おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

萌えの人・松田修

「酷愛偽装譚」――なんという恥ずかしい題名。意味はしかとわからないながら、いかにも恥ずかしい文字づら、文字のならびではないか。そして、「恥」という文字が指紋のようにそここに捺された彼の文章。松田修がそんなにも恥ずかしがってみせなかったら、私たちはあるいはそれほど彼の「恥」に気づかなかったかもしれないのに。
 彼はつねに率直に萌えを語った。恥をその裏にぴったりと貼りつけながら。世代的には三島由紀夫の同時代人なので、三島があのような生涯しか送れなかったことは、別に彼の生きた時代の限界からではないことが推察される。三島には恥ずかしがってみせるだけの器量がなかったのだ。   

 少なくとも十年は表紙を開かなかった『華文字の死想』を手に取った。『刺青・性・死』も、『闇のユートピア』も、『非在ヘの架橋』(それにしてもどのタイトルも今のものではない)も、クローゼットの棚の最上段と天井の間に積み上げた中に(たぶん)まぎれて見えないが、これだけは本棚の隅にずっと残っていた。再録が多く、雑誌ですでに見たものもあって、あまり身を入れて読んだ覚えのない一冊。しかし、偶然目にとまった「酷愛偽装譚」のページに、かつて引き込まれた記憶が甦ってくる。

 目次にはない「真山青果を解く鍵」というサブタイトルつきの「酷愛偽装譚」は、初出が「真山青果全集」補巻五月号とあるが、年の記載はなく、『非在への架橋』に収録されたことが知られる(78年8月)。青果の戯曲『平将門』(1925)の通常の評価は、松田によれば、「歴史=正史の蔭の部分に、新しい解釈と共感をもたらしたものとして」高いものであるのだそうだ。「しかし、あえていえば、青果の創作の真意は、ことさら見捨てられていたようである」。何が「見捨てられていた」のか。松田の熱い語りを聞こう。

青果はこの作品で何を語り、何を書こうとしたのか。それは将門と貞盛の愛、それもほとんど性愛に近い愛であった。

この悲劇の男が愛するものは――真に愛するものは――妻でも、子でも、弟たちでもない。従弟の貞盛――不幸にも将門が殺す結果になった、伯父国香の子貞盛であった。

貞盛は、「気高い、物思ひの深い子」であったと将門はいう。/「指先など白く、女のようにしなやかで」あったとも。

少年期の貞盛を回想して、「俯いてものなど考へる時、黒い睫毛が匂はしく影をつくつて……」――これが将門における終生の貞盛像なのだ。

イメージの貞盛を愛するが故に、上洛しながら、避けて会わない。なぜか、「気が引けて会はれ」ないのだ。いや、よりはっきりいえば、愛の深さのゆえに会えないのだ。

将門はいう、「太郎の前に出るのが苦しいのだ。自分の粗野が恥しいばかりではない。太郎の眸にあふと……」、だから会えないのだ。そのことを思い出として語るときさえも、将門は「羞ら」っている。ここから、次のようにいえば短絡にすぎるだろうか。/青果の恥の意識は、いわれるごとき単なる田舎士族の体制意識の恥ではない。美意識による恥なのだと――。

そんな貞盛の妻と早く定められた、お互いに従妹の東の君を、将門は奪って妻とする。加害者でありながら、将門は脅えている。[…]東の君を抱くことによって貞盛に怯え、怯えながら連帯しているのだ。貞盛に怯え、怯えることによって連帯しているのだ。貞盛に処罰されたくて、奪ったとさえいえるだろう。東の君を奪ったのではなく、貞盛の婚姻を妨害したのだ。


 こうした解釈を許す青果のテクストを松田が引用するのを、ここではさらにつづめて示す。

おれは、彼と従弟と云はれることが、心の誇りでもあったが、また恥かしくもあつた。(略)。おれは彼の悦ぶ顏を見るために、人知れずどれほど心を苦しめたか知れない。[……]彼はカラカラとは笑はない。匂はしい睫毛の深い目に、たヾニコと片頬に微笑んでおれの戯れた所作を眺めてゐるのだ。おれはいつも後で、自分の愚かしさを恥ぢるのだが、それでも幼い従弟のよろこぶ顏が見たかつたのだ。はヽはヽヽ。

 このくだりに、松田は次のようなコメントをつける。

これはもう、明らかに通常の人間関係ではない。将門の弟四郎の言葉を借りれば、「思慕」に他なるまい。男が男を愛することの、何というみずみずしい描写だろう。五十年の時差を埋めて、それは官能的である。

 他の青果作品の同様の部分を抜き出し、比較検討した末、松田はこう書く。

私とても恣意的に、青果作品のあちこち読みさがして、男同志の愛のみ拾い上げ、青果の「一面」をでっち上げようとするものではない。しかし、「平将門」をその典型として、青果作品のかなりのものが、男心と男心の、ときに性愛の感覚さえ伴う、響き合い、触れ合いの冴えを主題としていることは、動かしがたいであろう。

「男同志の愛のみ拾い上げ」「でっち上げようとする」ものだと言われることへの抵抗。「萌え」は脳内にあるのではなく、確かにテクストに見出されるのだという主張。それにしても、詩人や作家やエッセイストとしてではなく、国文学研究においてそれをやった松田は過激であった。

「一九八〇年代初めまで、同性愛を理想化して描くことは反俗的な美意識の表明であった」(『月光果樹園』)と高原英理が書いている(こればかり引用しているけれど)。『華文字の死想』(ペヨトル工房)の出版は一九八八年(書き写そうとしてペヨトル工房だったかと驚く)。この間、いかなる変化があったのかは措くが、上の引用だけ見ても、それが男の専有物であった時代の男-男表象への「萌え」を、それが女にも共通するものであることを確認しつつ、読み味わうことができるだろう。

 遡って一九七〇年、予定された死からさほど遠くないところにいた三島由紀夫は、ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』の、突撃隊粛清のシーンについて次のように書いた。

私事ながら、この「血の粛清」の政治的必然性は、拙作「わが友ヒットラー」に詳しいが、もちろんヴィースゼーの一夜については、私の戯曲は科白で暗示するにとどめてある。それを一つのショウに仕立てて、この映画の本筋とは関係ないところに、このやうな血のバレエ・シーンを置いたヴィスコンティの企みの深遠さは、推し量るすべもないが、るいるいと重なる白い裸体が血の編目を着てゐる描写には、一種のしつこい耽美主義が溢れてゐる。

「オレはこれに萌えた!」

 そう言えないばかりに三島は、「ヴィスコンティの企みの深遠さは、推し量るすべもないが」などと、韜晦しつつ書きつらねるしかなかったのだ。だが、これが、「映画の本筋とは関係ないところ」で、己れの美的/性的嗜好を芸術という名のスペクタクルたらしめて世の人々に見せつけたヴィスコンティに対するオマージュと、同好の貴種を見出した感動(そして羨望)でなくで何だろう。近年公にされた堂本正樹の『回想 回転扉の三島由紀夫』(文春新書)は、秀吉から死を賜った関白秀次が高野山で小姓たちの介錯をする(「彼等は常に御情深き者共なれば、人手にかけじと思召す御契りの程こそ浅からね」)『聚楽物語』の血みどろ絵を見せられたあとの、三島との最初の「切腹ごっこ」について次のように書いている。

