おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

父子迷情

 今年四月上旬のこと。節電中のかつてない暗い渋谷で、二日続けてソクーロフの映画を見た。『ファザー、サン』の始まり、何も知らないでセリフなしで見たらゲイポルノと思うだろう。どの部分かも判然としないまま、抱き合い、揉み合っている肉体、開いてゆく口(?)――身体のどの開口部かもわからない(だいたい、映像の出る前からタイトルの後ろでハアハアいっていた)。息子が悪夢をを見て殺されそうになったところを、父に起こされ、助けられたのだと判明。父の胸にすがる息子。といっても子供じゃない。そして父……若すぎる!(エルフの父子かw)。昔見た『マザー、サン』は老母と息子の、これも周囲から隔絶した愛だったが、こちらもチラシには退役軍人の父と軍人養成学校の生徒の息子とある。誰だって、年寄りかと普通思うだろう。あと、父子の確執とかのテーマかと。だが、そんなものはまるでなし(トールキンと同じ!)

 父が二十歳の時の息子で、妻は(都合よく)早く死んでしまったそうだ(トールキン!)。学校に面会に行って、同級生に息子を呼ぶように頼んで、父親なんだとわざわざ断っている。そりゃ、彼氏にしか見えないもの。息子の彼女も面会に来るが、私よりお父さんの方が大事なんでしょうと愛想づかしされる。全く、どういう映画なんだ。父子だと言えばなんでもできるのか(神話を口実にヌードを描けたようなもの)。前の日に見た『ボヴァリー夫人』は、夫と恋人たちには別人のような美女に見えているとしか思えない、鳥ガラのような険のあるエンマで、レオンとの情事が母子相姦にしか見えなかった。夫と、そして二人の情人と、律儀に全裸のセックス・シーンが繰り返されるが、『ファザー、サン』の一場面ほどにもエロティックでなく、夫婦の朝食のポットにとまる夥しいハエのように、昆虫の生態と思って撮っているとしか思えない。

 中国語のタイトルは『父子迷情』だという。ためしに検索してみたら(中国語は読めないけれど)文の最後に「一対恋人」の文字を見つけた。さすがにそう思わない人はいまい。トールキンの『失われた道』、ソクーロフなら撮れるだろう。



トールキンと『失われた道』については、以下に書いた。
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou10-1.html
http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-9.html
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by kaoruSZ | 2011-10-04 16:06 | 批評 | Comments(0)
こういう連中の話をし出すときりもありませんが、もうひとり、御紹介しておきましょうか。“眠り男”という呼び名で……」
「眠り男? まるで『カリガリ博士』ですね。やはり夢遊病者なんですか」
                                             中井英夫『幻想博物館』


 図書館で中井英夫の本を開いたら「セザーレの夢」という短篇があり『カリガリ博士』のことが出ていたと平野智子から電話あり、創元推理文庫で「とらんぷ譚」という題だったという。「とらんぷ譚」というのは四冊でトランプのカードと同じ数になって完成する短篇集の総題、私は平凡社から出た函入りのを四冊全部持っているのだが、それなら『幻想博物館』に違いない、中井が『カリガリ博士』について書いていたことも、「セザーレ」と表記していたことも覚えていたが、エッセーの中でだったと思いちがいしていて探してもみなかった。『幻想博物館』は手の届くところに絶えず置いておきたい本ではもはやなくなっていて、だから地震でも頭の上に落ちてくることはなかったのだが、クローゼットを開けてみると、天井に近い棚の上に積み上げた本がなだれ落ちたまま、片づけが途中になっていた山の中にたやすく見つかった。ページを繰ると、入院患者について語る院長(精神病院の)と「私」の会話は上に引いたとおりで、さらに次のように続く。
                               
思わずそう聞き返したのは、とっさにあの古いドイツ映画の、黒タイツに身を固めたコンラット・ファイトの姿体を思い出したからであった。眠り男セザーレが届けられてきたときのカリガリ博士のあの喜びようはいったい何を現わしていたのだろう(強調は引用者による)

 残念ながら、この答えは書かれていないし、話も脇にそれてしまうのだが、私たちは同じ場面を次のように書いた。

これに先立つ、眠ったままの夢遊病患者として院長室に運ばれてきたチェザーレをはじめて見るシーンでの、彼の喜びようにしても、殺人のための道具を手に入れて喜んでいるのではなく(むしろ、注文した等身大フィギュアが到着したと思って頂きたい)、院長はさっそく人払いをして、さも嬉しげにチェザーレを“愛撫”している。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/kikou-13.html


問題は「セザーレの夢」ではなくて、「フランシスの夢」なのだが、それでも、「あの喜びようはいったい何を」と、ちゃんと中井にも見えていたのだった。


お知らせ
 上記「コーラ」の記事の最後に読書会の計画を載せましたが、残念ながらグーグルビデオがすでに見られなくなっているため、とりあえず延期といたします。
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by kaoruSZ | 2011-05-03 23:09 | 日々 | Comments(0)
 1987年5月号の「ユリイカ」乱歩特集号に、『目羅博士』への『砂男』からの影響を示唆する記述を見つけたが――。

このいわゆる「狂博士」は眼科医であり、彼の診察室に置かれた無数の義眼や蝋人形は、ホフマンの『砂鬼』の眼玉をくりぬく砂鬼たる晴雨計売りのコッペリウスと、彼の部屋の無数の眼鏡や、スパランツァーニ教授の自動人形を連想させる。            今泉文子「変幻する眼―乱歩とバロッキズム」

 誤りが二つ以上紛れ込んでいるのはとりあえずよしとしよう。今泉は、乱歩が「エーヴェルスの『蜘蛛』にアイディアを得て『目羅博士』を書き上げている」ことを指摘し、のちにエーヴェルスがナチの御用文学者になったことを述べて、次のように言う。

乱歩のような文学によって戸惑わされた読者の視線、煽り立てられた感情は最終的には何処へ行きつくのか。あるいはついに行きつくところなくさまよい続けるのか。ドイツ語圏ではエーヴェルスのような文学に無反省にふけっていた大衆の視線と、煽り立てられたその感情は、ある強力な指導者へと向けられていった。


 関係ないだろうが  

 さらに、このあとを以下のごとく続けるのだから……。

いや、こう言ったからといって、大衆文学、怪奇幻想文学を読むのがいけないと言うのではもちろんない。[…]乱歩に典型的に見られる「視角の変容」、「視線のズレ」は、権威主義的な硬直した秩序を密かに崩壊させる力をももちうるはずである。大衆文学こそ、直接に読者の感性に働きかけ、読者の反応を最も多く期待するものだから、いかに読むかということが、実はもっと問われていいものなのではないか。

悪いけど、あまりにも典型的で笑う。
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by kaoruSZ | 2011-04-27 21:29 | 日々 | Comments(0)

目羅博士とカリガリ博士

「Web評論誌コーラ」13号出ました。

平野智子との共著二作目「砂男、眠り男――カリガリ博士の真実」掲載。
 編集人が『カリガリ博士』(ロベルト・ヴィーネ監督、1919年製作、20年公開)のスチール写真(と呼びたい)を入れてくれた。
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 書き上げたあと起こった例の大地震で本棚から落ちてきた(作りつけなので倒れはしないが、平積みにしていた本が宙を飛んだ)文庫本を拾い上げ、江戸川乱歩の『目羅博士』(雑誌連載時のタイトルは『目羅博士の不思議な犯罪』)を久しぶりに読んで、この短篇が明らかに『カリガリ博士』と『砂男』を下敷きにしていることに気がついた(『カリガリ博士』自体、『砂男』が発想源の一つであると思われることは上の拙論で述べた)。

