映画
「今日からあんたの旦那はあたしや」 [2008-10-30 22:27 by kaoruSZ]
子供たちの時間 [2008-10-10 18:38 by kaoruSZ]
まとめて映画館の日々 [2008-05-12 11:01 by kaoruSZ]
昔、ヒーローは「おじさん」だった。 [2008-02-15 00:10 by kaoruSZ]
溝口特集メモ [2007-09-28 21:33 by kaoruSZ]
新文芸坐の溝口特集 [2007-09-22 18:59 by kaoruSZ]
萩に猪 [2007-02-02 00:16 by kaoruSZ]
溝口特集その後 [2006-12-24 19:50 by kaoruSZ]
いじめは社会的行為である――あるいはおさん茂兵衛(下) [2006-12-14 12:04 by kaoruSZ]
いじめは社会的行為である――あるいはおさん茂兵衛(上) [2006-12-13 00:06 by kaoruSZ]
傑作! [2006-11-30 23:14 by kaoruSZ]
とりあえず更新(2) [2006-10-17 19:57 by kaoruSZ]
「ムードアクション」 [2006-08-21 19:43 by kaoruSZ]
清順、よすぎる! (若冲? もちろん!) [2006-08-19 00:17 by kaoruSZ]
Emperor in Soklovland (1) [2006-08-10 06:01 by kaoruSZ]
天国的 [2006-07-05 14:17 by kaoruSZ]
休日 [2006-04-24 15:31 by kaoruSZ]
年度末の締め続くが…… [2006-03-11 10:19 by kaoruSZ]
ピアノ伴奏つき成瀬その2 [2006-01-27 05:28 by kaoruSZ]
ピアノ伴奏つき成瀬その1 [2006-01-18 20:34 by kaoruSZ]
成瀬ふたたび [2006-01-16 14:23 by kaoruSZ]
いい加減な目撃者 [2005-11-15 23:44 by kaoruSZ]
荒唐無稽が足りない [2005-10-28 23:18 by kaoruSZ]
オート三輪と街の迷宮(下) [2005-10-25 15:19 by kaoruSZ]
オート三輪と街の迷宮(上) [2005-10-24 22:16 by kaoruSZ]
浮気される者として浮気の相手として [2005-10-23 21:43 by kaoruSZ]
風俗をめぐって [2005-10-21 15:54 by kaoruSZ]
橋と階段 [2005-10-14 14:45 by kaoruSZ]
日々の疲れ [2005-10-13 09:59 by kaoruSZ]
さようなら、わたしの傘よ [2005-10-08 09:58 by kaoruSZ]
夕暮の諧調、あるいは秀子の白いブラウス [2005-10-08 09:16 by kaoruSZ]
『まごころ』に涙する(下) [2005-10-07 05:38 by kaoruSZ]
『まごころ』に涙する(上) [2005-10-04 00:27 by kaoruSZ]
東洋永遠平和の敵 [2005-10-04 00:16 by kaoruSZ]
成瀬巳喜男、照応する細部 [2005-10-02 07:34 by kaoruSZ]
カ、カワイイ…… [2005-10-01 07:22 by kaoruSZ]
生誕百年特集 成瀬巳喜男 [2005-09-28 15:40 by kaoruSZ]
解のない白黒パズル——噂の監督3 [2005-09-25 23:35 by kaoruSZ]
噂の監督 2 [2005-09-23 23:32 by kaoruSZ]
噂の監督 [2005-09-21 21:27 by kaoruSZ]
1935年の成瀬巳喜男もすばらしい [2005-08-24 16:19 by kaoruSZ]
私が生まれる前の歴史 [2005-07-27 20:31 by kaoruSZ]
にわか成瀬通となる [2005-07-23 15:13 by kaoruSZ]
降ればどしゃぶり [2005-07-11 17:46 by kaoruSZ]
Old Fathers never die [2005-06-13 10:58 by kaoruSZ]
映画館の日々 [2005-03-30 12:24 by kaoruSZ]
カレーが食べたかったのに [2005-02-14 16:23 by kaoruSZ]
メロドラマのチカラ [2005-02-10 15:13 by kaoruSZ]
私の選んだ3本の映画 [2004-09-25 21:18 by kaoruSZ]
ラウル・ルイス監督『見出された時—「失われた時を求めて」より』 [2004-09-22 17:51 by kaoruSZ]
ブリコラージュするデミウルゴス [2004-09-22 17:49 by kaoruSZ]
ソクーロフ覚え書 [2004-09-22 17:48 by kaoruSZ]
死者たちの再会 [2004-09-22 17:47 by kaoruSZ]
アイビキノ場所 [2004-09-22 17:46 by kaoruSZ]
寄稿先へのリンク [2004-09-22 15:22 by kaoruSZ]
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先週から新文芸坐の加藤泰特集に通ううち、加藤泰について書かれたものを読みたくてたまらなくなり、夜中に本棚を漁るが見つからない。代りに「シネティック」創刊号(1993)というものが出てきて、未読だった松浦寿輝の「横臥と権力 溝口健二「祇園囃子」論」を読んだ。
加藤のフィルムでもワイド・スクリーンの手前に横たわる人物(たいていは死にかけている)は目立つし、修善寺の大患の漱石に似て一言も喋らず指一本動かさぬままその傍に人々を引き寄せもするのだが、松浦の論考は横臥一般とは直接の関係があるわけではなく、あくまで『祇園囃子』というフィルムの中では人物の目に見える上下関係が顛倒しており、横たわって下位にある人物が権力を持つというのが趣旨だ。その分析は例によって見事なのだが、それとは別に思ったことがあるので記しておく。
『祇園囃子』では旦那を持たない芸者の小暮実千代が少女若尾文子を引き受けて舞妓としてデビューさせるが、言い寄った客・河津清三郎の舌に若尾が噛みついてしまい、二人は祇園のお座敷を乾されることになる。この事態から脱出するため、小暮は嫌っている客と寝る羽目になるのだが、その翌朝、住まいに帰ってきた小暮は若尾にこう言う。
「今日からあんたの旦那はあたしや」
この科白は昨年はじめて『祇園囃子』を見たとき、目のさめるようなものと私には思えたのだが、これを松浦は次のように言う。
小暮が若尾を抱き起こしながら言う「今日からあんたの旦那はあたしや」というセリフには、決定的な救済の不可能を暗示する微かに陰惨な調子が滲んでいるように思う。
さらに松浦はこう続ける。
むろん小暮は若尾に対して専横な権力を振るうつもりはなく、若尾が自由な意志で生きてゆくことを助けるべく庇護者になってやると申し出ているだけなのだが、それにしても、そのことを言うために「旦那になる」という譬喩が口をついて出るところに、祇園で舞妓を続けるかぎりは多かれ少なかれ権力の空間にしがらみになって生きていかざるをえないこの女の、存在論的悲哀が滲み出しているとも見える。
たしかに、そう「見える」のだろう。これはたとえば、ブッチとフェムなどという役割分担をするレズビアンは異性愛をなぞっているにすぎないと主張することと似ているかもしれない。「女の旦那に女がなる」ことへのシニカルなこのまなざしは、それを向ける者が、その言葉であらわされるものを現実的なものとも希望とも受け取っていないことがたんに露呈しているとも思える。
ここでは権力の観念がなお希薄に温存されながら、しかし単に第三者による権力の直接行使から解放されているというだけのことなのではないのか。そこには、主人と奴隷、君臨する者と仕える者との差異と対立関係が、依然として生き延びていると言うべきではないのか。ラストで夕暮れの京の町を並んで歩いてゆく二人の、毅然とした晴れやかな表情に漲っている自由と独立独歩の印象は、あくまで仮初のものにすぎないのではないのか。
たしかにそれはつかのまの、刻々に色を失う夕べの空にも似たかりそめのものにすぎなかろう。「『祇園囃子』とはこれを要するに、或る男との性交を誰も彼もが小暮実千代に迫り、彼女がついに屈服するまでの物語である」(松浦)とさえまとめられうる作品にあって、若尾文子の貞操を結果としては守った小暮が「今日からあんたの旦那はあたしや」と宣言したところで、若尾が「祇園で舞妓を続けるかぎりは」遠からず本物の旦那を持たなければならないことは必定であり、小暮自身、“屈服”して戻ってきたばかりなのだから、これがかりそめの、つかのまの勝利でしかないことはあまりにも明らかなのだ。
それでも、いや、それだからこそ、その「毅然とした晴れやかな表情」は私たちの胸を打つとも言える。それはけっして負け惜しみなどではない。「夕暮れの京の町を歩いてゆく二人」はけっして〈外部〉に出られたわけではないと松浦は言う。小暮の口から出る「旦那」の一語にしても、まさに権力関係に汚染された〈内部〉の言葉そのものだろう。
だが、それ以外のいかなる言葉が小暮に可能だったというのか?
