おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ
 国立新美術館のマグリット展に行ってきた。今回の展覧会のポスターや図録の表紙にもなっている、無数の正装した山高帽の男が空中に浮いている『ゴルコンダ』――一見、クローンのような、取り替えのきく複製の男たちのようだが、よく見るとそうではなく、一つ一つ違った顔を持つ。マグリット自身、「それぞれ違った男たちです」と言っていた。「しかし、群衆の中の個人については考えないので、男たちは、できるだけ単純な、同じ服装をし、それによって群衆を表すのです」

 これを読んで気づいたのは、彼の作品における男と女の逆説だ。男は「それぞれ違って」いる。だが、「それぞれ違った女」など(たとえ華やかに、個性的に着飾ろうと)、いるわけがない。どれも同じように見える男は、実は見かけの匿名性の下に独自性を保持しているのだ。

 たとえば、会場でこのすぐ前に展示されていた『傑作あるいは地平線の神秘』では、山高帽の三人の紳士の頭上に、それぞれ三日月がかかっている。これについてマグリットは次のように言う。「ひとりの男が月について考えるとき、彼はそれについての彼自身の考えを持ちます。それは、彼の月になります。だから私は、3人の男の頭の上にそれぞれの月がかかっているところを描いた絵を描きました。しかし、私たちは本当は月はひとつしかないことを知っています。」月とは女のことだろう。

「群衆」としての男たちは、それぞれ女について「彼自身の考え」を持つ。しかし彼らは「本当は女はひとりしかいない」ことを知っている。その女とは、たとえばすぐ隣に掲げられた『夜会服』と題された絵の、裸の腰から上に黒い髪をふさふさと垂らした、後ろ姿の女だろう。男三人がてんでの方角を向いているのに対し、女は真直ぐに月に相対しているが、それは彼女が月そのものであり、月が彼女の鏡であるからだろう。男たちが「地味な、同じ服装」であるのに対し、彼女が豊かな髪しか纏わぬ裸なのは、ホモソーシャルな「群衆」の中で、彼女だけが、唯一、エロティシズムの対象として見出されるべき(逆に言えば、それ以外の人間はそのようにまなざされてはならぬ)ものだからだ。

『ゴルコンダ』についての説明(画家へのインタヴュー抜粋)を読んだ時、私には、それが「男たち」について語られたものでありながら、同時に、それまで会場で見てきた、妻の裸体を描いた彼の絵の秘密を明かしていると思われた。“彼の月”は、一目で見分けられる彼の妻の顔をしているか、そうでなければ全く別のものに置き換えられている。妻でない女は、彫像だったり、魚の顔をしていたり(周知の通り、マグリットの顚倒した人魚は、女の下半身と魚の上半身を持つ)、あるいは『凌辱』のように、トルソが鬘をかぶせられて女の顔を形成する。あの、乳首の眼、臍の鼻、性器の口を持つスキャンダラスな顔は、“女”には独自の顔などないことを、猛烈な悪意をもって私たちに突きつけてくるものだ。

“人魚”や『凌辱』の攻撃性は一目瞭然だが、山高帽の男の背中にボッティチェリの『春』のフローラの像を重ねた『レディメイドの花束』もまた、そのスキャンダラス性においてはひけを取らないと私には思われた。『春』は、西風に触れられたニンフが花の女神に変身した瞬間を描いたもので、原画でフローラの右にいる、いきなり西風に抱えられて怯えるニンフは変身前で、美しい花模様の優雅な羅[うすもの]を纏って踏み出した女神フローラと、実は同一人物だと読んだことがある。

 しかし、こうした解釈の己の絵への適用を、マグリットはあらかじめ拒否している。彼は、ただ山高帽の男の「一部を隠す」ものが必要だったのであり、ボッティチェリの人物を選んだのは、たんに気に入ったからだと述べている。ボッティチェリが彼女に与えた寓意的意味について読んだことはないし、読みたいとも思わないというのは韜晦とも考えられるが(自分の絵が『春』と帽子の男との結婚のようなものだと言っているのは、西風とフローラの結婚という、原画の主題を前提にしてのことだろうから)、「私に関心があるのは、哲学ではなくイメージなのです」という言葉は、額面通り受け取られねばなるまい。「私は《春》のイメージを選びましたが、観念を選んだわけではありません」

 彼の選んだ「イメージ」は、一枚の紙片のように、何の深みもなく山高帽の男の背中に貼りついている。実際、それを複製画から切り抜いて貼ってもよかったはずだ。しかし彼はその「イメージ」を、「この絵の中のボッティチェルリの人物は、どの細部も正確です」と自ら保証する技術をもって、自らの絵の中に再現した。どの細部も同一だが、元のコンテクスト(「観念」「哲学」)から文字通り切り離されたそれは、「女のイメージ」のたんなる引用にまで価値を限定、縮小されることで、初めて彼の作品の中に存在を許されたのだ。

 結婚、と彼は言っている。この絵は《春》と帽子の男との一種の結婚だと。だが、この結合のよそよそしさはどうだろう。彼らは背中合せで、女は宙に浮いている。貼り付けたわけではないから、剝がすこともできない。それとも、これこそが、彼が結婚と呼ぶものなのだろうか。その顔は引用だから、もちろん妻の顔ではない。だが、対象に忠実に細部までゆるがせにせず再現したこの技法は、まさしく彼が妻に対して取っていたものである。ジョルジェットをモデルにした絵を見て分るのは、彼が妻を理想化していなかったことだ。無論彼女は、そのままでも十分美しい。モデルに忠実に描かれたフローラと同様、彼女は彼によってあらかじめ選ばれたものなのだから。

 今回の展覧会では、マグリットの撮影したホーム・ムーヴィーの上映があって、動く夫人の映像によって、彼女がどんなに夫によって忠実に再現されているかを確かめることもできる。マグリット夫人とともに詩人のマルセル・ルコントが登場するフィルムもあるが、この人は、あらゆるものが石と化している室内を描いた『旅の思い出』に姿をとどめている。石の蝋燭の石の焔が石の果物の置かれた円卓に光を投げ、石のライオンが蹲り、石の壁に、マグリット自身の絵画が額ごと石化して掛かる部屋で、 石の山高帽と石の本を手に立つ石の男がルコントなのだ。この“モデル”問題についてマグリットの言っていることが、『春』の場合と全く同じなのが興味深い。

