「静かにふたりに近づき、顏を赤らめて」、わしも仲間に入れてくれ、なんて言い出すのだから。[表記は見出された教科書による]。

 斎藤の言うように《小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わる》のは重要である。だが、私たちの目には、それ以外の「赤」も映る――「激怒」が「赤面」になるまでのメロスの踏破するページにあざとくも撒布された、「灼熱の太陽」、「真紅の心臓」、木々を染め上げる「斜陽」の「赤い光」、鉄人レースに「呼吸もできず、二度三度」メロスの口から噴き出る「血」、「胸の張り裂ける思いで」メロスが見つめる「赤く大きい夕日」、「顏を赤らめ」る暴君、「緋のマント」――そうやって移りゆき、リレーされた末、ついに再びメロスの面に「赤」は宿るのだ。生まれ出たばかりのように赤裸でマントに包まれるメロスは、結局、「赤子」のままではないのか。

 だが、別にここでは『走れメロス』についてこれ以上何か言おうとするものではない。昨年9月7日付で「愚鈍な女」と題する記事を書いた。あそこで、「ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、[検閲を]しない」と、そして、「ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が現実にはずっと多い」と述べたことに関連させて、オルハン・パムクの『わたしの名は紅[あか]』を取り上げるのがそもそもの目論見であった。『若い詩人の肖像』から同性愛への言及を削ったのはホモフォビアであり、斎藤美奈子が神話破壊の読み手たらんとして結果的にもう一つの教訓的ストーリーを引き出してしまったのは「萌え」の抑圧の結果であろう。『わたしの名は紅』はといえば、検閲されたわけでもなく、誰の目にも明らかに、書かれ、名指されていながら、おおかたの批評から男同士の愛が黙殺されている好例だ。しかも、無視された事柄は後述するとおり一篇の主題と分かちがたいのだから、まさに「批評の質が著しく損われ」ている。

 最近、パムクの場合、具体的に検閲かと疑われさえする事実があることを知った。2ちゃんねるのスレッドで『わたしの名は紅』の日本語訳に欠落があることが指摘されているのを見つけたのだ。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1163674130/l50

 以下が、トルコ語からの英訳“my Name is Red”にあって(トルコ語原文にももちろんあるとのこと)、日本語訳にない部分。

I was told that scoundrels and rebels were gathering in coffeehouses and proselytizing until dawn; that destitute men of dubious character, opium-addicted madmen and followers of the outlawed Kalenderi dervish sect, claiming to be on Allah's path, would spend their nights in dervish houses dancing to music, piercing themselves with skewers and engaging in all manner of depravity, before brutally fucking each other and any boys they could find.

 英語版を見てみたところ、確かにそのとおりだった(“my Name is Red” 9ページ)。上に挙げたのはパラグラフの後半だが、これが抜けているので、邦訳27ページの終りから二番目に当たるパラグラフは、オリジナルの半分の長さしかない。むろん、不注意で落ちたということは十分ありうるし、今の日本でこうした表現を制限する理由はありそうにないが。

『わたしの名は紅』の訳文の欠点はあちこちで言われていて、確かにひどいところは本当にひどい。文法的に変なところ(そういう箇所が多すぎる)さえなければ、文章自体には魅力があると思うし、正確に訳せてもセンスが悪い人はどうしようもないから、逆に惜しいのだけれど。

 ちなみに、上に引用したくだりは十二年ぶりにイスタンブルに帰ってきた“カラ”がピクルス売りから聞く、異端のカレンデリ派のコーヒーハウスでの乱行(/交)ぶりだが、そのものずばりの表現もさることながら、ここは先へ行ってコーヒーハウスが暴徒に襲われる事件の最初の伏線になっているし、これを読んでいれば50章で語り手になる二人組がどういう連中か、彼らがカレンデリ派だというだけでもう私たちにもわかっていたはずなので、この脱落による影響は一見そう思われるより大きい。(つづく)
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by kaoruSZ | 2010-06-21 01:18 | 文学 | Comments(0)