「今日からあんたの旦那はあたしや」――小暮の科白は、同じフレーズが男の口から、たとえば「今日からおまえの旦那はオレや」と言われたときとは決定的に違う。それは単純に、女は男と同じ立場にはけっして立てないからだ。だからこそ、小暮の「今日からあんたの旦那はあたしや」には意外性があったのだし、そこにはまた、いかに微かなものであろうと、「旦那」という語の意味そのものがズラされてゆく可能性があったのだ。
女が女に権力をふるうのに「旦那」である必要はない。料亭の女将浪速千栄子は、小暮を金で縛り、祇園のお座敷から彼女と若尾を閉め出して「或る男」との性交を彼女に強いる一人に他ならない。何とも憎憎しい演技のこの祇園の権力者を小暮は「おかあはん」と呼んでいるのだが、この、擬似母娘的権力関係をも、「旦那」の一語の意外性は超えてゆくだろう。「決定的な救済」にも、また〈外部〉にも至らずとも、それは「今日から」可能なのだ。
女同士の権力関係は、舞妓にしてくれと頼みに来た若尾と小暮とのあいだにも明らかに見てとれる。「少女の性的魅力を半ば男の眼で品定めする小暮実千代のまなざし」と、若尾を立たせて座った姿勢でそれを見上げる小暮の「下から上へ」のまなざし、「そこに権力関係が成立する」と松浦は言う。
だが、たとえばレズビアンとは、「半ば男の眼で」女を見る女のことであろうか、と問うことができよう。初めてのお座敷から戻って畳に横たわる、すなわち下位のポジションを取ったきかん気の若尾と上位(この作品にあっては下位のしるしということになる)の小暮という配置ののち、本来の小暮上位とした若尾下位のシーンという逆転した反復が行われることについて、「横たわる姿勢の律義な反復」はあたかも「物語を統御する非人称的な意志そのもの」のように行なわれていると松浦はそっけなく言うのだが、 「目上と目下の権威の関係はむしろ姉と妹のような親密で情緒的な血縁意識へと転じており」と松浦自身も認める二人の関係におけるこの反復は、女同士の関係が相互的、互恵的なものであり、木暮を手に入れようとする男のように、横臥したまま、やってきた木暮に自ら足袋を脱がせるというような一方的な権力者のふるまいではありえないことを示しているのではないか。
加藤のフィルムでもワイド・スクリーンの手前に横たわる人物(たいていは死にかけている)は目立つし、修善寺の大患の漱石に似て一言も喋らず指一本動かさぬままその傍に人々を引き寄せもするのだが、松浦の論考は横臥一般とは直接の関係があるわけではなく、あくまで『祇園囃子』というフィルムの中では人物の目に見える上下関係が顛倒しており、横たわって下位にある人物が権力を持つというのが趣旨だ。その分析は例によって見事なのだが、それとは別に思ったことがあるので記しておく。
『祇園囃子』では旦那を持たない芸者の小暮実千代が少女若尾文子を引き受けて舞妓としてデビューさせるが、言い寄った客・河津清三郎の舌に若尾が噛みついてしまい、二人は祇園のお座敷を乾されることになる。この事態から脱出するため、小暮は嫌っている客と寝る羽目になるのだが、その翌朝、住まいに帰ってきた小暮は若尾にこう言う。
「今日からあんたの旦那はあたしや」
この科白は昨年はじめて『祇園囃子』を見たとき、目のさめるようなものと私には思えたのだが、これを松浦は次のように言う。
小暮が若尾を抱き起こしながら言う「今日からあんたの旦那はあたしや」というセリフには、決定的な救済の不可能を暗示する微かに陰惨な調子が滲んでいるように思う。
さらに松浦はこう続ける。
むろん小暮は若尾に対して専横な権力を振るうつもりはなく、若尾が自由な意志で生きてゆくことを助けるべく庇護者になってやると申し出ているだけなのだが、それにしても、そのことを言うために「旦那になる」という譬喩が口をついて出るところに、祇園で舞妓を続けるかぎりは多かれ少なかれ権力の空間にしがらみになって生きていかざるをえないこの女の、存在論的悲哀が滲み出しているとも見える。
たしかに、そう「見える」のだろう。これはたとえば、ブッチとフェムなどという役割分担をするレズビアンは異性愛をなぞっているにすぎないと主張することと似ているかもしれない。「女の旦那に女がなる」ことへのシニカルなこのまなざしは、それを向ける者が、その言葉であらわされるものを現実的なものとも希望とも受け取っていないことがたんに露呈しているとも思える。
ここでは権力の観念がなお希薄に温存されながら、しかし単に第三者による権力の直接行使から解放されているというだけのことなのではないのか。そこには、主人と奴隷、君臨する者と仕える者との差異と対立関係が、依然として生き延びていると言うべきではないのか。ラストで夕暮れの京の町を並んで歩いてゆく二人の、毅然とした晴れやかな表情に漲っている自由と独立独歩の印象は、あくまで仮初のものにすぎないのではないのか。
たしかにそれはつかのまの、刻々に色を失う夕べの空にも似たかりそめのものにすぎなかろう。「『祇園囃子』とはこれを要するに、或る男との性交を誰も彼もが小暮実千代に迫り、彼女がついに屈服するまでの物語である」(松浦)とさえまとめられうる作品にあって、若尾文子の貞操を結果としては守った小暮が「今日からあんたの旦那はあたしや」と宣言したところで、若尾が「祇園で舞妓を続けるかぎりは」遠からず本物の旦那を持たなければならないことは必定であり、小暮自身、“屈服”して戻ってきたばかりなのだから、これがかりそめの、つかのまの勝利でしかないことはあまりにも明らかなのだ。
それでも、いや、それだからこそ、その「毅然とした晴れやかな表情」は私たちの胸を打つとも言える。それはけっして負け惜しみなどではない。「夕暮れの京の町を歩いてゆく二人」はけっして〈外部〉に出られたわけではないと松浦は言う。小暮の口から出る「旦那」の一語にしても、まさに権力関係に汚染された〈内部〉の言葉そのものだろう。
だが、それ以外のいかなる言葉が小暮に可能だったというのか?
「今日からあんたの旦那はあたしや」――小暮の科白は、同じフレーズが男の口から、たとえば「今日からおまえの旦那はオレや」と言われたときとは決定的に違う。それは単純に、女は男と同じ立場にはけっして立てないからだ。だからこそ、小暮の「今日からあんたの旦那はあたしや」には意外性があったのだし、そこにはまた、いかに微かなものであろうと、「旦那」という語の意味そのものがズラされてゆく可能性があったのだ。
女が女に権力をふるうのに「旦那」である必要はない。料亭の女将浪速千栄子は、小暮を金で縛り、祇園のお座敷から彼女と若尾を閉め出して「或る男」との性交を彼女に強いる一人に他ならない。何とも憎憎しい演技のこの祇園の権力者を小暮は「おかあはん」と呼んでいるのだが、この、擬似母娘的権力関係をも、「旦那」の一語の意外性は超えてゆくだろう。「決定的な救済」にも、また〈外部〉にも至らずとも、それは「今日から」可能なのだ。
女同士の権力関係は、舞妓にしてくれと頼みに来た若尾と小暮とのあいだにも明らかに見てとれる。「少女の性的魅力を半ば男の眼で品定めする小暮実千代のまなざし」と、若尾を立たせて座った姿勢でそれを見上げる小暮の「下から上へ」のまなざし、「そこに権力関係が成立する」と松浦は言う。
だが、たとえばレズビアンとは、「半ば男の眼で」女を見る女のことであろうか、と問うことができよう。初めてのお座敷から戻って畳に横たわる、すなわち下位のポジションを取ったきかん気の若尾と上位(この作品にあっては下位のしるしということになる)の小暮という配置ののち、本来の小暮上位とした若尾下位のシーンという逆転した反復が行われることについて、「横たわる姿勢の律義な反復」はあたかも「物語を統御する非人称的な意志そのもの」のように行なわれていると松浦はそっけなく言うのだが、 「目上と目下の権威の関係はむしろ姉と妹のような親密で情緒的な血縁意識へと転じており」と松浦自身も認める二人の関係におけるこの反復は、女同士の関係が相互的、互恵的なものであり、木暮を手に入れようとする男のように、横臥したまま、やってきた木暮に自ら足袋を脱がせるというような一方的な権力者のふるまいではありえないことを示しているのではないか。
十月初めにかけて、池袋新文芸坐でまたも日替り成瀬特集。28本のうち結局12本見る。(ただし『石中~』は嫌いなのでほとんど睡眠にあてる。)
9/24日(水) 石中先生行状記(1950) 夫婦(1953)
26日(金) 妻の心(1956) あらくれ(1957)
27日(土) 流れる(1956) 乱れる(1964)
28日(日) 晩菊(1954) 女が階段を上る時(1960)
10/1(水) 女の座(1962) 女の歴史(1963)
3日(金) 秋立ちぬ(1960) 乱れ雲(1967)
「カルチャー・レヴュー」に書いた分で間違いいくつか見つける。『あらくれ』の舞台は明治でなく大正。「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](3)――終りへ向かって」で、
この直後、室内で司が加山に向かって口を開くまで、階段の上と下の場面以降、私たちが耳にした科白といえば、事故現場を見たときの運転手の声と、「あなた、しっかりして」と叫ぶ女の声だけで、実にここまでのあいだ、主演の二人には一言も科白がありません。
と書いたが、実際は旅館の玄関で部屋があいているかと問う加山の声があったのだった(二人は一言もことばを交わさぬ、ならよし)。運転手の科白、「事故だな」ではなく「やっちまったな」だった(たしか)。
次回の「新・映画館の日々」(@『コーラ』)は、「カルチャー・レヴュー」で書き継いだ「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら」」を一応締めて最終回にしようか。だったら副題は「子供の時間」か。
久しぶりに『女の座』。これも同じ高峰秀子主演の『乱れる』同様、個人商店にかげりが見えはじめた時代の話だとあらためて気づく。道路計画を聞きつけて、土地を売って入る金の分け前を嫁に行った娘たちまでがねらっているのは、『乱れる』の高峰の義妹が店をスーパーにして自分の夫を経営に参加させようとするのと同じ構図。どちらの作品でも、長男の寡婦として家のために尽してきた高峰には、これ以上縛りつけていては気の毒と恩着せがましく再婚が奨められる。
核家族以前のこれらの家の中で、「嫁」は後継ぎとの関係でのみ安定した「座」を得ていた。『乱れる』では、高峰が嫁いできたとき次男の加山雄三はわずか八歳、夫の戦死後、一人で店を守って戦中戦後を生きた彼女は結局のところ義弟の成長までの中継ぎとしか見なされていなかったのだし、『女の座』の高峰もまた、一人息子の死によって「家」との最も強い(そして唯一の)紐帯を失うことになる。後者の場合は、笠智衆の舅は実の子供たちの狂奔をよそに、後妻の杉村春子とともに高峰を連れ出し、土地と店を売ってこういう小さな家に三人で住むのもよかろうと道端の一戸建てを指し示す。お嫁に行くとしてもその時はわしらの娘として、と。