「人物像は詩人のマルセル・ルコントを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、マルセル・ルコントがモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」。彼はそう言っているのだ。彼はルコントを描いた。しかし“それはルコントではない”。ルコントは『春』の人物のようにただ引用されただけであり、ある人格の再現を目指したもわけではない、再現されたものはただのイメージだと、マグリットは言っているのだろう。

 マグリットの絵を次々見ながら、傍に添えられた彼自身のこうしたテクストを読んでいると、これらの断言は、ジョルジェットについても適用されるのに違いないと思われてきた。いや、彼女にこそ、マグリットの見出した“彼の月”にこそ、それはあてはまるのではないか。要するに、次のように彼は言い得たのではないか。「絵の中の人物像は 妻のジョルジェットを表していますが、肖像画を描くときに普通用いられる設定はとっていません。この絵に描かれた人物は説明のつく意味を持つことをやめており、ひとりの人物が自らの肖像画のためにポーズをとるという意味において、妻がモデルを務めているというふうには考えないほうが妥当です」

 つまりこういうことだ。『春』は、そもそもがイメージであるので、その一部を切り取って二次的に自らの絵の中に再現したものは、コンテクストを切断されたイメージの引用に過ぎないと主張することはむしろ容易だった(若い頃に手がけたコラージュによってではなく、絵筆をとってそれを行なったのは、自らの画業が現実の複製ではなくイメージの複製なのだという、メタメッセージに見える)。『旅の思い出』ではルコントが、マグリットがどこかの図版から丹念に(『春』の“人物”を写し取るのと同様の忠実さで)写し取ったのかもしれないライオンと同列のイメージに、あまっさえ石にされているが、これがスキャンダルでないのは、彼の変哲もない服装と帽子が、むしろあの浮遊する「それぞれ違った男たち」の一人にいつでも加わる資格のあることを示し、抱えた書物もまた、彼が「月について考えるとき、それについての彼自身の考えを持つ」主体であることを表すから、要するにそれが「男のイメージ」であるからだ。

 絵の女がどれも妻であること、さもなければ顔がなかったり怪物だったりすること、妻は美しいがリアルに描かれ、理想化がないことなどを、同行のtatarskiyさんに言うと、(マグリットの場合)「夢から覚めると奥さんしかいないのよ」、だから奥さんを描くのだという応えが返ってきた。なるほど、同じように女は裸で男は着込んでいても、ポール・デルヴォーの世界は、存在しない同じ顔の“夢の女”で埋め尽くされている。フェルナン・クノップフの場合は、モデルとして最愛の妹がいたが、構図通りにポーズする彼女の写真を見ると絵の方が数段美しい。マグリットにはそういうこともない。ジョルジェットには美化、理想化の跡がない。マグリットが十四の時、母は入水自殺した。十四歳で見失った女が二度と見つからなかったのよ、この人は美人画を描けないね、とtatarskiyさんが言う。

『レディメイドの花束』は、男にとっての女とは、文字通りレディメイドでしかないことを明かしていよう。背中に貼り付けた「イメージ」は“夢の女”のものではない。帽子の男の「一部を隠す」必要があり、たんに気に入ったから選んだとマグリットが言う「イメージ」は、引用元がボッティチェリだから意味ありげに見えるが(そうしておいて彼はその意味を否定する)、たとえばヘンリー・ダーガーが気に入って、切り取ってコピーした“アニメ絵”だったとしても同じことだ。ジョルジェットのことも無論マグリットは気に入ったのだ――少なくとも、『春』の“人物”と同じくらい。彼は繰り返し彼女を画布に再現することになるが、それもまた引用なのだろう。

 女(la femme)は見つからず、代りに彼は、彼の妻(sa femme)に出会う。妻のイメージに邪魔されて、夢の女が見えなくなっているのだろうか。妻とは、女と彼のあいだにつねに割って入ってくる、“月”を目指す彼の探求を、常に挫折に終らせる邪魔者ではないだろうか。圧倒的な妻のイメージが、それ以外の女のイメージを、排除し、見えなくしているのではないか。いや、彼女が隠すのは夢の女の不在だろう。彼女がポーズしてくれるから、彼は「本当は一つだけ」の月が上るのを信じていられる。

“女”は存在しない。なぜなら、その別名は男であって、男たちが自分の中には存在しないと信じて、外部に空しく投影する“月”であるからだ。だが、妻が存在する時、彼女は、男がそのことを忘れ、目の前にいる女が自分の幻想には全く同調しない知的な生き物であるのを忘れることを、優しく許してくれる(少なくとも、男はそう信じることができる)。彼女が存在しないとはそのまま彼自身が存在しないことであり、彼がその恐しい事実に直面しないでいられるのは彼女のおかげなのだ。
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by kaoruSZ | 2016-01-01 11:26 | 批評 | Comments(0)
2011年12月11日~23日 twitter https://twitter.com/#!/kaoruSZ に書き継いだもののまとめ。余談までお読み下さる方はtwilogで。http://twilog.org/kaoruSZ   

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 丸尾末広の『パノラマ島綺譚』(江戸川乱歩の小説のマンガ化すなわち紙上脚色上映)、友人に借りて読む。素晴しい。内容自体はむしろ谷崎潤一郎の『金色の死』へのオマージュだ(人見広介が菰田源三郎になりかわるように、谷崎が乱歩にすりかわっている)。しかもあまりにも巧みで継ぎ目が見えない。島の風景や人物のポーズは既成の画家からの引用で出来ており、それ自体谷崎の「活人画」の流用だが、原作では人間で名画をなぞるというぱっとしないアイディアに見えたものの可能性と正統性を、丸尾は見事に証してみせたと言えよう。

 乱歩自身、『金色の死』に感激して『パノラマ島』を書いたのだから丸尾はそれをさらに推し進めたとも言える。友人は、主人公が妻を殺しコンクリート詰めにした表面に髪の毛がはみ出していて明智(!)が斧でコンクリートを割ると血が流れ出る(絶対ペンキだ!)という場面がないことを残念がっていたが、そのかわり丸尾版は睡蓮の池に殺した妻を浮かべてミレーのオフィーリアをやっている。この時はまだ洋服姿だが、以後主人公の出で立ちは『金色の死』のオリエンタル趣味に変り、彼の君臨する王国は、当時は明示できなかった一大性的オージーの楽園(ボスの『悦楽の園』が下敷き)であることをあらわにする。

