おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
俗に「知的なもの」と「性的なもの」は別なものだと思われており、前者を高級で後者を低級なものとして扱うのが当然視されている。こうした前提を「当然のもの」として振舞う主体の性的ファンタジーはどういう代物であろうか?言うまでもないが、通俗で下品なものにしかならない。

「知的なもの」との結びつきを欠いた性的ファンタジーは、当然の結果として洗練を欠き、性を知的な考察の対象としえない知性は、性を不合理なものとして恐れると同時に、そもそも知の対象とするに値しない「下等なもの」と見なすことでそれを合理化するだろう。

言うまでもなく、こうした「性的なもの」と「知的なもの」を相容れないものと見なすメンタリティは、制度的な男性のヘテロセクシュアリティそのものであり、彼らにとって「性的なもの」とは当然対象としての“女”を意味する。

彼らの性に対する恐れと、その合理化としての侮蔑とは、そのまま現実の女性へと投影される。だからこそ彼らは「男とは当然のものである自然な本能として女に欲情するものであり、女とは男に欲情されるために存在する、本質的に性的であり受動的な存在なのだ」と確信し、その前提を相互に共有する。

彼らにとっては、そうした“女”に対する侮りと恐れの入り混じった嫌悪と、それと切り離せない劣情とを共有する者こそが“男”なのである。そしてその一方、「知的なもの」は本質的にパブリックな性としての男性に属するものとされ、女はそこに入るためには「名誉男性」として認められねばならない。

当然ながら、「男並みに知的なことが考えられている」と見なされうるか否かの決定権は男の側にある。そこで「所詮は感情的で不合理な女の浅知恵」とされてしまえばそれでお終いなわけだ。だからこそ男並みの承認を求める女ほど「男から論理的だと思ってもらえる話題や発言の作法」に過敏になる。

「男は論理的だが女は感情的だ」という通俗的な見解は、こうした最初から不公正極まりない茶番じみた線引きによって成り立っている。だが、自らに課した抑圧によって生み出された「抑圧されたもの」に絶えず脅かされ、それを否認し続けるために女に抑圧を転嫁する男のヘテロセクシュアリティこそ、不合理極まりない非理性的な代物であると言わねばなるまい。

つまり「男並みに論理的である」とは「男並みに性的なものと知的なものを分離できている」の意であり、本来不可分であるはずのものを相容れないものと見なし続けるという神経症的な強迫観念を模倣することでしかありえない。
しかも、この欺瞞的な前提を受け入れて「努力」したとしても、女が真に「男並みに」なることは決してできず、男の出来損ないに甘んじるか、悪くすれば自らの心身を破綻させることにしかならない。

なぜなら、男には対象としての“女”に「性的なもの」を外在化して担保させることで精神の安寧とホメオスタシスを保つことが許され奨励されているのに対し、男並みであろうとする女にはそんな手段など存在するはずもないからだ。女にとっての“女”は存在しない。

つまり男並みであろうとする女とは、本来男にとっては「性的」対象に過ぎないとされる自らを「知的」な存在として認めさせるための努力を強いられ、そのためには男のように外在化することなど出来ない自らの「性的なもの」を抱え込んだまま抑圧するしかなく、予めハンデを背負わされているのである。

このように、制度的な男のヘテロセクシュアリティとは支配的な世界観そのものであり、あらゆる価値を序列する体系そのものである。それは知性や普遍性と見なされるもの全てを独占する“全体”であり、それを補完する“部分”として“女”を規定するものだ。断じて「自然な女への性欲」などではない。

したり顔で抽象的な論理を弄ぶ取り澄ました顔の裏で、制度的な男のヘテロセクシュアリティは自らの性的対象たる“女”を苛烈に憎悪するものである。空疎な上澄みとしての知性こそを自らのものとして誇る男にとって、“女”とは自らのものとしては決して認められない穢れて淀んだ澱である。

だが自らが性的に魅惑された対象をそれ故にこそ憎悪し、絶えず蔑む必要に駆られているのは制度的なヘテロ男性のメンタリティのみであるのは言うまでも無い。彼ら以外の人々にとって、自らが対象に魅惑されることは純粋に愛することであり、自らがその対象のようでありたいと感じることと等価である。

私は彼であり、彼は私であり、私は彼を愛する。エロティックな表象を享受するとは、本来ただそれだけで完結したナルシシズムであり、アモラルで無垢なものである。ただ男のヘテロセクシズムだけが「彼女は自分ではない。だが彼女は自分のものである」と言い続ける抑圧的な自己欺瞞であるに過ぎない。

制度的な男のヘテロセクシュアリティが忌避する「性的なもの」の本質とは何であろうか?性的なものとは、五感を通して体に触れられる感覚から生じるものであり、官能的なもの、受動性そのものである。美は官能の内に宿るものであり、それは芸術の源である。(未定稿)
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by kaoruSZ | 2012-05-25 18:35 | 批評 | Comments(0)
 以下の文章は、最初、去る8月15日に発行された「Web評論誌コーラ」14号に載せるつもりで書かれた。しかし、編集人に掲載を断わられ、理由の説明が納得の行くものではなかったので、掲載予定だった連載原稿を引き上げ、今後の寄稿も中止した。なぜ「コーラ」で意見表明することに拘ったかは、本文に書いた通りである。

 時間が取れればこの本をもっときちんと批判したいところだが、思うにまかせないので、元原稿に手を入れたものをとりあえず公表する。後に少々追記を加えた。

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私は絶対安全ポルノを支持しない

                         鈴木 薫


 
 この場を借りて、守如子の著書『女はポルノを読む――女性の性欲とフェミニズム』についての筆者の考えを表明しておきたい。というのは、「コーラ」2号で私が守さんの「ユリイカ」に載った論文「ハードなBL その可能性」を好意的に紹介した文章、「やおい的身体の方へ」
http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/eiga-2.htmlの一部がこの本に引用されている上、あとがきに並ぶ協力者への謝辞の中には私の名前もあるからだ。しかし私はこの本をクズだと思っている。

「コーラ」2号の拙稿で、私は守さんの“可能性”を最大限引き出そうと努めたつもりである。しかし本書の中で守さんは、そこから私の文意を曲解して引用している。また、個人的な会話の中で私が話したことを、自分の意見であるかのように書いている(これについては本人も“うっかり”出典を記さなかったと認めたが、この件についての話し合いはできていない)。これらの詳しい内容については今後明らかにして行きたい。
 
 しかし、実のところ、そうした個人的な事情は瑣末事に過ぎないと思えるほど、本書の内容には問題が多い。守さんはこの研究に十数年を費やしており、御本人が素晴しい本ができたと思っているのなら私がそれに口を挟む理由はない。ただ、私がこの本の内容に賛同していると思われるのは迷惑なので、まずその点だけははっきりさせておきたい。

 今回は一つだけ具体例をあげておくにとどめるが、本書の最後で、守さんは奇妙な議論をしている。暴力的なアダルトビデオを見て、自分が性暴力を受けたような恐怖感から逃れられなくなってしまったという、あるフェミニストのエピソードを受けて、ビデオ制作時に強制や暴力がなかったという証明(「アダルトビデオにメイキング映像をつけることを義務づけ、出演者に対する契約違反がないかどうかを示すといった方法」)を商品に付けるというアイディアを提出しているのだ。
「登場する人々がいやな思いをしていないことを何らかの形で提示することは、登場する人々の労働条件をよくするためにも、視聴者の安全化を図るためにも意義があるだろう」(本書213頁注)。

 ファンタジーの話だっだはずが、こういう話題へ横滑りすること自体おかしいが、どうしてこのような発想になるのか、奇怪ではあるがわからないこともない。守さんはかのフェミニストがポルノを批判していたそもそもの原因である、男性のヘテロセクシュアリティの覇権性の問題を直視できず、“安全化”という偽の問題にすりかえたのだ。

 男性のヘテロセクシュアルなファンタジーは、いわゆる「多様な」ファンタジーの一つではない。それは現実を規定する覇権そのものであり、それ以外のファンタジーと同列と見なせるような相対的なものではないからだ。 それは「現実であるとされているファンタジー」であって、相対化されうるとすら思われていない。たとえ現実離れした内容であっても、そのファンタジーを抱く、欲望する主体としての男の地位は揺らがない。女とは、つねにその欲望に応えるものとして召還され、その欲望を満たすべく存在するものとして位置づけられる。原理的に言ってヘテロセクシュアルな男性主体は、自らの受動性を否認し(受動性は女として外在化され)、性的なものとして存在するのは女である(それが女の本質である)とする一方、彼自身は同性に対して受動的になること(=女になること)を最大のタブーとすることで成立する(ホモフォビアの起源)。このように男性のヘテロセクシュアリティは、単なるポルノにとどまらない、基本的で広範な「現実」を構成している。ポルノをこわがるフェミニストは、現実とフィクションをいたずらに混同していたのではなく、この幻想(つまり「現実」)の圧倒的な力を恐れていたのだ。

 犯される(お望みなら、暴力的に)というファンタジーは、それ自体なんら問題のあるものでも、特別なものでも、驚くようなものでもない。レオ・ベルサーニが「少なくともそれが構築される段階では、セクシュアリティはマゾヒズムの同義語である」と言っているように、根源的なものでさえある。しかしそれは、なぜ「女が犯される」という形としてしか提示されないのか(念のため言っておくと、これに対立するものは、男が女にではなく、男が男に犯されることである)。なぜ、女でないとだめなのか(なぜ、女が“男同士”を好むのかと訊く前に、こう尋ねるべきなのである)。ヘテロセクシュアルに主体化された男にとって、男(自分)が犯されること(それが快楽的であること)はファンタジーとしてすら認められず、だから、外在化された〈女〉にファンタジーを投影するのである。言うまでもなく、そうした男のファンタジーに対応するものが女の側に本質的にあるわけではない。

 しかし、女の性的空想やマスターベーションといったトピックに向けられる男の関心は、女のファンタジーが自らのそれを補完するものであってほしい(あるべきだ)という期待(と確信)に基づいている。女が自分の思うようなものでないと知ることは、しばしば男の側に、女に対する強い蔑視や怒りや憎しみを引き起こす。「女は何を望んでいるか」(これはフロイトの問いだ)の真実の答えなど、本当は誰も聞きたくないのだ――女の性的なファンタジーが“あなたと性交すること”以外であるなどとは。女には実のところ、男との関係性の中で娼婦としてふるまうこと以外、想定されていないのだし、そういう夢想をしている女ということになれば、容易にポルノグラフィーの(ポルノとは娼婦の意味だからこれは同語反復だが)対象にされる。