『女の歴史』では、男(夫、子)が女たちを結びつける(だから男の子しか生まれない)。賀原夏子が言うように、彼女の孫である高峰秀子の息子が不慮の事故で死ぬと、彼女たちは再び「赤の他人」に戻る(この家でお義姉さんだけが他人とは、『女の座』の高峰にも向けられた言葉だった)。この作品では、しかしこのとき、死んだ息子と同棲していた(彼が入籍もして「くれて」いたという)星由里子があらわれて産んだ男の子が再び三人の女を結びつける。
『秋立ちぬ』の子供たちはこうした法則を知らないから、好きな相手でさえあれば家族になれると思っている。父に死なれ、信州から母とともに上京して八百屋をいとなむ伯父のもとに身を寄せた少年は、母が住み込みで働く旅館の娘と仲良くなる。母親、乙羽信子が客の加藤大介と駆け落ちしてしまったとき、少女は彼を自分の家の子として迎え入れたいという当然の望みを持ち、少年に対しても母に頼んであげると請け合う。母に一蹴されても彼女はあきらめない。父が承知すれば母の反対は問題ではないと思い、父が彼女の望みを拒むはずはないと信じている。
裕福なお嬢様に見えた少女だが、実は旅館は大阪の「本宅」の父が妾である母親にやらせているものだ。だから父親に力があると見るのは正しいのだが、「赤の他人」の男の子を兄にと望むことがどれほど突拍子もないことか彼女は知らない。母が産んだのではない兄と姉の彼女に向ける目は冷たく、父親は彼女の言うことを理解すらできない。彼女は父をわずらわさないよう母に叱責される。そのとき母は、金にならない旅館を手放して二人を郊外の共同住宅へ移すという一方的な計画を告げられているところだったのだ。
デパートで夏休みの宿題の昆虫標本を買おうとした少女を止めて、少年は自分の宝物である生きたカブトムシを貸すことを申し出るが、その直後カブトムシが逃げてしまったと知る。代りの虫を見つけるのが夏の終りまでの少年の課題になる。。それは流通する交換可能な商品ではない絶対的な贈り物になるはずだ。八百屋の店で働く従兄と行った最初に行った先では見つからず、休みの日に郊外へ連れてゆくというその約束の日、バイクで現われた仲間に誘われて従兄走り去ってしまった。
オートバイとともに希望の遠ざかりゆくまさに絶対絶命のこの時、奇蹟のように(というか、ほとんど冗談のように)彼の希望はかなえられる。信州の祖母から送られてきたりんごの箱を伯父があけると、そこにカブトムシが一匹紛れ込んでいたのだ。食い切れないだろうから少し店に出さないかと言う伯父にはりんごもまた商品なのだが、少年にはカブトムシしか目に入らない。彼はさっそく少女の家である旅館に向かう。しかし、旅館の外には引っ越し荷物を満載したトラックが横づけされており、家の中はは空っぽになっている。少女だけでなくその場所自体が、消え去ろうとしているのだ。カブトムシの先に実はあった目的の消失。少女の両親の会話から観客には何が起こったかがわかる。しかし、少年には物語も大人たちの都合も見通せる場所にはいないからこれは限りなく理不尽な出来事だ。
彼はデパートの屋上に上る。そこは以前少女と遠い海を見たところだ。青く見えない、しかし近くへ行けば青いと少女が請け合う海を見るべく、彼らはタクシーで(旅館の娘である彼女は運転手につけがきく)勝鬨橋を渡って晴海へ向かう。「遠い場所」は着いてみれば黄色っぽい水の打ち寄せる埋め立て地で、夜を迎えた彼らは家に戻るしかない(そして少年は足を怪我し、二人は警察に送られて戻ってくる。この怪我のため、カブトムシを持って少女のもとへ急ぐ少年は足を引きずっている)。屋上の少年はもはやどこへも行けず、少女の行方を知るすべもない。
カブトムシを渡すべく少女のもとへ向かう少年の姿は、『まごころ』(1939)の少女・富子が、やはり幕切れ近く、人形を抱えてもう一人の少女・信子のもとを尋ねようとしたとき、足を引きずっていた。しかし、彼女たちの人形はカブトムシのようにその向うに真の対象である相手を有する囮ではない。『まごころ』の人形については二年前に考察しているが、http://kaorusz.exblog.jp/m2005-10-01/ そこでも述べたように、「あなたでもわたしでもない子供」、「半分わたしに似て半分あなたに似た子供」、つまりはあたかも彼女たち二人のあいだに生まれたかのような女の子であるからだ。彼女たちの考える家族とその起原は、大人たちの考えるそれとは大いに違っている。二人の知識は、父と母ははじめから家にいるものではなく別々の家にいた者が家族となる(『秋立ちぬ』の少年少女は兄妹にもこれが可能だと思っていた)、お父さんは誰かの娘でお母さんは誰かの娘だったのが一つの家に住むようになる、とまではわかっているのだが、「お母さんはお祖母さんの娘だったし今も娘で、だから一緒に住んでいる」という富子の科白は、「女の座」が問題となることのない、家父長的家族ではない彼女自身の家族のことを指している。無論それは規範からは外れるので、富子の母に嫉妬した信子の母(彼女の夫と富子の母はかつて恋仲だった)が言うように彼女は父のいない子である。そして彼女たちが母親として可愛がるのではない、人形遊びをするにはいささか大き過ぎる彼女たちによって抱えられ、二人のあいだでやりとりされる彼女たちの分身である大き過ぎる人形は、男女のではなく彼女たち自身の絆の実体化に他ならない。
9/24日(水) 石中先生行状記(1950) 夫婦(1953)
26日(金) 妻の心(1956) あらくれ(1957)
27日(土) 流れる(1956) 乱れる(1964)
28日(日) 晩菊(1954) 女が階段を上る時(1960)
10/1(水) 女の座(1962) 女の歴史(1963)
3日(金) 秋立ちぬ(1960) 乱れ雲(1967)
「カルチャー・レヴュー」に書いた分で間違いいくつか見つける。『あらくれ』の舞台は明治でなく大正。「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](3)――終りへ向かって」で、
この直後、室内で司が加山に向かって口を開くまで、階段の上と下の場面以降、私たちが耳にした科白といえば、事故現場を見たときの運転手の声と、「あなた、しっかりして」と叫ぶ女の声だけで、実にここまでのあいだ、主演の二人には一言も科白がありません。
と書いたが、実際は旅館の玄関で部屋があいているかと問う加山の声があったのだった(二人は一言もことばを交わさぬ、ならよし)。運転手の科白、「事故だな」ではなく「やっちまったな」だった(たしか)。
次回の「新・映画館の日々」(@『コーラ』)は、「カルチャー・レヴュー」で書き継いだ「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら」」を一応締めて最終回にしようか。だったら副題は「子供の時間」か。
久しぶりに『女の座』。これも同じ高峰秀子主演の『乱れる』同様、個人商店にかげりが見えはじめた時代の話だとあらためて気づく。道路計画を聞きつけて、土地を売って入る金の分け前を嫁に行った娘たちまでがねらっているのは、『乱れる』の高峰の義妹が店をスーパーにして自分の夫を経営に参加させようとするのと同じ構図。どちらの作品でも、長男の寡婦として家のために尽してきた高峰には、これ以上縛りつけていては気の毒と恩着せがましく再婚が奨められる。
核家族以前のこれらの家の中で、「嫁」は後継ぎとの関係でのみ安定した「座」を得ていた。『乱れる』では、高峰が嫁いできたとき次男の加山雄三はわずか八歳、夫の戦死後、一人で店を守って戦中戦後を生きた彼女は結局のところ義弟の成長までの中継ぎとしか見なされていなかったのだし、『女の座』の高峰もまた、一人息子の死によって「家」との最も強い(そして唯一の)紐帯を失うことになる。後者の場合は、笠智衆の舅は実の子供たちの狂奔をよそに、後妻の杉村春子とともに高峰を連れ出し、土地と店を売ってこういう小さな家に三人で住むのもよかろうと道端の一戸建てを指し示す。お嫁に行くとしてもその時はわしらの娘として、と。
『女の歴史』では、男(夫、子)が女たちを結びつける(だから男の子しか生まれない)。賀原夏子が言うように、彼女の孫である高峰秀子の息子が不慮の事故で死ぬと、彼女たちは再び「赤の他人」に戻る(この家でお義姉さんだけが他人とは、『女の座』の高峰にも向けられた言葉だった)。この作品では、しかしこのとき、死んだ息子と同棲していた(彼が入籍もして「くれて」いたという)星由里子があらわれて産んだ男の子が再び三人の女を結びつける。
『秋立ちぬ』の子供たちはこうした法則を知らないから、好きな相手でさえあれば家族になれると思っている。父に死なれ、信州から母とともに上京して八百屋をいとなむ伯父のもとに身を寄せた少年は、母が住み込みで働く旅館の娘と仲良くなる。母親、乙羽信子が客の加藤大介と駆け落ちしてしまったとき、少女は彼を自分の家の子として迎え入れたいという当然の望みを持ち、少年に対しても母に頼んであげると請け合う。母に一蹴されても彼女はあきらめない。父が承知すれば母の反対は問題ではないと思い、父が彼女の望みを拒むはずはないと信じている。
裕福なお嬢様に見えた少女だが、実は旅館は大阪の「本宅」の父が妾である母親にやらせているものだ。だから父親に力があると見るのは正しいのだが、「赤の他人」の男の子を兄にと望むことがどれほど突拍子もないことか彼女は知らない。母が産んだのではない兄と姉の彼女に向ける目は冷たく、父親は彼女の言うことを理解すらできない。彼女は父をわずらわさないよう母に叱責される。そのとき母は、金にならない旅館を手放して二人を郊外の共同住宅へ移すという一方的な計画を告げられているところだったのだ。
デパートで夏休みの宿題の昆虫標本を買おうとした少女を止めて、少年は自分の宝物である生きたカブトムシを貸すことを申し出るが、その直後カブトムシが逃げてしまったと知る。代りの虫を見つけるのが夏の終りまでの少年の課題になる。。それは流通する交換可能な商品ではない絶対的な贈り物になるはずだ。八百屋の店で働く従兄と行った最初に行った先では見つからず、休みの日に郊外へ連れてゆくというその約束の日、バイクで現われた仲間に誘われて従兄走り去ってしまった。
オートバイとともに希望の遠ざかりゆくまさに絶対絶命のこの時、奇蹟のように(というか、ほとんど冗談のように)彼の希望はかなえられる。信州の祖母から送られてきたりんごの箱を伯父があけると、そこにカブトムシが一匹紛れ込んでいたのだ。食い切れないだろうから少し店に出さないかと言う伯父にはりんごもまた商品なのだが、少年にはカブトムシしか目に入らない。彼はさっそく少女の家である旅館に向かう。しかし、旅館の外には引っ越し荷物を満載したトラックが横づけされており、家の中はは空っぽになっている。少女だけでなくその場所自体が、消え去ろうとしているのだ。カブトムシの先に実はあった目的の消失。少女の両親の会話から観客には何が起こったかがわかる。しかし、少年には物語も大人たちの都合も見通せる場所にはいないからこれは限りなく理不尽な出来事だ。
