おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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にわか成瀬通となる

 新文芸坐の成瀬特集昨日で終る。見られなかったのは『あらくれ』一本で、部分的に眠った(寝不足で)のはあるが、十四日間で二十七本見た。これでも三分の一に満たないとはいえ。
 記憶に新しいところから書く。昨日の最終日は『女の歴史』と『娘・妻・母』だった。またしても交通事故! そして交通事故!

 七日に最初に見た『女の座』(私がこれまでに見たことのあった成瀬作品は『鶴八鶴次郎』『歌行灯』くらい)では、後継ぎの息子があっさり列車にはねられて死んだが、『女の歴史』でも未亡人の育てる(た)一人息子(この設定も前者と同じ。母親はどちらも高峰秀子)は突然の交通事故で死ぬ。この〈結末〉を先に提示してヒロインの回想によって結婚や出産へと遡る、また、夫の友人だった仲代達也と再会する場面を見せておきながら、内実は隠しておき、彼らの関係を観客が知った上でフィルムの最後近くで開示するといった、これみよがしなストーリー・テリング好ましい。

『娘・妻・母』では、原節子の夫がこれまたあっさり交通事故で死に、夫との不仲から実家に帰っていた娘は、『めし』で上原謙が原節子の妻を迎えに来たように、また、『女の歴史』で高峰秀子を宝田明が迎えにきていたようには迎えにきてもらえず、『めし』では若妻だったがここでは数えで三十六で、しかしまだまだきれいだと言われる彼女は、ロマンス(仲代達矢との)や再婚(上原謙との)の可能性を持つと同時に、実家の厄介者となる。高峰秀子が嫂、兄が森雅之、草笛光子が妹、宝田明が弟で、笠智衆がほとんど無意味に登場し、『妻の心』や『杏っ子』がそうであったように何も解決せぬままに終る『娘・妻・母』は、『女の中にいる他人』や『乱れ雲』と同様、成瀬のキャリアの最後に属するマニエリスティックなフィルムなのだろう。

『女の中にいる他人』は犯人が(ほぼ)最初からわかっている倒叙ミステリで、しかも、犯人が妻や友人にいくら真剣に犯行を告白しても相手にされないアンチ・ミステリでもある。本来重要な物証であるはずのネックレスの(画面での)取り扱いずさんだし、草笛光子が、死んだ女の連れが小林桂樹だったと告げた直後に道の向うから小林がやってきて、草笛がはっとしてもう一度見直すと別人である、というふうに、観客を目撃者にしつつ(むろん、最初に歩いてきたのは本当に小林桂樹だ)、これも本来重要な証人であるはずの草笛の知覚を一瞬にして信用のおけないものにしてしまう演出見事。

 帰宅した小林桂樹を迎えるために、妻の新珠三千代が無表情だが真剣な顏で廊下をずんずんずんずん前進してくる(新珠三千代、何かに似ていると思っていたが、爬虫類だと気がついた。媒図かずおのヘビ女に実写で出演したら似合ったろう)。昨日の高峰秀子も、原節子の夫の事故を知らせる電話に出たあと、そうやって廊下を前進してきた。こうした廊下は成瀬作品に頻出する奥行きのある路地の変形だし、『浮雲』で森雅之が住んでいる安アパートの廊下は、そこで絶えず遊んでいる子供たちの存在のため、路地をも兼ねているかのような空間であった。