 守さんはもともと、男の異性愛ファンタジーの中の〈女〉が、彼女自身がその一人である現実の女と同一視されることに異議申し立てをしたかった、そして、女も男と同様、性的な表現物を積極的に楽しめる、固有の性欲を持った存在であり、哀れな被害者などではない、性を享楽する主体であると主張したかった人のはずである。しかし守さんは自分の性的ファンタジーを認めてもらうには、男性のヘテロセクシュアリティの権力性を批判してはならないと思ってしまった(ついでに言えば守さんは、受動性がタブーだからこそ、男にとって受動的になることが禁じられた夢であることもわかっていない。それだから、ポルノに表現された男のセクシュアリティをたんに攻撃的なものと見誤るのであり、その点でビデオをこわがるフェミニストと本当は変わらない)。一方彼女は、フェミニズムにはあくまで恭順な態度を取る。その理由はいうまでもなく(本書を読めばわかるように)、フェミニズムとは彼女にとって、自己の正当性を保証してくれる不可欠なドグマであるからだ。

 守さんは制度的な「男性のヘテロセクシュアリティ」の前では思考停止し、“私たちのファンタジーはドグマに沿った「正しい」ものだから許してください”としか言えない――男に対しても、ポルノに反対するフェミニストに対しても(安全ポルノの証明とは、言ってみれば「正しく」なければ女は楽しめないと主張しているわけで、これほどまでにリアリティのない主張がよくできるものである)。これは個人の(性的嗜好を含めた)人格よりドグマが優越することを自明とする、女性の性的人権を認めているとは、到底言いがたい態度である。これでは、女が「男並みに」ポルノを楽しみたいなら、フェミニストが異性愛男性に求めてきた「道徳的要求」(むろん、そんな要求が受け入れられたためしはない)と同じものを「男並みに」受け入れよという、新たな貞淑さの押しつけにしかならないではないか。

「無垢でもなんでもない私」からはじめなければならないと守さんは言う。こういう言い方が出てきた、(いわば)歴史的背景は理解できる。母親として子供に対する悪影響を心配し、「正しい性」に固執する女たちに対比される、自由で快楽的な主体こそが想定されていたはずである。しかし、書き上げられたこの本の中で、この主張は、罪は罪として反省した上で悔い改めた主体として認めてもらおうという、あちこちに気配りした、上目づかいのケチくさい立場でしかなくなっている。むろん守さんは、あくまで主婦的、母親的、PTA的「正しさ」と対立しているのであり、「快楽としての性」に目を向けているのだと主張する。しかし、そうしたスローガン的な主張は、それに替わるフェミニスト的「正しさ」(と守さんが考えるもの)を担保しようとする、この本の他の部分の記述と矛盾する。男のための“娼婦”であることを拒否した結果は“修道女”になるしかなかったわけで、私はそんなところに分類されるのはごめんこうむる。

 守さんの議論の根本的な問題は、(必然的に)男性のものであるヘテロセクシュアリティが唯一の現実/スタンダードとしてまずあり、それを補完し、それに隷属するものとしてしか女性が定義されないがゆえに“夢見る主体”であることを否定されているのだという事実を、指摘できないところにある。それを踏まえた上で、どんな夢を見るのも本当は自由なのだと言わなければ、男女の差別的な非対称(そしてそれに必然的に関連する同性愛のタブー視)と女に対する道徳的抑圧の強化に加担するだけである。

 守さんを友人と思い、信頼し、この件にかかわったことを残念に思っている。そうでなかったらこの本について、私が何か言うことなど、けっしてなかったであろうから。思いつきを寄せ集めただけで普遍性を欠いたこの種の本の批判のために時間を割いたところで、こちらが得るものはないから、そのほうがよかったのである(とはいえ、批評する以上は、せいぜい読者と私自身にとって興味の持てる事柄を引き出すよう、努めるつもりだ)。しかし、すでに私は、本誌誌上で彼女の書くものを支持するという間違いを犯してしまった。その時私が書いたことも、それ以前やその後に会話の中で伝えたことも、結局守さんの理解するところではなく、彼女の著作の中で不本意な形で使われることになった。
 以上の理由から、私は守さんを応援するようなものを書いたことを後悔しており、『女はポルノを読む』の内容に異議を唱えるものである。


【追記1】
 ヘテロセクシュアルな男性主体の成立とホモフォビアの起源について、誤解があるようなので追記しておく(上のようなことを書くと、自分が攻撃されているのかと思って、“僕はそういう悪い男ではない”と反感をあらわにする人が出てくるものだ)。上の文章で「原理的に言って、ヘテロセクシュアルな男性主体は云々」と書いたが、「原理的に」とは、ほぼ例外がないということだ(構造が規定する主体化から逃れうる者がいるだろうか)。表現型としては“多様”でも例外はない。たとえあなたがマッチョではなく、愛する女性に対してベッドで受動的にふるまったとて、「父に対する受動的態度の拒否」(フロイト)の外部に出られるわけではない。これは良い悪いの問題ではない。筆者はたんに、“〈女〉とは男の夢であり、男が自分のものとして認められないものの化身である”という現象を、中立的に記述しているだけだ。

〈女〉は男にとって美しい夢として結晶する一方で、以前、次のように書いたとおり、ゴミ箱でもある――「女とは、男にとって〈他〉とされたものの集積場である。だからこそ、ストレートだろうとゲイだろうと、男はそこに好きなものを投影できる。欲しいものは何でもある宝箱。何でも出てくる魔法の箱。男が(男であるために)自らに禁じた/認めたくないものすべてを放り込んだ実はゴミ箱」。http://homepage1.canvas.ne.jp/sogets-syobo/eiga-8.html 男がさっぱりした顔をして、エロはエロとして置いておき、何やら抽象的な話をしていられるのはそのせいだ。女が男にとってそうであるのと同じように、女にとって男が当然の性的対象であるなどということはありえない。

 そう言えば、「実はゴミ箱」云々という拙文について守さんから、「女がゴミ箱にされる状況を変えていかなければいけないと思う」という意味のことを言われて一驚したものであった。男女の根源的な非対称を社会改良で何とかする? そんなことを平気で言える人が書いたのだから、やっぱり『女はポルノを読む』は絶望的にダメな本なのだ。パーソナルな自我のありようを意図的に変えるなどというのは誰にとっても無理な話で、できるのはただ、そうした制度の中にいることの自覚である。かつ、それこそが真先にしなければならないことだと思うが。

【追記2】
「無垢でもなんでもない私」について。守さんはこの言葉を、明らかに女に責任を取らせるために使っている。「ヤオイもBLもゲイ差別的であると批判されることがある」(236頁)とあるが、これは、ポルノが女性差別的だと批判されることと並列するために「も」という助詞が使われているのだ。だが、【追記1】でも述べたように、男にとっての〈女〉に相当する〈対象〉は女には存在せず、女の「ファンタジー」は覇権的な力を持たないのだから、こうした並列は無意味であるばかりでなく、女を叩きたい男に根拠を与えることにしかならない。また、これに続く、「問題が放置されているなら、批判はまずなされるべきだし、表現を作り出している側にはそれに応答する責任はあると思う。対話を経てよりいい表現が生み出されていく必要があると思うからである」という記述は、「表現」および表現者をここまで見くびっているのかと嘆息せざるを得ないことを別にしても、ジャンルBL作家がゲイ差別者として非難されたことなどなく、読者である若い女性がもっぱら腐女子フォビアのターゲットになっている現状を思えば、あまりに無自覚で軽率な問題の捏造であり、現実の同性に目を向けない利敵行為だ。差別され、蔑ろにされ、いくらでも攻撃を加えていいと思われているのは、男のゲイのではなく、女のセクシュアリティであるのだから。
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by kaoruSZ | 2011-09-30 17:11 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

萌えの人・松田修

「酷愛偽装譚」――なんという恥ずかしい題名。意味はしかとわからないながら、いかにも恥ずかしい文字づら、文字のならびではないか。そして、「恥」という文字が指紋のようにそここに捺された彼の文章。松田修がそんなにも恥ずかしがってみせなかったら、私たちはあるいはそれほど彼の「恥」に気づかなかったかもしれないのに。
 彼はつねに率直に萌えを語った。恥をその裏にぴったりと貼りつけながら。世代的には三島由紀夫の同時代人なので、三島があのような生涯しか送れなかったことは、別に彼の生きた時代の限界からではないことが推察される。三島には恥ずかしがってみせるだけの器量がなかったのだ。   

 少なくとも十年は表紙を開かなかった『華文字の死想』を手に取った。『刺青・性・死』も、『闇のユートピア』も、『非在ヘの架橋』(それにしてもどのタイトルも今のものではない)も、クローゼットの棚の最上段と天井の間に積み上げた中に(たぶん)まぎれて見えないが、これだけは本棚の隅にずっと残っていた。再録が多く、雑誌ですでに見たものもあって、あまり身を入れて読んだ覚えのない一冊。しかし、偶然目にとまった「酷愛偽装譚」のページに、かつて引き込まれた記憶が甦ってくる。

 目次にはない「真山青果を解く鍵」というサブタイトルつきの「酷愛偽装譚」は、初出が「真山青果全集」補巻五月号とあるが、年の記載はなく、『非在への架橋』に収録されたことが知られる(78年8月)。青果の戯曲『平将門』(1925)の通常の評価は、松田によれば、「歴史=正史の蔭の部分に、新しい解釈と共感をもたらしたものとして」高いものであるのだそうだ。「しかし、あえていえば、青果の創作の真意は、ことさら見捨てられていたようである」。何が「見捨てられていた」のか。松田の熱い語りを聞こう。

青果はこの作品で何を語り、何を書こうとしたのか。それは将門と貞盛の愛、それもほとんど性愛に近い愛であった。

この悲劇の男が愛するものは――真に愛するものは――妻でも、子でも、弟たちでもない。従弟の貞盛――不幸にも将門が殺す結果になった、伯父国香の子貞盛であった。

貞盛は、「気高い、物思ひの深い子」であったと将門はいう。/「指先など白く、女のようにしなやかで」あったとも。

少年期の貞盛を回想して、「俯いてものなど考へる時、黒い睫毛が匂はしく影をつくつて……」――これが将門における終生の貞盛像なのだ。

イメージの貞盛を愛するが故に、上洛しながら、避けて会わない。なぜか、「気が引けて会はれ」ないのだ。いや、よりはっきりいえば、愛の深さのゆえに会えないのだ。

将門はいう、「太郎の前に出るのが苦しいのだ。自分の粗野が恥しいばかりではない。太郎の眸にあふと……」、だから会えないのだ。そのことを思い出として語るときさえも、将門は「羞ら」っている。ここから、次のようにいえば短絡にすぎるだろうか。/青果の恥の意識は、いわれるごとき単なる田舎士族の体制意識の恥ではない。美意識による恥なのだと――。