彼はデパートの屋上に上る。そこは以前少女と遠い海を見たところだ。青く見えない、しかし近くへ行けば青いと少女が請け合う海を見るべく、彼らはタクシーで(旅館の娘である彼女は運転手につけがきく)勝鬨橋を渡って晴海へ向かう。「遠い場所」は着いてみれば黄色っぽい水の打ち寄せる埋め立て地で、夜を迎えた彼らは家に戻るしかない(そして少年は足を怪我し、二人は警察に送られて戻ってくる。この怪我のため、カブトムシを持って少女のもとへ急ぐ少年は足を引きずっている)。屋上の少年はもはやどこへも行けず、少女の行方を知るすべもない。
カブトムシを渡すべく少女のもとへ向かう少年の姿は、『まごころ』(1939)の少女・富子が、やはり幕切れ近く、人形を抱えてもう一人の少女・信子のもとを尋ねようとしたとき、足を引きずっていた。しかし、彼女たちの人形はカブトムシのようにその向うに真の対象である相手を有する囮ではない。『まごころ』の人形については二年前に考察しているが、http://kaorusz.exblog.jp/m2005-10-01/ そこでも述べたように、「あなたでもわたしでもない子供」、「半分わたしに似て半分あなたに似た子供」、つまりはあたかも彼女たち二人のあいだに生まれたかのような女の子であるからだ。彼女たちの考える家族とその起原は、大人たちの考えるそれとは大いに違っている。二人の知識は、父と母ははじめから家にいるものではなく別々の家にいた者が家族となる(『秋立ちぬ』の少年少女は兄妹にもこれが可能だと思っていた)、お父さんは誰かの娘でお母さんは誰かの娘だったのが一つの家に住むようになる、とまではわかっているのだが、「お母さんはお祖母さんの娘だったし今も娘で、だから一緒に住んでいる」という富子の科白は、「女の座」が問題となることのない、家父長的家族ではない彼女自身の家族のことを指している。無論それは規範からは外れるので、富子の母に嫉妬した信子の母(彼女の夫と富子の母はかつて恋仲だった)が言うように彼女は父のいない子である。そして彼女たちが母親として可愛がるのではない、人形遊びをするにはいささか大き過ぎる彼女たちによって抱えられ、二人のあいだでやりとりされる彼女たちの分身である大き過ぎる人形は、男女のではなく彼女たち自身の絆の実体化に他ならない。
5/11(日)『狩人の夜』(シネマヴェーラ渋谷)
昔、三百人劇場で見た作品が並ぶケイブルホーグ特集。この映画は傑作と聞きつつ未見のままであった。11時から一回だけの上映。前夜飲んでいて(私はビール一杯だが)最終の一本前で帰ったあくる朝であり、必死に急いで五分遅れる。「お立見になりますがよろしいですか」そんな科白久しぶりに聞いた。期限切れの会員証更新してもらいながら、「ずいぶん混んでるんですね」と言うと「ええ、きょうは」という返事。階段に座れたら使うようにと小布団を渡される。ドアから滑り込んだその場所から動きようがないので(その場に坐り込むといやに座高の高い人の蔭になりそうで)、足元に布団を落して手提げだけ置き、レインコートと傘を抱えて立ち見。スクリーンには縞の囚人服の二人。ロバート・ミッチャムをすぐに認めるが、もう一人がピーター・グレイヴズだったとは!(帰宅後知る。)
これは最前列の席で、視界いっぱいに広がる絵本のような作り物の星空を見上げつつ、その下を舟で行く子供たちの恐怖を味わいながら見るべき映画だ。馬にまたがった殺人鬼に追われる男の子が「あいつ眠らないんだろうか」と呟くけれど、あの旅自体、何日続いたものか観客にもわからない。その先にリリアン・ギッシュが待っているとこっちはあらかじめ知っているからまだいいけど……。二十五日にもう一回やるのだけれど残念ながら行けない。
4/20(日)『妻は告白する』『大悪党』
4/21(月)『白い巨塔』
4/27(日)『「女の小箱」より 夫が見た』『猟人日記』
5/3(土)『眼の壁』『ゼロの焦点』
5/7(水)『影なき声』『黄色い風土』
以上は新文芸坐「日本推理サスペンス映画大全」にて。『妻は告白する』初見。傑作。別に書くかもしれない。帰宅後ウェブで調べると、公開当時の、女は作られるんじゃない、生まれつき女なのだ、若尾文子を見るとそれがわかるという作家の言葉が引用されていた。デビューボ流行ってたんだ! 一方、増村保造監督自身の、女性を描きたかったんじゃない、人間を描きたかった。男は社会的に愛にのみ生きられないから女を使うんだ(女の表象をということだ)という何とも意識的な言葉あり。溝口の『近松物語』で、陶酔しきった香川京子に対して長谷川一夫が迷いを残すのも同じ。
『大悪党』は二度目で、のんびり楽しむ。同じ列に映画に詳しいらしい男の二人連れ(あまり若くない)がいて、始まる前一人が裏話的なことを解説、上映終了時もう一人が拍手。退席しようとしながら、いかにも昂奮さめやらぬ様子で「うまくやりましたよねえ」とか何とか(映画の登場人物について)話しかけるのを、通路側の席の客、「映画だから」と笑顔でいなす。
『白い巨塔』主人公の死で終るのかとばかり思っていたら、最後まで財前元気いっぱい、この時は原作もまだ連載中で死んでいなかった由。『夫が見た』については以前書いたことがあるが、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re47.html
思えば田宮二郎も、ここでは、『妻は告白する』の若尾文子同様、十年間積み重ねてきた努力(悪業だけど)さえも投げうって、ただ愛のために生きる存在(=女)になってしまっていたわけだ(斎藤綾子の書いている出産ポーズだけでなく)。だからストーリー的には不自然と感じられるのだし、彼のために身を捧げてきた岸田今日子が怒るのも当然だ。『妻は告白する』の若尾文子に対象としての女の恐しさばかり見ている者は「女」にはなれない。
『猟人日記』米国籍だとか二世だとか称して結婚詐欺を働いた男が逮捕されたというニュース、比較的近年に新聞記事で読んだ覚えがあるのだが、あれは人生が藝術を模倣したのか。仲谷昇なら、外国人風のアクセント(しかし平板で全然それっぽくない)で偽装しなくたって、素でいくらでも女の子引っかかるだろうに。それを大真面でやるから、どのレヴェルで反応してよいやらこっちが途惑う。一瞬目をそむけたくなったとしても、何度も出てくるのでよく見ればゴム製のカエルみたいに手動で空気を送っているとしか思えないアレにしても。
銀巴里で歌う若き日の三輪明宏とか、昔の東京都美術館の正面(一瞬だけど)とか映る。たまたま、これを見る数日前、母の古い編物の本を開いて、グラビアページに、色違いの編み込みセーターを着て手をつなぐ仲谷と岸田今日子を見たところだった。帰宅して調べて出演者の中に中尾彬の名を見つける。どこに出ていたのか? どう考えてもあそこしかない。やっぱりあそこだろう。知らなかったら絶対わからない。
『眼の壁』寝不足のため途中で眠ってしまい、目をさましたときは終盤で、ホラーになっていた。手形詐欺をやったのが渡辺文雄だとは気がつかなかった(若過ぎて)。
『ゼロの焦点』失踪した新婚間もない夫を捜して金沢へ行く久我美子の乗る列車の窓にまず雪が見えてきて、次に海沿いを走る列車を縦に、外の低い位置からとらえるキャメラが素晴しい。「社命ですから」と彼女に行き届いた態度で接するにこやかな夫の同僚が穂積隆信とは若過ぎてわからなかった。有馬稲子の愛らしさに驚く。
『影なき声』南田洋子は昔のグラビアで見ているので若さには驚かないが、ここまで若い二谷英明を見たのははじめて。わけのわからない映画を作る、とは言われなかった頃の鈴木清順の作だが、無駄なショットが一つもない。手堅くストーリーも語ってはいるんだけど、それだけではなく、スクリーンに映っているものすべてに納得できるのだ。ワイドスクリーンをキャメラは好んで横移動し、肝心なところでは縦の構図でキメる。被害者のズボンの裾に石炭の粉が入っていたという話から、殺害現場が「田端の貯炭場」と判明し、田端で蒸気機関車が煙を噴き上げているという展開は予想がつかなかった。そうか、あのあたりで石炭を積み込んだりしていたのか。中野刑務所とおぼしき塀が一瞬映る。被疑者の一人が味噌・醤油店の主人で、味噌樽が床に並び、醤油の壜が壁を覆う店内が映り、今はこういう店はなくなったと思った人も多かろうが、この翌日私はそういう店でお味噌を買っていたのだった(おかみさんが最初出てきたのに、あとから主人が私を見つけて「<**さんのお嬢さん」と紹介したものだから、二人から(また)うちの親の思い出話をされる)。味噌、今度値上がりするそうだ。
『黄色い風土』チラシには東映としかなかったが、冒頭、ニュー東映という文字とともに、おなじみ三角マークではあるが波が打ち寄せるんじゃなくて火山が爆発するオープニングが出たので(あとで調べたが、長続きしなかったらしい)、ラドンが飛び出しても驚かない気分に。『影なき声』の横移動がよかったので、やはりワイドスクリーンのこれはどうかなと思いつつ見ていたが、横移動もするけれど、低い位置から仰角で撮るのと、顔のアップが目立つ。のほほんとした鶴田浩二。上司の丹波哲郎が無駄にカッコいい。
若い佐久間良子も楽しみだったのだが、お人形さんであった(そういう役)。ずーっと科白のないまま、いつもパーティに行くような恰好で要所要所に現われる謎の女。冒頭、東京駅から出る、「新婚列車と言われている」列車に鶴田浩二が乗り込むが、うっかり新幹線かと思ってしまった。着いた先は熱海(そうか、そういう時代だったんだ。私の両親も熱海へ行ったという。お金がなくて日帰りで)。佐久間良子がなんで鶴田に惚れ込んだのかわからない。途中寝てしまったのでそのあいだに何かあったのかもしれないがたぶんそういうことはあるまい。彼女の兄が〝ラスボス〟として自衛隊の演習場で鶴田と対決するあたりになるともう何の映画かわからない。いつものカッコでふらふらと兄を気づかう佐久間が走ってくるあたりでは笑いたくなる。砲撃の中、兄は手首を吹っ飛ばされ、妹は倒れ伏して鶴田に抱き上げられ、外傷はないようだけど死んだのかも知れず、そのまま二人の世界で終ってしまうのでやっぱり何の映画かわからない。ラドンが出てきても驚かなかったと思う。
昨十一日はシネマヴェーラで『恐怖省』と『真珠湾攻撃』も見た。これは次回に。
昔、三百人劇場で見た作品が並ぶケイブルホーグ特集。この映画は傑作と聞きつつ未見のままであった。11時から一回だけの上映。前夜飲んでいて(私はビール一杯だが)最終の一本前で帰ったあくる朝であり、必死に急いで五分遅れる。「お立見になりますがよろしいですか」そんな科白久しぶりに聞いた。期限切れの会員証更新してもらいながら、「ずいぶん混んでるんですね」と言うと「ええ、きょうは」という返事。階段に座れたら使うようにと小布団を渡される。ドアから滑り込んだその場所から動きようがないので(その場に坐り込むといやに座高の高い人の蔭になりそうで)、足元に布団を落して手提げだけ置き、レインコートと傘を抱えて立ち見。スクリーンには縞の囚人服の二人。ロバート・ミッチャムをすぐに認めるが、もう一人がピーター・グレイヴズだったとは!(帰宅後知る。)