 上記の新珠三千代は、小林が帰宅したのであることを私たちが知るより先にこっちへ向かって唐突に歩いてくるのだが、このような、いってみれば途中を省略して〈先取り〉されたカットの例を以下にあげる。『秋立ちぬ』で妾の子である少女は、本妻の子である姉と兄に邪険にされる。次のショットが少女をとらえるとき、彼女はまだその場にいて思いがけない悪意に相対していると私たちは思うが、実は彼女はすでに帰宅しており、よそいきのまま、母親に向かって話しかけているところなのだ。『女の歴史』では、高峰秀子と宝田明の初夜の宿に床が延べられたあと、布団にひとり入っている高峰が映され、隣の布団からはいびきが聞えてくるが、キャメラが引くとそれは回想から戻って姑と布団を並べている現在のショットとわかって、観客の笑いを誘う。また、『おかあさん』の途中で画面に出る〈終〉マークもそうだろう。映画自体が終ったのかと思って立ち上がりかける者さえ実際いたが、続いてスクリーンには上映の終った直後の映画館が映し出され、終ったばかりの映画について香川京子らは言葉をかわすのだ。
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by kaoruSZ | 2005-07-23 15:13 | ナルセな日々 | Comments(0)

降ればどしゃぶり

 7月9日(土)、新文芸坐での日替り成瀬巳喜男特集はじまり、『女の座』と『乱れ雲』最終回で見て、『女の座』にすっかり引き込まれる。戻ってデニーズで夕飯 、TSUTAYAで本。雨風ひどく、停めてある自転車をなぎ倒し、アーケードをガクガク揺り動かし、傘を持って行かれそうな台風並みの勢い。あくる朝初回で『めし』『浮雲』を、それに引きつづき蓮實、山根対談見ようと決めて、念のため目覚ましセットする。二時間前に目が覚めたが、うとうとしてベルで起きる。前日、冷房の風が半身に当たって気持ち悪かったので麻のストールを用意、うってかわった晴天に帽子かぶって出る。9時55分はじまりだが、電車を降りて昼食用におむすびを買い、外へ出たところで十時の鐘鳴り渡る。それでも予告編があるから間に合うと思って行くと、満席のためトークショー終るまで入場不可とあり愕然。

 実は、金曜日から軽い咳が出はじめ、土曜日には周囲を気にしつつどうしても苦しくなると台詞の切れたところで咳ばらいしていた(音楽が大きくかかるような場面はほとんどない)。二回目の『めし』上映は二時半、大変な時間のロスである。こんなことならその分眠って体力の温存をはかればよかった……。ともかく入口まで上がって訊くと、立見席まで一杯なので入っても映画を見られる状態ではない、しかしトークショーは後ろの扉をあけるかもしれないのでロビーで聞けるかもと、貼紙とは異なる話。客が多い場合はロビーだけでなく階段で待ってもらうことになるが、階段は冷房がないという(冷房対策ならしてきたのにねえ)。トークに未練が出て、とりあえずチケット買う。トークは一時五十分から。一時半には来てくれという。パルコに戻ってセールを見て歩き、西武の屋上でお茶を買っておむすび食べ、子供連れが食べているのを見て食べたくなったやきそばまで食べ、パルコ上のロゴスで洋書のセールを見るうち一時を回る。

 戻ると、トークショー終了まで云々とはもう書いていない(何も書いていない)。ロビーに入ると行列できはじめている。体力温存を考え、立ちっぱなしの列には入らず、壁際のベンチを確保。風が来るのでストールを巻き(元気なときは冷房にはめちゃめちゃ強いので、やっぱり体調が悪いのだ)、西武のリブロで買った本を読みかけて閉じる。目をつぶると、眠りかけて本を落す。列、あっという間に延びている。並んでもトークショーに入れるとは限らず、『めし』の座席も保証できないとスタッフが声をからす。上映終ったので列の最後尾へつく。もうそれ以上は中へ入れず階段に並ばせている模様。すぐにロビーの列動き出す。映画だけで帰った人もかなりいたようだが、席は取れず。通路後方の段々に人が座りはじめる。真中あたりの座席にペットボトルが残されている列の通路際で、あそこはどうなんだろうと見ていると、通路際の席にいたおじ(い)さん、「お話聞いたら帰るから、席あきますよ」と言ってくれる。そのときは沢山あくと思うので、と断ってお礼を言う。最後列の座席の背にだらしなくもたれて見ることにする(体力温存優先)。あとから入ってきた人、例の席を指差して尋ね、あいていると言われて喜んで入る。

