おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
「その夜寝台[ねだい]に二人の男あらむに」と聖書は記せり 黒き紅葉  ――塚本邦雄



ワイルド裁判と『モロー博士の島』
『モロー博士の島』出版(一八九五年)から三十年後に、H・G・ウェルズが自らの全集の序文で、この小説はオスカー・ワイルド裁判を念頭に置いて書いたと述べていることはエレイン・ショウォールターの著書『性のアナーキー』で知った。しかし、ショウォールターはその意味を完全に取り違えている。

 ウェルズ曰く――「その頃、スキャンダラスな裁判が、一人の天才のぶざまで哀れな失墜があった。この物語は、人間とは、動物が荒削りにされて形を成しているにすぎず、本能と禁止とが絶えず内部でせめぎあっている存在であることを思い出させるかの裁判への、想像力ある人間からの反応であった。この物語はそのような考えの体現であり、それ以外にはいかなる寓意も持たない。これは、荒削りで、混乱し、苦しむ獣としての人間というコンセプトをできるだけ鮮烈に描き出す、ただそれだけのために書かれた」

 批評家が「ワイルドとウェルズのつながり」を無視してきたとショウォールターは言う。しかし、彼女が主張する「つながり」とは奇妙なものである。『ドリアン・グレイの肖像』の登場人物を引き合いに出し、次のように述べているのだ。

「ヘンリー卿と同じくモロー博士も生体解剖者であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし、彼の場合は動物から人間を創造しようとする」「博士はまた(…)唯美的な科学論にのっとって苦痛や感情に無関心となり、その実験室はユイスマンスの部屋もしくはヘンリー卿のサロンの裏ヴァージョンで、そこで博士は科学のための科学のもたらす絶妙な感覚を楽しんでいる」

 そんな事実は全くない。ヘンリー卿が「解剖者」であるとは心理分析に長けていることの譬えにすぎず、モローは世紀末の唯美主義者になどおよそ似ていない。「女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうとし」云々に至っては、切り離して何が悪い(というか最初から切れてるだろう)というのを別にしても、読者にフェミニズム的な怒りをかき立てるための捏造である。結局のところショウォールターはフェミニズム的アピールの材料に使うため、ウェルズもワイルドもねじ曲げていると言わざるをえない。

 ショウォールターは『モロー博士の島』で手術台に繋がれている牝のピューマを、当時の「新しい女」と同一視したり、「この[獣人の]女たちは博士の文明化の試みにとくに頑強に抵抗する」と主張したりしている。ペンギン・クラシックス版『モロー博士の島』の解説者は作家のマーガレット・アトウッドだが、彼女もまた、ショウォールター的な主張を踏襲し、女=抵抗者と見なすことを熱望しているので、「ピューマは抵抗する」だの、「モローを殺すのは彼女である」だの、男の犠牲者に甘んじない抵抗の表象として牝の獣を祭り上げたがる。

 だが、こうした偏見なしに読めば、当然のことながら、ここで問題にされているのは現実の女ではない。抵抗する牝のピューマは、男の女性性――男が否認し、女に投影したもの――の表象だ。この小説が(ショウォールター自身言っているように)「大きな意味をはらんだジェンダーのサブテクストを持っている」ことも、「ワイルドとウェルズ」のつながりも、ウェルズがワイルド裁判を念頭に置いてこれを書いたと述べていることも、そう考えてはじめて意味を持ってくるだろう。

 ショウォールターは、「ワイルド裁判を念頭に置いた」というウェルズの文章を読んで、動物を生体解剖して学界から追放されたモロー博士をワイルドだと思い込み、ワイルドの別の小説の登場人物ヘンリー卿の特徴でモローを補強しようとしたのだ。信じられない。それでは全く主題との有機的繫がりが無いではないか。

 ワイルドをモデルにしてウェルズが描いた人物は、モロー博士のすぐ傍にいる。医学生だった十一年前、酒を飲んで、「ある霧深い夜に十分だけ正気を失った」ため、「スキャンダラスな裁判」の主人公と同様、「ぶざまで哀れな失墜」の結果、人間社会から追放され、モロー博士にスカウトされて島に来た、「混乱し、苦しむ獣」モンゴメリーだ。失敗の中身は語られないが、主人公プレンディックはモンゴメリーから身の上話を聞いたあと、「じつをいえば、若い医学生がロンドンから放逐された理由など、あまり知りたいと思わなかった。私にだって想像はつく」と言っている。ウェルズは読者に想像力を期待しているのであり、それはさして難しいとは思われないのだが。

コナン・ドイルとケイスメントの黒い日記
 コナン・ドイルにとって、ウェルズにとってのワイルドに相当するのがロジャー・ケイスメントであろう。日本では ワイルドに較べれば勿論、そうでなくても知名度が格段に違うこの名前は、日本語ウィキぺディアの記事としては最初の概説しか見当たらず、しかも英文ウィキの当該部分の最終節(全体の四分の一を占める)に当たる記述を完全に欠いている。外交官としての功績でナイトの称号を授与されながら、第一次大船中にドイツと通じたとされ、叛逆罪とスパイ容疑で処刑されたこのアイルランド独立運動の活動家は、英文ウィキによれば、逮捕後、ブラック・ダイアリーズと呼ばれる日記にかかわるスキャンダルに見舞われた。彼の日記には、若い男性を好むpromiscuous homosexualとしての行動が記されており、このことは彼の支援者に手を引かせる効果があったのだ。彼を擁護した者の中には、W・B・イェイツやジョージ・バーナード・ショーといった錚々たる名前が見られるが、コナン・ドイルの名はその筆頭に挙げられる。ドイルは以前からケイスメントと交流があり、彼の大きな功績である、ベルギーのレオポルド二世の支配するコンゴ自由国での原住民への残虐行為の告発を基に、大部のパンフレットを書いている。

 tatarskiyさんと電話で話すうち意見が一致したのだが、映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』に出てくるモリアーティの「赤い手帳」とは、要するにケイスメントの「黒い日記」だろう――「彼自身の犯罪とそれによって得た隠し資産の在り処」の記録ではなく。いや、確かに犯罪ではあっても別の「犯罪」であり、モリアーティはロバート・ダウニー・Jrのホームズにモランとの愛の日記を盗み読まれた上、ロンドン警視庁へ通報されたのではないか。

 すでにtatarskiyさんが論じているが、あの映画の(実は原作でもだが)モリアーティの犯罪は多分にホームズの妄想くさく、彼とモランをつけまわしたホームズが実際に目撃しているものといえば彼ら二人の親密さだけであり、モリアーティが鳩に餌をやりながら手帳を開いているのを見ただけで、それが犯罪と隠し資産の記録だと“気づいて”しまう始末だが、それでも当時の法に従えば、ホームズは単なるリア充カップルを(ケイスメントのように)破滅させられるだけの証拠を、確かに集めていた訳だ(手帳の中身を知ったレストレードはさぞ驚いたことだろう)。

『モロー博士の島』が科学技術をめぐる寓話ではなく、プレンディックとモンゴメリーという男二人の同性愛的な関係をめぐる話であることを私に指摘したのは、去年この小説をはじめて読んだtatarskiyさんだった。その後私(たち)はそれを実証する記述をテクストの中に次々見出すことになった。上に述べたのはそのほんのとば口である。『モロー博士の島』はここではとても書ききれない隠喩で満ちみちているが、「血の味」を知ることが同性愛の隠喩になっていること、実のところプレンディックが、発端から、言葉では拒否しながらたびたびそれを味わっていること、さらに、獣人と人間の連続性(進化論が可能にした認識)が、“同性愛者”という特殊な人間が存在するという“種族化”の不可能性の喩であることだけは指摘しておこう。
tatarskiyさんのホームズ物語読解(『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』分析の副産物)の一部はすでに公開したので(http://kaorusz.exblog.jp/19549811)、ウェルズの小説の二人の男が、ドイルの場合はワトスンとホームズに相当すると言ったとしても、心ある人には受け容れられよう。


夢想の部屋
「最後の事件」を久方ぶりに読み返して驚くのは、ワトスンがこんなに“信頼できない語り手”だったかということだ。勿論、一番目立つのはホームズの追跡妄想だが、モリアーティについての情報がホームズの口から出るものに限られるのと同様に、読者の知りうることはワトスンの語りに限られている。実は、犯罪王モリアーティさえ、ホームズから聞かされたという体裁を取った“作家”ワトスンの創作と考えるべきであろう。そう、私たちはホームズの助手だの伝記作者だのという慎ましい肩書、文筆には素人である医者の片手間仕事という見せかけに騙されて、ワトスンを見くびってきたのではないか。

 それはまた、同様の経歴を持つコナン・ドイルが“作家として”まともに扱われてこなかったということでもある。彼は志と異なるものが偶然売れてしまい、自分の書いたものの価値が理解できなかった作家ではない。たとえ小説が書けたとしても短歌よりもなお悪かったであろう新聞記者あがりの歌人とは違うのだ。

 ホームズとワトスンの登場する話は、多くの(正確には五十六の)短篇と四つの長篇として散らばっているが、実際にはひとつらなりの、ワトスンが下宿をシェアすることになった驚くべき人物に関心を寄せ、相手を知ろうとするのにはじまる長い関係とその終り(どのような?)が書かれているのであり、結局ドイルも彼らと人生をともに歩むことになった。始まりでは二人とも二十代の終りくらいだが、ワトスンは従軍と戦傷のせいで引き延ばされたモラトリアム状態にあり、彼らはコンラッドのThe Secret Sharerのように住まい(と秘密)を分かち合うことになる。

 ホームズとワトスンに比べればあまりにも短い時を共有する、コンラッドの船長と海から来たその分身については以前書いたことがあるhttp://indexofnames.web.fc2.com/etc/conrad_men3.htm が、そこで私はロラン・バルトがジュール・ヴェルヌの『海底二万里』について、閉ざされた「室内」に引きこもり自分だけの夢想に浸る喜びこそが幼年期とヴェルヌに共通する本質であると論じている文章を引き合いに出した。最近、創元推理文庫版の『シャーロック・ホームズの復活』を読んでいてその「解説」に、『シャーロック・ホームズの記号論』という本に収められたシービオクとマーゴリスによる「ネモ船長の船窓」が、ノーチラス号とベイカー街の下宿との共通性を説いていることが紹介されているのに出会ったが、彼らは無論バルトを参照している。この「共通性」は、彼らを引用している解説者が思っている以上のひろがりを持つものだ。
ワトスンをこの閉ざされた夢想の部屋(そのあまたの“冒険”にかかわらずホームズはずっとそこにとどまっている)からともかくも一度は出て行かせることになったきっかけは、言うまでもなく『四つの署名』で知り合ったメアリ・モースタンとの結婚である。そしてその結果が「最後の事件」に他ならない。

「最後の事件」とは何か
「最後の事件」は、それが発表された現実世界のドキュメントに見せかけたプロローグとエピローグ、そしてその間に挟まれた“妄想”から成る。最後のものは、一見、妄想に取り憑かれたホームズを、それに気づかぬ鈍い語り手のワトスンがリアリズム的に描いているかのようだが、それがワトスンの詐術である(いや、詐術などと言わずとも普通に「小説」と呼んでいいのだが)。彼らの同時代人だったフロイトが示したように、妄想と夢と小説は同じ品柄でできており、同じ論理に従う。それが或る時は現実の写しと見せかけていたり、ホームズの言動のようにあからさまに妄想的だったり、ワトスンの語りのようにニュートラルな叙述と見せて実は“夢”だったりという違いがあるだけだ。
 例の『シャドウ ゲーム』は、ほぼ全篇ホームズの夢と言ってよさそうだが、「最後の事件」は、本当に起こったことを明かすわけにいかないワトスンが代りにペンを持って紙上で見た、とりつくろわれ、再構成された夢なのだ。

 モリアーティが実在しないのはまず間違いない。ドイルも、はっきりそれを読者に示すつもりで書いていると思われる。ホームズは言う――「僕は幽霊など信じはしないが、いまがいま考えにふけっていた当の本人が、とつぜん目のまえに現われたのには、思わずドキンとなった」。幽霊ではないにしても、ドッペルゲンガーだろうそれは。
 すでに別にツイートしたがhttp://twilog.org/kaoruSZ/date-121104 ホームズによって描写されるモリアーティの外見自体、彼自身のものとして私たちが知っているものにそっくりなのだし、そもそもそうやって話しているホームズの、深夜のワトスンの診察室への出現そのものが、語られているモリアーティのホームズ訪問の反復である。さらに、モリアーティの部下に襲撃されたとホームズが主張する出来事は、どれも単なる偶然が、ホームズの妄想に取り込まれたとしか思えない。モリアーティの姿を見たと彼が言っている箇所も同様だ。

 ここまで明らかなことをワトスンはなぜ指摘しないのか。なぜホームズに、それは君の妄想だろうと一言云ってやらずに口をつぐんでいるのか。理由は簡単だ。その妄想を作り出しているのは実はホームズではなくてワトスン自身、作中人物ではなくてそれを書いている作家としてのワトスンだからである。(続く→http://kaorusz.exblog.jp/19707256/
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-22 07:47 | 批評 | Comments(0)
              彼は再発明された愛、そして永遠だ。――「イリュミナシヨン」

§
 昨日はtatarskiyさんとまず上野へ、上高近くの古い住宅を改装した隠れ家的ティーハウスを見つけてお茶したあと、紅葉終りかけの不忍池でスワンボートに乗る。ボート三隻しか出ていない水面に鷗の群が低空飛行。最後に、明日まで夜間開園の六義園へ。その前、上野駅のつばめグリルにいた時に地震。
 帰ってきて椅子でうたたねしていたら電話で起こされた。別れたばかりのtatarskiyさんが、ホームズとワトスンを“ブロマンス”の例とするツイートが多数出回っているのを見つけて、怒り心頭でかけてきたのだ。そりゃひどい。ホームズはホモソーシャリティから切れた人。彼が「男の友情が」とドヤ顔するなんて考えられるか? 「僕の友人は君だけ」の人だよ。ワトスンと二人で全世界に対抗する白い手と甲高い声のクィアーじゃないか。性的であることをあらかじめ絶対的に除外するというのはたんにホモフォビックだと知るべき。

“ブロマンス”の代表ならイシハラとハシゲとでもしておけ。(それにしてもアレをつかまえて自分の牛若丸って、みじめだと思わないのか。若さに輝いていた頃の弟のような青年ならともかく。TV無いから見てないけど薹の立った牛若丸もデレデレだったらしいね。醜悪極まる。)そもそも「女」や「ホモ」を石原が憎むのは内なる女性性を死ぬほど恐れているから。感じるように考え考えるように感じるホームズのような人とは正反対なのだ。(12月8日)

§§
 tatarskiyさんが映画『シャーロック・ホームズ シャドウ ゲーム』を見たことに端を発して、ホームズ物語(それ以外のドイル作品も)再読と発見の日々ははじまった。その直前まで私たちは、主に折口信夫の小説作品に関して同様の発見の日々を分かち合っていたはずなのだが、とりあえず折口は脇に置き、トールキンのことも忘れて。トールキンと言えばコナン・ドイルは、いろいろな意味でトールキンに比較されるべき作家であろう。先入見(前者は大衆小説、後者は学者の手すさびの“児童文学”と見なされて)によって真価を知られないままであることにおいて。新しいジャンルの創始者と思われているが、実は隔絶した孤高の作家であることにおいて。そのジャンルの後継者を自認する者はあまたいるが大半は凡庸なジャンル作家そのもので、創始者は理解されないまま、しかもその理解されなさのほどが半端ではない!
 そして何と言っても、同性愛を明示的に描くことが不可能だった時代に、それを主題として書き(勿論巧妙に隠して、しかもあらわに見せながら)、そのことが今なお発見されずにいるという点において。

 すでにtatarskiyさんの書いたものを映画についても原作についても載せているが、私の連続ツイートも以下にまとめてみた。別に中断しているものもあるが、完了させたらたら載せるつもりだ。

§§§
 昨夜は図書館で河出書房版(オクスフォード版の翻訳)のホームズ全集の(おもに『事件簿』の)注釈と解説をチェックしていた。ホモフォビックなのはかねて聞いていた通りだったが、ホモフォビックとは、たんに「ここには同性愛を示すものが何もないということを指摘しておく価値がある」という文句が突然出てきて唖然とさせられるという現象だけを指すのではない。そもそもそういう精神は批評に全く向いていないのだ。
 とはいえ、これは警察の捜査のようなもので、組織的にやってくれるからこっちとしては大いに助かる。だが、悲しいかな彼らには読み方が分っていないから、膨大な集積もとんちんかんな解釈の連続、宝の持ち腐れなのである。