そんな貞盛の妻と早く定められた、お互いに従妹の東の君を、将門は奪って妻とする。加害者でありながら、将門は脅えている。[…]東の君を抱くことによって貞盛に怯え、怯えながら連帯しているのだ。貞盛に怯え、怯えることによって連帯しているのだ。貞盛に処罰されたくて、奪ったとさえいえるだろう。東の君を奪ったのではなく、貞盛の婚姻を妨害したのだ。


 こうした解釈を許す青果のテクストを松田が引用するのを、ここではさらにつづめて示す。

おれは、彼と従弟と云はれることが、心の誇りでもあったが、また恥かしくもあつた。(略)。おれは彼の悦ぶ顏を見るために、人知れずどれほど心を苦しめたか知れない。[……]彼はカラカラとは笑はない。匂はしい睫毛の深い目に、たヾニコと片頬に微笑んでおれの戯れた所作を眺めてゐるのだ。おれはいつも後で、自分の愚かしさを恥ぢるのだが、それでも幼い従弟のよろこぶ顏が見たかつたのだ。はヽはヽヽ。

 このくだりに、松田は次のようなコメントをつける。

これはもう、明らかに通常の人間関係ではない。将門の弟四郎の言葉を借りれば、「思慕」に他なるまい。男が男を愛することの、何というみずみずしい描写だろう。五十年の時差を埋めて、それは官能的である。

 他の青果作品の同様の部分を抜き出し、比較検討した末、松田はこう書く。

私とても恣意的に、青果作品のあちこち読みさがして、男同志の愛のみ拾い上げ、青果の「一面」をでっち上げようとするものではない。しかし、「平将門」をその典型として、青果作品のかなりのものが、男心と男心の、ときに性愛の感覚さえ伴う、響き合い、触れ合いの冴えを主題としていることは、動かしがたいであろう。

「男同志の愛のみ拾い上げ」「でっち上げようとする」ものだと言われることへの抵抗。「萌え」は脳内にあるのではなく、確かにテクストに見出されるのだという主張。それにしても、詩人や作家やエッセイストとしてではなく、国文学研究においてそれをやった松田は過激であった。

「一九八〇年代初めまで、同性愛を理想化して描くことは反俗的な美意識の表明であった」(『月光果樹園』)と高原英理が書いている(こればかり引用しているけれど)。『華文字の死想』(ペヨトル工房)の出版は一九八八年(書き写そうとしてペヨトル工房だったかと驚く)。この間、いかなる変化があったのかは措くが、上の引用だけ見ても、それが男の専有物であった時代の男-男表象への「萌え」を、それが女にも共通するものであることを確認しつつ、読み味わうことができるだろう。

 遡って一九七〇年、予定された死からさほど遠くないところにいた三島由紀夫は、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』の、突撃隊粛清のシーンについて次のように書いた。

私事ながら、この「血の粛清」の政治的必然性は、拙作「わが友ヒットラー」に詳しいが、もちろんヴィースゼーの一夜については、私の戯曲は科白で暗示するにとどめてある。それを一つのショウに仕立てて、この映画の本筋とは関係ないところに、このやうな血のバレエ・シーンを置いたヴィスコンティの企みの深遠さは、推し量るすべもないが、るいるいと重なる白い裸体が血の編目を着てゐる描写には、一種のしつこい耽美主義が溢れてゐる。

「オレはこれに萌えた!」

 そう言えないばかりに三島は、「ヴィスコンティの企みの深遠さは、推し量るすべもないが」などと、韜晦しつつ書きつらねるしかなかったのだ。だが、これが、「映画の本筋とは関係ないところ」で、己れの美的/性的嗜好を芸術という名のスペクタクルたらしめて世の人々に見せつけたヴィスコンティに対するオマージュと、同好の貴種を見出した感動(そして羨望)でなくで何だろう。近年公にされた堂本正樹の『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)は、秀吉から死を賜った関白秀次が高野山で小姓たちの介錯をする(「彼等は常に御情深き者共なれば、人手にかけじと思召す御契りの程こそ浅からね」)『聚楽物語』の血みどろ絵を見せられたあとの、三島との最初の「切腹ごっこ」について次のように書いている。

「あとは歌舞伎の「判官切腹」の真似で神妙に勤めた。[…]そこで三島が小さく「ヤッ」と声を掛け、首筋に刃があたる。私は前にのめって伏し、死んだ」。小道具は「浅草などで外人向きに売っている」とおぼしき、三島の用意した大小である。仰向けにされた「首の無い筈の死者は、薄目を開けて次なる介錯者の兄貴の死を眺めた」。そして「三島は上半身裸になった。まだボディビルを始めていなかった裸は痩せて貧相で」……しかし三島は真剣な演技を続け、「ドッと私の死骸の上に倒れ込んだ」。

 ヴィースゼーの白い裸体についての記述をあらためて私は思った。

「もちろん」、「映画の本筋とは関係ないところ」でそれをやれるヴィスコンティと違い、三島は政治という口実を必要とした(そうでなければ、たとえば松田修のような「恥」を忍ばなければならなかったろう☆☆)。世間向けには、原作・脚色・監督・主演の『憂国』でさえ、男女の相対死(あいたいじに)という形でしか差し出すことができなかった。代りに、堂本(および他の男性)に筆写、書き替えさせて中井英夫のパートナーB氏が出していた「アドニス」に載せた『愛の処刑』、『憂国』演出者・堂本との、撮影の二日間泊まり込んだ帝国ホテルのツイン・ルームでの「リハーサルを兼ねた」「久しぶりの切腹ごっこ」等々があったろうが、「ヴィスコンティの企み」の秩序と美、襲撃前の気遠くなるほどの待機の静けさと豪奢な悦楽を思うとき、それはあまりにも貧しくはなかったか? 金井美恵子が書いている、幼いナボコフがわがものにした、黒鉛の芯が端から端まで通ったロリータの背丈ほどの太い巨大な鉛筆と、『青の時代』の文房具屋の貼りぼて鉛筆の差にもまさる彼此の差。三島にもそれはわかっていただろう。映画制作や他の映画出演も含めて、すべてがリハーサルであったかのような(「『憂国』が済むと「ゴッコ」はやんだ」と堂本は描いている)一回きりの本番が、いくら西武百貨店特注のコスチュームに身を固めての真剣(文字通りの!)プレイであろうと、ヴィスコンティのまばゆさの足許にも山裾にも及ばぬ――「総監や総監室の調度、バルコニーの片端やを瞳に灼いて死ぬなど、いささか侘びしすぎる」(松田修)――自己処刑は、裸電球の下でまばらな観客を前にしての場末のドサ回りにも似たショウでしかついにありえぬことが(「三島の刀影に、森田の凛々しい顏が映る」と、自分でも信じなかったであろうことを松田は書いている)、三島にはわかっていたに違いない。


さらに三十年の時差があり……数年前、若い日本美術研究者の講演を聞く機会があった。特に草創期の歌舞伎の話のあたりに、松田修の著作を髣髴させるものがあり、終了後、私は直接、話が面白かったと伝えた上で尋ねた。私の知識は松田修あたりで止まっているが、その後、国文学の分野で研究の進展はあったのだろうか、あれば読んでみたいのだが、と。果たして、自分の知識も「松田修先生」の仕事から来るものだと彼女は答えた。そうやって松田が読みつがれていると知って嬉しかった。ただし、松田を継ぐ者はいないということだった。

☆☆ 『華文字の死想』の巻末「解題」をしているのは山口昌男であるが、今日、その内容のうち、三分の一を占めるマクラの部分は、松田に対するセクハラとしか読めない。インドネシアで、伝統儀礼についての知識を授けられる代償に、ホモセクシュアルの行為をしかけられて調査をあきらめたという話を披露した山口は(松田のテーマである美少年だの同性愛だのの話題に入る前に、「自分はそうではない」とことわっているわけだ)、帰国後の調査報告で、「ジョークであるが」と前置きしつつ、「このように調査は、私の勇気の不足と決断力の無さの故に挫折したが、次は、松田さんあたりに同行して貰いたいと思っている」と喋ったと書いている。
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by kaoruSZ | 2009-08-23 11:08 | Comments(0)
「web評論誌コーラ」に今回載せた拙稿を読んだある男性から、「男性同性愛者による女性性の流用」のあたりについて、「ゲイであろうとも「男性権力者」であることへの自己批判がないものには容赦しないということですね」と言われてびっくりした。「たとえゲイであっても」などという、ゲイ差別的発想をしたことがないからだけではなく、「自己批判」という(時代がかった?)言葉自体が私の語彙ではなかったからである。そう言われてあらためて考えてみると、「自己批判」なる行為は、私にとってつねに侮蔑の対象であったように思われる。自己批判、自己嫌悪、自己憐愍――どれも好きなだけナルシシズムの沼に沈んでいてくれという感じなのだ。岸田秀の書くものはおおかたクズだが(というより、あれに本気で感心する奴が)、自己が自己を嫌悪することなんてあるのか、と言っていたのには頷けた。「自己弁護」はまた別な気がする。

 澁澤龍彦の全集を繰っていたら(しかし、全集で読むとなんだか索漠としている。本物の室内のようにすみずみまで居心地良くしつらえられた売場から、ボール箱に入れた商品をただ並べた倉庫に入ったようだ)、単行本『エロティシズム』文庫版(1984年)の、(文庫版あとがきにかえて)とカッコ書きされた「クラナッハの裸体について」の最後に、ちょっと面白いくだりを見つけた。

当時の私はフロイトのエディプス理論やサルトルの実存主義や、さてはバタイユの哲学などに影響されていたので、それが本書の文面にも少なからず反映しているようであるが、現在の私は必ずしもそれらを信奉してはいない。いま読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在の私の意見とは認めがたい。無責任のようだが、君子は豹変する。なにぶん十七年前の著作なので、これらの点は大目に見ていただきたいと思う。