愚鈍な女

特にGoogle+ からいらした方へ。

佐藤亜紀氏が私への中傷を重ねている件についてはhttps://twitter.com/#!/kaoruSZの5月24日以降のポストをぜひご覧下さい。遡るにはtwilogが便利でしょう。http://twilog.org/kaoruSZ

佐藤亜紀氏の読者のような良い趣味をお持ちの方なら、私の記事は当然お気に召すことでしょう。どうぞごゆっくりお過しください。

++++++++++++++++++++++++++++++

  吉本 その作品の特徴が自分の心の特徴と関係があるというところはみないわけですか。
  萩尾 それはみますけど。(笑)

 

 八十一年に『ユリイカ』の「少女マンガ」特集で、萩尾望都と吉本隆明が対談をしている。最近になって読み返すまで、萩尾が、電話をかけてきた自分の読者だという高校生の少年に「あなた変態ですか」と言ったという箇所しか覚えていなかった。吉本が「萩尾さんがそう言ったのですか」と驚いたのだと思っていたが、そう応じたのは編集者で、吉本は驚いていなかった。彼は終始、落ち着き払って、行き届いた理解者ぶりを萩尾の仕事に示していた。
「これだけのことをやるのはなかなか難しいなというふうに、ぼくは思うんです。つまりことばの世界だけに終始しているそういうとこからいうと、とても素晴らしいです」(84ページ)

 手塚治虫の『新選組』を読んで、「そのときはじめて、ああ、マンガって自分の考えをかけるんだわって思ったみたいなんです」(87)と語る萩尾に、「マンガっていうよりも、自己表現でいいんだっていう、そういうところから出発したといってよろしいのですね」(87)と吉本は言う。[以下、強調は引用者]

 これは、マンガ=コミカルなもの(「喜劇的なもの」)という認識がそれ以前にはあったということらしく、そうではない、「自己表現の手段として使える(萩尾、88)という認識から出発したのかと、吉本が萩尾に確かめたのだ。対談のタイトルからして、「自己表現としての少女マンガ」となっている。

「ぼくなんかみると『雪の子』というのが、小説でいう内面描写というのがよくできてて、これがきっとなにかのきっかけになったんじゃないかなと、そういうふうに読めるんです」(89)

「それとともに、ぼくなんかが大へんあなたの作品で関心をもつところのひとつなんですけど、だんだん、そこらへんでエロス的な世界に入っていったんじゃないのかなという、そこがものすごく関心をもつところですよ。つまり萩尾さんの世界で、ぼくなんかがそういう点でいちばん自己表現として興味深いといったほうがいいと思うんですけど、少年と少年との同性愛みたいな世界が出てくるでしょう。それがとても面白いんですよ」(89)

「それはたぶん萩尾さんのなかに,本来的にいえば少女と少女の同性愛だという世界の、それのひとつの転写になってるんじゃないか」(89-90)

(嫌いなものを描くのを避けるので)「結局わたしにとってマンガというのは現実逃避だった、ということになっちゃうんですね」(91)と言う萩尾に――「ぼくらがみてると、マンガというか劇画のなかで、あんまり逃避しないで、相当思い切った内面性を発揮しているとみえます」(91)

「萩尾さんのいまの作品でも、『ポーの一族』でもそうですが、少年と少女の世界みたいなもの、あるいは『トーマの心臓』でもそうですけども、そういう世界の一種のエロチックな、あるいはエロス的な錯綜した関係みたいなものを描き出そうとするとき、どう考えても、これは全部女性だな、登場人物が全部男性になってるけど、全部女性だなっていうふうにみれると思うんです」(91)

「萩尾さんの作品のなかでいえば、ある時期の透明さというものは、エロス的な関係のなかに出てくる透明さじゃないような気がするんです。ですから、ああいう関係のなかで出てくるきかたっていうのは、本当は少年には本来的にはそんなにないと思います。だから、ぼくはむしろ、少女と少女の世界と、そういうふうに読んでるわけです」(91-92)

 なぜそう読めるかといえば、吉本にはそれと少年の世界との差異が「興味深くて、そこのところで、もしなにか心にかかるものがあるとすれば、淀むみたいなものがあるとすれば、それは萩尾さんの内的な世界の表現なんだろうなと、そういうふうに思いながらみるわけですね」(92)