「高名な依頼人」については別にツイートもしたばかりだが、あの中にホームズが「ヨーロッパ随一の危険な男」と呼ぶグルーナー男爵について次のように言うくだりがある。「複雑な性格と見えますね。犯罪者でも“大”のつく連中は、みんなそうしたものです。わが古馴染みのチャーリー・ピースなんかはヴァイオリンの名手でしたし、ウェインライトも並みの芸術家ではなかった。ほかにも枚挙にいとまなしということです(…)」

 このウェインライトなる犯罪者が実在したことを注釈で知った。オスカー・ワイルドが『ペン、鉛筆そして毒薬――緑の研究』をものしている毒殺魔というではないか。注釈はそれ以上触れていないが、これは “Pen, pencil and poison”に“A study in green”と副題してワイルドがドイルへのオマージュとしたものだ(ちなみに塚本邦雄の歌集『緑色研究』の題はここから来ており、無論ワイルド→男色=緑色の意)。

 ホームズが名前を挙げた「大犯罪者」二人のうち、前者はヴァイオリンの名手ということで明らかに彼自身に重なり、もう一人がこのウェインライト、調べてみると「芸術家」とは比喩ではなく、文学も絵画も手がけたらしい。「ペンと鉛筆と毒薬」とはその道具の謂と今さらながら知る。それらを使うわざ(毒薬以外)にいそしみつつ流刑先のタスマニアで没した由。塚本は歌集で二つの「研究」の表題を挙げ、自分は毒の方に関心があると称していたが、私たちの解釈を聞く機会に恵まれていればドイルとホームズにより関心を抱いたであろう。ホモソーシャリティに安住した女嫌いでは、見える幻にも限界があるというものだ。

 実在の、そしてオスカー・ワイルドと関連づけられたウェインライトが、犯罪者と芸術家を兼ねるのは、そしてホームズ自身が彼と同一視されうるのは偶然ではない。探偵は犯罪者でもある――ホームズはいかなる意味でも警察の側の人間ではなく、警察がその典型である制度的な見方とは違うふうに感じ/考え、見、読み取り、享受しうる。これは芸術家には絶対的に必要なことで、だからこそホームズは芸術家でもありうるのだし、制度的な異性愛の男が考えることと感じることを切断されて住まう貧弱な世界とは違うありようを生きる者でもありうるのだ。

 だが、なぜそれが“犯罪”なのか? R・L・スティーヴンスンが『ジキル博士とハイド氏』を発表したのと同じ月に発効した、そして『四つの署名』が載ったのと同じ雑誌の同じ号に『ドリアン・グレイの肖像』を書いた作家を失墜させた法律が、かの探偵の活躍期間を通じて有効だったのは確かである。この間[かん]、英国において同性愛は名実ともに犯罪であった。すでに畏友tatarskiyが端的に指摘しているが(kaorusz.exblog.jp/19664604/ )ホームズ物語に顕著な「過去の因縁」「秘密」「恐喝」「嫉妬」といったモチーフは、実はその大半が同性愛を主題に持ちながら異性愛のデコレーションで偽装されており、中のケーキは誰も手をつけないままであるのだ。

『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』は、「ゆすりの家」と名づけられた家の「秘密のドア」(ハイド氏が出入りするのがが目撃される。実は、ジキル邸の、別の通りに面したバックドア)についての会話に始まり、ジキルの書斎のドアが強引に打ち破られることによる秘密の暴露と主人公の死で終っていたが、ホームズと“彼の”犯罪物語は、「秘密」「恐喝」のモチーフを直接受け継ぎ、男たちの孤立した寒々しい死しか想定されなかった地点で始められながら、ついには「愛の再発明」(アルチュール・ランボー)にまで到らしめるという稀有な達成を遂げ、しかもそれを誰にも知られぬままだったのである。

 tatarskiyさんも前記の「『シャーロック・ホームズの冒険』読解メモまとめ」でほのめかしているが、初期の短篇のホームズは『ジキル博士とハイド氏』や『ドリアン・グレイの肖像』の世界から直接やって来たのであり、その「二重の魂」(ポー)は、先輩格の元祖引き込もり探偵にばかり倣った訳ではない。犯罪捜査と称して阿片窟に入り浸ったり、コカインを用いたりするのは、ハイド氏(ホームズもまた魔法のように別人に変身する)の夜の街での“悪徳”の正体がけっして明言されなかったのと同じ置き換えであり、彼は自分が熟知するロンドンの犯罪者と実は一つ穴のむじなである“犯罪者”であるのだ。

 一方、ワトスンはアフガン戦争での負傷によってモラトリアムを引き延ばされ、恩給と恐らくは親の遺産(とその運用)でホームズと下宿代を折半する暮しをしながら、作家になる夢も捨てていない医師として、つまりは開業していることを除けば彼らがその頭から出てきた当時のドイルと似た境遇の青年として登場した。彼は少なくともドイルに匹敵する力量を持つ作家になり、向う側の世界、すなわちドイルが存在せず、ワトスンが同居する探偵と彼自身との冒険物語の作者として知られる世界では歴史小説の(この分野に少なからぬ野心を持つ)書き手でもあったろう。周知の通り彼は『四つの署名』の依頼人として知り合ったメアリ・モースタンと結婚し、この仮住いをいったんは捨てて一家を構えることになる。

 tatarskiyさんが言うように、自身は秘密を持たぬ常識人のワトスン(ホームズより知力の劣る凡庸な人物という誤解を生んだ)は、ホームズとは誰であるかを、読者に代って、読者とともに探求する視点人物であった――ある時点までは。言うまでもなくその時点とは、原題をThe final problemという「最後の事件」の時で、ワトスンの結婚すらやりすごして先送りされ誤魔化されていた問題がついに表面化した時、彼がそれまでホームズと自分の間に存在することさえ気づいていなかった――と言えば嘘になろう、彼がホームズのうちに見ていたもの、彼を惹きつけてやまなかったものはまさしくそれに関連するのだから――問題が最終的な形であらわになる時であった。

 周知の通り「最後の事件」は、〈二人〉が死に向かい、〈一人〉だけが帰ってきた物語である。〈二人〉をホームズとモリアーティと見せかけたのはドイル=ワトスンの小説家としての手腕、語りえぬものをいかに語るかという追求の結果であった。ライヘンバッハの滝壺には彼ら二人が今も横たわるとワトスンは記すが、本当はそこでホームズと一緒に死ぬはずの者は彼だったのであり、ここでワトスンは己の死を幻視しているとも言えよう。十年後、ドイルが「空家の冒険」を発表することで公式には帰還者はホームズとなる。しかし、モリアーティは(作品世界において)本当は存在しないのだから、〈二人〉とはホームズとワトスンであり、帰ってきた〈一人〉はワトスンなのである。

「最後の事件」の隠された物語についてはすでにtatarskiyさんが書いている。http://kaorusz.exblog.jp/19549811/ それに続くエントリも併せて参照されることをおすすめする。「最後の事件」と「空家の冒険」に関しては私たちはすでに、本当にあった出来事の順番や詳しい細部まで突き止めているが、それについては別の機会に譲りたい。

 あらためてお断りしておくが、私たちはこうした読解を「多様な解釈」の一つとして提出しているわけでは全くない。一見似たような試みと私たちの仕事とは何の関係もない。これは対象についての恣意的な空想ではなく、あえて言えばホームズのやっているのと同じ推理によるわけで、いかにありえないことに見えたとしても妥当と思えるならそれが真実なのである。対象を本当に知る気があれば、これらの物語はこれ以外に読みようがないと、そしてその気になればそれは誰にでもはっきり見てとれるものだと私たちは考えている。

 急いで付け加えておくと、これはいわゆる二次創作的なものの否定ではないし、細部をあれこれ想像することを「恣意的な空想」と貶めたいわけでは全くない。評判の映画やTV番組も(私はTVを持ってすらいないので見られないだけで)機会があれば見たいと思う。そうしたものはすべて、特に二次と称する必要もない普通の「創作」だし、ホームズとワトスンの関係をホモエロティックなものとするのは原作がすでにそうなのだし、明示的に描くわけにいかなかったドイルが様々な工夫を凝らしたところでもある。

 私がクズだと思うのは、例えば二人について「同性愛でない」といちいち断わらなければいられない輩であり、「最後の事件」後の行方不明期間にホームズはアイリーン・アドラーと暮していたとか言う世にも下らない空想を書いていると漏れ聞くグールドとかいう男である。はっきり言っておくがホームズ物語はガチである。そういうヘテロ妄想は原作と原作者に対する冒瀆だ。

 アイリーン・アドラーについて言えば、おしなべて顔のはっきりしない女しか出てこない原作の中で、なぜ彼女だけがくっきりと鮮やかな輪郭を持つのか。the womanだから? その通りなのだが、そういう貴方がthe womanの意味を判っているとはとても思えない。女と聞いただけで、ヘテロセクシストどもは男とつがわせることしか頭にないから、ホームズと同棲とか言う馬鹿げた発想が出てくるのだ(というか、それ以外の発想はないのだろう)。原作を観察してみよう、ホームズのように。あんな短い話で、アドラーについての言及はさらに短いのに、どうしてみんな見落すのだろう。

 アドラーに夫がいることをどうしてみんな無視するのか。彼女の夫についてホームズが何と言っていたか思い出してごらんなさい、というのがtatarskiyさんからののヒントである(私は思い出せなかったが、その後電話で話すうち、彼女も気づいていなかった「アドラーの本当の正体」に思い至った)。

 ホームズの失踪と帰還という折り返し点以降の語り手としてのワトスンに話を戻すと、ホームズの「正体」を知った彼には、それまでのように読者の代りとしてホームズを見、事件について率直に語るというポジションは不可能になる。tatarskiyさんが言うように、以降は読者に対する“裏切り者”であるしかなくなった。逆にそれはホームズとの共犯関係が成立したということでもあり、再びベイカー街に戻ってきた(というかむしろ連れ戻された)後のワトスンは、ホームズとその秘密――あるいはむしろ“彼らの”秘密――を守ることに力を注ぐ。

「過去の因縁」「秘密」「恐喝」等のモチーフはここでも重要な役割を果たす。「空家の冒険」はほとんどセルフ・パロディであり、仲間を死なせて一人戻ってきて今は経済的にも安定し、申し分ない紳士として行いすまして暮している(メアリは真実を知ってしまったことだろうが)ワトスンの前に、昔の悪い仲間の亡霊としてのホームズが現れて気絶させる。チベットに行ったとか何とかいうのはハガードの読み過ぎで、女と一緒だったとは作り話としてもお笑い草である。実際にはメアリの容態をマイクロフトから絶えず知らせてもらっていて、ワトスンが独り身に戻ったらすぐさま帰る気でいたのだろう。ヨーロッパを離れたりする訳がない。

 河出版の解説(やっとここへ戻って来た)では、ある時期以降のワトスンの秘密主義、孤立化、親密さ(ホームズとワトスンの、またワトスンと読者の)が失われてゆくことが指摘され、それは正しい観察だが、しかしロブスンとかいうこの解説者は、何とそれを英国の衰退に結びつけて感傷的なお喋りをしている。要するに、芸術が分らないから時代背景とか政治問題を論じて批評と称する者がここにもいたのだ(それならば最初から芸術について語ったりしなければいいのに)。無論彼らに「空家の冒険」のホームズが、ワトスンの秘密の共有者、脅迫者にして性的誘惑者であることなど分る訳がない。

 ワトスンの秘密主義や孤立化、読者との親密さの喪失といったものは、tatarskiyさんの言うワトスンの読者への“裏切り”によって説明される種類のものである。ホームズとワトスンの親密さが減じて見えるとしたら、それは二人の関係の新たな段階を隠そうとした結果に他ならない。

 ドイルの作品はロブスンが考えるような安易に時代を反映する通俗小説ではない。ホームズものの同時代の読者たち、「最後の事件」に怒り、「空家の冒険」に殺到した読者たちの生きる世界はドイルの生きていた世界そのものだったが、作中世界は創造者としてのドイルの息吹によって生を与えられた別世界、この世界と細部に至るまでそっくりでありながら別物の、言ってみればJ・R・R・トールキンなら「アルダ」と呼んだものであったのだ。ホームズとワトスンが“現実に”生きるその世界は、ドイルの明確な意図をはっきり反映したものである。そこではサー・アーサー・コナン・ドイルの名など誰も聞いたことがないが、ナイトの称号を辞退したシャーロック・ホームズは実在し、彼を男のミューズとする作家ワトスンがホームズ物語の作者として知られている。そこで彼らは勝利する。ドイルはサー・ロジャー・ケイスメントを助けられなかったが、彼処ではホームズとワトスンが社会から抹殺されることなく添い遂げるのだ。

 たぶんそこではワトスンは私たちが読んで受ける印象より遙かに有名人で(ドイルがいないのであるから)、存命中は陰口や中傷やもっと深刻な讒言の種であった彼らの関係は、次第に広く、当然のこととして認識されるようになり、今では公然たる男同士のペアとして通用していることだろう。ホームズが隠遁し、ワトスンも二度目の(偽装)結婚相手が死ぬとそこへ行って住んだ家に近い、英仏海峡の白亞の断崖を見下ろす彼らの墓は(ワトスンは探偵小説と限らず大きな影響を受けたポーの「アナベル・リー」の詩句を墓碑銘に選んだかもしれない)ゲイの巡礼地になっているに違いない。ワトスンのブリキの缶の中に残されていた書類や原稿も今では出版され、彼らの画期的な伝記も書かれていよう。グラナダTV版はあったろうが21世紀に入るといよいよ当時は発表不可能だった彼らの本当の話が映像化され、感動を呼んでいるはずだ。ブロマンスとか下らない事を言っていないで現実も早く虚構に追いつくべきだ。

 河出版の注釈にはケイスメントの黒日記のことが載っている、しかも「高名な依頼人」の茶色のノートの発想の元ではないかと書かれていることも、tatarskiyさんからすでに聞いていた。そんなふうに一般に知られているのなら『シャドウ ゲーム』の赤い手帳は絶対そこから引用したね!と思った訳だが、実際に見ると残念ながら結構首をかしげる内容だった。

 ケイスメントのことはこのあたりでも(H・G・ウェルズについてのあとで)http://twilog.org/kaoruSZ/date-121121 書いたが、今ではウェルズにとってのワイルドにも増して、ドイルにとってのケイスメントは重要だったのではと考えている。

 ロジャー・ケイスメントは英国外交官としての功績でナイトに叙せられた後、職を辞してアイルランド独立運動に身を投じ、第一次大戦中の1916年、ドイツと手を組もうとしたとして帰国時に逮捕され、絞首刑になった。その際ドイルは弁護費用の大半を負担して他の文化人とともに彼を擁護したが、「ポルノグラフィックでホモセクシュアルな」Black Diariesのスキャンダルで多くの擁護者は手を引いた。現在では名誉回復されてサーの称号も復活(ホームズの叙爵話と較べ合わせて頂きたい)、遺骨はダブリンへ戻されて国葬後、再埋葬され、彼自身はゲイアイコンにもなっているという。

 このケイスメントの“日記”について、注釈は「高名な依頼人」の登場人物グルーナー男爵が女たちとの情事を綴った「茶色いノート」の「着想の源に」なっているのではないか、「彼にこうした武器の有効性という着想を得させたのはケースメントの一件だったかもしれない」と述べており、それ自体は妥当であろうが、しかし、ケイスメントという人物のドイルにとって意味するところの重大さに較べ、単なる「着想」とはまた随分枝葉末節(のみ)にこだわったものだ。「武器」とはこの場合、世間知らずの令嬢に男爵の色魔(古い言葉だ)ぶりを示して彼との結婚を諦めさせるためのそれで、間違っても男爵を死に至らしめるようなものではない。

 黒い日記へのドイルの反応を記した箇所も全く適切とは思えない。「こうした性的妄想(ケースメントの場合は同性愛)は問題となっている重大事件に比べれば」些事にすぎないと「軽蔑的な指摘をして見せた」とあるのだが、問題とされたのは、性的な記述一般でなく、あくまで男同士のそれである。この注釈はそれが同性愛である事の重大さ(叛逆罪で処刑する程の罪状でないところをスキャンダルと併せて反感を煽れば文字通り葬り去れるほどの重大さ)を軽く見せると同時に、ドイルの軽蔑の対象と、彼にとって何が重大だったかを曖昧にするものだ。
 
