おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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後日談あり http://kaorusz.exblog.jp/14892828  

            
僕はただ、女嫌いで女性を出さないというふうに見ている人も多いと思うけどね。あの物語に関しては、久生を除いて女性に出てこられちゃ困る、という感じなんですね。 ――中井英夫
                             
                               

 なかなか更新できないでいますが、今回、友人の平野智子から場所を貸してほしいと原稿をもらい、これは広く読まれるべきものだと考えましたので、ゲスト・エントリとして掲載いたします。
 
 これは、現在、以下で読むことのできる、鷲谷花さんの論考について書かれたものです。、

http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081010/1223647850
http://d.hatena.ne.jp/hana53/20081017/1224253971

 鷲谷さんの文章については、私自身、大分前になりますが、むしろ好意的に言及しています(参考までにあとで読んで戴ければと思います)。
 そこにも書いていますが、私は最初、個人ブログでないサイトに他の書き手とともに載っているのを見つけた、才能ある若い女性研究者とお見受けした鷲谷さんの論考の、「腐女子」という種族化・属人化、「BL」という商業ジャンルへのゲットー化ではない、メインストリームの文化に見てとれるようになった〈やおい文化〉という包括的な捉え方や、具体的な映画作品を対象とした冴えた分析に注目し、さらには、〈やおい文化〉が「インターネットの普及をきっかけに、かなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつある」とか、『ロード・オブ・ザ・リング』がそこでは大きな役割を果たしたとかいう、私が全く通じていなかったトピックに引かれて、フェミニストを自任する、しかし「やおい」については知識のない人たちが少なからず集まる場所で少々話した際に、資料として使わせてもらいました。

 しかしそれは、鷲谷さんの説明を借りて彼女たちに効率的に情報を与えた上で、話を発展させられる(異論の提示を含め)と思ったからであり、〈やおい文化〉という括りに私が心から満足していたことは一度もありません(そのあたりはあとで挙げる私の関連エントリからも窺えると思います)。

 今回の平野さんの論考は、私よりはるかにラディカルな鷲谷さんへの批判です。

 平野さんの文章は私と違って非常に明晰なので、この上私から付け加えることは何もありません、と言いたいところですが、蛇足ながら最後にもう一度出てきて一言申し述べます。


鈴木 薫

 今回、この分析は、平野さんによって、いかに根拠のないものかが完膚なきまでに証明されてしまった。


 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  


二年間持ち越していた鷲谷花氏への批判、あるいは「ミソジニストはお前だ」

はじめまして。平野智子です。
鈴木さんの共同執筆者として「web評論誌コーラ」の記事に名前を連ねたことはありますが、単独で書いたものを掲載してもらうのはこれが最初になります。
さっそくですが、以下の文章は鷲谷花さん個人に対する批判であると同時に、彼女の論考「複製技術時代のホモエロティシズム」の最後の部分での、腐女子に対する“道徳的蔑視”をもっともな意見だと思われたような方たちに対してのものです。

まず、私が最も憤りを感じた部分からですが、

しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。


この文章は「私はこういうミソジニー的なホモソーシャル体制に無批判に“萌え”てとりこまれているような愚かな女達とは違うのよ。私は女性の方が素晴らしいと感じて女性の活躍こそを楽しみにしている、“政治的に正しい”女なのよ」
という、それこそミソジニー的なメタメッセージを内包しています。

それこそ「じゃあ貴女はそういった“活躍する女性”をオカズにしているの?」と聞き返してやりたくなりますね。上の論考の中で、彼女は映画の二次創作を楽しんでいる女性達を、一貫して「男同士での性関係を快楽の対象とした性的ファンタジーの持ち主」として表象しているので、本当に自分を「そういう女たちとは違う女」として表象なさりたいなら、「私のオカズは男同士じゃなくて男女or女同士のこういうパターンです」というところまで表明しなければ無意味です。
“野暮ないちゃもん”とか和らげたつもりになってみせたところで、こういう文字通りの差別化をせずにはいられないところで馬脚をあらわしています。