 蓮實、山根両氏は成瀬本上梓したばかりとのこと。映画見た上で読もう。ロゴスでぱらぱらと見た映画紹介本は、『女の座』は小津のコンセプトの流用で(こうした用語を使っていたわけではないが)成瀬のオリジナリティなしと断じていたが、むしろ小津からの数々の引用とその変奏として興味深いと私は思った。遺作の『乱れ雲』はまた全然違う種類のフィルムで、司葉子と加山雄三が会うまいとしても会ってしまう、(逆?)メロドラマ、後半、十和田湖畔に舞台が移ると、観光地で殺人が起きるTVドラマを連想してしまう(司葉子の実家は旅館である)が、そもそも湖の岸や遊覧船はシネマスコープ画面にこそふさわしかったのだと知るべきだろう。四作どれも乗物の扱い面白し。ブラジル、富士山、ラホール、仏印、屋久島といった「遠いところ」の設定も。『めし』と『浮雲』を続けて見れば、列車の中で眠る男を見守る原節子と高峰秀子の構図の類似にいやでも気づくが、後者では輪タク、船、担架と乗り継ぐその先がある。

「文芸しねうぃーくりい」の筆者は成瀬を見たあと出てきた食べ物を食べたくなることを書いていて、私も前日はことさらラーメンとギョウザを食べた(デニーズのだが)。しかし、二日目は、幕間にカステラ買って食べると、次の映画ではスクリーンの中でカステラが食べられるというふうに、むしろ先んじてしまったのみならず、咳、次第にひどくなり、『浮雲』の本妻が咳をしているのでその切れ目にこっちが咳をするのがますますはばかられるが、苦しくなるので定期的に咳こまずにはいられず、映画内のひとは無意味に咳をしたり吐き気をもよおしたりしない(前者は昔の映画では結核の、後者は妊娠の記号)ので、本妻はあっという間に死んでしまい、屋久島に向かう高峰秀子まで咳をはじめ、微熱があるのかもしれず(高峰も私も)、屋久島の雨のはげしさ、前日の東京の時ならぬ嵐と重なって、気に入りの傘をどこかに置き忘れたのではないかと不意に不安になって座席の上で身辺を確かめるが、その直後、その朝日除け帽をかぶって出たことを思い出す(やっぱり熱があるようだった)。
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by kaoruSZ | 2005-07-11 17:46 | ナルセな日々 | Comments(0)

猿の(死なない)生き肝

 ボルヘスの短篇で(ボルヘスの長篇というのはありえないわけだが)、死ぬ間際の詩人が、自分の詩が世界に替わる調和の取れた小宇宙などではなく、世界の渾沌にもう一つ渾沌を加えただけだということを悟るというようなのがあったと思う。こうして記事を書きつづることも全くそうで、書くことで考えが整理されるかというと、そういうことはあまりない。書いたことも片端から忘れ去る始末で、だからといって何も書かずにいたって思い出せはしないのだが。
 それでも書くのは、外部に刻みつけるのは、書かれたものが〈猿の生き肝〉だからだろう。猿の生き肝というのは——子供の頃親から聞いた話で、龍宮の乙姫様が病気になり、治せるのは猿の生き肝だけだというので、クラゲが島に住む猿のところへつかわされる。そして、猿をだまして背中に乗せて龍宮へ向かう途中、本当の理由を話してしまう(クラゲは実は、生き肝の何たるかを知らない。子供も知らないので、親に説明してもらう)。これは大変だと思った猿は、しかしあわてることなく、生き肝だったら洗濯してほしてきてしまった、取ってくるので一度島に戻ってくれと、言葉巧みに難を逃れる。