 英文サイトにわかりやすい記述があったので紹介しよう。ドイルが日記の中身を見ようとしなかったのを同性愛に対する嫌悪感からのように言う人がいるが、ありえないと思う。

http://soalinux.comune.fi.it/holmes/inglese/ing_casement.htm
“…he[Doyle] controversially repelled the emissaries of the British Government who came touting the pornographic homesexual diaries ascribed to Casement - and,as he (and he alone) said, these could have no bearing on a charge of treason which was graver than anything they might contain. (by Giovanni Cappellini)

(大意; ドイルはケイスメントのポルノグラフィックでホモセクシュアルな日記を押しつけようとした英国政府の使いに対し、反論して彼らを追い返した。彼は(彼だけが)こう言ったのだ――これらの日記と叛逆罪の容疑とは、何の関係もない。日記に何が書いてあろうと叛逆罪の容疑の方が重大だ。)

 注釈はまた、ドイルは「男爵とケースメントを類似性のある人物としては描いていない」と指摘するが、写実的に描く以外の言及の仕方があるとは思わないのか。これもまた何も分かっていない――ケイスメントと同性愛を重要だと注釈者が考えない=考えたくない――からこういうことしか言えないのだ。「高名な依頼人」は現在進行中の別の連続ツイートで扱っているので、この話題はそちらに譲ることにする。※

※「『高名な依頼人』ノート」としてまとめた。http://kaorusz.exblog.jp/21426732/
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-20 07:50 | 批評 | Comments(0)

虔十公園林再訪

虔十公園林再訪   死後の作品の運命    


 宮澤賢治は死の床で自分の書いたものについて父親に、あれは迷いの跡だから捨ててくれとカフカのようなことを言っていて、そんなことをしそうにない相手に言ったのもカフカと同じだが、無論これは行く末を見届けることのできぬ作品への執着の裏返しに過ぎなくて、カフカは奇妙な小品『家父の心配』で、何の用途も目的も無く家の中を動き回っていて自分の死後までも生きつづける謎の物体オドラデクに対する父の気がかりという形でそれを書いたが、賢治は、「雨ニモ負ケズ」のデクノボーそのもの(ただし賢治のような実践は伴わない)である虔十=賢治の死後、「アメリカで教授になって故郷へ帰って来た」ような人によって真価を見出され(そのような“教授”自体彼には死後の栄光と同じほど空想的な存在だったろう)、虔十が作った杉林が遠い未来に「虔十公園林」としてその名を刻んだ「青い橄欖岩」の碑によって顕彰されるという、願望充足の夢それ自体を作品化した。

 どんな王侯の大理石や金の記念碑も私の詩よりは保たないからこの詩に歌い込まれた君は永遠に生きると英国の文豪も愛する青年に捧げた詩で言っていたが、賢治も本物の石碑より長生きする(無論その時点ではそれが確信できた訳ではない)作品の中に、現実の栄光に先んじて紙の上の顕彰碑を据えた訳だ。

『虔十公園林』は児童文学全集の最初に買ってもらった一冊「日本童話名作集」に入っていて、私が初めて読んだ賢治の作品だったと思う。その後いとこのお下がりで『風の又三郎』『セロ弾きのゴーシュ』『銀河鉄道の夜」『グスコーブドリの伝記』が一冊になった本をもらい、他に雑誌のダイジェストか何かで『注文の多い料理店』を読んだ。そして多分それより前に、「偉人」のエピソードを子供向け読み物にした本(これもお下がり)に入っていた、風変りな実践家(他の人とは違う先覚者で商品としての花を育てる人)として描かれた賢治像にも出会っていた筈だ。

『虔十』が他の「お話」と異質なのは一目で見てとれた。筋立ての特異な面白さも幻想的な道具立てもなく、エキゾティックな命名による異化もない(人名だけではなく、例えば『グスコーブドリの伝記』のオリザの正体にすぐには気がつかなかったが、そう名づけられていなければ普通に東北の悲惨な冷害と飢餓の話である)。

『グスコーブドリ』は、思い返すと、紫がかった薄墨か淡彩の抑えた色調で描かれた印象で、ブドリと妹のネリは飢饉以前は森で山鳩の鳴きまねをしたりブリキ罐で百合の花(だったか?)を煮たりして遊んでいて、およそかけ離れた環境にあって読んだ私にもその親密な空間は伝わってきた。東京で一番緑の少ない区で生れ育ち、庭の外へは一歩も出ずに弟と日々遊びを考案するのとそう違っては見えなかったのだ。

 火山島にしても博物館の模型のようで(実際クーボー大博士によってそのたぐいの仕掛けが示されもする)、要するに全体が作り物めき、箱庭めき、人形劇の舞台めいている。それが子供にとって魅力的な空間であることは言うまでもない。『銀河鉄道の夜』でも、少年だちが旅する銀河鉄道は、天澤退二郎も指摘するようにあらかじめジョバンニの回想の中でカムパネルラの所有する鉄道模型として示されている上、「午後の授業」で先生が教えるのは天の川が実は星の集まりであることだし、夜の町で照らし出された飾り窓にジョバンニが見出すのは、これから旅する世界の見取図に他ならぬ星座のミニアチュールである。

 そうやって密かに準備された断片があたかも計画されていたかのように組み合わさって、気がつくと昼の残滓のブリコラージュによる《夢の仕事》そのものとして汽車は走り出している。そこで彼が見出すカムパネルラは、私の読んだ古い版では、死者であることをすでにジョバンニが知っていることになっていた。いや、正確には、「カムパネルラの死に遭ふ」くだりが入眠の前に置かれることで、カムパネルラ自身は自覚していないその死がジョバンニには既定の事実であり、そのことが各自の態度に反映しているかのごとき効果か生じていたのだ。今では賢治がそのように原稿を配した事がないのを私たちははっきり知っている。

 それにしても、“お下がり”の版では夢の始まりと終り、『銀河鉄道の夜』が未完であることの明確な指標であるその部分に、(ここで何枚かの原稿が失われています)という文字が入っていて、もはやどうすることもできないとりかえしのつかないことがこの世にはあるという事実を、幼い子供にまで告げ知らせていたのだった。
 作者の死による取り戻しようもなさとはまた、それが自然発生的な伝承のたぐいではなく、固有の生と死を持つ作者によって操作されたものだという虚構性についての意識でもある。初期形ではジョバンニの夢を統御していたとおぼしい、「遠くから考へを伝へる」実験をしていた、虚構性そのものの具現とも言えるブルカニロ博士が夢のはじまりと終りに介入しているのだが、私が最初に読んだ版では覚醒後にのみ登場してジョバンニと言葉を交わす博士は、今日知られているところでは最終的には作品から消える運命で、入眠時と目覚めの際の原稿の混乱はその消滅の過程を物語るものであった。

 虔十の杉林に言いがかりをつけ、暴力さえふるった隣人平二の死を、賢治は、平二が虔十の頬を「どしりどしりとなぐりつけ」る憎むべきエピソードの直後に告げるが、読者が快哉を叫ぶ暇など無い。虔十自身の死がその一つ前の文で、「さて虔十はその秋、チブスにかかって死にました」と、これ以上ない簡潔さで記されているからだ。「平二もちょうどその十日ばかり前に、やっぱりその病気で死んでいました。」読者にほっとする間を与えぬ語りと時間のこの捩れ。杉苗を植えた者と杉林を脅かす敵とをたった二行で片づけた語りは、「そんなことはいっこうかまわず、林にはやはり毎日毎日子どもらがあつまりました」と続ける。そして、「お話はずんずん急ぎます」というあの驚くべき一行が来る。これは生きたまま死後へ踏み込んで行こうとする賢治の宣言であり、「そんなことはいっこうかまわず」とは、通常子供は作者についてなど気にしないという以上に(あるいはそれを口実に)、「虔十は……死にました」というノイズにできるだけかまうまいとする、死という事件をかぎりなく薄いものにしようとする、語りの意思のあらわれだろう。

「つぎの年」、村には鉄道が通り、停車場ができる。「そこらの畑や田はずんずんつぶれて家が立ちました。いつかすっかり町になってしまったのです。」しかし虔十の林だけは、「どういうわけかそのままのこっておりました。」「子供らは毎日毎日あつまりました」(とは、これで三度目の繰り返しになる文章である)。「虔十のおとうさんも、もう髪がまっ白です。まっ白なはずです。虔十が死んでから二十年近くなるではありませんか」と、賢治の筆はここでも僅かな行で時の経過を、変ったものと変らなかったものとを書きおおせる。これに匹敵する変化は『グスコーブドリ』にも見られるが、それはブドリが大人になるという、読者である子供には不可能な時間の経過があるからで、実は『虔十』の場合もここで真に必要だったのは、子供が大人になるまでの時間、つまり杉林に「毎日毎日」集まっていた子供たちが成長して、いったん村を離れて後、虔十のことを思い出し、杉林とその作者を別の目で見るようになるまでの不可能な跳躍に他ならない。

『虔十』が『グスコーブドリの伝記』や『銀河鉄道の夜』と異質なのは、そこがイーハトーヴなどではなく、賢治が現に生きていた辺り、鉄道が通ることによって早晩変貌を遂げ都市化してゆく東北の村であったからでもあり、子供の読者にとっても、それはジョバンニたちのいた架空の舞台ではなく、自分の生きている場所と地続きであることは明白だった。
 そこで「二十年」が経つ。子供にとって永遠と同義ですらある時間によって隔てられたその場所は、私にとって過去だったのか未来だったのか、賢治がすでに物故した「昔の人」であるからには、それは過去だと感じられたのだろう。第一、物語というものはすべて、過去のある時点ですでに起こってしまったもの、「とりかえしのつかないもの」として語られている。

「ある日、むかしのその村からでて、いまアメリカのある大学の教授になっている若い博士が、十五年ぶりでその故郷へ帰ってきました。」昔の面影をさらに留めぬ故郷で、唯一、変らないものを彼は見出す。「ああ、ここはもとどおりだ。(…)木はかえって小さくなったようだ。ああ、あの中に、わたしや、わたしのむかしの友だちがいないだろうか。」かつて虔十の林で遊んだ子供がそうなったという博士の顔は、私には想像できなかった(大人とは子供のあらゆる想像を越えたものだ)。とはいえ博士のこの感慨は、成長するにつれて共有せざるを得なくなったものではある。ここは今学校の運動場なのかという博士の問いに、彼に講演を頼んだ小学校長は「ここはこのむこうの地面なのですが、家の人たちがいっこうにかまわないで、子どもらのあつまるままにしておくものですから」まるで附属の運動場のようになってしまったが本当はそうではないと答える。「それはふしぎなかたですね。いったい、どういうわけでしょう」

「ここが町になってから、みんな売れ売れともうしたそうですが、年よりのかたが、ここは虔十のただひとつのかたみだから、いくらこまってもこれをなくすることはどうしてもできないとこたえるそうです。」そう言われてついに博士は思い出す。「その虔十という人は、すこしたりないとわたしらは思っていたのです。(…)毎日ちょうどこの辺に立って、わたしらの遊ぶのを見ていたのです。この杉もみんなその人が植えたのだそうです。ああ、まったく、だれがかしこく、だれがかしこくないかわかりません。ただどこまでも十力の作用はふしぎです。」その場所を「虔十公園林と名づけて、いつまでも保存するようにしては」と博士は提言する。「さて、みんなそのとおりになりました。芝生のまんなか、子どもらの林のまえに、「虔十公園林とほった青いかんらん岩の碑が立ちました。(…)虔十のうちの人たちは、ほんとうによろこんで泣きました。」

 そして実際「みんなそのとおりに」なったのだった。生前ほとんど無名だった賢治の死後、作品は出版され、その遺した原稿は花巻空襲からも家族によって守られて、「博士」たち(アメリカでなくフランス帰りだったかもしれないが)によって研究され、さらに真価を明らかにされ、編纂されて、それにも賢治の弟は協力を惜しまなかったのだ。「むかしのその学校の生徒たち、いまはもうりっぱな検事になったり、将校になったり、海のむこうに小さいながら農園をもったりしている人たちから、たくさんの手紙やお金が学校にあつまってきました。」時代を感じさせる肩書だが、これは権威主義によるのではない。彼らはみな、昔、虔十の林で作者のことなど気にもかけずに遊んだ者たち、つまり子供の頃に賢治の童話に出会った読者という資格で名をつらねている。

 しかしこれは子供こそが理想の読者だということではない。子供らは虔十を「少し足りない」と思っていたのであり、“イツモシヅカニワラッテヰル”のを「馬鹿にして笑っていたのだから。「ああ、全く、誰が賢く、誰が賢くないかわかりません」とは、子供は賢くなかった、虔十の価値をわからなかったということだ。虔十を馬鹿にしていたのは子供ばかりではない。「その芝原へ杉を植えることをわらったものは、けっして平二ばかりではありませんでした。あんなところに杉などそだつものではない、底はかたい粘土なんだ、やっぱり馬鹿は馬鹿だとみんながいっておりました。」
 虔十とは、賢治が自身をカリカチュアとして自作に書き込んだものであると考えるならば、隣人の平二とは宮澤賢治の仕事を理解しなかったすべての者たち、作品についてのみならず、いつまでも親がかりでわけのわからぬ活動を続けていた(しかし虔十同様、家族からは経済的なものも含めた庇護をうけ、モラトリアム状態を続けていられた)肺病やみの賢治に無理解な目を向けた者たちの謂でもあろう。

「雨ニモマケズ」が叙述するのは周知の通り「サウイフモノニワタシハナリタイ」という賢治の理想像であろうがまた他人にそう思われたい姿でもあったろう。このうち「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」「ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ」というあたりは虔十とも共通する一方、「雨ニモマケズ」にあって虔十にないのは、「アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ」という認識の人、また「野原ノ松ノ林ノ蔭の小サナ茅葺の小屋ニ居テ」という転調以降の東奔西走して献身する行動、実践の人としての姿である。

 一方で虔十には賢治が「雨ニモ負ケズ」のような公式の自画像(手帳のメモであり本人が望んだものでないにせよ)ではただの一言も触れなかったもの、すなわち作者としての彼自身という役割が与えられている。しかしここにはある種のねじれがあるように思われる。虔十はその為す所を知らざる者であるが賢治は違う。そして実践者賢治の姿が今日にまで伝わるのは文学者賢治がいたからだ。
 
 賢治の作品においてしばしば実践者の死は限りなく重い。とりわけ自己を犠牲にして得られるものは大きい。よだかはたんに誰かの餌食になるのではなく《星》になり、「今でもまだ燃えてゐ」るし、ブドリの死は農家の一軒一軒の肥料設計の相談に乗る(死の前日も賢治がやっていたことだ)のではなく、一度に気象を変えてしまう。彼らの死には「みんなのさいはひ」が賭けられており、実際、得られるものの大きさゆえに釣り合いが取られたと納得がゆく。少なくとも納得されうる。カムパネルラの死の向うにはジョバンニの未来が開けている。

 しかし『虔十公園林』における、羽毛のように軽くかすめて過ぎられた死はそのようなものではない。何ものでもないかのように装う、事件性をかぎりなく稀薄にされた死、「お話はずんずん急ぎます」と語りによってあたかも路傍に打ち捨てられてしまったような死だ。
 その代り得られたものは《死後の生》、実践者ではなく作者としての死後の栄光である。博士たちは賞賛を惜しまず、家族は泣いた。大勢の人々が青い橄欖岩の碑を見につめかけたし、これからもやってくるだろう。そしてなお、“賢い”人々は例のアメリカ帰りの若い博士によって発せられた「十力の作用」という言葉をなぞり、知識を競い合う以上のことはできないだろう。子供たちのように雨上がりの木立のしたたる緑を喜ぶ大人は少なく、たとえ作品に近づきはしても、テクストを読む以外のことなら何でもするのにそれだけはしない人々が大半なのであるから。

『虔十公園林』はたんに無邪気なものを讃える作品ではない。杉林の入口の青い橄欖岩の碑を見て満足して帰ることのない者たちは、そこにひそむ悪意、呪い(杉林の迫害者平二は作者の道連れでさっさと殺されてしまう)、願望が成就される彼岸としての現世、すなわち未来において死後の作品の運命を見届けたいというむなしい望み、死の向うまで行けたかに見せかける語りの詐術を見出すことだろう。そして自分の価値がわからないふりをしてみせるという最高の傲慢さによって、無邪気さを演じ切った賢治=虔十の作家の業[ごう]が大人になった私たちの胸を打つのだ。
[PR]
by kaoruSZ | 2012-12-01 16:28 | 文学 | Comments(0)
塚本邦雄bot
@bot_kunio
歌人 塚本邦雄(1920-2005)の、原則として短歌以外のテクストからの引用をお届けします。★毎月一日のみ短歌特集といたします。
https://twitter.com/#!/bot_kunio