しかも「女性が活躍する映画が見られなくなったのは男同士の話を好む女が増えたせいだ」とでもとれるような結び方ですが、鷲谷氏はそれまで「女性の観客が男同士の話を好んで二次創作をするという消費の仕方がネット時代になって目立つようになった。映画そのものもそういった女性たちをあらかじめ観客として当てにして演出されているようにも思える」という論旨を展開していただけで、「男同士の関係をクローズアップした映画が増えたせいで女性の活躍する映画が減った」という論証をしていたわけではないのに、この結びの部分で無視できない(悪質な)印象操作的な飛躍をしているわけです。

これって、彼女がそれこそ女だから「こういう女たちとは違う」という形をとりましたが、本質的には男の評論家がゲイ映画の批評をした後で、「私は健全な男性なので、男性よりも素敵な女性達が活躍する映画の方が見たい」というホモフォビックな発言をしているのとまったく同じです。要するに、“男同士での性的なファンタジー”を享受する主体は不健全であるとする病理化です。

え?「男同士のファンタジー自体が不健全なわけではない。ゲイ男性なら問題無いけれど、女がそれを好むのはやっぱり異常だ」とおっしゃりたい?
まず、“男性による女性イメージの横奪”こそ歴史的には現在に至るまで続く制度化されたお家芸です。
下の(まだ私が鷲谷氏はおかしいと意見する前に)鈴木さんが書いたエントリーにその一例が取り上げられていますが、
http://kaorusz.exblog.jp/8729974
端的に言って、“女”なるものは男性が自分のものとしては抑圧した受動性を女性に投影したイメージであり、また、能動性としての“男らしさ”とは、「受動性を“女”として外在化し続けること」すなわち抑圧によって成り立つものであり、つまり“男”も“女”も“男のもの”なのです。
この秩序は必然的に、「男性が同じ男性に対して受動的であること」つまり男が“女”になることを最大のタブーとしますが、それ故にこそ、「男でありながら受動性=“女”を自分のものとして体現する」男性は「女以上に“女”らしい」ものとして受容されます。

馬鹿でない方にはもうおわかりでしょうが、前者は基本的に“異性愛”と呼ばれるものの基本的な図式であり、後者の「“女”を自らが体現する男」とは“同性愛”と呼ばれてきたものに本質的な関連を持ちます。(ここで「女性にも同性愛はあるじゃないか」とか言い出そうとした貴方は単なる馬鹿です。ホモ/ヘテロという区分を自己の主体化の為に大問題とするのは常に男性であり、本質的にこの区分自体が“男のもの”です。女性は「男の差別につきあう」形でそれを内面化=補完するのです)

そして、この“受動性”こそエロティシズムの享楽には欠かせないものであり、「私は能動的な女が好きなだけ」という言い逃れは通じません。
また女性にとっては上に述べた「男性のヘテロセクシュアリティの図式」を補完する「“女”であることを受け入れた女」であることしか許されておらず、「男を補完せず、また“政治的に正しい”とは評価されない性的ファンタジー」を持つことは侮蔑の対象にしかなりません。(“男同士”ファンタジーはまさしくこれに該当します)

繰り返しになりますが、だいたい“男同士”ファンタジーに対して“単品の女”(としか読めない)という反論になっていないものを持ち出してきているのが卑怯ですね。この場合、“男女”か“女同士”でなければ持ち出す意味は無いです。(たとえその場合でも「性的ファンタジーに道徳的ヒエラルキーを持ち込んで差別した」という噴飯物の性的人権侵害がより明示的になるだけですが)

つまり鷲谷氏が結果的にやったのは、「女のくせに、受動性を“女”として受け入れないのはけしからん。不健全である」という、「女の分際をわきまえろ」という最悪の意味での保守的な説教であり、より直接的には「女は女らしくするべきなのに、今時の女は生意気になっちゃって、同じ女として恥ずかしいですわ」という実にミソジニー的な“貞淑さ”のアピールです。
だいたい、「“正しい女像”に同一化できない女は不健全である」という使い古された差別的なテーゼを用いてフェミニスト面をするというのが信じられません。
「男同士というパターンの性的ファンタジーを持った生身の女性より、“スクリーンで活躍する女性たち”とやらに自己投影できる私の方が“健全”である」という浅ましい蔑視です。

