おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

大塚再訪

 最近池袋・大塚史にとみに詳しくなっているSMさんに案内され、黄昏の大塚駅周辺を散歩する。大塚名画座の建物が今もそのままとは知らなかった。階上も、鈴本キネマだった地下も、飲食店が入っている。迷路のような商店街にはあれからただの一度も足を踏み入れたことがなく、とっくに高いビルにでもなっているかと思っていたが、再開発されたわけではなかったのだ。明らかに覚えのある階段の形状。当時は邦画の面白さを知らず、鈴本キネマには廃業が決まってから一度だけ行ったような気がするが、それともついに入ることがなかったのか、記憶はもうさだかではない。小さなスクリーンの大塚名画座はいつも混んでいて、一本しかない通路まで座り見の人で埋まっていたため、最前列のシートの足元に蹲って見たこともある(そして、二本立てのうちの一本が終った途端、後ろを向いて館内を見渡しすばやく席を確保した)。

 映画館のすぐ後ろに神社があるのを全く知らなかった。熱心に通っていたのはたぶん二十代のはじめで、街歩きにも興味がなかったのだと思う。

 電停のプラットフォーム伝いにガードの北側に回ったときはもう暗くなっていたが、前方の変哲もないビルを指し、ここは元はデパートだったそうだとSMさんが言う。場末に過ぎなかった池袋より先にこっちにできたのだと。今は本屋とマクドナルドが入っている一階奥の階段とエレベーター・ホールにわずかに残る往時の華やかさを確認して入口に戻ると、ありし日の姿を伝える写真が二枚飾られていた。その店の名前、白木屋。服飾史にも名をとどめる白木屋……(昭和初年の火事で裾が乱れるのを恐れた女店員が大勢死に、それをきっかけに下着が普及というのは俗説で、実際には逃げ場を失って飛び降りたとも聞くが)、それなら古かろう。SMさんは居酒屋しか連想しなかったし、日本橋東急も今はないが。

 設計者は石本喜久治。帰宅して検索でヒットした先を読むうち、石本建築事務所とは立原道造が若い晩年に勤めた先にほかならぬことに気がついた。

 大塚名画座も検索すると、ここは四回分のスタンプで一回無料になったと書いている人がおり、クリックしかけて気がついた、なんだ自分のブログじゃないかorz; 大塚名画座へ都電で行こうとしたら、あいにく巣鴨のお地蔵様の縁日にぶつかってしまい進むほどに押し寄せる年寄りで満員状態、席は譲らなければならず電車は進まず上映時間に間に合わなかったことまでちゃんと書いてある(一度した話をまたするところだった)。山手線のプラットフォームの高さにいて電車の中から見えた大塚角萬の鶴が金ピカだったことなんか読むまで忘れていた。つい二年ばかり前に自分で書いておきながら。記憶の消滅、加速度的か。

 拙記事で引いている 「南大塚萬重宝」 にも久しく訪れていなかったのだが、元白木屋大塚分室、現大塚ビルのことも、一階の本屋とマックのことも、名画座裏の天祖神社のことも、SMさんとお茶した駅前のベイカリーカフェのことも、そこがちょっと前までベッカーズだったことも、 さすが大塚トリビア紙、近年の記事にみんな載っていた。

 ところで、「南大塚萬重宝」をめくっていて「佃煮にするほど」という形容を見つけた。この言い方、最近では「女は産む機械」と思っている奴が佃煮にするほどという文脈で自分でも使った覚えがあるが、もともとは大学の同級生が、普通なら「掃いて捨てるほど」と書きそうなところで小林秀雄が「佃煮にするほど」と書いていたとその悪意に満ちた表現を面白がって話してくれたもので、私はずっと小林のオリジナルかと思っていた(小林がどこで書いていたのかは未詳)。逆に言えば、実際にこの言い回しが使われている文章に出会ったことがなかったのだ。それが検索によりおびたしい用例に一度に出会う。

 もとベッカーズ、現イースト・イーストには、わけあって実は前日にもひとりで入っていた。杏タルトを食べながら、ガラス張りの店内から高架上を走る電車が見渡せるのがいたく気に入ってしまった。線路の北側から見ても、建物に遮られることなく電車の通過を見られる風景が独特で、微妙にくぼんだ立地も面白い。散歩には、過去に栄え、今はさびれた町が好きだ。

 一度も栄えたことがない土地が開発されるとどういう風景になるかというと……この夜、帰ってきて、駅から自宅ではなくヨーカドーへ抜けようと近道をたどるうち、右手に視界が開けて、広い前庭の向うに、湾曲した屏風のような巨大な建物がファサード一面に明りをともしているのに出会った。明りはついているがすべてブラインドを下ろしているようだ。これはいったい何なのか。敷地内の建物配置図らしきものがあるのを見つけ「ほほえみの郷」とやらほかが入っている、老人のための複合(?)福祉施設とわかった。あの一面の明りの向うには、そこを終の住処とする老人もいるわけか。あたりは草むらと団地と時折車の走り抜ける道があるばかり。私が勘に頼って歩くととんでもない所へ行ってしまうことも珍しくないのだが、今回は、無事、行く手にセブン&アイ・ホールディングスのマークが見えてきた。

 それにしても、「ほほえみの郷」とか「ふれあいランド」とかのネーミングって……。(独り暮しの祖母のもとに定期的にかかってくる「ふれあい電話」は邪魔なだけでしかなかったことを思い出す。祖母はすぐに出られるようにと律義にベッドの上に起き上がって待ち構えているが、電話は決まった時間よりもたいてい遅れ、身体が冷えて固まってしまうのだと言っていた。日当たりがよすぎて午前中は眩しいのに、カーテンは開けていますかと規定の質問を繰り返す。最後まで頭脳明晰だった祖母は、これも型通りに「はい」と答えていた。そして、肌のふれあいがなくなったから、それでふれあい、ふれあいって言うんだろうね、と私に言った)。大塚で見かけたイタリアンの店、外観のダサい印象はどこから来るのか、いろいろあるが何といっても店名だとか、前を通りながら悪口言ってわるかった。レストラン「うまうま」、「ふれあいランド」よりよっぽどいいよ。
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by kaoruSZ | 2008-03-09 19:05 | 日々 | Comments(0)
 甥の中学入試、受けたところ全部受かって終り、今日、お祝いということで夕飯に呼ばれる。夏休みにフィルムセンターの催し「子供映画館」に行かないかと誘うと行くという。弟の奥さんの里帰りとぶつかるのではと思っていたが、春休みに行ってくるそうなので……。フィルムセンターのサイトよく見ると空きがあれば高校生でも入れてくれるようだ。姪は高校生なのだが、そうなるとうまく行けば二人連れて行けるかも。大人は付き添いとしてしか入れない。せっかく子供がいるので、前から一度行きたいと思っていた。