鈴木薫のtwitterは下記です。
https://twitter.com/#!/kaoruSZ
[PR]
by kaorusz | 2012-03-25 15:58 | 文学 | Comments(0)

ある反響

 昨年12月twitter上で@kkpastoと名乗る、今春大学を出て地方公務員になるという人物が、平野智子と私が書いたトールキン論「“父子愛”と囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの」(第一章 第二章 第三章)について暴言を吐いた。13日になってこれに気づいた私たちが応答したところ、相手はアカウントを削除して姿をくらました。先方のさえずりと、それに対する鈴木(@kaoruSZ)と平野(@tatarskiy1)の応答をまとめておく。

@kkpasto: LotR)lomelindiの日本語探してたらなんか論文に行きあたったが、何を言ってるのかちょっとよく分からない… 星の光は太陽や月とは違いシルマリルの光と同じってあるけど、星も太陽も月もシルマリルももともとは二本の木からのものだろ?[鈴木註; 太陽と月(作中では異性愛の指標)はモルゴスと蜘蛛に襲われ毒を注入されたあとの二本の木の産物であり、それ以前に存在した「無垢な光」とは区別されている。]
@kkpasto: 長いので途中で読むのやめて注釈見てるんだけど、なんか怖い…そんな視点で見られると怖いよ。論文で普通に論じられてるのが余計に怖い。そういうのは妄想の中に置いておくのがいいんだ…
@kkpasto: アレゼルがエオルにひかれてそのまま森に留まったことと、シンゴルがメリアンにひかれてそのまま留まったことと、ベレグがトゥーリンを探しにきてそのまま留まったことが同じだと申しておる…
@kkpasto: いや、そこまではいい。その理由が愛情によるものだって…前者2人はいいよ?そうでしょうともよ。メリアンがシンゴルに魔法掛けたみたいな言い方は引っかかるが。だが最後のは愛情は愛情でもさ…なあ。
@kkpasto: 前者2つが同じだってのは、ティヌヴィエルと同義語のローメリンディと、マイグリンの別称ローミオンがどっちも意味が同じだって…まあそれは面白い考え方だなあ。薄明の子ねぇ。
@kkpasto: 読めば読むほど怖いこの論文…公の場でこいつらホモだぜって言われてるようなそんな気分…しかも文字通りの内容だから困る。
@kkpasto: フェアノールとフィンウェについてはおいといて、エオルとマイグリンでもそれを言うかね… おい、マイズロスとフィンゴンが相愛の仲とかカップルとか明確に書くな
@kkpasto: おい、シンゴル→フィンウェまで取り扱ってるのかこの論文は。悪い意味でけしからんな… 
@kkpasto: 別にそういう考え方が悪いわけじゃなくて、そういう視点から見た論文はありだろうとは思うけども、そっちの方向へだけ持っていこうとするのはどうかと。これがこの作品の基盤だぜってそんなバカなww
@kkpasto: まあ内容はともかく、『シルマリリオン』って書いてる時点でタカが知れますよね。忘れよう。それがいい。これが女子乙ってやつか…
@kkpasto: トールキンの作品は、深く読めば読むほど馬鹿らしくなる気がする。いや、違う。あの世界の中で深く調べていくことはいいけど、現実と比較した時点でもう…
@kkpasto: モルゴスがシルマリル奪った理由って書いてなかったっけかなあ。シルマリルがフェアノールのあれこれでそれとかホントやめてくれよ。
@kkpasto: ローミオンはマイグリンのことだが、ローメリンディは動物名で、ティヌヴィエルは人物の別称だから全然同じじゃないよね。それぞれの名前が名付けられたときの由来が違うンと違うか?
@kkpasto: もうなんでもいいや…さっさと作業終えて、ジョジョ読もう。馬鹿げたことで時間食ってしまった。
@kkpasto: ホモはいいけど妄想の産物で置いといてほしいんだよ。公に、実はこうだよ!とか堂々と妄想を言うのはやめてよ… そう言った目で見てたかのように原文に書いてある、ってのが嫌だよ。行自体じゃなくて、行間読んでこその妄想だろうが!

@kaoruSZ: @kkpasto
「何を言ってるのかちょっとよく分からない」論文の著者(の一人)です。分らないのなら黙っていればいいものを、なぜ公の場で中傷するのですか。私達はトールキンの作品を人に知られるのが恥しい「妄想」の材料にしているわけではありません。                      

「妄想」の種にすることも二次創作することも全く否定的に考えませんが、しかし私達のしているのは二次創作ではなく「批評」なのです。未邦訳のものも含めたトールキンのテクストを読み込んだ上での「批評」であり、それなりの自負を持ってやっています。こうした仕事に(中傷でなく)反論するにはそれなりの準備と覚悟が必要なことはおわかりでしょうか

貴方がトールキンの作品に同性愛表象を読み込むことを「公の場でこいつらホモだぜって言」うのと同じと考えておられるのはわかりました。それが怖いというのはホモフォビアからというより、腐女子の妄想と取られることを恐れるからですね。

しかし、隠れた同性愛表象というものは別に腐女子の発明ではなく、西洋のハイ・カルチャーの中に脈々と流れているものです。特に同性愛を明示的に表現できなかった過去の時代には。

私達は「腐女子」と自分達のことを思っているわけでは全くありません。もっとも、そう自認する人が私達のような研究をしたとしてもなんら中傷させるいわれはありませんが。

また、「こいつらホモだぜ」云々と言うのと同じという表現は、貴方自身が同性愛や同性愛者の存在を恥ずべきものと考え、蔑視していると受け取られても仕方のないものですよ。

『シルマリルリオン』という邦題を使っていないことでなぜ「タカが知れる」のでしょうか。他の表記と合わせるために採用されたと思われるこの表記は個人的に好みませんし、邦訳が出る以前は『シルマリリオン』と紹介されるのが普通だったものです。(どうでもいいことながら一言)

私たちの読み方でトールキンの作品は全く矛盾なく読めます。もっとも、怖がっている貴方に読めとはいいませんし、読む能力もおありにならないでしょう。これからも自分の考えていることは「妄想の産物」であり人に言えない悪い事だと思い続ければよろしい

しかし、そのような卑屈な態度で生きている限り、他人の仕事について「堂々と妄想を」言っていると決めつける資格などないということだけは肝に銘じて頂きたいと思います。

@tatarskiy1: @kkpasto 貴方がある作品の基盤に同性愛があるということが「ありえないバカなこと」だと思うのは、貴方が同性愛というものを「猥褻で公にすべきでない単なる性的妄想」としか思ってないからでしょう
@tatarskiy1: @kkpasto もっと言えば男性同性愛の表象に魅力を感じるというご自身のセクシュアリティを「恥ずべき」ものだと思っていらっしゃるからですよね。貴方がそうお思いになるのは勝手ですが、他の女性に対してまでそれを押し付けるのはやめていただけませんか?

@kkpasto: どうして今更になってww わざわざご苦労様なことですね。
@kkpasto: いや本当にわざわざ…どういうこった。検索でもしてるのかね。なんか食い違ってる気がするんだが…

@kaoruSZ                                                          平野智子と私の論文を「腐女子の妄想を公にしてけしからん」と中傷した自称腐女子 @kkpasto 「どうして今更になってwwわざわざご苦労様なことですね」「何か食い違ってる気がするんだが」との台詞を最後にツイートに鍵かけたため、上にリツイートした先方の主張消えた。ログは取ってある。

言及から24時間以内にチキンは尻に帆掛けて逃げた。ツイート非表示、twilogの該当ツイート削除という姑息な真似の後、twitter退会して twilogも削除。自尊心低いんだな。悪さを見つかった餓鬼なら餓鬼らしく、来春からの地方公務員ならなおさら、一言非礼を詫びてから消えろよ。

以前公園でカルガモの母子を苛める悪童に遭遇、水遊びする人間の母子父子見て見ぬふりなので一喝したらガキ供平謝り、チキンもリアルで会えば泣いて謝ったろうが、向うで此方を見つけられるなら此方からも見えるのに気づかず泡くって遁走、中学生と見紛う幼稚な奴だが実年齢は平野智子と幾らも変らず。

“『カリガリ博士』という映画には―映画というものは一般にそうであるが―目に見えるものとは別に、どこか深いところに意味がひそんでいる訳ではない。全ては表層に、《観客の目に見えるところに隠されて》いるのだが、物語を性急に追う眼差しはそれを通り過ぎてしまうのである。”(「砂男、眠り男」)

私たちの「カリガリ博士論」から引いたが、トールキンも基本は同じ。「ホモはいいけど妄想の産物で置いといてほしいんだよ(…)公に(…)堂々と妄想を言うのはやめてよ(…)原文に書いてある、ってのが嫌だよ。行自体じゃなくて、行間読んでこその妄想だろうが!」と、読んだチキンがパニックに。

上の連続ツイート[同時期に平野が書き継いでいたもの。ここに再録した]の表現を借りれば「アモラルな自由と美的な表現」こそトールキンが作品の中にひそませた、否、表面に読み取れる形で私たちに遺したものだ。そこにしか真実はない。作者が作品について述べる言葉は多くの場合韜晦に過ぎない。だがテクストは作者が口を噤んでいる事をも残らず語るのだ。

私たちの文章を見つけたナイーヴ(悪い意味)な小娘に、何が「原文に書いてある、ってのが嫌だよ。行自体じゃなくて、行間読んでこその妄想だろうが!」と叫ばせたかと言えば、彼女が知っている同性愛が「こいつらホモだぜ」と蔑まれるアウトカーストかさもなければ政治的に正しい扱いを要求できる「現実」の「当事者」のもの、そして何の権利もない「腐女子の妄想」という貧しさだったからだ。
                                             
伝記的には同性愛者では全くない作家の作品に「男同士の愛」の表象が読み取れると公然と述べられていることは、許される筈のない彼女の「妄想」を白日の下に晒すように思われて、彼女は悪口を並べた挙句、見なかったことにして「忘れよう」と呟いている。あまりにも絵に描いたような反応で、ある意味興味深い……。  
                             
これほどナイーヴでなく、まともな本を読んでおり、そこそこの教養があって、単純に筋書を追うのではない読解というものが可能だと知っている場合でも、いやそうだからこそ、いわゆる二次創作の一方で、“正しい”解釈はそれとは別にあるとちゃんと知っていると主張する層が確実に存在する。裏で「妄想」を楽しむには、人一倍正典について知識を持たなければならないと思い、実際熱心に勉強し、そして妄想は妄想だから「表」へは一切漏らしてはならないと固く信じているのだ。

ここまで自己抑圧の強い女はどこにでも存在するわけではなくて歴史的に作られたもの、つまりある地域と時代にのみ見られるものだ。早い話が彼女たちと似た存在が「やおい少女」と呼ばれた昔には腐女子バッシングなどなかったから、別の問題はあったにしてもこんなふうにこじらせる女はいなかった。 

この一事を見ても過去二三十年の日本での性的解放が、相も変らず男との関係以外のセクシュアリティを女に認めず、男とのカジュアルな性交の自由(と義務)以上のものをもたらさなかったことがよく分るというものだ。tatarskiy1さんの示唆に富むツイート[前出]を最後まで追うことにする。
[PR]
by kaorusz | 2012-03-02 10:35 | 批評 | Comments(0)
2011年12月11日~23日 twitter https://twitter.com/#!/kaoruSZ に書き継いだもののまとめ。余談までお読み下さる方はtwilogで。http://twilog.org/kaoruSZ   

===================================

 丸尾末広の『パノラマ島綺譚』(江戸川乱歩の小説のマンガ化すなわち紙上脚色上映)、友人に借りて読む。素晴しい。内容自体はむしろ谷崎潤一郎の『金色の死』へのオマージュだ(人見広介が菰田源三郎になりかわるように、谷崎が乱歩にすりかわっている)。しかもあまりにも巧みで継ぎ目が見えない。島の風景や人物のポーズは既成の画家からの引用で出来ており、それ自体谷崎の「活人画」の流用だが、原作では人間で名画をなぞるというぱっとしないアイディアに見えたものの可能性と正統性を、丸尾は見事に証してみせたと言えよう。

 乱歩自身、『金色の死』に感激して『パノラマ島』を書いたのだから丸尾はそれをさらに推し進めたとも言える。友人は、主人公が妻を殺しコンクリート詰めにした表面に髪の毛がはみ出していて明智(!)が斧でコンクリートを割ると血が流れ出る(絶対ペンキだ!)という場面がないことを残念がっていたが、そのかわり丸尾版は睡蓮の池に殺した妻を浮かべてミレーのオフィーリアをやっている。この時はまだ洋服姿だが、以後主人公の出で立ちは『金色の死』のオリエンタル趣味に変り、彼の君臨する王国は、当時は明示できなかった一大性的オージーの楽園(ボスの『悦楽の園』が下敷き)であることをあらわにする。

 菰田の寝室の屏風は若冲。パノラマ島に建造されたボマルツォの怪物(実は厠)といい、ウェディングケーキ状のテラス式空中庭園(セミラミスの庭だ)といい、作者は澁澤龍彦の愛読者か。会話してるレスビエンヌのポーズはクールベの『眠り』、菰田/人見の少年時代の容貌は華宵写し。私にわかる出典はこのくらいかな。

 丸尾の博物学的細密描写は、鳥、虫(含爬虫類)、魚と、植物に対し最高に発揮されるところが若冲と共通する。虎や象、若冲は見るべくもなかったのだが、丸尾は虎に興味ないのか(と思える絵である)。個人的には『モロー博士の島』、この絵でやってほしいが、猫科に執着なくては無理か。一方でヒエロニムス・ボスから来ている、人間と同じ大きさの小鳥素晴しい。

 谷崎全集の『金色の死』が入っている巻と、ちくま文庫の夢野久作全集二冊(犬神博士/超人鬚野博士、暗黒公使)図書館で借りる。ちくま、表紙が綺麗。モノクロームの挿絵しか知らなかったが、竹中英太郎ってカラーだとこんな華やかな色づかいしていたのか

『金色の死』見直したら若冲の名前出ていた!「或は又若冲の花鳥図にあるやうな爛漫たる百花の林を潜つて孔雀や鸚鵡の逍遥してゐる楽園のあたりにも導かれました」とある。谷崎が楽園の壮麗を「読者の想像に委せて詳細な記述を試みることを避けようかと思ひます」と言っているところを、もちろん丸尾は全て可視化。

 やっぱり『金色の死』と『パノラマ島奇譚』は双子だ。乱歩のそっくりな学校友達と早過ぎた埋葬テーマ(によるトリック)はむろんポーからだが(後者についてはは自己言及あり)、『金色の死』の語り手と岡村君も学友で、各々小説家と楽園造りの芸術家、『パノラマ島』の主人公は両者を一身に兼ねている。

「それは本当に夢の感じか、そうでなければ、映画の二重焼き付けの感じです」(『パノラマ島奇譚』)。パノラマ島の花火は「普通の花火と違って、私たちのはあんなに長い間、まるで空に写した幻燈のようにじっとしているのだよ」。要するに、幻燈であり映画なのだろう。パノラマ館が活動写真に駆逐されたあとの時代の、「日本では私がまだ小学生の時分に非常に流行した」と主人公が言い、ベンヤミンが『1900年頃の幼年時代』で当時でさえ流行遅れだったと思い出を書いている、懐かしい演し物のヴァージョンアップされた再来なのだ。丸尾末広がむしろあっさりと普通の花火を描いているのは当然だろう。

『暗黒公使』の解説ヒドい。父との闘争という(捏造された)主題で夢野久作を解読しようとして、作中で新聞記事を引用する「奇妙な癖」は「父への腹いせの実行」だと言うが、これはたんに当時の最新メディアだった映画への憧れとその模倣だろう。『カリガリ博士』一本見たってそのことは了解される。号外、メモ、ポスター、貼紙、手紙等の引用は、無声映画が字幕とともに発達したことにも由来しよう。『少女地獄』について解説者は「これはぼくが最も愛する作品である」ともったいぶって宣言するが、嘘を重ねて破滅するヒロインを「日本の国家主義者たちの行く末を(…)久作は天才看護婦姫野ゆり子に仮託して予言した」とはとんだ小クラカウアーだ(余分な註;クラカウアーはカリガリがヒトラーを予告したと言ったヒト)。自分の小説をそんなふうに解釈されてもいいんだろうか、島田雅彦は。いや、そういう小説しか書いていないということか。他人の作品をダシにした根拠の無いカッコつけパフォーマンスには苛々する。