 菰田の寝室の屏風は若冲。パノラマ島に建造されたボマルツォの怪物(実は厠)といい、ウェディングケーキ状のテラス式空中庭園(セミラミスの庭だ)といい、作者は澁澤龍彦の愛読者か。会話してるレスビエンヌのポーズはクールベの『眠り』、菰田/人見の少年時代の容貌は華宵写し。私にわかる出典はこのくらいかな。

 丸尾の博物学的細密描写は、鳥、虫(含爬虫類)、魚と、植物に対し最高に発揮されるところが若冲と共通する。虎や象、若冲は見るべくもなかったのだが、丸尾は虎に興味ないのか(と思える絵である)。個人的には『モロー博士の島』、この絵でやってほしいが、猫科に執着なくては無理か。一方でヒエロニムス・ボスから来ている、人間と同じ大きさの小鳥素晴しい。

 谷崎全集の『金色の死』が入っている巻と、ちくま文庫の夢野久作全集二冊(犬神博士/超人鬚野博士、暗黒公使)図書館で借りる。ちくま、表紙が綺麗。モノクロームの挿絵しか知らなかったが、竹中英太郎ってカラーだとこんな華やかな色づかいしていたのか

『金色の死』見直したら若冲の名前出ていた!「或は又若冲の花鳥図にあるやうな爛漫たる百花の林を潜つて孔雀や鸚鵡の逍遥してゐる楽園のあたりにも導かれました」とある。谷崎が楽園の壮麗を「読者の想像に委せて詳細な記述を試みることを避けようかと思ひます」と言っているところを、もちろん丸尾は全て可視化。

 やっぱり『金色の死』と『パノラマ島奇譚』は双子だ。乱歩のそっくりな学校友達と早過ぎた埋葬テーマ(によるトリック)はむろんポーからだが(後者についてはは自己言及あり)、『金色の死』の語り手と岡村君も学友で、各々小説家と楽園造りの芸術家、『パノラマ島』の主人公は両者を一身に兼ねている。

「それは本当に夢の感じか、そうでなければ、映画の二重焼き付けの感じです」(『パノラマ島奇譚』)。パノラマ島の花火は「普通の花火と違って、私たちのはあんなに長い間、まるで空に写した幻燈のようにじっとしているのだよ」。要するに、幻燈であり映画なのだろう。パノラマ館が活動写真に駆逐されたあとの時代の、「日本では私がまだ小学生の時分に非常に流行した」と主人公が言い、ベンヤミンが『1900年頃の幼年時代』で当時でさえ流行遅れだったと思い出を書いている、懐かしい演し物のヴァージョンアップされた再来なのだ。丸尾末広がむしろあっさりと普通の花火を描いているのは当然だろう。

『暗黒公使』の解説ヒドい。父との闘争という(捏造された)主題で夢野久作を解読しようとして、作中で新聞記事を引用する「奇妙な癖」は「父への腹いせの実行」だと言うが、これはたんに当時の最新メディアだった映画への憧れとその模倣だろう。『カリガリ博士』一本見たってそのことは了解される。号外、メモ、ポスター、貼紙、手紙等の引用は、無声映画が字幕とともに発達したことにも由来しよう。『少女地獄』について解説者は「これはぼくが最も愛する作品である」ともったいぶって宣言するが、嘘を重ねて破滅するヒロインを「日本の国家主義者たちの行く末を(…)久作は天才看護婦姫野ゆり子に仮託して予言した」とはとんだ小クラカウアーだ(余分な註;クラカウアーはカリガリがヒトラーを予告したと言ったヒト)。自分の小説をそんなふうに解釈されてもいいんだろうか、島田雅彦は。いや、そういう小説しか書いていないということか。他人の作品をダシにした根拠の無いカッコつけパフォーマンスには苛々する。

 もう一冊の赤坂憲雄の解説もナー。「そんな犬神にして、博士なるモノ、それゆえ犬神博士とは、いったい何者なのか。あらためて博士とは何か」と大上段に、アカデミズムの称号ではなく物知りびとだの、古代官職だの、陰陽師だの……我田引水もほどほどに。「無用な謎解きを重ねすぎたようだ」。そのとおり。目羅博士も犬神博士も鬚野博士も、皆あの映画から出てきたに決まってるじゃないか。そう思って前の方をパラパラ見ると、「天幕(テント)を質に置いたカリガリ博士。書斎を持たないファウストか。アハハ。なかなか君は見立てが巧いな。吾輩を魔法使いと見たところが感心だ」と、黒マントに山高帽の鬚野博士がのたもうている。Magie にしてDoktor、何が律令か陰陽師か。「隠された素顔」?「物語の深み」? 表面にあるものを見てから言え。そこへ行くと角川文庫版の『犬神博士』解説は松田修、流石に存念の美少年=小さ神を語ってあますところがない。(参考→http://kaorusz.exblog.jp/11781696/

『犬神博士』読了。女装のチイ少年、「よか稚児」とか「よかにせ」とか言われてる(にせは二世を契るの意とか)。鹿児島じゃなくても言うんだね。『ドグラ・マグラ』では若林博士が、眠る主人公を男でも吸い付きたくなるような美少年と言っている(おまえはタコか!)。頬の紅さは童貞のしるしだそうな。なぜ小林君がリンゴの頬をした永遠の「紅顔の少年」であるかも頷けようといふもの。乱歩も久作も同じ文化の中にいる。童貞とは蔑まれるべき資質ではつゆありえず、童貞ないし少年とは男によって希求されるべき対象だったのだ。「父はむかしたれの少年、浴室に伏して海驢(あしか)のごと耳洗ふ 」(塚本邦雄)

「幻術」「魔法」等に「ドグラマグラ」のルビを付したる例、『犬神博士』に幾つかあり。「あの児は幻術使いぞ、幻術使いぞ、逃げれ、逃げれッ」。「一眼見るとポーッとなるくらい、可愛い顔をしとるげなぞ」と言われるチイ少年、強い強い。