 文庫になった澁澤は手に取ったことがないので、ここは読んだ覚えがなかった。なるほど、これが自己批判をしない態度か。これでよいのではないかと私は思う。「現在の私の意見とは認めがたい」と率直に書いているのにむしろ驚かされる。女について紋切型を書くのは男の書き手の通弊である上(だからといって容赦したいわけではないが)、このあたりはもとは週刊誌に書きとばしたということもあろうが、特にそういうところが目立っていたかもしれない。俗流フロイディズム片手に女のセクシュアリティ(というカタカナ語はまだなかったが)の本質規定をするのは、「女性に対して」「辛辣」なわけではなく、女がわかっていない――突きつめれば女を人間と見ていない――証拠だというのは、実は小娘が読んでもわかった。それを批判する言葉がこっちになかっただけである。書かれたものは結局そういうところから古びる。

 ところで最近、俗流フロイディズムならぬ、俗流フェミニズム批評というものが存在するのだとつくづく思うことがあった。『ユリイカ』のトールキン特集(1992年7月号)所収の小谷真理「リングワールドふたたび――『指輪物語』あるいはフェミニスト・ファンタジイの起源」を読んだからである。この特集は以前から見たいと思っていて願いが叶ったのだが、もともと評論についてはあまり期待していなかった。これも出た当時は関心がなくて読まなかった同誌の『ロード・オブ・ザ・リング』特集臨時増刊号を先に読んで、トールキンをネタに世迷い言を吐きちらす人々に失望したからでもある(この増刊号では、『指輪物語』愛読者として語る黒沢清のインタヴューがただただ素晴しかった)。

 今回、何といっても収穫は、トールキンの未完の断章『失われた道』と、物語詩『領主と奥方の物語[レー]』を読めたことであった。前者は、目次タイトル脇の紹介によれば「『指輪物語』『シルマリリオン』二つの物語世界をつなぐミッシング・リンク、未完の物語一〇〇枚の全訳。限りある生を前に揺れる父子のファンタジー。作家の自伝的要素が濃厚に反映している現実世界と、神話世界が二重映しに……………」。映画パンフレットによくあるような、こういったあらすじ紹介はたいていはズレたものだし、読者も正確さを期待したりはしないだろう。だが、中身を読み終えてあらためて見たとき、この要約があっていることに気がついた(しかし、これを書いた人はおそらく、自分が書いた内容を理解していない……………)。

『領主と奥方の物語[レー]』の方には、テクストを翻訳した辺見葉子のエッセイが付いていて、先行作品とトールキンのテクストの異同が丁寧に説明されており、非常に興味深く、得るところが多かった。専門家というのは有難いものである。けれどもこの方も、物語詩の話題を離れ、「『シルマリリオン』および『指輪物語』との関わり」を考察する段になると、そこだけは、作品外の言葉に頼る凡百の評者と変わりがない。私の友人(彼女の導きで最近私がトールキンにあらためて関心を寄せるようになった)と私はそれを残念に思いながらも、行き届いた解説に助けられて読むことのできたこのテクストが、私たちの「『シルマリリオン』および『指輪物語』」の読みを強力に裏づけるものであったことを喜んだ。

 さて、「フェミニスト・ファンタジイの起源」であるが――このサブタイトルからして「やおい・ボーイズラブ前史」を思い出させるが、内容的にも、メインストリームの「男性文化」が行き詰まったり、変換点に至ったりした地点から、新たな女性文化がはじまる(はじまった)とする点でよく似ている。先に枠組みを用意して強引に対象にあてはめるという点も同様だが、『密やかな教育』については別枠を設けてあるから、今は「リングワールドふたたび」に限って言う。こういうことをするには、否定(ないし批判的/発展的継承)されるべき「男性文化」と、「来るべき」「フェミニスト・ファンタジイ」の差異を際立たせなければならないが、ほかならぬトールキンをその克服されるべき「男性文化」の側に置いた時点で、すでに小谷の負けは決まっていたのである。

 なぜなら、トールキンは〈男〉ではないからだ。フェミニスト諸嬢の傍に置くと、彼女たちの鼻の下に黒々とした髭が幻視されるほどの乙女っぷりを発揮しているトールキンの世界における、「○○の子、○○」という繰り返される高らかな父系の名乗りは、父権制に与してそれを存続させる合言葉などではない。『シルマリリオン』において表面的には父権制のしるしのように見えるものが、いかに内側からそれをぐずぐずに崩しているか。『シルマリリオン』は『指輪物語』の背景であるという、しばしば前者をネグレクトしていい(“たんなる”背景として)という意味であるかのように言われる言葉は、文字どおりに受け取られるべきものだ。トールキンの「異世界」がどれだけ(文字どおりの)「異世界」であるかをまだ誰も知らない。『シルマリリオン』が読まれぬ/出版されぬまま『指輪物語』が売れてしまい、前者なしでは理解されるべくもない話が圧倒的な支持を受けてしまったトールキンは、それがいかに知られえぬものであるかという苦い事実をあらためて噛みしめていたはずである。

 問題は、サムとフロドの関係がどうとか、トールキンとC・S・ルイスの関係がどうとか、男だけの集いがどうとかいう話でないことはいうまでもない。トールキンは、「ホモソーシャリティとホモセクシュアリティの紙一重」というトピックからも逃れ去る稀有の人なのである。まして、「トールキンは女性の才能を認め、「結婚」によりその才能が埋没する恐れをつと口にしてきたが、いっぽうで自身の妻エディスとは、学問上・文学上のどのような会話も共有しなかったという」(99ページ)とは何が言いたいのであろうか。才能ある妻として学問上・文学上の会話を共有して何かいいことある(あった)のかと小一時間問い詰めたくもない。

 フェミニストというのはずいぶん頭の悪い連中なんだなという冷笑を誘うとしたら著者にも不本意であろうこの論文は、奇しくも、澁澤のあとがきの場合と同じ十七年前に書かれているので、あるいは著者にとって「現在の私の意見とは認めがたい」というようなものになってしまっているのかもしれない。それだったらそれでいいし、いずれにせよこれをもとに糾弾したいなどという気は少しもない。しかし、ともかくこうやって目の前に形として残っているので、少々分析してみたいとは思う。澁澤の場合と違ってすでに過去の問題になってしまっているわけでないのは、『密やかな教育』の一件からも明らかだし、何より、あまりにも典型的にできているので、構造を知るにはもってこいであるからだ。うまくいけば、あなたも私も明日から俗流フェミニズム批評ができる(かもしれない)。(つづく)

★この続きは書いていないが、トールキンの『領主と奥方の物語[レー]』についてはここで論じた。
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by kaoruSZ | 2009-08-18 00:08 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 拙稿「〈あたしは腐女子[クィア]」だと思われてもいいのよ〉――男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)」の載った、web評論誌「コーラ」http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/index.html最新号が間もなく出ます。

 そこでもちょっと触れていますが、石田美紀著『密やかな教育 〈やおい・ボーイズラブ〉前史』(洛北出版)について批評するはずだったのがまた延びて、次回の宿題となっています。同書は、竹宮恵子らによる新しい少女マンガが七十年代に登場した背景、中島梓/栗本薫の活動、雑誌JUNEの果たした役割等を、関係者の証言を同時代の社会的、文化的状況にからめて記述しようとした試みですが、残念ながら「社会的、文化的状況」に関して、基本的な事実誤認が多過ぎます。そこを押えておかないことには、全体についての批判もできませんので、次の「コーラ」(本年12月発行)が出るまでに、同書の関連トピックをシリーズとして取り上げることにしました。話があちこち飛ぶかもしれませんが、おつき合いいただければ幸いです。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

 セクシュアリティと生殖機能を分離してみたらどうなるか。いったい何になるのだろう。こういった考えは六〇年代にすでに盛んになっていたことで、この分野の開発に関する僕のオリジナリティを主張することはできないんだ。以前にノーマン・ブラウンの『ライフ・アゲインスト・デス』という本を読んだことがある。その中で彼は、幼児性欲があらゆる倒錯的傾向を発現しやすいというフロイト理論について語っている。生殖とは関係のない、性器に集中しない分散したセクシュアリティのことなんだ。体中に遍在した、抑圧されていないセクシュアリティだ。

 こう語っているのは、カナダの映画監督デイヴィッド・クローネンバーグです(クリス・ロドリー編/菊池淳子訳『クローネンバーグ オン クローネンバーグ』フィルムアート社、1992年)。ここで『ライフ・アゲインスト・デス』と表記されているのは、周知のとおり、日本でも1970年に『エロスとタナトス』という題で翻訳の出た本で、訳者の秋山さと子は、あとがきで次のように書いています。「訳者は精神分析学の中でもユング派に属する考えを持つものであるが、それにもかかわらず本書を日本に紹介する決意をした理由は、一つには現在世界各国で常識となっているフロイト及び精神分析学的な思潮が日本ではまだあまり知られることなく、特にフロイトに関しては、かなりの誤解がなされていることを悲しむとともに、臨床の分野においてのみならず、より広く一つの思潮としてのフロイトの紹介を試みたいと考えていたことがあり(…)ユング心理学に関しても、もう一度フロイトにまで戻って考えなおす必要性を痛感していたことにもよる」。
 フロイトについて「かなりの誤解がなされている」のは今もたいして変わらないかもしれませんが、フロイトに戻ると言っても、この頃は、ラカンなどまだ影も形もなかったのです。

“Life against Death”は1959年の出版で、著者のノーマン・ブラウンは古典学者、『エロスとタナトス』というタイトルはフランス語版の訳題です。秋山さと子によれば、これは「訳者がヨーロッパに滞在中[鈴木注、64-68年]は主としてこの題名の下に話題になっていたことから」採用されたもので、「アメリカにおけるベスト・セラーの一つとして、各国語に翻訳され、ヨーロッパでも知識人の間に大きな波紋を巻き起こした」とのことです。なるほど、クローネンバーグが読んでいても不思議はありません。

 この本を日本においていちはやく紹介したのが、われらが澁澤龍彦です(もちろんフランス語で読んだのでしょう)。と言っても、澁澤のことですから、「以下の所論は、このブラウン氏の見解と私の空想をごちゃまぜにして、自由に展開した勝手気ままなエッセイであり、もとより心理学でもなければ哲学でもなく、まあ、私自身の信仰告白を裏づけるための、一種の文学的覚えがきであると御承知おき願いたい」とことわっています。「ホモ・エロティクス ナルシシズムと死について」と題されたエッセイが雑誌「展望」に載ったのは1966年、私は後年『澁澤龍彦集成』で読みましたが、単行本『ホモ・エロティクス』も一度書店で見かけたことがあります。函から途中まで引き出して、「ワイン色の別珍」(と『澁澤龍彦全集』には外観が記されています)の表紙の感触をしばらく楽しんだあと、もとどおり函に収めて棚に戻しました(高かったのです)。
 余談ですが、前回の「コーラ」拙稿で澁澤の本について言及し、「黒ビロードの装幀」と書いたとき、念頭にあったのはあの表紙でした。『全集』の記述を見る前で、黒でないのは承知していたのですが、何となくそう書いてしまいました。澁澤のエッセイに夢中だったくせに、『エロスとタナトス』(もちろん日本語です)を手に入れて読んだときには、この元ネタがあればもう澁澤はいらないと思ったものです。まだ二十歳そこそこで生意気だったのでしょう。