 もう一冊の赤坂憲雄の解説もナー。「そんな犬神にして、博士なるモノ、それゆえ犬神博士とは、いったい何者なのか。あらためて博士とは何か」と大上段に、アカデミズムの称号ではなく物知りびとだの、古代官職だの、陰陽師だの……我田引水もほどほどに。「無用な謎解きを重ねすぎたようだ」。そのとおり。目羅博士も犬神博士も鬚野博士も、皆あの映画から出てきたに決まってるじゃないか。そう思って前の方をパラパラ見ると、「天幕(テント)を質に置いたカリガリ博士。書斎を持たないファウストか。アハハ。なかなか君は見立てが巧いな。吾輩を魔法使いと見たところが感心だ」と、黒マントに山高帽の鬚野博士がのたもうている。Magie にしてDoktor、何が律令か陰陽師か。「隠された素顔」?「物語の深み」? 表面にあるものを見てから言え。そこへ行くと角川文庫版の『犬神博士』解説は松田修、流石に存念の美少年=小さ神を語ってあますところがない。(参考→http://kaorusz.exblog.jp/11781696/

『犬神博士』読了。女装のチイ少年、「よか稚児」とか「よかにせ」とか言われてる(にせは二世を契るの意とか)。鹿児島じゃなくても言うんだね。『ドグラ・マグラ』では若林博士が、眠る主人公を男でも吸い付きたくなるような美少年と言っている(おまえはタコか!)。頬の紅さは童貞のしるしだそうな。なぜ小林君がリンゴの頬をした永遠の「紅顔の少年」であるかも頷けようといふもの。乱歩も久作も同じ文化の中にいる。童貞とは蔑まれるべき資質ではつゆありえず、童貞ないし少年とは男によって希求されるべき対象だったのだ。「父はむかしたれの少年、浴室に伏して海驢(あしか)のごと耳洗ふ 」(塚本邦雄)

「幻術」「魔法」等に「ドグラマグラ」のルビを付したる例、『犬神博士』に幾つかあり。「あの児は幻術使いぞ、幻術使いぞ、逃げれ、逃げれッ」。「一眼見るとポーッとなるくらい、可愛い顔をしとるげなぞ」と言われるチイ少年、強い強い。

 上記引用歌検索したら、「現代詩文庫」版歌集のレヴューに好みの歌をジャンル立てで並べてる人がいて、下らん感想文より遥かにマシだが、「父はむかし」の歌は動物ものに分類されていた(無論本当は少年もの)。「禁猟のふれが解かれし鈍色の野に眸(まみ)ふせる少年と蛾と」(蛇足ながら、蛾の触角と少年の睫毛のダブルイメージを見るべし)。 

「呼子を鳴らすと、何処ともなく微妙な鈴の響が聞えて一匹の駝鳥が花束を飾った妍麗な小車を曳いて走って来ました。岡村君は私を其れに乗り移らせて……」(『金色の死』)。まるで童話の一節だが、「四顧すれば、駒ケ嶽、冠ケ嶽、明神ケ嶽の山々は此の荘厳な天国の外郭を屏風の如く取り包んで居ます」と、あくまで現実の一部としてかっきり区切られた空間は揺らがない。それに対して乱歩の人口楽園は、内部でありながら在り得ない広大な外界がたたみ込まれたパノラマ「館」が元にあるだけあって、パノラマ館のように空が閉じていないにしても、地下のグロッタ、『鏡地獄』のような出口のない球体、あるいは映画館のようなその内側で視覚的イリュージョンが上演される場所を思わせて、それは外界と匹敵するかそれを凌駕する夢を詰め込んでオーヴァーヒートした脳内でもありえようから、岩山が島の主人で創造者の巨大な頭部に形作られ髪や鬚は植栽で表されている丸尾版の奇怪なイメージは当を得ている。

 パノラマ島はディズニーランドより船橋ヘルスセンターに近いのではないかという気がしてきて検索すると、骨董屋で入手(!)の開園当時のパンフレットを載せたサイトが見つかった。「温泉は地下三千尺の二つの井戸から一日二万石も噴出!!これが大ローマ風呂、岩風呂、大滝風呂、その他大小二十個の浴槽にあふれています」

 400畳敷の大広間で一日中ショーが続き、劇場、遊園地等々揃った「いわゆる歓楽境ではなく、健全の娯楽場」とある。開園は1955年。谷津遊園はなんと1925年開園で『パノラマ島』より早い(雑誌発表は26年から27年すなわち大正と昭和を跨いでの連載で丸尾版は作中の出来事をこの時期に設定)。無論パノラマ島が何かを真似たのではなく総合レジャーランドの方が後からできたに違いないが、実は谷崎と乱歩の楽園は温泉パラダイスである。

 むろん、「ダンテがヱルギリウスに案内されるやうに」と言うのだから地獄でもあるわけで、実際彼らが最後に見出すのは「地獄の池」だが、そこは「人間の肉体を以て一杯に埋まつて居」て、人魚の扮装の美女の遊ぶ池や「牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛えた」湯槽もある。

 思えば最初に水を渡るのも冥界の指標であった。乱歩の場合は主人公と妻がついに「巨大なる花の擂鉢の底」という『神曲』の地獄の底を思わせる場所に至るが、そこにいるのは氷漬けのサタンではなく「擂鉢の縁にあたる、四周の山の頂から、滑らかな花の斜面を伝って、雪白の肉塊が、団子のように数珠繋ぎにころがり落ちて、その底にたたえられた浴槽の中へしぶきを立てている」と描写される裸女の群で、「彼女らは擂鉢の底の湯気の中を、バチャバチャと跳ね返りながら、あののどかな歌を合唱するのです」。

 この奇妙なセイレーンの中に彼らも交じり、「肉塊の滝つ瀬は、ますますその数を増し(…)花は(…)満目の花吹雪となりその花びらと、湯気と、しぶきとの濛々と入乱れた中に、裸女の肉塊は、肉と肉とをすり合わせて、桶の中の芋のように混乱して、息もたえだえに合唱を続け(…)打寄せ揉み返す、そのまっただ中に、あらゆる感覚を失った二人の客が、死骸のように漂っているのでした」という天国いや温泉地獄(地獄谷?)

 この描写で分るのは、乱歩にとって裸女の群が、ごろごろ転がる「肉塊」「団子」桶にひしめく「芋」でしかなかったことだと思うんだが……いくら他に刺激が乏しかったといえ当時の読者にこれがエロと感じられたのかどうか。澁澤龍彦は谷崎と乱歩の二作は「浴槽の中に大勢の裸女が跳ねまわっているというエロティックな人口楽園のイメージまでが」そっくりと言う(角川文庫『パノラマ島』解説)が、谷崎の方は「海豚の如く水中に跳躍して居る何十匹の動物を見ると、其等は皆体の下半分へ鎖帷子のやうな銀製の肉襦袢を着けて、人魚の姿を真似た美女の一群でありました」というのだから芋洗いとは余程違う。

「そして、ついに地上の楽園はきたのでした」(『パノラマ島奇譚』)。しかし、YouTubeで見られる船橋ヘルスセンターCMソング http://www.youtube.com/watch?v=ME3GYYc8vok「長生きしたけりゃちょっとおいで」と谷崎や乱歩の夢の国が違うのは、後者が蕩尽のユートピアであるところだ。「僕はもうあるだけの財産を遣い切つて了つた。今のような贅沢は、此れから半年も続ける事が出来ない」(谷崎)「さすがの菰田家の財産も、あとやっとひと月、この生活をささえるほどしか残っていないのですよ」(乱歩)

『金色の死』の二人は温泉に入る訳ではなく、《人間の肉体を以て一杯に埋まって居る「地獄の池」》迄来ると、《「さあ、此上を渡つて行くんだ。構はないから僕の後へ附いて来たまへ。」かう云つて、岡村君は私の手を引いて一団の肉塊の上を踏んで行きました》となる。最初にダンテとヴェルギリウスに喩えられていたのを思えば、これはサタンを踏みつけて彼らが地球の中心へ降りるのをなぞっているのだろう。しかし岡村君と「私」は浄罪山へ上る訳ではなく、「私はもう、此れ以上の事を書き続ける勇気がありません。兎に角あの浴室の光景などは、其夜東方の丘の上の春の宮殿で催された宴楽の余興に較べたなら、殆ど記憶にも残らない程小規模のものであつた事を附加へて置けば沢山です」云々とあり、後はもう「歓楽の絶頂に達した瞬間」の岡村君の突然の死しか残っていないのだから、やはりこれは去年ここhttp://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html にも書いたように、谷崎にも直接筆には出来なかった「健全な娯楽場」ではない「歓楽境」なのだろう。それを描くにあたって、丸尾末広はボスの『悦楽の園』やラファエル前派を導入し、主人公が妻を殺すのも龍頭のゴンドラの中(シャロットの女の死)と、温泉場的泥臭さを一掃した。なお、ゴンドラは『金色の死』にすでにある。

 それにしても乱歩の“俗悪さ”はハンパない。丸尾版で主人公夫妻はスワンボートに迎えられるが、これは水中から半身を出した水着の女たちが押しているとおぼしい。しかし原作では舟ではなく、人語を発する白鳥実ハ人間の女の背にまたがっており、乗り手は「腿の下にうごめくものは、決して水鳥の筋肉ではなくて、羽毛に覆われた人間の肉体にちがいない」と思い、「おそらくは一人の女が白鳥の衣の中に腹ばいになって、手と足で水を掻きながら泳いでいるのでありましょう。ムクムクと動くやわらかな肩やお尻の肉のぐあい、着物を通して伝わる肌のぬくみ、それらはすべて人間の、若い女性のものらしく感じられるのです」と、ほとんど人間椅子か家畜人ヤプー状態で、丸尾が白鳥に乗っての道程をほぼ忠実に再現しながら、荒唐無稽な過重労働を採用しなかったのは当然だろう。そして裸女の蓮台。丸尾版では妻殺害後の主人公が髪に花を飾った全裸の女たちの担ぐ蓮台でボッス写しの野を運ばれるが、原作では「肉体の凹凸に応じて」隈取をした女らが「肉の腰掛け」を作り、「人肉の花びらは、ひらいたまま」その中央に主人公夫妻を包んで、膝の下に「肥え太った腹部のやわらかみ」が起伏し、「肉体のやわらかなバネ仕掛け」の上に深い花の絨毯が加わって「彼らの乗物を、一層滑らかに心地よく」する。

 新聞記事挿入が通常の映画的手法であることは前述したが、丸尾末広版『パノラマ島奇譚』にも新聞記事は目立つ(「聖上崩御」とか「芥川自殺」とかオリジナルの時代設定の表示でもある)。明智が見ている新聞の「紀州のルートウィヒ2世 沖の島に奇妙な楽園建設」の見出しは人をほほえませよう。「ディアギレフのロシアバレエ団を招聘して/ニジンスキーに踊ってもらおうと思ったんだが」なる科白も原作にはないが、谷崎の方に「此の頃の露西亜の舞踊劇に用ひられるレオン、バクストの衣裳」云々の言及あり。ベックリンの「死の島」風景も丸尾のオリジナルだがこの絵乱歩が自宅に飾っていた由。

「探偵小説らしい筋もほとんどなく(最後に探偵が、コンクリートの壁から出ている千代子の髪の毛を発見するのはいかにも取ってつけた感じである)」という澁澤の評はむしろ丸尾版にこそふさわしい。探偵は、雑誌に掲載されて誰もが読める「RAの話」というテクストと現実との一致を指摘するだけで、物的証拠を提示すらしない。原作では主人公(菰田源三郎になりすました人見広介)の書いた「RAの話」は未発表原稿で、探偵(原作では明智でなく北見小五郎と呼ばれる)だけがそれに注目、人見自身は書いたことも忘れていたらしい小説の死体の隠し場所から、千代子の死体の在り処を推測してしまう。

 原作の探偵は人見にとっていわば過去からやって来た忘れた(捨てた)はずの彼自身であり、抑圧したものの回帰、彼だけが知っている(どころか忘れかけていた)はずの秘密を知っていて突きつけてみせる、『屋根裏の散歩者』の明智と同様、犯罪者と探偵のあざといまでの類似を際立たせる存在なのだ。

 壁(柱)の中の妻の死体はむろん『黒猫』からで、『ウィリアム・ウィルソン』『早過ぎた埋葬』とともにポーづくし。瓜二つの友人になりかわる際に殺した小説家としての自分自身は、人見/北見の対の名を持つ分身として、忘れたはずの小説を熟知する探偵の姿で戻ってくる。『金色の死』の場合は語り手である小説家は最初から“行為者”と分離されていてその死を見届けるが、北見小五郎もまた、「この偉大な天才をむざむざ浮世の法律なんかに裁かせたくない」と言って人見を自決に追いやる、『屋根裏の散歩者』の郷田三郎をさんざん煽って空想から実行へ一線を越えさせた明智と同様の、主人公の黒い分身だ。

 パノラマ島海底トンネルから見た海中描写、丸尾末広の絵でも圧巻だが、乱歩の叙述には何らかの下敷きがあるに違いない。今でこそ葛西臨海公園等大水槽を魚が泳ぎ回る水族館は珍しくないが、強化ガラスのない当時、これは不可能な夢だったはず。それで思い出すのはジュール・ヴェルヌのノーチラス号の船窓風景で、あれは華麗な文体による図鑑の引き写しだというが、乱歩についてそういう実証的研究はあるのだろうか。少なくとも『海底二万里』を読まずに書いたということはありえまい。リヴレスクな引きこもりの室内旅行としての〈驚異の旅〉。若冲の魚群図も錦市場の魚だろう。

「生きた魚類といえば、せいぜい水族館のガラス箱の中でしか見たことのない陸上の人たちは、この比喩をあまりに大袈裟に思うかもしれません。(…)しかし、実際海中にはいってそれを見た人でなくでは、想像できるものではないのです」(『パノラマ島奇譚』)

 俗悪と書いたが、裸女のひしめく乱歩の楽園は極めて触覚的、そしてオージーじゃない。つまり大人の性交ではない。死んだ菰田の妻に別人と知られるのを恐れて、主人公は彼女に触れない。つまりエディプス関係以前の子供に退行していると言える(もともと父を殺してなりかわるという労なくして得た妻だ)。

 菰田源三郎に「なった」彼は、利益追求と富の蓄積から一転して蕩尽へと転じる。その行き着く先は明らかだ。禁が破られた時、遅ればせの殺人が起る。性交が殺人であるような描写あり(極めて触覚的)。そして千代子の死以後、丸尾版では話が『金色の死』に入れかわる――つまり、“独身者としての芸術家”の話に。

 しかし、千代子殺しは、次々色が変わる強いライトを当てながら(それも子供が懐中電灯で顔を下から照らして怖がらせ合うような)の、それ自体がショーの一部であるような活人画かグランギニョル擬きで、丸尾はすっかり差しかえている。小説では夫婦が温泉に浸かって話をしているうちに殺しになる訳で絵になるまい。原作の北見小五郎は自分のことを芸術家と呼んでおり、『金色の死』の語り手同様、分身的な芸術家である主人公の死を、死で完成されるべき「芸術」を見届ける。それもお湯から首を出して、頭蓋の中の光景のように頭上に広がる花火として。

 言ってみれば「このからだそらのみぢんにちらばれ」(宮澤賢治)が蕩尽の当然の帰結なのだが、先刻まで彼がいた場所を占めて(お湯につかって)それを見届ける分身というのは探偵小説に固有の形式で、そこが谷崎の“失敗作”と違うところだ。夢想家と分析家の二人のデュパンがいると『盗まれた手紙』の語り手は言っていなかったか。北見が来なければ、空に広がったきり静止した花火のように、ユートピアはいつまでも持続したかもしれない。しかし探偵が現実原則を持ち込み、丸尾の主人公は蕩尽と千代子殺しの償いとして死に、原作ではむしろ自らの芸術の完成のために死ぬ。最後の演し物は降り注ぐ血という触覚性をそなえていた。