 上記引用歌検索したら、「現代詩文庫」版歌集のレヴューに好みの歌をジャンル立てで並べてる人がいて、下らん感想文より遥かにマシだが、「父はむかし」の歌は動物ものに分類されていた(無論本当は少年もの)。「禁猟のふれが解かれし鈍色の野に眸(まみ)ふせる少年と蛾と」(蛇足ながら、蛾の触角と少年の睫毛のダブルイメージを見るべし)。 

「呼子を鳴らすと、何処ともなく微妙な鈴の響が聞えて一匹の駝鳥が花束を飾った妍麗な小車を曳いて走って来ました。岡村君は私を其れに乗り移らせて……」(『金色の死』)。まるで童話の一節だが、「四顧すれば、駒ケ嶽、冠ケ嶽、明神ケ嶽の山々は此の荘厳な天国の外郭を屏風の如く取り包んで居ます」と、あくまで現実の一部としてかっきり区切られた空間は揺らがない。それに対して乱歩の人口楽園は、内部でありながら在り得ない広大な外界がたたみ込まれたパノラマ「館」が元にあるだけあって、パノラマ館のように空が閉じていないにしても、地下のグロッタ、『鏡地獄』のような出口のない球体、あるいは映画館のようなその内側で視覚的イリュージョンが上演される場所を思わせて、それは外界と匹敵するかそれを凌駕する夢を詰め込んでオーヴァーヒートした脳内でもありえようから、岩山が島の主人で創造者の巨大な頭部に形作られ髪や鬚は植栽で表されている丸尾版の奇怪なイメージは当を得ている。

 パノラマ島はディズニーランドより船橋ヘルスセンターに近いのではないかという気がしてきて検索すると、骨董屋で入手(!)の開園当時のパンフレットを載せたサイトが見つかった。「温泉は地下三千尺の二つの井戸から一日二万石も噴出!!これが大ローマ風呂、岩風呂、大滝風呂、その他大小二十個の浴槽にあふれています」

 400畳敷の大広間で一日中ショーが続き、劇場、遊園地等々揃った「いわゆる歓楽境ではなく、健全の娯楽場」とある。開園は1955年。谷津遊園はなんと1925年開園で『パノラマ島』より早い(雑誌発表は26年から27年すなわち大正と昭和を跨いでの連載で丸尾版は作中の出来事をこの時期に設定)。無論パノラマ島が何かを真似たのではなく総合レジャーランドの方が後からできたに違いないが、実は谷崎と乱歩の楽園は温泉パラダイスである。

 むろん、「ダンテがヱルギリウスに案内されるやうに」と言うのだから地獄でもあるわけで、実際彼らが最後に見出すのは「地獄の池」だが、そこは「人間の肉体を以て一杯に埋まつて居」て、人魚の扮装の美女の遊ぶ池や「牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛えた」湯槽もある。

 思えば最初に水を渡るのも冥界の指標であった。乱歩の場合は主人公と妻がついに「巨大なる花の擂鉢の底」という『神曲』の地獄の底を思わせる場所に至るが、そこにいるのは氷漬けのサタンではなく「擂鉢の縁にあたる、四周の山の頂から、滑らかな花の斜面を伝って、雪白の肉塊が、団子のように数珠繋ぎにころがり落ちて、その底にたたえられた浴槽の中へしぶきを立てている」と描写される裸女の群で、「彼女らは擂鉢の底の湯気の中を、バチャバチャと跳ね返りながら、あののどかな歌を合唱するのです」。

 この奇妙なセイレーンの中に彼らも交じり、「肉塊の滝つ瀬は、ますますその数を増し(…)花は(…)満目の花吹雪となりその花びらと、湯気と、しぶきとの濛々と入乱れた中に、裸女の肉塊は、肉と肉とをすり合わせて、桶の中の芋のように混乱して、息もたえだえに合唱を続け(…)打寄せ揉み返す、そのまっただ中に、あらゆる感覚を失った二人の客が、死骸のように漂っているのでした」という天国いや温泉地獄(地獄谷?)

 この描写で分るのは、乱歩にとって裸女の群が、ごろごろ転がる「肉塊」「団子」桶にひしめく「芋」でしかなかったことだと思うんだが……いくら他に刺激が乏しかったといえ当時の読者にこれがエロと感じられたのかどうか。澁澤龍彦は谷崎と乱歩の二作は「浴槽の中に大勢の裸女が跳ねまわっているというエロティックな人口楽園のイメージまでが」そっくりと言う(角川文庫『パノラマ島』解説)が、谷崎の方は「海豚の如く水中に跳躍して居る何十匹の動物を見ると、其等は皆体の下半分へ鎖帷子のやうな銀製の肉襦袢を着けて、人魚の姿を真似た美女の一群でありました」というのだから芋洗いとは余程違う。

「そして、ついに地上の楽園はきたのでした」(『パノラマ島奇譚』)。しかし、YouTubeで見られる船橋ヘルスセンターCMソング http://www.youtube.com/watch?v=ME3GYYc8vok「長生きしたけりゃちょっとおいで」と谷崎や乱歩の夢の国が違うのは、後者が蕩尽のユートピアであるところだ。「僕はもうあるだけの財産を遣い切つて了つた。今のような贅沢は、此れから半年も続ける事が出来ない」(谷崎)「さすがの菰田家の財産も、あとやっとひと月、この生活をささえるほどしか残っていないのですよ」(乱歩)

『金色の死』の二人は温泉に入る訳ではなく、《人間の肉体を以て一杯に埋まって居る「地獄の池」》迄来ると、《「さあ、此上を渡つて行くんだ。構はないから僕の後へ附いて来たまへ。」かう云つて、岡村君は私の手を引いて一団の肉塊の上を踏んで行きました》となる。最初にダンテとヴェルギリウスに喩えられていたのを思えば、これはサタンを踏みつけて彼らが地球の中心へ降りるのをなぞっているのだろう。しかし岡村君と「私」は浄罪山へ上る訳ではなく、「私はもう、此れ以上の事を書き続ける勇気がありません。兎に角あの浴室の光景などは、其夜東方の丘の上の春の宮殿で催された宴楽の余興に較べたなら、殆ど記憶にも残らない程小規模のものであつた事を附加へて置けば沢山です」云々とあり、後はもう「歓楽の絶頂に達した瞬間」の岡村君の突然の死しか残っていないのだから、やはりこれは去年ここhttp://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html にも書いたように、谷崎にも直接筆には出来なかった「健全な娯楽場」ではない「歓楽境」なのだろう。それを描くにあたって、丸尾末広はボスの『悦楽の園』やラファエル前派を導入し、主人公が妻を殺すのも龍頭のゴンドラの中(シャロットの女の死)と、温泉場的泥臭さを一掃した。なお、ゴンドラは『金色の死』にすでにある。