 結局、吉本は、それに、「少年のほうは露骨にもってる、いい年になるまでもってる」(しかし少女にとっては失われたものである)母親への愛着だと名前を与える。少女の場合、それを「強烈に隠しちゃうんじゃないか」(「少年の場合、母親に対する愛着というのを露骨に、一度も隠さないと思うんです」)、「その隠しちゃうものが、そういうある時期の世界に出てきちゃうという、ぼくはそう思うんです」。「萩尾さんの内面的な世界と関係があるのは、そこなんじゃないかとおもったりします」(92)

 昔、十八歳でデビューした女の作家について、子宮感覚云々という言葉で取り沙汰されたことがあったが……吉本が上品な吉行淳之介に見えてきた。萩尾と中沢けいでは格が違うが。

 吉本の拠って立つところは全くと言っていいほど萩尾の関知するものではない。男が少女マンガ(萩尾の作品)を読むようになったことは、「わりあいに本懐なんじゃないでしょうか。欣快というか、ちがいましょうか」と同意を求める吉本に、「いや、男の人でもやっぱり読みたい人がいるんだろうなぐらいにしか思わない」(114)と萩尾は答える。「あなた変態ですか」のエピソードがそれに続くのだが、「それ変態だと思いますか」と良識ある吉本は問いかえす。「この作品のこういうところを読んでくれるなら、誰が読んだってちゃんと理解してくれるはずだとか通ずるはずだとかっていうことはあるんじゃないででょうか」(115)

 しかし萩尾は、あくまで、対象は女の子だと主張する。

「けっきょく同世代の女の子むけという感じがして、いちばん最初はかいてるから」/「少女マンガですもの、女の子ですよ」/「だからあくまで対象は女の子なわけです」(115)
 それはそうだろう、現に目の前の吉本には通じていない。描かれているのが少年であることを否定し(男性同性愛の表象であることを忌避し)、少女と少女に、さらに萩尾の内面にそれを還元しようとする。〈少女マンガ〉という事件を「ぼくら」の言葉に置き換えようとし、編集者も、「それが表現してたものというのは、決して萩尾さんが思ってたような読者対象ではなかったような気がする」(116)と(好意から)口添えする。萩尾の答えはこうだ。「あれをかいたのは二十二だから、二十二ぐらいまでは読めたりして」

 男の批評家にほめられるのを名誉だ、出世だと思っている女なら、嬉しさに頬がゆるむだろう。あなたのかくものは、女の子相手のものと自他ともに思っていたかもしれないけれど、本当は「ぼくら」が感心して読むほどすごいものだったんですよ。吉本さんだってほめているんですよ。吉本さん、すごい方なんですよ。そんなふうに持ち上げられたら、有頂天になるだろう(なってる奴が現にいる)。まあ、そういう下心あって描いたものは、所詮その程度のものであるが。

 それは何かの「転写」ではなかった。物語の、心情の、思想の、時代の、内面の転写ではなかった。ただ思いがけないものが思いがけなく集まって出来た、根拠を持たない、自己表現などというものからはあたう限り遠い何ものかであった。ドゥルーズにならって凡庸の反対を愚鈍と呼んだ人がいる(愚鈍と言われているのはフランス語のBetiseで、Beteとは獣のこと――「美女と野獣」の野獣だ)が、今回つくづく感嘆したのは、吉本に馴致されない萩尾のけものっぷりだった。