 子供にとってこの話は、〈生き肝〉を取られたら猿は死んでしまう、という事実によって怖いものなのだが、同時に、〈猿の生き肝〉は竿に干された洗濯物として相変わらずハタハタとはためいてもおり、それゆえ安堵できるものでもある。実際には猿が助かったのはとっさの機転によってだが、子供の想像力の中では、猿が殺されずにすんだのは、いくぶんは、生き肝が彼の体内ではなく、他の場所に置かれていたことによってであるかのようなのだ。つまり、こういうことだ——猿がもし龍宮に連れて行かれたとしても、生き肝が洗濯竿に干されていれば、誰も猿からそれを奪うことはできはしない(逆に、龍宮の連中が島に上がって、勝手に生き肝を取って行ったら万事休すだが)。

 要するにこれは一種の外化された生命——それを破壊されると本体も死んでしまう——であって、アンデルセンの『ある母親の物語』で、死神の花園に植えられている花のを引き抜かれるとその花につながる人間も死んでしまうというのが怖かったのもこのせいだ。自分の知らない、力が及ばないところで生死が決定されたのではたまらない——とはいえ、花を抜くという行為なら傍にいて阻止することができるかもしれないが、私たちは最後には力及ばず、自らの身体の中で——身体によって——身体そのものとして——滅びるのだから、結局同じことなのだけれど。

 猿の生き肝のことを思い出したのは、しばらく前、デリダの『パピエ・マシン』上巻(ちくま学芸文庫)を朝の地下鉄の中でぱらぱらと読み(フロイトのマジック・メモや、エクリチュールのシュポール[支持体]の話のあたり)、地上へ出て歩き出したときだった。生き肝としてのエクリチュール。しかしこの生き肝は、死神の花園の花のように〈本体〉とつながってはいない。それは作者の生死にかかわらず、作者を死なせ、自らは生き、不死となる。猿の生き肝化、それは思考の外化、自分自身(との一体性)からの疎外、そして読まれることの可能性のはじまりだ。
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by kaoruSZ | 2005-05-09 21:01 | 日々 | Comments(0)
「ジェンダーフリーの“呪縛”を解け」(2003.7.23)、「男性優位も性の否定も間違いだ」(2004.2.20)という、歴史に残る二大恥さらし社説(ほかにもあるかもしれませんが、誰でもそうでしょうが新聞の社説なんて中学生の論説文演習用レヴェルのものを毎回きちんと読んだりしないので、詳らかにしません)の後では、読売新聞をいまどき購読しているなどと公言したらバカにされ軽蔑されつまはじきにされかねませんが、親がとっていたので今もとっています。夕刊の文化欄はわりと良いですし。新聞販売店で新聞を作っているのなら、「恥を知れ」とひとこと浴びせてやめるところですが、幸か不幸か私たちが直接接触できる彼らは下請けでしかありません。新聞の販売拡大競争が激しくなったのはいつの頃からなのか、かつては販売店は新聞を配達して代金を徴収するというまっとうな仕事だけをしていて、物をくれたりねだったりという関係はなかったと思うのですが、あるとき母が、新規契約者には惜しみなく物が与えられていることに気がついてしまい、うちは何十年もとっている、と文句を言ってから、わが家にも洗剤が届けられるようになりました(もっとあとのことですが、夜道で、向うからやってきた若い男が急に距離を詰めてきたので身構えたところ、「新聞とってもらえませんか。一ヶ月でいいです」ときました。読売でした。もうとっていると答えたところ、そうですか、と去って行きました。よっぽど追いつめられていたのでしょう)。私は洗濯は粉石鹸、食器洗いも香料なしの石鹸なので、これには全く魅力を感じません。時間外れ(私にとって)に集金に来られても、留守だったり、人前に出るのは差しつかえる恰好をしていたりするので(その昔、親の留守にうたたねをしていたらチャイムが鳴ったので飛び起きて出たところ新聞の集金で、「おやすみのところすみません」と言われ、そんなに寝起きとわかる顏なのだろうかと一瞬思いましたが、なんのことはない、日曜日だからそういう挨拶だったのですね)、購読料は届けていますが、事務所にいるのがいつもの人でないとその度に洗剤をくれようとするので、断わった上、展覧会の入場券があったらほしいと言わなければなりません。以前は親に展覧会名を言って頼んでおくと必ず手に入ったものですが、どうも最近はマイナーなのしかなかなかよこしません(でも、もらわなければ知らないままだったかんざしの展覧会など、行ってよかったですけれど)。マティス展の券、くれないかなあ。