 もちろん乱歩は『砂男』を読んでいる。1929年に改造社から出た「世界大衆文学全集」の一冊「ポー、ホフマン集」の翻訳者ですらあるのだから(この本は、昔、神保町で見かけて買った。『探偵小説四十年』によると名義貸しらしいが)。ホフマンの作は『砂男』と『スキュデリ嬢』を収めていて、前者はオリンピアが自動人形とわかってガラスの目玉を投げつけられたナタナエルが発狂し、“癲狂病院”へ送られた後に省略がある。快癒したと信じられた主人公が塔から身を投げる部分が存在せず、クララが他の男と結婚して幸せになった結末を接続して終っているのだ(『カリガリ博士』のおもてのプロットのように、「それ以来、彼は個室[独房]で鎖に繋がれたままです」というわけか)。あらためて目を通してみたところ、コッペリウスが幼いナタナエルを人形のように扱う描写(種村季弘訳では「コッペリウスはぼくの肉体をがっきと鷲づかみにし、手足をねじ切ってそれをまたあちこちと嵌め替えるのだった」ちなみに、拙論で重要な細部として言及している)も欠けていた。探せば他にもあるだろう(この改造社のシリーズは、ハガードの『洞窟の女王』と『ソロモン王の宝窟』を一冊にしたのがうちにあったのを子供の頃発見して自分のものにしていたが、『洞窟の女王』に(『ソロモン王』の方は調べていない)かなりの省略があるのに最近になって気づいた。当時は普通の事だったのだろう)。

「ポー、ホフマン集」には『ウィリアム・ウィルスン』も入っていて、これも明らかに『目羅博士』先行作品の一つである。落ちてきた文庫本(角川文庫の「暗黒星」)の解説には、「連続自殺の着想はエーヴェルスの「蜘蛛」から借りたといわれるが」とあるのみで、エーヴェルスは未読だが、文庫クセジュの『幻想文学』(これ自体はつまらない本)を見ると、「リヒャルトは勇気のあるところを見せようとして、以前の住人たちがつぎつぎと自殺したという部屋を借り、向かいの窓に女の姿を認める。この女が次第にテレパシーの作用を彼に及ぼすようになる。彼が女の致命的な蠱惑に屈するのに、さして時間はかからなかった」と紹介されている。

 乱歩の短篇では、しかし、連続自殺のあった部屋に面した向かいあう窓に現われるのは蜘蛛女ではなく、「月の光の中でさえ、黄色く見える、しぼんだような、むしろ畸形な、いやないやな顏」である。「よく見ると、そいつは痩せ細った、小柄の、五十くらいの爺さんなのです」。「その笑い顔のいやらしかったこと、まるで相好が変って、顏じゅうが皺くちゃになって、口だけが、裂けるほど、左右に、キューッと伸びたのです」

「五十くらい」で「爺さん」なのは、三十代で中年、四十で初老の時代であるからだ(『心理試験』も読み返したが、被害者は「もう六十に近い老婆」なのであった)。チェシャ猫か、『カリガリ博士』の“眠り男”役コンラート・ファイトがのちに演じたこともある「笑う男」のように笑うこの「爺さん」は、「三菱何号館とかいう、古風な煉瓦造りの、小型の、長屋風の貸事務所」の「一軒の石段をピョイピョイと飛ぶように登って行く」のを、物語内物語の語り手に目撃される「モーニングを来た、小柄の、少々猫背の老紳士」で、「目羅眼科、目羅聊斎」という看板のある事務所に消え、そこに住む目羅博士その人であることが判明する。「むしろ畸形な、いやないやな顏」という嫌悪感を催させる外見と、猿を思わせる動作の描写は、『ジキル博士とハイド氏の奇妙な事件』のハイドを思わせ、また、カリガリ博士その人のイメージでもあろう(『ジキル博士とハイド氏』と『カリガリ博士』の関連についても上記拙論では触れた)。

 内容的には目羅博士を眼科医とする必然性はないから、これは要するに『砂男』の眼鏡売りコッポラのレミニッサンスであろう。「きれいなおめめ」を売りに来たと言ってナタナエルをギョッとさせるコッポラは大量の眼鏡を並べてみせ、「キラキラピカピカ妖しい光をはなちはじめた何十何百という眼がひきつるようにぎらぎらと輝き、それがナタナエルのほうをいっせいに見詰め」る。それをしまうと、今度は眼鏡売りは「大小さまざまの望遠鏡」を取り出す。ナタナエルは「一梃の小体な、みごとな仕上げの望遠鏡」を手に取り、窓の外にそれを向けて、室内にいるオリンピアの美しさを目のあたりにするのだが、乱歩はこの遠眼鏡を浅草十二階下に向けて傑作『押絵と旅する男』をものする一方、眼科医という設定によって、何の不自然さもなしに、「あすこの診察室の奥の部屋にはね、ガラス箱の中に、ありとあらゆる形の義眼がズラリと並べてあって、その何百というガラスの眼玉が、じっとこちらを睨んでいるのだよ。義眼もあれだけ並ぶと、実に気味のわるいものだね」という語りを引き出してくる。しかし、それに続く、「それから、眼科にあんなものがどうして必要なのか、骸骨だとか、等身大の蝋人形などが、二つも三つも、ニョキニョキと立っているのだよ」という言葉は、その場面が『カリガリ博士』の院長室からじかに由来することを証し立てていよう。あそこに立っていた骨格標本(目羅博士の部屋ではキノコのように増殖したらしい)を、乱歩も確かに見たのである。「等身大の蝋人形」とは、このあと、殺人のトリックの小道具として使われるものであるのはもちろんだが、『カリガリ博士』における夢遊病者チェザーレの替え玉人形そのものでもあろう。

「目羅博士の不思議な事件」を語る青年に、「私」は上野動物園の「サルの檻」の前で出会い、上野の森の「暗い木の下道」で「僕知っているんです。あなた江戸川さんでしょう。探偵小説の」と言われて「ギョッと」する。そして、「あなたは、小説の筋を探していらっしゃるのではありませんか。僕一つ、あなたにふさわしい筋を持っているのですが、僕自身の経験した事実談ですが、お話ししましょうか。聞いてくださいますか」という申し出に、ご飯でも食べながらと応じるが、相手は、自分の話は明るい電燈の部屋には不似合いだと言い、「ここで、ここの捨て石に腰かけて、妖術使いの月光をあびながら、巨大な鏡に映った不忍池を眺めながら、お話ししましょう」と答える。そして語り終えると、「立ち上がって、私の引き留める声も聞こえぬ風に、サッサと向こうへ歩いて行って」しまう。

私は、もやの中へ消えて行く、彼のうしろ姿を見送りながら、さんさんと降りそそぐ月光をあびて、ボンヤリと捨て石に腰かけたまま動かなかった。
 青年と出会ったことも、彼の物語も、はては青年その人さえも、彼のいわゆる「月光の妖術」が生み出した、あやしき幻ではなかったのかと、あやしみながら。


 動物園の猿の「猿真似」に発する「目羅博士の殺人」のいわゆる「トリック」は、説明してしまえば児戯に類するものであり、それを読ませるものにしているのは、「月光の妖術」ならぬ乱歩の文章の力である。それだけが「あやしき幻」を支えているのであり、「青年と出会ったことも」幻であるというなら、「私」は分身に会ったことになり、自分の中にあった物語を語ってもらったことになろう。
 昨日、『屋根裏の散歩者』(1925年)をこれも久しぶりに読み返したが、あの明智と郷田三郎は、もう、互いが互いの分身のようなものだ。退屈しきっていた郷田三郎は、明智のせいで「今までいっこうに気づかないでいた「犯罪」という事柄に、新らしい興味を覚えるようになった」のだし、明智は数々の犯罪物語を「けばけばしい極彩色の絵巻物のように、底知れぬ魅力をもって、三郎の眼前にまざまざと浮かんでくる」ように語りきかせるのだから、これはもう乱歩の小説に夢中で読みふけるようなものではないか。実際、「彼はさまざまの犯罪に関する書物を買い込んで、毎日毎日それに読み耽る」ようになり、そこには「いろいろの探偵小説なども混じっていました」。そして、できるものなら、自分もその主人公になりたいと思うが、しかし、「法律上の罪人」になるのは嫌なので、“犯罪の「まね事」”をはじめる。