 女の小説家がブログで、低級な萌え女と一緒にされたくない(大意)と書いているのを見た。評論家が「まともに小説を読解して解釈して論じるだけの蓄積もスキルもなしに差別意識剥き出しの豚野郎であることを露出して恥じないご時世」という書き出しに、ふむふむと頷きながら読んでいたら、突然、「萌え」への攻撃になった。ポリティカリー・コレクトリーに男性ゲイに気をつかい、「まだ二十歳前でご多分に漏れずホモ萌えだった頃(その後、世の中もっと幾らでも面白いことがあるのに気が付いて熱が冷めて来た」――(マア、“I was gay”?)――その「熱が冷めて来た」頃に読んだ、KV相手の対談でのKMのふるまいが決定的だったと言い、当事者を前にしての、男性用エロゲー(「凌辱ゲーム」と呼んでいる)擁護なみだと、男女の非対称を無視して主張していた。腐女子の自意識もアイデンティティーも持たないからこそ、あえて「あたしは腐女子だと言われてもいいのよ」なるタイトルを冠した原稿の後半をウェブ・マガジンに送ったばかりだった、そして小説家の長年のファンである私を、それは複雑な気持ちにさせた。電話してきた友人にこの話をした。作品を萌えだけに還元すると言って、萌え女を非難している、と説明した。

 ――萌えだけに還元するなんてありえない、と、友人はいつもながらの明快さで言った。それ以外の部分が あるから、萌えもあるんじゃない。萌えは、解釈をねじまげたり、そこしか読まなかったりなんてしない。それより、ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が、現実にはずっと多いというか、その方がフツーに問題じゃない?
 ――そうか、はっきり書いてあるのに、読まなかったことにされるものね。
 ――ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、しない。
 ――うーん、それ、ブログに書かせて。
 ――彼女の小説だって、ホモフォビックな読み手には本当は理解できないよ。
 ――当然のことながら、そういうものって、ゲイの男だから理解できるってものでもないよね。
 ――もちろん。美意識の問題だもの。耽美的な男性同性愛表象の男の書き手って絶えてるじゃない。それで、過去のものなら擁護するわけでしょ、『男色の景色』のインタヴュアーみたいに、文化として存在したものだから認めなければならないって☆。現在の、それも女の子の書くものなら攻撃していいと思ってるのよ。所詮女は女だから、芸術的達成には至らないと、最初から見くびられてるのよ。
 ――でも、あれだけ突出してレヴェルの高いものを書く人が、“女の子”と一緒にされることなんか気にする必要はないと思うんだけど、と私は言った。
 ――だからこそ、なんじゃない? ついでに言えば、それ、男からそう見られたくないってことでしょ。
 ――あー、女であるために、あれだけの人でさえ、自分はバカな男並みに認められてないって感じてるってことか。
 ――でも、と友人は言った。佐藤亜紀、そこで、「自分は“女の子”のために書いている」と言ったら男前だったのにね。

☆web評論誌「コーラ」の拙論http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-7.htmlで言及した。
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by kaoruSZ | 2009-09-07 23:28 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)
 拙稿「〈あたしは腐女子[クィア]」だと思われてもいいのよ〉――男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)」の載った、web評論誌「コーラ」http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html最新号が間もなく出ます。

 そこでもちょっと触れていますが、石田美紀著『密やかな教育 〈やおい・ボーイズラブ〉前史』(洛北出版)について批評するはずだったのがまた延びて、次回の宿題となっています。同書は、竹宮恵子らによる新しい少女マンガが七十年代に登場した背景、中島梓/栗本薫の活動、雑誌JUNEの果たした役割等を、関係者の証言を同時代の社会的、文化的状況にからめて記述しようとした試みですが、残念ながら「社会的、文化的状況」に関して、基本的な事実誤認が多過ぎます。そこを押えておかないことには、全体についての批判もできませんので、次の「コーラ」(本年12月発行)が出るまでに、同書の関連トピックをシリーズとして取り上げることにしました。話があちこち飛ぶかもしれませんが、おつき合いいただければ幸いです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 セクシュアリティと生殖機能を分離してみたらどうなるか。いったい何になるのだろう。こういった考えは六〇年代にすでに盛んになっていたことで、この分野の開発に関する僕のオリジナリティを主張することはできないんだ。以前にノーマン・ブラウンの『ライフ・アゲインスト・デス』という本を読んだことがある。その中で彼は、幼児性欲があらゆる倒錯的傾向を発現しやすいというフロイト理論について語っている。生殖とは関係のない、性器に集中しない分散したセクシュアリティのことなんだ。体中に遍在した、抑圧されていないセクシュアリティだ。