 姪が中学に入った時はお祝いに万年筆を買ってやった。いまどき万年筆かとみんなに言われたが、これは(伯母の趣味ではなく)本人の希望。甥に希望を聞くと自分も万年筆がいいと言う。喜んで買ってあげるよ!

 フィルムセンターのマキノ雅弘特集、昨日からようやく行きはじめる。
『弥太郎傘』(1959)と『鞍馬天狗』(1960)。 前者は中村錦之助主演、後者は東千代之介主演で「愛情関係にある」(解説より)芸妓が美空ひばり。

 美空ひばりが髷にたくさん刺している赤い玉かんざしが、『鋼鉄三国志』の諸葛瑾のそれとそっくり! 偶然とは思えないほど。(『鋼鉄三国志』とマキノの『鞍馬天狗』両方見ている人っています?)

「鞍馬天狗」の映画、きちんと見たのははじめてだと思う。白馬でやってきて拳銃をバンバンと撃つ。こういうものだったのね……。 ちなみに、初カラーの鞍馬天狗だとか(それでかんざしの色もわかった)。
 鞍馬天狗は「おじさん」である。「天狗のおじさん!」と杉作。
 月光仮面も「おじさん」だった。「♪月光仮面のおじさんは~」

 いったい幾つくらいかというと、鞍馬天狗の正体倉田のおじさんは二十五歳である(長屋のおかみさんたちがそう言っている)。それにしちゃふけてるが(調べたら東千代之介は三十過ぎ)。ともかく設定上は二十五だ。人の親になる年齢になればおじさん、おばさんと呼ばれるのが普通だったし、本人たちもそれであわてたりはしなかったのだ。

 対する新撰組もおじさんばかりで笑える(NHKの新撰組を思い返すと)。某都議が、新撰組の史跡を尋ねる若い女性の姿が目立つというのを喜んで、男らしい男の群れ、新選組は、多くの日本女性を魅了している、ジェンダーフリーの男らしくない新撰組なんてありえないとバカを言っていたが、その「男らしい」新撰組とはこういう「おじさん」ぞろいのことだろう。 そんな萌えないもの、若い女が跡を尋ねるわけがない。勤皇の志士の「おじさん」をつかまえて拷問にかけたって全然見せ場にならない。

「愛情関係にある」芸妓……。確かにその通りだった。「情婦」ではありえない。境内で忍び会うだけだもの。(処女の芸妓かしらん。)

 ひばり、演技うまい。マキノを感嘆させたというのも頷ける。しかし色気はない(生涯なかったと思う)。

 杉作はじめ少年たちの出自はベイカー・ストリート・イレギュラーズか。少年探偵団はもちろんそうだが、「ナショナル・キッド」もそうだったな。「おじさん」がいて「子供たち」がいたんだよね、昔は。女子供を助ける父性的ヒーロー。ヒーローは父、すなわち「おじさん」だった。「戦隊もの」とは父なき世界に子供たちだけが残ったのか。『鋼鉄三国志』にも父はいなかった。
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by kaoruSZ | 2008-02-15 00:10 | 日々 | Comments(0)

八日の燕子花

 木曜日(七日)、Mさんを誘い、かねて行ってみたいと思っていた根岸の子規庵に加え、三の丸尚蔵館での若冲第五期(最終)展へ。
 子規庵、予想されたことだが、座敷の向うにひらけた小さな庭が亡き祖母の家を思わせずにはいない(備えつけのノートにも同じような感想が記されている)。芙蓉が花ざかりなのも見馴れた風景(あれには葉をバリバリ食ってしまう太い芋虫がつく)。座敷で子規と不折の句画展。子規終焉の間の文机で記名する。Mさん、自分では記さず、あとで、人を知るとはかつてはその人の字を知ることだったのに、私の字をはじめて見たという。確かに。ぼろぼろの濡れ縁のあるガラス戸の向うには、まるでディスプレイのように、立派な糸瓜がいくつも下がる。忌日が近いわけだ。

 広縁から庭に降りて一巡 し、裏門から出る仕組み。豊川には祖母が自分で掘ってセメントを塗ったという小さな金魚池があったので、このあたりに……と思わず草の中をのぞく。出る前に売店に寄ると、半分に切った蜜柑をつつく愛らしいメジロの写真が目に入る。餌台のふちにただとまっているところと、頭を下げて蜜柑をついばんでいるところと二種。目白のポーズが違う、よくこういうところを撮ったね、とMさんに話していると、店番をしていた近所の主婦という感じの人が「頑張って撮りました」とほほえむ。庭の草花の写真に白字で句を抜いたハガキを手作りしているらしい。あまりの可愛さに二枚とも買う。メジロの句はないらしい(なくてもいい――ない方が引き立ちそう――だけれど)。

 祖母の家には糸瓜も瓢箪も生った。百坪借り、奥は畑にしていた。末っ子が学齢に達して母子寮を出なければならなくなったとき、私の母が交渉して借りる話を決めてきたという土地で、母子六人の住む家をその上に建てた。子規庵の庭に降りて家を眺めると、瓦屋根の形までそっくりに見え、うちのアルバムにもある、左手に洋室を建て増ししたとき(母の結婚後で、もう弟妹も成長している)の写真とイメージが重なる。要するに二間続きの和室の南に縁側を出すという、かつては(少なくとも本州の太平洋岸では)ごく普通の造りだったわけだ。祖母の家の縁側は子供の頃大好きな場所だった。祖母の晩年、たびたび訪ねていた当時、あの縁側ははたちで死んだ章一郎君(母の弟)の退職金で「出した」のだと祖母から聞いた。そういえば、できたばかりの家は寒くて、枕元の花瓶の水が凍ったと母が言ったことがある。就職が決まったものの一日も出勤しきないまま結核で亡くなった長男のことを、祖母はいつも君づけで略さず呼んでいた。

