おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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映画も原作もまだまだ作業中ですが、色々と調査の進展はあったので相方の@kaoruSZさんの方のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZをご覧下さい。ところで私からもちょいと楽しい中間報告を。短編集第一巻の『シャーロック・ホームズの冒険』を精読して割り出した、重要なお話リスト、そしてそのものズバリ、この巻の登場人物たちのガチホモ紳士録であります。というわけで【ネタバレ注意】それではどうぞ♪

『シャーロック・ホームズの冒険』所収の短編中で特に重要なエピソード
「ボヘミアの醜聞」
「赤毛組合」
「ボスコム谷の惨劇」
「くちびるのねじれた男」
「緑柱石の宝冠」
以上、全12編中5編。

【ネタバレ】ガチホモ紳士録【注意】

その1.シャーロック・ホームズ氏──言わずと知れた我らが主人公。証拠は多すぎるので割愛。というか、それを核心とした彼の一連の秘密を探り出すのが全編を通して読者に課せられた使命であると言っても過言ではない。

その2&3.ジョン・クレイ氏とその相棒──必要に応じて誰にでも化けられる、年齢不詳で札付きの知能犯。女のような白い手と親密な同性の相棒の持ち主。…誰のことだろうね。

その4&5.ジョン・ターナー氏とチャールズ・マッカーシー氏──愛してるから憎いのよ!金が目当てだったのね!

その6.ネヴィル・シンクレア氏──妻子ある健全な家庭人…と思いきやの二重生活者。我らが主人公と同じお店の常連さんです。気になる方は『ドリアン・グレイの肖像』をどうぞ。そっくり同じお店が出てきますよ♪二重生活の醍醐味については『ジキル博士とハイド氏』もよろしくね♪

その7&8.アーサー・ホールダー君とサー・ジョージ・バーンウェル氏──パパに怒られてでもあんなに貢いだのに!イトコと僕に二股かけてたなんて許せない!こんな冠なんかこうしてやる~!…「嫉妬とは緑の目をした怪物で、人の心を食い荒らして楽しむ」byシェイクスピア

はっきりわかる人たちは以上の通りだが、「ボヘミアの醜聞」も実は…。まあ、ともかく上で挙げた面子全てが先に述べた重要なエピソードの登場人物、かつほとんどの場合カップルなのは一目でわかるだろう。彼らの登場するエピソードにおけるホームズ自身の言動や行動も非常に示唆的なので要注目。あくまでヒントのつもりで半ばおちゃらけた調子で書いたが、シリアスな読解にはぜひ各自で取り組んでいただきたい。おそらくそれぞれに私も気づいていない発見があることだろう。

彼らの繰り広げた事件としてのドラマは、実は裏テーマであるホームズとワトスンの関係をめぐるドラマの展開の伏線であり、それ自体としては読者に明示されなかった彼らの秘密に対する、時と場所を違えた絵解きでもあるのだ。「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、言うまでもなくホームズ物語の全編に渡って繰り返し描かれる「悲劇の元凶」であり、そしてこれらは一見ヘテロセクシャルな関係に置き換えられている場合でも、全て作品そのものの根底的なテーマである「同性愛」と緊密に結びついている。

ある意味ネタバレだが、大長編としての『シャーロック・ホームズ』の物語は、構成としては「最後の事件」までを境に完全に第一部と第二部に分かれており、しかもラストは作品のテーマと真のドラマの展開を把握した上で読者が並べ直さなければ“絵”として完成してくれない仕掛けになっているのだ。

だがひとまずは長編の『緋色の研究』『四つの署名』そして『冒険』『回想』の短編集二冊分までを読み込めば、そのラストにあたる「最後の事件」の真の内容を理解するには十分である。そしてこの後に来る「空き家の冒険」以降の第二部の構成と重要なエピソードは、実は意識的な第一部の繰り返しなのだ。

また、この大長編を貫く縦糸はホームズとワトスンの関係性をめぐる物語であるのは確かだが、実はその明示的な開始地点は二作目の『四つの署名』からであり、それとは別に最初の『緋色の研究』から始まっており、かつ先述した二人の物語と絡み合いながら並走しているもう一つのテーマがある。

それは最初は完全に読者の代理人である、自身には秘密の無い常識的な視点人物として登場し、明らかに特異な人物であるホームズと関わりを持つことになったワトスンの疑問として明示されていたもの──つまりホームズに対するWho are you? という問いかけである。

語り手としてのワトスンは、同時にこの問いに対する読者の代理としての探偵役でもあり、ホームズに関して彼の知りえた情報は、ある時点までは確かに読者のそれとほぼ比例するものであった。つまり読者はワトスンを信頼し彼に完全にシンクロして読み進めることを当然の前提として刷り込まれている。

だがワトスンは実は物語の途中から完全に読者を裏切っており、それによってホームズに対するWho are you?という問いは、読者に代わってそれを追求してくれる作中人物を失うことで完全に宙に浮いてしまうのだ。そしてそれはこの物語全体の「真の結末」が隠されていることとパラレルである。

早い話があの「最後の事件」における語りから囮であるモリアーティを取り除くことで垣間見える真実とは、ワトスンが読者を置き去りに一人でホームズの「正体」を知ってしまったこと、それこそが真の「大事件」に他ならず、それによってワトスン自身も、読者に対する“裏切り者”になってしまったことなのだ。

要するに、「最後の事件」の詐術を弄した曖昧な書き方そのものが、ワトスンが読者の代理人であったそれまでとは正反対の立場──ホームズとその秘密を共有し、それを読者の目から守るべき立場に立たされてしまったからなのである。

そしてこれ以降のワトスンの記述と彼の実際にとったであろう行動は、全てこの「ホームズと彼の秘密を守る」という目的に沿ったものであり、読者に正確な情報を伝えることなど三の次なのだ。それに気づかずに読み進めても、侵入者を拒むための迷路に引っかかったように真相からは遠ざけられてしまう。

そして真実を知るためには読者自らが、ワトスンがその代理人であることを放棄した問い──ホームズへのWho are you?を自力で追求することを継続しなくてはならず、そのためにはワトスンが隠したがっていること、隠しつつも示唆していることに敏感であらねばならないわけである。

実は読者はこの物語の真相を探るための努力を通じて、図らずもワトスンが辿ったのと同じ道を行くことになるのだ。それは「誰かを理解すること」と「誰かを愛すること」との幸福な一致の──つまりは理想化された究極の“恋愛”の軌跡を辿ることであり、それは“論理”と“感情”のペアをめぐる「愛の再発明」の物語なのである。そしてそれはまた、“知的なもの”と“性的なもの”との統一された調和こそが芸術の源であり、この物語の源泉であることをも意味しているのだ。この物語は本質として“恋愛小説”であり、“芸術家小説”なのである。


P.S
【ヒント】「プライアリー・スクール」を「サセックスの吸血鬼」と重ねて読むとわかる前者の真相が色々衝撃的です。そりゃ口止め料1万2千ポンドでも安いわけだよ公爵様。いやマジで普通は鬼畜外道って言いません?あの秘書は可哀相すぎるが、結果としては彼にとっても生き地獄からの解放だったろう。
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by kaoruSZ | 2012-12-14 16:15 | 批評 | Comments(0)
※続編あり

モリアーティ教授について事実であろうと判断できることは、ホームズが「世間にも知られている事実」として語っていた経歴、彼が何らかの犯罪に手を染めており、ホームズにその証拠を握られて社会的な名誉を失い、おそらく逮捕される前に自殺したこと。そしてワトスンが彼についてホームズから話を聞いていたこと。彼にジェームズ・モリアーティ大佐という兄弟がおり、この人物が「最後の事件」でのホームズの失踪から二年後に、モリアーティ教授の名誉を回復しようとして公開状を持って世間に訴え出たこと。だがどれもあの「最後の事件」には無関係なのだろう。本当はワトスンがあの時起きた出来事についてそのままでは書けないものをなんとか形にしようと決意したのとたまたま同じ時期に、モリアーティ大佐による彼の兄弟の名誉回復のための訴訟が起こったため、それにカムフラージュのネタの着想を得たに過ぎないのだろう。

モリアーティ教授の職歴や年齢については事実であろうから、彼が少なくとも初老に達していたインテリであり、彼が行なっていた悪事が知能犯としてのそれであり、そして自分が計画した悪事の直接の実行犯として、複数人のごろつきを使っていたのも事実だろう。だが決して「犯罪界のナポレオン」などという妄想じみた万能の悪ではあるまい。彼の犯罪の証拠を握ったホームズによって警察が動き、先に実行犯だったごろつきたちは皆逮捕されたものの、モリアーティ教授は最初の手入れから逃れ、そして死によって自らの名誉を守ることを選んだのであろう。

そしてこのモリアーティ教授の自殺によって幕を閉じたであろう事件は、どの程度かは不明であるが「最後の事件」より以前のものであるのは確実であり、おそらくその前年にあたる1890年にワトスンが記録したという三件の事件のうちのいずれかである。ワトスンはモリアーティ教授に関する事件の顛末をそれなりにリアルタイムでホームズから聞き知っていたと思われる。つまり、二人のモリアーティに関する会話の内容は、誇張され歪曲されてはいるものの、まったくの事実無根ではあるまい。だがそれは決してあのスイスへの心中旅行の道中で交わされたものではないのだ。

ワトスンが「最後の事件」冒頭で「私の知るかぎりにおいて、この事件のことがおおやけに報道されたのは三度だけである。1891年5月6日にジュルナル・ド・ジュネーヴに載った記事、同5月7日にイギリスの各紙に載ったロイター通信、そして最後が前述の公開状である」と述べ、そして最初の二つはごく簡潔な記事だったが、最後のものは事実を完全に歪曲しているのでここでそれを明らかにするのだと言って「最後の事件」当時についての記述に入るのだが、これは完全に継ぎ目の見える見え透いた詐術である。そもそも最初の記事はその新聞の名前からして、ホームズが行方不明になったライヘンバッハの滝のある地元スイスの現地報道であり、その翌日のロイター通信の記事は知らせが本国イギリスにも一日遅れで伝わったことを示すものだろう。そして最後のモリアーティ大佐の公開状は、ホームズによるモリアーティ教授への捜査の不当性を訴えるものではあるにしろ、実はホームズの行方不明とはまったく無関係なものなのだ。そもそも「最後の事件」に書かれているようにホームズとモリアーティが格闘の末に滝壺に落ちた可能性があったのであれば、それは立派な殺人事件であり、その報道も「簡潔な記事」で済んだはずはない。そしておそらくリアルタイムで報道されたであろう事実は、「友人と保養のための旅行に来ていたシャーロック・ホームズ氏がライヘンバッハの滝付近で目撃されたのを最後に行方不明となった。同行していた友人の証言によると、失踪当時の氏は情緒不安定に陥っており、錯乱して発作的に滝壺に飛び込み自殺を図った可能性がある」といったところだろう。

そしてどう考えてもワトスン宛に残されていたホームズの遺書の本当の内容が、すべてを公にできるようなものだったとは思えない。それでもあらかじめ財産を整理してマイクロフトに託したこと、「奥さんによろしく」という文句があったこと、そして結びのワトスンへの呼びかけなどの細部は事実と一致するだろう。

また、「空き家の冒険」でワトスンはホームズと再会するが、これは別にドイルが無理やりホームズを生き返らせたわけではない。「最後の事件」における結末のそもそもの意味が「ホームズが死んだ」ことではなく、「ホームズがワトスンの前から姿を消すことを選んだ」ことだからだ。きっぱり殺そうと思えばワトスンの目の前ではっきりとホームズを死なせればよかったわけで、そうではない時点でおのずと察しがつくというものだ。

【追記】
12月3日
朝ポストした文章をエントリーとして載せてもらったが、その後はっきりしたことを補足。上のエントリーではモリアーティ教授の兄弟の名前が「ジェームズ」だったように書いたが、皆さんご存知のようにこのファーストネームは「空き家の冒険」ではモリアーティ教授本人のものとされている。

で、結論から言えばこのファーストネームはモリアーティ教授本人のものに間違いないのだが、同時にこの名前が「最後の事件」の際には彼の名誉回復訴訟を起こした兄弟のものとされていたのも必然であり、ドイルのミスではない。これは巧妙なヒントなのだ。

また、このモリアーティのファーストネームが明かされる場面が、モラン大佐の経歴について語られるのと同じ場面であることは、実はそれ自体が種明かしに等しいのだ。ワトスンはやはりドイルの分身である。この詳細についてはいずれ私から語ることもあろうが、それよりぜひ各自で謎を解いてほしい。

12月6日
3日のツイートのヒントの続き。相方に難しすぎると言われてしまったし、自分でもこれだけじゃわからないなと思い直したので。実は「ジェームズ・モリアーティ」も「セバスチャン・モラン」もおそらく彼らの本名ではないということ。正確にはそれぞれ姓と名前の「半分が本当で半分が嘘」の組み合わせ。

これは名前自体が「虚実の継ぎ目」を象徴しているわけで、要は彼らが登場する「最後の事件」と「空き家の冒険」がホームズとワトスンの間に本当にあった出来事のすり替えであり、モリアーティもモランも“作者”であるワトスンが(作品世界における)実在の人物をモデルにキャスティングした囮なのだ。

そしてホームズとワトスンの間に起きた出来事が本当はどんなものだったかわかれば、「何が実際には起きなかったことか」も同時にわかる仕組みになっている。そして読者に示されたあの「虚構の出来事」の中でのモリアーティとモランの役割が理解できれば、同時に実在した彼らについても推測がつく訳だ。

「最後の事件」でも「空き家の冒険」でも、実際にはホームズとワトスンはモリアーティともモランとも顔を合わせていないし、ワトスンに至っては作品世界の時系列のどの時点でも、ホームズからの伝聞を除いてはおそらく彼らの姿すら見ていないのだ。つまり彼らについての記述は実は全て“引用”である。

自分で真相を探ってみたい方は、まずは原作のテクスト以外にシェイクスピアの『十二夜』を読んでほしい。これは捕縛されたモランにホームズが言った「旅路の果ては恋人同士のめぐりあい」という台詞の出典だが、実は“引用”されているのはこの台詞だけではなく、非常に重要な手掛かりになっている。

