おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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(承前)http://kaorusz.exblog.jp/19707251/
「空家の冒険」でのホームズとの再会の場面だって怪しいことばかりだ。周知の通り、目の前にホームズがいるのを見たワトスンは気を失ってしまい、本人はそれが最初で最後の経験だと言っている。だが、ワトスンにとってはそうでも、ホームズ物語の中には真っ当な紳士や淑女として通っている人物が、死んだと思っていた過去からの訪問者を目のあたりにして死ぬほど驚くという話がいくらでもあるではないか。「グロリア・スコット号」のトリヴァ老人など、ホームズにある人物と「たいへん親密な関係がおありでしたが、その後はその人のことを忘れてしまいたいと努めていらつしやいます」と言われただけで失神している。
 それまで他人事[ひとごと]として反復されてきたことが今度は他ならぬワトスンの身に起り、そして実はこちらの方が本質的なのだ。トリックの目新しさが命であるかのように書き継がれたホームズものの真の主題は『モロー博士の島』の場合と同様、二人の男の関係(その可能性の探求)であるのだから。

 周知の通り『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』に“二人の男”はおらず、“独りの男”がいただけであった。ジキルの友人だったはずの孤立した独身者たちはスキャンダルに対してどこまでも無力であり、ある者はジキルに先んじて自滅し、ある者はジキルの跡を継ぐよう定められた。ハイドの悪の正体は作者の友人たちにとって公然の秘密であり、その運命は身につまされるものであっても、表立っての抵抗など考えられないものであった。『ドリアン・グレイの肖像』の場合も主題が同性愛であることは明白で、作者の悪徳も知られていたが、ドリアンは男たちを破滅させはしてもポーに倣った結末に明らかなように、彼には分身しかおらず“二人”ではなかった。ヘンリー卿も実のところ彼の理解者からは遠かったのである。そして『ジキル博士とハイド氏』でハイドがそこから通りに出てくるドアのある家が登場人物によって「ゆすりの家」と呼ばれるほど、同性愛をゆすりと切っても切れないものにした法律が、やがて現実の作家を破滅に追いやることになる。彼とボジーの関係などは藝術の見劣りのする影に過ぎまい。

 ドイルがものを書きはじめた頃、彼は当然そのような分身譚、幻想小説、そして同性愛が置かれた状況を意識していたはずだ。ホームズを彼はいつから“そのような人”として考えるようになったのか? 最初からである。そうでなければ、あのように明らかな伏線を随所に張りめぐらしはしなかっただろう。

 あるいはそれは無意識のうちにだったかもしれない。ワトスンがホームズを徐々に知っていったように、ドイル自身によってもそれは書きながら、書いたもののうちに、書こうとするものの中に次第に形作られ、彼自身によっても発見されていったのかもしれない。いずれにせよ彼は前人未踏の領域に到ったのであり、いかなる作家にも似ていない達成を成し遂げることになった。それは単純なバディもの(ホモフォビックな解説者が今日なおこれは同性愛ではないと口を挟み続けるような)でもなければ、たとえばヘッセの『デミアン』のような、分身としての友人が主人公の成長とともに消え去る思春期のイニシエーションとも勿論違う。そうした未熟な若者の話なら、無論世間には受け入れられやすかったはずだ。

A charming week and a lovely trip
 ドイルがホームズを殺そうとして「最後の事件」を書いたとか、読者の非難や要求のために「空家の冒険」で再びホームズを登場させたとかという話は、たんに世間に流通し好んで語られるという以上の意味を持たないだろう。「最後の事件」は恐しく奇妙な話なので、ストランド・マガジンで当時これを読んだ人たちが小説家を非難して、再開しろと哀願や脅迫をしたと言われても俄かには信じ難いくらいだ。こんな出鱈目な話を読ませるなと言ったのならまだわかるが。なぜなら、「最後の事件」は、すでに述べたように本当にあったことを隠すためのスクリーンとして再構成された夢であり、実は「空家の冒険」もそうであるからだ。

 前者は先述した「閉ざされた夢想の部屋」からワトスンが結婚によって出て行ったあと、残されたホームズが深夜別れを告げに来て、そのまま二人で大陸へ向かった道行の顛末、すなわちホームズは行方不明になりワトスン一人が帰ってきたという話を、そして後者はつつがなく「大人」になって一家を構えていたワトスンの前に三年前死んだはずのホームズが現われて、元のベイカー街の部屋へ引きずり込み、再び、いや今度は本当の、「秘密の共有者」になるまでが書かれているのであり、モリアーティには(モランにも)何の関係もない。

 こうしたことを何も考えなかったとしても、たかがモリアーティが逮捕されるまで英国を離れているというだけの理由で、どうして「財産はロンドンを発つ前にすつかり始末して兄のマイクロフトにわたしてきた」などということになるのか、リアルタイムの読者は不思議に思わなかったのだろうか。

「最後の事件」における、実在の“モリアーティ”(無論作品内世界で)に関する記述とワトスンの書いたフィクションとの繫ぎ目は「『最後の事件』ノート」http://kaorusz.exblog.jp/19549811/でtatarskiyさんが綺麗に腑分けしてみせている通りで、モリアーティの影を一掃してみれば実際に何が起ったかは見やすくなるが、それも彼女がもう書いている。

 それにしても危険が迫っていると言ってホームズが自分を帰そうとするのをワトスンが拒んだあと、「一週間、私たちはローヌ河の渓谷を歩きまわつて喜んだ」とか「足下はもう春の美しい緑、頭上はまだ冬の処女雪――それは楽しい旅路だつた」というお花畑状態、何も知らずに読んでもどこか変だと誰も思わなかったのだろうか。「喜んだ」とか「楽しい旅路」とか英語では何なのだろうと思い今回はじめて原文を読んでみたが、 “For a charming week we wandered up the Valley of the Rhone, ” “It was a lovely trip, the dainty green of the spring below, the virgin white of the winter above;”と、もう完全に道行き文だった。「草も木も 空もなごりと見上ぐれば 雲心なき水の音 北斗は冴えて影映る」(近松門左衛門)

 いよいよライヘンバッハの滝へ行くと周知の通り「土地の若ものが」「肺病の末期にあるイギリス婦人」が喀血して同国人の医師の診察を求めていると宿の亭主からの「手紙をもってとんでくる」。言うまでもなく偽手紙だが、モリアーティは最初からいないのだから、この場面全体が実は作り事である。
と言ってもそこに意味が込められているのは勿論だ。まず使いの若者だが、「スイス人の若ものはついに発見されなかつた。その筈であろう、彼はモリアティの多くの配下の一人だつだのだもの」とあり、これは「(存在しない)モリアティの配下なのだから発見されるわけがない」と読みかえられるべきものだし、ワトスンが患者を診に行くあいだ「使いにきた若ものを、案内者兼帯の話し相手としてのこしておくことに話がきまつた」と書いてあるのに、ホームズの手記の中にモリアーティが現われた時彼がどうしたかが書かれていないのが不自然である。むしろ若者はワトスンを先導して宿に戻ったと(気がつくと姿が見えなかったとでも)した方が自然で、これはドイルが話はこびの不自然さを気づかせようとわざとこのようにしておいたのだと思われる。それでも、「モリアティの配下だから」見つからなかったと言われただけで、大多数の読者は納得してしまうのだろう。

 次に肺病のイギリス婦人、この人も存在しない訳だけれど、「空家の冒険」でホームズが帰ってくるまでにメアリが死んでおり(実際は彼女が死んだから彼が帰ってきた訳だが)、その死因が結核だと[作品外で]言われていたり、ドイルが最初の妻を結核で亡くしたことまでも知ってしまうと、この幻のイギリス婦人はメアリの幻としか思えなくなる。
 滝の前でホームズと別れて宿のイギリス婦人のところへ向かったワトスンとは、実はホームズと滝に飛び込んで死ぬのを思いとどまって踵を返し、メアリの下へ帰って行ったワトスンなのだ。しかし結局メアリは失われてしまう――幻のイギリス婦人のエピソードとは、ワトスンのそういう幻想が、あのような形で定着されたものだろう。

 ワトスンはホームズ失踪から二年目に「最後の事件」を書いており、ホームズの帰還は翌年だとすると、執筆時にメアリはすでに作り話の中の「イギリス婦人」のように病篤かったと考えられる。しかも帰ってきたもののワトスンは脱け殻状態で、何があったかメアリに悟らせてしまったろうし、要するにホームズと自分で結果的に彼女の死期を早めたも同然とワトスンは思っていたに違いない(『シャドウ ゲーム』でホームズとワトスンの代役であるモリアーティとモランにメアリの代役のアドラーを“結核で殺させた”脚本家は、よく原作を読み込んでいると言えよう)。

 ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」。黒くはっきりと見える幻。無論モリアーティだが、あとで思えばあれがモリアーティだったのだ、などとはさすがにワトスンは言わない。“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。実はこれがワトスンが間違いなくまさ目にみた唯一のモリアーティ(しかも、ホームズにあれがそうだと言われてそっちを見た時と違いこの時はそれと知らずに)なのだが、いったいこれは何か? 影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」。

 ホームズと別れてメアリ(と彼女に象徴される英国での真っ当な生活)の下へ向かうワトスンがそれと知らずに見たのは、自分の代りにホームズと滝へ飛び込むべく急ぐ彼自身の「影」だったのであり、彼が「そのことを忘れて」イギリス婦人の下へ急ぐのはけだし当然であろう。そしてイギリス婦人は幻でワトスンには救いようがないとは、もはやメアリの下へ帰っても手遅れであることの暗示でもある。

 医者が間に合わなくて実際に死ぬ結核の女性は、ホームズ生還後の『スリークォーターの失踪』に再び現われる。ポーの小説さながらの死美人は「ベッドに横たわっているひとりの女性――若く、美しい。穏やかだが、血の気のない顔、うつろに大きく見ひらかれた青い目――豊かに渦巻く金色の髪のなかから、その顔が凝然と天井を見ている」と描写され、傍で悲嘆にくれる夫がホームズとワトスンを医者と思って告げる――もう遅い。彼女は死にました。

 最近、これもtatarskiyさんから指摘されたのだが、この美女は蝋人形である――「空家の冒険」のホームズの蝋人形が存在せず、モラン大佐(実は彼自身もホームズの狙撃者としては存在せず、よそから借りてこられたのである)や読者の目を惹きつける囮であったように、彼女も異性愛のラヴ・ストーリーという表向きのプロットのために借りてきて据えつけられた作り物なのだ。スリークォーターはなぜ失踪したのか、本当の愛は誰と誰の間にあるものなのか、これは短篇で登場人物も少ないので、ぜひ御自分で確かめて頂きたい。

コナン・ドイルとは何者か
 帰還後の彼らの夢想の部屋は荒波にさらされる。彼らは本当のカップルになり、自分たちを否定する社会に対抗することになるのだ。ホームズが女嫌いだとはワトスン自身がそう書いてもいて、いくらでもそれを繰り返す人がいるのも事実だが、本当の「女嫌い」の推理小説とはレイモンド・チャンドラーのそれのようなものだろう。チャンドラーのことは以前ブログでもちょっと書いたことがあるが、特に彼と較べた場合、ドイルの特徴は際立つ。ホームズがホモソーシャリティから切れているのは、マジョリティの男たちのネットワークから否応なしにはみ出てしまう存在だからだ。一方、一匹狼を自認するハードボイルドの探偵とは、女を憎みながら女と性交する男であり、同じスタンスの無数の男たちが彼を支えている。

 もしワトスンがいなければ、ホームズは他の“犯罪者”たちと、そして/あるいはジキル-ハイドやドリアン・グレイやオスカー・ワイルドと同様の、さらにはロジャー・ケイスメントのような最期を遂げていたかもしれない。孤立無援の彼の唯一の砦にワトスンはなったのだ。植民地の人権問題に尽力し、アイルランドのために働いたロジャー・ケイスメントは、性的な秘密の暴露という理不尽なやり方によって殺された。ホームズの「帰還」以降、つまり彼らがカップルになって以降のワトスンが秘密主義になり、ホームズが事件の記録の発表を嫌うようになり、彼らがマイクロフトを通じて政治や謀略の領域により深く踏み込んでゆくようになったのもけだし当然と言えよう。変わり者の探偵とアマチュアの友人がベイカー街の部屋を訪れる市井の人の奇妙な訴えに耳かたむける「冒険」の世界は去り、秘密を握られ身を危うくする前に進んで他人の秘密を握ることこそ、自分たちを守るものであることを彼らは知ったのだ。

 ワイルド裁判の衝撃の下に明確にテーマを設定して書いたウェルズと違い、ドイルは少なくともはじまりにおいては、意識的に彼らの関係をメインの主題と意識していた訳ではないだろう。ホームズものの最初の二つの長篇は、伝奇小説であったり、臆面もないラヴ・ロマンスであったりという面を持つ。また、探偵小説の始祖としてのみならず幻想小説家としてのポーの衣鉢をも彼は受け継いでおり、それは「最後の事件」のウィリアム・ウィルスンを髣髴とさせる分身の描写一つ取っても明らかだ。しかし、ポーのデュパンと無名の語り手をモデルにホームズとワトスンを創造したドイルは、自らの小説の真のオリジナリティ――形式をまねた追随者のついに及ぶものではない探偵と親友の関係の魅力――の本質に向かって、ゆっくりと成熟して行ったのだ。

 ここでは私たちの見出した証拠のいちいちを述べることはしないが、少なくとも短篇第一作では、ホームズをクィアーとして描くことにドイルは腹を決めていたと思われる。そして彼は運命的にケイスメントに出会った。彼と、彼をあのような形で失ったことは、ホームズの話に人に知られることのない、しかし決定的な痕を残すことになった。周知のようにポーは「幻想小説」や「探偵小説」の祖として見なされてもその藝術性は担保されているが、ドイルは平気でたんなる凡百のミステリ作家の祖として片づけられてしまう。しかし、トールキンがファンタジー文学の祖であるなどということが全くないように、ドイルもまたその唯一無二の達成をヘテロセクシズムとホモフォビアのせいで今日まで認められることのない作家なのだ。
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by kaoruSZ | 2012-12-22 08:44 | 批評 | Comments(0)
「その夜寝台[ねだい]に二人の男あらむに」と聖書は記せり 黒き紅葉  ――塚本邦雄



ワイルド裁判と『モロー博士の島』
『モロー博士の島』出版(一八九五年)から三十年後に、H・G・ウェルズが自らの全集の序文で、この小説はオスカー・ワイルド裁判を念頭に置いて書いたと述べていることはエレイン・ショウォールターの著書『性のアナーキー』で知った。しかし、ショウォールターはその意味を完全に取り違えている。

 ウェルズ曰く――「その頃、スキャンダラスな裁判が、一人の天才のぶざまで哀れな失墜があった。この物語は、人間とは、動物が荒削りにされて形を成しているにすぎず、本能と禁止とが絶えず内部でせめぎあっている存在であることを思い出させるかの裁判への、想像力ある人間からの反応であった。この物語はそのような考えの体現であり、それ以外にはいかなる寓意も持たない。これは、荒削りで、混乱し、苦しむ獣としての人間というコンセプトをできるだけ鮮烈に描き出す、ただそれだけのために書かれた」

 批評家が「ワイルドとウェルズのつながり」を無視してきたとショウォールターは言う。しかし、彼女が主張する「つながり」とは奇妙なものである。『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物を引き合いに出し、次のように述べているのだ。

「ヘンリー卿と同じくモロー博士も生体解剖者であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし、彼の場合は動物から人間を創造しようとする」「博士はまた(…)唯美的な科学論にのっとって苦痛や感情に無関心となり、その実験室はユイスマンスの部屋もしくはヘンリー卿のサロンの裏ヴァージョンで、そこで博士は科学のための科学のもたらす絶妙な感覚を楽しんでいる」

 そんな事実は全くない。ヘンリー卿が「解剖者」であるとは心理分析に長けていることの譬えにすぎず、モローは世紀末の唯美主義者になどおよそ似ていない。「女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし」云々に至っては、切り離して何が悪い(というか最初から切れてるだろう)というのを別にしても、読者にフェミニズム的な怒りをかき立てるための捏造である。結局のところショウォールターはフェミニズム的アピールの材料に使うため、ウェルズもワイルドもねじ曲げていると言わざるをえない。

 ショウォールターは『モロー博士の島』で手術台に繋がれている牝のピューマを、当時の「新しい女」と同一視したり、「この[獣人の]女たちは博士の文明化の試みにとくに頑強に抵抗する」と主張したりしている。ペンギン・クラシックス版『モロー博士の島』の解説者は作家のマーガレット・アトウッドだが、彼女もまた、ショウォールター的な主張を踏襲し、女=抵抗者と見なすことを熱望しているので、「ピューマは抵抗する」だの、「モローを殺すのは彼女である」だの、男の犠牲者に甘んじない抵抗の表象として牝の獣を祭り上げたがる。

