おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
 鳴原あきら「幻の“ままの”朱い実〜石井桃子の自伝的【カムアウト】
 小説を読みとく〜」 
(女性学年報 vol.23  オルタテナィブ)


 高名な児童文学者が八十を越えて上梓した、〈自伝的〉と呼ばれる小説に「カムアウト」の名を冠すること、それは作者が夭折した友人と分かち合った青春の形見である作品に対する、挑発的と見なされうる行為でしょう。鳴原あきらはなぜあえてそんなことをするのか。それは、そうでなければ、名指されぬままの女同士の関係は、ここでもまた、異性との恋愛に至る前段階として見過ごされかねない—— 一般読者によってのみならず、鳴原さんがこの小説を読んでもらいたいと熱望する読者、すなわち、愛する女性と共に生きようとする女性たちによってさえ——からにほかなりません。

「恋愛かと見まごう友情」という言葉を批評家から誘い出しもする、石井桃子著『幻の朱い実』。そこに描かれているのが、しかし、〈本当に恋愛である〉とはけっして思われないのはなぜか。そう問いかけることによって鳴原さんは、「構成と結末は褒めることができない」が、明[はる]子と蕗子という二人の若い女性の友情を描いた前半は「それを補って余りある」という読売文学賞の選評をはじめとする、この作品への評価が「幻の“ままに”」しつづけているものを明らかにします。

 小説の褒められなかった「結末」とは、次のようなものです。今は年老いた明子は、新宿御苑で見つけた貧弱な烏瓜の実を前に、亡き友・蕗子の家の門口になだれ落ちていた烏瓜について、「こんなものじゃない」、「見せたかった、そういうものも、この世の中にあるんだってこと」と自分の娘に向かってかきくどく(鳴原さんが指摘するように、この時の娘の反応が異様です)。なるほど、これでは「褒めることはできない」でしょう。いや、そもそも選者たちにはこのやりとりが理解できず、「パパや私たちのことも忘れないで」という娘の呟きなど、読まなかったことにしてやり過ごしてしまったに違いありません。

 この小説を読んで、夫を看取り、仲のよい娘のいる、七十を越えた老婦人が、夭折した友人になぜそれほど執着するのかと、本気でいぶかしむ人たちがいる——たぶんその方が多数派である——ことに、鳴原さんの論を読むうち、私ははじめて気づきました。蕗子が巻頭、門の烏瓜を指して言うとおり、「あの美しさが見えない人には見えない」のですね。滝のようになだれる烏瓜の実の豊かさと、朝の体操の時間、見学する蕗子の目前でほどけ、波うつ明子の髪——「あそこの先生たち、そういうことわからないのね」。女学生時代の明子の髪について、蕗子が笑みを浮べてそう断言するくだりを読みながら、なぜ人は、なおも「先生たち」に倣うことをやめないのでしょう。行間に潜むもの——まして、フィクションの背後にある〈事実〉——などではなく、まぎれもなくそこに書かれてある言葉へと、鳴原さんの平明にして犀利な分析は私たちの目をひらかせてくれます。  

                                             (初出「LOUD NEWS」 2002)
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by kaoruSZ | 2004-09-22 15:03 |  (性、フェミニズム)

二次創作

 ここ、迷い込んで、「二次的文学」なる言葉、そのままやおいに応用できるので(「やおい少女」たちは「二次創作」と呼ぶ。言うまでもなく、あらゆる創作は二次的だ)、ブックマークをはさんでおこうと思いつつ、最後まで読んだところ、「JUNE」そのものに話が行きついたので少々写す。

 パロディとか翻案小説とかは皆そうだが、このように文学の中に文学が登場する 場合、作者は読者に対して、架空の話を提供する作者としてだけではなく、読者と自分が同じ文学を読んでいる読者どうしとして、親しげに目くばせしながら向き合っているところがある。作者と読者は、作者が話の下敷きにしたり引用したりしている、別の話の読者どうしでもあるわけだ。
 引用したり読んでいる場面を出すぐらいだから、作者はその、引用する文学の愛読者なのは間違いない。「ミザリー」のヒロイン(つまりファンのおばさん)や「リチャードソン頌」に登場した婦人のように、ただ夢中で読んで満足しているだけでなく、その本や、自分のその本への愛を説明し紹介しようとする点で、一歩進んだ読者とも言える。
 更に、中には、そうやって読んだ作品の後日談や裏話、番外編というかたちで、新しい物語や小説を自分で作ってしまう読者もいるはずである。


 次がやおいの話。

 ……こういう作品を作る遊びは少女たちの間ではよく行われているし、もっときわどい内容のものもある。読んで、登場人物を愛し、その人の日常を思い描き、それをスケッチして見るという、甘くて淡い、危険な霧の中に、彼女たちはそうやってさまようのだろう。それは、もちろん、ある意味で猥褻だ。でも、それはやはり文学を味わうことであり、同時に文学を作ることだ。ここまで言ったら、私が最後に思いいたった危ないことの内容もだいたいわかると思うが、ポルノ小説を読んで自慰行為にふけるのも、あれは、それなりに空想の世界を構築するということでは、一つの創作活動なのかも知れない。)

 もちろんそうだし、時間的にも先行している。むろん子供は、ジャンルとしてのポルノを読むわけではない(たんに遠ざけられているために)が、抑圧されていない子供なら、自分の欲望に合うものをひとりで見つけ出すだろう。
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by kaoruSZ | 2004-09-22 03:39 | やおい論を求めて | Comments(0)