そして「最後の事件」ではモリアーティについて、「空き家の冒険」ではモランについて、ホームズがワトスンに話して聞かせる場面に注意を払ってほしい。重要な共通点が見つかるはずだ。ネタを明かしすぎかもだが、特に後者の場面では実はあからさまに“記述の引用”を示唆するアイテムが登場している。

また、実はこの会話の場面に限らず、全ての出来事はそれが起こった後から“作者”であるワトスンが再構成したものであり、要は読者はあらかじめ彼の掌の上で踊らされているようなものなのだ。彼は決して彼自身がそう装っているような、鈍感な善意の記録者にすぎない素朴な人物ではない。

つまり小説としての『シャーロック・ホームズ』の読解とは、いわば読者とワトスンとの真剣勝負なのである。そしてこれは言うまでもなく、メタレベルでは読者とドイルとのそれなのだ。私たちもまだ始めてから日が浅いが、こんなに面白いゲームは無いと言える。ぜひもっと多くの人に参加してもらいたい。
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by kaoruSZ | 2012-12-03 10:39 | 批評 | Comments(0)

虔十公園林再訪

虔十公園林再訪   死後の作品の運命    


 宮澤賢治は死の床で自分の書いたものについて父親に、あれは迷いの跡だから捨ててくれとカフカのようなことを言っていて、そんなことをしそうにない相手に言ったのもカフカと同じだが、無論これは行く末を見届けることのできぬ作品への執着の裏返しに過ぎなくて、カフカは奇妙な小品『家父の心配』で、何の用途も目的も無く家の中を動き回っていて自分の死後までも生きつづける謎の物体オドラデクに対する父の気がかりという形でそれを書いたが、賢治は、「雨ニモ負ケズ」のデクノボーそのもの(ただし賢治のような実践は伴わない)である虔十=賢治の死後、「アメリカで教授になって故郷へ帰って来た」ような人によって真価を見出され(そのような“教授”自体彼には死後の栄光と同じほど空想的な存在だったろう)、虔十が作った杉林が遠い未来に「虔十公園林」としてその名を刻んだ「青い橄欖岩」の碑によって顕彰されるという、願望充足の夢それ自体を作品化した。

 どんな王侯の大理石や金の記念碑も私の詩よりは保たないからこの詩に歌い込まれた君は永遠に生きると英国の文豪も愛する青年に捧げた詩で言っていたが、賢治も本物の石碑より長生きする(無論その時点ではそれが確信できた訳ではない)作品の中に、現実の栄光に先んじて紙の上の顕彰碑を据えた訳だ。

『虔十公園林』は児童文学全集の最初に買ってもらった一冊「日本童話名作集」に入っていて、私が初めて読んだ賢治の作品だったと思う。その後いとこのお下がりで『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』『銀河鉄道の夜」『グスコーブドリの伝記』が一冊になった本をもらい、他に雑誌のダイジェストか何かで『注文の多い料理店』を読んだ。そして多分それより前に、「偉人」のエピソードを子供向け読み物にした本(これもお下がり)に入っていた、風変りな実践家(他の人とは違う先覚者で商品としての花を育てる人)として描かれた賢治像にも出会っていた筈だ。

『虔十』が他の「お話」と異質なのは一目で見てとれた。筋立ての特異な面白さも幻想的な道具立てもなく、エキゾティックな命名による異化もない(人名だけではなく、例えば『グスコーブドリの伝記』のオリザの正体にすぐには気がつかなかったが、そう名づけられていなければ普通に東北の悲惨な冷害と飢餓の話である)。

『グスコーブドリ』は、思い返すと、紫がかった薄墨か淡彩の抑えた色調で描かれた印象で、ブドリと妹のネリは飢饉以前は森で山鳩の鳴きまねをしたりブリキ罐で百合の花(だったか?)を煮たりして遊んでいて、およそかけ離れた環境にあって読んだ私にもその親密な空間は伝わってきた。東京で一番緑の少ない区で生れ育ち、庭の外へは一歩も出ずに弟と日々遊びを考案するのとそう違っては見えなかったのだ。

 火山島にしても博物館の模型のようで(実際クーボー大博士によってそのたぐいの仕掛けが示されもする)、要するに全体が作り物めき、箱庭めき、人形劇の舞台めいている。それが子供にとって魅力的な空間であることは言うまでもない。『銀河鉄道の夜』でも、少年だちが旅する銀河鉄道は、天澤退二郎も指摘するようにあらかじめジョバンニの回想の中でカムパネルラの所有する鉄道模型として示されている上、「午後の授業」で先生が教えるのは天の川が実は星の集まりであることだし、夜の町で照らし出された飾り窓にジョバンニが見出すのは、これから旅する世界の見取図に他ならぬ星座のミニアチュールである。

 そうやって密かに準備された断片があたかも計画されていたかのように組み合わさって、気がつくと昼の残滓のブリコラージュによる《夢の仕事》そのものとして汽車は走り出している。そこで彼が見出すカムパネルラは、私の読んだ古い版では、死者であることをすでにジョバンニが知っていることになっていた。いや、正確には、「カムパネルラの死に遭ふ」くだりが入眠の前に置かれることで、カムパネルラ自身は自覚していないその死がジョバンニには既定の事実であり、そのことが各自の態度に反映しているかのごとき効果か生じていたのだ。今では賢治がそのように原稿を配した事がないのを私たちははっきり知っている。

 それにしても、“お下がり”の版では夢の始まりと終り、『銀河鉄道の夜』が未完であることの明確な指標であるその部分に、(ここで何枚かの原稿が失われています)という文字が入っていて、もはやどうすることもできないとりかえしのつかないことがこの世にはあるという事実を、幼い子供にまで告げ知らせていたのだった。
 作者の死による取り戻しようもなさとはまた、それが自然発生的な伝承のたぐいではなく、固有の生と死を持つ作者によって操作されたものだという虚構性についての意識でもある。初期形ではジョバンニの夢を統御していたとおぼしい、「遠くから考へを伝へる」実験をしていた、虚構性そのものの具現とも言えるブルカニロ博士が夢のはじまりと終りに介入しているのだが、私が最初に読んだ版では覚醒後にのみ登場してジョバンニと言葉を交わす博士は、今日知られているところでは最終的には作品から消える運命で、入眠時と目覚めの際の原稿の混乱はその消滅の過程を物語るものであった。

 虔十の杉林に言いがかりをつけ、暴力さえふるった隣人平二の死を、賢治は、平二が虔十の頬を「どしりどしりとなぐりつけ」る憎むべきエピソードの直後に告げるが、読者が快哉を叫ぶ暇など無い。虔十自身の死がその一つ前の文で、「さて虔十はその秋、チブスにかかって死にました」と、これ以上ない簡潔さで記されているからだ。「平二もちょうどその十日ばかり前に、やっぱりその病気で死んでいました。」読者にほっとする間を与えぬ語りと時間のこの捩れ。杉苗を植えた者と杉林を脅かす敵とをたった二行で片づけた語りは、「そんなことはいっこうかまわず、林にはやはり毎日毎日子どもらがあつまりました」と続ける。そして、「お話はずんずん急ぎます」というあの驚くべき一行が来る。これは生きたまま死後へ踏み込んで行こうとする賢治の宣言であり、「そんなことはいっこうかまわず」とは、通常子供は作者についてなど気にしないという以上に(あるいはそれを口実に)、「虔十は……死にました」というノイズにできるだけかまうまいとする、死という事件をかぎりなく薄いものにしようとする、語りの意思のあらわれだろう。

「つぎの年」、村には鉄道が通り、停車場ができる。「そこらの畑や田はずんずんつぶれて家が立ちました。いつかすっかり町になってしまったのです。」しかし虔十の林だけは、「どういうわけかそのままのこっておりました。」「子供らは毎日毎日あつまりました」(とは、これで三度目の繰り返しになる文章である)。「虔十のおとうさんも、もう髪がまっ白です。まっ白なはずです。虔十が死んでから二十年近くなるではありませんか」と、賢治の筆はここでも僅かな行で時の経過を、変ったものと変らなかったものとを書きおおせる。これに匹敵する変化は『グスコーブドリ』にも見られるが、それはブドリが大人になるという、読者である子供には不可能な時間の経過があるからで、実は『虔十』の場合もここで真に必要だったのは、子供が大人になるまでの時間、つまり杉林に「毎日毎日」集まっていた子供たちが成長して、いったん村を離れて後、虔十のことを思い出し、杉林とその作者を別の目で見るようになるまでの不可能な跳躍に他ならない。

『虔十』が『グスコーブドリの伝記』や『銀河鉄道の夜』と異質なのは、そこがイーハトーヴなどではなく、賢治が現に生きていた辺り、鉄道が通ることによって早晩変貌を遂げ都市化してゆく東北の村であったからでもあり、子供の読者にとっても、それはジョバンニたちのいた架空の舞台ではなく、自分の生きている場所と地続きであることは明白だった。
 そこで「二十年」が経つ。子供にとって永遠と同義ですらある時間によって隔てられたその場所は、私にとって過去だったのか未来だったのか、賢治がすでに物故した「昔の人」であるからには、それは過去だと感じられたのだろう。第一、物語というものはすべて、過去のある時点ですでに起こってしまったもの、「とりかえしのつかないもの」として語られている。

「ある日、むかしのその村からでて、いまアメリカのある大学の教授になっている若い博士が、十五年ぶりでその故郷へ帰ってきました。」昔の面影をさらに留めぬ故郷で、唯一、変らないものを彼は見出す。「ああ、ここはもとどおりだ。(…)木はかえって小さくなったようだ。ああ、あの中に、わたしや、わたしのむかしの友だちがいないだろうか。」かつて虔十の林で遊んだ子供がそうなったという博士の顔は、私には想像できなかった(大人とは子供のあらゆる想像を越えたものだ)。とはいえ博士のこの感慨は、成長するにつれて共有せざるを得なくなったものではある。ここは今学校の運動場なのかという博士の問いに、彼に講演を頼んだ小学校長は「ここはこのむこうの地面なのですが、家の人たちがいっこうにかまわないで、子どもらのあつまるままにしておくものですから」まるで附属の運動場のようになってしまったが本当はそうではないと答える。「それはふしぎなかたですね。いったい、どういうわけでしょう」

「ここが町になってから、みんな売れ売れともうしたそうですが、年よりのかたが、ここは虔十のただひとつのかたみだから、いくらこまってもこれをなくすることはどうしてもできないとこたえるそうです。」そう言われてついに博士は思い出す。「その虔十という人は、すこしたりないとわたしらは思っていたのです。(…)毎日ちょうどこの辺に立って、わたしらの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ、まったく、だれがかしこく、だれがかしこくないかわかりません。ただどこまでも十力の作用はふしぎです。」その場所を「虔十公園林と名づけて、いつまでも保存するようにしては」と博士は提言する。「さて、みんなそのとおりになりました。芝生のまんなか、子どもらの林のまえに、「虔十公園林とほった青いかんらん岩の碑が立ちました。(…)虔十のうちの人たちは、ほんとうによろこんで泣きました。」

 そして実際「みんなそのとおりに」なったのだった。生前ほとんど無名だった賢治の死後、作品は出版され、その遺した原稿は花巻空襲からも家族によって守られて、「博士」たち(アメリカでなくフランス帰りだったかもしれないが)によって研究され、さらに真価を明らかにされ、編纂されて、それにも賢治の弟は協力を惜しまなかったのだ。「むかしのその学校の生徒たち、いまはもうりっぱな検事になったり、将校になったり、海のむこうに小さいながら農園をもったりしている人たちから、たくさんの手紙やお金が学校にあつまってきました。」時代を感じさせる肩書だが、これは権威主義によるのではない。彼らはみな、昔、虔十の林で作者のことなど気にもかけずに遊んだ者たち、つまり子供の頃に賢治の童話に出会った読者という資格で名をつらねている。

 しかしこれは子供こそが理想の読者だということではない。子供らは虔十を「少し足りない」と思っていたのであり、“イツモシヅカニワラッテヰル”のを「馬鹿にして笑っていたのだから。「ああ、全く、誰が賢く、誰が賢くないかわかりません」とは、子供は賢くなかった、虔十の価値をわからなかったということだ。虔十を馬鹿にしていたのは子供ばかりではない。「その芝原へ杉を植えることをわらったものは、けっして平二ばかりではありませんでした。あんなところに杉などそだつものではない、底はかたい粘土なんだ、やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんながいっておりました。」
 虔十とは、賢治が自身をカリカチュアとして自作に書き込んだものであると考えるならば、隣人の平二とは宮澤賢治の仕事を理解しなかったすべての者たち、作品についてのみならず、いつまでも親がかりでわけのわからぬ活動を続けていた(しかし虔十同様、家族からは経済的なものも含めた庇護をうけ、モラトリアム状態を続けていられた)肺病やみの賢治に無理解な目を向けた者たちの謂でもあろう。

「雨ニモマケズ」が叙述するのは周知の通り「サウイフモノニワタシハナリタイ」という賢治の理想像であろうがまた他人にそう思われたい姿でもあったろう。このうち「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」というあたりは虔十とも共通する一方、「雨ニモマケズ」にあって虔十にないのは、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という認識の人、また「野原ノ松ノ林ノ蔭の小サナ茅葺の小屋ニ居テ」という転調以降の東奔西走して献身する行動、実践の人としての姿である。

 一方で虔十には賢治が「雨ニモ負ケズ」のような公式の自画像(手帳のメモであり本人が望んだものでないにせよ)ではただの一言も触れなかったもの、すなわち作者としての彼自身という役割が与えられている。しかしここにはある種のねじれがあるように思われる。虔十はその為す所を知らざる者であるが賢治は違う。そして実践者賢治の姿が今日にまで伝わるのは文学者賢治がいたからだ。
 