 パノラマ島の湯の羊水性と乱歩の小品『火星の運河』との類似は澁澤龍彦が言っていたが、tatarskiyの指摘によれば、パノラマ島で『火星の運河』と重なるのは、木立を抜けた果てに見出す泉と、それを覗き込んだまま動かない女である。『火星の運河』は女体化の話だが、この女ナルシスも男であるとすれば『金色の死』の岡村君の著しい両性具有性とも平仄が合う(ちなみに両性具有とはほとんどつねに男の属性である)。

 断章で書くのが限界に来たのでここで一応メモは終る。
[PR]
by kaorusz | 2012-02-24 14:39 | 批評 | Comments(0)
 一度でも読み返していれば別なのだろうが、若過ぎるうちに読んでしまってすっかり通じたつもりでいたのが、実は出会っていなかったに等しい本というのがあって、『ドリアン・グレイの肖像』も気づかぬうちにそういう一冊になっていた。後年手に入れた新潮文庫版をどこかに持ってはいるのだが、買った当時は、例の、本にはよく書けているか書けていないかのどちらかしかなく、道徳的な本も不道徳な本も存在しないという文句が序文にあるのを確認しただけで満足してしまったらしい(フレーズは覚えがあったのに、そこに出ていたことさえ忘れていた)。おかげで今回、光文社文庫の新訳(仁木めぐみ訳、2006年)を、ほとんどはじめてのもののように楽しむことができた。

 これは本当によく書けている本だ。今回わかったのは、善悪がどうこうなどという話では全然ないこと。そして、完全に『ジキル博士とハイド氏』の同時代の作だということだ。『ジキル』と『ウィリアム・ウィルソン』は「分身の問題」を共有するとして、巻末の「解説」にも名前が出てくる。しかし、言いたいのはそういうことではない。

 確かにドリアンの最期は誰でもわかるほどにポーの主人公のなぞりだが、『ジキルとハイド』について言えば、完全に雰囲気が共通している。もちろん、そよ風に乗って吹き入る庭の花々の官能的な香に満たされ、金蓮花に陽光がきらめき、雲はつややかな絹糸のもつれた束のよう、晴れた夏空はトルコ石のようで、窓を覆うシルクのカーテンに鳥の影が幻のように落ちて「一瞬日本的な雰囲気を作り出す」(それを見たヘンリー卿は、「こうした静的な形式の芸術を通して敏捷さと動きを表現しようとしている、青白く疲れた顔をした東京の画家を思い浮かべた」と言うのだが、私にはこの「東京の画家」がどんな人たちなのか全く思い浮かばなかった!)画家のアトリエで、ヘンリー卿とバジル・ホールワードがイーゼルに乗せたままのドリアンの肖像画を眺めている描写ではじまるこの小説と、秘密を抱えた陰鬱な男たちが行き来するスティーヴンソンの中篇ではまるで違っているようだが、しかし、ハイドの悪徳が具体的にどんなものか一度も描写されないのと同じように、ドリアンの美しい顔――絵のほうの――を荒廃させてゆく悪徳も、多くはほのめかしにとどまるのだ。

 多くの若い男をドリアンは「堕落」させている。ドリアンがバジルの死体を片付けるために呼びよせるアラン・キャンベルも、「二人の友情は十八ヶ月で終わった」と言われる期間には恋人同士だったのだろう。「日ごとに生物学にのめりこんでいく」、「ある奇妙な実験に関係して名前が出ていた」といわれる彼が科学者なのは、むろん酸を使って跡形もなく死体を始末させるためだが、ワイルドがジキル博士の実験室から直接連れてきた人物だからでもある(H・G・ウェルズの『モロー博士の島』の、モローの助手モンゴメリー―の萌芽でもあろう)。

 アラン・キャンベルに言うことをきかせるために、ドリアンは紙片に何やら書いて彼をゆする。

「すまないね、アラン」彼は静かに言った。「けれどああ言われたから、こうするしかなくなってしまった。手紙はもう書いてある。これだよ。宛名が見えるだろう。君が助けてくれないなら、これを送らなければいけない。君が助けてくれないなら、これを送るよ。どうなるかはわかっているだろう」。

 これは、『ジキル博士とハイド氏』の独身者たちを脅やかしていたものでもあり、ジキルの秘密を知ってしまったラニョン博士と同じく、アランもやがて自殺を遂げることになる。エレイン・ショウォールターによれば、 R・L・スティーヴンソンもまたそのような二重生活を送っていたひとりだったのであり、彼の周囲では(ワイルドも含めて)、『ジキル博士とハイド氏』が何について書かれた話なのかは完全に了解されていたという。

 もう一つ、今回読んではっきりしたのは、この本の中でヘンリー卿は基本的に部外者だということだ。美しいナイーヴな若者をめぐる年長の男の恋の鞘当て――だが、ドリアンを愛していたのはバジルであり、ヘンリー卿のほうはせいぜい、彼をプロデュースしようとしたに過ぎない。ヘンリー卿を、ドリアンという美青年を素材に小説を描いてみようとした小説家と見なすこともできよう。しかし、彼がそのような労をわざわざとるわけもなく、すでに他人によって書かれた本を贈ると、ドリアンはすっかり魅せられて、その主人公のように振舞うことで彼の人生を芸術にしようとするのである。

 ヘンリー卿とドリアンの関係は、ドリアンと女優シビル・ヴェインの関係として反復されている。場末の芝居小屋で、シビルはポーシャやジュリエットやコーディリアになるが、けっして彼女自身にはならないものとしてドリアンを魅了する。彼は、シビルと結婚して彼女に女優としての名声を与えることを夢見るが、ドリアンに愛されたシビルは、現実の恋を知って拙劣な演技しかできなくなってしまう。

今夜、私は生まれて初めて、いつも演じてきたお芝居がからっぽで、偽もので、ばかばかしくて、空虚だってことがわかったの。今夜はじめて私、ロミオは年寄りで、醜く顔を塗りたくっているし、果樹園にさす月の光は偽ものだし、背景は悪趣味だってこと、それに私が言わなければならない台詞はわざとらしいし、私自身の言葉じゃないし、私の言いたいことじゃないってことに気づいたの。あなたが、崇高な芸術もみなただの影になってしまうようなものを教えてくれたのよ

 むろんドリアンは彼女自身でしかなくなったシビルを捨てる。彼女は自殺する。しかしシビルを、ヘンリー卿のミソジニーの標的としての「自然」(芸術に対立するものとしての)として片付けてしまうのは間違っている。ショウォールターは「美的経験」としての「同性愛の欲望」の対立物である、侮蔑の対象としての女、当時の「新しい女」の死としてシビルの自殺をとらえ、ヘンリー卿をモロー博士と一緒にして「生体解剖家であり、世紀末の科学者の一人として女性のセクシュアリティと生殖機能を切り離そうと」する男の一人に見立てるが、モロー博士がそういう人物ではない以上に、ヘンリー卿はそのような人物ではない。「生体解剖」とは心理分析という意味で、比喩に過ぎないし、生殖機能云々はシビルのケースと何の関係もない。ショウォールターはフェミニストとして、ヘンリー卿の(そしてワイルドの)女の登場人物への仕打ちに、自分のストーリーに組み込むのに都合のいい独断的な意味づけをしているのだ。

 しかし、そんな動機と無縁な目で見れば、シビルの運命は男の同性愛に対立するものではなく、たんにドリアンの運命を予告するものである。『ジキル博士とハイド氏』には無く『ドリアン・グレイの肖像』にあるのは、美と男の同性愛と芸術の三位一体だ。この中にあって、上に引用したシビルの語りには、芸術と無縁であるどころか、芸術を享受するのに不可欠な「心」がある。作り物の恋を本物と思い込んでいたからこそ、シビルは現実の恋に出会った時、見誤ることがなかった。心がそれに見あう言葉を得て表現するのではない。言葉によって「心」は生じるのだ。

「本当の殺人を犯した人物を知ってみたいものだ」というヘンリー卿の言葉にドリアンは気絶しそうになる。結局のところ、ヘンリー卿はドリアンの理解者ではなかったのだ。「ハリー、もし僕がバジルを殺したと言ったらどうする?」そう言っても、ヘンリー卿は「ドリアン、君は自分に似合わない役を気取っているんだと言うよ」と答える。どこまでも演技者としてのドリアンしか彼には見えないし認めない。犯罪は下層階級だけのものだとヘンリー卿は言う。「彼らにとっての犯罪は、僕らにとっての芸術のようなものじゃないかと思う。普通でない感覚を得るための方法というだけさ」(←乱歩的!)

 岩波文庫の西村孝次訳その他ではタイトルが『ドリアン・グレイの画像』(原題はThe Picture of Dorian Gray)だったのに気づいて思わず笑ってしまう(「画」が本字であればまだしも)。もとはそれでよかったのだろう。しかし今では、もう、ケータイにドリアンの画像が入っているとしか思えない。昔出た全集では『ドリアン・グレイの絵姿』と改題されており、確か西村孝次は、小林秀雄に画像なんて訳語はだめだと言われて変えたとどこかに書いていた。
[PR]
by kaoruSZ | 2011-09-22 19:42 | 文学 | Comments(0)
『トニオ・クレーゲル』の新訳が『トーニオ・クレーガー』のタイトルで出ているのを見つけた(平野卿子訳、河出文庫)。併録は未読の「マーリオと魔術師」(1930年)。出版された当時の挿絵が使われ、「マーリオ」の方はなんとハンス・マイトである。これが決め手となって購入(ハンス・マイトは、いとこたちからのお下がりだった岩波少年文庫の忘れがたい一冊『くろんぼのペーター』(エルンスト・ヴィーヘルト作)の挿絵画家。それ以外では全く見たことがなく、今回「訳者あとがき」で生没年をはじめて知った)。

「訳者による「解説」(「あとがき」との二本立て)の結びには、(「マーリオと魔術師」の)「魔術師チポッラのイメージは、どこか映画『カリガリ博士』の主人公カリガリ博士に重なる。時代的にも近く(一九一九年製作)、装束も似ているが、なによりその不気味な雰囲気や怪奇な印象という点で、相通じる要素があるからだと思う」とあるが、類似はその程度のものではなかった(トーマス・マンはもちろん『カリガリ』を見て、そしてあの映画の意味がわかって書いたのだろう)。語り手と家族は、滞在しているイタリアの海辺のリゾート地で“魔術師”チポッラのショーを訪れるが、チポッラは舞台に呼び出した客を催眠術によって自在に操る。このチポッラが、カリガリ同様、国民を催眠術にかけて踊らせたファシストの独裁者をあらわし、この小説は「ファシズムの心理学」を表現したものだと、声高に言い立てられてきた事実がまず符合するのだ。

 そうした読解については、実際、訳者も(『カリガリ』との類似はなぜか指摘されていないが)、「チポッラは独裁者、一方の観客をその彼に心ならずも操られていく国民と見ることができよう」と述べており、ルカーチが小説中の場面について「ヒトラーを望まなかったにもかかわらず、十年以上も抵抗することなく服従したドイツ市民階級の無気力を見事に描き出したと述べている」ことを引いて、「奇怪な魔術師を前に、ひそかな反感と嫌悪感を抱きながらも去ろうとしない観客――語り手を含めて――に、当時のヨーロッパ人全体の無気力を見ることもできるだろう」、「大戦後六十五年を経て、世界各地にちらほらと極右政党の台頭のきざしのあるいま、この作品はひとつの貴重な警告として、私たちがあらためて目を向けるべきもの、いや、いつの時代にも立ち帰るべきものだと思う」と、既存の解釈を何の疑いもなく受け入れた、もっともらしい文句を並べている。

 実際に「マーリオと魔術師」を読んでみよう。まず、タイトルに注目。これはマーリオと魔術師の話なのだ。前者は語り手ともなじみの二十歳[はたち]のウェイターで、ショーの最後に――これをもって最後にならざるをえなかったのだが――客席から舞台に上げられ、自らの意思に反することをさせられた結果、屈辱のあまりピストルを取り出してチポッラを射殺する。それではこれは、他の観客はチポッラのなすがままだったのに、最後に英雄的な青年が悪いファシストを倒すという寓話なのだろうか?(『カリガリ博士』の場合、病院長(権力者)が実は狂人だったという結末が、告発者の方が狂人だったというどんでん返しによって弱められたと中傷されてきた。平野智子と筆者による論考あり。)
 
 そうではあるまい。「いまになってみると、ことの本質からいって、ああなるよりほかなかったように思える」と語り手も最初から認めるチポッラの死は、マーリオに衆人環視のなかで、彼が思いを寄せる娘だと思い込ませて、自分にキスさせた結果である。「チポッラがしなをつくって歪んだ肩をくねらせている様子は、吐き気を催させるようないやらしさだった。たるんだ目で恋いこがれるようにマーリオを見つめ、甘ったるい微笑を浮かべた唇の間から、欠けた歯がのぞいている」といった具合――。

 だが、まだ笑い声が続いている間に、愛撫されていたチポッラは、椅子の脚のそばで例の鞭を振った。するとマーリオは夢から覚めて飛び上がって、後ずさりした。目が据わっている。そして、身体を前にかがめたまま、両手を重ねて汚された唇におしつけた。それから何度も指の節でこめかみをたたいてから、くるりと向きを変えて階段を駆け下りた。その間も拍手は鳴り響いていた。チポッラは膝に手を下き、肩を揺すって笑っている。

 確かに、いささか悪ふざけがの度が過ぎたとは言えよう。しかし、チポッラのしたことは、死をもって償わなければならないほどの罪なのか? 実は初めの方で、語り手一家が浜で出くわした不愉快な事件が語られていた。水着を砂だらけにしてしまった八つになる娘に、親たちが海で水着を洗うように言い、娘が「裸になって数メートル離れた海へ走って行き、水着をゆすいで戻ってきた」ことが、公序良俗に反したと“愛国的”なイタリア人たちの憤激を買い、「海水浴場の規定や精神はもとより、わが国の名誉をも恥ずべきやり方で傷つけた」と言われて、語り手一家は罰金を払うことになったのである。

 このエピソードが不当だと語り手とともに思った読者も、チポッラの死には、驚き、悲劇的だと感じても、結局は納得してしまうに違いない。何より、作者がそう書いているからだ。マーリオは要するにホモセクシュアル・パニックに襲われたのだろう。同性愛者に誘惑されて驚きと嫌悪のあまり殺してしまったとしても、やむをえない行動であり、一時的な心神喪失に陥ったのだから責任能力はない……ゲイ・バッシング弁護のこうした主張から、イヴ・コゾフスキー・セジウィックが、ゲイ・バッシャーの性的アイデンティティの不確かさという前提を引き出したのは周知の通りだ。マーリオの場合、ヘテロセクシュアルな欲望と信じたものの背後(実は表面)から、不意にホモセクシュアルなものが出現(実は初めから見えていた)したのである。

 しかし、このようにはっきり見えているものを、また例によって、誰も指摘しないようだ。カフェで働いていると聞いて、チポッラはマーリオを酌人と――ガニュメデスと呼んでさえいるのだが(それも二度)。マーリオは「二十歳でずんぐりしている。髪は短く刈り込まれており、額が狭く、まぶたが厚ぼったい[…]ひしゃげた鼻にはそばかすが散っており[…]このぼってりした唇は、垂れた眼とあいまって素朴な憂愁とでもいう感じを彼に与えていた」と描写される。映画版のタッジオよりもこういう顔の方に関心を持つ男性がいることは容易に想像されよう。年齢不詳だが若くはない、そしてせむしで醜いチポッラの最期は、『ヴェニスに死す』の美少年にアッシェンバッハが触れるようなことがあったらどうなっていたかを書いているとも言えよう(かなり自虐的だ)。「マーリオと魔術師」を書いた頃はまだ五十代だったマンは、七十を越えた晩年に、実際、若いウェイターに恋していたことが日記の出版で明らかになっている。

「マン自身、この作品について『個人的なものと政治的なもの』が結びついていると言い、『ファシズムに対する批判を公然と表明する』と述べている」と指摘して、訳者は当然のように「ファシズム批判説」の論拠にしているが、自らの作品において「個人的なものと政治的なもの」がどう結びついているか――マンがそれについて何を言おうとしたか、そして何を言えなかったかを、一瞬でも疑わなかったのだろうか?(しかし、公人としてのマンが何を言おうと、作品では一目瞭然だ)。「ただ当時、ドイツではまだナチは現実的な脅威となっておらず、[マンは]ドイツでもイタリアと同じようなことが起こるとは思っていなかった」そうである。なるほど、これはクラカウアーの「『カリガリ』はヒトラーの予兆だった」説のよい反証となる。『カリガリ』は『マーリオ』より十年も前なのだから。魔術師が観客に催眠術をかけたって? いやいや、彼らはみな、以前からホモフォビアという長く続く強力な催眠術にかけられていて、観客も読者も批評家も(ついでに、ファシズム批判の書としてこの小説を即座に発禁にしたムッソリーニ政権も)、マーリオの行為が肯とされていると読みちがえたのだ。