 若冲展のあと、竹橋方面へ公園内を横切る。池の縁に紅、桃、白と幾本も並ぶサルスベリが美しい。八橋が作ってあるが、Mさん、東下りの八橋を知らないというので説明しようとし、しょうぶじゃなくて、あやめ? とかきつばたが出てこなかった私、ボケ過ぎ。寝不足だったせいにしておこう。Mさん、用事があるので、早い時間に別れる。焼き立てのギョウザとお刺身用のサーモンとタタキ用アジ一匹等買って帰宅するが、TVをつけてお茶を飲みながらギョウザを食べているとご飯を炊くのが面倒になり、サーモンを切ってこれも食べてしまい、ゴロゴロするうち寝入る(眠らないようお茶にしといたのだが)。朝の四時頃目をさまし、丸ごとなので食べられなかったアジを冷蔵庫にしまう。結局、アジは朝食の塩焼きに。よく寝たせい(?)で、今ならかきつばたの折り句も、それどころか伊勢の地の文まで口ずさめるんだが……。
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by kaoruSZ | 2006-09-08 11:29 | 日々 | Comments(0)

休日

 土曜日、たまりにたまった用事のなかでいったい朝イチで何をやるべきか悩んだが、9時に上野へ駆けつけてプラド美術館展を読売にもらったタダ券で見るのはやめて(しかし、早く見ないとこの券、四月いっぱいしか使えない。展覧会自体は六月までやるけど)、10:30からの『ブロークバック・マウンテン』見に日比谷シャンテへ。映画館のサイトで見たら、土曜の第一回はガラガラとは書いていなかったけれど実際にはスキスキだった。早めに着いて先に券買って近くでモーニング。ギリギリに行ってもどこでも座れた。二回目以降は全席指定。これが嫌いなので、一回目に行きたかった。

 見た結果は、薄味でがっかり。ミクシィでSさんが、いかにもステレオタイプな紹介記事を紹介してくれていて、そこには同性愛という特殊なドラマだけど普遍的なテーマとあったが……Sさん、ただの「普遍」でしたよ!
 男同士、ましてやカウボーイ同士である必然性まるでなし。
 せっかく西部劇が積み重ねてきた「男同士の関係」という素材があるのに、全く利用しないんだか、できなかったんだか。
 監督はたぶん「特殊なドラマ」の味わいを理解していないのだ。
 私は子供のときからずっとそういう西部劇系の「ドラマ」は、性的“嗜好”の対象だったからね。
 
 その私が、二人の男優にもその関係にも、何の魅力も感じなかった。女優たちはよかったけど、そっちに観客の目を行かせて、脇のドラマでふくらみを持たせて何とかしようと思ったのかねー、監督は、という感じた。
 というか、主筋がふくらんでいない。
 あれで泣く人がいるのか? 信じられない。

 始まる前、泣けるというから厚地のハンカチ持ってきたんだけど、という声(男の)が何列か後ろの席でして、それとなく振り向いてみたらゲイの二人組だったが、彼のハンカチも必要なかった模様。

 資料としてパンフレット買う。ざっと見ただけだが、原作の翻訳者の文章だけが面白かった。原作の方がいいのかな。

 このあとは日比谷から西日暮里まで地下鉄で行き、歩いて日暮里駅方向へ戻り、ウェブで評判のいい「ダージリン」でカレー。辛くて美味しかった。以前谷中に来たときもこの店の看板は見た覚えがある。そのあと、行きそびれていた朝倉彫塑館へ。伯母(伯父のつれあい)の法事で来たとき、帰りに喪服のまま見て行こうと思っていたら、お斎は別の場所に用意してあるということで上野まで連れて行かれてしまい、果たさなかったのだ。外観からは想像のつかない素晴しい空間。特に池を中心にめぐらされた廊下と座敷。林芙美子邸とどっちかやるけどどっちにすると言われれば、私は林邸の方でいいけれど、あの池はいいなあ。夢の中で見たことがあるかもしれない。池の面を吹き渡ってくる風が気持いい。全然違うけど、鎌倉の近代美術館の水の上の建物も好きだ。

 少しでも木がまとまって生えていると風が通って本当に涼しく感じるのは、地代を払いに、夏、従兄の家へ行くたび感じること。父の生家の庭のなごりのひとかけらだ。朝倉邸の窓の内鍵はうちのとそっくりだ。小さくずんぐりとしていて、押し込んで鍵をかけ、あけたときは抜いてそのまま垂らしておく仕掛け。屋上まで上って見下ろすと、目の下のほんのそれだけでしかない場所に、信じられないほどの濃密な緑。周りはまだまだ低層住宅だし、台地の上だからひときわ高くそびえているけれど、かつてはここからただ黒い甍の波のつらなりだけが見えたのだろう。父はここに来たことがあるのだろうか? あったら何か言うと思うから、なかったのかもしれない。知らなかったのだろうか? 父と来ていたら家の細部についていろいろ説明してもらえ(というか、得意になって説明されて)、面白かったろうと思う。

 素通りするには近過ぎるので菩提寺にも寄った。といっても、墓石を眺めてきただけ。伯母の法事で伯父二人の家の墓の場所をはじめて知ったので、そこも見てくる。要するに父以外の男のきょうだいはすべてここに墓を持つ――父は末っ子で、土地と家と墓地をもらいそこねた人なので、ここにはうちの墓所はない。祖父の戒名をはじめてよくよく見る。本当に、あまりにもベタで可笑しくなるほど、律儀な働き者の名前だ。
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by kaoruSZ | 2006-04-24 15:31 | 日々 | Comments(0)