 だが、こうした偏見なしに読めば、当然のことながら、ここで問題にされているのは現実の女ではない。抵抗する牝のピューマは、男の女性性――男が否認し、女に投影したもの――の表象だ。この小説が(ショウォールター自身言っているように)「大きな意味をはらんだジェンダーのサブテクストを持っている」ことも、「ワイルドとウェルズ」のつながりも、ウェルズがワイルド裁判を念頭に置いてこれを書いたと述べていることも、そう考えてはじめて意味を持ってくるだろう。

 ショウォールターは、「ワイルド裁判を念頭に置いた」というウェルズの文章を読んで、動物を生体解剖して学界から追放されたモロー博士をワイルドだと思い込み、ワイルドの別の小説の登場人物ヘンリー卿の特徴でモローを補強しようとしたのだ。信じられない。それでは全く主題との有機的繫がりが無いではないか。

 ワイルドをモデルにしてウェルズが描いた人物は、モロー博士のすぐ傍にいる。医学生だった十一年前、酒を飲んで、「ある霧深い夜に十分だけ正気を失った」ため、「スキャンダラスな裁判」の主人公と同様、「ぶざまで哀れな失墜」の結果、人間社会から追放され、モロー博士にスカウトされて島に来た、「混乱し、苦しむ獣」モンゴメリーだ。失敗の中身は語られないが、主人公プレンディックはモンゴメリーから身の上話を聞いたあと、「じつをいえば、若い医学生がロンドンから放逐された理由など、あまり知りたいと思わなかった。私にだって想像はつく」と言っている。ウェルズは読者に想像力を期待しているのであり、それはさして難しいとは思われないのだが。

コナン・ドイルとケイスメントの黒い日記
 コナン・ドイルにとって、ウェルズにとってのワイルドに相当するのがロジャー・ケイスメントであろう。日本では ワイルドに較べれば勿論、そうでなくても知名度が格段に違うこの名前は、日本語ウィキぺディアの記事としては最初の概説しか見当たらず、しかも英文ウィキの当該部分の最終節(全体の四分の一を占める)に当たる記述を完全に欠いている。外交官としての功績でナイトの称号を授与されながら、第一次大船中にドイツと通じたとされ、叛逆罪とスパイ容疑で処刑されたこのアイルランド独立運動の活動家は、英文ウィキによれば、逮捕後、ブラック・ダイアリーズと呼ばれる日記にかかわるスキャンダルに見舞われた。彼の日記には、若い男性を好むpromiscuous homosexualとしての行動が記されており、このことは彼の支援者に手を引かせる効果があったのだ。彼を擁護した者の中には、W・B・イェイツやジョージ・バーナード・ショーといった錚々たる名前が見られるが、コナン・ドイルの名はその筆頭に挙げられる。ドイルは以前からケイスメントと交流があり、彼の大きな功績である、ベルギーのレオポルド二世の支配するコンゴ自由国での原住民への残虐行為の告発を基に、大部のパンフレットを書いている。

 tatarskiyさんと電話で話すうち意見が一致したのだが、映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』に出てくるモリアーティの「赤い手帳」とは、要するにケイスメントの「黒い日記」だろう――「彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処」の記録ではなく。いや、確かに犯罪ではあっても別の「犯罪」であり、モリアーティはロバート・ダウニー・Jrのホームズにモランとの愛の日記を盗み読まれた上、ロンドン警視庁へ通報されたのではないか。

 すでにtatarskiyさんが論じているが、あの映画の(実は原作でもだが)モリアーティの犯罪は多分にホームズの妄想くさく、彼とモランをつけまわしたホームズが実際に目撃しているものといえば彼ら二人の親密さだけであり、モリアーティが鳩に餌をやりながら手帳を開いているのを見ただけで、それが犯罪と隠し資産の記録だと“気づいて”しまう始末だが、それでも当時の法に従えば、ホームズは単なるリア充カップルを(ケイスメントのように)破滅させられるだけの証拠を、確かに集めていた訳だ(手帳の中身を知ったレストレードはさぞ驚いたことだろう)。

『モロー博士の島』が科学技術をめぐる寓話ではなく、プレンディックとモンゴメリーという男二人の同性愛的な関係をめぐる話であることを私に指摘したのは、去年この小説をはじめて読んだtatarskiyさんだった。その後私(たち)はそれを実証する記述をテクストの中に次々見出すことになった。上に述べたのはそのほんのとば口である。『モロー博士の島』はここではとても書ききれない隠喩で満ちみちているが、「血の味」を知ることが同性愛の隠喩になっていること、実のところプレンディックが、発端から、言葉では拒否しながらたびたびそれを味わっていること、さらに、獣人と人間の連続性(進化論が可能にした認識)が、“同性愛者”という特殊な人間が存在するという“種族化”の不可能性の喩であることだけは指摘しておこう。
tatarskiyさんのホームズ物語読解(『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』分析の副産物)の一部はすでに公開したので(http://kaorusz.exblog.jp/19549811)、ウェルズの小説の二人の男が、ドイルの場合はワトスンとホームズに相当すると言ったとしても、心ある人には受け容れられよう。


夢想の部屋
「最後の事件」を久方ぶりに読み返して驚くのは、ワトスンがこんなに“信頼できない語り手”だったかということだ。勿論、一番目立つのはホームズの追跡妄想だが、モリアーティについての情報がホームズの口から出るものに限られるのと同様に、読者の知りうることはワトスンの語りに限られている。実は、犯罪王モリアーティさえ、ホームズから聞かされたという体裁を取った“作家”ワトスンの創作と考えるべきであろう。そう、私たちはホームズの助手だの伝記作者だのという慎ましい肩書、文筆には素人である医者の片手間仕事という見せかけに騙されて、ワトスンを見くびってきたのではないか。

 それはまた、同様の経歴を持つコナン・ドイルが“作家として”まともに扱われてこなかったということでもある。彼は志と異なるものが偶然売れてしまい、自分の書いたものの価値が理解できなかった作家ではない。たとえ小説が書けたとしても短歌よりもなお悪かったであろう新聞記者あがりの歌人とは違うのだ。

 ホームズとワトスンの登場する話は、多くの(正確には五十六の)短篇と四つの長篇として散らばっているが、実際にはひとつらなりの、ワトスンが下宿をシェアすることになった驚くべき人物に関心を寄せ、相手を知ろうとするのにはじまる長い関係とその終り(どのような?)が書かれているのであり、結局ドイルも彼らと人生をともに歩むことになった。始まりでは二人とも二十代の終りくらいだが、ワトスンは従軍と戦傷のせいで引き延ばされたモラトリアム状態にあり、彼らはコンラッドのThe Secret Sharerのように住まい(と秘密)を分かち合うことになる。

 ホームズとワトスンに比べればあまりにも短い時を共有する、コンラッドの船長と海から来たその分身については以前書いたことがあるhttp://indexofnames.web.fc2.com/etc/conrad_men3.htm が、そこで私はロラン・バルトがジュール・ヴェルヌの『海底二万里』について、閉ざされた「室内」に引きこもり自分だけの夢想に浸る喜びこそが幼年期とヴェルヌに共通する本質であると論じている文章を引き合いに出した。最近、創元推理文庫版の『シャーロック・ホームズの復活』を読んでいてその「解説」に、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に収められたシービオクとマーゴリスによる「ネモ船長の船窓」が、ノーチラス号とベイカー街の下宿との共通性を説いていることが紹介されているのに出会ったが、彼らは無論バルトを参照している。この「共通性」は、彼らを引用している解説者が思っている以上のひろがりを持つものだ。
ワトスンをこの閉ざされた夢想の部屋(そのあまたの“冒険”にかかわらずホームズはずっとそこにとどまっている)からともかくも一度は出て行かせることになったきっかけは、言うまでもなく『四つの署名』で知り合ったメアリ・モースタンとの結婚である。そしてその結果が「最後の事件」に他ならない。

「最後の事件」とは何か
「最後の事件」は、それが発表された現実世界のドキュメントに見せかけたプロローグとエピローグ、そしてその間に挟まれた“妄想”から成る。最後のものは、一見、妄想に取り憑かれたホームズを、それに気づかぬ鈍い語り手のワトスンがリアリズム的に描いているかのようだが、それがワトスンの詐術である(いや、詐術などと言わずとも普通に「小説」と呼んでいいのだが)。彼らの同時代人だったフロイトが示したように、妄想と夢と小説は同じ品柄でできており、同じ論理に従う。それが或る時は現実の写しと見せかけていたり、ホームズの言動のようにあからさまに妄想的だったり、ワトスンの語りのようにニュートラルな叙述と見せて実は“夢”だったりという違いがあるだけだ。
 例の『シャドウ ゲーム』は、ほぼ全篇ホームズの夢と言ってよさそうだが、「最後の事件」は、本当に起こったことを明かすわけにいかないワトスンが代りにペンを持って紙上で見た、とりつくろわれ、再構成された夢なのだ。

 モリアーティが実在しないのはまず間違いない。ドイルも、はっきりそれを読者に示すつもりで書いていると思われる。ホームズは言う――「僕は幽霊など信じはしないが、いまがいま考えにふけっていた当の本人が、とつぜん目のまえに現われたのには、思わずドキンとなった」。幽霊ではないにしても、ドッペルゲンガーだろうそれは。
 すでに別にツイートしたがhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121104 ホームズによって描写されるモリアーティの外見自体、彼自身のものとして私たちが知っているものにそっくりなのだし、そもそもそうやって話しているホームズの、深夜のワトスンの診察室への出現そのものが、語られているモリアーティのホームズ訪問の反復である。さらに、モリアーティの部下に襲撃されたとホームズが主張する出来事は、どれも単なる偶然が、ホームズの妄想に取り込まれたとしか思えない。モリアーティの姿を見たと彼が言っている箇所も同様だ。

 ここまで明らかなことをワトスンはなぜ指摘しないのか。なぜホームズに、それは君の妄想だろうと一言云ってやらずに口をつぐんでいるのか。理由は簡単だ。その妄想を作り出しているのは実はホームズではなくてワトスン自身、作中人物ではなくてそれを書いている作家としてのワトスンだからである。(続く→http://kaorusz.exblog.jp/19707256/
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by kaoruSZ | 2012-12-22 07:47 | 批評 | Comments(0)
              彼は再発明された愛、そして永遠だ。――「イリュミナシヨン」

§
 昨日はtatarskiyさんとまず上野へ、上高近くの古い住宅を改装した隠れ家的ティーハウスを見つけてお茶したあと、紅葉終りかけの不忍池でスワンボートに乗る。ボート三隻しか出ていない水面に鷗の群が低空飛行。最後に、明日まで夜間開園の六義園へ。その前、上野駅のつばめグリルにいた時に地震。
 帰ってきて椅子でうたたねしていたら電話で起こされた。別れたばかりのtatarskiyさんが、ホームズとワトスンを“ブロマンス”の例とするツイートが多数出回っているのを見つけて、怒り心頭でかけてきたのだ。そりゃひどい。ホームズはホモソーシャリティから切れた人。彼が「男の友情が」とドヤ顔するなんて考えられるか? 「僕の友人は君だけ」の人だよ。ワトスンと二人で全世界に対抗する白い手と甲高い声のクィアーじゃないか。性的であることをあらかじめ絶対的に除外するというのはたんにホモフォビックだと知るべき。

“ブロマンス”の代表ならイシハラとハシゲとでもしておけ。(それにしてもアレをつかまえて自分の牛若丸って、みじめだと思わないのか。若さに輝いていた頃の弟のような青年ならともかく。TV無いから見てないけど薹の立った牛若丸もデレデレだったらしいね。醜悪極まる。)そもそも「女」や「ホモ」を石原が憎むのは内なる女性性を死ぬほど恐れているから。感じるように考え考えるように感じるホームズのような人とは正反対なのだ。(12月8日)

§§
 tatarskiyさんが映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』を見たことに端を発して、ホームズ物語(それ以外のドイル作品も)再読と発見の日々ははじまった。その直前まで私たちは、主に折口信夫の小説作品に関して同様の発見の日々を分かち合っていたはずなのだが、とりあえず折口は脇に置き、トールキンのことも忘れて。トールキンと言えばコナン・ドイルは、いろいろな意味でトールキンに比較されるべき作家であろう。先入見(前者は大衆小説、後者は学者の手すさびの“児童文学”と見なされて)によって真価を知られないままであることにおいて。新しいジャンルの創始者と思われているが、実は隔絶した孤高の作家であることにおいて。そのジャンルの後継者を自認する者はあまたいるが大半は凡庸なジャンル作家そのもので、創始者は理解されないまま、しかもその理解されなさのほどが半端ではない!
 そして何と言っても、同性愛を明示的に描くことが不可能だった時代に、それを主題として書き(勿論巧妙に隠して、しかもあらわに見せながら)、そのことが今なお発見されずにいるという点において。

 すでにtatarskiyさんの書いたものを映画についても原作についても載せているが、私の連続ツイートも以下にまとめてみた。別に中断しているものもあるが、完了させたらたら載せるつもりだ。

§§§
 昨夜は図書館で河出書房版(オクスフォード版の翻訳)のホームズ全集の(おもに『事件簿』の)注釈と解説をチェックしていた。ホモフォビックなのはかねて聞いていた通りだったが、ホモフォビックとは、たんに「ここには同性愛を示すものが何もないということを指摘しておく価値がある」という文句が突然出てきて唖然とさせられるという現象だけを指すのではない。そもそもそういう精神は批評に全く向いていないのだ。
 とはいえ、これは警察の捜査のようなもので、組織的にやってくれるからこっちとしては大いに助かる。だが、悲しいかな彼らには読み方が分っていないから、膨大な集積もとんちんかんな解釈の連続、宝の持ち腐れなのである。

「高名な依頼人」については別にツイートもしたばかりだが、あの中にホームズが「ヨーロッパ随一の危険な男」と呼ぶグルーナー男爵について次のように言うくだりがある。「複雑な性格と見えますね。犯罪者でも“大”のつく連中は、みんなそうしたものです。わが古馴染みのチャーリー・ピースなんかはヴァイオリンの名手でしたし、ウェインライトも並みの芸術家ではなかった。ほかにも枚挙にいとまなしということです(…)」

 このウェインライトなる犯罪者が実在したことを注釈で知った。オスカー・ワイルドが『ペン、鉛筆そして毒薬――緑の研究』をものしている毒殺魔というではないか。注釈はそれ以上触れていないが、これは “Pen, pencil and poison”に“A study in green”と副題してワイルドがドイルへのオマージュとしたものだ(ちなみに塚本邦雄の歌集『緑色研究』の題はここから来ており、無論ワイルド→男色=緑色の意)。

 ホームズが名前を挙げた「大犯罪者」二人のうち、前者はヴァイオリンの名手ということで明らかに彼自身に重なり、もう一人がこのウェインライト、調べてみると「芸術家」とは比喩ではなく、文学も絵画も手がけたらしい。「ペンと鉛筆と毒薬」とはその道具の謂と今さらながら知る。それらを使うわざ(毒薬以外)にいそしみつつ流刑先のタスマニアで没した由。塚本は歌集で二つの「研究」の表題を挙げ、自分は毒の方に関心があると称していたが、私たちの解釈を聞く機会に恵まれていればドイルとホームズにより関心を抱いたであろう。ホモソーシャリティに安住した女嫌いでは、見える幻にも限界があるというものだ。

 実在の、そしてオスカー・ワイルドと関連づけられたウェインライトが、犯罪者と芸術家を兼ねるのは、そしてホームズ自身が彼と同一視されうるのは偶然ではない。探偵は犯罪者でもある――ホームズはいかなる意味でも警察の側の人間ではなく、警察がその典型である制度的な見方とは違うふうに感じ/考え、見、読み取り、享受しうる。これは芸術家には絶対的に必要なことで、だからこそホームズは芸術家でもありうるのだし、制度的な異性愛の男が考えることと感じることを切断されて住まう貧弱な世界とは違うありようを生きる者でもありうるのだ。

 だが、なぜそれが“犯罪”なのか? R・L・スティーヴンスンが『ジキル博士とハイド氏』を発表したのと同じ月に発効した、そして『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌の同じ号に『ドリアン・グレイの肖像』を書いた作家を失墜させた法律が、かの探偵の活躍期間を通じて有効だったのは確かである。この間[かん]、英国において同性愛は名実ともに犯罪であった。すでに畏友tatarskiyが端的に指摘しているが(kaorusz.exblog.jp/19664604/ )ホームズ物語に顕著な「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、実はその大半が同性愛を主題に持ちながら異性愛のデコレーションで偽装されており、中のケーキは誰も手をつけないままであるのだ。

