おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
tatarskiy@black_tatarskiy
裏アカを全く関係ない話題で再稼動することになった。腹立たしいので手短に。昨日(7月31日)の夕方BSで流れていた子供向け番組http://www3.nhk.or.jp/d-station/program/waracchao/が、露骨なホモフォビアと女性差別を幼児に刷り込むのが目的としか思えない最低の代物だった件について。

この番組、ワラッチャオとかいうらしいが、後述の通り全然笑い事ではないという意味で笑えないので、タイトルが皮肉にしかなっていない。後で調べたら私が見てしまったのはリボンつけたあしゅら男爵みたいな可愛くない猫(キャサリンとかいうらしい)が主役のコーナー「キャサリンのマウステッキ」で、この猫が魔法のステッキを使って町の中のいろんな物に魔法をかけて口が利けるようにしてお話しするという趣向らしいが、私が見たのは電柱とお話しする回だった。まず、一本目の電柱に魔法をかけると、黒い線で書いたような口が浮かんできて、男の声が一人称俺で愚痴を言い出す。

曰く、自分は毎日休まずみんなのために電気を送って働いているのに少しも感謝されない上に嫌がらせばかりされている、と不愉快な出来事を列挙しだすのだが、その口調と不満タラタラで投げやりな態度だけでも、「いかにも男」の横柄さが滲み出ていて正直非常に不愉快だったが、これは文字通り序の口。

この長台詞の最後、不満タラタラ電柱男は「列挙してきた不愉快な出来事の中でも極めつけに屈辱的で情けない経験=“オチ”」として「酔っ払いのおじさんに延々プロポーズされてめちゃくちゃ気持ち悪かった」ことを挙げて我が身を嘆きだすのだ。明らかに「ここで笑ってね!」という文脈で差し出される「コントのオチ」としての「軽いホモフォビアネタ」だが、作り手の自覚のなさと幼児番組という舞台の食い合わせがなんとも陰惨な気分にさせてくれる。「こういうのが“笑える”ポイントなんだよ!男が男にプロポーズされるなんておかしいよね!」というホモフォビックな“笑いのツボ”の早期教育だよね。

しかも話はここで終わってくれないのだ。リボン猫はすっかり捻くれてしまった電柱男を説得するために、今度は向かいの電柱に魔法をかける。すると今度は真っ赤なルージュを塗った妙にぷっくりした唇が浮き出てくると、高い女声が露骨な女口調でしゃべり始める。台詞の細かい内容は覚えていないが、要は「あなたのことは私がわかってるわ」という文字通りの「甘いささやき」でもって「傷ついた“男のプライド”を慰撫してあげる女」というあまりにも陳腐な図式で、先程のホモフォビアネタだけでもこれ以上ないほどゲンナリしていた気分を更に下降させてくれた。

で、このホステス紛いの電柱女の台詞に励まされてどん底から一気に有頂天になった電柱男は「君に抱きつきたいけど抱きつけな~い!」と浮かれた台詞を吐き、リボン猫の「よかったね」という内容のコメントと共にめでたしめでたしでコーナー自体が終わる。思い出す度に何度でもウンザリ出来るクオリティ。

食い足りないので追加の解説。後半のベタベタな女記号まみれのホステス紛いの電柱女の登場は、実は前半のホモフォビアネタを受けた必然的なもの。

つまり、男に言い寄られる=女扱いされるという屈辱を受けて傷ついた男としてのプライドが「女らしい女」から慰められつつ「男として立ててもらう」ことによって回復されるという一貫したストーリーを構成していて、見事なまでにホモフォビアとヘテロセクシズムの必然的な結びつきを物語ってくれている。

しかしエロ漫画なんかより、本当はこの手の「健全で微笑ましい差別意識の刷り込み」の方が徹底して批判されるべき「有害な表現」だよね。明らかに「子供の教育に悪い」んだから。

でもこの番組の存在自体が証拠みたいなものだけど、公共放送の幼児向け番組の製作者みたいな、「何が健全か」をジャッジする権力者の側が「明らかに差別的な表現」を“健全”と見なして奨励すらしているわけだ。要は未だに日本でのホモフォビアと女性差別は「微笑ましい健全さの証し」ということだろう。

しかし馬鹿はこの手の幼少期からの絶え間のない文化的刷り込みという前提を無視して「ホモが気持ち悪いのは自然で当然」とかよくのたまえるよね。そしてNHKはこの手の差別的刷り込みの主犯の一角を担ってるくせに『ハートをつなごう』とか、面の皮が厚いにも程がある。完全にマッチポンプだろ。


鈴木薫@kaoruSZ
↑番組の作り手にはホモフォビアとミソジニーを教え込む意図さえあるまい。「内面」から出てくるものを「自由に」表現したら、規範でドクサで差別まみれのステレオタイプになるんだから救いようがない。頼まれたわけでもないだろうに。「表現の自由」があっても「自由な表現」ができるとは限らない。

「表現の自由より自由な表現を」とは晩年の澁澤龍彦が新聞の文化欄に書いていた。

きんちゃん@kinchan666
同性から告白されて気持ち悪い刷り込みってテレビからの影響めちゃめちゃ有るよな…百害あって一利無し
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by kaoruSZ | 2014-08-09 19:09 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(9)