 閑話休題。そんなわけで、しょうもない社説の読売ですが、せっかくとっているので記事を話題にしてみましょう。材料は10月3日の朝刊です。まず、「顏」欄。家庭用の調理支援システム により斬新なソフトウェアの開発者として「天才プログラマー」 の認定を受けた 、東大助手の女性が紹介されています。これまで五十九人が認定されたが、女性は初めてだ。 いわゆる、女性第一号というやつですね。(「天才」がそんなにゴロゴロいるものだろうかという疑問も湧きますが、まあ、それはたんに名称の問題ということで。)経済産業省傘下の機関が選ぶもので、審査員から「ソフト開発に不可欠の直感力と粘り強さがある」と絶賛されたそうです。調理システムに加えて、直感力と粘り強さ。あまたの女性第一号たちが「女性の特性を生かし」などと書かれ、自らもそう称してきたあやういポイントですが、さすがにそういった文言は見当たりません。ソフト作りは天才的でも、機械は苦手。ビデオの番組予約もできない。 これは何を言いたかったのかな? そしてきわめつけ。「自作のシステムを家庭で使う機会は?」と問うと、「結婚はまだですね」とはにかんだ 。二十八歳の浜田さん、男性記者の質問に本当に「はにかんだ」 のでしょうか? 
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by kaoruSZ | 2004-10-06 09:57 | 日々 | Comments(0)

シロクジラ 可憐な収縮

 どういうスタンスで行くかずっと決めかねていたのだけれど、日記「のように」書くことで、ともかくも始動することにした。

2004.9.29(水)台東区立中央図書館へ。行くのは二度目。世界文学全集は揃ってないようだ(本当はどうなのかと思ってウェブで調べかけたら、図書館別の検索になっていなくてやりにくい。『ボストンの人々』の月報はなさそう。〈集英社ギャラリー世界の文学〉の「アメリカ文学」をためしに開くと、収録作品名がカタカナで並んでいる。それはいいのだが、「シロクジラ オウゴンムシ ヒモジ」ってアナタ……。帰り、新仲見世まで歩く。図書館に着く前、横断歩道で信号を待っていたときに、前にいた、それぞれ自転車に乗ったおばあさんと小母さんの会話——「浅草寺へはどう行くんでしょう」「ここをまっつぐ行って右へ入ると……」を聞いていたので迷わないし、そこまで行けば超方向音痴でもさすがに勘が働く。「まっつぐ」と言う人を見たのは久しぶり。六区の映画館、昔の建築はすべて消え失せた。先頃生き延びた花やしき、見上げると遊具の廻転が建物のあいだに瞥見される(父の生家の元使用人が花やしきの木戸番をしていたので、父たちは家中で行ってタダで入れてもらえたという。戦前の話)。親に連れられてよく来た「つるや」へ。最後に来たときは一人で、それからどれくらい経ったろう。テーブル席なので昔上がった座敷は見えないが、つくりは変わっていないとおぼしい(一軒おいてマクドナルドの大店舗——何軒かぶち抜きの間口——になっていてちょっと驚く。きっともうずっと前からあるのだろう)。うな重、無印と「上」があって(昔はどうだったのか? 親がかりだったからわからない)、無印の1800円を頼む。昔は肝吸いをなめこ汁に替えて注文したもので、品書きにはなめこ汁になったセットもできていたけれど、やめておく。そうでなくても1800円だし。うなぎ、味はよいが、御飯にまでタレがかかり過ぎ。昔はここが一番と思っていたが、あらためて戸田の「うな仁」もなかなかのものだと知る。父は一時期、毎週のように戸田に来て、私を連れ出してうな仁へ行っていた(毎週では飽きると贅沢を言って、こっちは天ぷら定食にしたりした)。つるやはおこうこだけだが、うな仁はもう一品ついてくるし(それともあれは「松」だったからか?)。ごはんにタレがしみ過ぎでは、おここで食べる余地もない。おかずが足りなくてごはんが余っちゃうのは困りものだが、過ぎたるもねえ。つるやは美味しくてあたりまえのような気がしていたので今回普通の味と思ったが、それは不味いうなぎを食べつけないからかもしれない。