 それにしても乱歩の“俗悪さ”はハンパない。丸尾版で主人公夫妻はスワンボートに迎えられるが、これは水中から半身を出した水着の女たちが押しているとおぼしい。しかし原作では舟ではなく、人語を発する白鳥実ハ人間の女の背にまたがっており、乗り手は「腿の下にうごめくものは、決して水鳥の筋肉ではなくて、羽毛に覆われた人間の肉体にちがいない」と思い、「おそらくは一人の女が白鳥の衣の中に腹ばいになって、手と足で水を掻きながら泳いでいるのでありましょう。ムクムクと動くやわらかな肩やお尻の肉のぐあい、着物を通して伝わる肌のぬくみ、それらはすべて人間の、若い女性のものらしく感じられるのです」と、ほとんど人間椅子か家畜人ヤプー状態で、丸尾が白鳥に乗っての道程をほぼ忠実に再現しながら、荒唐無稽な過重労働を採用しなかったのは当然だろう。そして裸女の蓮台。丸尾版では妻殺害後の主人公が髪に花を飾った全裸の女たちの担ぐ蓮台でボッス写しの野を運ばれるが、原作では「肉体の凹凸に応じて」隈取をした女らが「肉の腰掛け」を作り、「人肉の花びらは、ひらいたまま」その中央に主人公夫妻を包んで、膝の下に「肥え太った腹部のやわらかみ」が起伏し、「肉体のやわらかなバネ仕掛け」の上に深い花の絨毯が加わって「彼らの乗物を、一層滑らかに心地よく」する。

 新聞記事挿入が通常の映画的手法であることは前述したが、丸尾末広版『パノラマ島奇譚』にも新聞記事は目立つ(「聖上崩御」とか「芥川自殺」とかオリジナルの時代設定の表示でもある)。明智が見ている新聞の「紀州のルートウィヒ2世 沖の島に奇妙な楽園建設」の見出しは人をほほえませよう。「ディアギレフのロシアバレエ団を招聘して/ニジンスキーに踊ってもらおうと思ったんだが」なる科白も原作にはないが、谷崎の方に「此の頃の露西亜の舞踊劇に用ひられるレオン、バクストの衣裳」云々の言及あり。ベックリンの「死の島」風景も丸尾のオリジナルだがこの絵乱歩が自宅に飾っていた由。

「探偵小説らしい筋もほとんどなく(最後に探偵が、コンクリートの壁から出ている千代子の髪の毛を発見するのはいかにも取ってつけた感じである)」という澁澤の評はむしろ丸尾版にこそふさわしい。探偵は、雑誌に掲載されて誰もが読める「RAの話」というテクストと現実との一致を指摘するだけで、物的証拠を提示すらしない。原作では主人公(菰田源三郎になりすました人見広介)の書いた「RAの話」は未発表原稿で、探偵(原作では明智でなく北見小五郎と呼ばれる)だけがそれに注目、人見自身は書いたことも忘れていたらしい小説の死体の隠し場所から、千代子の死体の在り処を推測してしまう。

 原作の探偵は人見にとっていわば過去からやって来た忘れた(捨てた)はずの彼自身であり、抑圧したものの回帰、彼だけが知っている(どころか忘れかけていた)はずの秘密を知っていて突きつけてみせる、『屋根裏の散歩者』の明智と同様、犯罪者と探偵のあざといまでの類似を際立たせる存在なのだ。

 壁(柱)の中の妻の死体はむろん『黒猫』からで、『ウィリアム・ウィルソン』『早過ぎた埋葬』とともにポーづくし。瓜二つの友人になりかわる際に殺した小説家としての自分自身は、人見/北見の対の名を持つ分身として、忘れたはずの小説を熟知する探偵の姿で戻ってくる。『金色の死』の場合は語り手である小説家は最初から“行為者”と分離されていてその死を見届けるが、北見小五郎もまた、「この偉大な天才をむざむざ浮世の法律なんかに裁かせたくない」と言って人見を自決に追いやる、『屋根裏の散歩者』の郷田三郎をさんざん煽って空想から実行へ一線を越えさせた明智と同様の、主人公の黒い分身だ。

 パノラマ島海底トンネルから見た海中描写、丸尾末広の絵でも圧巻だが、乱歩の叙述には何らかの下敷きがあるに違いない。今でこそ葛西臨海公園等大水槽を魚が泳ぎ回る水族館は珍しくないが、強化ガラスのない当時、これは不可能な夢だったはず。それで思い出すのはジュール・ヴェルヌのノーチラス号の船窓風景で、あれは華麗な文体による図鑑の引き写しだというが、乱歩についてそういう実証的研究はあるのだろうか。少なくとも『海底二万里』を読まずに書いたということはありえまい。リヴレスクな引きこもりの室内旅行としての〈驚異の旅〉。若冲の魚群図も錦市場の魚だろう。

「生きた魚類といえば、せいぜい水族館のガラス箱の中でしか見たことのない陸上の人たちは、この比喩をあまりに大袈裟に思うかもしれません。(…)しかし、実際海中にはいってそれを見た人でなくでは、想像できるものではないのです」(『パノラマ島奇譚』)

 俗悪と書いたが、裸女のひしめく乱歩の楽園は極めて触覚的、そしてオージーじゃない。つまり大人の性交ではない。死んだ菰田の妻に別人と知られるのを恐れて、主人公は彼女に触れない。つまりエディプス関係以前の子供に退行していると言える(もともと父を殺してなりかわるという労なくして得た妻だ)。

 菰田源三郎に「なった」彼は、利益追求と富の蓄積から一転して蕩尽へと転じる。その行き着く先は明らかだ。禁が破られた時、遅ればせの殺人が起る。性交が殺人であるような描写あり(極めて触覚的)。そして千代子の死以後、丸尾版では話が『金色の死』に入れかわる――つまり、“独身者としての芸術家”の話に。