“主にBL”を標的にした、女性のレイプファンタジーに対する“道徳的非難”の不当さについて

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実は色々あって先日一旦はtwitterの方での“啓蒙活動”は引退を発表したのだが、それ以前に批判したことのある御仁がまた性懲りも無く、まったく同じ論法で女性(同性)のレイプファンタジーを非難していたのを見て頭に血が昇り、やむなく再度の反論をさらにしつこく試みる羽目になった。事の顛末は下記を参照されたし。

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7月3日

RT @akio71: 「純愛のていをとった、男性ないし攻めからの一方的な恋愛コンテンツ」って、異性カップルを扱った作品だけでなく、同性カップル(主にBL)にも沢山あると思う…ってタイプしてて、「残酷な神が支配する」を思い出した。グレッグぐらい気持ち悪い存在が、素敵な恋人として描かれてるもの…

posted at 19:11:32

↑RT:誠に失礼ながら「男性ないし攻め」だの「主にBL」だのいう発想のフレーム自体が有害であると判断して少々。どこから話そうか迷うが、そもそも狭義のポルノか否かに関わらずマゾヒズムと結びついた「愛されたい」というファンタジーは普遍、問題はそれが「女の願望」として本質化されること。

だから仮に百歩譲って「暴力的な純愛」表現が“有罪”であるとしても、断じて「男女」として描かれたものと「男同士」として描かれたものが“同罪”であるわけがない。この辺りの詳細は以前に散々書いている。http://twilog.org/tatarskiy1/month-1202/2  http://twilog.org/tatarskiy1/date-120108

あと私怨で恐縮ですが、こういう発言を見ると「やっぱり暴力的な男なんか出てこない清く美しい女同士というファンタジーを愛する僕のセクシュアリティは正しいんだよね~」とうぬぼれたがるキモい百合豚が超喜ぶと思うので気色悪い。本当は男が男に愛されることなんか考えたくも無いホモフォウブだが。

あと『残酷な神が支配する』を振りかざして「ハーレクイン的なBLを愛好する腐女子の堕落」を非難してるクズを複数人目撃したことがあるので(自称腐女子も少女漫画読みとかいう男もいたが)その点でも嫌なことを思い出した。ともかく私は女の性的ファンタジーを道徳的に非難する言説は大嫌いだ。

7月22日

RT @summerslope: 60〜70年代の映画観てるともー当たり前のよーに「普通の男女の不器用な恋愛(だからピュア☆)」としてレイプが出てくるからなー。『氾濫』は寿司屋の二階で女子大生引っ叩いて結婚するって嘘ついてヤるし、三島由紀夫主演の『からっ風野郎』も愛してるって言いながら殴って無理矢理、だし。

posted at 02:55:55

RT @akio71: 漫画やらアニメやら二次創作やらで、いまだに生き残ってる価値観だなあ、そんだけ根深いのかと遠い目になる。(「普通の男女の不器用な恋愛(だからピュア☆)として出てくるレイプ)、ヘテロ恋愛のもの、BL作品、だと「だからピュア」どころか「不器用なほうが真実の愛!」ぐらいに発酵しててウヘエ

posted at 02:56:11

RT @akio71: 百合作品はあんまり嗜まないので、どういう傾向があるのかわかんないです

↑RT:だからいい加減何度私に同じこと言わせたら気が済むんだよ。http://twilog.org/tatarskiy1/date-120703腹が立ってしょうがない。だからなんで現実の権力関係を無視して女の性的ファンタジーを覇権的な男のそれと混同して道徳的に断罪しようとしたがるの?ミソジニーがダダ漏れで見苦しい。

先に言っておくと当然ながら先にRTしたさかのなつ氏のツイート単体では別に問題には思っていない。何度も言っているがレイプファンタジーそれ自体は普遍的かつ凡庸なものであり、問題は男がそれを自分のものとしては断固否認し女に押し付け「女は男に犯されて喜ぶのが本質」と規定することだけ。

男は自分にとってタブーである「男に対して受身になること」を女の本質として外在化する。そして男は自分を“本能的”に能動的な性欲を持ち女を犯す「暴力的な加害者」として規定するから、必然的に女のイメージは「処女である無垢な被害者」と「男を誘惑し堕落させる淫乱な娼婦」に分割される。

そして自業自得の帰結として、ある種の男は自らが“穢らわしい性欲”を持った“能動的な加害者”でしかありえないことに不満を抱く。そして「自分に穢らわしい罪を犯させる誘惑者」である“娼婦”を憎悪する一方、「性という罪や穢れとは無縁の清らかな被害者」である“処女”に羨望を抱くのだ。

娼婦への憎悪も処女への羨望も、どちらも同じミソジニーの裏表に過ぎない。そしてこの女への嫉妬の本質は、言うまでもなく男が自らに否認した「男から受身で愛され犯されること」の外在化に由来する。自らに対して禁じた夢を見ることが出来る者への妬みであり、当然このタブーはホモフォビアと一体だ。

私がある種の勘違い百合豚が大嫌いなのは、この清らかな被害者=処女への同一化を自分の道徳的正しさだと信じ込み、“処女同士”の関係を「男に愛され犯されるなどという穢らわしさとは無縁であり、“清らかで正しいもの”」と考えている傲慢さにある。本質はミソジニーとホモフォビアの固まりだが。