 降り出した雨の中をバスで帰り、借りてきた本を読む。『女が読む近代文学—フェミニズム批評の試み』(1992)から、田嶋陽子「駒子の視点から読む『雪国』」。田嶋さんの教え子Hちゃんが「田嶋先生は文学批評の人」と言っていた意味がわかるような(今は昔かもしれないけれど)。「差別以前の区別という、女性にとってこの上ない残酷な状況を、実に正直に、見事に描き切っている」という結び(川端は他者との対等な恋愛などという幻想からほど遠かったために、かえって描き切れたということ)、昨今の、区別は差別でないと公言する恥知らずどもに聞かせてやるべきだな。女の感触をなまなましく覚えているという例の「人差し指」を「ペニスのシンボルである」と言い切ってしまうところなどは粗い感じだが(ペニスへ移行させるよりも指のままにしておいておいた方が有効な場合もある。そう言って人差し指を突きつけるのは、ペニスを突きつけるのより相手を玩具視している度合が強いだろう。それにわざわざ「左手の」人差指に限っているし。さらに言えば、男根を持たなくても指は使えるので、これをペニスに自動変換するのはファルス中心主義では)。しかし、次の引用文を見てあらためて思ったが、これも有名な、蛭のような唇と膣のダブルイメージは、シンボルなどという言葉を持ち出すまでもなく、小説中に露骨に書かれていたんだな——「あの美しく血の滑らかな脣は、小さくつぼめた時も、そこに映る光をぬめぬめ動かしてゐるやうで、そのくせ唄につれて大きく開いても、また可憐に直ぐ縮まるといふ風に、彼女の体の魅力そつくりであった」。ここ、なんといってもポイントは、「可憐に」という形容でしょう。「三國志遺文——孔明華物語」にアプロプリエイト[流用]してやろうかしらん。その「華物語」で一部擬古文を使う勉強用に、全訳の対訳がありがたい「日本古典文学全集/落窪物語 堤中納言物語」も重いのを借りてきた。「落窪物語」ははじめて読む。例によって几帳のかげのお姫さまは手引きされて男が入ってくればやられるしかないが(けれど男がよい人で+朝になって女を見るとかわいらしい顏なので)、結局は幸せになる。やられること自体よりも肌着が粗末なのに死にたい思いをするという“リアリズム”。それにしてもこのお姫さまたち、男が帰ればまた横になっているし、足がないみたいだ。

『女が読む』より、漆田和代「「渾沌未分」(岡本かの子)を読む」。『渾沌未分』は未読だが、自慰の描写ではないかという指摘面白し。漆田さんは居酒屋じょあん代表とあり、ウェブで調べると今もそうだった[現「花のえん」]。イメージ&ジェンダー研究会で藤木直実さんが森しげについての発表をしたときのコメンテーターでもあるとわかる。つるやのうなぎ腹持ちがよく、これは不規則な生活のせいだが頭痛がして、夕飯抜きで寝てしまい、また起きる(こういう生活がいけないのだが)。関礼子「闘う「父の娘」—一葉テキストの生成」、小林富久子「『女坂』—反逆の構造」も読む。桃水に師事する以前の一葉の習作はじめて知る。「 人中へ顏を出さないなんかつていふのは昔の事ですわましてわたしらなんざ何かまふことが有ますもんかいくらでも御金のとれることをして早くよくなる工夫をするのですもの夫に最下等の七銭より外とれないだろふといふこともなかろうかとわたしや思ひ枡わ[中略]ネー兄さんどうぞ出して頂戴な」ううむ。一葉の日記に文語でいきいきと書かれた桃水との会話(おしるこを手づからすすめられたり)、実際にはどう喋っていたのだろうと友人に言ってそのとおりだったんじゃないのという答えが返ってきたことがあるが、むろんそんなことはありえない(千束あたりだから、「まっつぐ」と言っていたかも)。デリダの「ジャンルの掟」という言葉、バーバラ・ジョンソンの『差異の世界』で引かれていたのか(関論文)。今度調べてみなければ。30日朝、頭痛おさまらないまま出勤。
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by kaoruSZ | 2004-09-30 18:36 | 日々 | Comments(0)