 賢治の作品においてしばしば実践者の死は限りなく重い。とりわけ自己を犠牲にして得られるものは大きい。よだかはたんに誰かの餌食になるのではなく《星》になり、「今でもまだ燃えてゐ」るし、ブドリの死は農家の一軒一軒の肥料設計の相談に乗る(死の前日も賢治がやっていたことだ)のではなく、一度に気象を変えてしまう。彼らの死には「みんなのさいはひ」が賭けられており、実際、得られるものの大きさゆえに釣り合いが取られたと納得がゆく。少なくとも納得されうる。カムパネルラの死の向うにはジョバンニの未来が開けている。

 しかし『虔十公園林』における、羽毛のように軽くかすめて過ぎられた死はそのようなものではない。何ものでもないかのように装う、事件性をかぎりなく稀薄にされた死、「お話はずんずん急ぎます」と語りによってあたかも路傍に打ち捨てられてしまったような死だ。
 その代り得られたものは《死後の生》、実践者ではなく作者としての死後の栄光である。博士たちは賞賛を惜しまず、家族は泣いた。大勢の人々が青い橄欖岩の碑を見につめかけたし、これからもやってくるだろう。そしてなお、“賢い”人々は例のアメリカ帰りの若い博士によって発せられた「十力の作用」という言葉をなぞり、知識を競い合う以上のことはできないだろう。子供たちのように雨上がりの木立のしたたる緑を喜ぶ大人は少なく、たとえ作品に近づきはしても、テクストを読む以外のことなら何でもするのにそれだけはしない人々が大半なのであるから。

『虔十公園林』はたんに無邪気なものを讃える作品ではない。杉林の入口の青い橄欖岩の碑を見て満足して帰ることのない者たちは、そこにひそむ悪意、呪い(杉林の迫害者平二は作者の道連れでさっさと殺されてしまう)、願望が成就される彼岸としての現世、すなわち未来において死後の作品の運命を見届けたいというむなしい望み、死の向うまで行けたかに見せかける語りの詐術を見出すことだろう。そして自分の価値がわからないふりをしてみせるという最高の傲慢さによって、無邪気さを演じ切った賢治=虔十の作家の業[ごう]が大人になった私たちの胸を打つのだ。
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by kaoruSZ | 2012-12-01 16:28 | 文学 | Comments(0)
前回の続きをtatarskiyさんが連続ツイートにしたので以下にまとめた。こんなことをわざわざ言うのは野暮であり馬鹿らしいのだが、一言だけ断わっておきたい。これはドイルの小説をネタにした“妄想”などでは全くなく、原文を偏見なしに読めばまさにそう書かれていると(ちょうどホームズの推理が彼がいなければ誰にも気づかれないままの事柄だとしても説明を聞けば納得できるように)誰にでも理解できることである。世の中には(たとえば)ワトスンの結婚の回数について片言隻語を取り上げた議論をして知的遊戯と称する人も多いようだが、これがそうしたたぐいと根本的に異なり、たんに“批評”であることも言うまでもない。(kaoruSZ)



「三人ガリデブ」でワトスンはなぜあんなに感激したのか


前回は原作の「最後の事件」と、「三人ガリデブ」「高名な依頼人」に出てくるワトスンの二度目の結婚の関係について触れたが、実はまだまだ細かい証拠はいっぱいある。あえて書かなかったネタも含めていずれ原作篇としてまとめるつもりだが、ここでは一つだけ追加しておきたい話を。

「三人ガリデブ」の、あの、撃たれたワトスンをホームズが介抱する場面。普通に読んでいて感動的なのは確かだけれど、よく考えるとワトスンの感激の仕方は非常に不自然なのだ。

なんで今の今まで自分を思いやっているのかも確信が持てないような相手に「多年にわたる私の取るにたらぬ、しかし心からなる奉仕の生活」というほどの無私の奉仕を捧げていたのか? それにここまで読んできた読者からすれば、ホームズがワトスンを信頼し必要としていたことはまったく疑う余地がない話。

つまり、ワトスンとホームズの間に読者には明かされていない事情があり、ワトスンの「奉仕」というのはそれに対してのもの、早い話が“負い目”があるからだったとしか考えられない。

彼の「この天啓の一瞬に頂点に達した」ほどの感激も、あの撃たれた自分を気遣うホームズの反応によって、“それ”が許されたこと、許されていたことを確信したからだ。先に挙げたエントリーに書いた話の続きだが、実はこのエピソードこそが、ワトスンが再婚に踏み切った直接のきっかけと見て間違いない。

ワトスンに、それがたとえホームズのためであろうとも再婚をためらわせる原因となっていた負い目、このエピソードはそれが払拭されたことを示している。もう言わなくてもわかるだろう。それはワトスンの最初の結婚と、そもそもそれに端を発した彼らの最初の破綻──あの「最後の事件」に他ならない。

あの一件の真相からすれば、ワトスンは一度はホームズを完全に追いつめて死なせたに等しく、本来ならモリアーティではなく彼こそが、ホームズと共に滝壺に身を投げるべき心中の片割れだったのだ。

彼はあの時ホームズが自分を道連れにすることを思い止まり、一人姿を消すことを選んだからこそ生きながらえたのであり、メアリーが死んで戻ってきたホームズが、実は自分に対して無言の内に償いを要求していることを知っていたのだ。

帰還したホームズから二度目の同居を申し入れられ、それに同意してからのワトスンの生活は、実はひたすらホームズに対して「あの時」を償うためのものだったのだろう。ワトスンがどれほど彼を愛していようと、再び彼を裏切ることなどありえなかろうと、「あの時」の負い目は彼らの間に、深い傷跡と無言のわだかまりを残していたのだろう。

だがワトスンは、今度こそホームズを守り抜くこと、二度と「あの時」と同じ思いなどさせないことを誓い、読者の前に示されている事件の際の直接的な暴力との対峙やホームズの心身のケアのみならず、おそらく彼らに向けられていたであろう、ありとあらゆる社会的な非難や疑いからも守り抜いていたのだ。皮肉なことに、そのためにワトスンに結婚歴があることは非常に役立ったに違いない。

だが、「三人ガリデブ」の事件の直前には、彼らはどうしても、もう一度明示的に“疑惑”を払拭する必要に迫られていたのである。それは何故か、私が皆まで言わずとも、この事件の冒頭でワトスン自身が触れているのでそれを確認してもらえれば十分だろう。

ワトスンには、疑惑を払拭するためにはもう一度どちらかが結婚するしかないこと、そしてホームズには到底そんなことは出来ない以上、自分が再婚するしかないことがわかっていただろう。

だが言うまでもなく「ワトスンの結婚」とは、ホームズにとってはあまりにもトラウマティックな思い出そのものであり、それは否応なくワトスンの裏切りを意味してしまうのだ。

たとえ頭では自分たちの名誉を守るためであると納得していようとも、いつホームズが「あの時」と同じ錯乱に取り憑かれるかもしれないことを、ワトスンは恐れていたのだ。それはそのまま、彼が本当に自分を許してくれているのかという恐れそのものであっただろう。

あの「天啓の一瞬」に、ホームズの反応からワトスンがすでに自分が許されていたことを悟ったのはなぜか。あの場面の状況での直接のメッセージ、それはホームズが「ワトスンに死んでほしくない」ことをはっきりと言葉に表したことだ。

これは実はあのライヘンバッハの滝の断崖での、置手紙を残しての失踪という行動によって示されていたのと同じものなのだ。それこそが彼らの苦い後悔の原点であり、ホームズが帰還してからの彼らの歳月は、すべてそれを取り戻すためにあったと言っても過言ではないのだ。

つまり、彼らの間に影を落とし続けていた「あの時」のリグレットは、ここで生身のホームズの「言葉」として解放されたのである。そしてそれはワトスンのホームズに対する“償い”の時の終わりでもあったのだ。

これが読者の目に見える形での彼らの“愛”のクライマックスなのは必然である。これ以降、ワトスンはホームズに「今度こそ最後まで一緒に生きるために」自らが再婚し、ホームズが隠棲し、そして再婚した妻が死ぬ時まで耐え忍ぶよう説き伏せたのだ。過去への償いではなく、共に生きる未来を摑むために。
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by kaoruSZ | 2012-11-25 06:02 | 批評 | Comments(0)
ドイルと因縁浅からぬロジャー・ケイスメントの件は鈴木薫のツイートの21日から22日のところhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121121にある話題。モリアーティの手帳やモランの風貌というのはガイ・リッチーの映画の話。「ケースメント」で検索しても実り少なかったが、写真は画像検索で多数見られる。(kaoruSZ註)
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「最後の事件」ノート                         

ふと思い立ってロジャー・「ケイスメント」で検索してみたらかなりマシでした。

http://d.hatena.ne.jp/Mephistopheles/20090124
http://ci.nii.ac.jp/naid/40016693804
http://b.hatena.ne.jp/complex_cat/Ireland/
>ロジャー・ケイスメントとは誰なのか?―コンゴ、同性愛、アイルランド蜂起 /友人の友人が彼の伝記をまとめ上げたが,そのドキュメントはアイルランド政府に押さえられた。かなりやばい話が入っているらしい。 2009/07/22


一番下のはその上の論文のブクマコメントで、大学関係者なら論文参照ネットワークで閲覧できるでしょうが、一般に出回っているものではないようなのが残念です。
ケイスメントは向こうではゲイアイコンとして知らない人はいないようで、モリアーティの手帳もモランの風貌もガチでオマージュでしょうね。

あと、『事件簿』読み返してて気がついたんですが、ワトスンの主観の中ではホームズと別居していてもほとんど「離れて住んでるだけ」に近い意識しかなくて、その時彼が結婚していたんだとわかるのは「白面の兵士」でのホームズの語りがあることでかろうじてです。
そしてワトスンの主観では一貫してホームズこそが最優先で、自分がどれほど彼に尽くしていたかについてはとても饒舌です。

で、諸々の状況証拠を合わせて考えるとですが、1902年6月末という設定の「三人ガリデブ」の冒頭(1925年1月発表)に何の説明も無く朝一緒にいる描写があるんです。そしてホームズともう一緒に住んではいないことを初めて彼が口にするのは、「三人ガリデブ」の三ヵ月足らず後(1902年9月3日)に設定されており、発表時期自体もその翌月と翌々月(1925年2月~3月)にあたる「高名な依頼人」冒頭です。
あのみんなが知ってる撃たれて介抱のラブシーンからほんの2ヶ月ちょいでいきなり再婚してて、しかも別居の理由が再婚であることを読者に言わないっておかしすぎますし、実際ほとんど続けて書いたに等しいでしょうからドイルの記憶違いとかでもありえません。

このことへの一貫性のある説明としては「実は二度目の結婚そのものすらホームズのためだった」ということしかありえません。そしてその理由は、メタレベルでの現実世界に対してのそれも含めて「彼と自分の名誉を守るため」以外には無いでしょう。だからメアリーの時とは違って妻に関して何一つ情報が無い。彼女に対するロマンスの実質なんて皆無だからでしょう。そして相手の女性がどんな人だったかも想像がつきます。
医者である彼に素直に依存してくれる、ひどいですがあまり長生きはできないことがわかっている相手。つまりは彼の患者でしょう。ワトスンがはっきり医者に戻っているのもそれと関連しているんでしょう。

で、さらに推測を進めると、どう考えてもホームズが戻ってきてからのワトスンが彼こそを最優先して守り抜くことを固く決意していたことは疑いようがない。そしてあの最後の事件こそが、メアリーとの家庭とホームズとの曖昧な関係との間で明らかに前者に傾いていたワトスンに、ホームズと一緒に死ぬ覚悟さえ決めさせる転機であったとしか思えない。だからあの表面だけでは意味不明な心中旅行の最中に決定的な何かがあったとしか考えられない。

で、あの例の電報の返事を受け取った後、帰れ帰らないの押し問答で30分費やして、その後はふらふらスイスの山の中をさ迷い歩いて死に場所を探していたとしか思えない“心楽しい旅”をしつつ、ホームズが「私たちがたとえどこへ行こうとも、執拗に後を追ってくる危険から完全にのがれさることはできないことを覚悟していた」という一連の流れ。
ホームズが自分でワトスンを連れ出しておきながら「帰国して医者の本業に戻りたまえ」とか言っているのは、本当は単に「帰れ」で十分なはずで、要は「メアリーのいる本来の家庭に帰れ」ということの置き換えでしょう。当然あの電報もモリアーティの一味云々ではなく、いきなり行方不明になったのであろうワトスンの消息を訊ねる連絡が来ていることを確認してしまったんでしょう。

そしてこの流れの中では、ワトスンが自分が「帰らない」ことを証し立てて旅を続けた、言い換えれば一緒に死ぬ場所を探すことに同意したとしか考えられないわけで、つまり橋に火をかけるような「後戻りできないこと」をしてやったとしか思えません。
要するに、あの電報後の押し問答から“心楽しい旅”が始まるまでの間に彼らはプラトニックではなくなっている。逆に言えば、だから死ぬしかないわけです。帰れるわけがない。ワトスンが帰れたのはホームズが死んだことで、“罪”を知る相手がいなくなったからにすぎません。
帰ってきてからではもう悪い夢だったことにしたいような話でしょうが。
それにしても空き家の冒険でホームズが帰ってきてからは、完全にいったんは忘れたことにした悪夢の続きみたいなもので、考えると怖い話です。そりゃ気絶もするわ。
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by kaoruSZ | 2012-11-23 21:07 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(4)          

tatarskiy

(3)から続く

手帳と鳩
場面は昼のエッフェル塔下のカフェへと移り、待ち合わせの時間に遅れて現われたホームズは、ワトソンにモリアーティを尾行して得た情報を話して聞かせ、画面にはその尾行の際の様子が映される。ホテルのラウンジで昨夜の爆破事件の記事が一面に載った新聞を広げているモリアーティ。そこにやってきたモランが「後四十分で列車が出ます」と出立を促す。二人がラウンジから出て行こうとすると、手前には眼鏡に白い髭面の老人に変装してこのやりとりを聞いていたホームズがいる。二人とは別の通路を通って先回りしつつ、早変りで今度はホテルの制服を着たポーターに変装すると、何食わぬ顔で、やって来たモリアーティの外套を預かろうとするが、鞄だけでいいと断られる。画面が一瞬カフェでの会話に戻り、ホームズが「だが……」と言葉を継ぐと、画面には再びホテルの廊下を連れ立って歩くモリアーティとモランの姿が映る。モリアーティがどこか嬉しげに「いつものあれをする時間なら十分あるだろう (We have enough time for me to indulge my little habit.)」とモランに向かって言い、モランも「ええ(Yes.)」と答えて微かに笑うと、画面はモリアーティが公園のベンチで鳩にエサをやりながら例の赤い革の手帳を広げている情景に切り替わる。ホームズの声がナレーションとして被さりつつ画面は再びカフェに戻り、モリアーティの言う「いつものあれ」とはチュイルリー公園の鳩にエサをやることで、列車の発車時刻までにそこから行ける駅はパリ北駅だけであり、そこからベルリン行きの列車に乗るつもりであろうことを突き止めた次第が語られる。