結論から言えば、レイプファンタジーを道徳を持ち出して叩きたがる心性は、そのまま性的ファンタジーそのものへの嫌悪であり、その本質は必然的にミソジニーである。女性の場合、それは「男に愛され犯される願望」を本質として受け入れることを要求されている自分の立場への当然の不満でもあろうが、その「当然の不満」を口にすることを許されるためには、女が“男同士”として描いた「男が男から愛され犯されるファンタジー」も“平等に”批判しなければならないと思い込んでいるあたり、骨の髄まで「女は貞淑に道徳的であれ」というヘテロセクシズムの不文律に馴致されていると言わざるを得ない。

しかし男の監督が俗悪でホモソーシャルな一般世間に向けて「女ってこういうもんだろ?」ってしたり顔で提出して「やっぱ女はこういうもんですよね」ってベタにまかり通る映画作品と「所詮女子供のおもちゃレベルの慰み」である少女漫画やBLの性描写を同列にできる時点で正気を疑う。弱い者いじめ乙。

ぶっちゃけ、性的ファンタジーに道徳を持ち込んだ途端に「女同士>対等(笑)な男女≒当事者(笑)による男同士>>男女>【越えられない壁】>不届きな女の描いたBLなどという代物」というくだらない“正しさヒエラルキー”に巻き込まれるだけなんだよね。

そしてこのくだらないヒエラルキーは、そのままそのファンタジーを好きな女の“正しい順”でもある。男はこんなものに拘束される必要など無い。彼らが性欲とそれに基づいた幻想を持つのは“当然のこと”であり、その内容が暴力的なものであればそれは「男らしさの証し」であるし、あえて女のように道徳的に“対等さ”を気にかければ「リベラルで立派な男性」だ。どちらに転ぼうと男に損失などありはしない。女は「道徳に従うのが当然である存在」に過ぎず、貞淑な従順さか逸脱を罰せられるかの選びようの無い二択があるだけだ。

「私は正しい女です!レイプファンタジーなんか間違ってるし、しかもそれを女の分際で男様が女如きのように犯される作品を描くなんて、もちろん言語道断ですわ!」って、随分とわかりやすい同性に対するヘイトスピーチですね。そういうモロな差別に加担する方が恥ずかしいと思わないの?

繰り返しになるが、「男に犯されるべき娼婦」であることを拒否したければ「どんな形でも“犯されること”を夢想することなどない貞淑な女」であらねばならないと思うから「BLのレイプファンタジーなんか嫌いだ」と言いたがるんだよね。それ自体ヘテロセクシズムのダブルスタンダードへの忠実さに過ぎないが。

私は“娼婦”にも“処女”にも分類されるのは御免だし、BLも男女もレイプファンタジーそのものも楽しんでいますよ?私は道徳を振りかざして同性を罵倒することで自分だけは安泰を得ようとするような悪趣味な卑怯者ではまったく無いし、恥じ入るべきところは何も無い。私のファンタジーは私のものだ。
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by kaoruSZ | 2012-08-11 00:25 | 批評 | Comments(0)
<24年組からよしながふみへ(笑)>

……愉快なネタをRTした直後にウンザリする話だが、書いておかねば仕方がない。この時http://twilog.org/tatarskiy1/date-111230とかこの時http://kaorusz.exblog.jp/18505306/とかに書いた話の続きだけど、数年前のはてなとかで群れてたリベラルぶったミソジニスト共の何がクズだったかという話(あとこの時http://twilog.org/tatarskiy1/date-120122とこの時https://twitter.com/tatarskiy1/status/159193953311277056にもちょっと発言してるが)。

要はあの連中が好んでやっていた24年組(特に萩尾望都)とフェミニズムと決まってよしながふみをくっつけて「女性たちの表現の歩みとリンクしたフェミニズム的達成()」とやらをでっち上げるやり口が死ぬほど下らない有害な与太話だったということだが。

今でも「BL やおい」とかと「フェミニズム 24年組 萩尾望都 ゲイ よしながふみ」とかのキーワードで検索すれば、連中が差別的なゲイの男に文字通りヘイコラしながら“正しい女”として承認されその他大勢の同性を差別されて当然の立場に追い込むことに加担した証拠が山ほど残ってるけど。

だいたいテレビドラマレベルの通俗なあざとい“世間のみんなに褒めてもらえる”お話と背景描けないのはテレビに失礼なレベルのバストショットばっかのポンチ絵のよしながふみ如きと、純粋に先駆的な漫画の表現者だった24年組の人を同列に語れる時点で美意識の欠如をひけらかしているに過ぎないわな。

よく「描き手が女性である」というだけでクソもミソも一緒にできるよ。と思うが、それも結局は今でも女性の作品に対しては「独立して優れた表現」であることより「女ならではの“望ましい”女性性の表現」であることが求められているからに過ぎないだろう。通俗化した“フェミらしさ”もその一つだ。

友人のブログの記事だがhttp://kaorusz.exblog.jp/11888365/ここでの吉本隆明の萩尾望都へのセクハラぶり(褒めてるつもりで自分の女性観とホモフォビアをごり押し)と、通俗フェミ的解釈でもって「女性特有の状況や内面が男同士という形で表現されている」とかのたまう馬鹿は結局同じだろ。

よしながふみのくだらない下品さって、そういう俗物どもの「これは貴女の中のフェミニズム的なものの表現なんだよねぇ?」って好色なヨダレ垂れ流したようなリベラルぶった(必然的に)男の価値観にデフォでおもねって作品の外でもベタに「そうなんですよv偉いでしょv」ってコメントする媚び媚びぶり。