あの洋館はもうない

 刑部邸に重機が入り、他の棟を壊してメインの洋館に近づいていることは玉井さんいのうえさんのブログで読んで承知していたが、とうとうあの愛らしい不思議なファサードも瓦礫と化してしまったと知る。

 心惹かれる写真サイトを見つけるとリンクしているのだが、そのようにして先日出遭ったRoc写真箱へ、先週の木曜日、何の気なしに行ってみた。花をつけたニラ★とおぼしきひとかたまりの花がアップされている。うちのニラもそういえば道に面した外壁に繁る蔓薔薇の下の菫の隣に咲き出していたっけと思いつつ、添えられた文を読んで、刑部邸のアトリエがとうとう壊されたこと、その前に、建物の足もとに咲いていた花を撮ったものだと知る。白い花はもう一種類見えるが、これはまぎれもなくシャガ、花は小さいながら花弁に紫と黄の模様が入り、一人前にアイリスのかたちをしている。(一つ前の記事に、母が好きだったと書いたところだ。)花々は消え去った建築への供華としてあげられていたのだった。

 うちのシャガはこれよりあと、週末にようやく一輪ひらいた。地中を伝って離れたところにいくらでも新しい葉を伸ばす。うちでは場所が狭いから、他の植物を駆逐して占拠されないようたまに引き抜くが、抜いたのをほうっておくとまたそこから根を張るくらい強い。刑部邸の草木はどうなるのか。土を掘り返してごっそり運び去りでもしなければ半ば野生化した草花たちは生き延びられようが。あとには低層<マンション>が建つという。今度林芙美子記念館を訪ねるときにはどうなっていることか。

★母はニラと呼んでいたが、検索するとニラの花はいかにもアリウム属らしい蘂の目立つもの、ガクが花びら様に発達を遂げた仲間と思われる、星形の白い花とは別ものだ。母が勘違いしていた? 首をかしげつつ、ためしにハナニラと打ち込んでみると、シンプルな見なれた花がヒットした。ずっと野菜のニラだと思い込んでいた(発育が悪くて葉が寝ているのかと思ったが、もともとそういう性質なのだった)が、食用にならない別種だという。食べなくてよかった(もしかしたら、戸田に生えていたのを一度くらい食べたかも……)。

          *

 今日、朝日新聞本社の西側斜面の緑地帯で、真赤なシャクナゲの大木が花盛りなのを見た。八重桜も満開。葉が黄色い八重桜で、子供のときは少しも美しいと思わなかった花だが、今はこれはこれで面白いと思う。八重桜に豊かなヴァリエーションがあることを一度に知ったのは、大阪の造幣局の通り抜けを歩いてから。初めて勤めたところで、無駄に出張に行かされ、結局目的も達成できずに時間があいてしまったときに、勧められて行ったのだ。シャクナゲ、戸田のアパートを建て替える前は、空いた場所に三本ほど地植えにしていた。父はどうやって手に入れたのか、苗を買ったか、誰かにもらったのか、普請の際にいらないから処分してくれと客に言われた庭木をせっせと運んできては植えていたから、あれもそうだったのか。その場所を四畳半と呼んでいたのは、それくらいの広さしかなかったからである。

 しかし、アパートの立て替えで四畳半の草木も行き場をなくし、一部を人にあげてあとは結局処分されてしまった。シャクナゲの一本、真赤ではなくピンク色のところが値打ちなんだと父が言っていた株は大工さんにもらわれて行ったが、そのとき二階に住んでいた私が、早朝物音に気づいて上から見ると、大工さんはせっせとシャクナゲを掘っていた。そのあと父から電話があって、職人が仕事に来ているかと訊いてきたが、誰も来ていなかった(古いアパートを壊す前の準備段階だったのだ)。結局その日は誰も来ずじまいで、父は、天気がいいのにしょうがねえなあシャクナゲだけはすぐ取りにきて、と言っていたが——あのシャクナゲは、今年ピンクの花をつけているだろうか?
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by kaoruSZ | 2006-04-17 14:18 | 日々 | Comments(2)

『父 中原淳一』(1)

 昔、母方の祖母から、ふとん生地の端布をはぎ合わせた掛布団をもらったことがある。うちは四人家族なので人数分送ってくれたのだが(ふとん皮だけが送られてきて、綿は母が入れたらしい。晩年の祖母のもとに通っていたとき、そうした掛ぶとんシリーズの一枚をかけて寝たことがあるが、母の仕事と違い、それはごく薄い夏掛けに作られていた)、特に私のためには、赤い生地や花柄ばかりを集めてやや小型に仕立てた一枚があった。長年愛用していたが、先年、白いカバー(これは綿レースで縁取りした母の手製)の端が弱って裂けてしまった。市販のカバーでは大きさが合わない。直線のミシンならかけられるから(曲線だってかけられないことはない)、いつか自分でカバーを縫ってまた使おう。そう思って押入れに入れたきり何年も経つ。

 私のやることはたいていそんなふうだが、ここで話題にしたいのはそのことではない。中原淳一の長男・洲一が書いた『父 中原淳一』(中央公論社1987年)という本のことだ。話は戻るが、祖母が布団の端ぎれをそんなたくさん持っていたのには理由がある。母の年の離れた妹が結婚するとき、祖母は布団一式を自分で縫って、綿を入れてもらうため布団屋に持ち込んだ。すると、布団屋の女主人から、最近では布団を縫える人がいなくなって困っていた、ぜひ仕事をと頼まれて、以来、かなりの年になるまで(彼女は四十五歳で私の祖母になっているから、このときでもまだ五十代だったはず)、「布団屋に奉公しちゃった」と自ら称する内職をミシンを踏んで続けたのである。(後年、寝たきりに近くなった祖母に言われて家の中から外を見ると、通りを隔てた斜め向かいの布団屋はシャッターを閉ざしていた。跡継ぎのいないまま、布団屋のおばあさんは祖母より早く亡くなったのだ。)あるとき、そうした端切れのいくばくかを祖母にねだった。何にするのと祖母は訊ね、本に出ていた着物姿の人形を作るのだと答えると、喜んで、私に好きな端切れを選ばせてくれた。母の持っていた、昔の手芸の本(「主婦と生活」か何かの附録)に、出来上がりがカラー・グラビアに載っていた、作り方を何度も読み返した、身体も全部布製で、髪は毛糸の束を半返しにしてとめつけた上に鹿の子の手柄をかけた髷を乗せ、中原淳一のあの少女の顏(とは当時は知らなかったが)を染料で描いた人形を、いつかは作りたいと思っていたのだ。