 しかし、千代子殺しは、次々色が変わる強いライトを当てながら(それも子供が懐中電灯で顔を下から照らして怖がらせ合うような)の、それ自体がショーの一部であるような活人画かグランギニョル擬きで、丸尾はすっかり差しかえている。小説では夫婦が温泉に浸かって話をしているうちに殺しになる訳で絵になるまい。原作の北見小五郎は自分のことを芸術家と呼んでおり、『金色の死』の語り手同様、分身的な芸術家である主人公の死を、死で完成されるべき「芸術」を見届ける。それもお湯から首を出して、頭蓋の中の光景のように頭上に広がる花火として。

 言ってみれば「このからだそらのみぢんにちらばれ」(宮澤賢治)が蕩尽の当然の帰結なのだが、先刻まで彼がいた場所を占めて(お湯につかって)それを見届ける分身というのは探偵小説に固有の形式で、そこが谷崎の“失敗作”と違うところだ。夢想家と分析家の二人のデュパンがいると『盗まれた手紙』の語り手は言っていなかったか。北見が来なければ、空に広がったきり静止した花火のように、ユートピアはいつまでも持続したかもしれない。しかし探偵が現実原則を持ち込み、丸尾の主人公は蕩尽と千代子殺しの償いとして死に、原作ではむしろ自らの芸術の完成のために死ぬ。最後の演し物は降り注ぐ血という触覚性をそなえていた。

 パノラマ島の湯の羊水性と乱歩の小品『火星の運河』との類似は澁澤龍彦が言っていたが、tatarskiyの指摘によれば、パノラマ島で『火星の運河』と重なるのは、木立を抜けた果てに見出す泉と、それを覗き込んだまま動かない女である。『火星の運河』は女体化の話だが、この女ナルシスも男であるとすれば『金色の死』の岡村君の著しい両性具有性とも平仄が合う(ちなみに両性具有とはほとんどつねに男の属性である)。

 断章で書くのが限界に来たのでここで一応メモは終る。
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by kaorusz | 2012-02-24 14:39 | 批評 | Comments(0)

鴨沢祐仁の発明

 評判になっているが絶対近づきたくない場所というのがあって、今なら墨田区と台東区のどっちになるかといわれていた段階で台東区の方が縁があるから来てくれるなと思っていてそれは叶ったものの、せんだって不忍池でボートに乗っていたらなんと森の上ににゅっと出ていてしかもせっかくビルの一つも見えない方角だからよけい腹立たしかった作りかけのアレで、朝倉彫塑館の改修が終ってももう屋上に登れば日暮里駅前のビルと一緒にアレを見るしかないのか、江戸東京博物館というところにはじめて行くことになってアレが見えるのは嫌だなと同行者に言われたが近すぎて見えなかったようだ、清澄庭園の景観にも問題なく、なるほどエッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れということか。古くは東京都庁がえらく西へ移った際、大阪から出張で来た事務方のおじさん(他の担当者は女性で緑一点)に新都庁舎を見てきたんですよと人のよい笑顏で言われ、すごいですねえ、東京ものでもまだ見に行っていませんとでも言っておけばいいものを、あたし新しい建物は好きじゃないんです、と不機嫌な応対をするという大人げないことをした、実際、いまだに行ってないし幸い行く必要もない。

 それが先日、夕方寄ろうと友人に示されたのが某タワー52階の美術館のタダ券で、できた当時若冲の屏風が来ていてさえ行かなかったのにと嘆きながらも、土曜日の午後の新宿御苑でゴロゴロしたあと、これも嫌いな(深すぎて)大江戸線で六本木に到着、建物は思ったとおり夜目にもどうでもよかったが、しかし会場では思いがけず素晴しいものが見られた。現代美術のコレクションで鴨下信一のフィギュア、逆柱いみりの絵等に見入る、中でも惹かれたのは芳賀澄子の箱入り着せ替え人形で、五十年代のファッションをまとい、台紙に黒の細ゴムでハンドバッグや靴も固定されているが、バービーやリカちゃん人形の通俗性が微塵もない。手前に置かれた、一つ一つデザインされた手作りの函の蓋も美しい。

 しかし、何と言っても最大の収穫は鴨沢祐仁の作品であった。「クシー君」にも作者の名にももちろん覚えがあったが、まず驚いたのは作者がすでに亡くなっていたことで、しかも幸福な晩年(というにはあまりにも若すぎる)ではけっしてなかったことは(作品以外の)展示からも察せられウェブで調べて確かめられたが、書いておきたいのはそのことではない。キャラクターを実写化した富士急ハイランドのCMを十数年前にTVでやっていたことは場内のモニターで見て思い出したが、シリーズ化されていくつものヴァリエーションがあったことは知らなかった、それがエンドレスで流されていて、クシー君とウサギが遊園地で遊び回っていたが、しばらく見ているうちに傍に掲げられたイラストレーションとの奇妙な差異に気づくことになった。絵のクシー君は、お洒落な服を着たウサギやクラシックなロボットと歩いていて、ウサギの方が小柄、玩具箱から出てきたようなと言えないこともない連中なのだけれど、CMのウサギはクシー君(絵の髪型に似せているけれど、普通の男の子であるクシー君より花のある美少年)より背が高く、明らかに大人である。同じような背丈の子供をウサギに使っていれば遊び友達という感じになるだろうに、はっきり意図を持っての大人設定、これはいったいどういう関係(の少年とウサギ)なのか?