これは最前列の席で、視界いっぱいに広がる絵本のような作り物の星空を見上げつつ、その下を舟で行く子供たちの恐怖を味わいながら見るべき映画だ。馬にまたがった殺人鬼に追われる男の子が「あいつ眠らないんだろうか」と呟くけれど、あの旅自体、何日続いたものか観客にもわからない。その先にリリアン・ギッシュが待っているとこっちはあらかじめ知っているからまだいいけど……。二十五日にもう一回やるのだけれど残念ながら行けない。
4/20(日)『妻は告白する』『大悪党』
4/21(月)『白い巨塔』
4/27(日)『「女の小箱」より 夫が見た』『猟人日記』
5/3(土)『眼の壁』『ゼロの焦点』
5/7(水)『影なき声』『黄色い風土』
以上は新文芸坐「日本推理サスペンス映画大全」にて。『妻は告白する』初見。傑作。別に書くかもしれない。帰宅後ウェブで調べると、公開当時の、女は作られるんじゃない、生まれつき女なのだ、若尾文子を見るとそれがわかるという作家の言葉が引用されていた。デビューボ流行ってたんだ! 一方、増村保造監督自身の、女性を描きたかったんじゃない、人間を描きたかった。男は社会的に愛にのみ生きられないから女を使うんだ(女の表象をということだ)という何とも意識的な言葉あり。溝口の『近松物語』で、陶酔しきった香川京子に対して長谷川一夫が迷いを残すのも同じ。
『大悪党』は二度目で、のんびり楽しむ。同じ列に映画に詳しいらしい男の二人連れ(あまり若くない)がいて、始まる前一人が裏話的なことを解説、上映終了時もう一人が拍手。退席しようとしながら、いかにも昂奮さめやらぬ様子で「うまくやりましたよねえ」とか何とか(映画の登場人物について)話しかけるのを、通路側の席の客、「映画だから」と笑顔でいなす。
『白い巨塔』主人公の死で終るのかとばかり思っていたら、最後まで財前元気いっぱい、この時は原作もまだ連載中で死んでいなかった由。『夫が見た』については以前書いたことがあるが、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re47.html
思えば田宮二郎も、ここでは、『妻は告白する』の若尾文子同様、十年間積み重ねてきた努力(悪業だけど)さえも投げうって、ただ愛のために生きる存在(=女)になってしまっていたわけだ(斎藤綾子の書いている出産ポーズだけでなく)。だからストーリー的には不自然と感じられるのだし、彼のために身を捧げてきた岸田今日子が怒るのも当然だ。『妻は告白する』の若尾文子に対象としての女の恐しさばかり見ている者は「女」にはなれない。
『猟人日記』米国籍だとか二世だとか称して結婚詐欺を働いた男が逮捕されたというニュース、比較的近年に新聞記事で読んだ覚えがあるのだが、あれは人生が藝術を模倣したのか。仲谷昇なら、外国人風のアクセント(しかし平板で全然それっぽくない)で偽装しなくたって、素でいくらでも女の子引っかかるだろうに。それを大真面でやるから、どのレヴェルで反応してよいやらこっちが途惑う。一瞬目をそむけたくなったとしても、何度も出てくるのでよく見ればゴム製のカエルみたいに手動で空気を送っているとしか思えないアレにしても。
銀巴里で歌う若き日の三輪明宏とか、昔の東京都美術館の正面(一瞬だけど)とか映る。たまたま、これを見る数日前、母の古い編物の本を開いて、グラビアページに、色違いの編み込みセーターを着て手をつなぐ仲谷と岸田今日子を見たところだった。帰宅して調べて出演者の中に中尾彬の名を見つける。どこに出ていたのか? どう考えてもあそこしかない。やっぱりあそこだろう。知らなかったら絶対わからない。
『眼の壁』寝不足のため途中で眠ってしまい、目をさましたときは終盤で、ホラーになっていた。手形詐欺をやったのが渡辺文雄だとは気がつかなかった(若過ぎて)。
『ゼロの焦点』失踪した新婚間もない夫を捜して金沢へ行く久我美子の乗る列車の窓にまず雪が見えてきて、次に海沿いを走る列車を縦に、外の低い位置からとらえるキャメラが素晴しい。「社命ですから」と彼女に行き届いた態度で接するにこやかな夫の同僚が穂積隆信とは若過ぎてわからなかった。有馬稲子の愛らしさに驚く。
『影なき声』南田洋子は昔のグラビアで見ているので若さには驚かないが、ここまで若い二谷英明を見たのははじめて。わけのわからない映画を作る、とは言われなかった頃の鈴木清順の作だが、無駄なショットが一つもない。手堅くストーリーも語ってはいるんだけど、それだけではなく、スクリーンに映っているものすべてに納得できるのだ。ワイドスクリーンをキャメラは好んで横移動し、肝心なところでは縦の構図でキメる。被害者のズボンの裾に石炭の粉が入っていたという話から、殺害現場が「田端の貯炭場」と判明し、田端で蒸気機関車が煙を噴き上げているという展開は予想がつかなかった。そうか、あのあたりで石炭を積み込んだりしていたのか。中野刑務所とおぼしき塀が一瞬映る。被疑者の一人が味噌・醤油店の主人で、味噌樽が床に並び、醤油の壜が壁を覆う店内が映り、今はこういう店はなくなったと思った人も多かろうが、この翌日私はそういう店でお味噌を買っていたのだった(おかみさんが最初出てきたのに、あとから主人が私を見つけて「<**さんのお嬢さん」と紹介したものだから、二人から(また)うちの親の思い出話をされる)。味噌、今度値上がりするそうだ。
『黄色い風土』チラシには東映としかなかったが、冒頭、ニュー東映という文字とともに、おなじみ三角マークではあるが波が打ち寄せるんじゃなくて火山が爆発するオープニングが出たので(あとで調べたが、長続きしなかったらしい)、ラドンが飛び出しても驚かない気分に。『影なき声』の横移動がよかったので、やはりワイドスクリーンのこれはどうかなと思いつつ見ていたが、横移動もするけれど、低い位置から仰角で撮るのと、顔のアップが目立つ。のほほんとした鶴田浩二。上司の丹波哲郎が無駄にカッコいい。
若い佐久間良子も楽しみだったのだが、お人形さんであった(そういう役)。ずーっと科白のないまま、いつもパーティに行くような恰好で要所要所に現われる謎の女。冒頭、東京駅から出る、「新婚列車と言われている」列車に鶴田浩二が乗り込むが、うっかり新幹線かと思ってしまった。着いた先は熱海(そうか、そういう時代だったんだ。私の両親も熱海へ行ったという。お金がなくて日帰りで)。佐久間良子がなんで鶴田に惚れ込んだのかわからない。途中寝てしまったのでそのあいだに何かあったのかもしれないがたぶんそういうことはあるまい。彼女の兄が〝ラスボス〟として自衛隊の演習場で鶴田と対決するあたりになるともう何の映画かわからない。いつものカッコでふらふらと兄を気づかう佐久間が走ってくるあたりでは笑いたくなる。砲撃の中、兄は手首を吹っ飛ばされ、妹は倒れ伏して鶴田に抱き上げられ、外傷はないようだけど死んだのかも知れず、そのまま二人の世界で終ってしまうのでやっぱり何の映画かわからない。ラドンが出てきても驚かなかったと思う。
昨十一日はシネマヴェーラで『恐怖省』と『真珠湾攻撃』も見た。これは次回に。
甥の中学入試、受けたところ全部受かって終り、今日、お祝いということで夕飯に呼ばれる。夏休みにフィルムセンターの催し「子供映画館」に行かないかと誘うと行くという。弟の奥さんの里帰りとぶつかるのではと思っていたが、春休みに行ってくるそうなので……。フィルムセンターのサイトよく見ると空きがあれば高校生でも入れてくれるようだ。姪は高校生なのだが、そうなるとうまく行けば二人連れて行けるかも。大人は付き添いとしてしか入れない。せっかく子供がいるので、前から一度行きたいと思っていた。
姪が中学に入った時はお祝いに万年筆を買ってやった。いまどき万年筆かとみんなに言われたが、これは(伯母の趣味ではなく)本人の希望。甥に希望を聞くと自分も万年筆がいいと言う。喜んで買ってあげるよ!
フィルムセンターのマキノ雅弘特集、昨日からようやく行きはじめる。
『弥太郎傘』(1959)と『鞍馬天狗』(1960)。 前者は中村錦之助主演、後者は東千代之介主演で「愛情関係にある」(解説より)芸妓が美空ひばり。
美空ひばりが髷にたくさん刺している赤い玉かんざしが、『鋼鉄三国志』の諸葛瑾のそれとそっくり! 偶然とは思えないほど。(『鋼鉄三国志』とマキノの『鞍馬天狗』両方見ている人っています?)
「鞍馬天狗」の映画、きちんと見たのははじめてだと思う。白馬でやってきて拳銃をバンバンと撃つ。こういうものだったのね……。 ちなみに、初カラーの鞍馬天狗だとか(それでかんざしの色もわかった)。
鞍馬天狗は「おじさん」である。「天狗のおじさん!」と杉作。
月光仮面も「おじさん」だった。「♪月光仮面のおじさんは~」
いったい幾つくらいかというと、鞍馬天狗の正体倉田のおじさんは二十五歳である(長屋のおかみさんたちがそう言っている)。それにしちゃふけてるが(調べたら東千代之介は三十過ぎ)。ともかく設定上は二十五だ。人の親になる年齢になればおじさん、おばさんと呼ばれるのが普通だったし、本人たちもそれであわてたりはしなかったのだ。
対する新撰組もおじさんばかりで笑える(NHKの新撰組を思い返すと)。某都議が、新撰組の史跡を尋ねる若い女性の姿が目立つというのを喜んで、男らしい男の群れ、新選組は、多くの日本女性を魅了している、ジェンダーフリーの男らしくない新撰組なんてありえないとバカを言っていたが、その「男らしい」新撰組とはこういう「おじさん」ぞろいのことだろう。 そんな萌えないもの、若い女が跡を尋ねるわけがない。勤皇の志士の「おじさん」をつかまえて拷問にかけたって全然見せ場にならない。
「愛情関係にある」芸妓……。確かにその通りだった。「情婦」ではありえない。境内で忍び会うだけだもの。(処女の芸妓かしらん。)
ひばり、演技うまい。マキノを感嘆させたというのも頷ける。しかし色気はない(生涯なかったと思う)。
杉作はじめ少年たちの出自はベイカー・ストリート・イレギュラーズか。少年探偵団はもちろんそうだが、「ナショナル・キッド」もそうだったな。「おじさん」がいて「子供たち」がいたんだよね、昔は。女子供を助ける父性的ヒーロー。ヒーローは父、すなわち「おじさん」だった。「戦隊もの」とは父なき世界に子供たちだけが残ったのか。『鋼鉄三国志』にも父はいなかった。
姪が中学に入った時はお祝いに万年筆を買ってやった。いまどき万年筆かとみんなに言われたが、これは(伯母の趣味ではなく)本人の希望。甥に希望を聞くと自分も万年筆がいいと言う。喜んで買ってあげるよ!
フィルムセンターのマキノ雅弘特集、昨日からようやく行きはじめる。
『弥太郎傘』(1959)と『鞍馬天狗』(1960)。 前者は中村錦之助主演、後者は東千代之介主演で「愛情関係にある」(解説より)芸妓が美空ひばり。
美空ひばりが髷にたくさん刺している赤い玉かんざしが、『鋼鉄三国志』の諸葛瑾のそれとそっくり! 偶然とは思えないほど。(『鋼鉄三国志』とマキノの『鞍馬天狗』両方見ている人っています?)