また、彼女が言うような「潜在的にホモエロティックなホモソーシャルの映画」が最近になって急に出てきたという事実はありません。
変わったとすれば、それが「どうせ女向けの偽物」という実にホモフォビックでありミソジニー的な“安全化のラベリング”の対象になり、そのラベリングに基づいた(男性にとっては、あらかじめ余裕を持って侮蔑することを許された)“マーケティング”<>が行われるようになったというだけでしょう。

たとえば彼女が持ち出していた映画『ヴァン・ヘルシング』の原作はブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』ですが、この小説も含めた吸血鬼表象そのものが、近代以降の文学においては、同性愛の伝統的と言ってもいいほどのメタファーになっており、彼女自身もそれを知らなかったとは思えません。
(ちなみに狼は『吸血鬼ドラキュラ』の中でもドラキュラ伯爵の変身した姿として登場し、草稿の一部である短編『ドラキュラの客』では語り手とドラキュラ伯爵である狼との極めてホモエロティックな描写があります)

また映画『ロード・オブ・ザ・リング』とその原作『指輪物語』を比較すれば、フロドとその従者サムとの親密な絆が、ヘテロセクシャルな要素の大幅なクローズアップによってぼやかされ、(特に滅びの山の麓での場面のように)原作において感動的な場面に決定的に水を差しているのが見て取れます。

王となる宿命を背負ったアラゴルンとその仲間たちであるボロミアやレゴラスとの絆は、なるほど確かに原作よりも分かりやすくドラマティックに演出されていた部分もありましたが、同時にアラゴルンの婚約者アルウェンを、原作では彼女の出番でない場面において、他の男性キャラクターの見せ場を奪ってまで男勝りの活躍をさせたり、回想やテレパシー的な夢を挿入するという形で登場させて濃密なラブシーンを描いたりして無理に“ヒロイン化”しており、結果的に原作とは似ても似つかぬ「凡庸なホモソーシャル映画」に仕上げています。(ついでに言えば、監督のピーター・ジャクソンがアカデミー賞の授賞式で、フロドとサムの関係をゲイではないかという意見について、「ユーモアとしては買うがアイデアとしては買わない」といったホモフォビックな発言をしているそうです)

ちなみに原作者トールキンの描いた世界が『指輪物語』に限らず、特に『指輪』の前史にあたる『シルマリルの物語』においていかにクィアーなものだったかについては、「コーラ」に共著者として書いた拙稿をご覧ください。

映画の中の虚像としての女がどれほど“政治的に正しく、能動的に”描かれたところで、性的ファンタジーを持った生身の女性の解放には繋がりません。
また、「“正しい表象”の方を愛好できない女は間違っている」というフェミニズムの名を借りた道徳律に基づく抑圧は、いかなる場合においても正義ではありません。
それは保守的な性道徳の強化にしかなりえず、女性を萎縮させる効果しか持ちえません。女性をエンパワーメントするために必要なことの逆なわけです。「お前の道徳に承認されない正しからざる部分は“罪”なのだ」という脅しですから。

ホモエロティックなものがホモセクシャルな関係でもあるものとして明示的に描かれることが忌避されなくなり(男の“女性性”の忌避の解消)、それを生身の女性が享受することが蔑視されなくなった時(女性が性的なファンタジーを持つことの純粋な承認)には、世の中の“女性観”そのものが真に変革されていることでしょうが、その時にスクリーンにはどんな“虚像としての女”が映っているのか、それはその時代の人にしかわからないことですが、その時に生きている人たちなら──個々人のセクシュアリティともイデオロギーとも関係無く──みんなが知っていることでしょう。少なくとも「スクリーンでの素敵な女性達との出会いを求めて」などという空疎かつ実はミソジニーそのものの欺瞞的な文句が、その人たちの口から出るとはとても思えません。