 閑話休題。長々と『エロスとタナトス』について説明してきたのは、澁澤が責任編集者だった雑誌『血と薔薇』(68-69)について、『密やかな教育』においては、「『血と薔薇』がヨーロッパ起源の官能に傾倒したのは、第二次大戦後、政治・経済・社会・文化のあらゆる領域において日本に絶大な影響を及ぼすアメリカに抵抗するためであったからである」(124)という珍説が展開されていたからです。その証拠として著者が挙げるのは、『血と薔薇』復刻版のリーフレットに載った種村季弘の言葉です。

  アメリカ的なセックスの解放というと、どこか青年期の成長幻想のようなものが匂いますね。アメリカはもともと万年ユースフェティッシュ(青春崇拝)の国だから。「血と薔薇」のほうはしかし成長を拒否したとはいわぬまでも、それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子供の多形倒錯(フロイト)の世界を夢見ていたのだと思います。

 これを引いて著者は、「種村がいう、『血と薔薇』が求めたアメリカ的なセックスの解放に対するオルタナティヴとは、すでにみてきたとおり、ヨーロッパの官能であったといえるだろう」と述べています。「すでにみてきたとおり」に相当する部分はたいして長くないのですが、そこで著者は、「同誌に集った男性知識人・芸術家が異議申し立ての一環として実践する「エロティシズム」の源は、日本でも、アメリカでも、アジアでもなく、ヨーロッパであった」(122)として、『血と薔薇』「創刊号のラインナップ」が、ポール・デルヴォー、アンドレ・ピエール・ド・マンディアルグ、澁澤の「苦痛と快楽 拷問について」、種村季弘の「吸血鬼幻想」、塚本邦雄の「悦楽園園丁辞典」等であったことを挙げ、「いずれも、エロスとタナトス、そしてグロテスクが混交するヨーロッパ起源の、あるいはヨーロッパにまつわる作品群である」としています。

 なぜ、「日本でも、アメリカでも、アジアでもなく、ヨーロッパであった」であって、「アフリカでも、モルジブでも、オセアニアでも、アラスカでも、マダガスカルでも、ボツワナでも、コートジヴォワールでも、モーリタニアでも、セネガルでも、ラップランドでもなく、ヨーロッパであった」でないのか、とまぜっかえすのはやめておきましょう。エドワード・サイデンスティッカーは、フランスかぶれの日本人による、日本的なものを「源」としない軽薄な実践が気にさわったようで、カタカナ語だらけで「フランス的なものが多すぎる」と『血と薔薇』を批判し、返礼として澁澤に、そのカタカナ名前を「災翁」呼ばわりされた愉快な文章を書かれています(「土着の「薔薇」を探る」)。その彼でさえ、そうやってアメリカに抵抗しているなどという解釈を聞かされたら、笑い転げたことでしょう。

「創刊号のラインナップ」に関して言うなら、カタカナ名前はともかく、この掲載に端を発して本となった種村の『吸血鬼幻想』を見れば、フィルモグラフィーにはアメリカ製吸血鬼映画(メキシコ製も目立ちます)が並んでいますし、日本の古典にも通暁する塚本は、ヨーロッパのみならず古今東西の文学を自在に逍遥しているはずです。澁澤のエッセイにしても、拷問と性愛の形式的類似を述べた内容ですから、特にヨーロッパ起源というわけでもなく、むしろ、日本の少女マンガ家らが、少年マンガの拷問シーンの思い出――ありていに言えば萌えの記憶――について語っていたことを思い出させます。ああいうのはどこかに記録されているのでしょうか。そのあたりを文章に起こし、澁澤のエッセイなど参考にしつつ本書で論じてくれていれば、さぞかし興味深い資料になったろうにと惜しまれます。「エロティシズム」が日本起源でないことだけは確かですが、アメリカ対「官能のヨーロッパ」という対立も存在しません。前もって作っておいた枠組みで彼らの仕事を裁断しないかぎりは。

 そして、種村の、「成長を拒否したとはいわぬまでも、それとは無縁の、いわば永遠の少年の世界、もっといえば子供の多形倒錯(フロイト)の世界 」 という言葉が指すものも、 アメリカと対立する「官能のヨーロッパ」などではなく、具体的にブラウンの『エロスとタナトス』であり、それにもとづく「ホモ・エロティクス」に代表される澁澤の思想です。種村自身、吸血鬼について書きながら、同じようなこと(生殖から切り離された性とエロティシズムの探求)をやっていたのであり、親しい仲間として、そのあたり、非常によくわかっていたはずです。「アメリカ的なセックスの解放」を種村が引き合いに出したのは、不案内な人にもイメージしやすくするための配慮でしょう。それを著者は、「アメリカがヨーロッパに対立させられている」と思ってしまったのですね。

 けれども、ここで「アメリカ的なセックスの解放」に対立するのは、最初に引用したクローネンバーグの言葉にもあるような、生殖を目的として組織された性器中心主義的セクシュアリティのオルタナティヴとして想定されたもののことです。それを「アメリカ的」と呼ぶのは、たしかにアメリカをバカにするものかもしれませんが、これは都会人が地方出身者を「田舎者」と呼ぶようなもの、アメリカへの「抵抗」というのは全くの的外れです。なお、ノーマン・O・ブラウンはメキシコ生まれのアメリカ人です。
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by kaoruSZ | 2009-08-15 15:23 | 密やかな教育 | Comments(4)
 先週から新文芸坐の加藤泰特集に通ううち、加藤泰について書かれたものを読みたくてたまらなくなり、夜中に本棚を漁るが見つからない。代りに「シネティック」創刊号(1993)というものが出てきて、未読だった松浦寿輝の「横臥と権力 溝口健二「祇園囃子」論」を読んだ。

 加藤のフィルムでもワイド・スクリーンの手前に横たわる人物(たいていは死にかけている)は目立つし、修善寺の大患の漱石に似て一言も喋らず指一本動かさぬままその傍に人々を引き寄せもするのだが、松浦の論考は横臥一般とは直接の関係があるわけではなく、あくまで『祇園囃子』というフィルムの中では人物の目に見える上下関係が顛倒しており、横たわって下位にある人物が権力を持つというのが趣旨だ。その分析は例によって見事なのだが、それとは別に思ったことがあるので記しておく。

『祇園囃子』では旦那を持たない芸者の小暮実千代が少女若尾文子を引き受けて舞妓としてデビューさせるが、言い寄った客・河津清三郎の舌に若尾が噛みついてしまい、二人は祇園のお座敷を乾されることになる。この事態から脱出するため、小暮は嫌っている客と寝る羽目になるのだが、その翌朝、住まいに帰ってきた小暮は若尾にこう言う。
「今日からあんたの旦那はあたしや」
 この科白は昨年はじめて『祇園囃子』を見たとき、目のさめるようなものと私には思えたのだが、これを松浦は次のように言う。

小暮が若尾を抱き起こしながら言う「今日からあんたの旦那はあたしや」というセリフには、決定的な救済の不可能を暗示する微かに陰惨な調子が滲んでいるように思う。

 さらに松浦はこう続ける。

むろん小暮は若尾に対して専横な権力を振るうつもりはなく、若尾が自由な意志で生きてゆくことを助けるべく庇護者になってやると申し出ているだけなのだが、それにしても、そのことを言うために「旦那になる」という譬喩が口をついて出るところに、祇園で舞妓を続けるかぎりは多かれ少なかれ権力の空間にしがらみになって生きていかざるをえないこの女の、存在論的悲哀が滲み出しているとも見える。

 たしかに、そう「見える」のだろう。これはたとえば、ブッチとフェムなどという役割分担をするレズビアンは異性愛をなぞっているにすぎないと主張することと似ているかもしれない。「女の旦那に女がなる」ことへのシニカルなこのまなざしは、それを向ける者が、その言葉であらわされるものを現実的なものとも希望とも受け取っていないことがたんに露呈しているとも思える。

ここでは権力の観念がなお希薄に温存されながら、しかし単に第三者による権力の直接行使から解放されているというだけのことなのではないのか。そこには、主人と奴隷、君臨する者と仕える者との差異と対立関係が、依然として生き延びていると言うべきではないのか。ラストで夕暮れの京の町を並んで歩いてゆく二人の、毅然とした晴れやかな表情に漲っている自由と独立独歩の印象は、あくまで仮初のものにすぎないのではないのか。

 たしかにそれはつかのまの、刻々に色を失う夕べの空にも似たかりそめのものにすぎなかろう。「『祇園囃子』とはこれを要するに、或る男との性交を誰も彼もが小暮実千代に迫り、彼女がついに屈服するまでの物語である」(松浦)とさえまとめられうる作品にあって、若尾文子の貞操を結果としては守った小暮が「今日からあんたの旦那はあたしや」と宣言したところで、若尾が「祇園で舞妓を続けるかぎりは」遠からず本物の旦那を持たなければならないことは必定であり、小暮自身、“屈服”して戻ってきたばかりなのだから、これがかりそめの、つかのまの勝利でしかないことはあまりにも明らかなのだ。

 それでも、いや、それだからこそ、その「毅然とした晴れやかな表情」は私たちの胸を打つとも言える。それはけっして負け惜しみなどではない。「夕暮れの京の町を歩いてゆく二人」はけっして〈外部〉に出られたわけではないと松浦は言う。小暮の口から出る「旦那」の一語にしても、まさに権力関係に汚染された〈内部〉の言葉そのものだろう。

 だが、それ以外のいかなる言葉が小暮に可能だったというのか?