上の場面で表に出ている情報の中で最も重要なのは、モリアーティが「いつものあれ」と言っただけでモランには何のことか了解しうるという形で示される、彼らの日常的な親しさだ。おそらく彼以外にそれを鳩へのエサやりのことだと理解しうる人物は、彼らを尾行していたホームズのほかには存在しないのであろう。これまで詳述してきたように、モリアーティとモランの親密さは常にお互いだけに通じるなんらかの“合図”や“符牒”という形で表現されており、その形式自体が“言葉にできない秘密”を象徴している。

例の手帳はこの公園の場面が二度目の登場になる。先述したクライマックスでの種明かしの席で、ホームズは、変装してオスローでの講義に潜り込んだ時にモリアーティのポケットにあったこの手帳に目をつけていたこと、鳩にエサをやりながら手帳を開く彼の姿を見た時に、その内容が彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処を暗号化して記したものであることに気づいたこと、それ以来ずっと手帳を手に入れる機会を窺っていたことを自ら語っているが、繰り返しになるが重要なのは、手帳と暗号の初出がモリアーティとモランのやりとりの場面であったことであり、それ自体が彼らの秘密裡の“親密さ”の象徴であることだ。

そしてもう一つ重要なのは、ホームズが手帳に書かれていることの内容に気づいたのが、鳩にエサをやりながらモリアーティが手帳を開く姿を見ていた時だったと言っているのは、なぜ手帳の内容がわかったのかという合理的な理由付けにはまったくなっていないことだ。だが裏の意味を読み取れば、実は鳩へのエサやりというシチュエーションと例の手帳というアイテムの重なり自体が、「ホームズがモランと同様にモリアーティの秘密の内容を理解した」ことを意味しており、それはそのままホームズが“二人の秘密”について知っているということなのだ。繰り返し書いているが、モリアーティの陰謀とは完全に表向きの筋書きを構成する口実である以上、ホームズがモリアーティを尾行することで目にしたものは、実はこの場面に至るまでに観客自身が見てきたそれと同様、彼とモランとの親密さそのもの以外にはありえず、例の手帳とはその象徴であることを理解したからこそ入手することにこだわったのだ。

二組の“カップル”
そして次に、ある意味ダメ押しのような決定的な場面であるのが、これも先述した武器工場で、ワトソンが瓦礫の下からホームズを救出して互いの絆を確認する場面の直後のそれである。ホームズとワトソンの脱出が描かれた後、画面には先ほどワトソンがホームズを救出した瓦礫の山で、今度はモランがモリアーティを助け出そうとしている姿が映る。取り除けた瓦礫の下にモリアーティの姿を見つけたモランが「教授」と呼びかけると、モリアーティは呻きながらも懸命に顔を上げ、彼を制止するように片手を挙げながら「私は大丈夫、私は大丈夫だ。(I’m all right. I’m all right.)」と繰り返し、「私の世話をして時間を浪費するな。(Don't waste time attending to me.)」と命じる。丁度その時部下たちが駆けつけて来るが、モランは彼らを振り返ってドイツ語でホームズたちを追うよう命令すると、再びモリアーティに「必ず奴らを見つけます。必ず奴らを見つけます。(I’ll find them. I’ll find them.)」と繰り返し、怒りの表情でその場から立ち上がる。

この後ホームズとワトソンを追跡したモランは、他の部下たちがすべて返り討ちに遭い、自身もワトソンに撃たれて一度は倒れ臥したにも関わらず、執念で再び起き上がると、通りかかった貨物列車の貨車に乗り込んで逃げようとしていたホームズたちを目がけて発砲する。弾は彼らに同行していた案内役のジプシーの一人に命中し、もう一人のジプシーが悲痛な声で仲間の名前を叫ぶ。それを聞いたモランが肝心のホームズたちを撃ち損じたことを悟って執念深い怒りを滲ませた表情を映しながら、逃亡と追跡の場面は終わる。

ここに至る以前の場面では常に不気味なほど落ち着き払った態度で描かれていたモランに、これほどの怒りを覚えさせたのは、モリアーティに危害を加えられたことであるのは説明するまでもなく明らかだろう。この場面以外では、彼が殺人を実行したのはただモリアーティの忠実な手足として淡々と任務をこなしていたに過ぎず、彼がはっきりと自分で殺意を持って相手を殺そうとするのはこの場面だけである。モリアーティがモランに向けて自分が無事であることを強調し、自分の世話をして時間を浪費するなと言ったのは、そう言わなければ自分の傍を動こうとしないことがわかっていたからだ。そして言うまでもなくここでの二人のやりとりは、つい先ほど同じ瓦礫の下から救出し救出された、もう一方の二人のそれと完全に重なるものなのだ。もうおわかりであると思うが、この一連の場面が真に強調しているのは、ホームズとワトソン、モリアーティとモランという、この二組の“カップル”の同一性そのものである。

“私は彼を愛している”
これまで詳述してきたように、モリアーティとモランの関係のキーワードとは“言葉にできない秘密”そのものであり、それは実はそのまま、ホームズとワトソンの関係にも対応するものだ。レストランのホールでのアドラー毒殺、講演後のサイン会での暗号とチケットをめぐるやりとり、そして武器工場での瓦礫の下からのモリアーティ救出、モリアーティとモランが共に登場するこの三つの重要な場面のすべてで、本章の冒頭で述べたように、 “秘密”は言葉の代りに小道具やシチュエーションによって表わされている。そして、その“秘密”とは言い表せばどんな言葉になるものなのか。もうお気づきになっていることだろう。それはただ一つだけである。「私は彼を愛している」という言葉だ。

最初のアドラー殺しの場面における、二人の男が親密な合図を交わしあいながら、冷然と眉一つ動かさずに女を謀殺した情景は、言うまでもなく、彼らの暗黙の親しさとそれと反比例するかのような“女嫌い”の表出であり、サインを求める来場者の前での暗号とチケットをめぐるやりとりは、彼らの親密さそのものが、公式な社会的関係への裏切りであることの暗示である。この二つの場面をそれぞれ言葉に“翻訳”してみれば、それは「私は彼を愛しているから彼女を殺す」「私は彼を愛しているから社会を裏切る」というものでしかありえない。

そして、ホームズがモリアーティから奪った手帳に暗号として記されていたのも、この「語ることを許されない愛」にほかなるまい。それが表向きの筋書きの中では犯罪の証拠であり、それによって得た資産の隠し場所を記したものであること自体、ホームズが「悪者が罪を犯すのに理由など無い」と言い張っていたモリアーティの犯罪の真の動機をそのまま明かしてくれている。彼が彼の愛する男と共にしていることは、彼らの愛を「語ることを許されないもの」にし続けている、世界とそのモラルに対する復讐なのである。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:59 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(3)          

tatarskiy

(2)から続く

第二章

上演された夢
モリアーティとはいったい何者か? これまでにも何度も述べたように、端的に言ってしまえば彼はホームズのアルターエゴである。彼の行動やそれによって暗示されている彼のパーソナリティのすべては、例外なくホームズが潜在的に保持していながら、自身のものとしては抑圧した願望である。つまり、モリアーティについて語られていることは、ホームズ自身のものとしては語るわけにいかなかったものなのだ。

先述したように、彼が始めて観客の前に姿を見せるのはレストランでアドラーを毒殺する場面である。この場面の印象の強さと重要性の一端についてはすでに触れたが、ここでもう一つ、鍵となる要素を追加してみよう。モランがスプーンでグラスを叩いて合図すると、他の客たちが突然立ち上がって出て行ってしまい、モリアーティの登場とアドラーの死は、三人の他には無人となったホールの只中で、まるで舞台の上での出来事のように上演される。
筋書きの上での合理化された説明としては、他の客たちはモリアーティの手による仕込みだったということであるのだろうが、ここで実際に目に見えるものとして生起する無言の群集の一斉の移動と消失、そしてメインの登場人物たちによる“芝居”という一連の演出は、あたかも楽曲のPV映像かミュージカルの一場面のように、リアリティーの欠如とインパクトの強さを同時に伴った、象徴的な“作り物”であり、明らかにそのあからさまな作為自体が“判じ絵”としての絵解きを要求しているものだ。そう、これは“夢”なのである。

そしてこの場面に限らず、モリアーティが登場する場面の多くはこうした“判じ絵”としての“夢”であり、それ自体が言葉としては語られえないものが小道具やシチュエーションとして置き換えられた、抑圧された願望の表現なのだ。このことを踏まえた上で、モリアーティに焦点を合わせるとしよう。

モリアーティに関してアドラー殺しの次に来る重要な場面は、言うまでもなく、ある意味このシーンと明示的に一続きになっている、研究室でのホームズとの対面の場面である。これはあまりにも核心に近いため、ここではひとまず後回しにするしかないが、繰り返しになるが押えておくべきなのは、彼らが態度として目に見える形で観客に示している情動は、実は、彼らが喋っている台詞の字面通りの意味と見せかけのシチュエーションには対応しておらず、そこからずらされた裏の意味にこそ対応していることだ。

“ラヴ・シーン”
続く場面は、ホームズがワトソンを連れて最初に向かう地であるフランスでの出来事だ。画面がホームズとワトソンの船旅の場面から、船が目指す先にある陸地を望みながら切り替わり、次いで街角の掲示板に貼られているらしいモリアーティの講演会のチラシ、そしてその会場と思しき城館のような大きな建物の外観が映される。次いで机に向かうモリアーティと彼の前に整列している一見して学者風の人々、そして彼が以前ホームズにしたように差し出された自著にサインをしている姿が映り、モリアーティが二人より先に自身の講演会のためにフランスに来ていたことがわかる。と、そこに横からモランが現われて傍らに座り、サインをしているモリアーティの机の上をそっとすべらせるようにして、暗号らしい数字が書かれたメモを示す。

モリアーティはサインをした本を相手に返してフランス語で挨拶しながらさりげなくメモを確認し、机の上にあった赤い革の手帳にはさんでしまい込むと、そこでようやく口を開き、「and my ticket?」(吹き替えは“席はとれたのか?”)とモランに訊ねると、モランは上着の内ポケットから「ドン・ジョヴァンニ」の演題が記されたチケットを取り出してみせる。チケットは二枚あり、モランは一枚を机の上においてモリアーティの方に押しやりつつ、手元に残ったもう一枚を名残惜しそうに見つめている。モリアーティはそれを見ると、「残念だったね。君のぶんは必要ない。(Unfortunately, you won’t be needing yours.)」と言い、モランはそれを受けて「本当に残念です。教授。ドン・ジョヴァンニを楽しみにしてたのに。(That's a shame, professor. was looking forward to Don Giovanni.)」と答える。このやりとりの後、外の街路に出たモランは部下に、標的である財界の要人マインハルトを尾行するよう指示を出し、カメラは命令を受けた部下たちがマインハルトの馬車を監視する姿を追って切り替わる。

この場面は、表面的な筋書きの上では、この後オペラ座でモリアーティが「ドン・ジョヴァンニ」を観劇中に、彼の命を受けたモランがマインハルトを暗殺する場面の伏線として機能している。モリアーティがモランから受け取った数字による暗号のメモとそれをしまい込んだ赤い革の手帳については、クライマックスであるライヘンバッハの滝を望むテラスでの彼とホームズとの直接対決の場面で、手帳に暗号で記されているのが彼自身の犯罪記録と犯罪によって得た莫大な隠し資産の在り処であったと明かされるが、しかしその時には、ホームズがすでに暗号の解読法を見破った上に本物の手帳を盗んで偽物とすり替え、それをメアリーを通してロンドンのレストレード警部に送ることで、モリアーティの資産のすべてを差し押さえさせてしまったとも語られる。このわかりやすい筋書き上のキーアイテムとしての機能は、しかし表面的なものでしかない。本当に重要なのは、この場面が初出である手帳と暗号が、あからさまにモランとのやりとりのためのアイテムであることだ。

まず、よく見れば気づくことは、この場面のシチュエーション自体の不自然さである。常に慎重かつ老獪であり、裏では恐るべき規模の犯罪と陰謀の実行者でありながら、ホームズ以外は誰一人として彼を疑うことも無く、表向きにはこれ以上望むべくも無いほどの社会的地位を築き上げているとされるモリアーティが、学者として講演を行なった後の来場者に対する自著へのサインという、まさに彼の社会に対する表向きの顔を象徴する場で、たとえ暗号化されたメモのやりとりとはいえ、裏の仕事の片腕との犯罪の打ち合わせを人目のある場所で同時に行なうということ自体が不自然に思えるし、一見それをカムフラージュするためであるかのようなチケットをめぐるやりとりも、今まさに自著へのサインを求めて目の前に並んでいる、学者としての彼の心酔者であろう人々を無視してまで語り合う必要性のあることだとは到底思えない。つまり、そもそもこの場にモランが現われること、しかも来場者の目の前でモリアーティの傍に座ること、そしてやりとりの内容に至るまで、すべてがリアリティーに反しているのだ。
それを認識した上であらためてこの場面を見直せば、重要なのはこのシチュエーションそのものの非現実性、公共の場でモランとやりとりする、つまり「公衆の面前での秘密の語らい」という、本質的に相容れない組み合わせそのものであるのが了解されよう。