「あとは歌舞伎の「判官切腹」の真似で神妙に勤めた。[…]そこで三島が小さく「ヤッ」と声を掛け、首筋に刃があたる。私は前にのめって伏し、死んだ」。小道具は「浅草などで外人向きに売っている」とおぼしき、三島の用意した大小である。仰向けにされた「首の無い筈の死者は、薄目を開けて次なる介錯者の兄貴の死を眺めた」。そして「三島は上半身裸になった。まだボディビルを始めていなかった裸は痩せて貧相で」……しかし三島は真剣な演技を続け、「ドッと私の死骸の上に倒れ込んだ」。

 ヴィースゼーの白い裸体についての記述をあらためて私は思った。

「もちろん」、「映画の本筋とは関係ないところ」でそれをやれるヴィスコンティと違い、三島は政治という口実を必要とした(そうでなければ、たとえば松田修のような「恥」を忍ばなければならなかったろう☆☆)。世間向けには、原作・脚色・監督・主演の『憂国』でさえ、男女の相対死(あいたいじに)という形でしか差し出すことができなかった。代りに、堂本(および他の男性)に筆写、書き替えさせて中井英夫のパートナーB氏が出していた「アドニス」に載せた『愛の処刑』、『憂国』演出者・堂本との、撮影の二日間泊まり込んだ帝国ホテルのツイン・ルームでの「リハーサルを兼ねた」「久しぶりの切腹ごっこ」等々があったろうが、「ヴィスコンティの企み」の秩序と美、襲撃前の気遠くなるほどの待機の静けさと豪奢な悦楽を思うとき、それはあまりにも貧しくはなかったか? 金井美恵子が書いている、幼いナボコフがわがものにした、黒鉛の芯が端から端まで通ったロリータの背丈ほどの太い巨大な鉛筆と、『青の時代』の文房具屋の貼りぼて鉛筆の差にもまさる彼此の差。三島にもそれはわかっていただろう。映画制作や他の映画出演も含めて、すべてがリハーサルであったかのような(「『憂国』が済むと「ゴッコ」はやんだ」と堂本は描いている)一回きりの本番が、いくら西武百貨店特注のコスチュームに身を固めての真剣(文字通りの!)プレイであろうと、ヴィスコンティのまばゆさの足許にも山裾にも及ばぬ――「総監や総監室の調度、バルコニーの片端やを瞳に灼いて死ぬなど、いささか侘びしすぎる」(松田修)――自己処刑は、裸電球の下でまばらな観客を前にしての場末のドサ回りにも似たショウでしかついにありえぬことが(「三島の刀影に、森田の凛々しい顏が映る」と、自分でも信じなかったであろうことを松田は書いている)、三島にはわかっていたに違いない。


さらに三十年の時差があり……数年前、若い日本美術研究者の講演を聞く機会があった。特に草創期の歌舞伎の話のあたりに、松田修の著作を髣髴させるものがあり、終了後、私は直接、話が面白かったと伝えた上で尋ねた。私の知識は松田修あたりで止まっているが、その後、国文学の分野で研究の進展はあったのだろうか、あれば読んでみたいのだが、と。果たして、自分の知識も「松田修先生」の仕事から来るものだと彼女は答えた。そうやって松田が読みつがれていると知って嬉しかった。ただし、松田を継ぐ者はいないということだった。

☆☆ 『華文字の死想』の巻末「解題」をしているのは山口昌男であるが、今日、その内容のうち、三分の一を占めるマクラの部分は、松田に対するセクハラとしか読めない。インドネシアで、伝統儀礼についての知識を授けられる代償に、ホモセクシュアルの行為をしかけられて調査をあきらめたという話を披露した山口は(松田のテーマである美少年だの同性愛だのの話題に入る前に、「自分はそうではない」とことわっているわけだ)、帰国後の調査報告で、「ジョークであるが」と前置きしつつ、「このように調査は、私の勇気の不足と決断力の無さの故に挫折したが、次は、松田さんあたりに同行して貰いたいと思っている」と喋ったと書いている。
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by kaoruSZ | 2009-08-23 11:08 | Comments(0)
「web評論誌コーラ」に今回載せた拙稿を読んだある男性から、「男性同性愛者による女性性の流用」のあたりについて、「ゲイであろうとも「男性権力者」であることへの自己批判がないものには容赦しないということですね」と言われてびっくりした。「たとえゲイであっても」などという、ゲイ差別的発想をしたことがないからだけではなく、「自己批判」という(時代がかった?)言葉自体が私の語彙ではなかったからである。そう言われてあらためて考えてみると、「自己批判」なる行為は、私にとってつねに侮蔑の対象であったように思われる。自己批判、自己嫌悪、自己憐愍――どれも好きなだけナルシシズムの沼に沈んでいてくれという感じなのだ。岸田秀の書くものはおおかたクズだが(というより、あれに本気で感心する奴が)、自己が自己を嫌悪することなんてあるのか、と言っていたのには頷けた。「自己弁護」はまた別な気がする。

 澁澤龍彦の全集を繰っていたら(しかし、全集で読むとなんだか索漠としている。本物の室内のようにすみずみまで居心地良くしつらえられた売場から、ボール箱に入れた商品をただ並べた倉庫に入ったようだ)、単行本『エロティシズム』文庫版(1984年)の、(文庫版あとがきにかえて)とカッコ書きされた「クラナッハの裸体について」の最後に、ちょっと面白いくだりを見つけた。

当時の私はフロイトのエディプス理論やサルトルの実存主義や、さてはバタイユの哲学などに影響されていたので、それが本書の文面にも少なからず反映しているようであるが、現在の私は必ずしもそれらを信奉してはいない。いま読み返してみると、女性に対してかなり辛辣な意見があって自分でも驚くほどだが、これも現在の私の意見とは認めがたい。無責任のようだが、君子は豹変する。なにぶん十七年前の著作なので、これらの点は大目に見ていただきたいと思う。

 文庫になった澁澤は手に取ったことがないので、ここは読んだ覚えがなかった。なるほど、これが自己批判をしない態度か。これでよいのではないかと私は思う。「現在の私の意見とは認めがたい」と率直に書いているのにむしろ驚かされる。女について紋切型を書くのは男の書き手の通弊である上(だからといって容赦したいわけではないが)、このあたりはもとは週刊誌に書きとばしたということもあろうが、特にそういうところが目立っていたかもしれない。俗流フロイディズム片手に女のセクシュアリティ(というカタカナ語はまだなかったが)の本質規定をするのは、「女性に対して」「辛辣」なわけではなく、女がわかっていない――突きつめれば女を人間と見ていない――証拠だというのは、実は小娘が読んでもわかった。それを批判する言葉がこっちになかっただけである。書かれたものは結局そういうところから古びる。

 ところで最近、俗流フロイディズムならぬ、俗流フェミニズム批評というものが存在するのだとつくづく思うことがあった。『ユリイカ』のトールキン特集(1992年7月号)所収の小谷真理「リングワールドふたたび――『指輪物語』あるいはフェミニスト・ファンタジイの起源」を読んだからである。この特集は以前から見たいと思っていて願いが叶ったのだが、もともと評論についてはあまり期待していなかった。これも出た当時は関心がなくて読まなかった同誌の『ロード・オブ・ザ・リング』特集臨時増刊号を先に読んで、トールキンをネタに世迷い言を吐きちらす人々に失望したからでもある(この増刊号では、『指輪物語』愛読者として語る黒沢清のインタヴューがただただ素晴しかった)。