「鞍馬天狗」の映画、きちんと見たのははじめてだと思う。白馬でやってきて拳銃をバンバンと撃つ。こういうものだったのね……。 ちなみに、初カラーの鞍馬天狗だとか(それでかんざしの色もわかった)。
鞍馬天狗は「おじさん」である。「天狗のおじさん!」と杉作。
月光仮面も「おじさん」だった。「♪月光仮面のおじさんは~」
いったい幾つくらいかというと、鞍馬天狗の正体倉田のおじさんは二十五歳である(長屋のおかみさんたちがそう言っている)。それにしちゃふけてるが(調べたら東千代之介は三十過ぎ)。ともかく設定上は二十五だ。人の親になる年齢になればおじさん、おばさんと呼ばれるのが普通だったし、本人たちもそれであわてたりはしなかったのだ。
対する新撰組もおじさんばかりで笑える(NHKの新撰組を思い返すと)。某都議が、新撰組の史跡を尋ねる若い女性の姿が目立つというのを喜んで、男らしい男の群れ、新選組は、多くの日本女性を魅了している、ジェンダーフリーの男らしくない新撰組なんてありえないとバカを言っていたが、その「男らしい」新撰組とはこういう「おじさん」ぞろいのことだろう。 そんな萌えないもの、若い女が跡を尋ねるわけがない。勤皇の志士の「おじさん」をつかまえて拷問にかけたって全然見せ場にならない。
「愛情関係にある」芸妓……。確かにその通りだった。「情婦」ではありえない。境内で忍び会うだけだもの。(処女の芸妓かしらん。)
ひばり、演技うまい。マキノを感嘆させたというのも頷ける。しかし色気はない(生涯なかったと思う)。
杉作はじめ少年たちの出自はベイカー・ストリート・イレギュラーズか。少年探偵団はもちろんそうだが、「ナショナル・キッド」もそうだったな。「おじさん」がいて「子供たち」がいたんだよね、昔は。女子供を助ける父性的ヒーロー。ヒーローは父、すなわち「おじさん」だった。「戦隊もの」とは父なき世界に子供たちだけが残ったのか。『鋼鉄三国志』にも父はいなかった。
・『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』
映画は30年代で完成されてしまっていたのだとあらためて思う。
・『祇園囃子』と『赤線地帯』
その完成度をそのまま維持してさらに輝く二十年後の溝口。
だが、このあいだに『雨月物語』とか『西鶴一代女』とかあまりぴんと来なかった作品があるわけで、そういうのを先に見てしまったために長いこと溝口の良さがわからなかったようだ。
『赤線地帯』は、火事になる前のフィルムセンターで見たことがあったはずだが、見事に何も覚えていなかった。ラストの、新米娼婦が客を引く場面さえ記憶とは違っていた。ただ一つ、京マチ子が実の父親に向かって「極道の仕上げをするか」という科白にだけ、記憶にかすかに引っかかるものがあった。
『浪華悲歌』、山田五十鈴を囲おうとする社長が「いいアパートがあるんだ」と誘って、実現してしまうその「アパート」の立派さに驚く。
『祇園の姉妹』、最後の山田五十鈴の科白(なんで芸妓なんてものあるんや、のうなってしまえばいい云々)がプロパガンダ的だといわれるらしいが……時を隔ててみれば、それは単にリアルとしか、単に実感を述べているようにしか聞こえない。
『赤線地帯』で三益愛子の演じる、田舎の舅、姑に息子を育ててもらっている年増の娼婦(このような母もやっていたのだ!)が帰郷すると、そこは草ぼうぼうの中にバスの停留所の標識が一本立っているだけの田舎で、バスの時間に間があるのでそばの店に入るとそこではおかみさんが赤ん坊を寝かしていて、三益は上がり込んでうどんを注文する。死んだ夫の家では姑が暗い土間に座り込んでおり、奥で舅が寝ている(彼らの生活は三益の仕送りで支えられている)。息子が上京したことを聞かされ、彼から来たという葉書を探しに奥へ入って引き出しを探ると、傍で寝たきりの爺様がうめき声を上げる。すべてがこれ以外ではありえなかったと思わせるリアリズムがすごい。
『新・平家物語』大川橋蔵の眉毛と木暮実千代の胸もと。大量エキストラ。冒頭の大群衆の絵巻物が動き出したような何とも言えないキャメラの動き(あとで知ったのだが、ゴダールやトリュフォーが本当にワンショットなのかと映写室へ飛び込んでフィルムを調べたというのがこれだった)。
『楊貴妃』最初の方、眠ってしまった(たんに眠くて)。森雅之が玄宗を、京マチ子が楊貴妃をやっているという印象しか残らず。あとで安禄山が山村聡だったと知って驚くが、『武蔵野夫人』の山村聡のいつもと違う雰囲気を見て、安録山もそんな感じでやっていたのだと納得。
『武蔵野夫人』、勉がミスキャスト。道子(田中絹代)もだろう。中庭があって開口部が多く完全に仕切られていない日本家屋の中でのキャメラの動き(『噂の女』も)。野川の流れに漬かった草が髪のようにうねるショット、ジャン・ルノワールのよう。もっともルノワールなら、それを写しているあいだに情事が進行するのだが。
道子の科白、『鋼鉄三国志』の最終回マイナス一回あたりの科白なみにわけがわからず。
『噂の女』、去年フィルムセンターで見たとき一瞬眠って見そこなった、最初のあたりはきちんと見るが、そのあと疲れが出て眠り、あのとき記述した、田中絹代が若い愛人に買ってやろうとする医院を見に行くあたり再見できず。『武蔵野夫人』から一転していきいきとした田中絹代。
男(たち)の被害者となった者同士の連帯が、この母娘(田中と久我美子)にも見られること。彼女らが生計を頼っている郭の女たちにまでそれが及ぼされることは難しいが(ラストで娼妓の一人が、『祇園の姉妹』のラストに似た科白をいう)。『祇園囃子』で、最後に木暮実千代が若尾文子に、これからは自分が若尾の「旦那」になると言うところも、同様の意味で面白い。
映画は30年代で完成されてしまっていたのだとあらためて思う。
・『祇園囃子』と『赤線地帯』
その完成度をそのまま維持してさらに輝く二十年後の溝口。
だが、このあいだに『雨月物語』とか『西鶴一代女』とかあまりぴんと来なかった作品があるわけで、そういうのを先に見てしまったために長いこと溝口の良さがわからなかったようだ。
『赤線地帯』は、火事になる前のフィルムセンターで見たことがあったはずだが、見事に何も覚えていなかった。ラストの、新米娼婦が客を引く場面さえ記憶とは違っていた。ただ一つ、京マチ子が実の父親に向かって「極道の仕上げをするか」という科白にだけ、記憶にかすかに引っかかるものがあった。
『浪華悲歌』、山田五十鈴を囲おうとする社長が「いいアパートがあるんだ」と誘って、実現してしまうその「アパート」の立派さに驚く。
『祇園の姉妹』、最後の山田五十鈴の科白(なんで芸妓なんてものあるんや、のうなってしまえばいい云々)がプロパガンダ的だといわれるらしいが……時を隔ててみれば、それは単にリアルとしか、単に実感を述べているようにしか聞こえない。
『赤線地帯』で三益愛子の演じる、田舎の舅、姑に息子を育ててもらっている年増の娼婦(このような母もやっていたのだ!)が帰郷すると、そこは草ぼうぼうの中にバスの停留所の標識が一本立っているだけの田舎で、バスの時間に間があるのでそばの店に入るとそこではおかみさんが赤ん坊を寝かしていて、三益は上がり込んでうどんを注文する。死んだ夫の家では姑が暗い土間に座り込んでおり、奥で舅が寝ている(彼らの生活は三益の仕送りで支えられている)。息子が上京したことを聞かされ、彼から来たという葉書を探しに奥へ入って引き出しを探ると、傍で寝たきりの爺様がうめき声を上げる。すべてがこれ以外ではありえなかったと思わせるリアリズムがすごい。
『新・平家物語』大川橋蔵の眉毛と木暮実千代の胸もと。大量エキストラ。冒頭の大群衆の絵巻物が動き出したような何とも言えないキャメラの動き(あとで知ったのだが、ゴダールやトリュフォーが本当にワンショットなのかと映写室へ飛び込んでフィルムを調べたというのがこれだった)。
『楊貴妃』最初の方、眠ってしまった(たんに眠くて)。森雅之が玄宗を、京マチ子が楊貴妃をやっているという印象しか残らず。あとで安禄山が山村聡だったと知って驚くが、『武蔵野夫人』の山村聡のいつもと違う雰囲気を見て、安録山もそんな感じでやっていたのだと納得。
『武蔵野夫人』、勉がミスキャスト。道子(田中絹代)もだろう。中庭があって開口部が多く完全に仕切られていない日本家屋の中でのキャメラの動き(『噂の女』も)。野川の流れに漬かった草が髪のようにうねるショット、ジャン・ルノワールのよう。もっともルノワールなら、それを写しているあいだに情事が進行するのだが。
道子の科白、『鋼鉄三国志』の最終回マイナス一回あたりの科白なみにわけがわからず。
『噂の女』、去年フィルムセンターで見たとき一瞬眠って見そこなった、最初のあたりはきちんと見るが、そのあと疲れが出て眠り、あのとき記述した、田中絹代が若い愛人に買ってやろうとする医院を見に行くあたり再見できず。『武蔵野夫人』から一転していきいきとした田中絹代。
男(たち)の被害者となった者同士の連帯が、この母娘(田中と久我美子)にも見られること。彼女らが生計を頼っている郭の女たちにまでそれが及ぼされることは難しいが(ラストで娼妓の一人が、『祇園の姉妹』のラストに似た科白をいう)。『祇園囃子』で、最後に木暮実千代が若尾文子に、これからは自分が若尾の「旦那」になると言うところも、同様の意味で面白い。
Tags:映画
少しだけ見た。
8 日 (土)
浪華悲歌〈なにわえれじい〉(1936)
祇園の姉妹〈きょうだい〉(1936)
18 日 (火)
祇園囃子(1953)
赤線地帯(1956)
19 日(水)
新・平家物語(1955)
楊貴妃(1955)
20 日(木)
武蔵野夫人(1951)
噂の女(1954)
感想はあとで。
8 日 (土)
浪華悲歌〈なにわえれじい〉(1936)
祇園の姉妹〈きょうだい〉(1936)
18 日 (火)
祇園囃子(1953)
赤線地帯(1956)
19 日(水)
新・平家物語(1955)
楊貴妃(1955)
20 日(木)
武蔵野夫人(1951)
噂の女(1954)
感想はあとで。
Tags:映画
と、言うんですね!(一つ前の記事参照)。
マキノの『次郎長三国志第八部 海道一の暴れん坊』で、森繁石松の科白にあって知った。
あとでグーグルしたら、花札で出てくる。
花札にあまりなじみはないものの、見たことがないわけではない(横についた友だちの言うままに札を出して勝ったことさえある)。しかし、赤い丸葉が萩だなんて思わなかった。
国立博物館で見た「岩藤熊萩野猪図屏風」の説明には、「臥猪」(ふすい)という画題があることは書かれていたが、萩に猪と花札にもあるでしょう、とはなかった。
題名通り右の屏風は岩藤と熊の組合せなのだが、まさか「熊に藤」はないだろう。
『次郎長第八部』、一部二部からは想像できない完成度の高さで素晴しかった。
森繁、かつて自作自演で白夜を「びゃくや」と歌っていたあたりから(だいたい国後に白夜などない)、出てくると引っ込めと思っていたが、認識を改めた。
1月27日の昼間、お風呂に入っていて、その日は父の誕生日だったのだが、27日にはもう一つ何かあったと思いはじめて、そうだ、次郎長の初日だったと気づき、洗いかけの洗濯物もそのままに渋谷へ駆けつけた。
渋谷シネマヴェーラで、蓮實、山根、それに岡田茉莉子(併映の『やくざ囃子』に出演)のトークの後、『次郎長賣り出す』、『次郎長初旅』(と『やくざ囃子』)。昨年どちらも見ていたが、今回は眠り足りていたのでじっくり見た。『やくざ囃子』はトークを聞いて想像したのとは違っていた(珍品とでも言っておこう)。
30日、『第六部 旅がらす次郎長一家』を最終回でつかまえる。元相撲取りの裏切りのあたり、全く見ていなかった(眠っていて)ことが判明(そのくせ、前回、そのあとの再会シーンのよさなど書いている。http://kaorusz.exblog.jp/m2006-03-01/#4248293 大政を「旦那さま」と呼ぶあの女性は妻だったか。初見時の注意力と違うので、自分で書いたこの場面の力が前回のようには感じられず)。それにしてもみんなよく泣くことよ。この回はこの陰々滅々がよいと思うべし。次郎長三国志(1952~54年)、あと三、四、五、七、九部を残す。