見世物小屋には他にも大勢の客が入っていたようだが、「大勢の人」というのは「類型夢」の一つであるから、その意味はフロイト博士に訊いてみるといいかもしれない――「夢の中で「たくさんの他人」に会うのが何を意味するかご存知ですか。たとえば裸の夢などではしばしばそういうことが起こって実に恥ずかしい思いをしますね。その意味するところは他でもない――秘密ということです。つまりそれは反対のものによって表現されているのです」(『著作集』6「隠蔽記憶について」)
<『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』より>


上は先に挙げた鈴木薫と筆者の共同論文『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』の註13からの引用であり、ここで例示されている見世物小屋の場面とは、主人公フランシスと友人アランが縁日でカリガリ博士の見世物小屋に入り、大勢の見物客の前で博士の操る眠り男チェザーレから不吉な予言を受けるというものだが、実はこの「たくさんの他人に囲まれるというシチュエーション」とは上述の通り“秘密”を意味し、この場面自体が、あたかも夢の中での出来事のように、“それ”を隠しつつ表すものとして象徴化されたものなのである。

勘のいい方ならもう察しがついたと思うが、モリアーティが自著へのサインの求めに応じながらモランとやりとりをする場面も、そしてこの二人の初登場シーンであるレストランでのアドラー毒殺の場面も、この『カリガリ博士』の一場面と同様、「群集の只中で/それをあからさまに人払いした後の無人の空間で」、象徴化された“秘密”が暴露されるという、本質的に同じ性質を持った重要な場面なのだ。加えて、先述したように、特にここで取り上げているサイン会の場面での二人のやりとりの性質自体が、彼らを取り巻くオフィシャルな聴衆とは相容れないものであり、それに象徴される公式な社会的関係への彼らの秘密裡の裏切りを暗示する。

暗号の数字が記されたメモと、それがしまい込まれる赤い革の手帳はそのまま、二人が共有する“秘密”とその在り処を示す。そして続く「ドン・ジョヴァンニ」のチケットをめぐるやりとりは、表面に出ている会話の意味をそのまま追うだけでも、元々の予定ではモランもモリアーティと共に観劇するつもりでいたこと、そして従者であるモランが主人に命じられたチケットの手配を当然のように「自分の分まで」行なっていたことからして、彼らにとってそれはおそらく「いつものこと」であり、モランが同行できないことの方がイレギュラーな事態であったであろうことを明かしてくれている。おそらくあの暗号のメモには、マインハルトの暗殺予定時刻がオペラの上演時間と重なってしまうことが書かれていたのだろう。暗号のやりとりによる彼らの無言の会話と後に続く明示的な会話とは、完全に一続きのものであったのだ。

もうおわかりだろう。つまりはこの一連のやりとりの本質は悪事のための打ち合わせなどではなく、プライベートな楽しみの外出を共にすることを約束していた者同士の片方が、都合がつかなくなったことを相手に連絡しているものなのだ。彼らが行なっていることが “犯罪”と呼ばれるのは、彼らの関係へのカムフラージュであると同時にダブル・ミーニングであろう。つまり、作品の舞台として設定されている19世紀末(あるいは20世紀初め)のイギリスにおいて、“それ”が本当に刑法に触れる罪であったことをも踏まえていよう。

“秘密を分かち持つ”
『カリガリ博士』の、社会的地位のある行ない澄ました紳士(医師)が実は犯罪者だったという表のストーリーは、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のあからさまな流用であろう[☆6]。類似はそれだけにとどまらない。スティーヴンソンの小説の場合も、殺人を含むハイドへの疑惑は「表のストーリー」であり、「裏のストーリー」は伏せられている。いや、近年の研究を見ると、それは隠されていた訳では全くなく、『性のアナーキー』の著者エレイン・ショウォールターによれば、スティーヴンソンの周囲では暗黙の了解があった上、この小説が刊行されたのは英国で男性間の性行為を犯罪化する法律が施行されたのと同年同月(1886年1月)であり、冒頭に出てくる「ゆすり」という語は、それだけで当時の読者には同性愛を連想させうるものだったという(ちなみに、『性のアナーキー』のこの章は「ジキル博士のクローゼット」と題されている)。つまり、殺人という表面上の嫌疑の下に、当時ドイツでも英国でも実際に刑法に触れる犯罪であった同性愛の主題が潜んでいるという点も含めて、『カリガリ博士』は『ジキル博士とハイド氏』を“粉本”として使っている。
<『砂男、眠り男──カリガリ博士の真実』より>

「ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件[ケース]」とはそのままシャーロック・ホームズの事件簿に入れても(或は症例研究でも)おかしくない表題だ。ジキル博士が怪しげなハイドを遺産相続人にしているのを心配するアタスンがベイカー街で辻馬車を降りたなら登場する独身男がさらに二人増えていただろうというのは些かアナクロニックであるが。『ジキル博士』刊行の1886年1月は英国で男性同性愛が犯罪化された月であり、ウィーンの医師が男性ヒステリー研究でデビューしたのもこの年、ロンドンで患者の来ない眼科医が待ち時間に書いた『緋色の研究』の発表に漕ぎつけたのは翌年だった。
<鈴木薫のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121101より>


上の引用で『ジキル博士とハイド氏』と『カリガリ博士』について述べられている、「社会的地位のある行ない澄ました紳士が実は犯罪者だった」という表のストーリーと、それが隠蔽しつつ示唆している「“真の罪”としての同性愛」という図式は、まさしく今回の『シャドウ ゲーム』におけるモリアーティの罪そのものである。モリアーティとモランの関係は文字通りの“共犯者”であり、暗殺にまつわる暗号のメモと「ドン・ジョヴァンニ」のチケットをめぐる二人のやりとりは、約束していた晴れの外出を共に出来なくなったことへの軽い無念さと、今夜はたとえ離れた場所にいようとも、犯すことを約束した罪それ自体を分かち合うのだという暗い喜び、そして何も気づこうとしない自分たちの周囲の社会に対する密かな優越感すら入り混じった、甘美な秘密の共有なのだろう。この「“共犯者”として表された親密さの表現」というモチーフは、最初のアドラー殺しの場面ですでにモリアーティとモランのものとして示されていた。

もう一人のワトソン
パリでホームズとワトソンは、モリアーティが計画している爆破事件を阻止すべくオペラ座に忍び込むが、この時ホームズに続いてワトソンが一瞬振り返ってから楽屋裏への通路に入った直後、通路の片隅に蹲っていた人影が立ち上がると、それがモランであることがわかる。布に包まれた細長い荷物を抱えた彼は、二人が通り過ぎるのを意味深長な視線で見送る。結局、オペラ座に爆弾が仕掛けられていると思わせたのはモリアーティの罠であり、ボックス席で悠然と観劇しながら舞台の後ろに忍び込んだ彼を見つめるモリアーティと目が合った瞬間にすべてを悟ったホームズは、本当の爆破現場である通商会議の会場のホテルへと急行するものの間にあわず、出席していたマインハルトを始めとする財界の要人たちは会議室もろとも爆殺されてしまう。

爆破事件は阻止できなかったものの、現場の柱とマインハルトの死体の頭部に弾痕があるのを発見したホームズは、彼がホテルの向かい側のオペラ座の屋上から狙撃されたらしいことに気づいて、ワトソンと共にそちらへ赴く。二人は屋上で狙撃犯の使ったと思しき三脚と風速計の痕跡、そしてタバコを消した跡を見つける。だがそこからマインハルトのいたホテルの窓まではあまりにも遠く、ワトソンがこれほどの距離をものともせずに標的に銃弾を命中させうるほどの腕を持っているのはヨーロッパでも数人ほどだと言うほどだった。ホームズは、犯人はその中でもアフガニスタンへ派遣された人物だと言い、その証拠としてトルコ産のタバコの葉が落ちていたのを拾い上げ、ワトソンに差し出して「君たち皆が吸っていたのと同じでは?(Wasn't that the blend you all smoked?)」と問いかける。周知の通りワトソン自身、かつてアフガニスタンへ軍医として派遣されていたのである。ワトソンが頷くと、先ほどのオペラ座の楽屋裏への通路でワトソンが一瞬振り返る場面がフラッシュバックし、次にホームズが「(狙撃手の)大佐について何か読んだことがあったかな?(Didn't I read something about a colonel?)」と自問する。それに対してワトソンが「セバスチャン・モラン」と答えると、それに合わせてさっきフラッシュバックした場面の続きが映るが、ここでは、ワトソンの後姿が通路に消えた後にモランの立ち姿が現われ、そこにワトソンの「陸軍一の狙撃手だ」という台詞が重なるという演出がされている。実はこの映画の中でモランの名前が明かされるのはこれが始めてである。画面が再び屋上での会話に戻り、ワトソンは更に「不名誉除隊になってる」と付け加える。
「で、殺し屋になったわけか。奴の犠牲者を見るのは二人目だ」「巧妙だな。誰も爆破現場で銃弾の痕など探さない」というやりとりで会話が締めくくられると、再びフラッシュバックして、砲身の長い狙撃用の銃、それに弾を装填する手元、それが照準を合わせたホテルの窓辺にいるマインハルトの姿がつぎつぎ捉えられる。そして銃声と共にカメラが後退し、標的に向かって引き金を引くモランの姿が挿入された後で場面は暗転する。

まずは表面に現われた意味を確認してみよう。言うまでもなく、ここでの一連の流れはホームズの対等な好敵手としてのモリアーティの巧妙な手強さを、その忠実な手足であるモランの不気味な存在感や彼の狙撃手としての並ぶ者の無い驚異的な腕前と共に、強調するものだ。だがここで示されている真に重大な手掛かり、というよりほとんど種明かしに近い収穫であるのは、モランの名前と経歴が明かされる場面における、かつて軍務でアフガニスタンに派遣されていたというワトソンとの共通性、それを具体的に示す「君たちが皆吸っていた」トルコ産のタバコの葉、そしてその前後にフラッシュバックで反復され、強調される、オペラ座の通路で振り返るワトソンの後姿に重なるようにすり替わるモランの姿という、ちりばめられた細部による示唆そのものだ。
ここまで来ればもうおわかりだろう。モランはほとんど明示的に、もう一人のワトソンなのである。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:56 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(2)          

tatarskiy

(1)から続く

“影”からの呼び出し
観客の前でモリアーティが始めてホームズと対面するのは、ワトソンの結婚式の後のことである。ホームズとワトソンは結婚前夜の最後の乱痴気騒ぎでボロボロになったまま、二人きりで自動車に乗り、無言のまま式が行なわれる教会に到着する。ホームズは式の一部始終を他の出席者たちと共に見届け、ワトソンと新婦のメアリーは腕を組んで幸せそうに教会の外に出て皆の祝福を受ける。ホームズは人々の輪から外れた庭の入り口の木陰でそれを見守り、そして背を向けてその場から立ち去る。画面が切り替わり、ホームズが屈んで自動車の状態を確認していると、ふいに自分に話しかける声が聞こえ、目線を上げるとそこにはモランが立っていた。モランは「教授の使いで来た」と手短に告げ、モリアーティの教えている大学まで来るように伝言する。

次の場面は大学の構内で、ガウンを着た学生や講師と思しき人影が行き交う中をホームズが通り過ぎると、回転するレコードが映り、続いて壁一面を占めた大きな本棚の陰からホームズが現れる。彼の台詞によってこの部屋に流れている曲がシューベルトの『鱒』であることがわかる。カメラがホームズの視線を追って切り替わった先には、この研究室の主であるモリアーティと、その後ろに控える学生の姿がある。モリアーティは振り返って学生に用事を言いつけ、さりげなく人払いをした後おもむろにホームズと向き合う。
ホームズは持ってきたモリアーティの著書『惑星運動の力学』にサインを求め、モリアーティは承知して自分の机に向かいペンを取る。さり気なく室内を観察するホームズに、モリアーティはサインをしながら「あの医者は今日結婚したそうだな?」と話しかける。ホームズは、ワトソンの結婚式は滞りなく終わり、もう自分と組んで仕事をすることもないだろうと答えて、暗にワトソンを巻き込むまいと釘を刺す。本が返され、二人はあらためて握手して挨拶を交わすが、この時モリアーティは「うれしいよ、やっと君に会えた……正式にな」と皮肉気に言い、ホームズが変装してモリアーティを尾行していたことを窺わせる。ホームズは本を開いてモリアーティのサインを確認すると、半ば唐突に「筆跡学の知識はお有りですかな?」と話しかける。ああいったものは学問とは呼べないと苦笑するモリアーティに構わず、ホームズは筆跡による心理分析にかこつけてモリアーティの性格を「非常に高い知性と創造性を持ち、かつ几帳面であるが、激しく自己中心的であり、モラル意識に至っては破綻している」と言い当ててみせ、モリアーティは怒りを抑えつつそれに答える。

「君は先ほど暗にワトソンを巻き込まないようにと釘を刺したようだが、答えはノーだ。天体力学の法則によれば二つの物体が衝突する際には付随する物にもダメージが及ぶ。例えを挙げてみようか。二人の紳士が正反対の目的に向かって進む。一人の女性がその間で引き裂かれる。彼女はその緊張に耐えられず突然病で倒れる。なんとも悲劇的な結末だ。珍しい型の結核で彼女の命はあえなく散った」
モリアーティはこう言って駒の並べられたチェス盤の上に、アドラーの遺品である、彼女のイニシャルが入った血の着いたハンカチをほうり出す。この時画面には実際にレストランの床に倒れ臥したアドラーと、それを冷ややかに見下ろすモリアーティとモランの姿が現われ、彼女の傍らに落ちた血の着いたハンカチをモリアーティが拾い上げる。

モリアーティはチェス盤から黒い駒の一つを取ると、明らかに動揺しているホームズに「本気でこの私とゲームをするつもりなのか?(…)はっきり言っておこう。いいか、私を破滅させるつもりならば、破滅するのは君の方だ」と告げ、それに対してホームズは「(…)もしあなたをこの手で破滅させられるのなら、命など惜しくはない」と答え、ハンカチを手に取ると出て行こうとする。モリアーティはホームズに「幸せなご夫婦によろしくと伝えてくれ。それではまた」と付け加える。ホームズが立ち去った後、モリアーティが手にしていた黒い駒でチェス盤に一手目を指す手元を大映しにしながら画面は暗転する。