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連載終了
【4月】“砂男、眠り男――カリガリ博士の真実 (共著)
再録先→http://indexofnames.web.fc2.com/caligari/caligari_index.htm
2011

【12月】“中つ国の歴史”を読みながら――重ね書きされた「シルマリリオン」
◆新連載<鈴木薫の研究手帳>はじまりました。(2010年12月記)
【8月】男といふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島
再録先→http://indexofnames.web.fc2.com/etc/etc_index.htm
【4月】“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの 第一章 エルフの原罪
 第二章 ナン・エルモスの森でつかまえて
 第三章 では、ホビットは?
 (共著)
2010

【12月】人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説
【8月】〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉――男性のホモエロティックな表象と女性主体(下)
【4月】〈あたしは腐女子(クイア)だと思われてもいいのよ〉――男性のホモエロティックな表象と女性主体(上)
2009

【12月】〈ホモソーシャル〉再考(1)
【8月】“それはヴァギナではない”――Identification with a certain kind of male subjectivity
【4月】私たちは「表象の横奪」論 をほってはおかない
2008

【12月】緊急座談会「 『鋼鉄三国志は〈事件〉か」 by 鋼鉄オールキャラクターズ
【8月】やおい的身体の方へ
【4月】愛の再発明 あるいは愛される機械
2007

◆「カルチャー・レヴュー」休刊ならびに季刊「コーラ」創刊に伴い、同誌連載 <映画館の日々>も、<新・映画館の日々> と名を改め、新雑誌「コーラ」に引越しました。(2007年4月記)

◆以下は黒猫房主 主催のメール&ウェブ ・マガジン「カルチャー・レヴュー」のために書いた評論。

【11月】それが物真似であることが私たちにわかるのは――Emperor in Soclovland(2)
【9月】(番外編)フェミニズム、科学、身体性――f事件を散歩する
【7月】(番外編)うたかたの日々
【5月】成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](3)—終りへ向って
【3月】(番外編)長い髪の少女あるいは同一化の欲望—やまじえびねのレズビアン・コミックについて
【1月】成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](2)—物語に抗して
2006

【11月】成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](1)
【9月】成瀬巳喜男の日々の泡
【7月】イーストウッドはフェミニストです(か)—『ミリオンダラー・ベイビー』の場合
【5月】薔薇の名前、作者の名前—黒澤明論のはるか手前で
【3月】足と背中、わだかまる歩み—増村保造論のための走り書き
【1月】地上はまだ思い出ではない—浜野佐知監督『百合祭』
2005

【12月】(番外編)猫撫で声のイデオローグ—三砂ちづる『オニババ化する女たち—女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)を読む(2)
【11月】(番外編)猫撫で声のイデオローグ—三砂ちづる『オニババ化する女たち—女性の身体性を取り戻す』(光文社新書)を読む(1)
【9月】ホモソーシャリティの廃墟へ—クリント・イーストウッド論のために(2)
【7月】ホモソーシャリティの廃墟へ—クリント・イーストウッド論のために(1)
【5月】 日本のレズビアン映画をヴィデオで見る
【3月】ますます不思議な小津安二郎
隔月掲載「映画館の日々」
2004
    
アンジェンダレス・ワールドの〈愛〉の実験 
巻末の映画アンケートにも回答
2003
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:22 | 寄稿先へのリンク