『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』は、「ゆすりの家」と名づけられた家の「秘密のドア」(ハイド氏が出入りするのがが目撃される。実は、ジキル邸の、別の通りに面したバックドア)についての会話に始まり、ジキルの書斎のドアが強引に打ち破られることによる秘密の暴露と主人公の死で終っていたが、ホームズと“彼の”犯罪物語は、「秘密」「恐喝」のモチーフを直接受け継ぎ、男たちの孤立した寒々しい死しか想定されなかった地点で始められながら、ついには「愛の再発明」(アルチュール・ランボー)にまで到らしめるという稀有な達成を遂げ、しかもそれを誰にも知られぬままだったのである。

 tatarskiyさんも前記の「『シャーロック・ホームズの冒険』読解メモまとめ」でほのめかしているが、初期の短篇のホームズは『ジキル博士とハイド氏』や『ドリアン・グレイの肖像』の世界から直接やって来たのであり、その「二重の魂」(ポー)は、先輩格の元祖引き込もり探偵にばかり倣った訳ではない。犯罪捜査と称して阿片窟に入り浸ったり、モルヒネやコカインを用いたりするのは、ハイド氏(ホームズもまた魔法のように別人に変身する)の夜の街での“悪徳”の正体がけっして明言されなかったのと同じ置き換えであり、彼は自分が熟知するロンドンの犯罪者と実は一つ穴のむじなである“犯罪者”であるのだ。

 一方、ワトスンはアフガン戦争での負傷によってモラトリアムを引き延ばされ、恩給と恐らくは親の遺産(とその運用)でホームズと下宿代を折半する暮しをしながら、作家になる夢も捨てていない医師として、つまりは開業していることを除けば彼らがその頭から出てきた当時のドイルと似た境遇の青年として登場した。彼は少なくともドイルに匹敵する力量を持つ作家になり、向う側の世界、すなわちドイルが存在せず、ワトスンが同居する探偵と彼自身との冒険物語の作者として知られる世界では歴史小説の(この分野に少なからぬ野心を持つ)書き手でもあったろう。周知の通り彼は『四つの署名』の依頼人として知り合ったメアリ・モースタンと結婚し、この仮住いをいったんは捨てて一家を構えることになる。

 tatarskiyさんが言うように、自身は秘密を持たぬ常識人のワトスン(ホームズより知力の劣る凡庸な人物という誤解を生んだ)は、ホームズとは誰であるかを、読者に代って、読者とともに探求する視点人物であった――ある時点までは。言うまでもなくその時点とは、原題をThe final problemという「最後の事件」の時で、ワトスンの結婚すらやりすごして先送りされ誤魔化されていた問題がついに表面化した時、彼がそれまでホームズと自分の間に存在することさえ気づいていなかった――と言えば嘘になろう、彼がホームズのうちに見ていたもの、彼を惹きつけてやまなかったものはまさしくそれに関連するのだから――問題が最終的な形であらわになる時であった。

 周知の通り「最後の事件」は、〈二人〉が死に向かい、〈一人〉だけが帰ってきた物語である。〈二人〉をホームズとモリアーティと見せかけたのはドイル=ワトスンの小説家としての手腕、語りえぬものをいかに語るかという追求の結果であった。ライヘンバッハの滝壺には彼ら二人が今も横たわるとワトスンは記すが、本当はそこでホームズと一緒に死ぬはずの者は彼だったのであり、ここでワトスンは己の死を幻視しているとも言えよう。十年後、ドイルが「空家の冒険」を発表することで公式には帰還者はホームズとなる。しかし、モリアーティは(作品世界において)本当は存在しないのだから、〈二人〉とはホームズとワトスンであり、帰ってきた〈一人〉はワトスンなのである。

「最後の事件」の隠された物語についてはすでにtatarskiyさんが書いている。http://kaorusz.exblog.jp/19549811/ それに続くエントリも併せて参照されることをおすすめする。「最後の事件」と「空家の冒険」に関しては私たちはすでに、本当にあった出来事の順番や詳しい細部まで突き止めているが、それについては別の機会に譲りたい。

 あらためてお断りしておくが、私たちはこうした読解を「多様な解釈」の一つとして提出しているわけでは全くない。一見似たような試みと私たちの仕事とは何の関係もない。これは対象についての恣意的な空想ではなく、あえて言えばホームズのやっているのと同じ推理によるわけで、いかにありえないことに見えたとしても妥当と思えるならそれが真実なのである。対象を本当に知る気があれば、これらの物語はこれ以外に読みようがないと、そしてその気になればそれは誰にでもはっきり見てとれるものだと私たちは考えている。

 急いで付け加えておくと、これはいわゆる二次創作的なものの否定ではないし、細部をあれこれ想像することを「恣意的な空想」と貶めたいわけでは全くない。評判の映画やTV番組も(私はTVを持ってすらいないので見られないだけで)機会があれば見たいと思う。そうしたものはすべて、特に二次と称する必要もない普通の「創作」だし、ホームズとワトスンの関係をホモエロティックなものとするのは原作がすでにそうなのだし、明示的に描くわけにいかなかったドイルが様々な工夫を凝らしたところでもある。

 私がクズだと思うのは、例えば二人について「同性愛でない」といちいち断わらなければいられない輩であり、「最後の事件」後の行方不明期間にホームズはアイリーン・アドラーと暮していたとか言う世にも下らない空想を書いていると漏れ聞くグールドとかいう男である。はっきり言っておくがホームズ物語はガチである。そういうヘテロ妄想は原作と原作者に対する冒瀆だ。

 アイリーン・アドラーについて言えば、おしなべて顔のはっきりしない女しか出てこない原作の中で、なぜ彼女だけがくっきりと鮮やかな輪郭を持つのか。the womanだから? その通りなのだが、そういう貴方がthe womanの意味を判っているとはとても思えない。女と聞いただけで、ヘテロセクシストどもは男とつがわせることしか頭にないから、ホームズと同棲とか言う馬鹿げた発想が出てくるのだ(というか、それ以外の発想はないのだろう)。原作を観察してみよう、ホームズのように。あんな短い話で、アドラーについての言及はさらに短いのに、どうしてみんな見落すのだろう。

 アドラーに夫がいることをどうしてみんな無視するのか。彼女の夫についてホームズが何と言っていたか思い出してごらんなさい、というのがtatarskiyさんからののヒントである(私は思い出せなかったが、その後電話で話すうち、彼女も気づいていなかった「アドラーの本当の正体」に思い至った)。

 ホームズの失踪と帰還という折り返し点以降の語り手としてのワトスンに話を戻すと、ホームズの「正体」を知った彼には、それまでのように読者の代りとしてホームズを見、事件について率直に語るというポジションは不可能になる。tatarskiyさんが言うように、以降は読者に対する“裏切り者”であるしかなくなった。逆にそれはホームズとの共犯関係が成立したということでもあり、再びベイカー街に戻ってきた(というかむしろ連れ戻された)後のワトスンは、ホームズとその秘密――あるいはむしろ“彼らの”秘密――を守ることに力を注ぐ。

「過去の因縁」「秘密」「恐喝」等のモチーフはここでも重要な役割を果たす。「空家の冒険」はほとんどセルフ・パロディであり、仲間を死なせて一人戻ってきて今は経済的にも安定し、申し分ない紳士として行いすまして暮している(メアリは真実を知ってしまったことだろうが)ワトスンの前に、昔の悪い仲間の亡霊としてのホームズが現れて気絶させる。チベットに行ったとか何とかいうのはハガードの読み過ぎで、女と一緒だったとは作り話としてもお笑い草である。実際にはメアリの容態をマイクロフトから絶えず知らせてもらっていて、ワトスンが独り身に戻ったらすぐさま帰る気でいたのだろう。ヨーロッパを離れたりする訳がない。

 河出版の解説(やっとここへ戻って来た)では、ある時期以降のワトスンの秘密主義、孤立化、親密さ(ホームズとワトスンの、またワトスンと読者の)が失われてゆくことが指摘され、それは正しい観察だが、しかしロブスンとかいうこの解説者は、何とそれを英国の衰退に結びつけて感傷的なお喋りをしている。要するに、芸術が分らないから時代背景とか政治問題を論じて批評と称する者がここにもいたのだ(それならば最初から芸術について語ったりしなければいいのに)。無論彼らに「空家の冒険」のホームズが、ワトスンの秘密の共有者、脅迫者にして性的誘惑者であることなど分る訳がない。

 ワトスンの秘密主義や孤立化、読者との親密さの喪失といったものは、tatarskiyさんの言うワトスンの読者への“裏切り”によって説明される種類のものである。ホームズとワトスンの親密さが減じて見えるとしたら、それは二人の関係の新たな段階を隠そうとした結果に他ならない。

 ドイルの作品はロブスンが考えるような安易に時代を反映する通俗小説ではない。ホームズものの同時代の読者たち、「最後の事件」に怒り、「空家の冒険」に殺到した読者たちの生きる世界はドイルの生きていた世界そのものだったが、作中世界は創造者としてのドイルの息吹によって生を与えられた別世界、この世界と細部に至るまでそっくりでありながら別物の、言ってみればJ・R・R・トールキンなら「アルダ」と呼んだものであったのだ。ホームズとワトスンが“現実に”生きるその世界は、ドイルの明確な意図をはっきり反映したものである。そこではサー・アーサー・コナン・ドイルの名など誰も聞いたことがないが、ナイトの称号を辞退したシャーロック・ホームズは実在し、彼を男のミューズとする作家ワトスンがホームズ物語の作者として知られている。そこで彼らは勝利する。ドイルはサー・ロジャー・ケイスメントを助けられなかったが、彼処ではホームズとワトスンが社会から抹殺されることなく添い遂げるのだ。

 たぶんそこではワトスンは私たちが読んで受ける印象より遙かに有名人で(ドイルがいないのであるから)、存命中は陰口や中傷やもっと深刻な讒言の種であった彼らの関係は、次第に広く、当然のこととして認識されるようになり、今では公然たる男同士のペアとして通用していることだろう。ホームズが隠遁し、ワトスンも二度目の(偽装)結婚相手が死ぬとそこへ行って住んだ家に近い、英仏海峡の白亞の断崖を見下ろす彼らの墓は(ワトスンは探偵小説と限らず大きな影響を受けたポーの「アナベル・リー」の詩句を墓碑銘に選んだかもしれない)ゲイの巡礼地になっているに違いない。ワトスンのブリキの缶の中に残されていた書類や原稿も今では出版され、彼らの画期的な伝記も書かれていよう。グラナダTV版はあったろうが21世紀に入るといよいよ当時は発表不可能だった彼らの本当の話が映像化され、感動を呼んでいるはずだ。ブロマンスとか下らない事を言っていないで現実も早く虚構に追いつくべきだ。

 河出版の注釈にはケイスメントの黒日記のことが載っている、しかも「高名な依頼人」の茶色のノートの発想の元ではないかと書かれていることも、tatarskiyさんからすでに聞いていた。そんなふうに一般に知られているのなら『シャドウ ゲーム』の赤い手帳は絶対そこから引用したね!と思った訳だが、実際に見ると残念ながら結構首をかしげる内容だった。

 ケイスメントのことはこのあたりでも(H・G・ウェルズについてのあとで)http://twilog.org/kaoruSZ/date-121121 書いたが、今ではウェルズにとってのワイルドにも増して、ドイルにとってのケイスメントは重要だったのではと考えている。

 ロジャー・ケイスメントは英国外交官としての功績でナイトに叙せられた後、職を辞してアイルランド独立運動に身を投じ、第一次大戦中の1916年、ドイツと手を組もうとしたとして帰国時に逮捕され、絞首刑になった。その際ドイルは弁護費用の大半を負担して他の文化人とともに彼を擁護したが、「ポルノグラフィックでホモセクシュアルな」Black Diariesのスキャンダルで多くの擁護者は手を引いた。現在では名誉回復されてサーの称号も復活(ホームズの叙爵話と較べ合わせて頂きたい)、遺骨はダブリンへ戻されて国葬後、再埋葬され、彼自身はゲイアイコンにもなっているという。

 このケイスメントの“日記”について、注釈は「高名な依頼人」の登場人物グルーナー男爵が女たちとの情事を綴った「茶色いノート」の「着想の源に」なっているのではないか、「彼にこうした武器の有効性という着想を得させたのはケースメントの一件だったかもしれない」と述べており、それ自体は妥当であろうが、しかし、ケイスメントという人物のドイルにとって意味するところの重大さに較べ、単なる「着想」とはまた随分枝葉末節(のみ)にこだわったものだ。「武器」とはこの場合、世間知らずの令嬢に男爵の色魔(古い言葉だ)ぶりを示して彼との結婚を諦めさせるためのそれで、間違っても男爵を死に至らしめるようなものではない。

 黒い日記へのドイルの反応を記した箇所も全く適切とは思えない。「こうした性的妄想(ケースメントの場合は同性愛)は問題となっている重大事件に比べれば」些事にすぎないと「軽蔑的な指摘をして見せた」とあるのだが、問題とされたのは、性的な記述一般でなく、あくまで男同士のそれである。この注釈はそれが同性愛である事の重大さ(叛逆罪で処刑する程の罪状でないところをスキャンダルと併せて反感を煽れば文字通り葬り去れるほどの重大さ)を軽く見せると同時に、ドイルの軽蔑の対象と、彼にとって何が重大だったかを曖昧にするものだ。
 
 英文サイトにわかりやすい記述があったので紹介しよう。ドイルが日記の中身を見ようとしなかったのを同性愛に対する嫌悪感からのように言う人がいるが、ありえないと思う。

http://soalinux.comune.fi.it/holmes/inglese/ing_casement.htm
“…he[Doyle] controversially repelled the emissaries of the British Government who came touting the pornographic homesexual diaries ascribed to Casement - and,as he (and he alone) said, these could have no bearing on a charge of treason which was graver than anything they might contain. (by Giovanni Cappellini)

(大意; ドイルはケイスメントのポルノグラフィックでホモセクシュアルな日記を押しつけようとした英国政府の使いに対し、反論して彼らを追い返した。彼は(彼だけが)こう言ったのだ――これらの日記と叛逆罪の容疑とは、何の関係もない。日記に何が書いてあろうと叛逆罪の容疑の方が重大だ。)

 注釈はまた、ドイルは「男爵とケースメントを類似性のある人物としては描いていない」と指摘するが、写実的に描く以外の言及の仕方があるとは思わないのか。これもまた何も分かっていない――ケイスメントと同性愛を重要だと注釈者が考えない=考えたくない――からこういうことしか言えないのだ。「高名な依頼人」は現在進行中の別の連続ツイートで扱っているので、この話題はそちらに譲ることにする。※

※「『高名な依頼人』ノート」としてまとめた。http://kaorusz.exblog.jp/21426732/
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by kaoruSZ | 2012-12-20 07:50 | 批評 | Comments(0)
この件の前段についてはこちらを参照。

ある若い“腐女子”への手紙

はじめまして。先ずは返信を下さったこと自体に対しては御礼申し上げます。

本題に入らせていただく前に確認しておかねばならないことが色々あるのですが、例の大河ドラマについての文章以前に私の表裏両方のアカウント(両方ともプロフィールからツイログが見られます)を見たことがあれば、私がこれまで何について発言してきたかはおわかりになることと思います。

また、友人のブログには例の文章も含めて私がこれまでに書いたことをまとめたエントリーを「tatarskiyの部屋」というタイトルでいくつも掲載してもらっています。http://kaorusz.exblog.jp/
それらをご覧になればわかることですが、私は一貫して女性の性的ファンタジーに対する通俗な偏見と蔑視、及びその原因そのものである、この社会を支配する権力的な制度としての男性のヘテロセクシズムとホモフォビアへの批判を行なってきました。

そしてその中でも必然的に最も主だった話題は、男性同性愛の表象を愛好する女性が“腐女子”として“正常な女”からは分離したものとして扱われ、「女としてふさわしいあるべきセクシュアリティから逸脱した異常な存在」と見なされつつ、それに対する善意の“処方箋”として「ちゃんと“女としての自分”を受け入れられればまっとうな女として現実の男と関係できるようになる」だの「男同士の表象なんかに逃避せずにちゃんと“女性としての生き辛さ”を受け入れてフェミニズムに目覚めれば“成長”できる」だのという不当な中傷を受けることに対する抗議でした。
それもそうしたことをweb上で書くようになった直接的なきっかけは「腐女子がBLとして男性同性愛の表現を“消費”するのは、ヘテロ男性が女性に対して行なってきたのと同様の“搾取”であり、道徳的に糾弾されて当然の過ちだ」というゲイ男性による噴飯もののミソジニーに基づく暴論(それも言い出したのは立派な肩書きのあるアクティビストやクィア研究者です)から派生した、いくつもの不当な言いがかりを目撃したことでした。
本当に私が試みなければ誰も正面から反論しようとしなかったからです。

今でもそうですが、私は私以外に抗議すべき物事に対して抗議する人が存在し、それによって十分な効果を発揮していると判断できる状況であるならば、あえて自分からそうした物事に対して発言したいとは思いませんし、むしろ自分自身の性格としては本質的にはまったく不向きであると思っています。だからどれほど苛烈で自信ありげにみえる文章で抗議しているように見えても、内心では億劫で仕方がないほどですし、どう転んでも抗議した対象やその関係者からの恨みを買うのは避けがたい以上、なぜ私ばかりがそうした損な(時には“損”では済まないこともありました)役回りを引き受けねばならないのかと呪わしい気持ちを抑えがたいこともままあります。

あの大河ドラマについての文章も、完全にそうした必要やむをえざる取り組みの一環であったのですが、たまたま話題がそれまで私が関わっていたそれらよりもメジャーであり、その結果として貴方の目に留まることにもなったわけです。