 今回、何といっても収穫は、トールキンの未完の断章『失われた道』と、物語詩『領主と奥方の物語[レー]』を読めたことであった。前者は、目次タイトル脇の紹介によれば「『指輪物語』『シルマリリオン』二つの物語世界をつなぐミッシング・リンク、未完の物語一〇〇枚の全訳。限りある生を前に揺れる父子のファンタジー。作家の自伝的要素が濃厚に反映している現実世界と、神話世界が二重映しに……………」。映画パンフレットによくあるような、こういったあらすじ紹介はたいていはズレたものだし、読者も正確さを期待したりはしないだろう。だが、中身を読み終えてあらためて見たとき、この要約があっていることに気がついた(しかし、これを書いた人はおそらく、自分が書いた内容を理解していない……………)。

『領主と奥方の物語[レー]』の方には、テクストを翻訳した辺見葉子のエッセイが付いていて、先行作品とトールキンのテクストの異同が丁寧に説明されており、非常に興味深く、得るところが多かった。専門家というのは有難いものである。けれどもこの方も、物語詩の話題を離れ、「『シルマリリオン』および『指輪物語』との関わり」を考察する段になると、そこだけは、作品外の言葉に頼る凡百の評者と変わりがない。私の友人(彼女の導きで最近私がトールキンにあらためて関心を寄せるようになった)と私はそれを残念に思いながらも、行き届いた解説に助けられて読むことのできたこのテクストが、私たちの「『シルマリリオン』および『指輪物語』」の読みを強力に裏づけるものであったことを喜んだ。

 さて、「フェミニスト・ファンタジイの起源」であるが――このサブタイトルからして「やおい・ボーイズラブ前史」を思い出させるが、内容的にも、メインストリームの「男性文化」が行き詰まったり、変換点に至ったりした地点から、新たな女性文化がはじまる(はじまった)とする点でよく似ている。先に枠組みを用意して強引に対象にあてはめるという点も同様だが、『密やかな教育』については別枠を設けてあるから、今は「リングワールドふたたび」に限って言う。こういうことをするには、否定(ないし批判的/発展的継承)されるべき「男性文化」と、「来るべき」「フェミニスト・ファンタジイ」の差異を際立たせなければならないが、ほかならぬトールキンをその克服されるべき「男性文化」の側に置いた時点で、すでに小谷の負けは決まっていたのである。

 なぜなら、トールキンは〈男〉ではないからだ。フェミニスト諸嬢の傍に置くと、彼女たちの鼻の下に黒々とした髭が幻視されるほどの乙女っぷりを発揮しているトールキンの世界における、「○○の子、○○」という繰り返される高らかな父系の名乗りは、父権制に与してそれを存続させる合言葉などではない。『シルマリリオン』において表面的には父権制のしるしのように見えるものが、いかに内側からそれをぐずぐずに崩しているか。『シルマリリオン』は『指輪物語』の背景であるという、しばしば前者をネグレクトしていい(“たんなる”背景として)という意味であるかのように言われる言葉は、文字どおりに受け取られるべきものだ。トールキンの「異世界」がどれだけ(文字どおりの)「異世界」であるかをまだ誰も知らない。『シルマリリオン』が読まれぬ/出版されぬまま『指輪物語』が売れてしまい、前者なしでは理解されるべくもない話が圧倒的な支持を受けてしまったトールキンは、それがいかに知られえぬものであるかという苦い事実をあらためて噛みしめていたはずである。

 問題は、サムとフロドの関係がどうとか、トールキンとC・S・ルイスの関係がどうとか、男だけの集いがどうとかいう話でないことはいうまでもない。トールキンは、「ホモソーシャリティとホモセクシュアリティの紙一重」というトピックからも逃れ去る稀有の人なのである。まして、「トールキンは女性の才能を認め、「結婚」によりその才能が埋没する恐れをつと口にしてきたが、いっぽうで自身の妻エディスとは、学問上・文学上のどのような会話も共有しなかったという」(99ページ)とは何が言いたいのであろうか。才能ある妻として学問上・文学上の会話を共有して何かいいことある(あった)のかと小一時間問い詰めたくもない。

 フェミニストというのはずいぶん頭の悪い連中なんだなという冷笑を誘うとしたら著者にも不本意であろうこの論文は、奇しくも、澁澤のあとがきの場合と同じ十七年前に書かれているので、あるいは著者にとって「現在の私の意見とは認めがたい」というようなものになってしまっているのかもしれない。それだったらそれでいいし、いずれにせよこれをもとに糾弾したいなどという気は少しもない。しかし、ともかくこうやって目の前に形として残っているので、少々分析してみたいとは思う。澁澤の場合と違ってすでに過去の問題になってしまっているわけでないのは、『密やかな教育』の一件からも明らかだし、何より、あまりにも典型的にできているので、構造を知るにはもってこいであるからだ。うまくいけば、あなたも私も明日から俗流フェミニズム批評ができる(かもしれない)。(つづく)

★この続きは書いていないが、トールキンの『領主と奥方の物語[レー]』についてはここで論じた。
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by kaoruSZ | 2009-08-18 00:08 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

Desire

「恋愛」にまともな恋愛とまともでない恋愛を想定するのは、異性愛以外のレズビアンやホモセクシャルを差別する硬直した恋愛観と同じくらい差別的な恋愛観ではないだろうか。『ノルウェイの森』を読んでもし「これは恋愛ではない」と感じるとしたら、気づかないうちに「恋愛差別主義」(?)に陥っているかもしれないのだ。
                    (石原千秋『謎とき 村上春樹』272ページ)


 むろん石原千秋はこの文章を、その書き手が「非異性愛者差別者」であると読まれうるとは夢にも思わずに書いたに違いない。

「心を通わせていない「恋人たち」の関係が「恋愛」であるはずがないという批判」に対して、上の文章は書かれたものである。石原はどうしてこの比喩を選んだのか(彼自身も言うように、テクストに偶然はありえない)。「『レズビアンやホモセクシャル』(ママ)の恋愛を差別するのはいけないことだ」という前提がある(少なくとも石原の本を読むほどの者なら、差別は正しくないという知識を共有している)ので、これを出しておけば間違いなく勝てるというのがまずあろう。「レズビアンやホモセクシャル」は、すでにそうした表象になっているわけだ。

 しかし比喩にはもう一つの機能がある。「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛関係と、「心を通わせていない「恋人たち」の「恋愛」関係」が、ここでは交換可能な位置に置かれることになる。どちらも「異様」に感じられようが(石原自身がどう感じているかは関係ない。「テクストはまちがわない」)、「硬直」していない「差別的」でないあなたならそれを理解できますよね、と彼は想定された読者に呼びかけているのだ。つまり、この比喩に躓かずにスルーできる理想的読者とは、非異性愛者の恋愛を差別することはPC的に許されないという知識を持っており、かつ、「レズビアンやホモセクシャル」の恋愛は「異様」だと思っている人だということになろう。