とりあえず以上です。この長文をここまで読んでくださった方には感謝いたします。

──以下註釈および補足です──

とはいえ、この“マーケティング”にも果たしてどこまで実体があるものやら個人的には甚だ怪しいものだと思いますが。それなりに製作者側が念頭に置いていると思われるのは──それでも“男性向け”のセールスへの意識よりも優先順位は低いだろうと思いますが──日本のアニメ市場くらいじゃないでしょうかね?とても“グローバル”なものとは呼べません。
というのも、少なくとも欧米圏においては「男性同士のホモソーシャルな/エロティックな表象」の担い手および享受者の双方の中心は「狭義のゲイを含めた“男性”である」という前提は、それを愛好する側にとっても差別する側にとっても揺らいだことは無く、ましてや「“政治的な正しさ”を表明することを目的としない男同士の表象」は全て「女のせいにする」という態度がまかり通ることはありえません。
こうしたミソジニー的な責任転嫁の横行自体が“日本ローカル”な代物でしょうし、そうなった原因はまた今回の一件とは別の話になりますが、少なくとも女性の側には一切非はありません。

また「女性にとって男同士のエロティックな物語が魅力的である」ということ自体はおそらく普遍的なことですが、その社会的な意味づけは時代や文化圏によってそれぞれ異なるものであり、たとえば欧米のスラッシュ文化を指して「海外にもBL(やおい)がある」というのは、「江戸時代や古代ギリシャにも同性愛者がいた」と言うに等しい錯誤に過ぎません。

また鷲谷氏が持ち出していた他の映画も、彼女が作った筋書きを裏付けてくれるようなものとは思えませんでした。
チャン・イーモウの『LOVERS』の場合は(アマゾンのDVDのレビューでも指摘されてましたが)そもそも映画のストーリー自体が破綻しきっており、とても引き込まれるような出来ではありませんし、単に映像美をすべてに優先させているという以外に一貫したコンセプトは感じられません。当然男女の三角関係の話そのものも、女を取り合う男二人の間に特別な絆があるというものではまったく無く、鷲谷氏が自説の根拠にしていた剣戟のシーンも、単にヒロインの見せ場ではない(このシーン以前にいくらでもありますが)から舞台の端で待機させられているだけで、それに特別な意味は見出せません。ちなみに最後は唐突なヒロインの死と、彼女の亡骸を抱いて嘆いている主人公というお涙頂戴的な場面でおしまいで、ヒロインの存在が消されたまま終わる映画なんかでは全然ありません。というか、スタンダードにヘテロセクシュアルな映画だと思うのが普通でしょう。

『トロイ』の原典は言うまでもなく古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』で、この中で語られているアキレウスとパトロクロスの友情の物語は“男同士の愛”のイコンとしてあまりにも名高いですが、言うまでも無く「腐女子が作った話」ではありません。そもそも古今東西の別なく戦記物や英雄譚の中心人物が男性であり、そこで展開されるのが友情やライバル関係といった男同士の絆や愛憎劇であるのは必然であり、女性が登場するのは“女”役割を担う物語の彩りに限られるというのは単に“イデオロギー”と呼ぶことは出来ない必然的なものです。単に女性キャラクターを活躍させればいいという問題ではありません。むしろ「男同士の絆のエロティシズムなんぞ見たくもない」といったホモフォビックな──必然的に本質としてはミソジニーなのですが──人物には歓迎される傾向にあるように思えます。「ちゃんとヒロインが活躍してたから腐女子が喜ばなくていい」といったような。つまり、安易に女性の存在を強調することは、「男性の“女性性”や同性愛」の排除を“健全”なものとして正当化しうるわけです。

「真に重要な場面からは締め出されるアリバイとしての女」は「親密な絆で結ばれた男同士がホモだと思われないために」というホモフォビアによってこそ要請されるのであり、「女との関係よりも男同士の絆の方が価値がある。ただし同性愛は認めない」という不文律を本当に“イデオロギー”として信じる/信じる必要があるのは男性だけです。「親密な男同士の関係」のホモセクシュアリティを女性が楽しむこととは関係ありません。彼女がそれを愛好しているのは「男同士の関係が魅力的だから」であり、「女が排除されているから」嬉しいわけでは当然ありません。