そして、これが一番大きなことかもしれないのですが、何よりも私がこれまで書いたどの文章の中でも、自分のことを“腐女子”だとは名乗っておらず、そうした自己規定そのものを一切していないことの意味を認識していただきたいのです。
個人的な嗜好について言うのであれば、言うまでもなく私も男性同性愛の表象を愛好する女性の一人ですが、私が抗議し続けていることの本質として、それが私を有徴化される必要の無い“正常な普通の女性”から隔てられるべき“特殊な性癖”の持ち主として規定される特性を意味するという、極めて差別的な社会的前提そのものを受け入れるわけにはいかないからです。

もっと簡単に言えば「腐女子じゃない」ということが「私は男性同性愛の表現そのものも、そうしたイメージや関係性を明示されていないものの中に見出すようなことも好みませんし興味を持ちません」ということを意味すること、男性同性愛の表現を好むか好まないか、興味を持つか持たないかが女性に対する“踏み絵”として働いていること(他の性表現が女に対してこうした意味を持つことなどまずありえません)そのものが、女性に対してヘテロセクシャルを当然の基本とする現実の性的関係以外の「空想としてのセクシュアリティ」を本質的に認めようとせず、かつ当然のようにホモフォビックである制度的な男性のヘテロセクシズムによる抑圧の結果でしかないからです。

逆に言えば、男性同性愛のイメージを愛好する女性が“腐女子”を名乗っていることは、この社会の権力者である世間並みにホモフォビックなミソジニストとしてのヘテロ男性及び彼らの価値観を無自覚に内面化した男女にとっては、「正常な女のありようからは逸脱した“腐った”女が、その分際に相応しいレッテルを受け入れている」ことを意味し、それは彼女の性的ファンタジーや彼女の感受性と知性に基づいた発言それ自体と、実際に紛れもなく存在しているホモエロティシズムを感受することそのものを「取るに足らぬ“腐女子の妄想”」として片付けてかまわないという見下し──「どうせ腐女子だからそう思うんでしょ?」という蔑みに満ちた見解を補強してやることです。

そしてそれは同時に名乗る側の「皆様から馬鹿にされる存在であることはわきまえています。どうせ“腐って”いるのですから、何を言っても“しょうもない妄想”として大目に見てください」という差別との直面や摩擦の回避と表裏一体です。
これは完全に構造的な問題であり、「そんなつもりで名乗っているわけじゃない」という言い分が通用する次元の話ではありません。またそれは必然的に、「私のような女はそうやって馬鹿にしてくださってかまわないことを受け入れております」というメタ・メッセージを発することを意味し、男性同性愛のイメージを愛好する女性全てに対してそうした侮蔑の対象であることを“同類として”押し付けることでもあるのです。
もっとも、そうやって自虐的なレッテルの下で群れていれば、“全体”として侮蔑されることを受け入れることと引き換えに“個人”として浮き上がって叩かれる可能性からは遠ざかっていられるのでしょうが。
そして決まって「“腐的な妄想”とは別にちゃんとしたファンでもあるから」と嘯きつつ、自分が持つホモエロティシズムの魅力に対する感受性への蔑視を内面化していることを「ちゃんとわきまえている証拠」だと倒錯した己惚れと自己欺瞞を抱いているものです。

私が決して“腐女子”などと名乗ることなく、“ただの女”として一切のホモフォビアとミソジニーとヘテロセクシズムを前提とした女性に対する蔑視に抗議することは、自分自身の感受性と知性によって理解しうること、快楽であると感じられることの全てに対する不当な抑圧と──その抑圧者が何者であろうと──正面から向き合うことであり、必然的に“個人”として発言し注目され憎まれるリスクを否応なく引き受けること、その結果としてある種必然的に孤立することです。そして一度そうと決めた以上は、どれ程しんどいことがあっても投げ出すわけにはいかないことです。それでも友人の支えが無ければとっくに心が折れていたでしょうが。

そしてここからが本題なのですが、つまりは貴方と私では最初から“覚悟”の程がまったく違っていたこと、それ故に発言しうることの内容も、発言する際の前提として引き受けていたリスクそのものも、およそ比較にならないものであったことをまずは認識していただきたいのです。

失礼ながら貴方はおそらくさしたる抵抗感も無く“腐女子”と名乗りながらツイッター上で“公式”と無批判に戯れる無邪気なファンの一人として振る舞っておられたに過ぎず、そういう貴方がはっきりとした批判的意図を持ってあのドラマを批評した私の文章に対して、否定的ではない興味を持ったこと自体がある種のダブルスタンダードですし、その上「完全に同意できるわけではないけど」などという留保をつけたコメントをこれまた無邪気にしてくださった日には呆れるほかにありませんでした。
あの友人のRTとコメントはそれを見た私の精神的な苦痛と嘆きようを愚痴として聞いたからこそです。友人が「tatarskiyが何をやっているのかわからないからそんなことが言えるのだ」と言っていたことの意味は、ここまで読んでくださったならもうおわかりだと思いますが。

はっきり言えば、私があの文章の中でドラマの構成そのものにこれ以上ない程はっきりと浮かび上がっていた通俗なホモフォビアを指摘していたことなど、「“公式”を愛する無邪気な“腐女子”ファン」である貴方には、ツイッター上で具体的に言及することなどおよそお出来にはならないことでしょう?そして実際「同意できないのは結論じゃなくて細部なのに」とか嘯いておられただけでしたよね?なら私の“結論”と貴方が違う解釈をなさっていたらしい“細部”がどういったものであったかについて、もしお出来になるのであればそれぞれはっきり言及して下さい。
そんな“公式様”に対する批判がましいことが貴方に意識的に口にできるわけがありませんよね?
それとも今からでも「同性愛を悪や病理としてしか扱えなかった通俗なホモフォビアは残念だけど、ドラマとしては好きだし面白い」と仰って筋を通そうと思われますか?
後で詳しく述べますが、私がやったことは単に「誰かがやらねばならなかったこと」にすぎません。そしてそれをしたところで、私が得るメリットなど何一つありませんし、むしろ損失を被るばかりです。こうして貴方にツイッター上で悪口雑言を振りまかれ、メールで長文の説明に及ばねばならなくなっていること自体がいい証拠でしょう。

また私が最初にポストしたドラマ自体に対する批評の“細部”そのものが“結論”と不可分なものであり、そもそも批評において全体と照応しない細部などありえません。私が書いたあの文章は全体で作品の内と外に亘る一つの構造の指摘でしかありえないもの(同性愛や男性の女性性が悪や病理として意味づけられていたこと及びそのメタレベルの意味)です。そしてそれは私個人の好き嫌いや「自然な人それぞれの感想」などとはおよそ次元の違うものです。言っておきますが、そうしたそれぞれの感想それ自体は私も好んで収集していますし、貴方のところからも幾つか収集させていただいたことがあります。ですが何かを批評するというのはまったく違う次元の手続きが必要な話です。はっきり言えば、私が書いたものより「より精緻な批評」というのはありえても、「それぞれ平等に違う批評」などというものは成り立ちません。それは単に「どちらかが間違い」でしかありえません。

それから「直接こっちに言えばいいのに」とか言っておられましたが、そういう貴方が何について何を言われたのか最初はまるで明かしておられませんでしたよね。横から“助け舟”を出してくれたお友達の尻馬に乗っておられただけでしたよね?そしてお二人で私と友人を実に適当に悪者扱いにして悦に入っておられただけでした。あんな醜悪な真似をなさらなくても、私と友人のどちらにでも話しかけてくだされば、それがどんな内容であろうとたとえ罵詈雑言であろうと一対一でお聞きしましたが。
あの時の貴方は、それこそ“腐女子”として“分をわきまえて”群れている人の「個人としてリスクを負わず群れの一匹として仲間に頼る」という特権にぬくぬくと浴していたわけです。貴方が私のような否応なく孤立した、“公式”に対しても批判的な一個人でしかなかったら、あんな助け舟を出してくれるお仲間に恵まれたはずもありませんよね?

また別の話になりますが、私があの大河についての文章を書いたのは、ある種の予防的先制攻撃としての意味合いも大きかったのです。

というのは、あの文章の追記にも書いたことですが、要は“腐女子”への罵倒は本質的に男性同性愛に対する嫌悪感のすり替えであり、“腐女子”の人の自称自虐というのはそうしたホモフォビアを内面化した通俗な世間へのおもねりです。つまりその“自虐”は必然的にホモフォビアへの加担でもあるわけですが、当然ながらそれは女性が自身のセクシュアリティに対する自尊心を剥奪されている結果にすぎず、彼女をエンパワーメントすることなくさらに抑圧してもなんら解決しないことです。ですが呆れたことにゲイ男性(もしくはそのシンパ)の側でも権力者であるヘテロ男性との衝突の回避もしくはある種の“緩和”として「腐女子も自分たちへの差別に加担している」と言い立てたがる手合いが少なからずいます。

私はそうした手合いの妄言を相手にしたことは何度もありますし、正面から論破すれば一応はそれで済むのですが、ある意味彼ら自身より厄介なのが、そうしたこけ脅しの妄言を真に受けて「ちゃんと他の“腐女子”を批判しないと私までゲイ男性を差別してると思われる」と思い込み、ろくでもない“啓蒙”に奔る“模範的腐女子”が後を断たないことです。

そして私が危惧したのは、歴とした“肩書き”のあるゲイ男性もしくはそのシンパや何らかの“性的マイノリティ”、または“クィア研究者”が先にあの大河ドラマの内容への批判を然るべき場所で発表し、その中で直接ではなかったとしても、それに影響された連中が「あの大河での差別的な同性愛の扱いに“萌え”ていた腐女子も同罪だ」とでも言い出すことでした。
そしてそんな事態が現実になってしまえば、たちまち自称腐女子の人たちの間で近親憎悪的な“反省”合戦が始まるのは目に見えています。あるいは一切に目を瞑って“萌え”続ける人と二手に分裂して、後者が「腐女子の無反省の証し」としてヘイトスピーチの種に使われることになることも考えられますが。

それはともかく、あのドラマの中での同性愛の扱いそのものに倫理的な問題があり、それがドラマ全体のテーマや構成にまで及ぶ核心的な問題であるのは明白なのですから、そのことに対する指摘は、「必ず誰かがやらなければいけないこと」です。もっと言えば、私のやったことは、貴方がなさってもよかったはずのことに過ぎません。

tatarskiyより
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by kaoruSZ | 2012-08-29 16:55 | 批評 | Comments(1)
tatarskiyの部屋(10)「NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて」追記


例の大河についての文章で私が何を言わんとしているのかまるでわからない人が複数いるようなので追記。あの時はドラマそのものの内容についての一番コアな部分を抜き出すので精一杯だったのでそこまで手が回らなかったのもあるが、皆まで言わずともわかる人にはわかっていたのだが。

私があの文章を書いたのは、件の大河ドラマの中での同性愛(及びそれをネガとして成立しているポジとしてのホモソーシャリティの描写)の扱いとそれに対する視聴者の反応そのものが、今現在の日本社会における同性愛への欺瞞に満ちた態度の縮図だったからだし、もっと言えばこうした指摘は肩書きのある本職のクィア研究者が公式な仕事として取り組むべきことだったと思う。そういう意味では何の肩書きも所属も持たない私が個人として矢面に立ってああした文章を書かねばならなかったこと自体が非常に歯がゆいことだと思っている。

要はあの大河の内容とそれに対する“健全な視聴者”の反応が象徴しているのは「明示的同性愛は悪や病理でしかなく、しかもそうしたネガティブな描写ですら“腐女子狙い”だとされ、それと対立する“健全なホモソーシャル”からホモエロティックなものを読み取ることも“腐女子の仕業”だと言い張り、そうして男の同性愛の描写のすべてを女のせいにする(はっきり書いてみるとこんな無茶が成り立つと思える認識自体が甚だしい転倒でしかないのは明白である)ことでホモフォビアを発散することが野放しにされる一方、史実としての登場人物たちは後ろめたさなど欠片もない両刀遣いでしかなかったことは実は皆が知っている」という甚だ滑稽でグロテスクな茶番でしかない。“腐女子”呼ばわりされる女性たちもまた「自分たちのしていることは妄想としてわきまえてるから」という従順さでそれを受け入れてしまっているが。

それにしても『ハートをつなごう』とかおためごかしを並べて「性的マイノリティへの理解」を語る一方でハリウッドなら50年代レベルの倫理コードを適用した“悪の同性愛者”の描写を看板番組で流すという某国営放送のダブスタぶりには恐れ入る。要はこうした偽善こそが今時の“良識的態度”な訳だが。

つまるところが現在の日本社会そのものが、「同性愛者の人権」については一応は異を唱え難い前提として人口に膾炙させている一方、属人化されえない「表象としての同性愛」については未だ明示することをタブーとし、それを開かれた場で肯定的に語る言葉を持たないことこそが諸悪の根源なのである。そして“腐女子”呼ばわりされている女性たちは、このダブルスタンダードの狭間で「同性愛者を差別するわけにはいかないが、同性愛は気持ち悪い」という通俗な世間のホモフォビアの生け贄とされているにすぎないのだ。

真に必要なのは、種族としての同性愛者ではなく“同性愛そのもの”への普遍的な肯定であり、そうしたことを語りうるだけの個別の表現への批評のモデルの提示である。またそれは女性がそれを語ることに対する“腐女子”呼ばわりの蔑視(という偽装されたホモフォビア)への当然の批判を伴うべきものだ。

私が書いた文章もまた、微力ながらそうした取り組みに寄与するものであればと思っている。後日また加筆修正した増補版を発表するつもりでいるが、骨子だけのラフスケッチのようなものであっても、まとめて公開しておく意義はあると考えた。思うところのある人には何某かの参考になれば幸いである。

<追記の追記>思い違いをされると困るので留保をつけておくが、私は今回の大河ドラマ自体に魅力を感じることそのものが間違いであるなどと言いたいわけではまったくない。

たとえば江戸時代に作られた歌舞伎の演目は、作中の舞台が室町時代であろうと(今回の大河と同じ)院政期末の源平合戦であろうと、幕藩体制のイデオロギーであった儒教に基づいた倫理観が適用されてしまっているものであるが、今日の観客がその様式美や筋書きの面白さのみならず、当時はそれを取り入れること自体が義務でもあったろう忠義や親孝行といったモチーフに魅力を感じたとしても、何一つ問題はないだろう。それは言うまでもなく、既にそうしたイデオロギーを従うべき権威として流通させていた封建的な身分制度そのものが崩壊しているからだ。作品に残されたイデオロギー自体がもはや物語を成立させるための素材以上の意味を持たず、むしろ過去の価値観を窺い知ることのできる貴重な資料であると同時に、結局は時代と共に過ぎ去り変容してしまう通俗なイデオロギーの無常さと、それに対して時代を超えて生き残りうる芸術そのものの価値とを教えてくれるだけだ。

つまり問題は「今現在のアクチュアルな差別的イデオロギー」が、“当然の前提”として作品に無批判に反映されてしまっていることであり、それはその差別的な前提を支えている社会の多数派の意識が変化してしまえば――新たな問題が常に生まれるにせよ――問題の所在ごと忘れ去られ無害化していくものだ。今回の大河ドラマもまた、同性愛に対する差別的なダブルスタンダードが消滅した未来において再放送され、過去の魅力的な作品として人気を博したとしても、その時には非難すべき理由は何もないであろう。ただし、その時の視聴者の目には、同性愛の扱いに限らず、今現在の私たちにとっては“自然化”されている無数の無自覚な“偏り”が――ちょうど今の私たちの目に歌舞伎がそう映るのと同じ様に――“作品が作られた時代の刻印”としてはっきりと映されることではあろうが。
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by kaoruSZ | 2012-08-27 06:51 | 批評 | Comments(0)
NHK大河ドラマ『平清盛』における同性愛の意味づけについて



8/26 追記あり http://kaorusz.exblog.jp/18889616/


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RT: 大河見てた。来週怨霊ホラー回で崇徳院退場予定か。それを見たら前にも言ったことがあるけど文章を書く予定。ドラマとしては完全に出来のいいアニメの延長として面白いと思うけど、同性愛の意味づけ周辺で言っておかないとまずいことが色々あるし、「ホモは女のせい」ってふざけた態度は放置できない。(2012.7.29)

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表アカでの予告ポストを引いてきたが、実際に先週の崇徳院退場回を見た感想としては、予想の範囲内であったとはいえ、はっきり言って崇徳院じゃなくて私が憤死しかねない勢いで腹が立った。ネタを先に言えば典型的な健全なホモソーシャル(勝ち組)vs不健全な明示的同性愛(負け組)の構図だった。

要はあのドラマの中での明示的な同性愛の要素は、保元の乱の敗者である頼長&崇徳院の「負け組であり、悪役である由縁」として設定されていて、それは主人公である清盛たちの「健全でホモソーシャルな友情や主従愛や兄弟愛」に敗北すべき運命にあるという描かれ方で見事なまでに一貫していた。

先週の崇徳院の生霊が起こした嵐の中で絆を確認しあう男たちの描写なんて、もう完全にその縮図だった。TLでは経文じゃなくて西行を海に投げろコールが巻き起こってたけど、ここまでちゃんと見ていた人たちなら誰でもそう思うわな。あのドラマの崇徳院って実はジェンダーとしては“女”なんだよね。

西行への崇徳の片思いの描写って、このドラマの中での負け組フラグ=同性愛を崇徳に背負わせつつ、伝説にある母親の待賢門院と西行の悲恋の話と繋げてそれを崇徳の失恋の原因にすることで、主人公の友人ポジションである西行の方は“ノンケ”として免罪するという見事なパズルになっている。

だから退場回での怨霊化も史実とは意味づけがまったく違う。史実ではあくまで政争の敗者としての“男”の怨念だが、有り体に言えばドラマの中では出生の秘密ゆえに父の愛に恵まれなかった辛さを遠因とした同性への片思いと失恋、致命傷になったのは我が子を失った悲しみという、完全に“女”の情念。

つまりは父(鳥羽院)や片思いの男(西行)の愛を得られなかった“女”が、それ故に男たちのホモソーシャリティの敵になってしまったという話なわけで、要はあの大河での崇徳の怨霊化は完全に“魔女化”だったわけだ。

ちなみにノベライズでは崇徳が息を引き取る場面で聞こえる声は例の子供が謡う遊びをせんとやではなく、西行がかつてその心を解してやった崇徳本人の御製(百人一首のアレ)を詠みかけてやる声であるらしい。その方が露骨な分だけまだしも浮かばれたろう。国営放送では修正が入ったのかね?