「コーラ」11号掲載の「男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島」で、私は 谷崎の『秘密』の主人公について、“しかし「私」はやがて遅れて東京にやって来て本当に「探偵小説中の人物」になる、江戸川乱歩描くところのカウンターパートのように、能動的に何かをしようというのではない。剣呑な品物もそれで世界に働きかけるのではない。「私」自身の言うとおり、「犯罪を行はずに、犯罪に附随して居る美しいロマンチツクの匂ひだけを、十分に嗅いで見たかつたのである」”と書いたが、むろん、このとき念頭においていたのは『屋根裏の散歩者』の主人公である。しかし、あらためてこの小説を読んでみると、彼は浅草へ出かけて、尾行だの、暗号文を書いた紙切れだので「遊戯」を行なっては「独り楽し」み、おまけに女装して映画館に入ったりするのだから、『秘密』の語り手と何ら変わるところがないのだ(むろん乱歩の意識的な「まね事」であり、すでに影響関係が云々されているのだろう)。周知の通り、郷田三郎はその後「犯罪のまね事」の舞台としての「屋根裏」を発見して「屋根裏の散歩者」に、そしてついには「殺人者」になる。頃やよしと訪れた明智は、被害者の部屋を三郎自身に案内させ、彼と問答を交わした末、ある夜、彼の部屋の押し入れの中に、天上からさかさまにぶらさがった首として出現して、三郎を驚愕させる。

「失敬、失敬」
そういいながら、以前よく三郎自身がしたように、押入れの天上から降りてきたのは、意外にも、あの明智小五郎でした。
「驚かせてすまなかった」押入れを出た洋服姿の明智が、ニコニコしながらいうのです。「ちょっと君の真似をしてみたのだよ
[著者による強調。原文は傍点]。

『目羅博士』(1931年)の「猿真似」の主題は、ここにも通じていたのだった。しかも、このことは、明智が犯罪者の分身であることをますます明らかにしていると言えよう。思えば明智は、郷田三郎に犯罪(物語)の魅力を手ほどきし、さんざん煽っておいて、ついに実行にまで至らしめ、それを分析してみせたようなものだ。初期の明智は彼自身が限りなく犯罪者に近い。

 平野智子との共著三作目は、乱歩の『孤島の鬼』を論じたものになる予定。私の乱歩再読のせいではなく、平野さんがこの長篇小説をはじめて読んだためである。
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by kaoruSZ | 2011-04-16 20:24 | 日々 | Comments(0)
「ウェブ評論誌コーラ」12号に「“中つ国の歴史”を読みながら――重ね書きされた『シルマリリオン』」と題して書いた。http://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/suzuki-1.html 今回は準備のないままトールキンについて気楽に書いたつもりが、思ったより長くなる。
 例によってトールキン関係の記事の場所をまとめておく。

人でなしの恋――『シルマリリオン』論序説
囮としてのヘテロセクシュアル・プロット――トールキン作品の基盤をなすもの
トールキン close reading――マイグリンはイドリルを恋していたのか?



◇11月11日の鷲谷批判「『女性嫌悪のイデオロギーが公然と息を吹きかえしていた』のか?」の補足を書く予定。

◇上記エントリに対して、言及先を記さず中傷したツイートがあるので、抗議を書く予定。

◇ある方(Aさんとしよう)が自分のブログでBさんに対する批判を書き、その中で私の文章を自説の援用に使った。Bさんがコメント欄に来て意見の応酬になった。Bさんが私の文章について鈴木の真意はこうだと言っているのが納得いかない内容なので介入する予定。

半年前になってしまった「萌えとホモフォビア」の続きももちろん書く。
ちなみに、筆者は「自称腐女子」ではない

 以上、滞っている今後の予定のおぼえがきとして。



 先日、『ラストサムライ』遅まきながら池袋新文芸坐で見て、あまり面白かったので以下にメモ。
 西部劇が不可能になった時代に、それ自体西部劇の影響を受けて作られた黒澤の世界にアメリカ男を投入してみたけれど不発に終ったという作品。
 しかし、男による男のための男の夢だというところは外していない(それどころかあまりにもはっきり出ている)ところが面白い。鷲谷花氏がその辺の歴史的事実(と現状)を、(たぶんわざと)無視してアレを書いたというのもはっきりしている。

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『ラストサムライ』

 特徴その一。女が男の夢であるように、これがキリスト教徒の白人の夢であるのはあまりにも明らかだ。
 第二に、かなりできの悪い夢であること。もっとできのいい夢が過去にあったはず。

 トム・クルーズは第七騎兵隊でインディアン虐殺に加わったトラウマを抱えた男。今はアル中でかつての栄光を見世物にして生きている。それも続けられなくなったところで、近代国家になろうとしている日本で兵士を訓練する仕事が舞い込む。そしてやって来るのは、横浜港の向こうにフジヤマが見えている日本。太平洋の火山島に違いない(むろん日本だとて太平洋の火山島には違いない)。

 興行師は騎兵隊とインディアンの戦いを表わす模型を使っていたが、ヨコハマもそれと同種の作りものである。俯瞰で模型を撮った町と奇態な風俗。トム・クルーズはそんないかがわしい書き割りの世界に入ってゆく。

 むろん火山島には土人が首長を戴いており、上陸した彼は早速謁見を許される。宮城もワンカットで寄れるほど近くにある。天皇はヨーロッパの知る父権性から逸脱した少年で、細い身体を洋服に包んで輿の中に坐す両性具有的な存在だ。サミュエル・フラーの『東京暗黒街・竹の家』で、アメリカから日本に進出したギャングのボスは平安神宮みたいな赤い欄干のついた高台の家(たぶん場所は東京)に住んで、背景に富士山が描かれていたけれど(ホンモノという設定)、そこから一歩も出ない認識で、マジで撮ったのならある意味すごい。

 時代遅れの鎧を来て天皇に刃向かう連中と言われるサムライ(それが戦国時代の鎧なんだから、どんだけ時代遅れか、シナリオを書いた人間はわかっているのかな)。しかし、それこそが忠義だと信じている渡辺謙。彼は天皇の重臣として迎えられる身でありながら抵抗を続ける。
 敷かれたばかりの鉄道をサムライが襲ったという。日本の歴史においてありえない出来事。しかしむろん、私たちはこの話を知っている。アラビアのロレンス――彼もアラブ人に近代戦法を教えようとした。ただし、クルーズの場合、政府軍の教育に来て、叛乱軍に入ってしまうのだ。明治天皇は腹黒い顧問を持ったファイサル王子(遥かに純粋だが)である。ロレンスの二番煎じをオトゥールが演じた『ロード・ジム』もあったけれど、あれは本当に太平洋の島で、首長の息子が伊丹十三だった。

『東京暗黒街・竹の家』で、ギャングのボスはナンバー2を愛する男だと確か四方田犬彦が書いていた。新しく現われたロバート・スタックとの間に生じた三角関係。潜入捜査官とは知らずに、ナンバー2を裏切者と思い込まされて殺す愛憎劇に被占領地の女が彩りに使われていた。