 もともと裁ち落しだから大きな布はなかった。人形に着せる縞柄か何かの生地は、別に手に入れなくてはならないだろう。ただ、半襟などのアクセントに、それらの小布は使えるだろうと思われた。そうやって持ち返った端切れが、そのまま箪笥の抽斗で何年も眠りつづけたことはいうまでもない。人形を作るのはあきらめても、はいで椅子用の小座布団にしたらどうかと考えたこともある。布を組み合せ、出来上りを想像して、結局また抽出しにしまいこむ(それでも、いつの日か、ポーチぐらいはできるのではないかという希望はまだ捨てていない)。

 母が取っておいた婦人雑誌の附録は、私の子供時代の特別な愛読書だった。もともとは、熱を出して肋膜に影があるとか言われたあとの長い恢復期に、寝床のなかで家じゅうの本を呼んでもまだ読み足りなかったとき、母が出してきたものだ。私が中原淳一の名も覚えたのは、強いまなざしをもった少女人形の、あるいは、まだウェストを絞らない年齢の幼ない女の子のためのワンピースの作者としてだった。ドレスの前につけられた半円形の大きなポケット(幼稚園に入る前に私が着せられていた母の手製のエプロン——実際にはスモックというべき形だった——にも、そんなポケットがついていた)はボウルに見立てられ、そこに盛られたように、果物のアップリケがされていた。中原自身も、服飾作家が自身の愛用品を紹介する欄に写真入りで登場し、商売道具のペン先を大胆にアップリケした自らのネクタイについて語っていた。

18日にMさんにあてたメールの一部:

ところで、今日、日比谷図書館で中原淳一の息子が父のことを書いた本を借りたのですが、中原淳一ってゲイだったんですね。よく知られた話なんでしょうか?
私は知らなかったけど。
グーグルしても、伊藤文学しかそのことを言ってなくて。
ひまわり、それいゆがなつかしかったりする世代じゃないけど、子供の頃、母の手芸の
本でデザインが好きだなと思って見ると中原淳一だった(本人も出てきたりした)という思い出があるんですよ。
小さいときから女性の服飾をはじめとした女らしいものに惹かれて、本当は自分がそういう少女になりたくて、でも実際はむくつけき男で、本物の女は好きな男を「堕落」させてしまうので嫌い、性的なものを剥ぎ取った少女像を描いて、結局現実の女に対しては抑圧的に働くという……。



『父 中原淳一』(2)http://kaorusz.exblog.jp/4428380/
『父 中原淳一』(3) http://kaorusz.exblog.jp/4429355/
『父 中原淳一』(4) http://kaorusz.exblog.jp/4469181/
 
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by kaoruSZ | 2006-03-24 21:48 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(5)

最上米こし味噌

 30日、昨年は「カルチャー・レヴュー」の原稿を挙げてから雪の舞う中、食料を買い込んだので、今年は一日早く少しは買っておくことにして(原稿は早くなくても)、切らしていた味噌も買いにゆく。店先に立つと、夫婦で中にいるのが建具のガラス部分から見える(成瀬の映画みたいだ!)  ごめんくださいと呼ぶと、はじめて見るおかみさんが出てくる。名前を言っていつも持ってきてもらっていたお味噌をというと主人が呼ばれ、私と知って、ゆうべ話していた……とおかみさんを見返って言う。

 強度偽装の一級建築士から、父の話になったそうだ。お宅のお父さんのような人に頼んで建てれば、絶対安心なんだけど、と。そういう話をしたら翌日私が来たのは、やっぱり引き合うんですかねえ、と言う。父も建築士、だたし二級建築士だった(仕事をはじめたときはまだ建築士制度がなく、学校を出て実務経験が二年以上あれば、面接だけで二級は取れたそうだ。受験料がかかるから一級は受けなかったと聞いたことがある)。そりゃ安心だろうと私も思う。昔の施主からは、今でも住みやすい家だと年賀状が来ていたし、仕事をやめたあとでも、昔建てた家の修理を頼まれれば、職人を車に乗せて遠くまで行くこともあった。職人の手間賃しか取らず、ガソリン代と職人の昼食代は持ち出しだった。味噌屋の主人は、昔は御用聞きに来ていたので、うちが建つときも見ていたそうだ。基礎に玉石をぎっしり詰めていたと言う。柱もひのきで、あれが本当の柱だという。父自身、地震が来ても倒れないから家の中にいろと行っていた。ただし、火が出たら駄目だから逃げろと。うちの周りに今建っているマンションも、姉歯じゃなくても、ああいうのがきっとあるでしょという。昔は仕事に誇りを持っていたからという。主人のお父さんは普請道楽だったとか。あの家なら百年でも百五十年でももつでしょう大事に住めばと言う。

 変体仮名の「こ」が読めなくて読みかたを聞く(返事を聞いて、前にも訊ねたことがあったのを思い出す)。味噌の名前を書いた札は、もう亡くなった人に書いてもらったもので、看板自体も書をもとに作ったという。札がずっと同じとは知らなかった! 本物のお味噌をまた買いに来ますからと言って帰る。思い出して懐かしんでもらえてよかった。生きていれば来月八十一になる父の葬式は五年前の大晦日に出した。
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by kaoruSZ | 2005-12-31 17:03 | 日々 | Comments(0)
 大屋根広場(これを書くために名前を調べた)は、以前勝鬨橋の方から歩いてきて、幅広の石段を上がって発見した。聖路加タワーの二階のフロアが土手と同じ高さにあり、じかに川べりへ降りられるようになっていたのだ。聖路加病院には五年前、父の白内障手術で来ており、ここへ上がるエスカレーターも見ていたのに、そんな簡単に視界の開ける空間に出られるとはつゆ知らなかった。一度連れてきてやればよかったと、今でもここに来るとときどき思う。