話が前後するが、息子の重仁親王が生まれたことが描かれてもその母が出てこないのも、作中では崇徳自身が“女”だからだ。崇徳の出生そのものに象徴される朝廷の昼メロ的な泥沼劇──男女の裏切りやそれに端を発した親子のすれ違い──は“女性的”な属性であり、それは清盛たち武士によって刷新されるべき旧体制の病理そのものでもある。言うまでもなく武士が象徴するものは健全なホモソーシャリティとしての“男性性”である。朝廷という“女”の病理に、武士という“男”が勝利するに至るまでの物語の図式であるわけだ。

崇徳はこうした構図を象徴する、その結果としての“哀れむべき被害者”であり、そのために彼には同性への愛という“女性的病理”と、それに至るまでの同情すべき理由付けの物語が設定されているのだ。

崇徳のそれに比べれば、頼長の同性愛が担っていた役割は単純なものである。清盛と弟の家盛の“健全な兄弟愛”を危うくし、家盛の死の原因となるべき悪役の悪事であり、彼自身その報いとして敗死すべき伏線を張るだけだ。
ちなみに悪や病理としての同性愛とそれに対比される“健全な絆”がセットになっているのは、崇徳の西行への片思いに対する、西行と清盛の友情も同じである。

頼長のそれ以外の役割も、これもまた武士のマチスモに対比されるべき「いけ好かないインテリ、鼻持ちならないエリート」というものであり、義朝から彼が主人である頼長の陰険さと書痴ぶりを嫌っていることを聞いた清盛が「珍しく気が合う」と喜ぶのと、その直後に二人の紐帯となる女(常盤御前)が登場するのは象徴的だ。言うまでも無く、直接的な同性愛のタブー化と女を介した連帯の強調、それが悪役の明示的な同性愛とセットとされるのは、ホモソーシャリティの描写の定石である。

また息子の義朝と異なり、それまではあくまで頼長に従順だった為義が、保元の乱の最中に自分を守れと言う頼長を罵るきっかけも、戦闘の現実を知らない知識人頼長が夜襲の案を退けたために劣勢となり、最期まで心ならずも息子と敵対した為義を気遣う忠臣であった鎌田通清を失ったことに激昂したためで、このことからも、基本的に頼長が他の男たちの“男同士の絆”のネットワークからは排除された、それに対する“引き立て役”として配置されていたことがわかる。頼長自身にも唯一“健全な絆”として信西との友情とライバル関係があるが、これは頼長に続いて彼に勝利した信西自身が破滅に至る伏線である。

その前夜までの悪役ぶりとは一転し、乱に敗北した後の頼長の最期は、父の忠実に一目会いたいという切なる願いと、同じことを望みながらも罪人となった息子と対面することは叶わない忠実との親子の情愛のドラマによって締めくくられているが、これは信西が自らが政敵として葬った頼長の遺言を目にし、それによって政治への志しを新たにする描写と合わせて、頼長を最後にホモソーシャルの内部の“共感可能”な人物としてあらためて位置づけ、それによって信西もまた志しのゆえにかつては友でもあった政敵と同じ運命を辿ることを予告するためだ。

信西が遺言を目にする場面で、在りし日の頼長が初めてその息子たちと共に描かれることも象徴的である。最後には不気味な男色家の悪役としてではなく、父に愛された息子として、息子に志しを伝えようとする父として、そして遺言を通してかつての友に決意を新たにさせる政治家として描くことで、頼長の存在は完全に親子愛とライバルとの友情という健全なホモソーシャルの内部へと回収され、視聴者にとっての印象のある種の浄化と、平治の乱での信西の破滅への伏線の設置が同時になされるわけだ。

明示的な同性愛のみが描かれ、当然あるべき妻妾との関係が描写されないという偏りは崇徳と同じであっても、頼長の場合はあくまで社会的な立場とそれに基づいた同性との絆を持つ“男”であり、父からは嫡男とも望まれた愛された息子という、ある意味では崇徳とは対照的な位置づけを持っていて、それ故にこそ最後にはホモソーシャルの内部に迎え入れられることが約束されていたともいえる。同性愛の意味づけに関しては単なる悪役であるのも、同情できる説明が与えられていた崇徳の場合と正反対であるが、これも結局は頼長は“男”であり、崇徳は“女”であったからだ。

頼長の行動は悪事としての同性愛も含め、あくまで自律的で社会的な力を持つ“男”のそれであり、それ故に責めを負うべき“悪役”でありえたのに対し、実は崇徳には男としての社会的な関係と呼べるものが何一つ無い。

崇徳はその母の不義による出生の時点から、「思うままにならぬ」運命に翻弄され、他律的な存在であることを周囲から強いられ続ける。その苦悩は、父には愛されず母にも心をかけられない孤独の内に育ち、思いを寄せた男は母と密通し、弟にも裏切られ、最後には我が子に先立たれて絶望するという、完全に私的な愛情問題に終始するものだ。我が子を帝位に就けようと望むのも、白河院が鳥羽院を疎んじて実の子である崇徳を帝位に就け、それを恨んだ鳥羽院が今度は“叔父子”崇徳から実の子近衛帝へと譲位させるという愛憎の連鎖の一環であり、それがドラマの中における「父としての息子への愛情の証し」と「自らの父への報復」を意味するからだ。崇徳は権力者だった父に愛されず、それ故に半ば社会的に疎外され、他律的に生きることを強いられていた自らの力を取り戻すために、「我が子を愛し帝位に就ける父」として自らを愛さなかった父に成り代わろうとしたのであり、それは自らに他律的な存在──つまりは“女”であることを強いてきたものに抗おうとする試みでもあった。だがそれは敗北に終わり、崇徳は流罪となることによって今度は完全に社会から疎外されてしまうのだ。

崇徳が写経した経典を後白河の許へ送り、それが父に抱かれた幼子の未来の高倉帝に引き裂かれて戻ってくるのは、かつて崇徳自身が鳥羽院に送られた写経の文を引き裂いたことの反復であると同時に、父に愛された息子(高倉帝)からの、父に愛されなかった息子(崇徳)への意図せざる残酷な仕打ちであり、それは崇徳の生涯に及ぶ敗北と疎外そのものが、父に愛されなかった故であることの象徴である。讃岐に流され、政治的な力を全て失った崇徳は、意識的には自らの手で大乱を引き起こしたことの償いとして写経を送ったのであるが、その真の望みは形を変えた父との和解に他ならなかったのだ。それを残酷な形で拒まれ、我が子にも先立たれることで“愛の対象”全てを失い、悲憤のうちに怨霊と化すのだ。つまり崇徳は最後まで、父という男から愛されなかったが故に周囲からも疎外され、それでも愛されることを求め続けた“女”であり、それはこのドラマにおいて、実は「父から愛される」ことこそホモソーシャルの構成員としての一人前の“男”であるために不可欠な条件であることの逆説的な証明である。父に愛されなかった崇徳には男たちの連帯に参与する資格が無いのだ。先述したが、崇徳と頼長との決定的な違いもそこにある。

彼に一人前の“男”である資格を与えてくれる“息子を愛する父”とは、たとえば清盛にとっては忠盛であり、義朝にとっては為義であり、頼長にとっては忠実であり、頼長の息子たちにとっては頼長であり、頼朝にとっては義朝であり、清盛の息子たちにとっては清盛である。

それは、彼を自らの後を継ぐ者として承認し、彼に自らと同じ目的を与え、そのために連帯すべき最初の“男”となることによって、彼をホモソーシャリティの輪の中に参与させてくれる相手である。「父に愛されない」ことは、この同性に求めるべき“健全”な承認と交際のモデルから排除されることなのだ。

実はもう一人、“父”との関係に障害を抱えていたが故に“男”であることに失敗していた人物がいる。他ならぬ鳥羽院である。絶対的な権力者として君臨する祖父白河院に抑圧され続け、妃である待賢門院を寝取られ続けた上に不義の子である崇徳を押し付けられ、白河院自身が崩御した後もその影に脅え続け、それから逃れるために新たな妃として迎えた美福門院と待賢門院との女の争いの板挟みになり、右往左往し続けた鳥羽院は、要は“父”に脅えるあまり男としての自らに自信が持てず、それゆえに女に縋り、女に支配されるという悪循環を生きていたのであり、“叔父子”である崇徳を疎んじたのも、怒りや憎しみではなく白河院の影への脅えと、待賢門院への愛憎の分裂ゆえに崇徳を“藁人形”にしていたのであり、それ自体が逃避であったに過ぎない。鳥羽院のこうした女々しさがホモソーシャリティに相応しいはずもなく、“男同士の絆”とは無縁なのは当然だ。

つまり彼自身“男”であることに失敗していた鳥羽院には、最初から息子を“男”として承認してやれるような父性など欠けていたのであり、実はそれこそが彼の妻や息子たちも含めた関係性の病の大元だったのである。そしてその全てが鳥羽院の白河院に対する萎縮に起因することは言うまでもない。

先述したが、こうした朝廷の人々の病理は清盛と彼を中心とした男たちの健全なホモソーシャリティに対比させられている。だが清盛自身、本来は白河院の落胤であったのを忠盛が引き取ったものとして設定されており、つまり同じく白河院を実父とする崇徳の不幸と挫折は、異母兄清盛の成功のネガなのだ。

そして崇徳と清盛との差をもたらしたのは、言うまでもなく“父”からの愛と承認の有無である。養父である忠盛から惜しみない愛情と薫陶を与えられ、“父のような男”であろうとした清盛には彼を慕う仲間が集い、清盛は彼らを率いて、実父である白河院を象徴する旧体制としての朝廷に挑み勝利するのだ。

白河院の影をものともしない清盛の強さは、当然それに脅え続けていた鳥羽院からも一目置かれる要因となり、それまでは兄崇徳と同様、女々しい父と空虚な母の間に放置され、投げやりな不全感を抱えていた後白河もまた、清盛に親しみと競争心を抱いたことによって大きく成長し、後には幼少の頃の清盛の庇護者であった乙前(祇園女御)から自身も精神的な支えを受けて即位に臨んだことで、崇徳との決定的な差をつける。後白河は平治の乱後の滋子との婚礼(滋子が乙前と同じく例の今様を口ずさんで後白河の目に留まるのも示唆的である)によって名実共に清盛の義兄弟ともなるが、実は登場した時点から、後白河はいわば清盛の“弟”として設定されており、彼はその繋がりによってこそ男たちのホモソーシャリティの中へ加わりえたのである。そしてこれもまた、疎外され続ける“女”であることを運命づけられた兄崇徳との残酷な対比となっているのだ。

清盛が理想的な“男”になりえたのは、忠盛という健全な男の養子となることで、白河院の影に支配された“女”の病理の巣窟である朝廷から逃れたからであり、成長した彼がそこに変革者として影響を及ぼすことは、彼のネガである崇徳に対して悲劇的な結果をもたらす運命にあったのである。

同じ白河院を実父としながらも、理想的な養父に育てられ、武士として生きる術を身につけて自ら運命を切り開けた清盛とは逆に、崇徳は父からは奔放な母の不義の子として疎まれ、愛に餓えたまま閉鎖的で病んだ宮中に閉じ込められるようにして育ち、そこから逃れる術などあろうはずはなく、その孤独な心を和歌を通して唯一解してくれた男──西行に思いを寄せたものの、あろうことか母との密通という形で裏切られるのだ。これは自分を不義の子として産んだ母の奔放さにも再び裏切られたに等しく、つまり崇徳は父に疎まれたことによる周囲からの疎外によって“男”になることを阻まれた上に、男からの愛を乞う“女”としても、その孤独感の元凶でもある母に敗れたのである。西行を失い、父にも死なれた後、崇徳は我が子を帝位に就けることで“男”になろうと試みるが、先述したように、このドラマにおいては父から愛されなかった者は“男”とはなりえない以上、この試みは敗れる運命にある。

和解を望んで書写した経文を引き裂かれ、我が子重仁親王を失ったことで怨霊と化した崇徳は、いわば父からのそれに起因する「愛されなかった」ことへの恨めしさの化身であり、これは先述したように女性的な情念である。

その悲憤の標的が清盛であり、その次男基盛の命を奪って皆を嘆かせたとされているのも、清盛こそ崇徳にとって「そうあることができなかった」自らの分身そのものであり、父と子と兄弟の愛とは、彼が疎外され続けたホモソーシャルで健全な絆そのものであるからだろう。

崇徳は一貫してこのドラマにおいて、あらかじめ敗北を運命づけられた本質的に女性的な存在であり、それは主人公であり勝利を約束された理想的なヒーローである異母兄清盛のネガとして対置されている。彼はいわば清盛の“妹”だったのであり、悲劇の“裏ヒロイン”であったといえよう。

長くなってしまった。 これでもドラマの中での同性愛に対する意味づけに絞るつもりだったのは変えていないはずなのだが。ちなみにこれまでに述べた通り、 同性愛が悪役&負け組の符牒とされている以上、 後白河に関してそうした要素が付与されることはありえないので、 信頼は単なるお笑いキャラだった訳だ。

だがそもそも、 同性愛が悪や病理というネガティブな意味づけを持たされていること自体がまったくの借り物なのだ。 院政期に限らず近代以前の本邦においてはそれは単なる“嗜み” であり、 今回の大河の登場人物たちも、史実としては現代人からすれば呆れるほどにフリーダムな両刀遣いであったに過ぎない。

つまりは同性愛をある限定されたネガティブな意味づけに押し込めることで特定のキャラクター性と結び付け、 それをイノセントなホモソーシャリティと対立させることでドラマを成立させているのであり、こうした約束事は言うまでもなく、 本質的にキリスト教文化圏である西欧由来の舶来品である。

要は今回の大河での同性愛の扱いは、「 明示的に描くなら敗北すべき悪役のものに限る」 という昔のハリウッドのヘイズ・コードの類であるにすぎず、 国営放送の看板作品がそうした法則に則っていることそのものが、 ドラマ自体の出来とは別に、現代の日本社会での同性愛への認識の程度を示しているだろう。


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by kaoruSZ | 2012-08-25 05:48 | 批評 | Comments(0)
※続編あり

最近も こんな形★で無責任な言及がなされたところだ。一つだけ断わっておくが、ツイッターでは、自尊心の異常に低い“腐女子”へのエンパワーメントや啓蒙に重点が置かれているので、今回も最後にようやく話題に近づいたところで中絶しているが、本来tatarskiyさんにとって、自称腐女子やジャンルBLは本質的な問題ではない(そもそも私たちはそういった特殊な存在があるとは考えていない。下手な書き手やよく書けていない作品は存在するが)。彼女が扱おうとしていることの一つは藝術の問題、なかんづく女は藝術家――道徳に気をつかい、女の分をわきまえるのではなく、自分の愛するものと欲望に忠実な――になりうるのか(あるいはどうしたらなりうるのか)という問題だ。ちなみに、twitter上での(これまでのような)“啓蒙活動”は近く中止するとのことである。https://twitter.com/tatarskiy1を参照されたい。(kaoruSZ)