マキノの『次郎長三国志第八部 海道一の暴れん坊』で、森繁石松の科白にあって知った。
あとでグーグルしたら、花札で出てくる。
花札にあまりなじみはないものの、見たことがないわけではない(横についた友だちの言うままに札を出して勝ったことさえある)。しかし、赤い丸葉が萩だなんて思わなかった。
国立博物館で見た「岩藤熊萩野猪図屏風」の説明には、「臥猪」(ふすい)という画題があることは書かれていたが、萩に猪と花札にもあるでしょう、とはなかった。
題名通り右の屏風は岩藤と熊の組合せなのだが、まさか「熊に藤」はないだろう。
『次郎長第八部』、一部二部からは想像できない完成度の高さで素晴しかった。
森繁、かつて自作自演で白夜を「びゃくや」と歌っていたあたりから(だいたい国後に白夜などない)、出てくると引っ込めと思っていたが、認識を改めた。
1月27日の昼間、お風呂に入っていて、その日は父の誕生日だったのだが、27日にはもう一つ何かあったと思いはじめて、そうだ、次郎長の初日だったと気づき、洗いかけの洗濯物もそのままに渋谷へ駆けつけた。
渋谷シネマヴェーラで、蓮實、山根、それに岡田茉莉子(併映の『やくざ囃子』に出演)のトークの後、『次郎長賣り出す』、『次郎長初旅』(と『やくざ囃子』)。昨年どちらも見ていたが、今回は眠り足りていたのでじっくり見た。『やくざ囃子』はトークを聞いて想像したのとは違っていた(珍品とでも言っておこう)。
30日、『第六部 旅がらす次郎長一家』を最終回でつかまえる。元相撲取りの裏切りのあたり、全く見ていなかった(眠っていて)ことが判明(そのくせ、前回、そのあとの再会シーンのよさなど書いている。http://kaorusz.exblog.jp/m2006-03-01/#4248293 大政を「旦那さま」と呼ぶあの女性は妻だったか。初見時の注意力と違うので、自分で書いたこの場面の力が前回のようには感じられず)。それにしてもみんなよく泣くことよ。この回はこの陰々滅々がよいと思うべし。次郎長三国志(1952~54年)、あと三、四、五、七、九部を残す。
Tags:映画
今日、フィルムセンターに溝口の特集カタログがあるのにはじめて気づいて購入。22日に見た『噂の女』(1954年)についての解説を早速読む。
京都は島原、御茶屋と置屋とを兼ねた「井筒屋」が真昼の陽光を浴びている。俯瞰で捉えた表の往来に白塗りのハイヤーが停まり、映画は始まる。女将(田中絹代)とその娘(久我美子)が自動車から姿を現わしてから、冒頭の二十余分を費やして描出される「井筒屋」での濃密な一日に、溝口演出の膂力が遺憾なく発揮される。( 「はじめての溝口健二」46ページ)
ここにあるとおり、映画は観客を一気に舞台となる世界に連れ込み、手際よく状況を呑み込ませてゆく。遊郭の内部も抱えの花魁も江戸時代そのままかと思われる様相を呈しており(知識なしに見に行ったので、場所も時代設定も最初はわからなかった。ずっとあとになって進藤英太郎の口にする「アプレ」の一言でも、また、久我美子の口から出る「イージー」という言葉――たぶん当時は最先端の流行語、というよりも、ごく普通に使われていたのだろう。今となってはめちゃめちゃ違和感――からも、また、娘をやっているのが女学校でなく大学であるところからも戦後であることは了解され、また、その経済力もうかがえるが)、東京で大学に通い、自殺未遂を起して戻ってきた久我美子は、あたかも観客の代表のように部外者・傍観者として(ひとりだけ場違いななりで)その中を茫然と歩き回り、身体の不調を押して座敷に出ようとした太夫の胃痙攣の凄惨な発作(そこに医者が呼ばれることで、田中絹代の愛人である若い医者も巧みに登場させられる)になすすべもなく立ち合い、また、女が酔客に口うつしで水を飲ませる情景を見てしまう。
こうして嫌悪の念とともに(あまっさえ、家業のせいで恋人と結婚できなかったのが原因で、彼女は自殺を図っている)、庭を横切り離れの自分の部屋に引っ込んだ久我美子だが、翌朝には、胃痙攣を起した太夫の面倒を親切にみて、女たちに見直される。母の(金めあての)恋人とは知らずに若い医者(知った顔だと思ってあとで見たら、成瀬の『お国と五平』の五平だった。そういえば、金井美恵子の成瀬についての文章にそう書いてあったっけ)と相思相愛になる久我美子だが、あまりにもダメ男なので母との和解も(比較的)たやすく、最後には具合の悪くなった母に代って、オードリー・ファッションのまま、若おかみと呼ばれててきぱき店を取り仕切る。俯瞰ではじまり俯瞰で終るフィルムの構造のことも解説で触れられているが、映画は登場人物たちに感情移入させたあげく、ここに至ってこの閉じられた世界全体を冷たく突き放すのだ。
音楽が特徴的(効果的)でかなり気になったのだが、解説によれば「電子音と低いストリングスとの混淆で奏でられる黛敏郎の不吉なスコア」だそうだ。解説になかったことを一つ記しておこう。医者に買ってやるつもりの物件を二人して見に行った帰り、木蔭に腰を下ろすときの、「あの家で奥さんと呼ばれること」を夢見る(口にも出す)俯瞰で撮られた無防備な田中絹代を照らす木漏れ日――しかもそれが木下の水に映えている――の美しさである。
京都は島原、御茶屋と置屋とを兼ねた「井筒屋」が真昼の陽光を浴びている。俯瞰で捉えた表の往来に白塗りのハイヤーが停まり、映画は始まる。女将(田中絹代)とその娘(久我美子)が自動車から姿を現わしてから、冒頭の二十余分を費やして描出される「井筒屋」での濃密な一日に、溝口演出の膂力が遺憾なく発揮される。( 「はじめての溝口健二」46ページ)
ここにあるとおり、映画は観客を一気に舞台となる世界に連れ込み、手際よく状況を呑み込ませてゆく。遊郭の内部も抱えの花魁も江戸時代そのままかと思われる様相を呈しており(知識なしに見に行ったので、場所も時代設定も最初はわからなかった。ずっとあとになって進藤英太郎の口にする「アプレ」の一言でも、また、久我美子の口から出る「イージー」という言葉――たぶん当時は最先端の流行語、というよりも、ごく普通に使われていたのだろう。今となってはめちゃめちゃ違和感――からも、また、娘をやっているのが女学校でなく大学であるところからも戦後であることは了解され、また、その経済力もうかがえるが)、東京で大学に通い、自殺未遂を起して戻ってきた久我美子は、あたかも観客の代表のように部外者・傍観者として(ひとりだけ場違いななりで)その中を茫然と歩き回り、身体の不調を押して座敷に出ようとした太夫の胃痙攣の凄惨な発作(そこに医者が呼ばれることで、田中絹代の愛人である若い医者も巧みに登場させられる)になすすべもなく立ち合い、また、女が酔客に口うつしで水を飲ませる情景を見てしまう。
こうして嫌悪の念とともに(あまっさえ、家業のせいで恋人と結婚できなかったのが原因で、彼女は自殺を図っている)、庭を横切り離れの自分の部屋に引っ込んだ久我美子だが、翌朝には、胃痙攣を起した太夫の面倒を親切にみて、女たちに見直される。母の(金めあての)恋人とは知らずに若い医者(知った顔だと思ってあとで見たら、成瀬の『お国と五平』の五平だった。そういえば、金井美恵子の成瀬についての文章にそう書いてあったっけ)と相思相愛になる久我美子だが、あまりにもダメ男なので母との和解も(比較的)たやすく、最後には具合の悪くなった母に代って、オードリー・ファッションのまま、若おかみと呼ばれててきぱき店を取り仕切る。俯瞰ではじまり俯瞰で終るフィルムの構造のことも解説で触れられているが、映画は登場人物たちに感情移入させたあげく、ここに至ってこの閉じられた世界全体を冷たく突き放すのだ。
音楽が特徴的(効果的)でかなり気になったのだが、解説によれば「電子音と低いストリングスとの混淆で奏でられる黛敏郎の不吉なスコア」だそうだ。解説になかったことを一つ記しておこう。医者に買ってやるつもりの物件を二人して見に行った帰り、木蔭に腰を下ろすときの、「あの家で奥さんと呼ばれること」を夢見る(口にも出す)俯瞰で撮られた無防備な田中絹代を照らす木漏れ日――しかもそれが木下の水に映えている――の美しさである。
姦通した人妻と手代という誤解を受けて彼らが最初に〈死〉を選ぼうとしたとき、それはなおも規範に忠実な社会的行為であった。しかし、舟の上での出来事を境に、彼らは生きることを望み、そしてpassionの絶対的な受動性のうちにすべり落ちてゆくだろう。木々に覆われた斜面の下降と、そのあとの地面の上を転げ回る二人の姿がそれを物語る。
『大経師昔暦』は、もういつだったかも忘れるほど昔、渋谷ジァン・ジァンで「語り」を聞いたことがあったが、今回、浄瑠璃と映画がどう違っていたのか知りたくて(実際には川口松太郎による劇化が間に入っており、このときに恋愛ものに変換されたのだろうと想像するが)、近所の図書館になかったので取り寄せてもらって読んだ。映画ではおさんの実家は、後家である浪花千栄子の母と、妹に無心して悲劇の原因を作る道楽者の兄(どちらもはまり役)から成るのだが、原作では、借金を申し込んでくるのはおさんの両親だ。そして、恋物語では全くない代りに、父母の情がこまやかに語られる。可愛がって撫でて育てた身体を槍で突かれるのか(不義密通は磔になるので)という、生なましくも具体的な嘆きが印象的だ。
映画でも、浪花千栄子は娘の身の無事を願いはするが、なにせ娘がとらわれてしまったような官能には無縁の、子を産んだことがあるだけの女だから、連れ戻されたおさんと追ってきた茂兵衛を前に、こうして一目会ったからには気がすんだろうなどということを平気で言う。そうしている間にも、母の前でありながら香川京子は傍の長谷川一夫を見つめつづけ、今にも撫でさすり、からみつかんばかりでいるのに。
〈社会化〉された人々には、財産や家名が何よりも優先する。おさんの夫・以春は金でスキャンダルをもみ消そうとし(町人でありながら名字帯刀を許された大経師の家は、罪科においても武家同様に罰せられ、妻の不義と夫がそれを訴え出なかったことが露見すれば、監督不行き届きで家は取り潰しになるとされ、実際そうなる)、彼から金を借りている公家たちは、この件で便宜をはかる代りに借金を帳消しにできる機会を得て上機嫌で以春のもてなしを受けるし、以春が失脚して大経師の株が宙に浮けばそれを利用できると考え、うまく立ち回ろうとする者たちもいる。こうした打算や、見栄や、外聞や、世間体を超えた、命を賭けるほどの価値をおさん茂兵衛が恋に見出しているというのは正しくあるまい。そうした比較が何の意味も持たない世界に二人は入り込んでいるので、何も知らなかったときは義理のために平気で年寄りの後妻になったおさんも、今では何事もなかったかのように夫のもとへ戻るなどということはできるわけもない。逃げようとする娘の名を呼ぶ浪花千栄子の声は、ついに捕り手と同じ側に立って彼女を狩り立てることになる。(これが要するに、親としての責任を果たすということなのだ。)
茂兵衛の極貧の父だけがまともな人間に見える。前述のように、彼は社会的な圧迫に負けて、恋人たちが潜む小屋を追っ手に教え、二人は引き離されておさんは駕籠に押し込められ、茂兵衛は同じ小屋に監禁されるのだが、父親はその縄を切って茂兵衛を逃がす。その足で彼はおさんが預けられた実家へ行き、そしておさんの母が捕り手に居場所を告げる声に追い立てられて、ついに再び捕らわれるのだ。
二人が背中合わせに馬に乗せられ、晒しものとなって刑場へ引かれてゆくとき、観客の目を惹きつけるのは、なおも握り合った二人の手であろう。二人が、とりわけおさんが、今までに見たこともないほど晴れやかな顔をしていることが見物人の台詞で語られる。それを聞いて観客が目を向けるとき、彼女はもう後ろ姿になっていて、背中合わせに縛られた茂兵衛の顔しかもはや私たちには見られない。そろって晴れやかな顔と言われているのに、その表情は(面白いことに)心なしか曇っているようだ。茂兵衛の在所の隠れ家で、こんなところでもいいから一緒に暮らしたい、と思わずおさんが言ったとき、茂兵衛の方は、早くここから出て出世がしたいと思ったという子供時代の思い出を口にしていた。ジェンダーによる社会化の違い――茂兵衛には男としての出世という道があったことへの未練が、最後に長谷川一夫の表情をかすかにかげらせていると見るべきだろうか?