 こう語っているのは、カナダの映画監督デイヴィッド・クローネンバーグです(クリス・ロドリー編/菊池淳子訳『クローネンバーグ オン クローネンバーグ』フィルムアート社、1992年)。ここで『ライフ・アゲインスト・デス』と表記されているのは、周知のとおり、日本でも1970年に『エロスとタナトス』という題で翻訳の出た本で、訳者の秋山さと子は、あとがきで次のように書いています。「訳者は精神分析学の中でもユング派に属する考えを持つものであるが、それにもかかわらず本書を日本に紹介する決意をした理由は、一つには現在世界各国で常識となっているフロイト及び精神分析学的な思潮が日本ではまだあまり知られることなく、特にフロイトに関しては、かなりの誤解がなされていることを悲しむとともに、臨床の分野においてのみならず、より広く一つの思潮としてのフロイトの紹介を試みたいと考えていたことがあり(…)ユング心理学に関しても、もう一度フロイトにまで戻って考えなおす必要性を痛感していたことにもよる」。
 フロイトについて「かなりの誤解がなされている」のは今もたいして変わらないかもしれませんが、フロイトに戻ると言っても、この頃は、ラカンなどまだ影も形もなかったのです。

“Life against Death”は1959年の出版で、著者のノーマン・ブラウンは古典学者、『エロスとタナトス』というタイトルはフランス語版の訳題です。秋山さと子によれば、これは「訳者がヨーロッパに滞在中[鈴木注、64-68年]は主としてこの題名の下に話題になっていたことから」採用されたもので、「アメリカにおけるベスト・セラーの一つとして、各国語に翻訳され、ヨーロッパでも知識人の間に大きな波紋を巻き起こした」とのことです。なるほど、クローネンバーグが読んでいても不思議はありません。

 この本を日本においていちはやく紹介したのが、われらが澁澤龍彦です(もちろんフランス語で読んだのでしょう)。と言っても、澁澤のことですから、「以下の所論は、このブラウン氏の見解と私の空想をごちゃまぜにして、自由に展開した勝手気ままなエッセイであり、もとより心理学でもなければ哲学でもなく、まあ、私自身の信仰告白を裏づけるための、一種の文学的覚えがきであると御承知おき願いたい」とことわっています。「ホモ・エロティクス ナルシシズムと死について」と題されたエッセイが雑誌「展望」に載ったのは1966年、私は後年『澁澤龍彦集成』で読みましたが、単行本『ホモ・エロティクス』も一度書店で見かけたことがあります。函から途中まで引き出して、「ワイン色の別珍」(と『澁澤龍彦全集』には外観が記されています)の表紙の感触をしばらく楽しんだあと、もとどおり函に収めて棚に戻しました(高かったのです)。
 余談ですが、前回の「コーラ」拙稿で澁澤の本について言及し、「黒ビロードの装幀」と書いたとき、念頭にあったのはあの表紙でした。『全集』の記述を見る前で、黒でないのは承知していたのですが、何となくそう書いてしまいました。澁澤のエッセイに夢中だったくせに、『エロスとタナトス』(もちろん日本語です)を手に入れて読んだときには、この元ネタがあればもう澁澤はいらないと思ったものです。まだ二十歳そこそこで生意気だったのでしょう。

 閑話休題。長々と『エロスとタナトス』について説明してきたのは、澁澤が責任編集者だった雑誌『血と薔薇』(68-69)について、『密やかな教育』においては、「『血と薔薇』がヨーロッパ起源の官能に傾倒したのは、第二次大戦後、政治・経済・社会・文化のあらゆる領域において日本に絶大な影響を及ぼすアメリカに抵抗するためであったからである」(124)という珍説が展開されていたからです。その証拠として著者が挙げるのは、『血と薔薇』復刻版のリーフレットに載った種村季弘の言葉です。

  アメリカ的なセックスの解放というと、どこか青年期の成長幻想のようなものが匂いますね。アメリカはもともと万年ユースフェティッシュ(青春崇拝)の国だから。「血と薔薇」のほうはしかし成長を拒否したとはいわぬまでも、それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子供の多形倒錯(フロイト)の世界を夢見ていたのだと思います。