そういうあられもなく下品な“政治的に正しい女の媚態”の発露だからこそ、臆病な通俗フェミぶった馬鹿どもが「24年組からよしながふみへ」みたいなでっち上げ偽歴史のゴール()に仕立て上げてくれるんだが。本当は24年組とよしながふみに「男の人が褒めてくれてる」以外の共通性なんて無いよ。

言うまでもないが24年組の人の作品を男が認めたのは、それが誰の目にも明らかな革新的な漫画の表現だったからにすぎないし、そこに政治的道徳的な意味づけなんか必要なかったのも当たり前。でも彼らは同時にホモフォビアと一体の、女が男の同性愛の表現を読み描きする「男心をそそる」理由を探したがった。

よしながふみを持ち上げるのって、そういう男の側のスケベ心と女の側の道徳的な自己正当化を欲する臆病さとに見事に対応しているわけだ。表現としての巧拙ではなく「正しい“女”の内面の表現」として弁明できるかという尺度を最優先した評価軸なんて、道徳の教科書の採録テキスト選びと変わらないが。

当然ながら私はそんな女性差別的な茶番に付き合うつもりはさらさら無いし、他の人にもそんな必要は無いと言い続けるつもりだが。浜の真砂は尽きるとも、差別的な自覚も無い馬鹿の種は尽きないけど。
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by kaoruSZ | 2012-07-02 21:21 | 批評 | Comments(1)
第3期東京都男女平等参画審議会委員に高橋史朗が入ったことに対する憂慮声明への賛同署名は、締切が18日に延期されました。詳しいことは一つ前の記事をごらん下さい。

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A.
 連休中にS&Tさんちではじめて会った大学院生のSさんが、帰りの電車のなかでめざましい意見を表明してくれたので忘れないうちに書きとめておく。

(1)ジェンダーフリーが《性別》を否定することであってなぜいけない? なぜ、そうではないと“彼ら”に合わせて弁明しなくてはならない?
(2)男女共同参画というけれど、「共同」でなくていいと思う。
(3)異性愛も女らしさのうち。

 三番目は私がこうまとめたのであり、実際は、男と恋愛するというのも女らしさのうちに含まれているのだから、ジェンダーとセクシュアリティは切り離せない、といった意味のことだったと思う(今度Sさんに確かめて、違っていたらなおす)。そういう意見が某メーリングリストに出たとたん、皆は沈黙したというのだ。(私は見落したらしい。)話題がセクシュアリティに及ぶとやっぱりそうなっちゃうのか……という話。

B.
 高橋史朗の文章のありかを一つ、前の記事でリファーした(署名サイトへ飛ぶと、もっと資料が載っている)。そこに幼形成熟とか鏡像段階という言葉が出てくるが、使い方がデタラメだ。ジェンダーフリーだのフェミニズムだのの言葉を彼らが持ち出すときと同様に。「過激なフェミニスト」というフレーズに何かの意味があるかのように、でっち上げるときと同様に。もしくは、たんなる権威づけとして、見当外れもいいところで彼らは使う。その滑稽さを理解できないまま、自分に都合のいいように、また、著しく浅薄な意味に変えて使う。というか、もともと理解していないわけだが。何も理解するためには、専門知識とか深い学識とかが必要とされるわけではない。幼形成熟(ネオテニー)という言葉は、私の記憶違いでなければ、福井県で禁書にされた松浦理英子の「優しい去勢のために」にも出てきたのではなかったか。(較べるのも笑止ながら)生物学についてアカデミックな知識があるわけではなかろう松浦がそこで間違うことはけっしてない。

 高橋はネオテニーを、カンガルーの赤ん坊の生まれ方のようなものとして認識しているらしい。つまり、たんなる未熟児として。女が女役割に徹して母親をやれば、つまり、早く子宮から出されてしまった子カンガルーが代用品としての母カンガルーの袋の中で育つように、女が生物学的に規定された環境そのものとして育てれば、子供は赤んぼカンガルーが大人カンガルーになるように、つつがなく男ないしは女に育つと思っているらしい。しかしネオテニーは人間に、「小さい動物たちは交尾し、人間の子供はセクシュアリティを持つ」(レオ・ベルサーニ)という運命を与えた。引き延ばされた子供時代を通り抜けて、「何から何まで贋物の」ジェンダーを身につけた人間の子供には(人間の大人にもである、つまり、性的成熟ののちにも、カンガルーの成体が成体であるように人間が大人になることはありえないのだから)、いかにそれを流用して自らのセクシュアリティを生きるかということしか残っていない。ついでに言うなら、文化とはこうした場所の〈外〉にはありえないものだ。
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by kaoruSZ | 2006-05-10 15:56 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)

バカが多くて疲れます

連休明け早々ですが署名のお願いです。

 福井県生活学習館(県の男女共同参画課が置かれた、男女平等センターに相当する施設)で、上野千鶴子や松浦理英子の著作を含む図書150冊が、当の「男女共同参画推進員」の一人のクレームにより「男女共同参画に関係がない」として“禁書”扱いになったかと思えば、5月1日には、東京都男女平等参画審議会の第3期委員に高橋史朗が入っていることが明らかになりました。この人物は、せんだって荒川区で奇怪な男女共同参画推進条例を成立させようと林道義が会長になって画策したときの副会長です。