 吉野山中と称して大木の間に背の低いパーム・ツリーが配されたみるからに嘘っぽい空間に、光を透かす霧に包まれた黒いシルエットの幻めいて出現する騎馬のサムライはどこから来たのか。むろん、映画的記憶からである。渡辺謙はトム・クルーズのめざましい働きを認めて、生け捕りにした彼を山あいの村に運ぶ。いよいよ日本ではない、アラブの叛乱だ、いや、チベットの山峡だ。ついに見出されたシャングリラ。失われた隠れ里。二度と辿りつけない桃源郷(本当はニュージーランドだそう)。単純で神を知らないにもかかわらず敬虔に日々の務めに励む人々の、時の腐蝕を(そして近代化を)奇蹟的にまぬかれたユートピア。東京に戻ってからだが、写真を撮る同国人が現われるところもロレンスを意識しているのでは(実際のロレンスをフィルムに収めたロウエル・トマスは、戦後、冒頭の興行師のようなことをしていた)。勝元率いるサムライの帰還を村人はみな頭を下げて迎える。『七人の侍』の見過ぎである。

 百姓を守るサムライなどというものは存在しない。渡辺謙は要するに地元の名士で土地の「王」なのだ(字幕で真田にmy lordと呼ばれている)。般若心経を坊さまが唱える寺(山寺などではなくやたらと立派)の当主であり、彼自身が領主であるかのようだ。脚本家が当時の日本の社会形態のことなど何も知らないのは確実だが、それはどうでもよろしい。これは白人男の夢なのだから。

 傷ついた半裸のクルーズは、渡辺謙の妹、小雪の手当てを受ける(普通は男が好敵手の手当てをするのが定番だが、妹にさせている。女を通じて義兄弟になるのも定番)。この映画、クルーズがやたらと裸を見せる。ちっともエロティックでないけれど、これも西部劇の定番だろう。そう、これは西部劇なのだ。黒澤明の歪んだこだまをまじえた、マニエリスティックな。

 エレイン・ショウォールターは十九世紀末の「男性冒険小説」には、「ヴィクトリア時代のモラルから自由になることのできる、どこか神話的な場所に行ってしまいたいという男たちの憧れが実にさまざまなかたちで表現されている」と言っている。行き先がどこかはいうまでもない。 

 女を通訳にするというのが、一番ありふれた設定だろう。皇国のプロパガンダ映画では李香蘭として台湾人(華人ではなく、日本が高砂族と名づけた少数民族)の少女を演じ、同胞に日本語のみを喋るよう促していた優等生の彼女が、“まだ戦後だった”日本ではシャーリー・ヤマグチと名乗ってアメリカ人との橋渡しをしていた。バルテュスの奥さんが京都で通訳をした女子学生上がりなのは知っていたが、最近、ジョー・プライスの奥さんも彼が若冲を買いに来たときの通訳と知った。しかし、バルテュスの胴長で幼い顏のデッサンや、プライス夫人の若き日の写真を見れば明らかだが、小雪では彼らを魅了しなかったに違いない。ミスキャストの印象はそのあたりから来よう。その小雪(山家の後家)が英語を喋るのにはいくら何でも無理があると思えるからだろう、ここでは渡辺謙が巧すぎる英語を喋る(怪演)。栗林中将じゃあるまいし留学したはずはないんだが。しかしこれがクルーズの“夢の中”だとすれば不思議はあるまい()。

 傷ついて夢うつつのクルーズは、スライドする板戸越しに小雪たちの生活をかいま見る。彼女には息子が二人いる。主を失った赤い鎧が(捕えられる前、彼にとどめを刺そうとして逆に殺された男の着ていたもの)目立つ場所に据えられており、それは小雪の夫だった「ヒロタロウ」のものだ。天皇への忠心に生き、西洋化の波が押し寄せる時代に古い生活様式を守って生きる勝元は、“高貴な野蛮人”である。アメリカ先住民を悪玉とする西部劇はもはや成り立たず、彼らは被害者であり“高貴な野蛮人”として表象することさえ不可能な時代なので(オルグレンが実際に生きている時代にとってはアナクロニックだが)、クルーズは太平洋を渡るしかなかった。滅び去って今は亡い美しい日本であれば、どこからも文句は出まい。そこでは、殺した男の妻に、「Sorry …ごめんなさい…for your husband …ヒロタロウ」と片言を並べるだけで相手は許してくれる。夢の中だから当然だ。

 本当なら、勝元との同性愛的絆(ロレンスのオマー・シャリフに相当)と、妹を通じた兄弟の契り(ロレンスではこれはありえなかった)に力を入れるべきだったろう。クルーズの存在感の薄さは、彼がスターであることを考えれば異例だが、同一化を観客にうながす視点人物(ポルノの主演男優)と考えればこれでいいのかもしれない。渡辺謙は一番面白いけれど借り物の印象。武勇の腕だけの真田広之も借り物だ。全体に、ちぐはぐなのだ。

 主人公の絆は”ラスト・サムライ”謙とのものだが、どうも中途半端。温泉に入るクルーズ、また裸を見せる。髪を洗う小雪は「もう終りですから」と、片袖脱いだ後ろ姿だけ。西部劇に入浴シーン(男の)はつきもの。『竹の家』ではナンバー2がクラシックな木の浴槽で入浴中にボスに殺される。ロレンスの白いアラブ服とヘッドドレスに相当するクルーズのコスプレは、小雪の夫の赤い鎧を彼女の手で着せられるというかたちで(その前段階としてクルーズの帯を解く小雪の手のアップ)起こる。傷の手当てと同じようにされるがままで、偶然のように唇が触れ合うがそれだけなのは、そのまま最後の戦いに出陣してゆくからではない。これが童貞の夢だからだ。

 むろん、渡辺謙の死後、隠れ里へトム・クルーズが戻るという結末は必然であったろう。しかし、肝心なところで気が抜けているこの映画をどうにかするには、そのあとに夢から覚めるシーンを付して枠物語にするしかなかったのでは。『竹の家』の当時のニッポンはアメリカ人の関心の対象ではなかったが、今は違う(以下は捏造なので注意)。棚の上から落ちてきたおもちゃの日本刀が頭に当たって目覚めるクルーズ。ビデオやDVDのケース、あるいは壁に貼られたポスターのイメージとして渡辺謙や真田広之が彼を見下ろす(『カリガリ博士』の登場人物(のモデル)を主人公が精神病院の庭に見出す場面に相当しよう)。クルーズ自身は牛乳瓶の底のようなメガネのオタク青年。脚本家(志望?)の彼は、オリエントが白人の夢の中にしかないことを知りつくしていて、知識と資料をかきあつめて『ラストサムライ』のシナリオを書きはじめる(しかし、枠物語の部分は同性愛的部分とともにプロデューサーに削除されてしまう)。

ここと、最後の“オタク青年の目覚め”については平野智子の示唆による(そんなレンズを作るメガネ屋、いまどき無いと思うが)。
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by kaoruSZ | 2010-12-23 02:25 | 日々 | Comments(0)
 先週から新文芸坐の加藤泰特集に通ううち、加藤泰について書かれたものを読みたくてたまらなくなり、夜中に本棚を漁るが見つからない。代りに「シネティック」創刊号(1993)というものが出てきて、未読だった松浦寿輝の「横臥と権力 溝口健二「祇園囃子」論」を読んだ。

 加藤のフィルムでもワイド・スクリーンの手前に横たわる人物(たいていは死にかけている)は目立つし、修善寺の大患の漱石に似て一言も喋らず指一本動かさぬままその傍に人々を引き寄せもするのだが、松浦の論考は横臥一般とは直接の関係があるわけではなく、あくまで『祇園囃子』というフィルムの中では人物の目に見える上下関係が顛倒しており、横たわって下位にある人物が権力を持つというのが趣旨だ。その分析は例によって見事なのだが、それとは別に思ったことがあるので記しておく。