 これを引いて著者は、「種村がいう、『血と薔薇』が求めたアメリカ的なセックスの解放に対するオルタナティヴとは、すでにみてきたとおり、ヨーロッパの官能であったといえるだろう」と述べています。「すでにみてきたとおり」に相当する部分はたいして長くないのですが、そこで著者は、「同誌に集った男性知識人・芸術家が異議申し立ての一環として実践する「エロティシズム」の源は、日本でも、アメリカでも、アジアでもなく、ヨーロッパであった」(122)として、『血と薔薇』「創刊号のラインナップ」が、ポール・デルヴォー、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、澁澤の「苦痛と快楽 拷問について」、種村季弘の「吸血鬼幻想」、塚本邦雄の「悦楽園園丁辞典」等であったことを挙げ、「いずれも、エロスとタナトス、そしてグロテスクが混交するヨーロッパ起源の、あるいはヨーロッパにまつわる作品群である」としています。

 なぜ、「日本でも、アメリカでも、アジアでもなく、ヨーロッパであった」であって、「アフリカでも、モルジブでも、オセアニアでも、アラスカでも、マダガスカルでも、ボツワナでも、コートジヴォワールでも、モーリタニアでも、セネガルでも、ラップランドでもなく、ヨーロッパであった」でないのか、とまぜっかえすのはやめておきましょう。エドワード・サイデンスティッカーは、フランスかぶれの日本人による、日本的なものを「源」としない軽薄な実践が気にさわったようで、カタカナ語だらけで「フランス的なものが多すぎる」と『血と薔薇』を批判し、返礼として澁澤に、そのカタカナ名前を「災翁」呼ばわりされた愉快な文章を書かれています(「土着の「薔薇」を探る」)。その彼でさえ、そうやってアメリカに抵抗しているなどという解釈を聞かされたら、笑い転げたことでしょう。

「創刊号のラインナップ」に関して言うなら、カタカナ名前はともかく、この掲載に端を発して本となった種村の『吸血鬼幻想』を見れば、フィルモグラフィーにはアメリカ製吸血鬼映画(メキシコ製も目立ちます)が並んでいますし、日本の古典にも通暁する塚本は、ヨーロッパのみならず古今東西の文学を自在に逍遥しているはずです。澁澤のエッセイにしても、拷問と性愛の形式的類似を述べた内容ですから、特にヨーロッパ起源というわけでもなく、むしろ、日本の少女マンガ家らが、少年マンガの拷問シーンの思い出――ありていに言えば萌えの記憶――について語っていたことを思い出させます。ああいうのはどこかに記録されているのでしょうか。そのあたりを文章に起こし、澁澤のエッセイなど参考にしつつ本書で論じてくれていれば、さぞかし興味深い資料になったろうにと惜しまれます。「エロティシズム」が日本起源でないことだけは確かですが、アメリカ対「官能のヨーロッパ」という対立も存在しません。前もって作っておいた枠組みで彼らの仕事を裁断しないかぎりは。

 そして、種村の、「成長を拒否したとはいわぬまでも、それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子供の多形倒錯(フロイト)の世界 」 という言葉が指すものも、 アメリカと対立する「官能のヨーロッパ」などではなく、具体的にブラウンの『エロスとタナトス』であり、それにもとづく「ホモ・エロティクス」に代表される澁澤の思想です。種村自身、吸血鬼について書きながら、同じようなこと(生殖から切り離された性とエロティシズムの探求)をやっていたのであり、親しい仲間として、そのあたり、非常によくわかっていたはずです。「アメリカ的なセックスの解放」を種村が引き合いに出したのは、不案内な人にもイメージしやすくするための配慮でしょう。それを著者は、「アメリカがヨーロッパに対立させられている」と思ってしまったのですね。