 高橋の委員就任については、「東京都の男女平等政策の後退を憂慮する市民の会」が、「憂慮声明」を都知事室と生活文化局に提出してきたそうです。

 この「憂慮声明」への賛同署名が11日(木)締切で行われていることを知りましたので、ご紹介いたします。以下のサイトから署名できます。呼びかけ人の名前も明記されており、資料も付されていますので、お目通しの上ぜひご署名を。

http://www.cablenet.ne.jp/~mming/against_GFB_2.html>

☆この人物の書いたもの、たとえばこんなところで読めるようです。http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2005/00003/contents/0001.htm#001


☆福井の事件については、以下に世界日報から抜粋します(赤字はkaoruSZ)。
「県側は過激図書を排除 県センターの150冊対象に」(4/28)
target=_blank>http://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/060428/02.html


(前略)近藤推進員は、この宇野課長の回答[「男女共同参画に関する考え方についてはさまざまなものがあり、それ らに関する情報の提供は学習するうえで必要である」]にショックを受ける一方、同学習館にどのような図書が置かれているのか一日がかりで調査。

 その結果、ジェンダーフリーを掲げるものが九冊、「男でもなく女で もなく」「専業主婦が消える日」「優しい去勢のために」「完全離婚マ ニュアル」など、およそ男女共同参画とは無縁の書物が多数あることに気付き、その必要性が非常に疑問視される書籍リストを作成。県議会議員や地元紙などに問題提起してきた。

 こうした中で今年三月、この種の書物、約百五十冊が同センターの書棚から排除されたのである(別表参照)。過激なフェミニスト、上野千鶴子・東大教授の本では、『スカートの下の劇場』など十冊が)排除本とされた。

 宇野前課長(現在、総務部企画幹)は、本紙の取材に対して「政府の基本計画改定で、男女共同参画が目指す方向がより明確になった。それを受けての措置」と述べ、「今後も県民の声に耳を傾けながら柔軟に対応したい」と語った。

 本家明美・男女共同参画推進課長は「宇野課長(当時)から排除するように指示があった。排除した本は、一般の人の目に留まらない倉庫のようなところにある」としている。

 近藤推進員は、「政府や自民党は基本計画改定に基づき地方の男女共同参画センターの書籍や講師選びが適切に行われているか、もっとチェックすべきだ」と述べる。
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by kaoruSZ | 2006-05-08 09:02 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 朝のTVで、今年前半の日本の人口が減少した(出生数が死亡数を下回った)と伝えられる。画面を見やると、「コメンテーター」席には荒俣宏と黒いドレスを着て首に赤い花をつけた女がいて、後者がしゃべりはじめた。アメリカにいると日本のこういうニュースに対し、日本はもっと移民を入れろとすぐに言われる、でも私はそうは思わない。では、どう思うのか? と注視すると、友人たちからべティ・ブーヴに似ているとよく言われたと——えええええっ? それっておもいやり? それとも悪意?——エッセイに書いている紅一点の横綱審議会委員を若くしたよう(べティ・ブーヴのようではないことは言うまでもない)な女は言う。それより、自然の中に男の子を集めて、オトコオトコした男を作れば、少子化などは解消する。さすがにアラマタが、オトコオトコしたオトコだから子供を持つというわけではないでしょうと脇から口を出すが、赤い花のチョーカーを巻いたべティ・ブーヴ似ではない女は、でも、男がなよなよしているから女がなんたらこうたらと言うがもちろんそこで時間切れ、CM後は話題が変わっている。

 なるほどねえ。女が女らしくなくなったからホモが増えたとかつてのアメリカでは言われたそうだが、日本ではそこまでゲイ・ピープルが顕在化してないからね。女の強さも足りないんだろう。育児が上手な男を育てる方がまだ現実的な感じがするが。オトコはとにかく押し倒してでもやってしまって、あとは女に育てさせるというわけか。胸の大きい女性を見たらむらむらっとくる男を育てるんだと息まく将棋差しとも同じ発想だ。それにしても、ヘテロセクシズムとホモフォビアが手をたずさえているのをこんなにもやさしく絵解きしてくれるなんて、みんなにも見てもらいたかったね、朝の電気紙芝居。

 もうひとつ、次の言説などどうだろう。レイプする体力(三浦朱門参照)だの元気(誰だっけ)だのよりも、むしろ求められているのはヒツジのような従順さだ。

集団就職が盛んだった時代、[就職先の社長らの勧めで、青年たちは]何も文句を言わないでどんどん家庭をつくって、うんと子供を産んで(略)日本は生命力にあふれていました。個を無視しているからいけないとか、自己決定がどうとか、そういうくだらないことは誰も言わなかった。

「新しい教科書をつくる会」名誉会長の西尾幹二が、八木秀次との共著『新・国民の油断』で上のように書いているのだそうだ。電気メスによる包皮切除手術でペニスが焼け焦げてしまった男の赤ん坊を女の子として育てさせ、そして女としてのアイデンティティを持たせるのに失敗した性科学者ジョン・マネーを告発した『ブレンダと呼ばれた少年』が八木秀次の「あとがき」つきで扶桑社から復刊されたなんて、グロテスクなジョークみたいだけど本当のこと。そうとなると笑ってばかりもいられない(しかし、上記のように笑ってしまう発言ばかり。彼ら、ほんとに、自分の言っていること——それが何を意味するか——を知らないし、おまけに、他人の言葉の意味も理解できない)。彼らにすり寄られたのでは(その意味が本当にわかったら)ミルトン・ダイアモンド(マネーの批判者)だって嬉しくあるまい。まして、自殺したデイヴィッド(ブレンダと呼ばれた少年が成長して自ら選んだ名前)においてをや。そのへんのことも含めて、よくまとめられた記事が東京新聞のウェブ版にあるのを知った。関心のあるかたはどうぞ[残念、リンク切れ]。