『祇園囃子』では旦那を持たない芸者の小暮実千代が少女若尾文子を引き受けて舞妓としてデビューさせるが、言い寄った客・河津清三郎の舌に若尾が噛みついてしまい、二人は祇園のお座敷を乾されることになる。この事態から脱出するため、小暮は嫌っている客と寝る羽目になるのだが、その翌朝、住まいに帰ってきた小暮は若尾にこう言う。
「今日からあんたの旦那はあたしや」
 この科白は昨年はじめて『祇園囃子』を見たとき、目のさめるようなものと私には思えたのだが、これを松浦は次のように言う。

小暮が若尾を抱き起こしながら言う「今日からあんたの旦那はあたしや」というセリフには、決定的な救済の不可能を暗示する微かに陰惨な調子が滲んでいるように思う。

 さらに松浦はこう続ける。

むろん小暮は若尾に対して専横な権力を振るうつもりはなく、若尾が自由な意志で生きてゆくことを助けるべく庇護者になってやると申し出ているだけなのだが、それにしても、そのことを言うために「旦那になる」という譬喩が口をついて出るところに、祇園で舞妓を続けるかぎりは多かれ少なかれ権力の空間にしがらみになって生きていかざるをえないこの女の、存在論的悲哀が滲み出しているとも見える。

 たしかに、そう「見える」のだろう。これはたとえば、ブッチとフェムなどという役割分担をするレズビアンは異性愛をなぞっているにすぎないと主張することと似ているかもしれない。「女の旦那に女がなる」ことへのシニカルなこのまなざしは、それを向ける者が、その言葉であらわされるものを現実的なものとも希望とも受け取っていないことがたんに露呈しているとも思える。

ここでは権力の観念がなお希薄に温存されながら、しかし単に第三者による権力の直接行使から解放されているというだけのことなのではないのか。そこには、主人と奴隷、君臨する者と仕える者との差異と対立関係が、依然として生き延びていると言うべきではないのか。ラストで夕暮れの京の町を並んで歩いてゆく二人の、毅然とした晴れやかな表情に漲っている自由と独立独歩の印象は、あくまで仮初のものにすぎないのではないのか。

 たしかにそれはつかのまの、刻々に色を失う夕べの空にも似たかりそめのものにすぎなかろう。「『祇園囃子』とはこれを要するに、或る男との性交を誰も彼もが小暮実千代に迫り、彼女がついに屈服するまでの物語である」(松浦)とさえまとめられうる作品にあって、若尾文子の貞操を結果としては守った小暮が「今日からあんたの旦那はあたしや」と宣言したところで、若尾が「祇園で舞妓を続けるかぎりは」遠からず本物の旦那を持たなければならないことは必定であり、小暮自身、“屈服”して戻ってきたばかりなのだから、これがかりそめの、つかのまの勝利でしかないことはあまりにも明らかなのだ。

 それでも、いや、それだからこそ、その「毅然とした晴れやかな表情」は私たちの胸を打つとも言える。それはけっして負け惜しみなどではない。「夕暮れの京の町を歩いてゆく二人」はけっして〈外部〉に出られたわけではないと松浦は言う。小暮の口から出る「旦那」の一語にしても、まさに権力関係に汚染された〈内部〉の言葉そのものだろう。

 だが、それ以外のいかなる言葉が小暮に可能だったというのか?

「今日からあんたの旦那はあたしや」――小暮の科白は、同じフレーズが男の口から、たとえば「今日からおまえの旦那はオレや」と言われたときとは決定的に違う。それは単純に、女は男と同じ立場にはけっして立てないからだ。だからこそ、小暮の「今日からあんたの旦那はあたしや」には意外性があったのだし、そこにはまた、いかに微かなものであろうと、「旦那」という語の意味そのものがズラされてゆく可能性があったのだ。

 女が女に権力をふるうのに「旦那」である必要はない。料亭の女将浪速千栄子は、小暮を金で縛り、祇園のお座敷から彼女と若尾を閉め出して「或る男」との性交を彼女に強いる一人に他ならない。何とも憎憎しい演技のこの祇園の権力者を小暮は「おかあはん」と呼んでいるのだが、この、擬似母娘的権力関係をも、「旦那」の一語の意外性は超えてゆくだろう。「決定的な救済」にも、また〈外部〉にも至らずとも、それは「今日から」可能なのだ。

 女同士の権力関係は、舞妓にしてくれと頼みに来た若尾と小暮とのあいだにも明らかに見てとれる。「少女の性的魅力を半ば男の眼で品定めする小暮実千代のまなざし」と、若尾を立たせて座った姿勢でそれを見上げる小暮の「下から上へ」のまなざし、「そこに権力関係が成立する」と松浦は言う。

 だが、たとえばレズビアンとは、「半ば男の眼で」女を見る女のことであろうか、と問うことができよう。初めてのお座敷から戻って畳に横たわるポジションを取ったきかん気の若尾と立ったまま(この作品にあっては下位のしるしということになる)の小暮という配置ののち、本来の小暮上位と若尾下位のシーンという逆転した反復が行われることについて、「横たわる姿勢の律義な反復」はあたかも「物語を統御する非人称的な意志そのもの」のように行なわれていると松浦はそっけなく言うのだが、 「目上と目下の権威の関係はむしろ姉と妹のような親密で情緒的な血縁意識へと転じており」と松浦自身も認める二人の関係におけるこの反復は、女同士の関係が相互的、互恵的なものであり、木暮を手に入れようとする男のように、やってきた小暮に対して横臥したまま、自らの足袋を脱がさせるというような一方的な権力者のふるまいではありえないことを示しているのではないか。
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by kaoruSZ | 2008-10-30 22:27 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)

子供たちの時間

 十月初めにかけて、池袋新文芸坐でまたも日替り成瀬特集。28本のうち結局12本見る。(ただし『石中~』は嫌いなのでほとんど睡眠にあてる。)


9/24日(水) 石中先生行状記(1950) 夫婦(1953)

26日(金) 妻の心(1956) あらくれ(1957)

27日(土) 流れる(1956) 乱れる(1964)

28日(日) 晩菊(1954) 女が階段を上る時(1960)

10/1(水) 女の座(1962) 女の歴史(1963)

3日(金) 秋立ちぬ(1960) 乱れ雲(1967)


「カルチャー・レヴュー」に書いた分で間違いいくつか見つける。『あらくれ』の舞台は明治でなく大正。「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら](3)――終りへ向かって」で、 

この直後、室内で司が加山に向かって口を開くまで、階段の上と下の場面以降、私たちが耳にした科白といえば、事故現場を見たときの運転手の声と、「あなた、しっかりして」と叫ぶ女の声だけで、実にここまでのあいだ、主演の二人には一言も科白がありません

と書いたが、実際は旅館の玄関で部屋があいているかと問う加山の声があったのだった(二人は一言もことばを交わさぬ、ならよし)。運転手の科白、「事故だな」ではなく「やっちまったな」だった(たしか)。

 次回の「新・映画館の日々」(@『コーラ』)は、「カルチャー・レヴュー」で書き継いだ「成瀬巳喜男の日々の砕片[かけら」」を一応締めて最終回にしようか。だったら副題は「子供の時間」か。

 久しぶりに『女の座』。これも同じ高峰秀子主演の『乱れる』同様、個人商店にかげりが見えはじめた時代の話だとあらためて気づく。道路計画を聞きつけて、土地を売って入る金の分け前を嫁に行った娘たちまでがねらっているのは、『乱れる』の高峰の義妹が店をスーパーにして自分の夫を経営に参加させようとするのと同じ構図。どちらの作品でも、長男の寡婦として家のために尽してきた高峰には、これ以上縛りつけていては気の毒と恩着せがましく再婚が奨められる。