また、男性の登場人物や彼の同性との関係の描写の方が、女性の登場人物や彼女を対象とした異性愛の描写よりも優れていたり魅力的だったりする作品を鑑賞した時に、作り手の側を「監督がホモなんじゃないか?」とは言わずに「女受けを狙っている」と言うのは、二重にホモフォビックでありミソジニー的ですね。「同性愛男性を差別したと思われるわけにはいかないが、同性愛的な表現は気持ち悪い(もしくは気に食わない)。だが女のせいにすればいくら叩いても問題ない」というわけですから

ただ、上に書いたのはあくまで『イーリアス』について当てはまる話であり、『トロイ』の場合、アキレウスとパトロクロスの関係についてはろくにスポットが当たらない軽い扱いしかされておらず、重きを置かれているのは原典には無いアキレウスとトロイの王女とのラブストーリーや、時代錯誤な趣すらある、健全なヘテロセクシャルな夫婦(トロイの王子ヘクトルと妻アンドロマケー)を中心としたトロイ王家の“家族愛”であり、まったく“男同士の愛”についての話ではありません。早い話が「健全かつ陳腐なヘテロセクシュアリティを描いたストーリー」と「規模は大きいが『ロード・オブ・ザ・リング』の二番煎じの感が拭えない合戦シーン」を見せるためのものでしかなく、鷲谷氏がこだわっていらっしゃった“女性の扱い”については「原典とは比べ物にならないくらい重きが置かれた“健全”な描写をされてるじゃないですか?」としかお答えのしようがありません。

また、単に「主役級である男の俳優が格好良くセクシーに演出されている」ことと「男同士の愛が描かれている」ことはまったく別の話で、つまり『トロイ』は前者には当てはまっても後者には当てはまるとは全く思えません。

『ヴァン・ヘルシング』も実のところ単にクリーチャーの造形や特撮CGを用いたクリーチャー同士の闘いがセールスポイントの娯楽映画であるという必然から製作されているという印象が強く、鷲谷氏が「腐女子目当て」で演出されているように言っていた要素も単に「その場での演出」に止まっており、ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』やその草稿の一部である短編『ドラキュラの客』のような、テーマの表出として必然的に存在するホモエロティシズムではありません。

つまり、彼女は最初から「映画そのものが“女性向け”に演出されている」という自分の結論に都合のいいバイアスのかかった説明をしようとして、実際には単にヘテロセクシュアルな物語であるもの(『LOVERS』)や、男の監督自身はホモエロティックな演出を避けたがっていたが、原作にあるそういった要素が物語の構造と不可分であったために結果的に残ったもの(『ロード・オブ・ザ・リング』)
題材に選んだ時点でホモエロティックな雰囲気になるのは必然的でありながら、時代錯誤ですらある“健全なヘテロセクシャル”的な脚色がされたもの(『トロイ』)
伝統的に同性愛のメタファーとされるモチーフを生かした演出がされたシーンは当然ホモエロティックにも見えるに過ぎないもの(『ヴァン・ヘルシング』)
といった、まるでバラバラの内容である上に実はどれ一つとして彼女の主張したがっている結論の証拠にはなっていない映画を、あらかじめ決まりきった結論のために利用したわけで、これは証拠の捏造に等しいです。

鷲谷花批判「女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた」のか?(下)へ
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by kaoruSZ | 2010-11-11 00:45 | 批評 | Comments(0)
                              例ふれば恥の赤色雛の段    八木三日女    


 昔、国語の教科書に伊藤整の小説『若い詩人の肖像』の一部「海の見える町」が載っていて、感想文だか何かを書かされた。小樽の学校に進学した文学青年が自分の同類を見出す話、と当時の私は受け取ったようだ。私自身、高校に入って出会った同級生を、ついに自分に似た存在(本の話ができる相手、むろん女の子)を見出したと思って恋うていた幸福な時期だったこともあり、この感情はひどく親しいものに思われて、その線でまとめたらしい。なにしろあまりに時間が経っているので、どこからか出てきたとして(出てきてほしくないが)、記憶が現実とずれていることは大いにありうるが。