 もともとこの本は、石原千秋の「ホモソーシャリティ」についての認識を確かめたくて買った(念のために言うと、どちらかといえば好きな書き手であり、ずっと読んできた)。今日の夕方買ったばかりなので隅々まで読んだわけではないが、「ホモソーシャル」については以下のように説明している。

ホモセクシャルとホモソーシャルは違う。ホモセクシャルはふつう「ホモ」と略されるもので、男性同士が肉体的な関係を持つことを言う。ホモソーシャルとはそれとはまったく違った概念で、「ソーシャル」だから「社会構造」のレベルの問題である。簡単に言ってしまえば、男性中心社会のことである。現在のわれわれの「父権性的資本主義社会」の性質はホモソーシャルと呼んでいい。
 
 石原はセジウィックの名前を挙げていないようだが……信じられないことだが(『こゝろ』をはじめとする漱石研究の立役者であるから)、読んでいないのか? 引き合いに出されているのが上野千鶴子だし。

いまは少なくなったが、結婚式に行くとまだ「何々家・何々家披露宴」と書いてあることがある。この何々家とは父の名のことを指している。ということは、男同士が女のやりとりをしているのである。こうして何々家と何々家が次々と女性の交換をし合うことで、ホモソーシャルはシステムとして成り立つ。

 これだけなら「父権制」ですむことだ。セジウィックは「Homosocial Desire」と言ったのである。



「ウェブ評論誌コーラ」の次号に載せてもらう拙稿は、結局「〈ホモソーシャルな欲望〉再考」と題するものになった。書き切れなかったので次回に続くが、上のケースにも話が及んだりすると、三回くらいになるかも。今回も映画の話ではなくなってしまったが……以下の文献に言及している。12月半ばにはアップされるでしょう。お楽しみに。

中沢新一『ぼくの叔父さん 網野善彦』(集英社新書)
Eve Kosofsky Sedgwick "Between Men: English Literature and Male Homosocial Desire" (Colombia University Press)
吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)
高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)
黒岩裕市「“homosexuel”の導入とその変容――森鴎外『青年』」『論叢クィア』第1号(クィア学会)
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by kaoruSZ | 2008-12-05 21:14 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(2)
「やおいはポルノではない」とう言明と同様(むろん、すべてのやおいがポルノというわけではないが)、「やおいとは火のないところに煙を立たせるものだ」という文句にも違和感があるが、それは、そうであれば「ホモエロティックなもの」は「腐女子」の妄想、でっちあげ、〈自律〉したファンタジーで、責任はゲイ男性を好き勝手にrepresentした彼女たちにあると非難することにつながるが、事実は違う――これも前々回書いたように、チャンドラーの小説レヴェルで、すでに火は燃えさかっているのだから。

 昨年放映されて私自身のいわゆる二次創作(とは私は呼ばないのだが)の素材にもなった『鋼鉄三国志』について、あれはやり過ぎ、あそこまでやられるとかえってネタにできないという声があると聞いて違和感はさらに強まった。彼女たちは何を言っているのか。確かに「ねらっている」のは明らかとはいえ、あの程度(やおい度)のものなら、過去の映画やドラマや小説にいくらでもあろう。だが、そうしたメインストリームの作品と違い、いったん「腐向け」に分類されれば公然と非難してもよくなる。だから、『鋼鉄』本篇がニコニコ動画にアップされると、「腐女子」こそがホモエロティックな表象の担い手と決めつけた(「腐女子自重!」)、ホモフォビックなコメントが絶えなかった(むろん、楽しいコメントもいっぱいあったが)。

 要するにそこではホモフォビアは腐女子フォビアの形を取っていたのだ。腐女子フォビックな書き込みをする者は、自分のホモフォビアを、ゲイ男性ではなく「腐女子」にぶつけ、「ホモエロティックなもの」と女性の性欲を二つながらに本気にしなくてよいものとしして嘲りながら抹消することができたのだ。友人の言葉を借りれば、マジョリティ(ヘテロセクシュアル)の中のマイノリティ(女子)が一番叩きやすい。むろん、この場合、腐女子は全員ガチへテロで自分の願望を男同士に仮託している云々といった思い込みが前提としてある。

 だが、『三国志演義』でさえすでに「ホモエロティックなもの」を不可欠の構成要素としていたのであり、その書き手は(腐)女子ではありえない。



 前々回に引用した千田有紀さんによる森川論文(『ユリイカ』のBLスタディーズ特集所収)批判を、全篇通して読んだ上で、批判対象である「数字で見る腐女子」も読み直した。(男の)一般人対(男の)オタクという対立の図式をそのまま女にあてはめて、その女ヴァージョンとしての一般女性対女オタク(腐女子)という対立を無理やり作っているだけの論文であり、千田さんのように「森川さんの論考、こういうことを考えさせてくれるという点で、本当に挑発的で刺激的でした」とさえ言えないが、行きがけに二箇所ばかり、森川さんがいかにこじつけに長けているかその手口を示しつつ、そこから考察できたことをメモしておく。

「女性のためのエロス表現」「女性のための男性同士のラブストーリー」という言葉に対して、森川さんは、それは女性一般のためではないだろう、腐女子のためだろう、そう呼ぶのはアニメ絵のエロゲーを「男性のためのエロス表現」だというようなものだ、一般の媒体でそんなことを書けば「オタクのための」の間違いじゃないのかというツッコミが入るだろう、やおい/BLを「女性のための」と枠付けすることには「特殊な存在としての「腐女子」を後退させようとする力学が働いているように見える」と言うのだが(p.130)、これはわざと日本語がわからないふりをして強弁しているのだろうか。
「エロス表現」とはそれほどまでに「男性のための」ものであるとされてきたので、それとは別のものであることを言いたいがための「女性のための」なんだよと、わざわざ説明する必要があるだろうか?

「女性のため」とことわるのは、そうでなければ自動的に男性のためのものと解釈されてしまうからだ。男のための「エロス表現」はあふれかえっているから、この場合は特に「オタクのための」と細分する必要が生じる。

(なお、森川さんが論考の冒頭でパロってみせた、アクセスよけのためウェブサイトの入口に記す「女性向け」はこれとは微妙に話が別だが、今は触れないでおく。)

 これに続く章で、森川さんは「女性一般による腐女子差別に対しては異議申し立ても啓蒙もなされない一方で、やおいの中のゲイ差別的な表現については「無自覚」な腐女子たちに矛先が向けられ、啓蒙しようとなされる」のはなぜか、という問いを立てる。
 そして、「それは、ひどく単純なことである」といって挙げる理由は以下のとおり。「英米には、女性差別があり、ゲイ差別があり、それらに対してフェミニズムやカルチュラル・スタディーズが異議申し立てをしてきた蓄積がある。しかし、英米の学会には、腐女子差別に関する議論などはまた存在しない」。だから、「「一般」対「オタク」の構図は封殺され、代わりに、「男性」対「女性」や、「ヘテロ」対「ゲイ」の構図が強調的に前面化される」。