「今日からあんたの旦那はあたしや」――小暮の科白は、同じフレーズが男の口から、たとえば「今日からおまえの旦那はオレや」と言われたときとは決定的に違う。それは単純に、女は男と同じ立場にはけっして立てないからだ。だからこそ、小暮の「今日からあんたの旦那はあたしや」には意外性があったのだし、そこにはまた、いかに微かなものであろうと、「旦那」という語の意味そのものがズラされてゆく可能性があったのだ。

 女が女に権力をふるうのに「旦那」である必要はない。料亭の女将浪速千栄子は、小暮を金で縛り、祇園のお座敷から彼女と若尾を閉め出して「或る男」との性交を彼女に強いる一人に他ならない。何とも憎憎しい演技のこの祇園の権力者を小暮は「おかあはん」と呼んでいるのだが、この、擬似母娘的権力関係をも、「旦那」の一語の意外性は超えてゆくだろう。「決定的な救済」にも、また〈外部〉にも至らずとも、それは「今日から」可能なのだ。

 女同士の権力関係は、舞妓にしてくれと頼みに来た若尾と小暮とのあいだにも明らかに見てとれる。「少女の性的魅力を半ば男の眼で品定めする小暮実千代のまなざし」と、若尾を立たせて座った姿勢でそれを見上げる小暮の「下から上へ」のまなざし、「そこに権力関係が成立する」と松浦は言う。

 だが、たとえばレズビアンとは、「半ば男の眼で」女を見る女のことであろうか、と問うことができよう。初めてのお座敷から戻って畳に横たわるポジションを取ったきかん気の若尾と立ったまま(この作品にあっては下位のしるしということになる)の小暮という配置ののち、本来の小暮上位と若尾下位のシーンという逆転した反復が行われることについて、「横たわる姿勢の律義な反復」はあたかも「物語を統御する非人称的な意志そのもの」のように行なわれていると松浦はそっけなく言うのだが、 「目上と目下の権威の関係はむしろ姉と妹のような親密で情緒的な血縁意識へと転じており」と松浦自身も認める二人の関係におけるこの反復は、女同士の関係が相互的、互恵的なものであり、木暮を手に入れようとする男のように、やってきた小暮に対して横臥したまま、自らの足袋を脱がさせるというような一方的な権力者のふるまいではありえないことを示しているのではないか。
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by kaoruSZ | 2008-10-30 22:27 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
(……)『ヴァン・ヘルシング』は幾通りかの二次創作のソースとなることを前提に製作されたフィルムであると仮定してみます。ひとつはアドベンチャー/アクションゲームとしての商業的な二次創作。もうひとつは同人誌やwebテキストや頭の中だけの想像といったかたちで観客が作り出すプライベートな二次創作、とりわけ、日本語では「やおい」や「ボーイズラブ」、英語では"slash"と呼ばれるような、主に女性による、女性のためのセクシュアル・ファンタジーです。女性の観客が、(基本的には)ホモソーシャルでヘテロセクシュアルな規範に沿った「オリジナル」の創作物から、ふたりの男性の登場人物の組み合わせを抜き出して(カップリング/pairing)、プラトニックなものからハードな性行為をともなうものまで、両者のあいだのさまざまな形態のホモエロティックな関係を想像し、それを小説やマンガ、イラストレーションなどの二次創作に加工してセクシュアルな享楽を得る、という消費文化にはすでに30年以上の長い歴史がありますが、かつて(表層的には)マイナーな位置にとどまっていたこうした文化は、おそらくはインターネットの普及をきっかけに、現在はかなりグローバルなレベルで、映画の消費文化のひとつのメインストリームを形成しつつあるのではないでしょうか。(鷲谷花「複製技術時代のホモエロティシズム) 

 本稿を書いた当時気づいていなかった、鷲谷のこの文章の、事実の歪曲と反動性については次に記した。
http://kaorusz.exblog.jp/14384401
http://kaorusz.exblog.jp/14384463/


 某所でやおいについてちょっとだけ「話題提供」する予定があるのだけれど、鷲谷花さんのこの論文、参加者にあらかじめ読んでおいてもらう参考資料に指定しておこうか……。

 クライマックスでは(…)ふたりの美男が、吹き荒れる吹雪の中で、長い黒髪を振り乱し、顔には幾つも血の筋をひきつつ延々と切り結ぶという、まことに「お耽美」な剣戟場面が延々と繰りひろげられます。一方、ふたりの男が共に狂おしい思いを寄せる「傾城傾国の美女」のはずのチャン・ツーイーは、胸にナイフが刺さって気絶しているうちに雪の下に埋まって姿が見えなくなってしまっているという、いやしくも恋愛映画のクライマックスにおいて、かくもいい加減な扱いをうけた「ファム・ファタール」がいただろうかという有様で放置されています。(鷲谷、前出)

 これはチャン・イーモウの『LOVERS』について。だが、そういう扱いを受けた「ファム・ファタール」なら、確かに他にも見た覚えがある。CGなどの最新の「複製技術」から突然サイレントに遡ってよければ、『肉体と悪魔』のグレタ・ガルボなど、自分に「狂おしい思いを寄せ」ているはずの二人の男の決闘を止めに急ぐ途中、足元の氷が割れて水中に落ち込んでしまう。一方、少年の日に永遠の絆を誓いあった男たちの胸には、現在を押しのけて甦るかつての友情の日々の映像が次々と繰りひろげられ(映画だからそれは当然私たちの目にもそのまま見えて)、それが彼らの周囲をぐるぐる周ってもう完全に二人の世界。ついに彼らは武器を投げ捨てひしと抱き合う。一方、ガルボはあわれ氷の下に消えてしまう……。

 鷲谷さんの論考は次のように結ばれている。

 しかし、こうした新しいタイプのメインストリームの映画においては、男性同士の絆のみが重要で本質的な人間関係であるとみなし、そうした真に貴重な絆を結びつけ、維持するための手段としてのみ女性の存在を許容し、要請しつつ、肝心な局面では蚊帳の外に追いやってしまうようなイデオロギー、つまりは昔ながらのホモソーシャリティと女性嫌悪(ミソジニー)が公然と息を吹きかえしているようにも思われます。ホモソーシャルな体制は、ホモエロティックなリビドーをアリバイに、女性観客を共犯者として取り込みつつ生き延び、みずからを増幅強化しているのである。などと、ついつい野暮ないちゃもんをつけたくなるのは、もしかしたらわたしがいつもスクリーンでの素敵な女性たちとの出会いを求めて映画館に出かけてゆくという性向の持ち主で、最近はめっきりそんな期待を裏切られ、淋しく映画館をあとにする機会が増えたからかもしれませんが。

 私も以前、《ここに出てくるのは男ばかりだけど、男が本当にカッコよくて価値があって男同士の関係こそが最高だなんて、夢にも思ってくれるなよ》とか、 《私自身はネタとわかって書いているわけだけど。「男への愛」からやおい書いてるわけじゃないんだけど。 でも、ベタで教育装置としても機能しうるわけで……。時々心配になる。ミソジニーに加担してしまっているんじゃないかってことに。》とか書いたっけ。

 鷲谷さんが上記の論文で「やおいリビドーを誘発するような男二人の結びつき」と呼んでいるものは、ホモソーシャルをホモエロティックに変換した結果見えてくるわけではなく、最初からあるものなのに、ホモフォビアに曇らされたストレートの男の目には映らなくて、最近では、それが可視的になったときは「女のせいにする」。つまり腐女子の妄想に。あまっさえ、それによってゲイ男性の存在を抹消しているとさえ中傷される。

 しかし、「岩波講座 文学」に収められた「ゲイ文学」と題する論考(以前、「やおいはヘテロ女の玩具じゃねえ!」というエントリで触れたことがある)で大橋洋一さんが述べているように、この「最初からある」ものこそ、「父権性」であり「ホモソーシャル連続体」であり「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」なのだ。「ホモソーシャル連続体」の偏在性ゆえに、「ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的いとなみではなく、中心的なそれかもしれない」。そう言って大橋さんが「読み直す」のは「ストレートフィクション」としてパッシングしてきたテネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』だ(註)。ヒロインの誇り高いブランチが、最後には妹の夫である野卑で暴力的なスタンレーにレイプされ精神に異常をきたすという筋書について、

貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲をあばきレイプする卑劣な暴行魔のファンタジーと、汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性の、またそれに加えてヘテロと言う名のゲイ社会に生きる隠れゲイのファンタジーが交錯するのだ

と大橋さんは述べる。

 よく見ればわかるように、ここには女性に由来するファンタジーはひとつもない。「貴族的で高慢な女性の真相にひそむ獣欲」というのはそれ自体が男(“卑劣な暴行魔”)の空想であり、現実の女性がそういうものを具えているという裏づけはない。「汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい」と願っているのは、女ではなく、「ゲイ男性」だ。そしてその基盤にあるのは「ホモソーシャル連続体」すなわち「ヘテロという名前をいただくゲイ集団」であるのだから、ブランチという女が主人公と見えた異性愛ドラマから、実は女はあらかじめ排除されていたのだ。つまり、ブランチと名づけられたこの女性表象は、ゲイの男性作家によって、召喚され、利用され、抹消された。

〈女〉はこれにどのように対抗/応できるか? 三つの可能性を考えてみる。
(1)フェミ的
これをゲイの男性作家による女性表象の横奪であり、女の植民地化であり、女にステレオタイプを押しつけるものであり、女性差別的であると告発すること。いうまでもないがそこに快楽はない。

(2)女性的
《「貴族的で高慢な女性」が自分の「獣欲」をあばき出されるというファンタジー》をマゾヒスティックに楽しむこと。

(3)やおい的
《汗くさく肉感的で粗野な男性にレイプされたい女性的ゲイ男性のファンタジー》を流用して楽しむこと。

 やおいは女性性の忌避ではない。(3)は(2)とは別様に(あるいはそれ以上に)「女性性」を享楽することを可能にする形式だ。

(…)この理論によれば、すべての文学がゲイ文学でもある。ストレートフィクションの読み直しは、ゲイ文学研究の周辺的ないとなみではなく、中心的なそれかもしれない。(大橋、前出)

(必要な変更を加えれば)やおいについても同様のことが言えよう。


註 タイトルは、昔読んだテネシー・ウィリアムズの自伝で、『欲望という名の電車』をルキノ・ヴィスコンティ演出で上演した際の作家と演出家が一緒に写っているスナップにウィリアムズ自身がつけていたキャプション。
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by kaoruSZ | 2008-06-06 11:41 | やおい論を求めて | Comments(0)
拙稿「私たちは表象の横奪論をほってはおかない」http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-4.html
のうち、第二章の次の部分を以下のように訂正します(ゴチック部分を追加)。

・Aさんの言う“リベラル系の男性ブロガーが彼であると知ったときは信じられない思いだったし(後略)

・Aさんの言う“リベラル系の男性ブロガーの一人が彼であると知ったときは信じられない思いだったし(後略)