  ごらんの通り、小説の訳文自体には文句のつけようがない。ハンス・マイトの簡潔なタッチは、上記のマーリオの特徴をもよくとらえており、また、水着を脱ぎ捨てて仁王立ちになった女の子の「ガラのように痩せた」裸や、傍で囃し立てる少年たち(『ヴェニスに死す』の映画で見られるような水着姿)を描きとどめて、『くろんぼのペーター』の暗く、北方的で、夢魔的な、憂愁に満ちた絵とはまた異なるけれど、人体の描き方が一目でそれとわかる特徴を示していて懐かしい。
[PR]
by kaoruSZ | 2011-08-27 14:14 | 文学 | Comments(0)
(承前)

 逆転させた物言いで人を驚かすことが好きだったロラン・バルトは、「驚異の旅」の作者ジュール・ヴェルヌは実は旅を書いたのではない、ブルジョワ的閉じこもりを書いたのだと言ったが、この小説の分身との同居は、紛れもなくそうした閉じこもりである。船は旅立ちの象徴かもしれないが、より深層のレヴェルでは閉域の象徴であり、人を船旅に誘うものは完全に閉じこもる喜びなのだとバルトは説く。外へ(この場合は、無風状態のせいで閉じ込められた湾の最奥部から外界へ)向かっているように見えながら、実はどこまでも内へ向かう情熱。小屋、テント、洞窟、樹上の家(秘密基地?)のたぐいに対する子供っぽい惑溺。閉所に引きこもり、自分だけの夢想に浸ること。バルトに言わせると、こうした閉じこもりこそが、幼年期とヴェルヌに共通する本質である。船とは「完全な閉じこもり、できるだけ多くの品物を手元に置くことの喜び、絶対的に限定された空間を所有することの喜び」の象徴だ。内部は暖かく、限定され、外では嵐(無限)が吹き荒れている(バルトがこの閉じこもりを愛していることは間違いない)。

 もっとも、われらが船長の場合、ノーチラス号の大がかりな旅と違って、禁欲的な独身者[シングル]の部屋での、分身[ダブル]とのほんの数日間のトリップであるが。(ハンス・へニー・ヤーンの短篇にもこんな船長がいた。嵐のなかで鉤が腹に刺さった水夫を船長室に運び入れ、自分のベッドに寝かせて手術をほどこし、全快するまでとどめ置き、そして元の持ち場に返した。彼は、特に美しいわけではない、麻酔で意識を失った白い身体を、時々夢のように思い出すことはあっても、けっして認識に至ることはなく、船に安全に守られて、子供時代と変わらず夢想に耽るのである。)

いつものように彼は舷窓から外を見つめていた。時折り風が吹き込んで顔に当たった。船はドックに入っているみたいだった。それほど穏やかに、水平にすべっていた。船が進んでも水音一つたたず、影のごとくしんとしずまりかえって、まるで幻の海のようだった。

 これはレガットが去る前の日の描写だが、外界はあたかも夢想の結果としてそこに存在するかのようだ。だが、船長自身が言うように「これがいつまでも続くはずはない」。レガットは暗い海へ泳ぎ出し、船長は船を操って湾の外へ出なければならない。

 ノーチラス号の舷窓から見える生物を、ヴェルヌは博物図鑑から引き写して書いた。かの潜水艦は世界中を回ろうと、何一つ未知のものは見出さなかったはずである。コンラッドのように経験豊かな元船長なら、そんなことはなかっただろうか? 『青春』(1898年執筆)ではじめて東洋(ジャワ)にたどりついたマーロウ(コンラッドの小説に繰り返し登場する語り手)は、「空にむかって静かに立つ」棕櫚の葉を、「ずっしりと重い金属で鋳られた葉っぱのようにきららかに静かに垂れ下がっている大きな葉」のあいだにのぞく茶色の屋根を、桟橋を埋めた、その動きが波のように端から端へと伝わってゆく、とりどりの色の膚を持つ人々を、「ひろびろとした湾、輝く砂浜、はてしない、変化にとんだ豊かな緑、夢のなかの海のように青い海、もの珍しげな顔の群集、燃えるように鮮やかな色彩――そのすべてを映し出す水、岸辺のゆるやかな曲線、桟橋、静かに浮かんでいる船尾の高い、異国風の船」(土岐恒二訳)を見るが、それらは「あの昔の航海者たちの憧れた東洋」、「太古さながら神秘に満ちた、きららかで陰鬱な、生気にあふれつねに変わらぬ、危険と期待に満ちた東洋」であり、マーロウが、そしてコンラッド自身が、東洋はおろか、まだ海さえ知らなかった頃から知っていた――たとえばボードレールの「髪」や「異邦の薫り」や「前世」の中に潜んでいた――ものではなかったか?

『秘密の共有者』のはじめの方に、一等航海士が自室のインク壺の海に溺れ死んだ「哀れな蠍」を見つける挿話が出てくるが、この短篇自体、コンラッドの現実の航海からというよりも、「地図と版画が大好きな子供」(ボードレール)の欲望に端を発する、一つのインク壺からそっくり出てきたものではないだろうか?

『武人の魂』のトマソフの場合、変則的な(ないし偽装された)三角関係の下で、外部では刻々と戦争が近づく中、女の私室に匿われて夢を見ていたが、船長がその分身と閉じこもる部屋は、言ってみれば、(『武人の魂』では必要だった)現実の女――口実としての異性愛関係――を排除した、船という女のL字形の胎内である。この部屋を〈クローゼット〉と呼ぶことができよう。船長が秘密そのものであり秘密を分かち合いもする男をそこに隠すからばかりではない。実際、室内には、「着物が数着、厚いジャケツが一、二着、帽子、防水着などが、かぎ型の針にぶら下がったりしていた」と最初に紹介されており、船長が部屋に戻ってきた時、誰かの足音を聞きつけて身を隠していたレガットが「そっと出てくる」のは、「奥まったほうにぶら下がっている着物の後から」である。「灰色の寝間着」にはじまって、最後の「ぺらぺらの帽子」に至るまで、衣服は一貫してレガットの換喩である。

 衣類をめぐっては、間一髪の事件も起こる。にわか雨で濡れた上衣を船長が手すりにかけておいたのを、給仕が持って船長室へ入ろうとしたのだ。船長は給仕を怒鳴りつけ、レガットに急を知らせるとともに、「すっかりびくびくしてしまって、声を抑えることも、内心の動揺を隠すこともできず」、一緒に夕食のテーブルについていた二人の航海士に、船長はおかしいという確信を深めさせることになる。上衣を室内に掛けてすぐに出てくるだろうと思った給仕は、しかしいっこうに現われない。

突然私は奴がどういう理由からか知らないが、浴室の扉を開けようとしているのに気づいた(それがはっきり聞こえたのである)。もうおしまいだ。浴室は人間一人がやっとなのだ。私の声は咽喉にひっかかり、体じゅうが固くなった。

 給仕が出て来ると、船長は、助かった! でも、レガットは行ってしまったのだと思う。

私の分身は現われた時のように、ふっと消えてしまったのか。だが、現われた時の説明はつくけれど、消えたのは説明がつくまい……私はゆっくりと暗い私室に入り、扉をしめ、ランプをつけてから、しばらくの間ふり向く勇気が出なかった。やっとふり向くと、彼が奥まったところに直立不動で立っているのが見えた。

 この瞬間、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』で、家庭教師が見ているものが他の登場人物には見えていなことに読者が気づく瞬間のように、誰もが抱くであろう疑問と戦慄が船長をもとらえる。
「彼は肉体を持った存在なのかという逆らえない疑いが私の心を貫いた」
「ひょっとすると私以外の目には見えないのだろうか」
「幽霊にとりつかれたみたいだ」

 しかし、レガットは存在しているのである。給仕が入ってきた時、彼はとっさに浴槽の中に身を隠し、給仕は浴室に腕だけを入れて上着をかけたのだった。手で船長に合図することで、レガットは狂気から彼を引き戻す。気分が悪いから真夜中まで起こすなと航海士に命じて引きこもった寝室で、彼らは再びしのびやかに語り合う。レガットは船から島に向かって泳ぎ出ると言い、船長はためらうが、ついに翌日の晩にそうするという了解に達し、それは次のような美しい言葉で語られる。

「理解されているって思えればいいんです」と彼はささやいた。「もちろん理解してくれてますよね。理解してくれる人を得られて心から満足しています。まるでそのつもりであなたがあそこで待っていてくれたみたいだ」そして、私たち二人が話すときはいつだって他人に聞かれるのは具合が悪いかのように、相変わらず囁き声で言いそえた。「素晴らしいこともあるものですね」

◆独身者の船出

 真夜中、船長はデッキに上がり、船の向きを島のほうへ変えさせる(一等航海士は仰天する)。陸から吹く風に乗って湾を出るという口実で(レガットを行かせるという理由がなければ、そんな危険なことはやらなかった)。ふたたび夜が来ると、船長は船を、できるかぎり島に接近させる。声を聞くのも、目を見かわすのも、もうそれが最後になる時が近づく。「二人の目と目が会った。数秒が過ぎた。とうとう、お互いに見つめ合ったまま、私は手を伸ばしてランプを消した」。食料庫にいた給仕を理由をつけて上に行かせて、船長はレガットに声をかける。「次の瞬間、彼は私のそばを通り抜けた――もう一人の船長が階段のそばをそっと通り――狭い暗い廊下から……引き戸を抜けて……私たちは帆の格納室で、帆の上に四つん這いになっていた」。その先には後甲板の貨物積み込み口が、船長がそう命じたので二つ開かれている(なぜ二つなのだろう?)。暗闇の中でふと思いついて、船長は自分の帽子を脱いでレガットにかぶせようとする。

彼は私が何を思っているのか考えたらしかったが、やがて私の意図がわかり、急におとなしくなった。まさぐり合っていた二人の手と手が会い、一瞬の間しっかり握ったまま動かなかった……手と手が別れた時も、どちらも、一言も言わなかった。

 次の行で、船長は「食料庫の扉のそばに静かに立って」おり、給仕が戻ってくる。だから、給仕が甲板へ駆け上がってから戻ってくるまで、船長はそこから動かなかったと、格納室の中の描写は、船長の想像、妄想、その他何でもいいが、まるきり起こらなかったことで、格納室の中にレガットなどいないと考えることもできるが、いずれにせよもはやレガットは二度と登場しない。

 一等航海士が船長の腕を信用せず、パニックになりかかる中、船長が、いまだ自分と一体化していない船が動いているのを確認できたのは、海面でレガットに与えた帽子が前方へ動くのが見えて、船が後ろへ進みはじめたことの指標になったからだった。陸地に上がったレガットが太陽に頭を焼かれるのを気づかって帽子を与えたのだから、首尾よく岸にたどり着けたとしても、そこに帽子が残されているのは不吉でさえあるのだが、船長が帽子に気づいた時の、「黒い水面に白いものが。ちかちかする燐光がその下を通り過ぎた」という記述は、出会った夜、ほの暗いガラスに似た水面に青白く浮かんでいたレガットの裸体の反復であり、「かすかな燐光が、まるで夜空に稲妻が音もなく束の間のひらめきを見せるように、眠っている水面でちかちかと光った」その出現の時の再演である――だが、今回は、もうそこにいないレガットの痕跡としての――。

「ノーチラス号と酔っぱらった船」と題した短いエッセイで、ロラン・バルトがネモ船長の潜水艦の対立物としたのは、〈私〉と名告り出る〈酔っぱらった船〉であった。曳き手の手を離れてひとり河を下り、海に出て、見、夢想し、追い、泣き、語る、よるべない船、人間のいない船、まだ海を見たことがなかった(しかしボードレールは読んでいた)少年ランボーが書いた、「無限に触れる眼」と化した船である。閉域から逃れるには人間を排除して船だけにする必要があるとバルトは指摘していた。『秘密の共有者』の船長にとって、船との一体化とは女とペアになることではなかった。自らの受動性の外在化を女として回収することではなかった。船長のファンタジーはもう一人の自分との親密な閉じこもりであったが、コンラッドにとって海の上の男だけの世界が、そういう秘密とそういう冒険につながる場所(そして素材)であったことは明らかだ。ホモエロティックな東洋[オリエント]は、船長のファンタジーと通底する、そうしたイメージの集積場であった。レガットと過ごす秘密の日常ののち、彼を岸に泳ぎつかせ、船も操舵しおおせた船長は、今や船と一体化した独身者なのである。


(まだ続きますがここでひとやすみ)
[PR]
by kaoruSZ | 2011-08-19 09:43 | 文学 | Comments(0)
3 分か(ち持)たれた身体――The Secret Sharer

  これまで述べてきた二作に比べ、『秘密の共有者』(1909年執筆)は、より抽象度の高い、言ってみれば現代的な作品と言えよう。別に、世紀の転換期の伯爵だの、ナポレオンのロシア遠征を迎え撃ったロシア軍の挿話だのが古くさいというわけではないし、たとえ歴史的事実や風俗の知識がなくとも、私たちは記憶の中からなんとなくそれらしいイメージを取り出して、コンラッドの文章を視覚化しおおせるだろう。しかし、この短篇には、コスチューム・プレイをやめてセットも簡略にしたような趣きがある(これは比喩ではなく、実際、主人公はほぼ全篇パジャマで通している)。もちろん、帆船の操作などというものは現代ではまず見られないから、これもまた映画の記憶でも引っ張り出すしかないのだが、作者と同郷の貴族(『伯爵』のモデルの)から聞いた話だの、母方の大叔父から伝えられた戦争時の悲惨な体験談だのが小説の細部をかたちづくっているようには、コンラッドがはじめて船長として経験した航海とこの小説は関係しているわけではない。同僚を殺した船員の話は別にあるらしいが、それもまた材料の一つで、そこから抽出されたのは、『伯爵』の〈私〉や『武人の魂』の老士官のような第三者の声を介さない、直接的な一人称の語りによる、自意識の純粋なドラマである。しかし、この意識は、物語がはじまってすぐ、レガットという侵入者によってshare(一つのものを共有する/半分ずつ分かち持つ)されることになるのだから、単一で純粋な声によって唯一の真実が明らかにされるというわけでは全くない。むしろ、題名に(そして以下に)見るように、ここでは真実=秘密は、分かち持たれることでいっそう謎めいたものとなっている。

◆彼女[ふね]と人魚[マーマン]

  シャム湾の最奥部に停泊して風待ちをする帆船のデッキでひとり当直に立つ、船長として新米であるばかりか、急な任命のせいで船と船員たちに対してよそ者で、しかも、「自分自身にとってもいささかよそ者」(以下、引用は基本的に『コンラッド中短篇小説集3』(人文書院)小池滋訳によるが、変更を加えた部分がある)であり、「自分というものの理想の姿」に自分がどこまで一致するかまだ確信を持てないでいる若い船長が発見する、船腹に下がった縄梯子の先に浮かぶ「長く伸びた青白いもの」、「何だろうと思うより早く、人間の裸体が突然発するような燐光が、夜空を音もなく走る夏の稲妻めいて、眠っている水の中でちらちらと光」って可視化する、「二つの足、長い脛、緑がかった気味の悪い[cadaverous]燐光に首まで浸かった広い鉛色の背中」、最初「首なし死体」かと疑われた、水をかく腕が「不気味なくらい銀色で、魚のよう」に見える、「魚のように黙りこくったまま」の裸の男が、孤独な船長の欲望が形をとったものであるのは間違いない。「まるで海の底(実際、そこがこの船にいちばん近い陸地だが)から現われ出た」ように、それは彼自身の奥底から意識の水面に浮上してきたのだ。そうでなければ、おそろいの寝間着をまとい、船のなかでただ二人の“よそ者”として、「互いに全く同じ姿勢で向かい合った」相手が、「誰かと話がしたかったのです。何を話すつもりだったかもわかりません……多分『いい晩ですね』とか何とか」などと、どうして口にしたりするだろう。これはまさしく船長自身の欲望であり、語り手は、自分が言いたいと思っていたことを、他者の声でささやきかけられているのだ。「あなたが――まるで私の来るのを待ってでもいたように――とても穏やかに声をかけてくださったので、もうちょっと[梯子に]つかまっていようと思いました」とレガットが言うのは、語り手が誰かの来るのを待っていたところに彼がまさに現われたことを示すものである。