 まあ、ひどく単純なのは確かだ。「「一般」対「オタク」、あるいは「女性」対「腐女子」の構図で文章を書くための単語帳や参考書はアマゾンでは扱っていない」って、そんなことで“BL学者”を揶揄しているつもりだろうか。「一般」対「オタク」というのは男の特殊事情で、女の場合にそのまま重ねることはできない。そこまでして腐女子を「女のオタク」にしたいのか。「レズビアン&ゲイ なんとか」と銘打ってゲイ男性の話ばかりし、レズビアンについてはよくわからないからと言いわけしつつアリバイとして女を入れる連中もウザいが、これと比べればわからないと言うだけましに思えてきた。

 しかし、“学者”の揶揄は、私もしたい気がする。それには、次の部分が使えそうだ。

 そうしたやおい論や腐女子論を特徴付けるのは、もっぱら〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開される一方で、その媒体が、漫画・アニメ・ゲーム・ライトノベルなどの、いわゆるオタク系に偏っていることに関して、おおむね不問にされていることである。

〈女性〉が「男性同士のラブストーリー」を対象にしていることにクローズアップした論述が展開されるのは、その齟齬(見かけ上の)にこそ問題の核心があると見なされるのだから当然のことだ。だが、媒体の片寄りに関しては、別の理由があると私は思う。

 それはひどく単純なことだ。やおい研究者たちがまだそこまで手を広げられないから、あるいは、手を広げられない人がやおい研究者をやっているから。商業出版のジャンルとしてのBLにとどめておけば、少なくとも研究としての恰好はつこう。媒体の片寄りは単なるその結果であり、オタクうんぬんは関係なし。

「岩波講座 文学」の『身体と性』の巻で、何をもって〈ゲイ文学〉と呼ぶかについて論じながら、ゲイとは無縁の物語さえもゲイ文学へと変換し、あれよあれよという間に理論上すべての文学はゲイ文学でもあるという地点にまで至る大橋洋一の身振りを見よ。「理論が作品をマッピング」!
 やおいも基本はそれと同じだ。
 
 女が明示的ゲイ文学を読むのもやおいだよ! (だから、「やおいとは火のないところに煙を立たせるもの」という言説は違和感なのだ。)
 塚本邦雄をやおいとして読むとか、ユルスナルをやおいとして読むとか、私が言っているのもそういうことだ。

 もちろんそれは差別だ。前にも書いたが、女が関わる場合だけ、それを〈やおい〉と呼ぶのは差別。 
 だからあえて呼ぶ。

 最後に一言――森川論文で驚いたのは、末尾に守如子さんへの謝辞があったこと。守さんの書くものを知っている人なら私同様驚くだろうし、知らない人やあまり知らない人は、論文の著者に賛成なのかと思いかねない。守さんにしたら大迷惑だ。それとも意地悪でやってるのか。
 守さんに聞いたことをどう曲解したのか知らないが、この内容で、「執筆にあたり、格別なご教示を頂いた」なんて書いたのでは守さんに失礼だろう。
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by kaoruSZ | 2008-03-29 22:45 | やおい論を求めて | Comments(0)
『カミングアウト・レターズ 子どもと親、生徒と教師の往復書簡』(RYOJI+砂川秀樹編)は、「がんの痛みをとるために」と本来なら表題をつけたいパンフレットが、本人には病名を告知しないのが主流だった時代には「痛みをとるために」とだけしか題せなかったように、肝心のことが表紙には日本語では出ていないが(というのは、最初は目に入らなかったが、赤い英語の手書き文字ではGay & Lesbian Comingu-out Lettersとあるからだ)、まあ、それを併せて読めば内容はわかる本だ。

 私がこの本を読んだのは、若い友人から、本屋で手に取ってみたものの、Ⅱ章のletter 6のタイトルを見てそのまま閉じてしまったという話を聞いたからだ。そのタイトルは「ムーミン谷とマイノリティレポートにこめたもの」という。なぜそれがその先を見る気にならなくなるほどショックだったのか、彼女が話してくれたおおよその理由は次のようなものである。

『ムーミン』の作者トーベ・ヤンソンがレズビアンだったのは今では知られていることだが、『ムーミン』には女同士の関係は直接的にはほとんど出てこない。あれ(TVで放送していたアニメの『ムーミン』)を見ていた女の子たちが一番惹かれたのは、たぶんスナフキンとムーミンの関係。それがどう扱われているかが気になった。 “やおい的なもの”に出会って自分のセクシュアリティを意識したという人は、実は、男女を問わずいるはず。ムーミン谷は多様なマイノリティが共存する世界、作者はレズビアンです、ですまされてしまったとしたら、そういう子たちはどう思うだろう。男なら、ゲイという概念を知って「ゲイです」ですむかもしれない。だが、レズビアンでやおい的感受性を持つ女の子は、スナフキンとムーミンに萌えてしまう私は間違っているのか? と思うのではないか。 
 “正しい同性愛者”という規範がそういう形で示されることで、女にとって何が正しいセクシュアリティかという押しつけがここでもまたなされているのではないか?


 そう思って本を閉じてしまったというのだ。
 非常によくわかる話だし、ヤンソンがレズビアンだったこととムーミンという作品との関係がどのように語られているかは私も大いに興味があるから、それなら代りに読んでみよう、と私は言った。

 しかし、帰宅してもそのことがどうも気になるので、すでにその本を読んでいる別の友人にメールして、ヤンソンがレズビアンだったことについてどのように書かれているかを尋ねてみた。

 すぐに返事は来た。十八歳の女性と高校時代の教師の往復書簡であり、高校生だった彼女が書いたレポートはムーミン谷はキャラがいろいろ出てきて多様だといった内容で、そして作者については何も書かれていないというのだ。

 うむむむむ。拍子抜け。それにしてもヤンソンに触れてないって……。これはどうしても自分で読んでみなければ。
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by kaoruSZ | 2008-03-10 22:55 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 大岡昇平に『萌野』という小説がある(とえらそうに言うが、実は未読。蓮實重彦の『反=日本語論』(1977年)で扱われているのを昔読んだきりだ)。大岡が72年にアメリカ滞在中の息子夫婦に会いに行ったときのことを書いたこの小説で、彼の未来の孫娘に息子夫婦が用意していた名前「萌野」。これを「もや」と読むことは、今日ほとんど抵抗を惹き起こすまい。なにしろ、金井美恵子が日本中の親が森鷗外になったみたいにと言い、柄谷行人が、大学の出席簿がホステスの名簿みたいだと言ってからでもいったいどれだけ経っていることか(萌野ちゃんは幾つになっているか……と数えるまでもなく)。「萌(もえる)」を「も」 と読ませるなど、今となっては可愛いものというか、限りなく上品というか……。『反=日本語論』を(たぶん)出版されて間もなく読んだとき、しかし、「萌野[もや]なんて低能の名前の子は俺の孫じゃない!」と口走ってしまう(あとで後悔するのだが)大岡の感覚は、確かに当時の私のそれともぴったり重なるものであった。

 大岡昇平が大岡萌野という名を受け入れるに至る話。それを「美しい」と蓮實は形容していたと思う。畸形性こそが言語の本質であること、現在「正しい」と感じられる訓み自体が実は漢字に恣意的な訓みをあてはめた結果として偶然このようにあること、「美しく正しい日本語」とは虚妄であること。そうであるとき、「萌野」の「美しさ」を拒む理由は何もない。