 核家族以前のこれらの家の中で、「嫁」は後継ぎとの関係でのみ安定した「座」を得ていた。『乱れる』では、高峰が嫁いできたとき次男の加山雄三はわずか八歳、夫の戦死後、一人で店を守って戦中戦後を生きた彼女は結局のところ義弟の成長までの中継ぎとしか見なされていなかったのだし、『女の座』の高峰もまた、一人息子の死によって「家」との最も強い(そして唯一の)紐帯を失うことになる。後者の場合は、笠智衆の舅は実の子供たちの狂奔をよそに、後妻の杉村春子とともに高峰を連れ出し、土地と店を売ってこういう小さな家に三人で住むのもよかろうと道端の一戸建てを指し示す。お嫁に行くとしてもその時はわしらの娘として、と。

『女の歴史』では、男(夫、子)が女たちを結びつける(だから男の子しか生まれない)。賀原夏子が言うように、彼女の孫である高峰秀子の息子が不慮の事故で死ぬと、彼女たちは再び「赤の他人」に戻る(この家でお義姉さんだけが他人とは、『女の座』の高峰にも向けられた言葉だった)。この作品では、しかしこのとき、死んだ息子と同棲していた(彼が入籍もして「くれて」いたという)星由里子があらわれて産んだ男の子が再び三人の女を結びつける。

『秋立ちぬ』の子供たちはこうした法則を知らないから、好きな相手でさえあれば家族になれると思っている。父に死なれ、信州から母とともに上京して八百屋をいとなむ伯父のもとに身を寄せた少年は、母が住み込みで働く旅館の娘と仲良くなる。母親、乙羽信子が客の加藤大介と駆け落ちしてしまったとき、少女は彼を自分の家の子として迎え入れたいという当然の望みを持ち、少年に対しても母に頼んであげると請け合う。母に一蹴されても彼女はあきらめない。父が承知すれば母の反対は問題ではないと思い、父が彼女の望みを拒むはずはないと信じている。

 裕福なお嬢様に見えた少女だが、実は旅館は、大阪の「本宅」から会いにくる父が、妾である母にやらせているものだ。だから、父親に望みを叶える力があると見るのは正しいのだが、「赤の他人」の男の子を兄にと望むのがどれほど突拍子もないことか彼女は知らない。大阪の兄と姉の彼女に向ける目は冷たく、父親は彼女の願望を理解すらできない。馬鹿げたお願いで父をわずらわさないよう、彼女は母に叱責される。そのとき母は、金にならない旅館を手放して二人を郊外の共同住宅へ移すという一方的な計画を告げられているところだったのだ。

 デパートで夏休みの宿題の昆虫標本を買おうとした少女を止めて、少年は自分の宝物である生きたカブトムシを貸すことを申し出るが、その直後カブトムシが逃げてしまったと知る。代りの虫を見つけるのが夏の終りまでの少年の課題になる。それは流通する交換可能な商品ではない、絶対的な贈り物になるはずだった。八百屋の店で働く従兄と最初に行った先では見つからず、休みの日に郊外へ連れてゆくというその約束の日、バイクで現われた仲間に誘われて、従兄は彼を置いて走り去ってしまった。

 オートバイとともに希望の遠ざかりゆくまさに絶対絶命のこの時、奇蹟のように(というか、ほとんど冗談のように)彼の希望はかなえられる。信州の祖母から送られてきたりんごの箱を伯父があけると、そこにカブトムシが一匹紛れ込んでいたのだ。食い切れないだろうから少し店に出さないかと言う伯父にはりんごもまた商品なのだが、少年にはカブトムシしか目に入らない。彼はさっそく少女の家である旅館に向かう。しかし、旅館の外には引っ越し荷物を満載したトラックが横づけされており、家の中はは空っぽになっている。少女だけでなくその場所自体が、消え去ろうとしているのだ。カブトムシの先に実はあった目的の消失。少女の両親の会話から観客には何が起こったかがわかる。しかし、少年には物語も大人たちの都合も見通せる場所にはいないからこれは限りなく理不尽な出来事だ。

 彼はデパートの屋上に上る。そこは以前少女と遠い海を見たところだ。青く見えない、しかし近くへ行けば青いと少女が請け合う海を見るべく、彼らはタクシーで(旅館の娘である彼女は運転手につけがきく)勝鬨橋を渡って晴海へ向かった。「遠い場所」は着いてみれば黄色っぽい水の打ち寄せる埋め立て地で、夜を迎えた彼らは家に戻るしかない(そして少年は足を怪我し、二人は警察に送られて戻ってくる。この怪我のため、カブトムシを持って少女のもとへ急ぐ少年は足を引きずっている)。屋上の少年はもはやどこへも行けず、少女の行方を知るすべもない。

 カブトムシを渡すべく少女のもとへ向かう少年の姿は、『まごころ』(1939)の少女・富子が、やはり幕切れ近く、人形を抱えてもう一人の少女・信子のもとを尋ねようとしたとき、足を引きずっていたのと重なる。しかし、彼女たちの人形はカブトムシのようにその向うに真の対象である相手を有する囮ではない。『まごころ』の人形については二年前に考察しているが、http://kaorusz.exblog.jp/m2005-10-01/ そこでも述べたように、「あなたでもわたしでもない子供」、「半分わたしに似て半分あなたに似た子供」、つまりはあたかも彼女たち二人のあいだに生まれたかのような女の子であるからだ。彼女たちの考える家族とその起原は、大人たちの考えるそれとは大いに違う。二人の知識は、父と母ははじめから家にいるものではなく別々の家にいた者が家族となる(『秋立ちぬ』の少年少女は兄妹にもこれが可能だと思っていた)、お父さんは誰かの娘でお母さんは誰かの娘だったのが一つの家に住むようになる、とまではわかっているのだが、「お母さんはお祖母さんの娘だったし今も娘で、だから一緒に住んでいる」という富子の科白は、「女の座」が問題となることのない、家父長的家族ではない彼女自身の家族のことを指している。無論それは規範からは外れるので、富子の母に嫉妬した信子の母(彼女の夫と富子の母はかつて恋仲だった)が言うように彼女は父のいない子である。彼女たちが母親として可愛がるのではない、人形遊びをするにはいささか大き過ぎる彼女たちによって抱えられ、二人のあいだでやりとりされる彼女たちの分身である大き過ぎる人形は、男女のではなく彼女たち自身の絆の実体化に他ならないのだ。
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by kaoruSZ | 2008-10-10 18:38 | ナルセな日々 | Comments(0)

まとめて映画館の日々

5/11(日)『狩人の夜』(シネマヴェーラ渋谷)
 昔、三百人劇場で見た作品が並ぶケイブルホーグ特集。この映画は傑作と聞きつつ未見のままであった。11時から一回だけの上映。前夜飲んでいて(私はビール一杯だが)最終の一本前で帰ったあくる朝であり、必死に急いで五分遅れる。「お立見になりますがよろしいですか」そんな科白久しぶりに聞いた。期限切れの会員証更新してもらいながら、「ずいぶん混んでるんですね」と言うと「ええ、きょうは」という返事。階段に座れたら使うようにと小布団を渡される。ドアから滑り込んだその場所から動きようがないので(その場に坐り込むといやに座高の高い人の蔭になりそうで)、足元に布団を落して手提げだけ置き、レインコートと傘を抱えて立ち見。スクリーンには縞の囚人服の二人。ロバート・ミッチャムをすぐに認めるが、もう一人がピーター・グレイヴズだったとは!(帰宅後知る。)