 むろんそれはあとになってわかったことだ。レガットを見つけるまでは、すべては潜在意識にとどまっていた。表面的には、日が沈んで星が輝き出す以前、部下を遠ざけた〈私〉は〈私の船〉と水入らずだった――「前途に長い航海をひかえている船は、果てしない静けさのうちに浮かび、帆柱の影は夕陽を受けて東のほうに遠く伸びていた。いまデッキにいるのは私だけ。船中物音一つせず――あたりには動くもの、生きもの一つとてなく(…)私と船とはこれからの長い困難な仕事――人間の目からは遠く離れ、私たちを眺めるもの、裁くものとしては、ただ空と海しかないところで、私も船もともども生き抜かねばならぬとさだめられた仕事を、成し遂げる力が果してあるかどうか、自ら吟味しているようであった」と語られ、「まるで信頼しきった友の肩のようなつもりで、私の船の手すりの上に軽く手を置いて」いたのだから。だが、日の入りとともに「数知れぬ星が見おろしてはいたものの、船と静かに心を通わせ合う楽しさはもうすっかりなくなってしまった」。なぜなら、昼のまばゆさが翳るや否や、「群島の内海」の「島のてっぺんの向うに」マストの先がのぞいていることに、船長が気づいてしまったからである。なぜ、それだけのことが、船との調和を失わせたのか。理由は、その船、セフォーラ号から、逃亡者レガットがやがて語り手の船にまで泳ぎつくことになるからという以外に考えられない。

 まるで「信頼しきった友」の肩のように、彼が手すりに手を置いていた船――それは女友達である。日本語訳には全く反映されていないが、英文では船が女であることは代名詞で確認されつづけている。引用したくだりの原文の一部を挙げる。“She floated at the starting point of a long journey, very still in an immense stillness, the shadows of her spars flung far to the eastward by the setting sun. At that moment I was alone on her decks. There was not a sound in her—(…)” 彼女はしかし、語り手とまだ馴染んでおらず(「信頼しきった友」というのも彼の側の思い入れであり)、つかのまの交流はこうして日没とともに、さらにはレガットの登場によって決定的に中断される。

 レガットと差し向かいになるや、船長は「友」となるべき船のことを、全く忘れ去ってしまったかのようだ。そもそも、船長自ら五時間の当直をするなどという「異例の処置」をとったのは、「まるで独りぼっちで夜の時を過ごせば、私にとって見ず知らずの船員が乗り組んでいる見ず知らずの船と仲好くなれるとでも思っているみたいだ」と自ら言うとおり、船と馴れ親しむことが目的の一つ(むしろ第一の)であった。実際、デッキにたたずむうち、「この船とて特に他と変わった船でなし、乗組員もそうだし、海だって何か思いがけぬ出来事を一発お見舞いして、私をうろたえさせようと待ちかまえているわけでもなかろう、と自分で自分を納得させて」気が楽になっていたのだし、レガットが現われる直前には、次のような感慨が心をよぎってさえいたのだ――「突然私は嬉しくなってきた。陸の不安に比べて海がなんと平安なことか[suddenly I rejoiced in the great security of the sea as compared with the unrest of the land]――心をかき乱す問題も起こらず、訴えるものは至極まっとうで、目ざすところも単純素朴な、海という根元的でしかも倫理的な美しさを備えた、この安全な生活[that untempted life]を選んでよかった、と」

 しかし、そこもまた安全な場所というわけではなかった。たとえ凪のさなかであろうと、海は平安を保証してくれたりはしない。the great security of the seaなどありはしない。海はまさしくその平安のただなかから、船長の意識の凪に乗じてその表面へ、untempted lifeなど望むべくもない、誘惑そのものを送ってよこしたのだから(まるで“ソラリスの海”である)。そして、「船長室にあのよそ者がいるのだから、私は自分の命令と一体ではなかった。というよりむしろ、私はすっかり船と一体になってはいなかった。私の一部はそこにいなかった」と、のちに語り手自身、はっきり自覚することになるように、レガットの存在は彼が「船と一体に」なることを妨げるものなのだ。風が出てきたと知らされ、レガットを船室に残して出て行かねばならなくなった時、語り手は「私は船と知り合いになるために出て行こうとしていた」と言っている。二人は目を見かわし、船長は部屋の奥のレガットの定位置を指さして自分の唇に指をあて、相手は「何かあいまいな――いささか謎めいた身振りをし、まるで残念というように、かすかに微笑んだ」

 この場合は一時の別れのしるしであるが、最後に彼らが本当に別れる時、船長は「いまや、私は立ち去らんとしている秘密の他人のことはすっかり忘れて、この俺は船にとって全くの他人なんだということだけが思い出された。俺は船を知っていない。船のほうでやってくれるだろうか。うまく操縦に答えてくれるだろうか」と言っている。そして船がついに帆に風をとらえて進みはじめると、「そして私は船と一体になった。そうだ! この世の何ものといえども、私と船とをひき離すことはできない。船乗りと、彼が最初に操縦する船とが暗黙のうちに知り合い、無言のままで愛し合い、心と心が完全に通い合おうとする時に、何ものも暗影を投ずることできないのだ」と高らかに宣言するのだから、船長はレガットがいなくなってようやく彼女[ふね]とのヘテロセクシュアルな関係にシフトしえている。だから、レガットとの関係をホモセクシュアルと呼ぶことは、明示されていない(あるいは存在しない)ものをあえて読み込むことではなく、むしろ構造的な必然である。

◆幻の肉体

 夜の海から上がってきたレガットは、魚か死骸かと見誤られかねなかったのみならず、亡霊のような存在でさえある。むろんコンラッドはこれを幻想小説としては書かなかったから、レガットは、貨物船セフォーラ号から逃げてきた現実の殺人者(嵐の際、適切な命令を下せない老船長に代って船を救い、これを妨害する水夫を死なせた)であり、セフォーラ号の船長の訪問はレガット(ただし会話の中に殺人犯の名前は出ない)の実在を証すものだろう。この亡霊は最初の日、船長の寝棚で熟睡するし、毎朝、船長のためのコーヒーを飲むし、レガットが船を離れて島に泳ぎついた後のために、船長が絹ハンカチに金貨をくるんで手渡すと、それを寝間着の下の素肌の腰にくくりつけるし、むき出しの頭を太陽に焼かれながら彼がさまよい歩かなくてもいいようにと、船長が最後に与える「ぺらぺらの帽子」は、「私が彼の肉体に突然感じた憐れみの表現」[the expression of my sudden pity for his mere flesh]であるのだから、船長の寝室でレガットは確かに肉体を持って存在しているのだろう。

 しかし、まだ彼が縄梯子を上がってもこないうちに、「この静まりかえった真っ暗な熱帯の海を目の前にして、私たち二人はすでに奇妙に心が通い合っていた」と船長には感じられ、「彼はすぐその濡れた体を私が着ているのと同じ灰色の縞模様の寝間着で隠し、まるで私の分身みたいに私の後について船尾へとやって来た」[強調は以下、引用者による]のであり、「灰色の亡霊のような私の寝間着」を着た、船長と同じ黒髪の相手は、「夜の中で、暗い大きな鏡の底の自分の影と向かい合っているみたいだった」と、はなから通常のリアリズムは放棄されているのだから、彼が現実の人間というより船長のダブルと見なしうることは、強調され、誇示されている――むしろ読者は(最も不注意な読者でさえも)そう見なすよう、繰り返し誘われるのだ。パジャマのサイズがぴったりだったり、同じ商船学校の出であると判明したりするのは、まだ偶然と片付けられないこともなかろうが、人を殺したことについて、「まるで私たちは着ているものだけでなく、経験まで同じだと言わんばかり」に彼が訴えると、語り手は理解できると思うし、「私の分身が決して殺人鬼なんかでないこともわかっていた」と言い、「私は彼にこまごました事情を尋ねようとは思わなかったし、彼もとぎれとぎれに、その出来事のざっとのあらましを語っただけだった。私はそれ以上知りたいとは思わなかった。私がもう一着の寝間着を着たもう一人の自分であるかのように、事件のなりゆきが私にはよくわかったからだ」と、彼らはたちまち驚くべき相互(?)理解に達してしまうのだ。

 もしも一等航海士にそうしているところを見られたら、「きっと彼は、俺は物が二つに見えるのかなとかあるいは、変てこな船長が自分の灰色の幽霊と舵輪のそばで話しあってるとは、こりゃ気味の悪い魔法の現場に出くわしたかな、と思ったことだろう」と心配になり(一番普通にありそうなこと、つまり、見知らぬ誰かと話しているところを見つかるのではという心配ではなく)、「君はすぐ私の個室に隠れたほうがいいな」と言って船長が歩き出すと、「私の分身もついて来」る。「実際は彼は私に全然似ていなかった」と船長は言う。

だが、私たちが寝台の上にかがみ込み、並んでささやきあい、共に黒い髪の頭を寄せあい、共に背中を戸口のほうに向けて立っているところへ、誰かが大胆に扉をそっと開けたとしたならば、二人になった船長の一人が、もう一人の自分と忙しくささやきを交しているという、気味の悪い光景をまのあたりに見たことであろう。

 そうだろうか。容易に予想のつくことだが、レガットの姿はついに船長以外の誰にも見られることなく終る。レガットが横たわり、片腕を目の上にあてがい、「こんなふうに顔をほとんど隠してしまうと、私がその寝台に寝ているのとそっくりだったに違いない。しばらくの間私はもう一人の自分を見つめてから、真鍮の棒から下がっている二枚の緑色のカーテンを注意深く引いた」。寝椅子で眠り込んだ船長に朝のコーヒーを運んできた給仕は、引かれたカーテンを見ただけだが、その向うにレガットがいると知っている船長は、自分が同時に二箇所にいると感じている。食事の時も、「食卓の上座に坐っていると、真正面に見えるあの扉の向こうの寝台に寝ている私自身の姿――私の人格ばかりか、私の行動次第でどうにでもなるもう一人の秘密の私の姿が絶えず目についた」。ゆり起こして浴室に入るように言うと、「彼は幽霊のように、物音一つ立てずに消えた」。〈私〉は給仕を呼び、部屋の掃除を命じておいて風呂に入る。「その間じゅう、ひそかに私と生命を共有する男はその狭い場所に直立不動で立っていた。昼の光で見ると、彼の顔はひどくやせこけていて、かすかに寄せたいかつい、濃い眉毛の下に、瞼が垂れ下がっていた」

 こうした描写は、船長につきまとう幻――つまりは彼の幻覚で、他の人間には見えない存在でレガットがあっても不思議はない、という印象を、絶えず読者に与えるものだ。L字形をしているため、都合よく奥まで見通せない部屋で、レガットは壁に何枚も吊り下げられた衣類の蔭で折畳み椅子に掛けており、〈私〉は机に向かいながら、「私の背後の戸口から見えないところに」いる「分身」を意識している。「ときどき肩越しにちらとふり返ると、ずっと奥のほうに彼の姿が見えた――低い椅子の上でじっと身をかたくし、はだしの足を揃え、腕を組み、頭を垂れ、身動きひとつせずに坐っていた。誰だって私だと思うだろう」。こうしてほとんど魅せられたようにレガットを見つめ、「しょっちゅう肩越しにふり向かないではいられなく」なっている時に、ボートの接近が知らされて、彼はセフォーラ号の老船長(アーチボルドとかいう名の)の訪問を受ける。船長は礼儀正しく客人に視線を向けて話をするが、壁一つ隔てた向うにはがいる。

私が本当に見ていたのはもう一人の男だった。灰色の寝間着を着て、はだしの足を揃え、腕を組み、黒い髪の頭を垂れて、低い腰掛けに坐り、私たちの言葉を一言洩らさず聞いているあの男だ

 語り手はレガットにあまりにも同一化しているため、言外にレガットのために弁明し、相手が「奴はセフォーラ号みたいな船の一等航海士にふさわしい男でなかったのですな」と言っただけで、「もう既に私は、ひそかに私と船室を共有するあの男としっかり一体となって、考えたり感じたりしていたものだから、自分自身が、セフォーラ号みたいな船の一等航海士にふさわしい男ではないぞと、面と向かって申し渡されたような気が」する始末だ。レガットのことを単刀直入に訊かれたら平気でしらを切れる自信のない語り手の船長は、自分から船室の中を見せることさえして(「彼は私の後から入ってきてあたりを見廻した。利口な私の分身は消えていた。私はまんまとやりおおせたのだ」)、セフォーラ号の船長を送り出す。うまく行ったのは、アーチボルド船長が「私を見て何か自分の探している男のことを思い出し、自分がはじめから疑い、嫌っていた若造にどこか奇妙に似てやしないかという気がして、少なからずうろたえた」からだろうと語り手は「後になってやっと思いつく」が、これは限りなく妄想に近い。

◆closure/closet

 分身を船室に残してデッキにいるのが、船長には苦痛になってくる。船長室にいても苦しいのは同じだが、「しかし、全体として彼といる時のほうが、二つに引き裂かれた感じがしなかった」。風が出て、「はじめて足の下で彼女[ふね]が自分だけの命令で動き出し」ても、「船長室にあのよそ者がいるのだから(…)私はすっかり彼女[ふね]と一体になってはいなかった。私の一部はそこにいなかった。二つの場所に同時にいるという感じが、身体的にも影響した。まるで秘密を持っているという気分が、私の魂にまで染みとおってしまったかのようだった」。そのため船長は、一等航海士の耳にそっとささやきかけそうになったり、羅針盤を見るのに忍び寄ってしまって舵手を驚かせたりする。さらには、そこにいない自分をいちいち船長室から連れ戻さなければならないので、とっさの判断が難しくなる。あの船長はおかしいと船員たちが思っているのは明らかだ。「おまけに怪談話まで出た」――というのは、船長室から物音がするのを聞いたばかりの給仕が、後ろから船長に声をかけられて飛び上がったのであるが、これは皮肉にも、レガットが幽霊ではなく、船長以外の人間にも感知可能な実在であることを読者に確認させる。

私のすすめに従って、彼はほとんどいつも浴室に居続けだった。そこがだいたいいちばん安全な場所であった。いったん給仕の掃除が済めば、どんな口実にもせよ、誰もそこへ入り込むことはできない。極めて狭い場所だった。肘を枕にして、脚を曲げ、床に寝転がっているときもあった。灰色の寝間着を着て、黒い髪を短く刈っているので、まるで平然とした、我慢強い囚人みたいに、折畳み椅子に坐っている姿を見かけるときもあった。夜になると、私は彼を寝台にこっそり連れ込み、いっしょに小声で話したものだった。

 この閉じこもりは、消灯後の寄宿舎での声をひそめての、中学生のお喋り(小説か映画で知った)を思い起こさせるものだ。もっとも、舎監が点検に来たり、羽根枕を投げ合ったりはしないが。船長室のロッカーの中の罐詰の貯えを、船長はレガットに与える。

堅パンはいつでも手に入れられた。だから彼は鶏のシチューとか、鵞鳥の肝臓のパイとか、アスパラガスとか、牡蠣とか、いわしなど――ありとあらゆる罐詰のまやかしの珍味をあれこれと食べて暮らしたのである。

 こうしたこまごまとした記述が連想させるのは、ロビンソン・クルーソーが粘土をこねて作る素焼きの器や、混ざっていた砂のせいで釉薬をかけたように見えるつややかな陶器や、苦労して収穫したわずかな小麦とそれを挽いて作った貴重なパンといった同種の細部(もっとずっと詳しいが)、そしてそれを読みながら企まれた、家具を馬車や馬に見立てての室内旅行、絨毯の上での水泳、幻の食料を食べるふりをする、子供部屋から一歩も出ないままの無人島生活ではなかろうか。大人になっており、食料が現実に存在するここでは、それはちょっとした屋内でのピクニックだ。先へ行ってレガットが「できるだけ早く、カンボジヤ海岸沖合の島に私を棄てていかなくちゃいけません」と言い出すと、船長は「島に棄てるって! これは少年冒険小説じゃないんだよ」と抗議し、「もちろんそうです。少年小説じゃありません」とレガットは答えるが、実際のところ、これは少年冒険小説なのである

(この項続く)
[PR]
by kaoruSZ | 2011-08-19 04:29 | 文学 | Comments(0)