“ホモォ騒動”の顛末について


RT @angelcrown: .@amoruk さんの「twitterトレンド一位にまでなった、溢れ出る"ホモォ"にリアルゲイが一人思うこと。」をお気に入りにしました。 http://togetter.com/li/289886

posted at 02:36:28

RT @ma_e: ホモォがあれだけ流行ったのは、腐女子を「腐女子という生き物」化するのが好きな人が多いから

posted at 02:09:19

RT @futeneco: コメント欄にある通り、ホモォは腐女子ってこんなんだ的な嘲笑を含むものだとも思うので、ヘテロ男性→ホモォを好む女性→リアルゲイという構図が当てはまるとは思えないわ。正しいセクシュアリティとそうでないセクシュアリティを区別した上で、後者を女と男性同性愛に押し付ける構造なら分かるけど。

posted at 02:10:45

RT @futeneco: @_surtsey このまとめ主、非腐女子もホモォ祭りに参加してることをまるっと無視して腐女子に責任をなすりつけて、マイノリティを傷つけるのは良くないでしょ?と正論をぶって自分の立場についてはノータッチというところが1番引っかかります。それでいて強くなれと、他人に説教する所も。

posted at 08:17:03

RT @futeneco:性的ファンタジーの分野、っていうかセクシュアリティは基本、社会的に構成されたファンタジーの要素てんこ盛りだし、リアルゲイ(なにそれ)とファンタジーゲイ(なにそれ)を区別する発想をやめた方が宜しいかと。

posted at 20:48:41

RT @futeneco:@_surtsey 私はどのセクシュアルファンタジーにも優劣はないだろうと思っています。同性愛表象でリアルな当事者様と偽物のファンタジーという区別をしても、ホモフォビアの解決にならないどころか、前者をゲイ男性、後者を女性に分けて差別しようとするヘテロ男性規範の反復だろうなと。

posted at 21:31:40

RT @futeneco:@amamako 腐女子とされる人が同性愛差別に加担したというか、それは社会(というよりヘテロ規範)がホモフォビックだからであり誰でも加担しうるわけですが、同性愛表象を好む人間がフォビックというのはあり得ないと思います。腐女子wと揶揄しなければならない現状がフォビックなだけです。

posted at 19:15:32

RT @AyahSaki: 「ホモクレちゃん」を見て、私は正直泣いたね。腐女子が喜んで拡散した自己像は、無害で幸せそうでちょっとキモいけど愛せる感じの生物だったんだよ・・・・・必死で「私達、美しくはないけど無害でかわいいやつです!愛して!」って;▽;泣ける

posted at 02:16:10

RT @amezaiku: 「ホモォ」は腐女子が抑圧されまくり崩壊し「異性愛男性主義の社会に認められたい」と媚売った結果。その結果が「ホモォと寄生を発することで周囲に嘲られながらも笑顔でい続ける哀れな生き物」になった上にリアルゲイ(笑)を初めセクマイコミュニティの目の仇にされたというのだから絶望しかない。

posted at 02:17:13

RT @amezaiku: 腐女子に限らずゲイ文化なんて女を馬鹿にして成り立っているものっすよ。でもそこが指摘されることなんて未来永劫無い。そしてそこをスルーしてゲイやその支持者は腐女子をdisり続ける。

posted at 20:31:50

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まだ話の途中でしたがhttp://twilog.org/tatarskiy1/date-120417関連のある話題なので、後出しジャンケンみたいで恐縮ですが上のRTの一件について少々。(口調の違いは気にしないで下さい)要は自称腐女子の人の自称自虐というのは必然として権力者であるヘテロ男性の感性に規定された通俗なホモフォビアに対するおもねりになるんだよね。

そしてそれを“リアルゲイ”に叩かれるのを恐れて「私はこんなリアルゲイの人に配慮の無い間違った女とは違います!」と主張しだすのも「男の顔色を窺って同性を蔑む」という点で実は全く一緒。“自虐”だろうが“反省”だろうが「女が“正しくない女”を蔑む/嘲る」というミソジニー的パフォーマンス。

つまり、いくら「身の程をわきまえて自虐的に」振舞おうと、おもねるべき相手がヘテロ男性とゲイ男性の両方である以上「あちらを立てればこちらが立たず」というくだらないジレンマに陥るだけになる。そしてますます女同士の相互監視と締め付けあいだけがきつくなり、男からはどのみち憎まれ続ける。

またこうした嘲笑と“自虐”の悪循環は、多くの女性に対する「“腐女子”と認定されることは自らのセクシュアリティに対する一切の尊厳を認められず侮蔑される存在になることだ」という見せしめの効果を担ってもいる。これは実は男性にとっての「自分がホモだと思われる恐怖」に正確に対応するものだ。

だがそもそも男性同性愛及びその表象を愛好することがそれ程に差別されているのは、言うまでもなく社会の権力者であるヘテロ男性がホモフォビックであり、女性とゲイ男性を蔑視しているからでしかなく、そもそも女性がゲイ男性を差別することなど出来はしない。女は常に男の意向を伺い従属するだけだ。

いかなる場合であれ「女が悪いから」ゲイが差別されるというふざけた言い分は、「本物の権力者とは対立したくないが、憂さ晴らしはしたい」という卑劣で虫のいい発想にしか聞こえない。ヘテロ男性にとっても人権や政治的正しさを盾に非難される心配の無い腐女子叩きはホモフォビアの発散に丁度いい。

つまり男性同性愛の表象に関してトラブルが生じた場合に“腐女子”を生贄にすることにはヘテロ男性・ゲイ男性双方に明確な利害の一致があり、暗黙の“紳士協定”が成立している。男が男を告発することには相手の面子を潰して恨まれるリスクがあるが、男が“ふしだらな女”を侮蔑するのは当然だからだ。

男には“男としての名誉”が約束されているが、女にはセクシュアリティに関する独立した尊厳など認められていない。女には“正しい女”か(“腐女子”のような)“ふしだらな女”かを分かつ踏み絵があるだけだ。後者であるとされれば、見せしめとして何をされても“当然の報い”に過ぎない。

だからこそ女は自分が「あんな女とは違う」ことを証明するのに躍起になる。“普通の女”は腐女子だと思われまいと努め、腐女子と思われるのは避けられない場合も、せめて「マイノリティに配慮し身の程をわきまえた」“貞淑な腐女子”として罪一等を減じられることを望む。無論裁定を下すのは女ではない。

女が“女”としてではない性的ファンタジーを持つことなど、彼女の守られるべき尊厳のうちには入らない。これは“当事者様”や“性的マイノリティに理解のある皆様”にとっても当然の前提なので“レズビアン”や“バイセクシュアル”ではない“腐女子”には冷淡だ。

この辺りについては以前に詳述したのでhttp://kaorusz.exblog.jp/18567610/繰り返さないが、今回の一件でも、実際には“弾除け”(にしてサンドバッグ)としての腐女子に遮られて直接的な被害など受けていないゲイ男性の人権の問題としてしか歯止めがかからなかったのがふざけた話なのだ。

真に問題にされるべきは「“腐女子”のせいにすれば好きなだけホモフォビアを公言できる」というヘテロ男性の態度と、それに付け込まれる女性の側の自尊心の欠如であり、必要なのはヘテロ男性のホモフォビアに対する批判と、女性の性的ファンタジーの自由に対するエンパワーメントに他ならない。

今回の一件とは少しばかりズレがあるし、話がややこしくなるので深入りはしないが、いずれにせよ私は女性の側(腐女子とは言わない)がゲイ男性に気を使ったり理解を求めたりすべきいかなる理由も存在しないと考えているし、そうした“男からの承認”を求めること自体が差別の是認にすぎないと考える。

今見返してみればなんともぎこちない文面で気が引けるが、ひとまずこのことに関連のある以前の他の人との会話のログを貼っておく。

http://twilog.org/tatarskiy1/date-111217

http://twilog.org/tatarskiy1/date-111224


なお、上の会話に引き続き返信するつもりで書き溜めたものの中絶していたメモ書きも、この際ポストしておく。何某かの参考になれば幸いである。(了)


(12月18日付の会話より続く)お返事ありがとうございます。ただ、返信を拝見して少々補足させて頂きたい点があります。「不正確なイメージ」を「消費」しているから反論の余地は無いのではないかと怯えてしまわれるとのことですが、これはこんな怯えを抱かせる側が100%悪いだけの話で、貴方を含めたBLを好きな女性には何一つ責められるべき謂れはありません。実は明日の朝早くから用事があるので、今晩は長い文章をツイートする余裕がありませんので、この件についてはまた日を改めてお伝えしたいと思います。では今日はこれにて。

まず「不正確なイメージ」云々ですが、先にお送りした私の連続ツイートの意図の一つは、本物の「正確な」イメージというものは存在せず、それは「これこそが正確なイメージと信じられるべきである」というイデオロギー的な文脈によって浮上してくる虚像にすぎないということです。
これに補足すると、「不正確なものとして否定されなければならない」とされるイメージとは、そのネガに他ならないということです。

具体的には、私が例示したような「性的指向以外はいわゆるヘテロのまっとうな社会人男性と変わらないゲイ男性」というイメージがネガとして否定しているものは、「社会的に不安定な立場の、場合によっては水商売に従事しているような、女装癖があったり“女性的”な振る舞いをする、世間的に“まっとうな男”とは受け取られない」男性のイメージです。つまり、「ゲイは“女”なんかじゃない」と言いたいわけです。
これは“女”として扱われることから逃れようが無い生物学的女性にとってはふざけた話で、本質的に女性差別的な主張です。

早い話が、ゲイ男性は「男のくせに“女”のように男の性的対象になりたがる/男が男を性的対象すなわち“女”にする」と思われているからこそ、「当然女っぽくなどないまっとうな男」であるところのヘテロ男性から差別されるわけで、実はこれは「受動性(性的な受身性を原義とする一連のイメージ)を“女”として外在化した、自らは“女”であってはならないもの」こそが男そのものの起源であり、ゲイ男性の存在はこの男の成り立ち自体を危うくするものだからです。逆に言えば、「男に対して受動的であるもの」こそが“女”の起源であり、つまり“女”とは本質として現実の女性のものではありません。

伝統的に、優れた男性の芸術家が往々にしてゲイである場合が多いのは、この“女”に象徴される受動性から生じる美的な価値こそが優れた「表現」を生み出すのには欠かせないものであり、受動性を単に女性の本質と見なした通俗的な“女”イメージのみに縛られがちなヘテロ男性と違い、ゲイ男性は受動性を自分から外在化していない分だけ通俗的女イメージへ縛りつけられておらず、その分だけより洗練された受動性のイメージを生み出すのに有利だからです。むろんこの有利を優れた「表現」を作り出すのに生かせるだけの才能の持ち主はいつの世にも希少なのですが。

逆に、当然ながら才能さえあればヘテロ男性でも優れた表現者でありえます。また、そもそも“女”とは男性の受動性であることから、男性が作り出し、時には自ら体現する“女”のイメージは、現実の女性以上に“女”らしく、つまり現実の女性以上に優れたものとして受容されるのです。おネエキャラや歌舞伎の女形なんかいい例ですね。二次元美少女は開き直りすぎて誰の目にも子供っぽいですが。

そして男性による男性同性愛の表象は、近代的なヘテロ/ゲイという二分法が成立する遥か以前から文化の中に存在し、これは先述した「通俗的な“女”イメージではない洗練された受動性」の伝統的な表現形式だったわけです。

これまでの流れでお分かりでしょうが、この「男性による受動性の外在化としての“女”」と「男性による洗練された“女”/受動性イメージの創出としての芸術」という図式は、実に有史以来と言っていい程に伝統的なものです。(中絶)

※上の文章、「伝統的に~」以降と話が繋がっていないですが、これは別々に書いていた二つの文章をまとめて投稿したためです。ややこしくてすみません。



★“@hazuma これはマジで素朴な質問なのだけど、BL関係で「ホモォ……」とか呟かれているのはどう感じるの。RT @masayachiba: まぁ、ホモってのは、現在、基本的に「ほぼアウト」の侮蔑語だと思うんだけど。どうでしょう。公の場では。(当事者が自分で自分を茶化すときには使われると思います”
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by kaoruSZ | 2012-07-30 21:22 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(7)

twitterで腐女子は権力者()だと言い張っていた被害妄想基地外の一件について

以下のまとめは内容的には「tatarskiyの部屋(2)“BLからフェミへ”(笑) 」の続き。
なお、このときtatarskiyさんは中平康監督の『狂った果実』を論じ石原慎太郎のホモフィルぶりについて書いていた最中だったのが中断されてしまって非常に惜しい。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1201ぜひ続きを書いていただきたい。(kaoruSZ)
********

RT @Hornet_B: BLはー、腐女子ではない女子オタクにはー、男子むけのごくふつうのポルノと同じ圧力をかけてるよー。男子ポルノが『正常な男』を規定するのに使われているんだとしたら、BLはいまや『正常な女子オタ』の踏み絵になりかねないということさ。
posted at 02:08:13

RT @Hornet_B: 流れちゃったけど、いま、TLのカタスミに、正常な男を規定するもの=ポルノ、で、それと同じような使われ方をしているものなどないって見えたもんだから。いや、もっとずっと小さい狭い範囲ではあるが、もはやBLだってその力を持っているよと。
posted at 02:08:32


@tatarskiy1です。上の@Hornet_Bの馬鹿発言に釘をぶっ刺しておきたいと思ったのですが自分の垢では連続ツイートの途中なのでこちらにコピペ頼みました。→
posted at 02:14:39

→で、本題だがはっきり言ってマジで訳ワカメ。いったい何時BL好きなことが「排他的に“正しい”当然のものとしての女の欲望の形」になったという事実があるの?@Hornet_B、お前自身のBL蔑視から来る被害妄想を投影してるだけだろうが。→
posted at 02:22:01

→それこそ「あんな女たちと一緒だと思われるかもしれない私が可哀想」ってことだろ? それって、「BL好きな女=あんな正しくない女」という前提があるからじゃん。→
posted at 02:23:26

→私自身何度も書いて来た事だが、「男の当然の正しい欲望=女に欲情すること」で、女は「男に欲望されることを受け入れること(より平等な男女関係とやらを望む態度も含む)」が正しいとされる欲望のあり方なの。→
posted at 02:23:57

→だからBL好きな女なんてどれ程多かろうと「公式な正統性」を認められない当然蔑視されるべき異常な欲望でしかないんだよ。「腐女子」という呼称自体が、「正統とされる女子のあり方からすれば“腐って”いる」という自虐的な前提なくしてはありえない。→
posted at 02:26:33

→だから“正常な男”が「当然ホモなんかと一緒にされたくない」と公言して憚らないように、“正常な女”をアピールしたい@Hornet_Bは「当然“腐女子”なんかと一緒にされたくない」ということだよね。頼まれもしないのに差別主義者丸出しでご苦労様。
posted at 02:27:19
[ここまではkaoruSZのtwitterアカウントを借りてポスト]

RT @carpe_diem435 いかんRTしたまま寝てた。私の記憶では、腐女子が「正しい女のあり方」であった事は無いなぁ。寧ろ、「女のオタク=腐女子」というレッテルに対し、「何でもホモにするあいつらと一緒にしないで」ときう反発しか聞いた事ない。
posted at 03:27:52


RT @carpe_diem435 数は多いし、コミケなんかでも確かに腐女子という人口は一定の割合を占めているよ。でも、それは「覇権的」とは言えない。常に気持ち悪い、それこそ腐ったものという自認をつきつけられ、自重を迫られる立場だと思うけどね。
posted at 03:32:44

RT @andy_kam: 批判は受け止めるつもりでいる。でも血を流しながら「ほっといて」と悲鳴を上げざるを得ないほど作品を脇に置いて性やらなんやらにレッテル貼られまくってきた腐女子の状況を全く鑑みず覆いかぶせるようにして「お前らはもうマジョリティだ強者性を自覚しろ」とかやるのはえぐすぎると思う……。
posted at 13:06:15


RT @amezaiku: @carpe_diem435 正直言って腐女子に限らず女オタ(というか女全体で)「認められている正しい姿」っていうのは存在しないと思います。そんな中で「強者を作り出してそれを叩く」というのは間違いだと思います。
posted at 13:10:17

RT @amezaiku: 「BL好きが正しい姿とされている」と言われたら爆笑するし「乙女ゲー好きが正しい姿とされている」と言われたら鼻で笑うし「夢好きが正しい姿とされている」と言われたら苦笑するし「百合好きが正しい姿とされている」と言われたら欠伸するし「少女漫画好きが~」と言われたらryそんなもん。
posted at 13:10:41



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本当は連続ツイートの途中で余計な用事に(ryだが色々とあまりにも酷いので失礼。スズメバチの馬鹿が被害妄想の虜になっているだけの卑怯者なのは当然だし、批判している人たちの言わんとしていることも理解できるのだが、私は所謂BLを好きな女性とそれ以外の嗜好を持つ女性が平等に抑圧されているとはまったく思わないし、andy_kamさんが「批判は受け止めるつもりでいる」と書かれているが、「受け止めるべき批判」などはっきり言ってまったく存在しないしあるなら具体的に教えていただきたいくらいである。

amezaikuさんが言うように、女の好み自体が軽く見られ馬鹿にされているのは確かだが、BLを好きなことは他の男女や女同士のファンタジーを愛好することとはおよそ比較にならない、明白な男性からのヘイトと同性からの差別化としての忌避にさらされるし、それには明白な構造的理由がある。