★東京新聞の記事はもう見られないので、macskaさんのサイトを紹介しておきます。利用されて、やっぱりミルトン・ダイアモンドも怒ったよ。ミルトン・ダイアモンド博士が「ジェンダー・フリーを明言」 前後の記事も必見。
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by kaoruSZ | 2005-08-25 17:20 | 日々 | Comments(0)
 皆川満寿美さんのサイトからたどって以下の記事(asahi.com: 「性差解消教育、はびこっている」および自民党と「性教育・ジェンダーフリー」バッシング)を読む。

 中山成彬文科相は5日(中略)「教育の世界においてもジェンダーフリー教育だとか過激な性教育とかがはびこっている。日本をダメにしたいかのようなグループがある」と述べ、文化的・社会的に形成された性差の解消を目指すジェンダーフリーの教育などを批判した。

 自民党本部で5月26日、「過激な性教育・ジェンダーフリー教育を考えるシンポジウム」が開かれました。(中略)冒頭挨拶で、山谷[えり子]氏は「
子どもの年齢や心を無視したとんでもない人格破壊教育の暴走が教育現場で行われている。予算委員会で追及したら全国から大きな反響があった。実態をつかむことが大切と思い、安倍[晋三]議員に座長をお願いしプロジェクトチームを立ち上げた」と述べました。
 安倍氏は「
ジェンダーフリーを進めている人たちには、結婚とか家族の価値を認めないという一つの特徴がある。自民党は行き過ぎたジェンダーフリーには反対だが、民主党は奨励しているところが大きな違い」と発言しました。
 八木氏は、「
ジェンダーフリーは社会主義、マルクス主義の思想。性教育は原始共産制のフリーセックスを理想とする教育思想が背景にある」と発言しました。(中略)山谷氏は、大学の3割でジェンダー学が必修となっていることを問題にし、安倍氏は、男女共同参画社会基本法の見直しにも言及しました。

安倍発言の中身
「ジェンダーフリーが間違っているだけでなく、ジェンダーも誤解を呼びやすい言葉だ
基本法に暴走するDNAが埋め込まれているのではないか
基本法そのものについても検討していきたい。基本法と条例やジェンダーフリー教育の因果関係も見ていきたい

別ルートで見つけた山谷発言[2005.6.4付記事]。こちら[2005.6.7]もどうぞ。
「家事、育児を労働ととらえる考えは、家事サービスは外で買えばいいという発想につながる。家事は愛、調和、献身、祈りの行動である。水戸市の条例では「無償労働に対して経済評価」と規定されているが、家族が家族でなくなってしまう」
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by kaoruSZ | 2005-06-09 00:16 | 日々 | Comments(0)
 石原慎太郎の「ババァ発言」に判決が下った。いや、発言そのものに判断を下すのは私たちだ。今回は、石原に対して損害賠償を求める女性たちの訴えに、答えが出ただけのこと。原告敗訴。判決自体はさほど意外なものではない。たぶんこの提訴には、勝ち負けそのものよりも(あるいはそれに加えて)、石原の言動を世に知らしめようという目的があったに違いない。

 いうまでもなく、問題は「ババァ」呼ばわり(だけ)ではない。それが(ババァと言われて怒る)「ババァ」対石原という図式に矮小化される。判決のニュースでも、石原に「ババァと言われる筋合いはない」と原告の一人が発言するところがTVに写されていた。しかし彼女(たち)は、もっと他のことも述べていたはずなのだ。

共産党というのはかねてから言論ファッショだと聞いていましたけれども、私が人のいったことをクオートしていったことを、さらに曲解、要するにつまんでこういうことをいわれれば、それは誤解を生ずる人もいるでしょう。

 2003年の都議会予算特別委員会で、石原は、共産党の吉田議員の質問に対してこう答えている。しかし、石原こそ、松井教授の言ったことを、「つまんで」「曲解」している。いや、彼は松井教授と話しながら「妄想」したにすぎないのに、それをあくまで自分の考えではなくて松井教授からの「クオート」だとする、度しがたい寝言をしゃべり散らす(予算特別委員会でである)。

私は、ある意味で松井さんのいったことに、あの人の論理にインスパイアされましたけれども、これはあくまでも私がある啓発を受けただけでありまして、私の持論ではございません。 

 朝のTVには、新聞読みの番組というのがある。やじうまナントカが先鞭をつけたのだろうが、今は軒並みやっている。新聞記事を画面に映し、前もって傍線を引いたところだけを読む。(見ているこっちは、抜かされた部分に注目したり、言い替えを確認したり、隣の記事を読んだりしながら聞く。もちろん、出かける仕度をしながらだ。)
 今朝、この判決については、ラサール石井が線を引いて女のアナウンサーが読む(最初の頃はラサールが読むのもやっていたが、聞き苦しいからだろう、アナウンサーに変わった)番組でまず聞いた。ここのメンツは嫌いではない。ラサールがときどき馬脚をあらわしさえしなければ。今日はそれをやってくれた。紹介したあと、「そんないちいち目くじらを立てなくても」とコメントしたのだ。新聞記事という二次資料から「つまんで」、そこで判断停止である。