 その時、あのウサギ、おやじの援交じゃない、と傍の友人が言いはじめた。そういえばウサギの顏も明らかにおやじ……ヒゲをはやしたおやじである。ウサギにヒゲがあるのも顏が毛で覆われているのも当然ながら、無精髭としか見えない顏つきなのだ(あんなに可愛くなくデザインされたウサギも珍しかろう)。それが、ウサギの皮をかぶって少年と遊んでいる……。
 少年誘拐者だね、と私は言った(種村季弘に「どもりの少女誘拐者」なるルイス・キャロル論あり)。遊園地のCMに登場して割引券で遊ぶキャラに、家族連れでも、恋人たちでもなく、少年とおやじウサギのペアである。「好きな人と好きなだけ!」とスポットは繰り返す。「好きな人ってなんだよ」モニターの前で私たちは笑った。「やっぱりカップルなんだ」「わからないと思って言いたい放題だな」

 美少年はあくまで無邪気で、アトラクションに瞳を輝かせて駆け回る。ウサギが先に望遠鏡をのぞいて少年に替わると、魅力的な女性がプールの中から誘っている……次の瞬間、水面に魚の尾がはねて彼女が人魚であることがわかる。これが童話の世界を口実に、生身の女から少年を隔てる仕掛けでなくて何であろう。ウサギは少年に背伸びさせて色っぽい女を見せてやろう(大人の異性愛の世界を覗かせてやろう)というのではない、少年に見せるのは自分の競争者にならない抽象的な女で、コーラス・ガールたちの顏は大きな星形や土星(こうした小道具はむろんタルホ写し)に置き換えられている。

 他にもコピーはいろいろあった。「無邪気な君なんて大好きだ!」「無邪気な私を好きになれ!」怪しいったらないが、もちろんウサギの台詞である。童心を装って何を考えてるんだか、手のつけようがない。このウサギ、名をレプス君といって、主役を張った単行本もあったようだ。おやじウサギになってからの絵も展示されていた。クリスマスの玄関でプレゼントの包みを抱えたまま、コートを脱ごうとしている。
 エンコーウサギ、この子にかなり貢いでるよ、と友人。クリスマス・プレゼントに天体望遠鏡をあげるんじゃない? 
 包みが小さいから望遠鏡じゃないでしょ、鉱物標本じゃないの、と私。望遠鏡は去年もうあげてるのよ。

 制作側、最初からねらってるよね、と友人は言った。こういうのを作ろうと思って、だから鴨沢祐仁を選んだんでしょう。そういうことだね、きっと。富士急ハイランドの希望というより、広告会社で企画したんだよね。作るのはさぞ楽しかったろう。腐女子をあてこんで作ったなどと下司なことを言う奴は当時はいなかったのだ。それにしてもほんとに、わからないと思って……裏にあるのはタルホだし、かなり危ないんだが。

 男の子にしては愛らし過ぎる、あれは女の子ではと気づいたのは帰宅してからだった。検索するとやはり(足穂の言う)“長持ちする少年”で、しかしあっさり“女”になって消えたようだ。ウェブで調べるうち、おなじみクシー君になる前の古い絵柄のクシー君が出てきた。無表情で前髪を切りそろえた大きな目の少年(後年の彼より明らかに一般向けではない)の出てくるマンガは、内容的にもさらに足穂寄り、確かにこの絵柄は見たことがあると思い出したが、それが鴨沢祐仁の作とはその時まで認識していなかった。昔のクシー君は会場で見た遺作のタブローの正面を向いて立った少年にそっくりで、また、生前の作者にも似ていた。いろいろわかったので友人にメールしたが、向うからはさらに驚くべきことを知らせてきた。ウェブで読める対談で、クシー君とレプス君は同性愛的な関係だと作者が明言しているというのだ。公認の仲だったのである。
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by kaoruSZ | 2010-11-30 22:42 | 日々 | Comments(0)

フェルメールの不滅の光

 大混雑らしくて開館時刻よりかなり前に行って待つしかなさそうな(それでもまともに見られるのはほんのわずかな間だろう)フェルメール展見送ろうと思っていたのだが、帰りそこねて両親(すでにいない)の家で服のまま仮眠、朝起きてそのまま上野へ。木曜日のこと。 八時に到着してしまう。開門は55分後だがすでに数人並んでいる。関係ないようなふりをして博物館動物園駅の先まで行き過ぎるが、近くにコーヒーの一杯さえ飲める場所がないのはわかりきっているし、どうせ外にいるのならと思い落葉を踏んで戻る。本を読んで待つうち、警備員、館員が愛想良く説明して四列縦隊に並ばせる。前から三列目。振り返ると列はすでに長く伸びている。ようやく入場。当日券買う間に大勢に追い越されたけれど、地階のデルフトの画家は抜かして一階へ、まずフェルメールだけ見る。二階へ行くともうそこには誰もいないが、フェルメールもない。そりゃそうだ。七点来てるだけだから。戻って地階を見、フェルメールをもう一度見て、二階まで行き、もう一度地階に戻るとすでに落ち着いて絵を見る状態ではない。まだ九時半なのだが。

「リュートを調弦する女」と呼ばれる、今まで気にとめたことのない絵を繰り返し見る。なぜそれに自分が惹かれるのか知ろうとして。左手の窓へ一瞬向けた顔、その顔と右肩を浸す光。「真珠の耳飾りの少女」のように美しいというわけではなく、仮面のような、額の生え際が後退したような、いっそ宇宙人のようなと言ってしまいたくなる顔。映画的、という言葉が浮かぶ。邦訳では「平板な死」となっていたバルトの用語があって、でも、あれは写真論だから「平たい死」と呼ぶのではないかと思っていたが、バルトが死んだあとまだ邦訳がないときにその本をぽつぽつ読んでいたある日、ジガ・ヴェルトフの有名な『カメラを持った男』をはじめて見た。馬車や人の行きかう街路の映像が突然静止し、フィルムがリールから引き出されて編集され、すべてが「平たい死」でしかないことが露呈される。そのあとで再びフィルムが、その儚い物質的基盤が映写機にかけられる。すると街も人々も即座に不滅の生命を取り戻し、何事もなかったかのように動きはじめ、写真が死であり映画が生であるのを見せつけた。だが、「リュートを調弦する女」の生命は、その忘れがたい印象はどこから来るのか。ただ一枚でありながら映画的なイマージュは。「それはかつてあった」という(バルトの言う)写真のノエマから限りなく遠く、かつて一度も存在したことのなかった彼女は今存在する。それがつねに「今」である光は複製技術を寄せつけないので絵葉書は買わなかった。
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by kaoruSZ | 2008-12-14 14:37 | 日々 | Comments(0)
 本日まで上野の国立博物館でやっていた大琳派展に11日の朝行く。数日前に新宿の高層ビルで見た「ジョットとその遺産」展の印象が吹き飛ぶ良さ(ジョットは本来壁画だから一斑を見たにすぎないとはいえ)。風神雷神の見較べなどにはあまり興味がなかったのだが、宗達、光悦のコラボレーション(昔、辻邦生の小説で読んだっけ)も、光琳に比べほとんど知らなかった弟・乾山の工藝品も楽しめた。こういった洗練の極みというべき品は本当に好みだと思いながら出口近くまで来て、最後に、酒井抱一の弟子で家来で陰に隠れていたような(私の思い込みか)鈴木其一の「夏秋山水図屏風」に心から驚かされる。