繰り返し書いてきたことだが、性的ファンタジーに対する社会的視線のヒエラルキーは、ホモフォビアを当然の前提とする男性のヘテロセクシュアリティを中心に、それに対立するように見えて実は相補的である「道徳」に支えられて形成されており、この道徳には「道徳としてのフェミニズム」も含まれる。

端的に言って、BL好きな女性の存在は、まず第一にそれが男性同性愛の表象であること自体によって支配者としてのヘテロ男性の逆鱗に触れ、第二に、男にとっての女であるべき/それを夢見るのが正常であるべき女の分際で「男にとっての男」を思い描くことの逸脱によって、「普通の女」としての同性に「殿方や自分と同じ“普通の女”にあれの仲間だと思われたくない」という忌避とその表明としての差別化を生じさせ、第三に「男にとっての女ではなく、主体性を持って同性と連帯し女であることを肯定する女」という「もう一つの正しい女像」を称揚するフェミニズム的道徳によって「女ではなく男を称揚する利敵行為」として断罪される。

つまり世俗のヘテロセクシズムとフェミニズム的道徳とは、共に「女は女であることを喜ばしく思い夢見るべきである」という根本的な戒律を共有しており、「女性が男同士のイメージを愛好すること」はこの「女性に女イメージへの同一化こそが正当であるとして強いる」戒律と完全に衝突するが故に肯定されえず蔑視されるのだ。

道徳からも世俗のヘテロセクシズムからも後ろ盾を得られない性的ファンタジーが、通俗な世間に対して正統性を主張しうる根拠などありえない。逆に言えば、性的ファンタジーに関するおよそ凡ての通俗な正統性の主張の根拠は、世俗のヘテロセクシズムと道徳とに由来している。

こうした原理に例外は無いがそれも当然のことである。「正統性の根拠たる源泉」を独占してこそ「支配的なイデオロギー」足りえるのだから。他者を差別しうるのは「支配的なイデオロギー」を後ろ盾に持つ者だけだ。平たく言えば「権力の犬」なればこその特権だということだ。

私が「正しい女」「正常な女」と書くとき、それは必ずこの「権力の犬」を意味している。「誰でも人を差別することはあるかもしれないんだから、気を使いましょうね?」などという抑圧的な寝言は、ここまでに散々述べてきた支配的なイデオロギーが権力を振るう厳然たる制度の存在を隠蔽するものだ。

具体例に話を戻そう。今回の場合なら、「百合が好きだから腐女子なんかとは違う/こっちはちゃんと女の子が可愛いと思ってるし、女同士が対等なのっていいことだと思う。あいつらは男を女にしてるだけじゃん」という女にはフェミニズム的道徳が、「男女が好きだから腐女子なんかとは違う/男と女で対等な方が正しいと思うし、あいつらは男を女にしていてゲイ男性に失礼だと思う」という女には、世俗のヘテロセクシズムとフェミニズム的道徳の双方が、それぞれ後ろ盾になっている。

で、「BL好き」な女性がこうした文字通り「権威を笠に着た」発想自体出来ると思いますかね?まして公言することで他者を威圧することができるとでも?その威圧感を感じさせるだけの権威ある後ろ盾が一体どちらにあると仰るのでしょうか?こっちにそんなものがあるわけがねえんだよ権力の犬どもめ。

また例示したような所謂ノーマルカプ厨や自称百合好きによるBL蔑視的な発想は、腐女子の人の間でもかなりの程度内面化されているし、それに正面から異を唱えている人など見たことが無い。それも当然だ。誰もが同じ「支配的なイデオロギー」に規定された構造の上に生きているのだから。

「ちゃんと男女も好きだよ」、「百合もいいと思うよ」、「美少年受けなんかより親父受けの方が面白いよね」こうしたアピールをする発言が物語っているのは個人の嗜好それ自体ではない。本来それ自体はどんなものであろうといかなる正しい価値も正しい意味も無くただ自由なだけだ。問題はこうした発言をアピールとして引き出す動機であり、その発言が支配的なイデオロギーの構造の中でどのような意味を持つのかだ。しかし、誰が逆に「ちゃんとBLも好きだよ」と言わずにおれない程の抑圧の許に置かれていると言うのかね?リアリティ皆無だよ。「苦手自慢」なら腐るほど見たが。

それにしてもこうした所謂BL周辺で姦しく囀られている「望ましくて正しいとされる表現/間違っていて正されるべきとされる表現」のコードを読み解けば、実に馬鹿馬鹿しいことがわかる。

要は「女は女に同一化するのが望ましく正しく(男女、百合)、男が女性的であることはあるまじき間違いである(女性的な美少年より逞しい親父)」ということで、何のことはない、ミソジニーとホモフォビアとヘテロセクシズムに立派に準拠した、正しい男と女の描き方を形を変えて説いているだけだ。

逆に言えば「男に愛される男が女性的に美しく描かれていること、その表象を愛好すること、特に愛好する者が女であること」は蔑まれるべき罪であるということだが、馬鹿でなければこれがヘテロ男性の視点で規定されたホモフォビアでありミソジニーなのはお分かりだろう。

つまりもっともらしい理屈を捏ねてBLを差別したがる連中は、当人が“政治的に正しい”つもりであるのとは裏腹に、釈迦の掌の上でわめき暴れるが如く制度的なヘテロセクシズムに囚われている。それも当然であろう。ヘテロセクシズムとは何よりも男が男に対して受身で愛されることのタブー化である。

ついでに言えばミソジニーの強い一部のゲイ男性が「女が描いた女のような美しい男なんて偽物で差別でふじこ」とゴネていることがあるが、何で「女が描いたら偽物」で「美しいのは差別」になるのかといえば、ご当人が「俺は女なんかとは違う、一緒にされたくない」と女性を差別しているからであろう。

「女同士なら対等だから~」「やっぱり対等な男女を描くのが正しいと思う~」「受け攻め固定より対等なリバの方が~」この手の陳腐なフレーズの決まり文句である「対等」という言葉が意味するものは、要は“犯される女”に象徴される受動的なマゾヒズムとナルシシズムへの罪悪視であるに過ぎない。

つまりは馬鹿な連中からの「男が女を犯すポルノと同じ事をやっている」という非難を内面化して恐れるという、これも抑圧の結果である。何度も書いてきた事だが「受身で愛される/犯される」というマゾヒズムとナルシシズムこそ性的な快楽の源泉であり、これを認めず蔑視するヘテロ男性が特殊なのだ。

馬鹿はヘテロ男性の自己欺瞞を見抜けないまま受動性に対する蔑視だけはきっちり内面化し、その鬱憤を何の権力もあるはずも無い女性の性表現にぶつけて晴らそうとする。こっちの方がヘテロ男性が自身の受動性への蔑視をそれを外在化し押し付けた女性にぶつけるのと相似形なのが醜悪で手に負えない。

繰り返し書いているが、性と性表現が暴力としてしかイメージされず本質的に「罪深い」ものであると言う観念は、制度的な男性のヘテロセクシュアリティが根源的な快楽としての受動性=犯されることを自分のファンタジーとしては否認し、それを「女のファンタジーであり本質」として外在化することにこそ起因する。

「俺は自分が犯されたいのではない、女を犯したいのだ。それこそが男の快楽であり、俺に犯されることこそが女の快楽であり本質なのだ」と主張する一方、無意識下では自分で自分に禁じた「犯されること」の快楽を享受することを許されている存在である女に嫉妬し憎悪を募らせ、この「憎みながらも惹かれずにはいられない」という女へのアンビヴァレンスの結果として「性とは本質的に罪であり、男を誘惑する性的な存在である女とは罪深いものである」という道徳的な観念が生まれるのだ。これが多くの文化圏で宗教と結びついた普遍的な観念であることは誰でもご存知だろう。

つまり「性欲とは攻撃的で暴力的なのが当然のものである」という通念も、「性欲とは罪であり懺悔すべきものである」という道徳的観念も、共に制度的なヘテロ男性のメンタリティから発する主観であり、本質的に男性のものなのだ。
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by kaoruSZ | 2012-07-08 20:48 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(5)

もう一ヵ月半ほど前のことだが、ツイッター上で長野ハル氏が主催する「左翼BL」に関する話題でTLが炎上した件で、それをきっかけに自分で発言した一連のツイートをまとめてみた。それまでの経緯は下記のURLのトゥギャッター及びふてねこ氏や私のツイログを参照してもらいたい。トゥギャッターの方はほとんど発言の取捨選択がなされていないこともあって、発端について以外を把握するにはお勧めできないが。

左翼BL論争togetter
http://togetter.com/li/301060

ふてねこ氏のツイログの該当箇所
http://twilog.org/futeneco/date-120508
http://twilog.org/futeneco/date-120509
http://twilog.org/futeneco/date-120510

私のツイログの該当箇所
http://twilog.org/tatarskiy1/date-120509

そういうつもりで書き出したことではないが、結果的には私がツイッターを始めてからこれまでに書き溜めてきたことの決算になっているので、何か気になることがある人は、これを参照して各自が思うところに役立ててもらえればと思う。個人的には、女性の性的ファンタジーの自由と権利に関して私が言うべき基本的なことは、すべてこの文章の中に尽くしたと感じている。

**********************

所謂BLに関するあらゆる不当な中傷についての当然の反論。あるいは真に女性が要求すべき自由とその権利について

言わずもがな、昨日からTLを異常に加速していた一件についてですが、実は個人的にあまりにも嫌なことを思い出す話だったのもあり、主だったツイートを収集しながら見てはいたものの、何か言う気にもなれずにいたのですが、これ以上黙っているのが我慢ならない部分があるので失礼します。

わたる氏や北守氏への主だった批判には今更私が付け加えることなどない。BLや同性愛への偏見、および女性の性的ファンタジーへの無理解がなければおよそ出てこない態度と発言だったにすぎない。前にも書いたが、彼らのような人は異性愛男性モデルの性欲=暴力という図式を発想の基本にしているため、「暴力などではない性欲やファンタジー」が存在しうること自体にリアリティが持てず、彼らにとってセクシュアリティとは「穢れ」や「罪」のことでしかない。中にはその負い目からの反動によって「罪を自覚できている自分は素晴らしい」と思い上がり、それを他者にも布教しようとする者もいる。

こうした構図とそこから派生する問題についてはもう何度も書いてきた。http://twilog.org/tatarskiy1/date-120427 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120428 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120105 http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120205 http://twilog.org/tatarskiy1/date-120206
で、非常に気が重いのだが本題に入ろう。私が言わずに済ませられないと思ったのは、そんな自明の差別についてではなく、「BL表現」一般についての偏見に基づく不当な言いがかりの問題と、長野氏を主とした「左翼BL」という同人活動については別の問題であり、私は後者を支持する気にはなれないからだ。

なぜかと言うのはかなり面倒な話になるが、まずは下のRTにもあるご本人のブログを見てみようhttp://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20120508/1336495908 これを一読すれば自明だが、彼女は「左翼BL」とは「フェミニズムや労働問題についての政治的な実践」と「自分の女としてのセクシャリティの葛藤」を結ぶ活動で、それは現実の生活の中の問題意識と結びついた“女性の実感”と性的ファンタジーの表現を融合することだと考えているようだ。そしてそれを通して「女性以外の労働者やマイノリティとの融和」がありうるとも。“綴方教室”のBL版のようなコンセプトなのだろうが、私はまったく支持する気になれない。

それによって得られる承認とは、「女性が自分の性的ファンタジーとして男性同性愛の表象を愛好し、かつそれを表現すること」は「使い方によっては“正しい”政治的目的に奉仕できるから」というものでしかなく、女性が男性同性愛の表現に惹かれること自体も「女性の女性としての葛藤の昇華に役立つから」か、「ゲイなどの性的マイノリティへの理解を広め、かつ彼らの“腐女子”への悪印象を払拭できるかもしれないから」という、どこまでもその母体となる“正しさ”(ここでは“左翼”やマイノリティ運動やフェミニズム)に従属したものでしかなくなる。それは女性の一個人としての自由とは相反するものだ。

私は自分自身も不可避に含まれる女性たちが、男性同性愛の表象に惹かれる「女ならではの」理由を詮索されたり語らされたりすること自体が極めて不愉快だし、そうした需要に応える形で流通することになる“理由”の大半は、男性のホモフォビアの不問と女性のステレオタイプへの押し込めに終始するものだ。

それはたとえ“フェミ的に支持されうる”内容のものであっても同じである。「同情に値する女性の境遇/実感」なるものは、常に現実の権力関係の中における「作られた語り」であり、「これこそが“女”と信じられるべきである」という、個々の女性を抑圧する虚像を生み出すのだ。

何が言いたいのかといえば、あの長野氏のブログでのBL表現に惹かれる理由を“女の境遇と実感”に還元してフェミ的な支持を取り付けようとしたり、“マイノリティへの理解”を広める啓蒙的ポジションをアピールしたりは、それ自体が「正しい腐女子のステレオタイプ」としての振る舞いだったということだ。

「こうすれば許される」というポジションの提示は、「こうしなければ許されない」という冷酷な線引きの裏表である。女性やセクシュアリティの話に限らない問題だが、真に必要なのは、こうした線引きを当然のものとして行なう“権力”そのものへの批判である。弱者とは線を引かれる者のことなのだから。

女性の性的ファンタジーとその表現の自由を守るために必要なことは、彼女の境遇や内面についての説明などではなく、現実を規定する権力的な制度である男性のヘテロセクシュアリティの仕組みの解明による非自然化と、男性のヘテロセクシズムの補完物ではない女性の一個人としての自由の保障に尽きる。

長野氏が、そうした自分以外の女性の性的ファンタジーを持つ権利が、政治的正しさ(規範に対する“貞淑さ”)と無関係に保障されるような取り組みをきちんと行なった上で個人の実感を語り、また「左翼BL」を創作していたなら、私は何も問題に思わなかったであろうし、逆に一般的な商業BLにおけるリーマンもの等と同じ様な単なる職業フェティシズムに基づく娯楽創作として描かれたものであったなら、これもまた何も問題に思わなかっただろう。言うまでもないが、「BLにしてはいけない題材」などあるわけがない。

だがご本人のブログやツイッター上の言動や、描かれた作品のサンプルを見てみれば、それは明らかに「政治的正しさの実践とアピール」として描かれたものだ。取り上げること自体に政治的なよき価値があるとみなされる題材を扱っていることに重きがあり、読者はあらかじめそれを了解している必要がある。

また失礼ながら、そうした“作者の意図”を共有せず政治的共感を持たない読者にとって、魅力的な表現として受容されうるだけの完成度などまったく感じられないものだった。つまり政治的に正しい意図という註釈=エクスキューズ無しには読めたものではなく、自立した表現にはなりえていない。

当然ながらこれが好きなアニメや漫画の二次創作であったなら、完成度云々は単に大きなお世話であろう。また描かれた当時は強くイデオロギーを帯びていたであろう多くの宗教絵画の傑作のように、優れた作品であればそれを描かせたドグマの権威が比べ物にならぬ程失われた後も傑作であり続けられる。

だがあの「左翼BL」の評価を支えているものは、はっきり言えばローカルかつお粗末な政治的正しさにすぎず、表現としての普遍性を持たないものだと判断せざるをえない。表現の普遍性とは快楽と言いかえてもよいが、娯楽であることか、芸術であることか、そのどちらかであることが出来ているものだ。

同性愛表象を例にとれば、過去に男性の作者による男性同性愛を表象した傑作は枚挙に暇がない程だし、現代の女性作者によるBL表現も、多くの人に通じる性的ファンタジーを提供する娯楽となりえている。

こうした表現の強度を支えているものは、その本質として必然的にアモラルなものである受動性の夢=愛される/犯されるファンタジーであり、間違っても移ろいやすい通俗なモラルなどではない。女性が芸術家になれないとされてきたのは、彼女が妻や母や修道女としてモラルにかしずく存在だったからだ。

娯楽であり、芸術であり、快楽であるものを楽しみ創造する権利。それこそが女性が要求すべきものであり、通俗なモラルからお墨付きをいただくことではない。前者である「BL表現の自由」を擁護することと、後者であると判断せざるを得ない「左翼BL」を持ち上げることは、残念ながら相反している。

ここからは半ば余談だが、実を言えば徹夜でこれだけの文章を打ち込まずにおれない程の不快さの原因というのは、TLが祭り状態だった二日間の長野氏本人の態度と、絡みに来た相手が北守氏だったことが一番大きい。お二方とも以前は所謂はてな民でいらっしゃいましたよね。と言えばピンと来ますかね?