 それから十年あまり後に小樽へ行くことになり、ふと思い出して事前に『若い詩人の肖像』の文庫本をもとめた。教科書に載っていた部分はすぐ見つかったが、驚いたことに見覚えのない文章が肉に混じる脂身のようにあちこちに入り込んでいる。併せれば相当の量になろう。どこが教科書に採られ、どこが削除されていたのか、まだ若くて写真のような記憶力を持っていた頃だから、継ぎ目はくっきりと見分けられた。こんな孔だらけのものを読まされていたのか。

 削除されていたのはすべて、生徒間の男色にかかわる記述であった。それらを取りのぞいた上で、あたかもはじめからそうであったように整形されていたのである。

 このエピソードを思い出したのは、斎藤美奈子が《中学2年の国語教科書の定番教材》『走れメロス』について書いているのを読んだからだ。一篇の結びを斎藤は次のように紹介する。

ひとりの少女が緋のマントをメロスに捧げ、セリヌンティウスがメロスに言うのだ。「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」。そして最後の一文。(勇者はひどく赤面した〉                        
「名作うしろ読み」読売新聞2010年6月4日付夕刊

 はて、「この可愛い娘さんは」ではじまる一文は、私の使った教科書にあったろうか。《ちなみにかつての教科書にはこの部分を(裸は教育上よろしくないという理由で?)カットして載せていたのもあったらしい》と、斎藤も言っている。しかし、「メロス、君はまっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい」と「勇者はひどく赤面した」には間違いなく覚えがあった。ひょっとして、《かつての教科書》には、「この可愛い娘さんは」云々だけをカットしたヴァージョンがあったのだろうか?

 さらに斎藤は言う。《それだと》――つまり、裸の出てくる部分を削除すると――《「万歳、王様万歳」という群衆の歓声で終わる『走れメロス』は友情の物語、メロスは王を改悛させた英雄になってしまう》。そして、《だけど、ほんとうにそうなのか》と問うて、次のように論じる。

 小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わるのがポイントだろう。赤い顔で激怒していた赤子のようなメロスが最後は赤い顔で恥じ入る。いいかえれば、単純素朴だった青年が恥ないし世間知に目覚める。そこから遡れば、この小説は感情のままに猪突猛進する者、あるいは「心もまっぱだか」な者の恥ずかしさを暗に描いているともとれるわけ。
 マントを手にした少女も「君は裸だ」と指摘した友も「メロス、オトナになろうよ」と促しているように見える。メロスが赤面したのは単に自分が裸だったからなのか、それとも自己陶酔に近い自分の行為に対してだったのか。いずれにしても最後、メロスはコドモからオトナに変わるのだ。


 なるほど、友情物語、信義の大切さ、真摯な行為が人の心を変えうること、などを読み取らせようとするドクサを、ここで、メタ・メッセージを引き出すことで斎藤がくつがえそうとしているのはわかる。《それを成長ととるか俗化と解釈するかは微妙だが、ひねくれ者の太宰だもん。ただの感動小説のわけないじゃない》というのが記事の結び。だけど、ほんとうにそうなのか。結果として友情や信実の称揚に代わって、「オトナになること」(《成長か俗化かは微妙にしても》)を掲げることになった斎藤は、十分に《ひねくれ者》でありえただろうか(むしろストレートなのではあるまいか)。

 そもそも斎藤の読みは、私に見覚えがないように思えたあの一文――「この可愛い娘さんは、メロスの裸体を皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」――への考慮なくして成立している(ただし、ここで抑圧されているのは、少女とメロスの異性愛の表出ではない)。セリヌンティウスが彼女の内面を推しはかっていうこの言葉には、一片のリアリティも感じられず、彼女はマントを腕に掛けてハンガーのように立っている木偶人形としか思えない。これは、少女にかこつけてセリヌンティウスが自らの心情を吐露したものでなくてなんであろう

 それにしても私の使った教科書には、本当にその部分がなかったのだろうか。いつもなら探している蔵書はけっして見つからない本棚をちょっと捜すと、何とも恐しいことに中三の国語教科書があっさり出てきてしまった。見ると巻末に『メロス』が載っている(二年の定番と斎藤は書いているが、これは三年)。はたして件の科白はちゃんとあった(どうやら、私の記憶が検閲されていたらしい)。