『反=日本語論』についてのインタヴューで、蓮實はインタヴュアーから「ゾケサの紋切型」はないのだろうかと尋ねられている。ゾケサとは「蛍の光」の一節、「あけてゾケサは別れゆく」を「明けてぞ今朝は」と聞き取れなかった子供時代の蓮實の頭脳が産み出した架空の生物だ。これに対して蓮實ははっきりした答えを返していなかったように記憶するが、私はそれを読みながら、(ゾケサの紋切型はある!)と思っていた。投書欄のあるところにならどこにでも出現する可能性があるのだが、たとえば当時、たまに寄ることのあったスーパーに置かれていたペーパーにはそれ専用の欄があって、「ゾケサ」のたぐいの言葉を子供が発したとき、すかさず親が書き取って投稿した記事が毎号おびただしく載っていた。ケースの中の「生ハム」の表示を見て、「ママ、このハム生きてるよ」と驚きの声を上げる子供は確かに可愛かろうし、そういう場面で私自身微笑(時には爆笑)することもある。だが、ゾケサの紋切型の羅列は醜悪だ。それは、競って投稿してくる母親たちがそれを「わが子のユニークな発想」と信じているから、そして、それが子供にしか可能でないことだと思っているからだ。

 だが、ハムが生きているのかと思う子供の驚きは実は何度も反復されてきたものだし(私自身の同様の体験についてはここで触れたことがある)、たとえ大人であっても「正しい日本語」から外れた、日本語の制度の内部にいない者はこうした錯誤の可能性に絶えずさらされている(『反=日本語論』にはそうした例が幾つも挙げられていたと記憶する。)子供なら可愛いと思われ、外国人であれば忌避されたり珍重されたりする。

 萌野=もやというフォルムの畸形性の印象は、今ではよほど薄らいだ。鷗外は今の日本人には想像のつかぬほど漢籍にも通じていたはずだが、その彼が「茉莉花(まつりか」の「まつ」を「ま」と強引に撓めて「まり」と読ませたのは、実は「萌」を「も」と訓ませるのからそう隔たっていなかったのかもしれないのだ。

 今では「萌野」は紋切型になってしまった。「日本中が森鷗外に」なった、つまり、「出鱈目」で「荒唐無稽」な名づけが大衆化された結果、その荒唐無稽さをもはや感知できない人々によってそれが自堕落に反復されるようになってしまったからだ。 「荒唐無稽」は制度に馴致されうるのだ。飼い馴らされたゾケサたちよ。

 ところで、同性愛も異性愛も同じように構築されたものだという言説がある。これはたとえば、「あなたが異性に性的に惹きつけられるのと同じように彼らは同性に惹きつけられるのですよ」というふうに使われることがある。そして、「あなたが異性への欲望を同性に向け直すのが不可能なように、彼らにはその逆が不可能なのです」と続けることによって、この言説の向けられる人々に何らかのrevelationをもたらすらしい。

 自分たちがガチへテロであるように「同性愛者たち」はガチホモだ、と「異性愛者たち」は思うわけだ。同性に向かう欲望とは、生殖という目的から外れ根拠を持たず方向を見失い意味を欠いた荒唐無稽なものだと思っていたが、そうではないのだと。(彼らばかりではない。そうやって彼らが説得されることを望む「同性愛者」たちもまた、律義で自堕落な反復によってそう考える。) だが、出鱈目(この表記ときタラそれ自体でタラめで面白いっタラない、なんでここでタラが出てくるんだwww)で荒唐無稽であるのは、性的指向などその一部でしかないセクシュアリティそのものではないか。

 小説『萌野』で、「もえの」という訓み(それなら大岡にも受け入れられる)をなぜ採用しないのかという理由について、語り手の息子の妻は語り手に、「もえる」(性的に)という連想が女性の名としては不穏当ではないかと冗談めかして言う(これは蓮實の記述を私が記憶に頼って書いている)。 ここから見てとれるのは、女が(他動詞的に)「萌える」という概念が当時全く存在しなかったことだ。「もえ」(たぶん和語としては萌えと燃えに区別はないのだろう)た女は男に対していつでもオーケーと言っている(性的対象として自らを提示している)と見なされて当然という文脈で(2008年に米海兵隊員に対する告訴を取り下げなければならなかった沖縄の女子中学生もまた、そういう女として男たちから断罪された)「もえ」の意味は尽くされていたわけだ。

「萌野」という畸形的な(実はそれはすべての言語の特徴なのだが)フォルムの誕生を祝う小説で、そしてそれをめぐって「美しく正しい日本語」の正統性を疑問に付するエッセイの中で、しかし女が「燃える」こととそれに対する男女の反応は女の「正しいセクシュアリティ」に属する事柄として記述され、1977年のフィールドに、女が「萌える」可能性は文字通りその萌芽さえ見せていなかった。
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by kaoruSZ | 2008-03-04 09:56 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)
 エクスパックはじめて使った。書留同様なのは知っていたが、パソコンでできる追跡サービスがあるとは知らなかった。昨日の早朝、東京中央郵便局で出したのが、19:22 「千葉支店」を「通過」、翌3:55 には地元の本局について、現在そこから持ち出されているというのが見られる。配達はもう時間の問題だ。明日の鋼鉄三国志同人誌即売会「鋼鉄の宴」、居候で参加するのだが、無料配布本として作った《緊急座談会「『鋼鉄三国志』は〈事件〉か?」by 鋼鉄オールキャラクターズ》 (本文はweb評論誌「コーラ」3号に掲載)はこれで朝から配ってもらえる。

 そして――新作『第三集 夏のなごりの薔薇』、他にも理由はあるが朝から駆けつけるのが無理ではないかということもあって正式参加見送ったのに、駆けつけるしかなくなった。最後までテクストが確定しない。見切りがつけられない。これで本の形にしてページをめくったとたん、直すべきところが見つかるんだと思うと手離せない。もう今はあきらめたが。本になる前にあとがき(と目次)を公開。今回あとがきもなかなか出てこなかった。とりあえず何部製本できるかわからないけれど、通信販売もやります。


諸葛瑾参上 あるいは Comment j'ai écrit certains de mes livres (3)

 ……周瑜が孔明を自室に呼んだ夜何があったのか、最初の構想は周瑜が孔明の誘惑に乗るというものだったが、テクストでは孔明がりっくんに向かってその話をしながら反対のことを言うので整合させられずにいたが伏線を張る。その意味は、しかし第六話にならなければ明らかにならない。
                 (第一集 紺青の別れ あとがき)             