 これは最前列の席で、視界いっぱいに広がる絵本のような作り物の星空を見上げつつ、その下を舟で行く子供たちの恐怖を味わいながら見るべき映画だ。馬にまたがった殺人鬼に追われる男の子が「あいつ眠らないんだろうか」と呟くけれど、あの旅自体、何日続いたものか観客にもわからない。その先にリリアン・ギッシュが待っているとこっちはあらかじめ知っているからまだいいけど……。二十五日にもう一回やるのだけれど残念ながら行けない。

4/20(日)『妻は告白する』『大悪党』
4/21(月)『白い巨塔』
4/27(日)『「女の小箱」より 夫が見た』『猟人日記』
5/3(土)『眼の壁』『ゼロの焦点』
5/7(水)『影なき声』『黄色い風土』

 以上は新文芸坐「日本推理サスペンス映画大全」にて。『妻は告白する』初見。傑作。別に書くかもしれない。帰宅後ウェブで調べると、公開当時の、女は作られるんじゃない、生まれつき女なのだ、若尾文子を見るとそれがわかるという作家の言葉が引用されていた。デビューボ流行ってたんだ! 一方、増村保造監督自身の、女性を描きたかったんじゃない、人間を描きたかった。男は社会的に愛にのみ生きられないから女を使うんだ(女の表象をということだ)という何とも意識的な言葉あり。溝口の『近松物語』で、陶酔しきった香川京子に対して長谷川一夫が迷いを残すのも同じ。

『大悪党』は二度目で、のんびり楽しむ。同じ列に映画に詳しいらしい男の二人連れ(あまり若くない)がいて、始まる前一人が裏話的なことを解説、上映終了時もう一人が拍手。退席しようとしながら、いかにも昂奮さめやらぬ様子で「うまくやりましたよねえ」とか何とか(映画の登場人物について)話しかけるのを、通路側の席の客、「映画だから」と笑顔でいなす。

『白い巨塔』主人公の死で終るのかとばかり思っていたら、最後まで財前元気いっぱい、この時は原作もまだ連載中で死んでいなかった由。『夫が見た』については以前書いたことがあるが、http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re47.html
思えば田宮二郎も、ここでは、『妻は告白する』の若尾文子同様、十年間積み重ねてきた努力(悪業だけど)さえも投げうって、ただ愛のために生きる存在(=女)になってしまっていたわけだ(斎藤綾子の書いている出産ポーズだけでなく)。だからストーリー的には不自然と感じられるのだし、彼のために身を捧げてきた岸田今日子が怒るのも当然だ。『妻は告白する』の若尾文子に対象としての女の恐しさばかり見ている者は「女」にはなれない。

『猟人日記』米国籍だとか二世だとか称して結婚詐欺を働いた男が逮捕されたというニュース、比較的近年に新聞記事で読んだ覚えがあるのだが、あれは人生が藝術を模倣したのか。仲谷昇なら、外国人風のアクセント(しかし平板で全然それっぽくない)で偽装しなくたって、素でいくらでも女の子引っかかるだろうに。それを大真面でやるから、どのレヴェルで反応してよいやらこっちが途惑う。一瞬目をそむけたくなったとしても、何度も出てくるのでよく見ればゴム製のカエルみたいに手動で空気を送っているとしか思えないアレにしても。

 銀巴里で歌う若き日の美輪明宏とか、昔の東京都美術館の正面(一瞬だけど)とか映る。たまたま、これを見る数日前、母の古い編物の本を開いて、グラビアページに、色違いの編み込みセーターを着て手をつなぐ仲谷と岸田今日子を見たところだった。帰宅して調べて出演者の中に中尾彬の名を見つける。どこに出ていたのか? どう考えてもあそこしかない。やっぱりあそこだろう。知らなかったら絶対わからない。

『眼の壁』寝不足のため途中で眠ってしまい、目をさましたときは終盤で、ホラーになっていた。手形詐欺をやったのが渡辺文雄だとは気がつかなかった(若過ぎて)。

『ゼロの焦点』失踪した新婚間もない夫を捜して金沢へ行く久我美子の乗る列車の窓にまず雪が見えてきて、次に海沿いを走る列車を縦に、外の低い位置からとらえるキャメラが素晴しい。「社命ですから」と彼女に行き届いた態度で接するにこやかな夫の同僚が穂積隆信とは(またしても)若過ぎてわからなかった。有馬稲子の愛らしさに驚く。

『影なき声』南田洋子は昔のグラビアで見ているので若さには驚かないが、ここまで若い二谷英明を見たのははじめて。わけのわからない映画を作る、とは言われなかった頃の鈴木清順の作だが、無駄なショットが一つもない。手堅くストーリーも語ってはいるんだけど、それだけではなく、スクリーンに映っているものすべてに納得できるのだ。ワイドスクリーンをキャメラは好んで横移動し、肝心なところでは縦の構図でキメる。被害者のズボンの裾に石炭の粉が入っていたという話から、殺害現場が「田端の貯炭場」と判明し、田端で蒸気機関車が煙を噴き上げているという展開は予想がつかなかった。そうか、あのあたりで石炭を積み込んだりしていたのか。中野刑務所とおぼしき塀が一瞬映る。被疑者の一人が味噌・醤油店の主人で、味噌樽が床に並び、醤油の壜が壁を覆う店内が映り、今はこういう店はなくなったと思った人も多かろうが、この翌日私はそういう店でお味噌を買っていたのだった(おかみさんが最初出てきたのに、あとから主人が私を見つけて「**さんのお嬢さん」と紹介したものだから、二人から(また)うちの親の思い出話をされる)。味噌、今度値上がりするそうだ。

『黄色い風土』チラシには東映としかなかったが、冒頭、ニュー東映という文字とともに、おなじみ三角マークではあるが波が打ち寄せるんじゃなくて火山が爆発するオープニングが出たので(あとで調べたが、長続きしなかったらしい)、ラドンが飛び出しても驚かない気分に。『影なき声』の横移動がよかったので、やはりワイドスクリーンのこれはどうかなと思いつつ見ていたが、横移動もするけれど、低い位置から仰角で撮るのと、顔のアップが目立つ。のほほんとした鶴田浩二。上司の丹波哲郎が無駄にカッコいい。

 若い佐久間良子も楽しみだったのだが、お人形さんであった(そういう役)。ずーっと科白のないまま、いつもパーティに行くような恰好で要所要所に現われる謎の女。冒頭、東京駅から出る、「新婚列車と言われている」列車に鶴田浩二が乗り込むが、うっかり新幹線かと思ってしまった。着いた先は熱海(そうか、そういう時代だったんだ。私の両親も熱海へ行ったという。お金がなくて日帰りで)。佐久間良子がなんで鶴田に惚れ込んだのかわからない。途中寝てしまったのでそのあいだに何かあったのかもしれないがたぶんそういうことはあるまい。彼女の兄が〝ラスボス〟として自衛隊の演習場で鶴田と対決するあたりになるともう何の映画かわからない。いつものカッコでふらふらと兄を気づかう佐久間が走ってくるあたりでは笑いたくなる。砲撃の中、兄は手首を吹っ飛ばされ、妹は倒れ伏して鶴田に抱き上げられ、外傷はないようだけど死んだのかも知れず、そのまま二人の世界で終ってしまうのでやっぱり何の映画かわからない。ラドンが出てきても驚かなかったと思う。

 昨十一日はシネマヴェーラで『恐怖省』と『真珠湾攻撃』も見た。これは次回に。
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by kaoruSZ | 2008-05-12 11:01 | 日々 | Comments(0)
 甥の中学入試、受けたところ全部受かって終り、今日、お祝いということで夕飯に呼ばれる。夏休みにフィルムセンターの催し「子供映画館」に行かないかと誘うと行くという。弟の奥さんの里帰りとぶつかるのではと思っていたが、春休みに行ってくるそうなので……。フィルムセンターのサイトよく見ると空きがあれば高校生でも入れてくれるようだ。姪は高校生なのだが、そうなるとうまく行けば二人連れて行けるかも。大人は付き添いとしてしか入れない。せっかく子供がいるので、前から一度行きたいと思っていた。

 姪が中学に入った時はお祝いに万年筆を買ってやった。いまどき万年筆かとみんなに言われたが、これは(伯母の趣味ではなく)本人の希望。甥に希望を聞くと自分も万年筆がいいと言う。喜んで買ってあげるよ!