 そうであれば、やはりあの科白も、恥ずかしさに拍車をかけたに違いない。思えば『走れメロス』は恥ずかしい小説である。メロスが赤裸を恥ずかしがるだけでなく、中二か中三の男女とりまぜた教室で《まっぱだか》の男を全員がイメージせざるを得ない状況に置かれ、あまっさえ運の悪い一人はそのくだりを朗読しなければならなかったという記憶によってのみならず、メロスとセリヌンティウスが、一度だけ互いを疑ったという内面を告白しあって、一発ずつ殴り合い、「ありがとう、友よ」と「ふたり同時に言い、ひしと抱き合い、それからうれし泣きにおいおい声を放って泣いた」なんて、もう最高に恥ずかしい。おまけに、理不尽に人を殺していた暴君までが、あろうことか改心したいじめっ子のように「静かにふたりに近づき、顏を赤らめて」、わしも仲間に入れてくれ、なんて言い出すのだから。[表記は見出された教科書による]。

 斎藤の言うように《小説が〈激怒した〉ではじまり〈赤面した〉で終わる》のは重要である。だが、私たちの目には、それ以外の「赤」も映る――「激怒」が「赤面」になるまでのメロスの踏破するページにあざとくも撒布された、「灼熱の太陽」、「真紅の心臓」、木々を染め上げる「斜陽」の「赤い光」、鉄人レースに「呼吸もできず、二度三度」メロスの口から噴き出る「血」、「胸の張り裂ける思いで」メロスが見つめる「赤く大きい夕日」、「顏を赤らめ」る暴君、「緋のマント」――そうやって移りゆき、リレーされた末、ついに再びメロスの面に「赤」は宿るのだ。生まれ出たばかりのように赤裸でマントに包まれるメロスは、結局、「赤子」のままではないのか。

 だが、別にここでは『走れメロス』についてこれ以上何か言おうとするものではない。昨年9月7日付で「愚鈍な女」と題する記事を書いた。あそこで、「ホモフォビアは検閲するけど、〈萌え〉は、[検閲を]しない」と、そして、「ホモフォビアのために萌えが最初から無視されて、批評の質が著しく損われることの方が現実にはずっと多い」と述べたことに関連させて、オルハン・パムクの『わたしの名は紅[あか]』を取り上げるのがそもそもの目論見であった。『若い詩人の肖像』から同性愛への言及を削ったのはホモフォビアであり、斎藤美奈子が神話破壊の読み手たらんとして結果的にもう一つの教訓的ストーリーを引き出してしまったのは「萌え」の抑圧の結果であろう。『わたしの名は紅』はといえば、検閲されたわけでもなく、誰の目にも明らかに、書かれ、名指されていながら、おおかたの批評から男同士の愛が黙殺されている好例だ。しかも、無視された事柄は後述するとおり一篇の主題と分かちがたいのだから、まさに「批評の質が著しく損われ」ている。

 最近、パムクの場合、具体的に検閲かと疑われさえする事実があることを知った。2ちゃんねるのスレッドで『わたしの名は紅』の日本語訳に欠落があることが指摘されているのを見つけたのだ。
http://love6.2ch.net/test/read.cgi/book/1163674130/l50

 以下が、トルコ語からの英訳“my Name is Red”にあって(トルコ語原文にももちろんあるとのこと)、日本語訳にない部分。

I was told that scoundrels and rebels were gathering in coffeehouses and proselytizing until dawn; that destitute men of dubious character, opium-addicted madmen and followers of the outlawed Kalenderi dervish sect, claiming to be on Allah's path, would spend their nights in dervish houses dancing to music, piercing themselves with skewers and engaging in all manner of depravity, before brutally fucking each other and any boys they could find.