 ここでいう第六話は現行の第七話にあたる(「私の青空」が入ったため)ので、これで最初の構想にようやく追いついたことになる。

 陸遜と凌統が孔明を尋ねる旅に出ることはオフィシャル・サイトで予告されていたから、そのあたりまでをひとまず視野に入れていたのだが(というかその先は考えていなかった)、いざその回になってみると〈鋼鉄〉世界では蜀はずいぶん近場のようで、あっという間に旅は終り、草庵での師弟対決へと舞台は移る。しかしそれ以前の、ためらいもなく孫権を狙い、魯粛を殺し、陸遜も倒して、玉璽を奪うことが孔明の意思だと動けない彼に勝ち誇って告げるサディスティック趙雲(別名「気違い忍者」(c) Izさん)に目を見張らされた本篇十五話の幕切れで、もうすっかり〈鋼鉄〉世界に入り込んでしまっていたから、そんなことは――そして周瑜の後を襲って大都督になるべき魯粛があっさり退場してしまったことも――どうでもよくなっていた(もっとも、周瑜が軍師だったり提督(!)だったり曹操の船が「赤壁丸」(!)だったりするのは、いまだにどうでもいいわけではなく、私の本では周瑜は都督としか呼ばれないし、後者は固有名詞を避けて「曹操の船」である。まあ、孔明は兄上が「赤壁丸」(!)にいた頃いにしえより伝わる(!)七星壇でいったい何のダンスしてたのか、モアイ(違…)が立ち並ぶ五丈原はいったいどういうところだったのか、どうでもいいと言っておくしかないことも多いが)。

 もう一つエポック・メイキングだったのは、本篇十七話の諸葛兄弟別れの場だ。あれはもう、「もうあたしらに過去はない」と諸葛瑾が言ったその過去のためのスキマが造られたようなもの。これを埋めたくなった人は多かろうが、私の場合、その材料の一部は、なんとも安易なことに『私説三国志 天の華・地の風』からの流用である(孔明が子供のとき兄の不注意でさらわれたとか、兄と叔母/継母の関係とか使いまわしもいいところ。ただし、天華の孔明と子瑜が相愛というのは、たとえば『三国志演義』で周瑜×孔明や魏延×孔明がありえないのと同じくらいありえない)。そうそう、毒を使って周瑜を孔明が暗殺というのもそうだった。(天華の孔明は毒入り香油を肌に塗るだけです。念のため。忘れていた(!)が、中に仕込むというのは『孔明華物語』のオリジナル、ここはセルフ・イミテーションだった。)

 孔明を尋ねる旅に出た陸遜と凌統が趙雲に出会う第六話(本書の第七話)は最初からの構想だが、現行第七話では後半が諸葛瑾の一人称語りになった。そして第八話は完全に諸葛瑾のターン。要するに、成都のバルコニーの場はこの二作の中に分割して(舞台をバルコニーからベッドに移して)組み込まれることになったのだ。六七話は夏からずっと書きかけのまま抱えていたのに、八話は十一月二十日の午前とあくる朝の早い時間にほぼ書き上げられ、二十二日午後にプロローグ(*で区切られた前の部分)が接続された。なお、諸葛瑾が頭脳派の本領を発揮する《緊急座談会「『鋼鉄三国志』は〈事件〉か?」by 鋼鉄オールキャラクターズ》 (web評論誌「コーラ」3号に掲載ののち、無料配布本に再録)は、これよりあとに構想された。

 諸葛瑾が今回ところどころで洩らしている「赤壁丸」(!)潜入前後のいきさつは、最近になって加わった。あれも、リアルタイムで見たときは、諸葛瑾に「苦肉の策」をやらせることに違和感しか覚えなかったが、それは諸葛瑾の魅力がまだ見えていなかったからだ。ここで魅力というのは、読者の同一化を誘う性的対象かつ/または主体となりうる資質というほどの意味である。老黄蓋(『鋼鉄』には別な黄蓋が登場するが)ではとうてい無理で、それに気づいてみればあの「苦肉の策」の担い手は代役などではない、むしろ彼自身のために用意された役と思えた。

 周瑜が殺された理由もまた、魅力的な諸葛瑾によって解決(捏造)されよう。(アニメ本篇では孔明は周瑜を殺していない。念のため。)「鍼をお願いします」の場で周瑜が据え膳を食わなかったからという理由づけは、私自身、腑に落ちていなかった。

 ちなみに、孫策に会いに行ったときも、若い孔明は彼を誘惑しようとして退けられていると思う。これは『鋼鉄三国志―呉書異説―』(妹尾ゆふ子 コナミノベルス)を読んだ人なら当然考えることだろう(退けないのもありだが)。小説版の続篇がこの作者によって書かれなかったのは(文章力の面だけでなく)残念だ。これはTV放送分では触れられることのなかった挿話だが、最終回に至って孔明は陸遜に、そなたの父を殺させたのは私だと唐突に言ってしまっている。

 最終回は、しかし(右の記述とどうつながるのか、番組を知らない人には不可解になるが)『鋼鉄三国志』がまぎれもなく孔明と陸遜の〈愛〉の物語であったことを喜ばしく再確認させたのであり、「青水月の章」はこれなしには書かれえなかった。

 で、このあとは?
 黄祖の下で文字を覚えた頃のことを回想しながら「周瑜さま」に手紙を書こうとしている甘寧。
 趙雲と隠れ棲む孔明の居場所を探しあてて尋ねてゆく兄。
 一度は死んで「冷凍」されていたんだからディックの『ユービック』でもやるか(やれるか?)。
 といったところ……。


第三集  
・第六話  白南風(しらはえ)                                       
・第七話  夏のなごりの薔薇                                       
・第八話  黄落の宿                                  
・外伝 二  青水月(あをみなづき)の章    
                              
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by kaoruSZ | 2008-02-09 10:44 | ◆売り物「孔明華物語」他 | Comments(0)
 子供の頃、子供の歌はいろいろな事柄を広くあつかっているのに、大人の歌は恋がどうした愛がどうしたばかりであるのに気づき、なぜだろうと不思議に思ったことがあります。でも、大人になってわかりました。子供と違って、大人にはもうそれしか残されていないのだと。 同様に、「一週間」という歌(「♪日曜日は市場へ出かけ~」)、なんで一日に一つのことしかしないのだろうと不思議に思っていましたが、大人になった今わかりました。大人は一日に一つのことしかできないのです!

 というわけで、その日その日の雑事(1コ)に押しのけられてのびのびになっていた、通信販売の広報をこの機会にいたします。

(1)現在までに「鋼鉄三国志」ベースの小説集を二冊出しています。これは在庫もあり、すぐにお送りできます。

(2)「私説三国志 天の華 地の風」の設定を使った「孔明華物語シリーズ」は、残部僅少ですのでお問合せ下さい(内容については以前の記事に詳しいのでカテゴリでたどってご覧下さい)。今後、増刷する予定ですが、手作業のため、ここしばらくは時間が取れないと思います。ご注文があれば優先的に増刷いたします。
 なお、旧年中にお問合せをいただいた方の分は取り置いています。

問合せ先 dokushokai@hotmail.com  鈴木 薫

 郵便小為替の手数料がはね上がりましたので、郵便振替の口座を開きました(これですとATMの場合、手数料が80円ですみます)。ご希望の本がお決まりの場合は、 書名、冊数、送付先のご住所、お名前をお知らせ下さい。こちらから本の代金+送料と振込先をご連絡しますので、その金額を振り込んでいただきます。入金の確認には数日かかる場合があります。

(1) 裏説 鋼鉄三国志
第一集 紺青の別れ【2007年8月刊/A5判2段組40頁/500円】
●第一集 紺青の別れ
・第一話 紺青の別れ(陸遜×凌統 他)
 孔明を逃がした廉で周瑜は陸遜を捕え、凌統の身柄も拘束する。孔明を討つと告げられた陸遜の行動は周瑜には当然予測できたはずであり、陸遜を呉に残して行けばどうなるか孔明も承知していたはずだが……。釈放された二人ははじめて身体を重ねるが、凌統には陸遜に言えない秘密ができていた。                                     