ここまでの場面は、素朴に見たところでは、ついに結婚の日を迎え、いよいよ自分から離れて行こうとするワトソンを見守るホームズの寂しさと友情、これから幸せな新婚生活に入ろうとしているワトソンを巻き込むまいとしての気遣いと、宿敵と正面から対峙したことによってあらためてはっきりと示された死をも辞さない覚悟、そして彼と互角な存在であるモリアーティの存在感の大きさが、アドラーの死を告げられるという形で示されているものに思えよう。

だが、まず奇妙であるのは、なぜここであらためて(表面の筋書きの上だけではその必然性すら定かでない)アドラーの死が強調されねばならないのかだ。それも最初に示されるレストランでの場面では彼女が倒れる姿を直接は見せず、ホームズがそれを知る時に初めて観客にも確認させるという凝った演出を用いて。そしてモリアーティの台詞の字面だけを見れば、それは女をめぐる男二人の三角関係を示唆するのが自然なものであるにもかかわらず、画面に映されるアドラー殺しの情景は、先述したとおり彼女に対する一切の感情的な温度を欠いたものであるというちぐはぐさが、極めて不穏で不気味な雰囲気をかもし出しているのだ。

言うまでも無いがこれも素朴な鑑賞のレベルでは、あらかじめ観客には示されていたアドラーの死を、ホームズと一緒に確認させることであらためてショックを与え、モリアーティの悪事に対するインパクトを強めるためのものに思えようが。

そして極めて印象的な小道具である、アドラーの血の着いたイニシャル入りのハンカチ。モリアーティはわざわざこれを拾い上げ、ホームズに直接見せつけて引き渡しているが、これだけは先に明かしておくと、この行動の本当の意味は、表面的な筋書きの中でのホームズに対する警告としてのそれを超えた、ホームズとモリアーティとの同一性の証左である。そしてこのハンカチを受け取ったホームズの動揺も実はアドラーの死がショックだったからではなく、自らの分身から自らの“罪”の証しを突きつけられたからだ。これに先立つ彼らの会話の本質も、表面の筋書きを形作る字面通りのやりとりではなく、ホームズと彼自身の抑圧された本心──彼のアルターエゴとの対話なのだ。そして先述したように、それを滅ぼすことは自身もまた滅びることを意味する以上、この最後の台詞のやりとりはあらかじめ定まっている運命を互いに確認しあっているに過ぎない。

ここではまだ詳細を述べることはしないが、まず認識しておくべきは、モランによってモリアーティの許に呼び出される寸前のホームズが、ある意味向き合うことを先延ばしにし続けてきた、ワトソンの結婚によるパートナーとしての彼の喪失という事態がついに現実のものになる日が来てしまい、結局はただ友人としてそれを見守る他に何も出来ないという、外目にはいかに諦めて友人を祝福しているように見えようと、内心は無力感に打ちのめされていなかったはずもない状態であったことだ。

そして実は、ここでモランが彼を呼びに来ず、モリアーティからの宣戦布告がなかったなら、ワトソンの結婚をめぐるホームズの苦悩の物語も、この日で否応無く終わりを告げねばならなかったはずなのだ。実際にはこの会見の後、ハネムーン中のワトソン夫妻は列車の中でモリアーティの手下による襲撃を受け、それを予期して乗り込んでいたホームズは、メアリーを文字通り列車から突き落として排除した後、ワトソンと共にモリアーティの陰謀を阻止すべく、大陸ヨーロッパを巡る冒険旅行に旅立つのだ。言うまでもなく、この展開そのものが露骨に明らかにしているのは、ホームズにとってモリアーティの陰謀こそが、邪魔なメアリーをワトソンから一時的にでも排除し、再びワトソンと共にあることの出来る時間を与えてくれたことだ。

“女”を投げ捨てる
ご覧になった方なら誰でも印象的に記憶にとどめておられようが、この列車での大立ち回りの場面はかなりきわどい笑いを誘われるものだ。ワトソンとメアリーが奮発して乗った一等車の車室でくつろいでいると、突然車掌に変装したモリアーティの手下が襲いかかる。一人目をかろうじて撃退した直後、室外でも銃声がし、ワトソンが様子を見ようとドアを開けると、二挺拳銃を振り回す大柄な女が通路に立ちふさがって奮戦していて、こちらにやって来て見ればそれはなんと女装したホームズなのである。彼は唖然とするワトソンに向かって「ひどい変装だが時間が無かった」と理由にならない理由を述べた後、ワトソン以上にショックを受けているメアリーに対して「気持ちはわかるよ。招かれざる客。そうだろう?」と殊勝に同情を示してみせる。ワトソンがまだ残っている外の敵を追って行っている間に、ホームズは再びメアリーに「私を信じるか?」と問いかけるが、彼女の返事は「まさか!」というつれないものだった。ホームズは「仕方ない」とつぶやくと、いきなりメアリーを窓から車外へ突き落とし、彼女は悲鳴を上げながらちょうど橋の上にさしかかっていた列車から下の川へと落ちていく。そこにワトソンが戻ってくるが、その場にメアリーがおらず、ホームズが彼女を列車から突き落としたことを知ると、彼女が殺されたと思って逆上したワトソンはその場でホームズを締め上げて押し倒し、二人は揉みあいながら延々言い争う。結局はホームズがメアリーを突き落としたのは彼女を安全な場所に逃がすための算段だったのであり、彼女は下の川に落ちた直後にボートに乗って待機していたホームズの兄マイクロフトに救助されたことが明かされるのだが、このいささか悪ノリが過ぎるほどのきわどい場面が笑いを取りつつ明らかにしているのは、今までホームズの苦悩と嫉妬にも正面から反応を示さずに友人として振る舞っていたワトソンが、実は彼の気持ちをすべて承知の上であえて気づかぬ振りをしていたに過ぎないこと、ホームズが嫉妬のあまりメアリーを殺したとしてもおかしくないと思っていたことだ。ホームズが女装して乗り込んでくるのも完全にメアリーへの当てつけで、しかも本当に彼女を列車から突き落として自分が代わりにワトソンと旅行に行ってしまうのだからまったくシャレでは済んでいない。

モリアーティの手下を撃退して一息ついた後、君のせいだと自分を責めるワトソンに対してホームズは、「残念ながら君にも半分責任がある。君らが結婚の準備に夢中になっていなければ、今回の件はすでに解決していたはずだ」と返すが、これは当然恨み言である。
続く会話は、
「つまりだな。我々の関係は……」
「関係?」
「探偵と助手の関係は、まだ復活はしていないが……。我が親愛なる同志よ。もし君がこの事件を最後まで見届けてくれるのなら、もう二度と助手を頼むことはない」
というものだが、これだけでもこの二人の“探偵と助手”や“親友”といった名前に収まりきらない“関係”をめぐる過剰さこそが真の問題であることは明らかだ。そして観客はこれに先立つモリアーティとの対話の場面で、ホームズが自身の死を覚悟していること、つまり「この事件を最後まで見届けて欲しい」とは「自分の最期を見届けて欲しい」の意に他ならないことをも知っているのだ。

これに続くフランスへ向かう船旅の場面で、二人が甲板の椅子に座り、ホームズがこれからの予定を話していた時、ワトソンはふと荷物の間に例のアドラーの遺品のハンカチを見つけて手に取る。ホームズは見てほしくなかったものを見られてしまったような、そしてまるで彼の手の中のハンカチに嫉妬を感じたような表情でそれを彼からそっと取り上げると、彼に背を向けて甲板に立ち、ハンカチに一度口づけてからワトソンを振り返り、そして海に投げ捨てる。これは一見するとアドラーの死を悼んでのことのように思えようが、実はこの一連の流れそのものが二人の関係を象徴している。彼らの冒険旅行の相談を中断させた一枚のハンカチは、ホームズにとって二人の関係を阻む“女”の影の象徴であり、同時に自らの彼女に対する抑えがたい嫉妬心をも意味するものだ。口づけてから投げ捨てるという、それ自体感情的なアンビヴァレンスの表現そのものである動作は、ワトソンの手の中にあったそれへの嫉妬の表れであると同時に、封印することを決めた自らの思いに対する訣別でもあるのだろう。

ワトソンとの道行き
ホームズとワトソンはモリアーティの陰謀を追って最初はフランスへ、次いで山中を馬で進んで国境を越えてドイツへ向かい、モリアーティが密かに買収した武器工場へと潜入する。だがいよいよ敷地内へ入ろうという時、ホームズはワトソンに唐突に問いかける。
「幸せか?」
「は?」
「だから今、ブライトンに新婚旅行に行ったくらい幸せかと訊いているんだ」「お答えする気にもならないな」
「幸せか?」
「そんなこと言ってる場合か」
「まあな」
「早く」
「答えを」
「早くしないと見張りが戻ってくるぞ」
というのが一連のやりとりで、確かに常識的に考えれば場違いとしか言いようがない問いかけであるのだが、しかしここまで見てきた観客にとっては、これがホームズのワトソンに対する切実な問いであり、「自分と一緒にいて幸せだ」と言って欲しいだけであることは、切ないまでに自然に了解できてしまうものに過ぎない。そして常識的な振る舞いを盾にとって、自分に対して向けられたホームズの切実な感情を見て見ぬふりをするワトソンの残酷さもまた、この期に及んでいつものことであろうことも、たやすく察しがついてしまう。

結局ワトソンが答えないまま時間切れとなり、ホームズはワトソンに居住区に行って郵便局からマイクロフト宛の電報を打つよう言いおいて、自分は一人で先に工場内に潜入する。だがそこには部下たちを引き連れたモランが待ち構えており、ホームズは捕らえられてモリアーティの前に連れて行かれる。ホームズは彼の、世界大戦を引き起こし、軍需物資の供給を一手に握ろうとする陰謀を見抜いたことを告げるが、モリアーティはそれには構わず、ホームズの肩に鈎針を突き刺して天井から吊り下げるという拷問にかけ、彼の悲鳴を例のシューベルトの『鱒』と共にスピーカーを通じて工場中に流すことでワトソンをも誘き出そうとする。郵便局から戻ってきたワトソンは、残されていたホームズのメッセージを読んでから自身も工場内に潜入し、そこでスピーカーから流れるホームズの悲鳴を聞くが、モランに発見され銃撃戦となって動きがとれない。結局ワトソンはホームズのメッセージをヒントに砲台を動かして砲撃で監視塔を破壊し、その瓦礫の下にモリアーティもろとも埋まっていたホームズを救出するのだが、この時必死にホームズを呼ぶワトソンの声に「ここだ、ゆっくりでいい」と答えた後、彼に助け起こされたホームズは「Always good to see you, Watson.(字幕は“来ると思っていたよ”)」と嬉しそうに言い、言われたワトソンは微かに笑う。

ここまでの経過を見ればまたしても明らかなのだが、つまりは工場への潜入の前にワトソンの拒絶によって傷つけられたホームズの感情は、モリアーティに捕らえられて拷問にかけられるというハプニングを経由して、そこからワトソンによって助けられることによる自身への愛情の確認によって癒されるのだ。これはこの冒険旅行の発端そのものである、ワトソンの結婚によって情緒不安定に陥っていたホームズが、モリアーティの陰謀の阻止という大義名分を得ることによってワトソンを妻との新婚旅行から奪い返したことの、ミニチュア化された繰り返しである。このように、物語内の機能としても明らかであるのは、ホームズがワトソンとの関係で傷ついたり、無理をしたりして、不満が溜まることこそ、モリアーティが登場する契機となっていることだ。先述したように、ホームズがモリアーティに呼び出されて初めて正面から対決したのも、まさにホームズのストレスのピークであっただろうワトソンの結婚式の直後であり、モリアーティがその際予告した通りにワトソン夫妻を襲撃してくれたからこそ、ホームズは再びワトソンをパートナーとして冒険に出ることができたのだ。ホームズにとってのモリアーティとは、決して認められない自らのネガであると同時に、自らが意識的に望むことを許されない抑圧された願望が叶えられる口実を与えてくれる存在でもあるという、アンビヴァレンスそのものの象徴なのである。

さて、ホームズとワトソンの行動を時系列に沿って追うのはひとまずこれくらいにして、次はいよいよモリアーティについて書いていこう。彼がなぜホームズにとって許しがたいもう一人の自分であるのか。それを解き明かさなくては真相には迫れない。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:53 | 批評 | Comments(0)
ハンカチと赤い手帳
――ガイ・リッチー監督『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(1)          

tatarskiy

“My dear fellow, you know my methods.”   
- Sherlock Holmes in The Stockbroker’s Clerk

「ちょっと君の真似をしてみたのだよ」
―明智小五郎(『屋根裏の散歩者』)


今年の3月に公開された映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』(原題:A game of Shadows)をDVDで見た。ご存じのようにシリーズ物の二作目で、筆者は一作目もDVDで見たが、正直なところ今一好きになれなかった。しかし、今回見た二作目の内容は非常に興味深いものだった。

まずはご覧になった方なら皆が気づかれたであろうレベルで明示されていたが、テーマやプロットとしては江戸川乱歩の『孤島の鬼』そのままであることに驚いた。もっと素朴なレベルで言えばアンデルセンの『人魚姫』とも言えるだろう(これも片思いしていた友人の結婚による作者の失恋が、執筆のきっかけの一つだという話を読んだ記憶がある)。また、原作と同じ英国の文学作品に先例を求めるならトールキンの『指輪物語』の結末とも重なるものだ。ワトソンに対するホームズは、箕浦に秀ちゃんとの幸福な結婚生活を与え自らは死した諸戸、人間の王女に心を移した王子のために海の泡になった人魚姫、妻と子供を得て未来を約束されたサムのために全ての財産を譲って西の海の彼方へ去るフロドと同じように、女との健全な幸福が約束された愛する男のために、自らを犠牲にする道を選び取るのである。