 英語版を見てみたところ、確かにそのとおりだった(“my Name is Red” 9ページ)。上に挙げたのはパラグラフの後半だが、これが抜けているので、邦訳27ページの終りから二番目に当たるパラグラフは、オリジナルの半分の長さしかない。むろん、不注意で落ちたということは十分ありうるし、今の日本でこうした表現を制限する理由はありそうにないが。

『わたしの名は紅』の訳文の欠点はあちこちで言われていて、確かにひどいところは本当にひどい。文法的に変なところ(そういう箇所が多すぎる)さえなければ、文章自体には魅力があると思うし、正確に訳せてもセンスが悪い人はどうしようもないから、逆に惜しいのだけれど。

 ちなみに、上に引用したくだりは十二年ぶりにイスタンブルに帰ってきた“カラ”がピクルス売りから聞く、異端のカレンデリ派のコーヒーハウスでの乱行(/交)ぶりだが、そのものずばりの表現もさることながら、ここは先へ行ってコーヒーハウスが暴徒に襲われる事件の最初の伏線になっているし、これを読んでいれば50章で語り手になる二人組がどういう連中か、彼らがカレンデリ派だというだけでもう私たちにもわかっていたはずなので、この脱落による影響は一見そう思われるより大きい。(つづく)
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by kaoruSZ | 2010-06-21 01:18 | 文学 | Comments(0)

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お読みになりたいテクストへ直接跳べます。

連載終了
【4月】“砂男、眠り男――カリガリ博士の真実 (共著)
再録先→http://indexofnames.web.fc2.com/caligari/caligari_index.htm
2011

【12月】“中つ国の歴史”を読みながら――重ね書きされた「シルマリリオン」
◆新連載<鈴木薫の研究手帳>はじまりました。(2010年12月記)
【8月】男といふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島
再録先→http://indexofnames.web.fc2.com/etc/etc_index.htm
【4月】“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの 第一章 エルフの原罪
 第二章 ナン・エルモスの森でつかまえて
 第三章 では、ホビットは?
 (共著)
2010

【12月】人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説
【8月】〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉――男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)
【4月】〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉――男性のホモエロティックな表象と女性主体(上)
2009

【12月】〈ホモソーシャル〉再考(1)
【8月】“それはヴァギナではない”――Identification with a certain kind of male subjectivity
【4月】私たちは「表象の横奪」論 をほってはおかない
2008

【12月】緊急座談会「 『鋼鉄三国志は〈事件〉か」 by 鋼鉄オールキャラクターズ
【8月】やおい的身体の方へ
【4月】愛の再発明 あるいは愛される機械
2007

◆「カルチャー・レヴュー」休刊ならびに季刊「コーラ」創刊に伴い、同誌連載 <映画館の日々>も、<新・映画館の日々> と名を改め、新雑誌「コーラ」に引越しました。(2007年4月記)

◆以下は黒猫房主 主催のメール&ウェブ ・マガジン「カルチャー・レヴュー」のために書いた評論。

【11月】それが物真似であることが私たちにわかるのは――Emperor in Soclovland(2)
【9月】(番外編)フェミニズム、科学、身体性――f事件を散歩する
【7月】(番外編)うたかたの日々
【5月】成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](3)—終りへ向って
【3月】(番外編)長い髪の少女あるいは同一化の欲望—やまじえびねのレズビアン・コミックについて
【1月】成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](2)—物語に抗して
2006

【11月】成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](1)
【9月】成瀬巳喜男の日々の泡
【7月】イーストウッドはフェミニストです(か)—『ミリオンダラー・ベイビー』の場合
【5月】薔薇の名前、作者の名前—黒澤明論のはるか手前で
【3月】足と背中、わだかまる歩み—増村保造論のための走り書き
【1月】地上はまだ思い出ではない—浜野佐知監督『百合祭』
2005

【12月】(番外編)猫撫で声のイデオローグ—三砂ちづる『オニババ化する女たち—女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)を読む(2)
【11月】(番外編)猫撫で声のイデオローグ—三砂ちづる『オニババ化する女たち—女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)を読む(1)
【9月】ホモソーシャリティの廃墟へ—クリント・イーストウッド論のために(2)
【7月】ホモソーシャリティの廃墟へ—クリント・イーストウッド論のために(1)
【5月】 日本のレズビアン映画をヴィデオで見る
【3月】ますます不思議な小津安二郎
隔月掲載「映画館の日々」
2004
    
アンジェンダレス・ワールドの〈愛〉の実験 
巻末の映画アンケートにも回答
2003
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:22 | 寄稿先へのリンク