・第二話 鴇色の午後(陸遜×凌統 他)
 とある午後、周瑜とその私房に呼ばれた凌統、凌統とその生足を見てしまった陸遜、都督と彼を「お慰めすること」を許されたしもべ甘寧、そして水と魚の主従、六人四組の織りなす出来事(アフェア)のスナップショット。

・外伝 一 緑陰 其一(孫策/周瑜)
 あ~る日とつぜん、ふたりだま~るの~~~♪

第二集 黄昏の百合【2007年11月刊/A5判2段組56頁/500円】
・第三話 黄昏の百合(凌統/甘寧)
周瑜の遺体を安置しての殯(もがり)の日々、自責の念と孔明への疑いから、玉璽を抱えて引きこもる陸遜もさることながら、甘寧の姿がないのを危ぶんだ凌統は彼を訪ね、彼と都督の関係の真実を聞く。

・第四話 百日紅の闇(孔明×陸遜、凌統/甘寧)
周瑜の弔問に孔明がやってくる。敵意を剥き出しに彼を迎えた人々も、その真情あふるる死者への手向けの言葉に本気で感動。師への疑いを忘れ、巧みな言葉に真心はかえって邪魔なのだという諸葛瑾の言葉も耳に入らない陸遜に対し、凌統はある決意をする。

・第五話 私の青空
 むしろ孫策の妹として生まれたかった孫権が、心惹かれた三人の男について語る。『鋼鉄三国志』第25話(雪原の逃避行です)がガチへテロに見えて気に入らなかった方にもおすすめ。

・外伝一 緑陰 其二(周瑜/孫策)  完結  

☆続刊☆

第三集 夏のなごりの薔薇(2008年2月発行予定)
・第六話 白南風(甘寧/凌統、孔明/陸遜)
・第七話 夏のなごりの薔薇(凌統×陸遜)
・第八話 黄落の宿
・外伝二 青水月の章(陸遜/孔明)

(2) 三國志遺文―孔明華物語シリーズ
三國志遺文―孔明華物語【2001年11月刊/B5判2段組96頁/700円】
三國志遺文―孔明華物語拾遺【2002年8月刊/B5判2段組94頁/700円】
あひみての——孔明華物語巻三(上)【2003年8月刊/B5判2段組84頁/700円】
あひみての——孔明華物語巻三(下)【2003年12月刊/76頁/700円】
いづれの花か――三國志遺文偽小説集【2004年5月刊/B5判2段組36頁/300円】
のちのおもひに——三國志遺文偽小説集2 【2004年12月刊/B5判2段組50頁/300円】

⑤⑥合本(⑦合本 三國志遺文偽小説集/600円)もあります。
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by kaoruSZ | 2008-01-01 02:12 | ◆売り物「孔明華物語」他 | Comments(0)

通販の予定など

 来る11月11日(日)の三国志オンリー同人誌即売会「交地ニハ絶ツコトナカレ」@東京ビッグサイトに、友人のスペースの居候で参加します。

 鋼鉄本で現在できているのは「裏説 鋼鉄三国志」第一集のみですが、イベント当日は三集までそろえて提供する予定。それ以前に第二集ができたら、先に通信販売を開始しようと思っています。

 また、2000年から2004年に出した「三國志遺文 孔明華物語」シリーズ(全6冊、未完)を増刷して当日持って行くつもりです。
 それ以前に通信販売再開もするかもしれませんが、印刷、製本の時間が取れればの話なので、まだはっきりしたことは言えません。早く読みたいからさっさと作れというメール等頂くと、喜んで突然作業をはじめるということもありえます。通販利用をお考えの方、メール下されば準備でき次第ご案内を差し上げます(アドレスは「三國志遺文&鋼鉄三国志」タグ内の記事「2004年5月」に出ています)。

「子元 子上」でアクセスなさった方、うちの司馬兄弟は失望させることはないと思います。

「私説三国志 天の華・地の風 孔明 セックス」で検索された方にも、十分ご満足いただけると存じます。
(それにしても孔明華物語の記事に私が「セックス」という言葉を使うことはありえない――もっと露骨な語は使っても――と思って自分でグーグルしてみたところ、『セックスの発明』という以前書評を書いた本が同じ画面に[「ライフログ」として]出ていたと判明。)

「鋼鉄三国志 二次創作」でいらした方もあり。私は自分の作品を「二次創作」とは呼ばないのですが(広い意味ではすべての作品は二次創作であり、そして相対的には私の書くものは〈オリジナル〉ですから)、これも別記事が引っかかったと判明。結果としてはよかったですね。

 生まれてはじめて即売会でスペースを取り、「孔明華物語」を並べた時のこと、大変美しいお嬢さんが近づいてきて全冊買って下さいました。元の『私説三国志』をお読みになったのですねと申し上げたところ、「読んだばかりで飢えてるんです」というすてきなお答え。この方は三年ほどのちにまたいらして、その後出た分を買って下さいました。以前に買っていただきましたねと申し上げたところ、よく覚えていますねと驚かれました。(きれいな方だから覚えていますとは言いそびれました。)

 絶版になっていた『私説三国志 天の華 地の風』が文庫化され、新たな読者も生まれていることでしょう。ぜひ、「三國志遺文 孔明華物語」を併せてお読み下さい。
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by kaoruSZ | 2007-09-03 20:31 | ◆売り物「孔明華物語」他 | Comments(0)
(鋼鉄日記続き)7・29Izさんへの贈り物として周瑜と孫策の短篇を書きたいとしばらく前から思っていたが、この午後はじめてPCに向かってメモを取る。たとえメモでも、文字にするというただそれだけのことで、〈腹案〉には全くなかったことが「紙の上」に呼び込まれ、今まで存在しなかったものがフォルムとして立ち上がる。8・1午前、「緑陰」と題し、「一 公瑾」「二 伯符」の二つの章のうち一をまず書く。これまでの短篇とは違って、心がけるのは直接的な性的描写は無しに文章自体が官能的であること、だたそれだけ。午後遅く、一定の時間PCの前にいさえすれば何の苦もなく気持ちよく書けてしまう状態になって、まるで演奏するように一定の時間を進み、そしてあるところまで来てぴたりと止まる。ここで切り、「外伝一  緑陰 其一」として、第一集にはこれまでに書いた二話のあとにそこまでを収めることにする。この午後書いたのは、周瑜が孫策の庭に姿をあらわし、青と薔薇色の夕暮の空を背景に曲がりくねった小道を彼の前へ歩いてくるまでの、ほとんど意味のない(しかし無意味であることからはるかに遠い)断章。こういう文章の書き方を久しぶりにしたように思う(この主観的な思い込みに見合うものを果たして書き得たかは別として)。午後、「緑陰 其一」に註を付す。参照先は、(出てくる順に)ドミニック・フェルナンデス、プルースト、ボードレール(「青と薔薇色の夕べ……」)、アニメ『鋼鉄三国志』、私自身の経験、ホルへ・ルイス・ボルヘスだ。
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by kaoruSZ | 2007-08-06 19:17 | 日々 | Comments(0)