 フィルムセンターのマキノ雅弘特集、昨日からようやく行きはじめる。
『弥太郎傘』(1959)と『鞍馬天狗』(1960)。 前者は中村錦之助主演、後者は東千代之介主演で「愛情関係にある」(解説より)芸妓が美空ひばり。

 美空ひばりが髷にたくさん刺している赤い玉かんざしが、『鋼鉄三国志』の諸葛瑾のそれとそっくり! 偶然とは思えないほど。(『鋼鉄三国志』とマキノの『鞍馬天狗』両方見ている人っています?)

「鞍馬天狗」の映画、きちんと見たのははじめてだと思う。白馬でやってきて拳銃をバンバンと撃つ。こういうものだったのね……。 ちなみに、初カラーの鞍馬天狗だとか(それでかんざしの色もわかった)。
 鞍馬天狗は「おじさん」である。「天狗のおじさん!」と杉作。
 月光仮面も「おじさん」だった。「♪月光仮面のおじさんは~」

 いったい幾つくらいかというと、鞍馬天狗の正体倉田のおじさんは二十五歳である(長屋のおかみさんたちがそう言っている)。それにしちゃふけてるが(調べたら東千代之介は三十過ぎ)。ともかく設定上は二十五だ。人の親になる年齢になればおじさん、おばさんと呼ばれるのが普通だったし、本人たちもそれであわてたりはしなかったのだ。

 対する新撰組もおじさんばかりで笑える(NHKの新撰組を思い返すと)。某都議が、新撰組の史跡を尋ねる若い女性の姿が目立つというのを喜んで、男らしい男の群れ、新選組は、多くの日本女性を魅了している、ジェンダーフリーの男らしくない新撰組なんてありえないとバカを言っていたが、その「男らしい」新撰組とはこういう「おじさん」ぞろいのことだろう。 そんな萌えないもの、若い女が跡を尋ねるわけがない。勤皇の志士の「おじさん」をつかまえて拷問にかけたって全然見せ場にならない。

「愛情関係にある」芸妓……。確かにその通りだった。「情婦」ではありえない。境内で忍び会うだけだもの。(処女の芸妓かしらん。)

 ひばり、演技うまい。マキノを感嘆させたというのも頷ける。しかし色気はない(生涯なかったと思う)。

 杉作はじめ少年たちの出自はベイカー・ストリート・イレギュラーズか。少年探偵団はもちろんそうだが、「ナショナル・キッド」もそうだったな。「おじさん」がいて「子供たち」がいたんだよね、昔は。女子供を助ける父性的ヒーロー。ヒーローは父、すなわち「おじさん」だった。「戦隊もの」とは父なき世界に子供たちだけが残ったのか。『鋼鉄三国志』にも父はいなかった。
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by kaoruSZ | 2008-02-15 00:10 | 日々 | Comments(0)

溝口特集メモ

・『浪華悲歌』と『祇園の姉妹』
映画は30年代で完成されてしまっていたのだとあらためて思う。
・『祇園囃子』と『赤線地帯』
その完成度をそのまま維持してさらに輝く二十年後の溝口。
だが、このあいだに『雨月物語』とか『西鶴一代女』とかあまりぴんと来なかった作品があるわけで、そういうのを先に見てしまったために長いこと溝口の良さがわからなかったようだ。
『赤線地帯』は、火事になる前のフィルムセンターで見たことがあったはずだが、見事に何も覚えていなかった。ラストの、新米娼婦が客を引く場面さえ記憶とは違っていた。ただ一つ、京マチ子が実の父親に向かって「極道の仕上げをするか」という科白にだけ、記憶にかすかに引っかかるものがあった。

『浪華悲歌』、山田五十鈴を囲おうとする社長が「いいアパートがあるんだ」と誘って、実現してしまうその「アパート」の立派さに驚く。
『祇園の姉妹』、最後の山田五十鈴の科白(なんで芸妓なんてものあるんや、のうなってしまえばいい云々)がプロパガンダ的だといわれるらしいが……時を隔ててみれば、それは単にリアルとしか、単に実感を述べているようにしか聞こえない。
『赤線地帯』で三益愛子の演じる、田舎の舅、姑に息子を育ててもらっている年増の娼婦(このような母もやっていたのだ!)が帰郷すると、そこは草ぼうぼうの中にバスの停留所の標識が一本立っているだけの田舎で、バスの時間に間があるのでそばの店に入るとそこではおかみさんが赤ん坊を寝かしていて、三益は上がり込んでうどんを注文する。死んだ夫の家では姑が暗い土間に座り込んでおり、奥で舅が寝ている(彼らの生活は三益の仕送りで支えられている)。息子が上京したことを聞かされ、彼から来たという葉書を探しに奥へ入って引き出しを探ると、傍で寝たきりの爺様がうめき声を上げる。すべてがこれ以外ではありえなかったと思わせるリアリズムがすごい。

『新・平家物語』大川橋蔵の眉毛と木暮実千代の胸もと。大量エキストラ。冒頭の大群衆の絵巻物が動き出したような何とも言えないキャメラの動き(あとで知ったのだが、ゴダールやトリュフォーが本当にワンショットなのかと映写室へ飛び込んでフィルムを調べたというのがこれだった)。
『楊貴妃』最初の方、眠ってしまった(たんに眠くて)。森雅之が玄宗を、京マチ子が楊貴妃をやっているという印象しか残らず。あとで安禄山が山村聡だったと知って驚くが、『武蔵野夫人』の山村聡のいつもと違う雰囲気を見て、安録山もそんな感じでやっていたのだと納得。
『武蔵野夫人』、勉がミスキャスト。道子(田中絹代)もだろう。中庭があって開口部が多く完全に仕切られていない日本家屋の中でのキャメラの動き(『噂の女』も)。野川の流れに漬かった草が髪のようにうねるショット、ジャン・ルノワールのよう。もっともルノワールなら、それを写しているあいだに情事が進行するのだが。

 道子の科白、『鋼鉄三国志』の最終回マイナス一回あたりの科白なみにわけがわからず。
『噂の女』、去年フィルムセンターで見たとき一瞬眠って見そこなった、最初のあたりはきちんと見るが、そのあと疲れが出て眠り、あのとき記述した、田中絹代が若い愛人に買ってやろうとする医院を見に行くあたり再見できず。『武蔵野夫人』から一転していきいきとした田中絹代。

 男(たち)の被害者となった者同士の連帯が、この母娘(田中と久我美子)にも見られること。彼女らが生計を頼っている郭の女たちにまでそれが及ぼされることは難しいが(ラストで娼妓の一人が、『祇園の姉妹』のラストに似た科白をいう)。『祇園囃子』で、最後に木暮実千代が若尾文子に、これからは自分が若尾の「旦那」になると言うところも、同様の意味で面白い。
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by kaoruSZ | 2007-09-28 21:33 | 日々 | Comments(0)