 聖路加はまた、昭和20年の正月に死去した父の父が、それに先立ち入院していたところでもある。建築科の卒業証書を病室まで見せに行ったとは、以前父に聞いた。そのことは言わなかったが、ここにおやじさんも入院していたんだぞとは手術の当日にも口にした。聖路加病院の文字、I さんははじめて見たというので、St.Luke's Hospitaiの文字を指さす。病院の出している印刷物でルカとルビが振ってあるのを見たことがあるし、聖書の表記通りルカと読むのが正しいのだろう。(だが、祖父はもちろん、父も、聖ルカ病院と呼んでいたとは思えない。)

 目の手術のあと一泊の入院が必要だったが、麻酔から醒めたばかりの父を知らない場所に一晩でも一人で置いておくのは見当識喪失が心配だったので医者に言うと、娘さんの顔もわからなくなっては大変だと、病室で休んだあと帰宅し、翌朝また来院することになった。ただし〈ご休憩〉でも入院料(実際に泊まるよりは安いわけだが)は取られ、タクシーで行き来しなければならないから、かかった金額は似たようなものだったろうし、こっちの手間は入院以上にかかった。片目の手術には成功したが、もう片方を手術する日はたぶん来ないとわかっていた。メガネを作らないうちに、父は緩和病棟のある病院(いわゆるホスピスのたぐい)に入院した。しばらくして、そこの眼科でメガネを作った。このメガネは一月も使わなかったはずだが、もう一度はっきり見えるようになりたいと言っていた願いが叶ったのだし、かけた姿が上原謙のようだと言われて機嫌がよかった(評判になって、離れた病室からも人が見に来たとは本人の弁。実は若い頃にも、上原謙に似ていると言われていたのだ)。12月になる前に開かれた病棟のクリスマス会で撮られた写真に、父は赤ワインのグラスを前にこのメガネをかけて納まっている。これが最後の写真になった。

 昼どきにここに来たのもはじめてで、室内にも、外の石造りのテーブルにも(外で昼食でもまったく問題のない暖かさ)、かつて見たことがないほど人があふれていた。しかしこれは予想されたことなので、奥のドラッグストアを冷やかして(ここで去年は古風なクリスマス・カードが選びきれないほどの種類あるのを見つけたのだが、今年はすっかり入れ替わっていた)昼休みが終るのを待つ。弁当は、朝トーストしたところで「シンプルパン」に具をはさみたくなり、最初玉子をはさみかけたが、三角形のパンにうまくおさまらず、これは私の朝食になった。結局チキンをはさんで、玉子の方だけ予定通り容器に詰める。エメンタール・チーズ美味しいのでワインも抜いてしまおうかと思ったが、酒類禁止の表示があるのであとの楽しみにする。黒パン、前日の夕食と当日の朝食にした残りを、多過ぎるとは思いつつ全部持ってきていたが、楽しく食べてほとんどなくなり、I さん、最後には玉子の容器からじかにすくって食べてしまうほど気に入ってくれたのでよかった。引き上げようと立ち上がるまで周囲に注意を払わなかったが、テーブルはなお、けっこう人で埋まっていた。思いのほか長く大屋根の下で過ごしてしまったが、この時までに空はかげり、外は寒くなっていた。
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by kaoruSZ | 2005-12-18 19:32 | 日々 | Comments(2)
『流れる』で例のアッパッパ(小林信彦もそう書いているから、この呼び方でいいのだった)に白足袋姿で闊歩する賀原夏子が、撮影時三十半ばだったことをあとで知った。あの老けは作っていたのか。妹の山田五十鈴を指してあたしと五つしか違わないのとその若さをいうが、実年齢は賀原の方が下ということになる(ついでに言うと『舞姫』の山村聰、若いと思ったがあれが素で、『山の音』の老いた姿の方がやつしなのだった(『舞姫』から『山の音』まで三年しか経っていない。後者で息子をやった上原謙とは数歳違い。ちなみに、あのときの原節子が三十四である)。

 小林信彦の「映画『流れる』——架空世界の方位学」はさして長くない文章だが、当時の成瀬が「〈文芸映画の名手〉と見られていた」ことや、『浮雲』についての記述——「『浮雲』の成功は」「戦後十年目の大衆の意識の底に眠っていた〈勝利者だったころの甘い記憶とその後の辛かった記憶〉を呼びさましたことにもあったと考えられる」(〈無邪気な侵略者たちのその後〉は、台湾で高砂族を皇民化する官吏の娘——まさに無邪気に時代のイデオロギーに染め上げられた——として育った母のメンタリティとして私には親しいものだ)——など、思いがけない指摘が並んでいる。『流れる』については、そこに住む人々に働いている独自の方向感覚(「川のこちら側の両国」生れの小林もいまだに共有するもの)というのが、同時代を知らずに成瀬を見る者には、まず絶対思いつかない種類のものだった。東京の土着の人間が極めて狭いテリトリーしか知らずに育つのは、小林には東京外だろう、昭和七年に区になるまでは北豊島郡だったところに生れ育った私などにも理解できるが、〈鋸山〉まで川向うとは——。

〈鋸山〉とは、前にも書いたように、「つたの家」にゆすりにやってくる、宮口精二演じるやめた芸者の叔父だが、「名前からして凶々しい彼は、川(隅田川)の向う側、それも考えられぬほど遠い、暗い世界からやってきた、というイメージでとらえられている」んだそうだ。(この世の果て、キンメリイの果てですか?)遠足の行き先なんて生やさしいものじゃなかったんだ! 箱根の向うですか手前ですか的境界線が、大川を挟んで生じているとは。田中絹代以外の「つたの家」の人々はまだ知らないが、『流れる』の女たちは、映画内の時間が終ったあとの遠からぬ将来、そこを追われて〈川向う〉に追いやられる。そのことはすでに観客にはわかっているが、そこがそんな忌まわしい場所に通じていようとは! 「千葉県の鋸山は、地理的には、東京のほぼ南にあたるのだが、〈川向う〉すなわち、東側の人間としてイメージされる」。そんな世界だったら、鉄でできた山があっても不思議はない——もしかして山田五十鈴は、冗談でも、〈鋸山〉を舐めてでもなく言っていたのか?