 けれども、ここで「アメリカ的なセックスの解放」に対立するのは、最初に引用したクローネンバーグの言葉にもあるような、生殖を目的として組織された性器中心主義的セクシュアリティのオルタナティヴとして想定されたもののことです。それを「アメリカ的」と呼ぶのは、たしかにアメリカをバカにするものかもしれませんが、これは都会人が地方出身者を「田舎者」と呼ぶようなもの、アメリカへの「抵抗」というのは全くの的外れです。なお、ノーマン・O・ブラウンはメキシコ生まれのアメリカ人です。
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by kaoruSZ | 2009-08-15 15:23 | 密やかな教育 | Comments(4)
 Web評論誌『コーラ』5号アップされました。拙稿「“それはヴァギナではない”」が載っています。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-5.html

『コーラ』の連載、「新・映画館の日々」というタイトルなのにやおいのことばかり書いていますが、次回は本題に戻って、若尾文子を中心に女性表象について書くことになるかも。

 下に引いた鷲谷花さんの論文、「テアトル・オブリーク」から消えたんですねえ……。うーむ。「複製技術時代の…」はログとってありますが。
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by kaoruSZ | 2008-08-18 22:15 | 日々 | Comments(3)
(……)『ヴァン・ヘルシング』は幾通りかの二次創作のソースとなることを前提に製作されたフィルムであると仮定してみます。ひとつはアドベンチャー/アクションゲームとしての商業的な二次創作。もうひとつは同人誌やwebテキストや頭の中だけの想像といったかたちで観客が作り出すプライベートな二次創作、とりわけ、日本語では「やおい」や「ボーイズラブ」、英語では"slash"と呼ばれるような、主に女性による、女性のためのセクシュアル・ファンタジーです。女性の観客が、(基本的には)ホモソーシャルでヘテロセクシュアルな規範に沿った「オリジナル」の創作物から、ふたりの男性の登場人物の組み合わせを抜き出して(カップリング/pairing)、プラトニックなものからハードな性行為をともなうものまで、両者のあいだのさまざまな形態のホモエロティックな関係を想像し、それを小説やマンガ、イラストレーションなどの二次創作に加工してセクシュアルな享楽を得る、という消費文化にはすでに30年以上の長い歴史がありますが、かつて(表層的には)マイナーな位置にとどまっていたこうした文化は、おそらくはインターネットの普及をきっかけに、現在はかなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつあるのではないでしょうか。(鷲谷花「複製技術時代のホモエロティシズム) 

 本稿を書いた当時気づいていなかった、鷲谷のこの文章の、事実の歪曲と反動性については次に記した。
http://kaorusz.exblog.jp/14384401
http://kaorusz.exblog.jp/14384463/


 某所でやおいについてちょっとだけ「話題提供」する予定があるのだけれど、鷲谷花さんのこの論文、参加者にあらかじめ読んでおいてもらう参考資料に指定しておこうか……。

 クライマックスでは(…)ふたりの美男が、吹き荒れる吹雪の中で、長い黒髪を振り乱し、顔には幾つも血の筋をひきつつ延々と切り結ぶという、まことに「お耽美」な剣戟場面が延々と繰りひろげられます。一方、ふたりの男が共に狂おしい思いを寄せる「傾城傾国の美女」のはずのチャン・ツーイーは、胸にナイフが刺さって気絶しているうちに雪の下に埋まって姿が見えなくなってしまっているという、いやしくも恋愛映画のクライマックスにおいて、かくもいい加減な扱いをうけた「ファム・ファタール」がいただろうかという有様で放置されています。(鷲谷、前出)

 これはチャン・イーモウの『LOVERS』について。だが、そういう扱いを受けた「ファム・ファタール」なら、確かに他にも見た覚えがある。CGなどの最新の「複製技術」から突然サイレントに遡ってよければ、『肉体と悪魔』のグレタ・ガルボなど、自分に「狂おしい思いを寄せ」ているはずの二人の男の決闘を止めに急ぐ途中、足元の氷が割れて水中に落ち込んでしまう。一方、少年の日に永遠の絆を誓いあった男たちの胸には、現在を押しのけて甦るかつての友情の日々の映像が次々と繰りひろげられ(映画だからそれは当然私たちの目にもそのまま見えて)、それが彼らの周囲をぐるぐる周ってもう完全に二人の世界。ついに彼らは武器を投げ捨てひしと抱き合う。一方、ガルボはあわれ氷の下に消えてしまう……。