 順に説明します。第一章で、私は友人のAさんからの、次のメールを引用しました。

《(前略)どうも「腐女子」という単語が一人歩きして属人的なレッテルになる
につれて、この人にはまったく関係無いだろうと思っていたような、いわゆるリ
ベラル系の男性ブロガーまで
「腐女子といわれるような連中が、ゲイ男性の人権を省みずに表象暴力を云々」
という様な発言をするようになっているのを見た時には、言うに言われぬ恐怖感
を抱かずにはおれませんでした。》
(引用1)

 ここで言及された“男性ブロガー”の一人(Bさんと呼ぶことにします)については、さらに二章において言及しました。以下にその部分を引きます。

「(略)驚いたことには、〈女〉であることのみじめさに苦しむ哀れな女(註3)が、さらに劣位にあるゲイ(註4)のイメージを消費している、男が自分より劣るとされる女の表象を消費するように、女は下位にいるゲイの男を……などと、どうしたらそんなことが思いつけるのかわからない説明をする人がいるのだった。百姓がエタ非人を蔑むみたいなこの言い方は、これもAさん経由で知ったのだが、やおいにパラノイア的憎悪を抱いているらしいゲイ男性のコメントに対し、ある男性ブロガーがしていたものだ。私もこのブログは知っており、むしろ好感を持っていたので、Aさんの言う“リベラル系の男性ブロガー”の一人が彼であると知ったときは信じられない思いだったし、過去のコメント欄にそういうやりとりを見つけたときは(Aさんは二度と見たくないと言っていたので、私は自分で探し出した)それ以上にショックだった。同性愛は生まれつきだから許してほしいとマジョリティのお情けにすがるに等しい論理で承認を求めるゲイ(男性)がいるように、彼は女の代弁をして、女はそうせざるを得ない状況に置かれているのだから許してほしいと言わんばかりに、そのゲイ男性と「腐女子」の間を取り持っていた……。」(引用2)

 ここで私は、当該ブログ名もURLも明記せず、直接的な引用という形も取りませんでした。5月1日に私はBさんにメールを送り、そのようにした理由を説明するとともに、Aさんの言う“リベラル系の男性ブロガー”がBさん一人であるかのように読めてしまうのは私のミスなので、ブログ上でそれは訂正するつもりだし明記もやむをえないかもしれない旨伝えました。それに対しBさんからは、参照先を書かなかった理由については十分納得できるから、明記せずともよいという返事がありました。

 もう一つ、Bさん(とそのお仲間)にとって気に入らなかったのが、「この人にはまったく関係無いだろうと思っていたような」という部分でした。つまり、やおいに「関係無い」どころではないBさんであるのに、それを知りもしない鈴木やAに勝手なことを言われたと受け取られたのでした。

 しかし、この部分は、やおいについてそのような(ネガティヴな)発言をする可能性があるとは想像もしなかった人が、というほどの意味でAさんは書いているのだろうと、少なくともBさんについては私は読みました。もともと公表を前提としない私信であってみれば、そうした例が具体的に書かれてあったわけではなく(私が原稿を書くにあたって、本人の了承を得た上で引用したのです)、メールを受け取った時点では、そのようなケースが複数あったのだろうとのみ私は理解していました。実際にそれらのサイトを教えてもらったわけではなく、繰り返しになりますがBさんがその一人であるとは思ってもみなかったのです。

 ちなみに、拙稿が公開されてのち、Aさんは、(Bさんではない)「リベラル系の男性ブロガー」二人に、メールの引用部分は貴方のこと(でもある)ので、鈴木の文章をぜひ読んでほしいというメールを送りました。そして一人の方からは、十分に知識がない事柄についてあのような言及をしたのは軽率だったと率直に誤りを認める返事が、そしてもう一人の方からはより深刻な、鈴木の文章にショックを受けわが身を省みているといった趣旨の返事が届いたそうです(ちなみに、彼らの「誤った」知識源は、Bさんがブログのコメント欄でやり取りをしていた相手と同一人物でした)。

 ウェブ上での彼らの発言を目にした時には苦しい思いをするばかりで声を上げられなかったAさんでしたが、その代弁を、あの原稿という形で、どうやら私はいくらかはなしえたようです。また、Aさんも、思い切って話せば理解してもらえるという手ごたえを得られたようで、その意味でもあれを書いてよかったと思っています。

 さて、この二人の“男性ブロガー”の場合は、「よく知らないことについてうっかり発言してしまった」のでしたが、Bさんはやおいについては十二分の知識を持っていて、しかも、あのような発言をしているのですから、同日の談ではまったくありません。

 URLの明記を避ける理由については、察しのいい方はすでにおわかりでしょうし、別に、絶対に明らかにしないというつもりでもないのですが……しかし、今回の拙稿は、Bさんに対する批判に特化したものではありませんし、私があのような形で書くに至った状況を明らかにするためにその発言にも触れたに過ぎないのですから、とりあえずは伏せておくことにします。今後、当該発言を直接問題にする機会(きっとあると思います)には、ブログ名等はむろん明らかにします。

 訂正については以上ですが、この機会に、引用2で問題にしたBさんのコメントについて、どこがおかしいのか簡単に述べておきます。説明しないとわからない人たちがいますので。

彼等は自分と同等
もしくは上の人間には
欲望を感じません
(中略)
明らかな弱者
ゆえ安心して
欲望するのです
自己(おのれ)の
無力感を
はらすために
さらに無力な
者をねじ伏せ
るのです


 Bさんの説による、「やおい」を楽しむ女の欲望のあり方は、ひょっとしてこんな感じなんでしょうか? これだけでも全くリアリティありませんが、さらにBさんは、やおいとは女が男に恥辱を与えるために、自分より劣位の同性愛者のイメージを使うものだと言っています(直接の引用でなくて申し訳ありません(Bさんに対しても)。しかしポイントは外していないはずです)。

 私はつい、「どうしたらそんなことが思いつけるのかわからない」と言ってしまうのですが、Aさんは「この人はなぜそういうことを言うのか」と考える、洞察力に優れた人です。そのAさんの示唆を受けて考えたのが以下のことです。

 コメント欄の相手とは話がまるきり噛み合っていない、Bさんのいわばひとり語りに見えるコメントから、確実にわかることが一つあります。Bさんは「やおい」に関して、「男が(他から)恥辱を与えられる」というのが重要なポイントだと認識しているということです。

 それならばマゾヒズムとの関係で、私もそれがやおいにおける重要なポイントだと考えます。フロイトの論文“The child is being beaten”で、女の子が、(彼女の空想の中で)打たれている=恥辱を与えられているのは男の子だと証言していることともこれはかかわります。

 しかし、表にあらわれた空想の内容が男の子が「恥辱を与えられている」というものであったとしても、それをそのまま「恥辱を与えるため」にしていると解したのでは、「表現」というものについて何も理解していないということになりましょう。

「腐女子」に一般化しての、自らとは切り離しての言及ではなく、自分にとって「やおい」はどのように「恥辱」とかかわるのかを認識した上での発言であったら、それこそ、Bさんにとってもそれ以外の人たちにとっても有益だと思うのですが……。

 ある時私は、ゲイ男性であるCさんから、ポルノを見るノンケの男性(の一部)が画面の女性に同一化している可能性について書いていたのは誰だったっけ、と訊かれました。田崎英明でしょう(以前、Cさん相手にそんな話をしたことがあったのです)。それから山崎カヲル、と私は答えました。

 ゲイポルノで、ゲイがノンケの男をレイプするのがあるんだけと……とCさん。

 ああ、その場合、ゲイがノンケの男に同一化するのね、と私。

 それとも、その場合、ゲイはどっちに同一化すると思う? と訊かれて、そりゃノンケでしょう、と答えたのだったか。ともあれ、私も即座に理解しました。「やおいもそれで説明できると思う」というようなことを言った覚えがあります(あくまで部分的な説明です。念のため)。
 当然のこととして、『直腸は墓場か』のレオ・ベルサー二の名前が出ました。

 Cさんが例に挙げたゲイポルノの場合だと、劣位のゲイ男性が、優位のノンケ男性の表象を使っているわけで(Bさんの、優位、劣位というのに倣って言えば)、劣位の者を使ってポルノが作られるというBさんの説とは相反します。

 やおいにおいて、劣位にある(とされるとBさんが思い込んでいる)ゲイ男性に恥辱を与えることのどこに「萌え」があるというのか。

 そもそも、そこで恥辱を与えている(とBさんが思っている)のは誰なのでしょう?
 
 そしてそのとき、Bさん(“当事者”としての)はどこにいるのか。

 Bさんが何に萌えようと自由ですし(実際、「恥辱」は性的ファンタジーの重要な要素です)、男性であるBさんとやおいの、そのような形式(どのような形式か私は正確に把握しているわけではありません)を取ったかかわりが語られることは有意義であろうと思います。しかし、それをもって、腐女子一般に適用するような、いや、腐女子一般を代弁する(代表して語る)ようなことはつつしんでいただきたいものです。

 まして、(控えめに言って)理不尽極まりないやおい批判者におもねるためにそれをするとは。
 そんなつもりはないとBさんは言うことでしょう。そして、Bさんの意識としては、本当にそうなのでしょう。何の悪気もなく、善意から女性のために発言しているのだと。
 しかし、どう思っているかと、言説が実際にどう機能するかは別のことです。

《「家長が自分の縄張りに属する女の不始末を詫びている」ように見えるし、実際Bさんにはそういう影響力がある。》
 これは件のコメント欄でのBさんの振舞いについての、Aさんの意見です。

 Cさんの言うゲイポルノの例では、なぜ、レイプされる男がノンケとして設定されるのか。
 なぜ、それを楽しむゲイ男性は、セメとして「上位の」ノンケ男性を犯すのではなく、わざわざ自分をノンケと思いなしてウケに同一化するのか。

 話はかように一筋縄では行かないのです。こうしたことがわからなければ、やおいの理解などとうてい覚束ないことでしょう。

 なお、赤字で引用したのは山岸凉子の『緘黙(しじま)の底』において、実の娘に性的虐待をする父親について語られる科白です。「無力な子供」を「無力な者」に変更しました。
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by kaoruSZ | 2008-05-25 05:34 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
「もちろん異性愛男性こそが女性イメージを圧倒的に性的な存在としてパタン化し領有してきたことは論を待たない。そのため「女の側だって少しくらい好き勝手してもいいのでは」という声もある。ただしもちろん、そういった考えは溜飲を下げる以上の効果はもたらさず、生産的な批判ではない、と考えられている」
           石田仁「ほっといてくださいという表明」
            『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号 総特集BLスタディーズ