 女のキャスターだかコメンテーターだか知らないが、そいつも言った。大人なんだから、怒らないでうまくかわせ。(そうだ、フェミニズム関係の話題で、この二人は以前にもこういう態度をとったのだった。)セクシュアル・ハラスメントという言葉が知られる以前は、そうした行為に「いちいち目くじらを」立てる女はそのように言われたものだ。今日のタイトルは吉田議員の発言からとったが、彼らは、目をしばたたく知事と一緒になって、にやにやと大人づらしたいらしい。(彼女が、私もそのうちババァと呼ばれる人間だけれど、と前置きしたのには驚いた。失礼ながら、生殖予定がある年齢には見えないが。そういう女は、すでにそう呼ばれているのだが。)

 別の局ではどうかとチャンネルを変えると、江川紹子がまともなことを言っていた。松井教授の「おばあさん仮説」は、おばあさんのおかげで文明が発展したという説だと、一応ちゃんと紹介し、石原は(品性ばかりか)読解力も疑われると結んでいた。(最後に、めざましテレビではどう扱っているかを見ようとしたが、出てこない。時間がなくなり、「今日のわんこ」でスキー板をはいた主人を引いて走る犬たちを見て家を出る。)

 大方の読者は見あきたと思うけれど、『週間女性』での問題の発言はこうだ。

これは僕がいってるんじゃなくて、松井孝典がいってるんだけど、「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」なんだそうだ。「女性が生殖能力を失っても生きてるってのは、無駄で罪です」って。男は八十、九十歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む力はない。そんな人間が、きんさん、ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害だって……。なるほどとは思うけど、政治家としてはいえないわね。

 これをはじめて読んだときは、石原はこれからまだ生殖するつもりかよ、と思ったが、調べてみると、もともと松井の説が、生殖能力を持っている、だからいい、といった文脈の話ではないらしい。ネットでもいろいろ読めるからここで詳述するのはやめておくが、代りに予算委員会でのやりとりをもう少しだけ引いておこう。これを見ると、松井教授こそ名誉棄損で石原を訴えてもよさそうだ。

 ▼吉田委員
 ここに「自然と人間」という雑誌があります。ここで記者が松井教授に取材をしています。そのときに、こういっているんですよ。引用もととされた松井教授に、石原知事の発言について電話で聞きました。
 これはコメントしようがないね、石原氏の発言を見ると、私のいっていることと全く逆のことだからね、私は、こういういい方はどこでもしたことはないし、おばあさん仮説という理論を私はいろんなところで話しているから、それを見てもらえばわかるでしょうと。
 本人が、私はそんなことをいうはずがないと。それは私の今までの理論、仮説を見てもらえば明らかだと、ここまでいっているんですよ。
 
 ▼知事
 私は、テレビの場以外の松井さんの発言に、それほど興味もございません。ただ、一度対談したときに、印象を取り次いだだけでありまして、ならば、必要なときだったら、私と松井さんと、どこかでお目にかかって、互いにいったことの……。謝る必要はないでしょう。私は、私なりの印象のことを受け継いだだけでありますから。

引用元はこちら
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by kaoruSZ | 2005-02-25 19:22 | 日々 | Comments(3)

アナログのココロ!

 再び読売の記事から。ゲストが架空の書店の店長になって本を紹介する「空想書店」というかなり大きいコーナーが読書欄にあるのですが、今月の店長は反ジェンダーフリーの旗を振る東京都某教育委員、見出しは「アナログの心」です。グーグルで検索するまで、てっきりこの人のオリジナル表現と思っていました。だって、「本はデジタルの頭ではなく、アナログの心で読む」なんて、「男は男らしく、女は女らしく」と同じくらい、空疎な表現ではありませんか。

 ところが、アナログ/デジタルの比喩的用法が見られるかとグーグルで検索、試しに「アナログの心」と入れたころ、なんと60件も引っかかってきました! さすがウェブ(ゴミ溜めか、とときどき毒づきたくなります)。この表現を批判している記事ではなさそうです。以下、例をいくつか——。

デジタルだけど、アナログの心

 タイポグラフィ会社のコピーです。

インターネットというデジタル機能を利用し
アナログの心をお客様にお届けしたいと思っております。
ご来店お待ち致しております。


 これは「電気商会」の出しているもの。品物およびサービスを扱うようで、デジタル機能は広告だけに利用しているということらしい。

手法はデジタルに変化しても、これまでの経験を活かしながら、常に真心、 言い換えればアナログの心で、より密なコミュニケーションをとりながら、 きめ細かくクライアントのニーズに応えていきたいものですね。

 これは印刷会社。真心=アナログの心と定義しており、デジタルになる前は「真心」だったというところが、「からごころ」の入ってくる前には純粋な「やまとごころ」があったというファンタジーを思わせます。 