『大経師昔暦』は、もういつだったかも忘れるほど昔、渋谷ジァン・ジァンで「語り」を聞いたことがあったが、今回、浄瑠璃と映画がどう違っていたのか知りたくて(実際には川口松太郎による劇化が間に入っており、このときに恋愛ものに変換されたのだろうと想像するが)、近所の図書館になかったので取り寄せてもらって読んだ。映画ではおさんの実家は、後家である浪花千栄子の母と、妹に無心して悲劇の原因を作る道楽者の兄(どちらもはまり役)から成るのだが、原作では、借金を申し込んでくるのはおさんの両親だ。そして、恋物語では全くない代りに、父母の情がこまやかに語られる。可愛がって撫でて育てた身体を槍で突かれるのか(不義密通は磔になるので)という、生なましくも具体的な嘆きが印象的だ。
映画でも、浪花千栄子は娘の身の無事を願いはするが、なにせ娘がとらわれてしまったような官能には無縁の、子を産んだことがあるだけの女だから、連れ戻されたおさんと追ってきた茂兵衛を前に、こうして一目会ったからには気がすんだろうなどということを平気で言う。そうしている間にも、母の前でありながら香川京子は傍の長谷川一夫を見つめつづけ、今にも撫でさすり、からみつかんばかりでいるのに。
〈社会化〉された人々には、財産や家名が何よりも優先する。おさんの夫・以春は金でスキャンダルをもみ消そうとし(町人でありながら名字帯刀を許された大経師の家は、罪科においても武家同様に罰せられ、妻の不義と夫がそれを訴え出なかったことが露見すれば、監督不行き届きで家は取り潰しになるとされ、実際そうなる)、彼から金を借りている公家たちは、この件で便宜をはかる代りに借金を帳消しにできる機会を得て上機嫌で以春のもてなしを受けるし、以春が失脚して大経師の株が宙に浮けばそれを利用できると考え、うまく立ち回ろうとする者たちもいる。こうした打算や、見栄や、外聞や、世間体を超えた、命を賭けるほどの価値をおさん茂兵衛が恋に見出しているというのは正しくあるまい。そうした比較が何の意味も持たない世界に二人は入り込んでいるので、何も知らなかったときは義理のために平気で年寄りの後妻になったおさんも、今では何事もなかったかのように夫のもとへ戻るなどということはできるわけもない。逃げようとする娘の名を呼ぶ浪花千栄子の声は、ついに捕り手と同じ側に立って彼女を狩り立てることになる。(これが要するに、親としての責任を果たすということなのだ。)
茂兵衛の極貧の父だけがまともな人間に見える。前述のように、彼は社会的な圧迫に負けて、恋人たちが潜む小屋を追っ手に教え、二人は引き離されておさんは駕籠に押し込められ、茂兵衛は同じ小屋に監禁されるのだが、父親はその縄を切って茂兵衛を逃がす。その足で彼はおさんが預けられた実家へ行き、そしておさんの母が捕り手に居場所を告げる声に追い立てられて、ついに再び捕らわれるのだ。
二人が背中合わせに馬に乗せられ、晒しものとなって刑場へ引かれてゆくとき、観客の目を惹きつけるのは、なおも握り合った二人の手であろう。二人が、とりわけおさんが、今までに見たこともないほど晴れやかな顔をしていることが見物人の台詞で語られる。それを聞いて観客が目を向けるとき、彼女はもう後ろ姿になっていて、背中合わせに縛られた茂兵衛の顔しかもはや私たちには見られない。そろって晴れやかな顔と言われているのに、その表情は(面白いことに)心なしか曇っているようだ。茂兵衛の在所の隠れ家で、こんなところでもいいから一緒に暮らしたい、と思わずおさんが言ったとき、茂兵衛の方は、早くここから出て出世がしたいと思ったという子供時代の思い出を口にしていた。ジェンダーによる社会化の違い――茂兵衛には男としての出世という道があったことへの未練が、最後に長谷川一夫の表情をかすかにかげらせていると見るべきだろうか?
新聞を熟読しているわけでもTVのニュースを注視しているわけでもない(おまけに、ヤンキー先生とやらがものを言っているのが映ると反射的にチャンネルを変えてしまっていた)ので、どうやら二週間くらい前に出たらしい「緊急に」「提言」された「以下のこと」を昨日ウェブで見かけるまで知らずにいた。
①学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。
(中略)
⑦いじめを生まない素地を作り、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中で、ほめる、励ます、叱るなど、親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもたちに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気づいた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。
一見してあきれてしまうのは、「美しい国づくりのために」これを提言するのだと明記されているからばかりではない。「いじめは反社会的な行為」って何だ? それは社会的な行為以外の何ものでもないではないか。そうした子供たちは、集団でいじめをするほどにまで〈社会化〉されているのだ。だいたい大人たちは、普段、差別し、レッテルを貼り、排除していないのか。松本サリン事件の容疑者と警察が断定した無辜の男性に対してマスコミは「いじめ」を行なったし、鳥インフルエンザを出した養鶏場の老夫婦をいじめて首吊り自殺させた。いじめの加害者というレッテル貼りと管理の徹底はいじめそのものの反復となりかねない。その先には、加害者として排除された子供に自殺者が出ることになるだろう。
いじめを見て見ぬふりをする者も加害者である。
地域の人たちも(……)気づいた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。
こうした文章の「形式」が、私には溝口健二監督の『近松物語』における「社会」の構造と重なって見える。「不義密通」を「見て見ぬふりをする者も」同罪であるぞと、主人の妻・香川京子と出奔した手代・長谷川一夫の在所へ行ってその父親に役人は迫る。「地域の人たち」も「気づいた点」はお上に「積極的に知らせる」のでなければならない(そうでなければ連帯責任を問われる)。役人たちを土下座して迎えたいかにも貧しげな父親は、自分を抑圧する者(息子の主家)を彼の恩人と呼ぶ役人たちに、「反社会的な行為として絶対許されない」罪を犯した息子を庇い立てすれば村全体に累が及ぶと寄ってたかって脅され(いじめられ)て、這いつくばって許しを乞い、二人を隠した小屋の場所を告げてしまう。
『近松物語』における恋は反社会的行為であるが、その理由は、それが封建時代における恋だからでは必ずしもない。そもそも、原作の浄瑠璃では、おさんと茂兵衛は恋仲でも何でもなく、夫が下女のお玉を口説いていることを知ったおさんがお玉と寝床を替り、お玉のところに忍んできた茂兵衛を闇のなかで夫と思い込み……という、全くの誤解がもとである。だから、『大経師昔暦』を知っている者は、お玉の部屋にいた香川京子と、お玉に礼を言うために訪ねた長谷川一夫が、灯火の下で顔を合わせるのを見て驚くだろう。彼らは姦通の事実がないまま、成り行きで道行きを演じることになる。
密通したとは全くの濡れ衣ではあるが、「捕まって辱めを受けるよりはいっそ死んでしまおう」と溝口のおさんは言う。この段階での彼女は、社会の中で生きる場所を失った、いわば「いじめ」のために死のうとしている者だ。死を決意して茂兵衛とともに漕ぎ出した舟の上で、彼女は決然と死を選ぼうとする。傾いた実家への経済的援助を期待して父親ほどの年齢の裕福な男に嫁し、義理と世間体に縛られて生きる彼女は、手に負えないパッションをまだ知らない。彼女が死のうとしているのは、理性的な、最後までコントロールの下に置かれた死だ。死後の裾の乱れを防ぐため、茂兵衛は舟の上に立ったおさんの脚を着物の上から紐で縛る。しかしその直後、今なら口にしても罰は当たるまいと、縛ったおさんの脚を抱きしめ、秘めた思いを打ち明ける。
この不自由な姿勢が語るとおり彼女は“自立”した女の反対物であり、同時に、男を押し倒す女である。というのは、茂兵衛の告白を聞いたために「私は生きたくなりました」と宣言して、ともに入水しようとする茂兵衛を押しとどめ、脚を縛られたままの恰好で、受身の茂兵衛を舟底へ押し倒すのは彼女の方であり、こののち、慣れぬ旅路で足を痛めたおさんを峠の茶屋で休ませて、ここで別れて自分だけが罪を引き受けようと、長谷川一夫が麓へ向かって波のように連なる木々にまぎれて離れて行ったとき、悲痛な声でその名を呼びつつ木々のあいだを歩けぬ足で追ってゆき、ついに彼に抱きとめられて再び彼を押し倒し、あたりもはばからず地面の上を転がるのであるから。おさんを演じる香川京子が素晴しい。そして押し倒される長谷川一夫の方はといえば、おさんの夫、進藤英太郎や、茂兵衛を陥れる番頭、小沢栄(太郎)と同じ男という生きものとは思えない艶めかしさだ。
①学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。
(中略)
⑦いじめを生まない素地を作り、いじめの解決を図るには、家庭の責任も重大である。保護者は、子どもにしっかりと向き合わなければならない。日々の生活の中で、ほめる、励ます、叱るなど、親としての責任を果たす。おじいちゃんやおばあちゃん、地域の人たちも子どもたちに声をかけ、子どもの表情や変化を見逃さず、気づいた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。
一見してあきれてしまうのは、「美しい国づくりのために」これを提言するのだと明記されているからばかりではない。「いじめは反社会的な行為」って何だ? それは社会的な行為以外の何ものでもないではないか。そうした子供たちは、集団でいじめをするほどにまで〈社会化〉されているのだ。だいたい大人たちは、普段、差別し、レッテルを貼り、排除していないのか。松本サリン事件の容疑者と警察が断定した無辜の男性に対してマスコミは「いじめ」を行なったし、鳥インフルエンザを出した養鶏場の老夫婦をいじめて首吊り自殺させた。いじめの加害者というレッテル貼りと管理の徹底はいじめそのものの反復となりかねない。その先には、加害者として排除された子供に自殺者が出ることになるだろう。
いじめを見て見ぬふりをする者も加害者である。
地域の人たちも(……)気づいた点を学校に知らせるなどサポートを積極的に行う。
こうした文章の「形式」が、私には溝口健二監督の『近松物語』における「社会」の構造と重なって見える。「不義密通」を「見て見ぬふりをする者も」同罪であるぞと、主人の妻・香川京子と出奔した手代・長谷川一夫の在所へ行ってその父親に役人は迫る。「地域の人たち」も「気づいた点」はお上に「積極的に知らせる」のでなければならない(そうでなければ連帯責任を問われる)。役人たちを土下座して迎えたいかにも貧しげな父親は、自分を抑圧する者(息子の主家)を彼の恩人と呼ぶ役人たちに、「反社会的な行為として絶対許されない」罪を犯した息子を庇い立てすれば村全体に累が及ぶと寄ってたかって脅され(いじめられ)て、這いつくばって許しを乞い、二人を隠した小屋の場所を告げてしまう。
『近松物語』における恋は反社会的行為であるが、その理由は、それが封建時代における恋だからでは必ずしもない。そもそも、原作の浄瑠璃では、おさんと茂兵衛は恋仲でも何でもなく、夫が下女のお玉を口説いていることを知ったおさんがお玉と寝床を替り、お玉のところに忍んできた茂兵衛を闇のなかで夫と思い込み……という、全くの誤解がもとである。だから、『大経師昔暦』を知っている者は、お玉の部屋にいた香川京子と、お玉に礼を言うために訪ねた長谷川一夫が、灯火の下で顔を合わせるのを見て驚くだろう。彼らは姦通の事実がないまま、成り行きで道行きを演じることになる。
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