「〈鬼子母神〉は米子の母親で、蔦奴の叔母にあたる」と小林は書いているが、正しくは蔦奴(=山田五十鈴)と〈鬼子母神〉(=賀原夏子)は父親(父親の方だったと思う)の違う姉妹で、中北千枝子の米子が、山田五十鈴の両親とも同じ妹なのではないか。ともあれ、実妹の山田に高利で金を貸し、杉村春子の利息も取り立てにくる、この人物に与えられた〈鬼子母神〉という名について、「雑司が谷(→)墓地」[原文では矢印が両端につく]、鬼子母神、といった地名のあたえる不快感は相当なものである」と小林は言うのだが、これは全く思いもよらないことだ! (そう感覚できる人はどれくらいるのだろう。)確かに、〈鬼子母神〉の怖いところと、賀原のユーモラスなところが衝突して効果的とは思ったが、そんなネガティヴ・イメージだなんて。ススキミミズクでも作っていそうな所なのに。

 そのあとも方位学の検討は続き、清洲橋の見える料亭(「(いかにもスクリーンプロセスっぽく)見える」と小林は書いている。清州橋ぐらいは私にもわかった)や、仲谷昇と高峰秀子が歩きながら「短い会話を交す大川端」は「両国橋の川下」であるとか、「岡田茉莉子が、むかしの情人と不快な一夜をすごしたあとで戻ってくる」ガード下にあいた穴のようなトンネルの場所(現存するそうだ)にいたるまで、地図の上に同定されている。

「人物が和室の中で立ったまま会話する光景[原文ではここまで傍点]に、ぼくは感動した」と小林は書いている。「家の中が往来のつづきででもあるかのよう」な内外の交流は、小林の言うように「下町風俗」でもあろうが、もう少し一般的に、開放的な夏の家に象徴される、あの映画の、ひいては成瀬の映画を特徴づける(下町ではない『女の中にいる他人』や、昨日書いた『母として女として』の警報器にまでつながる)ものでもあろう。「いかにもこの町らしい、洋食屋風の喫茶店での栗島・山田の会話の背後に、豆腐屋のラッパや〈バタバタ〉と呼ばれた当時の乗物の音」がするのもまた、小林は巧みな「下町風俗」の導入ととらえるのだが、これについても同じだと思う。私自身、前の記事で、喫茶店の中まで入ってくる通りの物音のことを書いたが、豆腐屋のラッパに加えて、具体的な物音をもう一つぐらい挙げたかったのに思いつかなかった。それがここには〈バタバタ〉とある。〈バタバタ〉とは何だろう? ウェブで調べるとオート三輪のことだという。それなら確かに画面でも見たが、この呼び名は知らなかった。

「当時の乗物」というからどんな乗物があったのかと思ったが、オート三輪ならうちの斜め前にあったお湯屋で、この文章が書かれたよりもあとまで現役で使われていた(このお湯屋は、1927年にツェッペリンの飛行船が来航した際、その煙突の向うを横切ってゆくのを二歳の父が見たというから、そのときすでにあったものだ。持主が変わりながら続いたが、数年前廃業した(オート三輪はとっくになくなっていた)。湯屋がなくなってぽっかり空間があいたため、東南を十数階建てのマンションでふさがれた代りに、うちは昇りたての朝日ばかりがやたらとあたるようになった)。親と同居していた頃、燃料にする木材などを運ぶのを毎日のように見ていたので、この車種を見かけなくなったとは思っていたが、絶滅に瀕しているとまではずっとあとまで気づかずにいたらしい。ここの三輪車は新聞にも取り上げられたし(東京版)、TV(東京ローカル)にも出た。すでに別に住んでいた私は、母が知らせてきたので早朝に起きて番組をひとりで見た。オート三輪が外へ向かう瞬間、キャメラが切り返してうちの木戸と繁った緑が、一瞬だが正面からとらえられた。その直後、明治通りを走るオート三輪の雄姿で番組は終っていたから、あれを認めた視聴者は私ぐらいだったろう。両親は寝ていて見そこなったとのことだった。

 もう少々蛇足を続ける。オート三輪という言葉は、子供用三輪車の対語のように、子供の私にはとらえられていたものだ。三輪車には二種類ある——子供の乗る三輪車とオート三輪だ。こういう二分法的分類は、子供には親しい思考法だった(と自分の経験から私は思う)。もう一つ、「オートギッチョ」という言葉があって、これはバッタの一種、イナゴ型ではない頭の細長くとがったのを特に指して(だったと思う)私の父が使っていたものだ。後年、澁澤龍彦がバッタを子供時代に「オート」と呼んだことを書いていて、これは「オートジャイロ」から来ていようとあり、たぶんそのとおりなのだろう(当時健在だった父に私はこの話をしたが、父は興味を示さなかった)。「ギッチョ」の方は、いうまでもなくバッタの立てる音から出ていよう。
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by kaoruSZ | 2005-10-25 15:19 | ナルセな日々 | Comments(0)
 フィルムセンターの成瀬特集、監督の百歳誕生日の20日からはじまる。きのう火曜日、『噂の娘』('35)と『雪崩』('37)の二本立て見る。日曜日に三本見ようかと思案していたが、土曜朝、従兄から電話で、兄三人姉三人あった父のきょうだいで唯一残る伯母(父の姉、従兄にとっては叔母)が脳梗塞で入院中という。いとこたち三兄弟(女、男、男の順で、電話してきたのは二番目の男の子[還暦の]、もともと「エ」は年上で「オト」は年下、性別による分類ではないから「兄弟」としておく)と新越谷駅前で翌日正午に待ち合せることになり、まずは行きそびれていた美容院を日曜の九時に予約。当日は髪を切って戻りあわただしく出かける。駅の路線図で北千住-新越谷間の駅の多さをはじめて知り、早く出てきてよかったと思うが、東武線ホームの駅員に聞くと十五分で着くと言われる。途中はとばして行くのだ。十一時半には着いてしまう。新越谷は拾ってもらうのに便利な地点というだけで、どこだかわからない(私には)、不案内な土地を車は進む。