 鷲谷さんの論考は次のように結ばれている。

 しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。

 私も以前、《ここに出てくるのは男ばかりだけど、男が本当にカッコよくて価値があって男同士の関係こそが最高だなんて、夢にも思ってくれるなよ》とか、 《私自身はネタとわかって書いているわけだけど。「男への愛」からやおい書いてるわけじゃないんだけど。 でも、ベタで教育装置としても機能しうるわけで……。時々心配になる。ミソジニーに加担してしまっているんじゃないかってことに。》とか書いたっけ。

 鷲谷さんが上記の論文で「やおいリビドーを誘発するような男二人の結びつき」と呼んでいるものは、ホモソーシャルをホモエロティックに変換した結果見えてくるわけではなく、最初からあるものなのに、ホモフォビアに曇らされたストレートの男の目には映らなくて、最近では、それが可視的になったときは「女のせいにする」。つまり腐女子の妄想に。あまっさえ、それによってゲイ男性の存在を抹消しているとさえ中傷される。

 しかし、「岩波講座 文学」に収められた「ゲイ文学」と題する論考(以前、「やおいはヘテロ女の玩具じゃねえ!」というエントリで触れたことがある)で大橋洋一さんが述べているように、この「最初からある」ものこそ、「父権性」であり「ホモソーシャル連続体」であり「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」なのだ。「ホモソーシャル連続体」の偏在性ゆえに、「ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的いとなみではなく、中心的なそれかもしれない」。そう言って大橋さんが「読み直す」のは「ストレートフィクション」としてパッシングしてきたテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』だ(註)。ヒロインの誇り高いブランチが、最後には妹の夫である野卑で暴力的なスタンレーにレイプされ精神に異常をきたすという筋書について、

貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲をあばきレイプする卑劣な暴行魔のファンタジーと、汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性の、またそれに加えてヘテロと言う名のゲイ社会に生きる隠れゲイのファンタジーが交錯するのだ

と大橋さんは述べる。

 よく見ればわかるように、ここには女性に由来するファンタジーはひとつもない。「貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲」というのはそれ自体が男(“卑劣な暴行魔”)の空想であり、現実の女性がそういうものを具えているという裏づけはない。「汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい」と願っているのは、女ではなく、「ゲイ男性」だ。そしてその基盤にあるのは「ホモソーシャル連続体」すなわち「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」であるのだから、ブランチという女が主人公と見えた異性愛ドラマから、実は女はあらかじめ排除されていたのだ。つまり、ブランチと名づけられたこの女性表象は、ゲイの男性作家によって、召喚され、利用され、抹消された。

〈女〉はこれにどのように対抗/応できるか? 三つの可能性を考えてみる。
(1)フェミ的
これをゲイの男性作家による女性表象の横奪であり、女の植民地化であり、女にステレオタイプを押しつけるものであり、女性差別的であると告発すること。いうまでもないがそこに快楽はない。

(2)女性的
《「貴族的で高慢な女性」が自分の「獣欲」をあばき出されるというファンタジー》をマゾヒスティックに楽しむこと。

(3)やおい的
《汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性のファンタジー》を流用して楽しむこと。

 やおいは女性性の忌避ではない。(3)は(2)とは別様に(あるいはそれ以上に)「女性性」を享楽することを可能にする形式だ。

(…)この理論によれば、すべての文学がゲイ文学でもある。ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的ないとなみではなく、中心的なそれかもしれない。(大橋、前出)

(必要な変更を加えれば)やおいについても同様のことが言えよう。


註 タイトルは、昔読んだテネシー・ウィリアムズの自伝で、『欲望という名の電車』をルキノ・ヴィスコンティ演出で上演した際の作家と演出家が一緒に写っているスナップにウィリアムズ自身がつけていたキャプション。
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by kaoruSZ | 2008-06-06 11:41 | やおい論を求めて | Comments(0)