乱歩の『孤島の鬼』で自分に恋する美青年・諸戸と再会した箕浦は、連続殺人の犯人探しのため彼と“探偵遊戯”に乗り出す。「若い私たちの心の片隅には、確かに秘密を喜び、冒険を楽しむ気持があったのだ。それに、諸戸と私との間柄は、単に友だちという言葉では云い表わせない種類のものであった」
(中略)結婚したワトスンも“探偵遊戯”という口実があれば独身時代と同様ホームズと行動を共にしてくれるのだ。「諸戸は私に対して不思議な恋愛を感じていたし、私の方でも、無論その気持を本当には理解できなかったけれど、頭だけでは分っていた。そして、それが、普通の場合のようにひどくいやな感じではなかった。彼と相対していると彼か私かどちらかが異性ででもあるような、一種甘ったるい匂を感じた。ひょっとすると、その匂が、私たち二人の探偵事務を一層愉快にしたかも知れないのである」
『シャドウ ゲーム』のワトスンはどうやらこの箕浦と同じらしい。勿論この類似は不思議ではない。乱歩は言うまでもなくドイルを読んで書いたのだから。いや、乱歩が他の何よりもドイルから学んだのは犯罪実話のサブジャンルとしての探偵小説というより、まさしく「このようなもの」ではなかったか。
<鈴木薫のツイログhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121031より>


上に引用したように、今回の映画におけるホームズとワトソンの関係は、冒険にいたる経緯や結末まで含めて『孤島の鬼』の諸戸と箕浦に非常によく似ている。だが少々厄介なことに、主人公のホームズはいわば“信頼できない語り手”であり、観客の前に映し出される世界はあらかじめ彼の主観によって歪められているとも言えるのだ。非常に巧みな脚本と演出によって多くのシーンに、漫然と見ていたのでは気づかないであろう二重の意味が仕込まれており、その繋がりを追うことでしか発見できない“真相”が隠されているのだ。

第一章

“探偵の仕事”
プロローグに続いて、映画の本篇は、結婚式を明日に控えたワトソンがベイカー街のホームズを久しぶりに訪ねる場面から始まる。室内はホームズが栽培している植物でジャングルさながら、強心剤の原料になるというヤギまでが放し飼いにされている。ホームズ自身は特製の迷彩服で姿を隠しており、呆れるワトソンにおもちゃの矢を射掛けてからようやく姿を見せ、自分はワトソンがいなくなってからもこうした発明や「自分の探偵人生の中で最大の事件の捜査」に没頭して忙しく過ごしていたことを強調するが、ホームズがいったん席を外した隙に彼を気遣う大家のハドソン夫人がワトソンに語ったとろでは、近頃のホームズは「コーヒーとタバコとコカの葉しか口にしなくて、眠らないし、声色を変えて、役者さんみたいに喋ってたり……」という尋常でない様子であったらしく、いざワトソンから明日結婚することを告げられると、一応は祝福を口にしつつも動揺を隠せない。「少し痩せたか?」と自分を心配するワトソンに、ホームズは「その分が君についた。メアリーのマフィンをつまみすぎだ」と笑ってみせる。

前祝いにブランデーでも飲もうと言うホームズに続いてワトソンがかつての自分の居室に入ると、そこにはモリアーティの絡んだ犯罪の記事が壁一面に貼り付けられ、ピンを刺して留めた紐で記事が相互に結び付けられた、まるで蜘蛛の巣のような立体の相関図になっている。
ワトソンはホームズから、このところ世界各地を騒がせている要人の怪死やスキャンダルの中心に「天才的な数学者にして高名な作家であり教師。ケンブリッジの拳闘大会の王者にして現首相の学友」であるモリアーティ教授の企みがあること、ホームズがそれを阻止することに全力を傾けていることを聞くが、ホームズの我が身を省みようともしない異常な興奮と熱中ぶりに呆れ、医師としての忠告を口にしつつ彼を気遣う。

ここまでの流れで十分すぎるほどに強調されているのは、ホームズがワトソンの結婚によって彼から引き離されたことで、誰の目にも明らかに心身の安定を失っていること、文字通りワトソンが去った後の空白を埋めようとして新たな発明と、何よりもモリアーティの陰謀を阻止することに没頭していることだ。そしてワトソンは、ホームズの憔悴の真の原因が自分にあることにおそらく気づいていながらそ知らぬ顔を決め込み、あくまで友人として医師として、彼の健康を気にかけてみせるばかりなのだ。

これだけでもテーマと伏線の提示としてはほとんどの人に了解されるものであろう。そしてワトソンのホームズに対する残酷さもあまりに明らかだ。しかもここまでの情報で判断する限りでは、ホームズの語るモリアーティの陰謀は荒唐無稽としか思えない内容で、聞かされたワトソンが半信半疑なのも当然である。しかもホームズが不眠と栄養失調と極度の興奮状態にあったことははっきり示されており、すべてホームズの妄想であったとしてもおかしくないどころか、その方が自然でさえあるのだ。

もちろん物語内部の素朴なリアリティーのレベルとしてはモリアーティの陰謀は事実であり、ホームズはそれを自らを犠牲にしてでも阻止した英雄である。これに先立つプロローグ部分では、変装したホームズがモリアーティの使いの途中のアイリーン・アドラーと再会して夕食を共にする約束をした後、彼女がオークション会場で爆弾小包を渡して殺害しようとしていた医師ホフマンスタールをいったんは爆弾を処理して助けるものの、結局会場の外で毒針に刺されて死んでいるホフマンスタールを発見するまでが描かれている。ここでは下手人であることが暗示される形でモリアーティの腹心モラン大佐も姿を見せており、この一連の流れは表のストーリーの伏線を構成すると同時に、あらかじめ観客に対して、ホームズがワトソンに語るモリアーティの陰謀に真実味を帯びさせる役目を担っている。

だが、現実ならざるフィクションにおいて真に重要なのは、パンフレットに載っているようなそうした表の筋書きではなく、それを口実として提示される文字通りの目に見える“細部”であり、そうした“細部”の連なりから浮かび上がる意味と、その意味同士の繋がりである。フィクションとはいわば精緻化された夢であり、夢とは筋書きではなく細部によってこそ、見る人の“真実”を物語るものである。つまり、“設定”として妄想と現実のどちらとされていようと関係なく、画面に映されたものはすべて“真実”への手掛かりであり、観客はそれを読み解く意識的な目を持つ必要があるのだ。今お読みいただいている筆者による文章も、そうした試みの一例であり、ある意味ではそれ自体が“探偵の仕事”とも言えるものだ。

こうした手法についてのより詳しい解説を知りたい方は、筆者が以前に鈴木薫と共同で執筆した、サイレント映画『カリガリ博士』についての分析http://indexofnames.web.fc2.com/caligari/suna_nemuri-0.htmをご覧になっていただきたい。この文章の内容は、今回の『シャドウ ゲーム』についての分析とも直接繋がっている部分が多く、以下の文中でも随時引用することになるが、いずれも核心としては19世紀から20世紀初頭を舞台とした作品中に表れた、男性の抑圧されたホモセクシュアリティをめぐる表象を扱っている。

前置きはこれくらいにして、まずは本篇に戻ってみよう。先述したように、ホームズの語る全欧州を巻き込んだモリアーティの陰謀というのは甚だリアリティーを欠いた代物で、聞かされたワトソンはホームズに「それで彼はなにをするつもりなんだ?」と半信半疑で訊ねるのだが、それに対してホームズは「悪者が罪を犯すのに理由など無い」「モリアーティの死をこの目で見る。そして邪悪な陰謀が広がるのを必ず阻止する」「奴を止められるのは自分だけだ」と言い張るばかりで何の答えにもなっていない。だが構造として明らかなのは、自らの命と引き換えにしてでもモリアーティを滅ぼすことだけが、ホームズにとってワトソンを失うことに釣り合うだけの情熱の対象でありえたことである。

問題は「なぜモリアーティなのか?」であり、モリアーティが働いていたとされる荒唐無稽な悪事は、物語を合理的に見せる口実にすぎない。真に重要であり隠されたテーマそのものでもあるのは、「モリアーティとは何者であるのか?」であり、彼を標的に選んだホームズ自身の内面的動機である。

分身と“悪”
ホームズはワトソンに向かって自分のその一種異様な使命感を、「It’s a game, dear man, a shadowy game.」と表現している。日本語字幕や吹き替えでは「いいかい?これは影を追う戦いなんだ」と訳されていたが、タイトルとも関係する“shadowy”という単語には、影のようなはっきりしない曖昧さ、そして非現実的な・架空の・想像上の事物というニュアンスが含まれている。ここでは明らかに、彼を心配するワトソンにさえ怪しまれているようなホームズの精神状態から来るモリアーティの陰謀譚そのものの疑わしさと、ホームズにとって、モリアーティとの戦いが“影”──つまり自らの負の分身とのある種の独り相撲であることが示唆されているのだ。そして結論から言えば、「理由など無い」どころか、モリアーティの“悪”とは実はホームズが自らのものとしては抑圧した願望そのものであり、それは決してワトソンには「言えないこと」なのだ。自分自身の内なる悪の外在であればこそ、それを阻止し得るのもホームズ自身の他にはありえまい。そしてポーのウィリアム・ウィルスン同様、分身を滅ぼせば必然として本体も死に至るのである。

モリアーティがホームズの“影”であるのは、ホームズと同等の優れた頭脳と運動能力、高い知識と教養を持ち、格闘技に秀でているという最も表面的な類似からも明らかだ。また、二人の対決に際してはチェスが効果的な小道具として用いられ、ホームズが白い駒、モリアーティが黒い駒という、視覚的にもわかりやす過ぎるほどのシンボリズムによって対比されている。DVDに収録されている製作スタッフによるコメントでも、「モリアーティはホームズの邪悪な双子といえるだろう」「モリアーティは二面性を持つキャラクターだ。人並み外れて優秀だが、人の道を外れている」と語られるが、通常それは単にホームズと違って悪事を平然と行なう悪人だからだとしか思われまい。しかし、発言したスタッフの意図とは関わり無く、上のコメントの文句はどれも巧妙なダブル・ミーニングとしてとらえるべきものである。モリアーティを真にホームズの“邪悪な双子”たらしめている“人の道を外れた”行いとは荒唐無稽な陰謀などではなく、しかもそれを見出す注意深い目さえあれば誰にでも見ることが出来る、「映像という表層の細部」に巧妙にちりばめられている。

誰が“彼女”を殺したか?
モリアーティが最初に観客の前に姿を現すのは、アドラーが待ち合わせをしていたレストランのホールの場面でのことだ。彼女がテーブルで紅茶を頼んでいると、ふいに客席同士を仕切る深紅のカーテン状の衝立の向こうから、彼女に呼びかけるモリアーティの声が聞こえてくる。彼はアドラーがホームズのために仕事に失敗したこと、持っていた手紙を奪われたことを、言い渋る彼女から穏やかながら有無を言わさぬ威圧感を込めた口調で聞き出す。彼は彼女に話しかけながら、そこだけが映し出されている手元では紙に鉛筆で書き物を続けている。アドラーの席の斜め後ろ、彼女とモリアーティの席が共に見渡せる席には、モリアーティの腹心であるモラン大佐の姿が見える。モリアーティが「君は警戒していた。だから馴染みの店で、人の多い場所を選んだのだろう?」と問いかけると同時に書き物をしていた手を止め、鉛筆をテーブルに置くと、それが合図だったように、モランが手にしたスプーンでゆっくりグラスを叩く。とたんに周囲の客たちが一人残らず立ち上がり、次々と店から出て行ってしまう。三人の他には誰もいなくなり、その場が静まり返った瞬間、唐突に深紅のカーテンが向こう側から持ち上げられ、今までの恐ろしげな気配からすれば意外なほど特徴の薄い、落ち着き払った初老の紳士が現れる。モリアーティはアドラーに、ホームズへの思いのために仕事に支障を来たすようになった彼女には、もはや自分に協力してくれる必要は無いと告げ、解放されたアドラーは緊張に耐えられなくなったように一礼して立ち上がり、足早にその場を立ち去ろうとする。だが彼女が画面の外に逃れ、入れ替わりに再び席に落ち着いたモリアーティが映ったとたん、テーブルが倒れるガシャンという音がする。モリアーティがそれにはまるで無関心なまま、手元にあった紅茶のカップを啜るところで画面は切り替わり、約束の時間を過ぎても現れないアドラーを待ちわびながら、一人レストランの席に座るホームズが映される。

以上がモリアーティの初登場、そしてアドラー毒殺の場面であるが、この時の画面全体に色彩と共に満ち溢れている過剰な情動は、表向きの筋書きにおけるこの場面の機能を遥かに凌駕するものであり、先に明かしておくと、実はこれは全篇を通して最も重要な場面でさえある。この場面の絵解きから浮かび上がる真実とはそのまま、語られざる真のテーマそのものなのだ。詳しくは順を追って徐々に解き明かしていくことになるが、これを読まれている方も、上述の場面が示唆している真実のありかについて、一緒に考えをめぐらせていただきたいと思う。

まず、はっきりした印象を残すのは、モリアーティの女に対する冷淡さである。前作からの伏線を無理なく生かすのであれば、アドラーこそがホームズとモリアーティの関係の焦点に──早い話が三角関係として描かれるのが一番自然であったにも関わらず、こうして彼女は開幕早々あっけなく退場を余儀なくされ、モリアーティに従っていた理由もついにわからず仕舞いなのだ。そして、こうして観客の前に示されたモリアーティの人物像の第一印象もまた、まるで女を女として扱う気の無い冷酷な無関心さを如実に示しており、ずっと従えて利用していたという設定であるにも関わらず、アドラーとの間にいかなる関係性も想像しがたいような、奇妙なほどの共感性の欠如が目立つ。早い話がアドラーの彼に対する脅えにすら、その原因を想像させるような物語性が微塵も無いのだ。文字通り取り付く島も無い。