 
 石田さんはこのように述べるが、男性による女性イメージの「領有」は、なにも“異性愛男性”に限った話ではない。かなり以前のことになるが、タレントのピーコが、深夜番組で「爆笑問題」相手に、「[ピーコは]女らしい」「ピーコさんてほんとに女なんだね」といった反応を引き出すような自己規定を繰り返し、好きな男の顔を見ているだけでいい、何もしなくてもいい、と自らがrepresentする女性主体の脱性化(これは異性愛男性による性的対象としての女の“パタン化”と矛盾しない)をはかりつつ、ホモフォビックなヘテロセクシズムの強化(問題なのはピーコが現実に女ではないことであるかのように言われ、ピーコの男への愛は女が男に対する愛と同じものとされる。すなわち、“真の”男から男へ向ける欲望は存在しないことになる)を行なっているのを目撃したことがある。ゲイ男性が女性性をも兼ねそなえた存在としてふるまうことで、かえって生物学的女性の本質化が進められるのはよくあることだ。はなはだしい場合は生物学的女性に向かって女の道を説きはじめるし、それをもてはやす女もいる。

 かくも完璧な女性性の横取りと押しつけが横行する中で、「女の側だって少しくらい好き勝手」とか、「溜飲を下げる」というのは、あまりリアリティのある言葉とは思えない。そんなことではどうにもならないほど男の側からの領有は凄まじいのだが。そして、ピーコがこれだけやっても何も言われないのは、言うまでもなく男だからだ。だから少しぐらい、と私は言いたいのではない。この非対称を前にして言葉を失うのではなく、下記のように饒舌になることが信じられないと思うのだ。

「いったん「他者」として切り分けた存在を、「私」との関係で非対称に配当し、お決まりのパタンでくり返しイメージした後に葬送する。この表象の横奪の問題は、現代(ポスト植民地時代)の諸研究で、すでに重要な論点として認識されている。たとえばハワイ、スペイン、沖縄が、経済的宗主国によってリゾート地として創出-消費(開発)」されてきた経緯があり、しかもこの「開発」は現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営みと密接不可分だった。とすれば、「女ではない他者」のイメージをパタン化し領有するやおい/BLも、微睡みの中にいることは許されない」(石田、前出)

 女にとって男は「他者」だろうか。とんでもない。男にとって「他者」とされてきた女は、それ以外に自らのイメージを持たず、そこから抜け出すときには「男」となるしかない。なぜなら、女ではないものこそ「男」とされてきた(それゆえ男はなんとしても自らが「女」の位置におとしめられることを拒む)からだ。「男」との関係で非対称に配当され、お決まりのパタンでくり返しイメージされた「女」とは空虚な存在であり、一方、「男」の側にはすべてがある(ように見える)。権利がないのに占有した領域で、女がなりたいのは「女ではない他者」ではなく、「女ではない主体」だ。(エロティシズムの観点から言うなら、そうした主体こそが、主体が崩壊するときの、すなわち「受け」としての十全な享楽を持ちうるように思われる(幻想される)。男によって“パタン化”され領有されてきた女には、まず、この意味での主体がない。したがって彼女にとっての「他者」もありえない。

 上記の引用で、石田さんは、やおい/BLを、女が「他者」を植民地化しているありさまとして描いている。「リゾート地として」「現地のイメージを一方的に創出-蕩尽する営み」であると。しかしこれは、あまりにも男女の権力関係を無視した、男→女を女→男へ単純に反転させただけの安易なやり方ではないか。私は以前、ある発表(残念ながらやおい研究ではなかった)で使うためにappropriationという概念(石田さんが表象の横奪と言うときの「横奪」)について、文化人類学が専門のMさんに教えを乞うたことがある。それによればappropriationとは、たとえば宗主国から《「押しつけられた文化イメージを現地で逆手にとって観光資本にするとか、「グロテスクな大文字の他者としての我々」イメージをとっかかりにした》文学作品を書くとかいう意味でも使われるということだった。すでにある資源を加工して、好きなナラティヴに再構成する――やおいもこの文脈で語れると思うという彼の言葉に力を得て、以来私は好んで「流用」という訳語を使ってきた。

 文化資本を持たない女は、男の表象を流用して(それは男から見れば簒奪であり、権利のない占有/領有だ。“女の分際で”“身の程知らずに”そんなことをしているのだから)やおいを書く。だが、それは男を植民地化しているのではない(そんな力があるわけがない)。男についての表象資源はけっして当事者だけのものではなく、《あらゆる立場からのあらゆる目的での流用に「開かれている」》(Mさん)はずなのだ。それが具体的な場でどう働き、どのような意味を産み出すかは注意深く見ていかなくてはならないだろうが。

 ポストコロニアル的(って、私は全然詳しくないが)やおい理論の見取図としてはこのようなものを勝手に考えていたので、正直、石田さんのような適用のしかたにはびっくりしてしまった。
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by kaoruSZ | 2008-04-08 02:26 | やおい論を求めて | Comments(0)
 宮城県・黒石寺の“裸祭”蘇民祭のポスターがJR東日本に掲載拒否された一件はまだ記憶に新しいが、その理由は、JRの男性課長の言葉として最初に報じられたものによれば、胸毛などは「女性のお客様」が不快に感じるのでセクハラにあたるというものだった。事態を紛糾させた一因はこのセクハラという言葉にあったろうが――ポスターの写真を見、その記事を読んで最初に思ったのは、逞しい裸男が上を向いて口をO字型に開けたこの写真が、担当課長のホモフォビアを刺戟したのではないかということだった。これを見て女性が不快に感じるだろうか? もちろん、不快と思う人もいようが、「女性」なら不快に感じると決めつけられ、それを公然たる理由にされたことが私には不快といえば不快だった。

「セクハラ」にあたるポスターとはどんなものか? レイプを連想させるとして問題になった三楽のCMと言ってももう知らない人が多かろうが、私はリアルタイムであれを見ている。馬を乗りこなす男まさりの西部の女が荒くれ男たちに囲まれるCMを前夜のTVで見た翌日、同僚と歩いていた地下鉄の通路で、前夜の女が泥まみれになりようやく上体を起こしてこちらを見ている姿がアップになったポスターが目に入ってきた。あっと思った。これがTVでは放送されなかったフィルムの続き……。そのとき同僚が、「何、これ、嫌な感じ」と呟いた。「どうしてこんなの貼るの?」 TVスポットを見ていなくてさえ、彼女も何かを感じたのだ。「女性のお客様」が明らかに不快に思ったそれに、営団地下鉄の担当者は何も感じはしなかったのだろう(ついでに言えば、当時女性の職員は皆無だったはず)。「セクハラ」という言葉がまだなかったので、同僚も私もそう名づけることはできなかったが。

 三楽のポスター(たとえば)がなぜ女にとって「不快」で「セクハラ」かといえば、自分もまた同じように男たちの性的なまなざしの対象にされる――被害者の西部の女(乗りこなされたじゃじゃ馬)に注がれたのと同じ目が、今度は自分に注がれる――公共空間が、それに対してはポスターの女の無力なまなざしで対抗するしかすべのない、ヘテロ男の性的ファンタジーで充満した出口のない空間に変わる――いや、私たちが生きる空間がもともとそのような逃げ場のない、地の果てまで(男の)へテロセクシュアリティで舗装された世界であることを見せつけられる経験であるからだ。

 黒石寺の女性住職は、都会の娘に何がわかる、てなことを言ったらしいが、都会の娘は何も言っていない。JRの男課長が言ったのだ。マスメディアの報道のみを根拠にした臆測をあえてするが、男が性的なまなざし、しかも男のそれの対象になる可能性を、彼はあのポスターに見て不快になったのではあるまいか(それがもし快であったとすればますます不快に)。そう感じたのは自分なのに、「女のお客さま」が不快なことにした(あるいは、「女」にされて彼が感じた不快感か)。裸男が現実に迫ってくるならともかく、男の表象を女は(男のようには)恐れたりしない。恥しそうなふりはしてみせるかもしれないが、それよりも面白がるだろう、あのポスターなら。

 ニュースへの反響(もっぱらウェブ上の)で注目したことの一つは、JR東日本の決定を「差別」と呼ぶ者の多さだった。いわく、胸毛のある人への差別だ、いわく、女が好むきれいな男なら何も言われなかったろう。「差別」という言葉は今日ではいくらか護符のようなものになっているのかもしれない。やおいはゲイ差別というのも言う方は切札のつもりだろうし、それだけで反応してしまうリベラルな(と自らを思う)男性ブロガーもいるくらいだから。あるいは、美人コンテスト反対の論理を無意識になぞったのかもしれない。女の好みばかりが優先されると文句を言う男もいたが、これは、女は差別されていない、今やむしろ優遇されているじゃないかといったうわ言をいう層と重なっていよう。女の裸ならよくて男の裸はだめだというのは差別だなんで奴まで出てきて(これはゲイ男性のサイト)、ゲイでもストレートでも男のバカさ加減は同じと思わずにはいられなかった。

 私がこの事件に注目したのは、ホモセクシュアル/ホモエロティック(あのポスターの絵柄をそう読んでもいいだろう)な表象に出会ってホモセクシュアル・パニックが掻き立てられたとき、「女のせいにする」というのが、「腐女子」バッシングの図式とよく似ていたからだ。蘇民祭のポスターは「女性向け」というよりは「男性向け」だったが(といっても、むろん、写真の男は好みでないというゲイ男性も、胸毛の好きなストレート女性もいよう)、そのことは抑圧されて、「女性に対するセクハラ」という、曖昧な、しかし、「ゲイ差別」にも似た俗耳に入りやすい言葉に置きかえられた。このすりかえは、「女性向け」とされるイメージでホモセクシュアル・パニックを起こした男が、もっぱら「腐女子」のせいにするのと構造としては同一だ。

「ホモエロティックなもの」がもっぱら「腐女子」に帰せられるとき、人はゲイ男性の存在を安んじて忘れることができる。「ホモエロティックなもの」の表現(担い手の性別は問わない)が抑圧されることこそゲイ差別であろうに、いまや「腐女子の特殊な好み」(と見なされたもの)を公の場で語ることを抑圧する発言が平然となされている。「ほっておいてください」――やおい/BLに対する批評を拒否する「腐女子」の言葉――とは、第一に、そうした風潮に対する当然のリアクションではないか。


*これはウェブマガジン『コーラ』に載せる予定の拙稿の一部になるはずのものであり、「ほっておいてください」とは、石田仁氏の論考「ほっといてくださいという表明」『ユリイカ』2008年12月臨時増刊号(総特集BLスタディーズ)に言及したものである。
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by kaoruSZ | 2008-04-02 02:05 | やおい論を求めて | Comments(0)