まず、いかに相手がひどかったにせよ、長野氏の他人事のような静観ぶりが解せなかった。また私がRTしたものを見てもわかるように、わたる氏や北守氏と直接やりあっていた人たちが主張していたのはあくまでホモフォビアへの非難と表現の自由の主張という基本的なもので、「左翼BL」は実は無関係だ。

そして長野氏はひたすら「こんなにいい心がけのつもりでいいことをしていて、認めてくれる人もいるのに非難された私」というナルシシズムを弄びながら周囲から慰められていたとしか見えなかったし、本来なら彼女が引き受けるのが筋だった正面の戦いを肩代わりしていた和紙子さんが正直気の毒だった。

言っておくが、私がそう感じたことは和紙子さんご本人がどう思われているかとは関係ない。そして私は北守氏に和紙子さんが言っていたことには一切反対する理由は無いが、長野氏の態度と彼女の「左翼BL」については全く評価できないと思うまでだ。

私は長野氏自身が、BL表現一般についての偏見を非難した上で、それとは別に自分の創作物としての「左翼BL」の位置づけを宣言するべきだったと思う。だがそれが無かったがために周囲の人が全ての対処を肩代わりすることになり、彼女はBL表現一般への擁護に紛れる形で守られることができた訳だ。

“戦略”としてはお上手かもしれませんが、はっきり言って日頃大義ある政治的正しさについて論じる立場にあるお方にふさわしい態度とは思えませんね。私が思うに、彼女の“政治的正しさ”という着ぐるみの内側には自己憐憫があるだけなので、一個人としての自分の正統性など主張できないのだ。

彼女がなぜ未だにそんな情けない風であるのかだが、彼女自身の性格やリアルの環境のせいだけとも思えない。個人的な観察だが、むしろ数年前のはてなダイアリーでBL論議めいたことをやっていた人たちに共通の傾向のように思うのだ。今でもその人たちをツイッター上でみかけると大体どうしようもない。

「腐女子という“ただの女”が性的マイノリティ様に配慮するにはどうしたらいいか」「フェミ的にも評価できるBLとはどういうものか」「ゲイ男性に怒られたけど謝ったらちゃんとわかりあえてよかった」今でも目にする女を蔑んだ茶番じみた設問の数々が毎日のようにホットエントリとやらになっていた。

北守氏の名前もその頃に初めて見かけたものだが、常に絶対に自分が正しさの側にいることを確認するために、誰にも反対できないことを好んで主張する人という印象だった。だが私が呆れたのは、表現規制問題に関連したこちらのエントリーを見た時だ。http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090611/p1
上のエントリーを見てもらえれば分かるように、北守氏にとって性表現とは“暴力”であり、黒人差別と同じであるらしい。話題になっているのは男性向けのエロゲーだが、最初に言ったように、この手の“罪の意識”で凝り固まっている人はそれ以外の発想が持てないので女性による表現にも当然不寛容だ。

繰り返しになるが、問題は愛される/犯されるというナルシスティックなファンタジーを自分のものとしては決して認めずに「女の願望であり本質」として他者化せずにはいられないヘテロ男性のメンタリティであり、「女に対する暴力だから罪であり、それを自覚できる自分は偉い」というのは二重の勘違いだ。

北守氏のような人――あらゆる差別とされる事象(人種・民族・障碍の有無など)について「差別などしない正しい立場」であることに拘り、それをプライドの源泉にしているヘテロセクシュアルの男性――にとっては、自らの女へのセクシュアリティそのものがセルフイメージにおける“致命的な汚点”であり、彼はそれを挽回しようとして「自分のように罪を自覚できていない」他の男性や、「男のように罪を犯し加害者となった女」を正義に基づいて糾弾してやまないのだ。彼の望みは「相手が自分のように“反省”すること」であり、他者が抱える個別の事情も男女の非対称も知ったことではないのだろう。

だがこうした「他者に対する想像力の欠如」こそが典型的なヘテロ男の悪癖だ。彼は自分のことを「意識が高い」つもりでいるようだが、実はブランドものとして登録された「権威あるマイノリティ」を気遣う自分に酔っているだけで、個別の他者をその人として思いやる能力を実は全く欠いているのだ。

私が北守氏の名前を覚えていたのもそうした傾向が抜きん出て強い人だったからだが、あの頃のはてなでは、彼のような主として天下国家を語りつつ“性的マイノリティの人権”にも意識があることを示す男たちと、“腐女子”と性的マイノリティ様に二股をかけつつ女を善導しようとする男たちの両方がいて、肩書きの無い“ただの女=腐女子”たちは、そうした“名誉ある男たち”からも“性的マイノリティ様”からも“フェミニスト”からも監視を受けながら、上目づかいで懸命に「私たちがBLを必要とする可哀相な理由」や「正しいBLの可能性」について理解を求めていた。今思い出しても反吐の出る光景だ。

あのキーワードとブクマに繋ぎあわせられた隣組じみた相互監視システムのムラ社会の中で、“名誉を持たぬ賤民”として蔑まれた側が、「自分も名誉がほしい」と考えずにいられなくなるのは当然の成り行きだろう。だから進んでフェミニストを名乗り、「BL好きはフェミと一致する」とアピールする。

そして彼女がBLを好きな理由の中に“フェミと一致しない”ものがあればそれは抑圧される。彼女が公表した「みんなが認めてくれそうな正しいBL語り」は、偽善的な予定調和の中で受け入れられ「ああいう風に語れば責められないで認めてもらえる」という前例となり、後は模倣が模倣を生み続けるのだ。

あの日本的世間の醜悪なパロディの中で“フェミ”という単語が意味していたものは、まさに“貞節”そのものだった。女たちは“フェミ的でない”と見なされることを何よりも恐れ、権威ある男たちとある種の名誉男性である“性的マイノリティ様”からの承認を何よりも欲し、彼女らにとって名誉を持たぬ“ただの女”としての自分自身も含めた同性と、彼女が持つ通俗モラルに従わない自由な性的ファンタジーの存在とは「一切の価値を持たず、そこに落とされたら終わりであるにすぎず、絶対に同じだと思われてはならないもの」だったのだ。これはミソジニー以外の何者でもない。

つまりは“正しくない同性”との差別化のための“フェミニスト”という肩書きへの固執自体が、実は紛れもない“ミソジニスト”の証しだったのだから皮肉という他ない話である。そしていったんその肩書きと“正しく許されるポジション”を手にすれば、当然ながらそれに縛られ続けるしかなくなる訳だ。

そうやって“政治的に正しい理由づけ”の内面化で自分を鎧うことは、そこから外れた“それ以外の自分”を自分で肯定する力を失うことだ。だからいったん政治的な正しさの鎧を剥ぎ取られてしまえば、自己憐憫に浸るしか術のない無力な姿の他には何も残らない。彼女自身の自尊心は剥奪されているからだ。

だがそもそもBLを好きな女性が「私は私である」という根源的な自己肯定の機会を剥奪されているのは、彼女のパーソナルな感受性の基礎とも言える性的ファンタジーの自由を認めず、検閲と処罰を当然のものとする通俗なモラルとヘテロセクシズムの共犯的権力によるものであり、これは人権侵害なのだ。

たぶん、私がさんざん目にしてきたあのリベラル気取りの俗物たちはこう言うだろう「そんなことは現実の具体的な女性差別や他のマイノリティの皆さんの“本物の苦労”に比べれば大したことではない」「そう言うならヘテロ男性向けの性的ファンタジーやポルノ表現も無条件に肯定して我慢するんだな」と。

こうしたヤクザじみた脅し文句をちらつかされることでどれほど多くの女性が黙らされてきたかを考えるだけで腹立たしいが、はっきり言おう「何で権力の手先にすぎぬお前ごときに、この私への不当な抑圧を我慢するよう命じられねばならないのだ。何でお前が“正式なマイノリティ”として認可下さった者以外には反抗する権利すらないと思えるのか。女の“本物の苦労”と“我慢すべき瑣末事”とを高みに立って線引きしてこれる高慢さに根拠があるなら言ってみろ。100年前なら今の“立派なフェミニズムの問題”なぞ全て“女のわがまま”だ」と。

そしてこうした強権的で高圧的な物言いをする者たちが、ヘテロ男性の性的ファンタジーの制度的な仕組みや問題点を把握していた例など皆無である。実のところ彼らは「女を処罰したい欲望」に満ち溢れたミソジニストの男と「女は清くなければ守って貰えない」と思い込んだ貞淑な女との呉越同舟である。

この点については何度も述べているのでログを貼っておく。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2 繰り返すが、受動性のファンタジーをただ自らの快楽として享受しうる者にとって性は罪ではありえない。制度的なヘテロ男性のメンタリティの問題は、“暴力”ではなく自己欺瞞にこそ起因している。

“女”とは、男が自らのために生み出した“男にあってはならぬもの”の集合としての幻影である。そして現実の個々の女性は、この男が生み出した“女”を内面化し同一化することを求められ続ける他者であるのだ。男女の根源的な非対称の図式とはこのようなものであり、当然この図式の逆は存在しない。

そもそも、性表現と“そうでない表現”という区別自体、まことに奇妙なものであり、検閲ならざる批評の次元においては意味をなさないものだ。「何が性的か」を決定する基準とはそれ自体が恣意的な権力の行使である。そして結論から言えば「性的でないもの」など実は存在しない。

以前にも書いたが、http://kaorusz.exblog.jp/18345164/男性のヘテロセクシズムの制度的な効用とは、まず第一に“性的なもの”を全て女性の属性として負わせ、しかる後に彼女を公共領域から排除することで、性などという“不合理なもの”から自らを防衛することだ。

「女が性的であるのは当然だが、男(同士)は断じてそうあってはならない」からこそ、ヘテロ男性向けの性表現は“描写の過激さ”という相対的な尺度でしか問題視されないのだし、BLはたとえ狭義のポルノに該当しない場合でも、女ではなく男(同士)を性的に描いた時点で“公序良俗”に反しているのだ。

だが、これはあくまでも権力=検閲者にとっての意味づけであり、個々の表現者の意図とは無関係だ。そして多くのBLの作者は単に自分にとって魅力的なモチーフとして男同士の関係の表現を選んでいるだけであり、「“対抗的な表現”だから許そう」という上から目線の物言いは実は検閲者と変わらない。

こうした物言い自体、表現に対して“社会批評”以外の効用を認めない審美眼の欠如と杓子定規なモラリズムの露呈だろう。こうしたお説が正しいとするなら、同性愛の表現が評価されるためには永久に社会がホモフォビックでなければならないことになる。言うまでもないがそんな馬鹿な話は成り立たない。

つまり「役に立つ/正しい表現であれば認めるべき」という発想そのものが「役に立たない純粋な快楽としての表現」への罪悪視に基づくピューリタン的な発想であり、(特に)女性が、(特に)男性同性愛の表象を彼女にとっての快楽として享受することそのものを純粋に擁護するつもりなどないのだ。

権力の源泉とは、その社会における正統性の根拠を独占する支配的なイデオロギーであり続けることにある。中世のキリスト教やかつての社会主義国家における社会主義を思い浮かべれば理解しやすいだろう。つまり権力を批判するとは、疑うことを許されない“当然の正しさ”に異を唱えることそのものだ。

構造的な必然として、「最も批判されるべき有害な表現」とは「最も正しく疑ってはならないとされるイデオロギーの反映」である。誰もが「あれはひどいね」と頷き合ってくれるようなわかりやすい悪などでは決してない。批判とは根拠の無さの指摘であり、「別の当然の正しさ」をぶつけることではありえない。

“女性による表現”を例にとるなら、真に問題とされるべきは、イデオロギーが要求する“正しく当然な女性像”を「女として女らしく」再生産することであり、「女ごときに本物が描けるはずのない」彼女の理想の男性イメージの表現に対してではあるまい。BLと違って母性崇拝は圧倒的かつ具体的に有害だ。

「“女”であることを受け入れた女」として振る舞うことこそ女性が要求され続けてきたことであり、女性が創作をする際はそうした“女”を描くことのみが世俗のヘテロセクシズムとモラルの期待に沿うことだった。だから彼女が彼女自身の快楽として“男同士”の表現を選ぶことは、いわば二重の逸脱なのだ。

そして逸脱と自由の余地の無いところには、真の尊厳もまた宿らないだろう。女性にとって必要なのは、その逸脱を“正しさ”として弁護してくれる別の権威ではなく、自己の人格と不可分なセクシュアリティそのものを肯定できる一個の人間としての自尊心である。

私もまた現実には力の無い一人の女に過ぎないが、これまでに私の書いてきたことが、たとえ見知らぬ誰かであれ、その人の自己肯定の一助になり得るのであればこの上なく幸いである。今より少しでも多くの女性が、自由にファンタジーを享受し、自由に思考することができるようになることを願っている。
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by kaoruSZ | 2012-06-30 15:22 | 批評 | Comments(0)
@mitoko_dij: どんなに暴力的なコンテンツを消費していようと構わないと思う。ただ、そこに自分(や、自分が保護すべき存在?)が描写されているということに恐怖するひとの声は「聞くべき」だと思う。その恐怖は一笑に付していいものではない。「楽しんで何が悪い?」は、そういう人達に向けて返す言葉ではない。: posted at 22:41:02

@amezaiku: RT>この辺の問題は私はもう「消費するのも、それを批判するのも、批判を笑うのも、笑うのを批判するのも、それを更に批判するのも全部大々的にそれぞれが同じ土台でやるべき」ってのに落ち着いた。だって現状は私みたいなのは「批判される、笑うな」以外の選択肢は与えられていないから。

posted at 22:41:18

@amezaiku: 私もちょっと前まで「批判には皆が皆真摯に答えるべき」とか思っていて、その理由が「それを唱えていけば自分のこの苦痛の訴えを受け入れてもらえるから」ってのだったんだけど、実際はそうじゃないんだよね。何故なら「批判する・批判を笑う・笑って許される」が与えられているのは男のみ

posted at 22:41:34


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上のRTを発端にまたろくでもないものを複数目撃してしまいはらわたが煮えた件について。とりあえず@mitoko_dijは“被害者様”に気を使う前にそういう貞淑ぶった自己アピールがあなたと同じ「女」として分類されてしまう多くの女性に対する理不尽な抑圧への加担であることくらい自覚しろ。

もう何度も言っているが、表現やセクシュアリティについての問題を現実の絶対的に非対称な“男女”の権力関係を無視して抽象的な「加害性」だの「暴力」だの「責任」だのという罪悪感を煽る単語を無批判に使うな。ぶっちゃけ「女も反省しましょう」という悪質な妄言に加担するなよ馬鹿が。

前にも書いたがこういう実に“貞淑”で頭の足りない輩が漠然と抱いている“罪悪感”とやらは、制度的なヘテロ男性のメンタリティから派生する性欲=対象の搾取=暴力という図式を鵜呑みにしているにすぎない。http://kaorusz.exblog.jp/18345164/ http://kaorusz.exblog.jp/17808135/ http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2

だいたい男の性的ファンタジーが女性に対して暴力になりうるのは、それが単なるファンタジーではなく現実に権力を持つからで、だから男は生身の女性に対して「お前は俺の幻想する女より劣っている。俺の幻想の女を見習え。それが出来ないお前に価値など無い」という圧力=権力を日々行使できる。

で、こうした男と女の権力関係の絶対的な「上下」の図式の“逆バージョン”なんて存在するわけがないことくらい猿にでもわからなければ困る。いつ男が“女の幻想した男イメージ”を内面化して自己卑下することが“当然の現実”として男を抑圧したか?「女に本物の男は描けない」としか思われてないよ。

セクシャリティ関連に限った話ではないが、男は「俺が不愉快だ」と思うことを“女ごときに”言われたところで、その場で恫喝して黙らせることくらい造作も無い。「女の分際で俺が不愉快な男を描きおって」と怒鳴れば大抵の女の子は萎縮して謝るよ。貴方はヘテロだろうとゲイだろうと権力者なんだから。

で、それを後でツイッターとかで「女に/腐女子にセクハラされた」とか鬼の首でも取ったように吹聴して回れば「そんな女と一緒だと思われたらどうしよう」と気を回した貞淑な女共が「女が男性に暴力を振るうのだってよくないと思う。私はそんなことしません!」と率先して内部粛清に走ってくれるしね。

逆に、“女ごときの戯言”が男性様方の間にこれほどの恐慌を引き起こさせるような支配力を持つとお思いですかね?「女に睨まれたらもう同性の間にも居場所が無くなっちゃう!どうしよう!」みたいなことになるんですか?馬鹿馬鹿しいにも程がありますね。男の発言こそが“権力者のご託宣”なんですよ。

要は「俺が特定の女に俺が不愉快なことを言われたから」といって、「女だって男を差別できるんだ!セクハラだ!反省しろ!」とまくし立てるような男は、ゲイでもヘテロでも女を罵倒する口実を得てはしゃいでいるミソジニストにすぎないのであって、こうした男におもねって“対話”するのは有害である。

余談になるが、私自身の個人的な趣味が「一般には“同性愛者”と分類されるような事実の無いまま生涯を送った男性作家(ホフマンとかトールキンとかブラム・ストーカーのドラキュラとか)」が書いた耽美的でホモセクシャルな小説の愛読なのもあって、「現実のゲイ」と「BL」という図式は感じが悪い。

私の好きになった作品には皆「男の描いた美しい男や男同士の関係」が出てきていた。それを女性が描いてはいけない如何なる理由もありはしないと思う。“男同士”という表象をめぐる文化的なファンタジーは“ゲイ”のものではなくそれを愛好する人全てに開かれたものであり、所有者など存在しないのだ。
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by kaoruSZ | 2012-05-25 18:41 | 批評 | Comments(0)