 ほかならぬ教育委員自身のサイトの文章もヒットしました。「アナログの心」の中身が具体的に記述されています。なぜそれが「アナログ」と呼ばれるのかは不明ですが。

 東京都教育長 横山洋吉。彼は立派な男で、私が石原慎太郎都知事に次のような発言をした事がありました。公式発言です。
「彼を教育委員に任命したのは、知事の功績の一番か二番のものです」
 いわば鉄の同志です。その教育長のお母さんが85歳で亡くなられました。お通夜と妻の誕生日が重なってしまう。
 私はまず供花を手配。次に妻に一言。
「男の友情は妻への愛情に勝る」「ハイ」
 電子化がどのように進められても、弔電をメールでうち、香典を電子マネーで送る世の中にはなりません。
 大切なのはアナログの心です。


 タイトルは——写すのもおぞましいかぎりですが——「男心に男が惚れて」。「公式発言」って、あんた何者? とか、どうしてそこに「男の友情」が出てくるんだとか、それなら電報で弔意を表し香典を現金書留で送ることだって許されまいとか、突っ込みどころ満載、しかも笑えます。もちろんウェブ上でのこの手のカタコトは枚挙に暇がありませんし、個人が何を信じようと、放言しようと、将棋をさそうとかまいませんが、問題なのはこういう人間が、都立中・高等学校に関する重要な事柄を決定するようなポジションに置かれているという事実です。

 結論が出てしまったようですが、これからが本題なのでした。元記事はいずれ消えるでしょうから、適宜引用しつつ話を進めます。

 自宅で本をパソコンから注文することが可能になったことから、やがては本そのものもパソコンの画面上で読む事になるのかも知れないという臆測を引きだした教育委員、本代や配達料よりも安価で読めるシステムである。既に新聞各社でもネット配信を始めている。紙面は死語になってしまう世の中が来るのだろうかと続けたのち、次のようにそれを自ら否定します。

 否、私は絶対そのような事にはならないと確信している。私の書店はお客さんには足を運んで頂くことを念頭に入れての商売を第一に掲げてある。(中略)もうひとつの部屋は明るいテラスになっている。そこは貴婦人用であって、こちらは茶菓が出る。イスに座って午後の紅茶を飲みながらくつろいでもらう。全国に書店は数多くあれど、座るスペース、座るサービスを心掛けているのは私の書店が一番と自負している。自宅のネットで本を買う人は、本屋へ行っても立ち通しの上に交通費もかかり何よりも時間がもったいないからであろう。本屋そのものが行きたくなるようなサービスさえすればお客さんは来る筈(はず)だ。

 この人、本当に本屋へ行っているのでしょうか。全国の書店は知らないので東京に限って言いますが、ジュンク堂が西からやってきて以来、本屋が椅子やテーブルを置くようになりました。「立ち通し」なんてことはありません。代金さえ払えば、貴婦人に限らず茶菓、軽食を利用できるところもあります。しかも本の代金は、飲み食いしながら中身を読んだあとでもいいのです。のみならず、買わなかった本を返す、本置き台まで用意されています(そこまでやってくれなくても私はいいです。自分の本にしてから読みます——でも、今度やってみようかな)。

 そして、「東京にはそんな本屋があるのか、夢のようだ」と思う、大きな本屋が身近にない読書家にとってこそ、ネット書店は命の綱でしょう。私自身は、内容が確かで、あるいはどうしても必要で、早く読みたいときはメールで注文します。自宅ではなく、勤め先の近くの本屋へ届けてもらいます。すぐに大きな本屋へは行けない忙しいときでも、これなら昼休みに取りに行ける。以前は本屋で注文すると三四週間かかったものですが、ネットワークなら二三日、リアル書店でも、その影響でと思われますが、原則二日で寄り寄せますなどという貼紙を見かけるようになりました。

 ところがこの教育委員にとっては、電子メールで注文して本を入手することと、本屋で直接買うことは、完全に対立する事柄のようです。

本は自分の足で書店に行き、手に取って「まえがき」を読み、気に入ったら買うものである。なによりも紙で出来ている本を読む。1枚ずつページをめくるのである。行間を読み、写真にも目をやってくつろぐ。本はデジタルの頭ではなく、アナログの心で読むものと信じている。

 文章が大ざっぱなので「行間を読み」というのが何を言わんとしているのかよくわかりませんが、それが紙の本で読み取れるものなら、行間だろうが写真だろうがそれ以外の何かだろうが、モニターの画面で読めないわけがありません。物理的に読みづらいというのならまだわかりますが。
 紙の本でも、たとえば谷崎潤一郎の『盲目物語』が現代かなづかいに直されていたとしたら、とうてい読むに堪えないでしょう。こうした犯罪的な改変は問題ですが、基材が紙面から画面になったとて、本質的に何が変わるというのでしょう。

 それでもさまざまな理由で、紙の本で読みたいとは私も思います(註)。しかしそれはモニター画面で読むことが「デジタルの頭で」読むことだからではありません。そもそも私たちは連続的な量が0/1のデジタル信号に変換されたものを、アナログ的に知覚するのであって、デジタル方式の目を持った人など存在しません。この書き手のアタマこそ、0さもなければ1という、不毛な二項対立に陥っているようです。

註 言うまでもなく、写真が絵画とは異なるように、デジタル化されたテクストにはそれなりの使い道があります。「アナログの心」、現代紋切型辞典に入れるべきですね。フローベールの時代には、「写真」と聞けば「藝術ではない」と言っていればよかったというのが参考になりそうです。
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by kaoruSZ | 2004-10-09 08:16 | 日々 | Comments(0)