結論から言えば、こうした点は続篇の製作に際して関係性の焦点をホームズとワトソンのそれに絞ったことに伴う変更であり、つまりはアドラーは端からお払い箱だったということだが、それだけでなく、対するモリアーティのキャラクター性そのものも、この変更の影響を受けて確立されたものだろう。彼が忠実な従者であるモランを引き連れて登場するのはそれ故の必然であり、先に進む前に覚えておいて欲しいのは、この場面において真に重要なのが、「アドラーがホームズに心を傾けているのをモリアーティに知られたために毒殺された」などという表面のつじつま合わせの筋書きなどではなく、「親密な間柄にある二人の男が共謀して女を殺した」という、このシーンそのものの完結した一枚の絵としての意味合いであることだ。(続く)
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by kaoruSZ | 2012-11-18 23:28 | Comments(0)
この件の前段についてはこちらを参照。

ある若い“腐女子”への手紙

はじめまして。先ずは返信を下さったこと自体に対しては御礼申し上げます。

本題に入らせていただく前に確認しておかねばならないことが色々あるのですが、例の大河ドラマについての文章以前に私の表裏両方のアカウント(両方ともプロフィールからツイログが見られます)を見たことがあれば、私がこれまで何について発言してきたかはおわかりになることと思います。

また、友人のブログには例の文章も含めて私がこれまでに書いたことをまとめたエントリーを「tatarskiyの部屋」というタイトルでいくつも掲載してもらっています。http://kaorusz.exblog.jp/
それらをご覧になればわかることですが、私は一貫して女性の性的ファンタジーに対する通俗な偏見と蔑視、及びその原因そのものである、この社会を支配する権力的な制度としての男性のヘテロセクシズムとホモフォビアへの批判を行なってきました。

そしてその中でも必然的に最も主だった話題は、男性同性愛の表象を愛好する女性が“腐女子”として“正常な女”からは分離したものとして扱われ、「女としてふさわしいあるべきセクシュアリティから逸脱した異常な存在」と見なされつつ、それに対する善意の“処方箋”として「ちゃんと“女としての自分”を受け入れられればまっとうな女として現実の男と関係できるようになる」だの「男同士の表象なんかに逃避せずにちゃんと“女性としての生き辛さ”を受け入れてフェミニズムに目覚めれば“成長”できる」だのという不当な中傷を受けることに対する抗議でした。
それもそうしたことをweb上で書くようになった直接的なきっかけは「腐女子がBLとして男性同性愛の表現を“消費”するのは、ヘテロ男性が女性に対して行なってきたのと同様の“搾取”であり、道徳的に糾弾されて当然の過ちだ」というゲイ男性による噴飯もののミソジニーに基づく暴論(それも言い出したのは立派な肩書きのあるアクティビストやクィア研究者です)から派生した、いくつもの不当な言いがかりを目撃したことでした。
本当に私が試みなければ誰も正面から反論しようとしなかったからです。

今でもそうですが、私は私以外に抗議すべき物事に対して抗議する人が存在し、それによって十分な効果を発揮していると判断できる状況であるならば、あえて自分からそうした物事に対して発言したいとは思いませんし、むしろ自分自身の性格としては本質的にはまったく不向きであると思っています。だからどれほど苛烈で自信ありげにみえる文章で抗議しているように見えても、内心では億劫で仕方がないほどですし、どう転んでも抗議した対象やその関係者からの恨みを買うのは避けがたい以上、なぜ私ばかりがそうした損な(時には“損”では済まないこともありました)役回りを引き受けねばならないのかと呪わしい気持ちを抑えがたいこともままあります。

あの大河ドラマについての文章も、完全にそうした必要やむをえざる取り組みの一環であったのですが、たまたま話題がそれまで私が関わっていたそれらよりもメジャーであり、その結果として貴方の目に留まることにもなったわけです。

そして、これが一番大きなことかもしれないのですが、何よりも私がこれまで書いたどの文章の中でも、自分のことを“腐女子”だとは名乗っておらず、そうした自己規定そのものを一切していないことの意味を認識していただきたいのです。
個人的な嗜好について言うのであれば、言うまでもなく私も男性同性愛の表象を愛好する女性の一人ですが、私が抗議し続けていることの本質として、それが私を有徴化される必要の無い“正常な普通の女性”から隔てられるべき“特殊な性癖”の持ち主として規定される特性を意味するという、極めて差別的な社会的前提そのものを受け入れるわけにはいかないからです。

もっと簡単に言えば「腐女子じゃない」ということが「私は男性同性愛の表現そのものも、そうしたイメージや関係性を明示されていないものの中に見出すようなことも好みませんし興味を持ちません」ということを意味すること、男性同性愛の表現を好むか好まないか、興味を持つか持たないかが女性に対する“踏み絵”として働いていること(他の性表現が女に対してこうした意味を持つことなどまずありえません)そのものが、女性に対してヘテロセクシャルを当然の基本とする現実の性的関係以外の「空想としてのセクシュアリティ」を本質的に認めようとせず、かつ当然のようにホモフォビックである制度的な男性のヘテロセクシズムによる抑圧の結果でしかないからです。

逆に言えば、男性同性愛のイメージを愛好する女性が“腐女子”を名乗っていることは、この社会の権力者である世間並みにホモフォビックなミソジニストとしてのヘテロ男性及び彼らの価値観を無自覚に内面化した男女にとっては、「正常な女のありようからは逸脱した“腐った”女が、その分際に相応しいレッテルを受け入れている」ことを意味し、それは彼女の性的ファンタジーや彼女の感受性と知性に基づいた発言それ自体と、実際に紛れもなく存在しているホモエロティシズムを感受することそのものを「取るに足らぬ“腐女子の妄想”」として片付けてかまわないという見下し──「どうせ腐女子だからそう思うんでしょ?」という蔑みに満ちた見解を補強してやることです。

そしてそれは同時に名乗る側の「皆様から馬鹿にされる存在であることはわきまえています。どうせ“腐って”いるのですから、何を言っても“しょうもない妄想”として大目に見てください」という差別との直面や摩擦の回避と表裏一体です。
これは完全に構造的な問題であり、「そんなつもりで名乗っているわけじゃない」という言い分が通用する次元の話ではありません。またそれは必然的に、「私のような女はそうやって馬鹿にしてくださってかまわないことを受け入れております」というメタ・メッセージを発することを意味し、男性同性愛のイメージを愛好する女性全てに対してそうした侮蔑の対象であることを“同類として”押し付けることでもあるのです。
もっとも、そうやって自虐的なレッテルの下で群れていれば、“全体”として侮蔑されることを受け入れることと引き換えに“個人”として浮き上がって叩かれる可能性からは遠ざかっていられるのでしょうが。
そして決まって「“腐的な妄想”とは別にちゃんとしたファンでもあるから」と嘯きつつ、自分が持つホモエロティシズムの魅力に対する感受性への蔑視を内面化していることを「ちゃんとわきまえている証拠」だと倒錯した己惚れと自己欺瞞を抱いているものです。

私が決して“腐女子”などと名乗ることなく、“ただの女”として一切のホモフォビアとミソジニーとヘテロセクシズムを前提とした女性に対する蔑視に抗議することは、自分自身の感受性と知性によって理解しうること、快楽であると感じられることの全てに対する不当な抑圧と──その抑圧者が何者であろうと──正面から向き合うことであり、必然的に“個人”として発言し注目され憎まれるリスクを否応なく引き受けること、その結果としてある種必然的に孤立することです。そして一度そうと決めた以上は、どれ程しんどいことがあっても投げ出すわけにはいかないことです。それでも友人の支えが無ければとっくに心が折れていたでしょうが。

そしてここからが本題なのですが、つまりは貴方と私では最初から“覚悟”の程がまったく違っていたこと、それ故に発言しうることの内容も、発言する際の前提として引き受けていたリスクそのものも、およそ比較にならないものであったことをまずは認識していただきたいのです。

失礼ながら貴方はおそらくさしたる抵抗感も無く“腐女子”と名乗りながらツイッター上で“公式”と無批判に戯れる無邪気なファンの一人として振る舞っておられたに過ぎず、そういう貴方がはっきりとした批判的意図を持ってあのドラマを批評した私の文章に対して、否定的ではない興味を持ったこと自体がある種のダブルスタンダードですし、その上「完全に同意できるわけではないけど」などという留保をつけたコメントをこれまた無邪気にしてくださった日には呆れるほかにありませんでした。
あの友人のRTとコメントはそれを見た私の精神的な苦痛と嘆きようを愚痴として聞いたからこそです。友人が「tatarskiyが何をやっているのかわからないからそんなことが言えるのだ」と言っていたことの意味は、ここまで読んでくださったならもうおわかりだと思いますが。

はっきり言えば、私があの文章の中でドラマの構成そのものにこれ以上ない程はっきりと浮かび上がっていた通俗なホモフォビアを指摘していたことなど、「“公式”を愛する無邪気な“腐女子”ファン」である貴方には、ツイッター上で具体的に言及することなどおよそお出来にはならないことでしょう?そして実際「同意できないのは結論じゃなくて細部なのに」とか嘯いておられただけでしたよね?なら私の“結論”と貴方が違う解釈をなさっていたらしい“細部”がどういったものであったかについて、もしお出来になるのであればそれぞれはっきり言及して下さい。
そんな“公式様”に対する批判がましいことが貴方に意識的に口にできるわけがありませんよね?
それとも今からでも「同性愛を悪や病理としてしか扱えなかった通俗なホモフォビアは残念だけど、ドラマとしては好きだし面白い」と仰って筋を通そうと思われますか?
後で詳しく述べますが、私がやったことは単に「誰かがやらねばならなかったこと」にすぎません。そしてそれをしたところで、私が得るメリットなど何一つありませんし、むしろ損失を被るばかりです。こうして貴方にツイッター上で悪口雑言を振りまかれ、メールで長文の説明に及ばねばならなくなっていること自体がいい証拠でしょう。

また私が最初にポストしたドラマ自体に対する批評の“細部”そのものが“結論”と不可分なものであり、そもそも批評において全体と照応しない細部などありえません。私が書いたあの文章は全体で作品の内と外に亘る一つの構造の指摘でしかありえないもの(同性愛や男性の女性性が悪や病理として意味づけられていたこと及びそのメタレベルの意味)です。そしてそれは私個人の好き嫌いや「自然な人それぞれの感想」などとはおよそ次元の違うものです。言っておきますが、そうしたそれぞれの感想それ自体は私も好んで収集していますし、貴方のところからも幾つか収集させていただいたことがあります。ですが何かを批評するというのはまったく違う次元の手続きが必要な話です。はっきり言えば、私が書いたものより「より精緻な批評」というのはありえても、「それぞれ平等に違う批評」などというものは成り立ちません。それは単に「どちらかが間違い」でしかありえません。

それから「直接こっちに言えばいいのに」とか言っておられましたが、そういう貴方が何について何を言われたのか最初はまるで明かしておられませんでしたよね。横から“助け舟”を出してくれたお友達の尻馬に乗っておられただけでしたよね?そしてお二人で私と友人を実に適当に悪者扱いにして悦に入っておられただけでした。あんな醜悪な真似をなさらなくても、私と友人のどちらにでも話しかけてくだされば、それがどんな内容であろうとたとえ罵詈雑言であろうと一対一でお聞きしましたが。
あの時の貴方は、それこそ“腐女子”として“分をわきまえて”群れている人の「個人としてリスクを負わず群れの一匹として仲間に頼る」という特権にぬくぬくと浴していたわけです。貴方が私のような否応なく孤立した、“公式”に対しても批判的な一個人でしかなかったら、あんな助け舟を出してくれるお仲間に恵まれたはずもありませんよね?

また別の話になりますが、私があの大河についての文章を書いたのは、ある種の予防的先制攻撃としての意味合いも大きかったのです。

というのは、あの文章の追記にも書いたことですが、要は“腐女子”への罵倒は本質的に男性同性愛に対する嫌悪感のすり替えであり、“腐女子”の人の自称自虐というのはそうしたホモフォビアを内面化した通俗な世間へのおもねりです。つまりその“自虐”は必然的にホモフォビアへの加担でもあるわけですが、当然ながらそれは女性が自身のセクシュアリティに対する自尊心を剥奪されている結果にすぎず、彼女をエンパワーメントすることなくさらに抑圧してもなんら解決しないことです。ですが呆れたことにゲイ男性(もしくはそのシンパ)の側でも権力者であるヘテロ男性との衝突の回避もしくはある種の“緩和”として「腐女子も自分たちへの差別に加担している」と言い立てたがる手合いが少なからずいます。

私はそうした手合いの妄言を相手にしたことは何度もありますし、正面から論破すれば一応はそれで済むのですが、ある意味彼ら自身より厄介なのが、そうしたこけ脅しの妄言を真に受けて「ちゃんと他の“腐女子”を批判しないと私までゲイ男性を差別してると思われる」と思い込み、ろくでもない“啓蒙”に奔る“模範的腐女子”が後を断たないことです。

そして私が危惧したのは、歴とした“肩書き”のあるゲイ男性もしくはそのシンパや何らかの“性的マイノリティ”、または“クィア研究者”が先にあの大河ドラマの内容への批判を然るべき場所で発表し、その中で直接ではなかったとしても、それに影響された連中が「あの大河での差別的な同性愛の扱いに“萌え”ていた腐女子も同罪だ」とでも言い出すことでした。
そしてそんな事態が現実になってしまえば、たちまち自称腐女子の人たちの間で近親憎悪的な“反省”合戦が始まるのは目に見えています。あるいは一切に目を瞑って“萌え”続ける人と二手に分裂して、後者が「腐女子の無反省の証し」としてヘイトスピーチの種に使われることになることも考えられますが。

それはともかく、あのドラマの中での同性愛の扱いそのものに倫理的な問題があり、それがドラマ全体のテーマや構成にまで及ぶ核心的な問題であるのは明白なのですから、そのことに対する指摘は、「必ず誰かがやらなければいけないこと」です。もっと言えば、私のやったことは、貴方がなさってもよかったはずのことに過ぎません。

tatarskiyより
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by kaoruSZ | 2012-08-29 16:55 | 批評 | Comments(1)