 いとこたちは1945年前後の生まれだ。私のうちは表通りから横丁を入ったところ、伯母の家は通りへ出てすぐのところで、私が中学の頃、通りの拡張事業で伯母一家は引っ越した。車中でも昼食をとったファミリー・レストランでも、知らなかったhistoireが盛んに語られる。私たちの祖母は東武線沿線の出身なのだが、車が橋(どこの川だか知らない)を通るとき、43年生まれの従姉が、空襲のときここまで大八車を引いて逃げてきたと言う(彼女が引いたわけではもちろんない。うちの方は直撃されたわけではないので、親類に空襲による死者はいないが家は全焼した。祖母の実家近くで、祖母と三人兄弟の母親である伯母は、畑のあいだの道を歩いていてB29の機銃掃射を受け、走って薮だか林だかに飛び込んだことがあるという)。祖母の実家で休んだのち、さらに遠く(いとこたちの父方の親戚?)まで行きバラックに住んだという。そこまで歩いたの? まさか。東武線で行ったのだろうと三人で言い合う。誰も直接の記憶は持たず、下の従兄は生まれてさえいない。

 そこから帰ってくるあたりからははっきり覚えている、私の父がトラックで迎えにきたと従姉が言う。(父が運転免許を取ったのは後年だから、同乗してきたということだろう。)私には初耳のことばかりだ。祖父が第一回の卒業生で子も孫も通った小学校の話になって、三階建ての鉄筋校舎の屋上に空襲を知らせる拡声器が残っていたと、一番若い従兄が言う(私にとって「おくじょう」とは上野松坂屋の屋上遊園地のことだったから、そしてデパートに行く楽しみは「おもちゃ/本売場」「屋上」「食堂」の三点セットだったから、学校に屋上があると聞いて心が躍った。「学校には屋上があるんでしょ?」小学校に上がる前にこの従兄に聞いて、「デパートの屋上じゃないよ」と笑われたとき、私は大きく頷いて、そんなことは考えたこともないという顏をして一生懸命とりつくろったものだったが——屋上にそんなものがあったとは知らなかった。一時は全学年にいとこがいたという学校に、私は六年生になった彼以外誰もいなくなった年に入学しているのだが)。もともと校庭は掘り下げられていて、校舎の床下には大水のときのための船がしまわれていた、戦後、大量の土を入れて一階の床の高さにまで校庭を上げたと同じ従兄(聞いた話?)。床下に船が吊り下げられていたという話は父から聞いていたけれど、そんな方式とは知らなかった。ガラスのない窓をベニヤ板でふさいで授業をしていた、二部授業だったと従姉。鉄筋校舎は内部は焼失したが残ったという話は、創立七十周年誌で私も読んでいる。空襲でトイレが全部壊れており、教室が三階でもいちいち下まで行っていた、それがまた汚くてね、と上の二人。でも、その壊れたトイレが立派だったの、御影石でと従姉。その校舎だと思うけど、建てるときお祖父さんが寄付をして東京市長からもらった感謝状がうちにあるよと、ようやく私が口をはさむ。

 伯母は以前から痴呆がある上、これで半身麻痺になったが、やられたのが右なので言葉は出る。紹介してと看護師にうながされ、前から見舞いにきて親身に世話をしている従姉にはすぐに名前を呼び、私のことは「兄の子」と言う。男二人は誰だかわかってもらえなかった。帰るときもう一度私の名前をたずねると(一度名告っている)、「**ちゃん」と父の愛称を答えた。私の名は父の名の一部なので「**ちゃん」と呼べなくはないけれど、そう呼ばれたことはない。一方、父は、兄姉に幾つになってもそう呼ばれていた。(少なくとも「**ちゃん」の子であることは伯母にもわかったのだろう。)伯母は昭和二十年の三月九日、着物の詰まった箪笥三棹を疎開させるため駅に運び、その夜東京大空襲、しかし駅は焼けなかったので構内に置かれたままの着物は無事だったという(この話はたしか父から聞いた。父は一月に招集されて満州に行っていたから直接の経験ではない)。戦後の仮住まいで父が同居していたのはこの伯母だ。私の母への手紙で父が書いている再婚話は結局成立しなかったようで、それでも父たちの結婚までには娘とともに日暮里に越し、そのあとに何も知らない私が生まれたわけだ。

 寝不足のため、『噂の娘』のはじまりでつい眠ってしまう。ラスト・シーンから推測して、床屋での会話ではじまっていることは確かだが。見合いの終りのあたりから頭はっきりする——眠っている場合ではなかった。

 藤原釜足(『鶴八鶴次郎』のマネジャー(「番頭」)役もよかったし、戦後の成瀬作品でも活躍しているのを先日の新文芸座で見た名脇役。子供の頃、変わった名前なのでTVドラマのクレジットで覚えた)が、姉の見合い相手の男が妹の方とつき合っているのを知って「今の若い人のやることはスピードがあってさっぱりわからない」と言うのを、七十年後に聞けばほほえまずにはいられないが、それにしてもこの若い映画のやることはスピードがあってすばらしい。男が妹と隅田川で船に乗っているのを橋の上から姉が目撃するときの、船がくぐり抜ける橋の上からと下からの(妹たちは橋上の姉に気づかないが、キャメラは動く船上から、欄干越しに見下ろす姉をふりあおぐ)一瞬の切り返しのすごさは誰が見てもわかるだろうが、それ以外の、たんに役者が喋ったり座ったり寝ころんだり歩いたりキャメラが切り返したり近づいたり徐々に引いたり雨が降ったりというだけで……どうしてそれがいいのかは説明できず——役者もいいし声もいいとは言えるが——ただ、見てくれとしかいいようがないのだが、どこからどこまでこれはまぎれもなく映画なのだ。
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by kaoruSZ | 2005-08-24 16:19 | ナルセな日々 | Comments(0)