 右の夏、生い繁る熊笹の笹縁[ささべり]が同じ幅に白く取られ、全く写実的でない。しかもマットに塗られた緑の山の縁からこの記号化された笹がのぞき、遠近も不明。コバルトブルーの渓流が束になって思いきり走るのが青い高速道路かウドンに見える。白い百合だけがこの上なく写実的に描かれる(「カサブランカ?」「山百合よ」絵の前でおばさまがたが囁きかわす)。

 左、秋では、これまた画面に貼り付いたリアルな桜のわくら葉。焦げ茶の幹を持つ杉の葉先も茶色くなっている。金地にコバルトブルーと金泥だからこれも琳派なのか、しかし昨日描かれたかのようにモダン。日本画の歴史には詳しくないが、たとえてみれば新古今のあとにいきなり「明星」が来たような。新古今の最後に、「ああ皐月仏蘭西の野は火の色す 君も雛罌粟[コクリコ]われも雛罌粟」なんてあったら、驚くでしょう?

 「絶対的にmoderne」でありつづけるのは至難の業だ。和歌は新古今で絶頂を極めて一度死んでいる。模倣上等、だだし模倣者が天才ならば。絵としてなら、酒井抱一の「夏秋草花図屏風」の方が私は「夏秋山水図屏風」より好きだ。宗達の風神雷神の裏に描かれたという前者は、右が雷に倒れ伏す草花、左が野分に吹き上げられる草花を描いたと解説されればなるほどと思う姿で(屏風の傍に草花のさまを真似、伏して見上げたら最高だろう)、構図は完璧、しかも天の気に翻弄されながらの二度と繰り返されない一瞬の生を描いてあますところがない。数多の追随者を産むであろうがもはやこの先はない。新古今にその先がなかったように。

 其一の構図も完璧である。モチーフはすべて既成のもの、匂いやかに立つ百合は抱一の右隻で地に伏すものに似る。だが、これは、いつの景、いづれの時代の風なのか。これは終っていない。この一瞬は過ぎ去っていない。コバルトブルーの上にかぼそい金で筋をひかれた泡立つ渓流の行方は見定められない。 

 たんに私が無知なだけで、いくつものブログが過去記事でこの作品に触れていた。根津美術館の所有で同館は今建て替え中なのだそう。アニメ絵とかセル画とか言われているのを見て微笑せずにはいられない。まさにそのとおり!(だが、それも、たまたま比較の対象があるのでいまそう見えるだけのこと。)本物を見た直後には絵葉書の一枚も手にとる気がせず、大部の図録のみ購入。文章の少なさに失望するも、解説者は抱一の「夏秋草花図屏風」の草花に其一の手が加わっている可能性を示唆。
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by kaorusz | 2008-11-16 17:48 | Comments(0)
 番組自体は見そこなったのだけれど大晦日にテレビ大阪制作の若冲の特番があった。そのサイトに「かけ軸ジェネレーター」なるものが設置されていたことを、六日になってようやく知った。

http://www.tv-osaka.co.jp/jakuchu/kakejiku.html

 早速やってみた。すっかりノッてしまって午後に二点(「ペルセポリスの思い出」「胸の顔は飾りだ!」)、夜になってもう一点(「仮面舞踏会へのお誘い」)、さらに翌朝「ボス風に」と題して作り、いずれも公開可としてテレビ大阪に送った。

 すると、七日の更新で早速「仮面舞踏会へのお誘い」が載った。

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 掲載ページはここ

 ここの方がよく見られる。

 ところで、掲載ページの隣の絵を見ていただきたい。実は「ペルセポリス」も採られているのだが、表示がおかしくなっている。






ほんとはこう。
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 十一日の更新で、「ボス風に」も載った。

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 しかしこれも一部欠けている(こんなバランスの悪い構成はしないぜ! )

 こちらで完全版をどうぞ。










完全版……ちょい、バランス、悪いか。

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残る一点はこれ

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「胸の顔は飾りだ!」

 わかりやすすぎる「仮面舞踏会」などより(電王ファンでないとタイトルの元ネタがわからないという意味じゃなくてwww)、どちらかというとこっちの方が気に入っているのだが。

 パーツで構成するこうした絵、以前ピカソっぽいパーツが用意されたサイトで作ったのを「おえかき」と題してこのブログの(左右どちらかの)メニューからリンクしてあるのだが、若冲の方が断然面白い。

 理由は、たぶん、Mr.Piccasohead(サイトの名前)が、顔の輪郭とか髪とか目鼻のパーツが最初から用意され、それを組み合わせるいわば福笑いであるのに対し、若冲のパーツがそれぞれ意味のある具体物でありながら他の物に流用する〝見立て〟の自由度が格段に高く(もっと手の込んだことをやればアルチンボルド風になろう)、また意外性も大きいからだろう。

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by kaoruSZ | 2008-01-12 02:48 | 日々 | Comments(0)
 長谷川等白の松林図屏風の公開が28日までだったので、26日に国立博物館へ行く。中国名品展が特別展としてあるが、今回は見送ることにして常設展の券を買う(時間と体力の問題)。これでマオリの展覧会も見られた。「博物館に初もうで」企画等が意外に面白く、予想外に長居する。実際に見るまでは富士と鷹と茄子にちなんだ展示とか、へえと思うだけで全然興味をひかれなかったのだが、来年は1月2日に「博物館に初もうで」しようと思うくらい。その方がお正月気分一杯でより楽しそう。掌に握りたくなるような茄子の水滴がかわいい。猪が表現された作の展示も、同じく意外に面白かった。萩の中で眠るなんて風流な猪がいるとは知らなかった(英語タイトル見て、萩はbush cloverなのかとこれもはじめて知る)。しかしなんといっても気に入ったのは縄文時代の小さな焼物のイノシシで、これは考古学展示室にいた。

 松林屏風は、混んでいなくてゆっくり見られた。(印象派!)というのが第一印象。といっても、モネの場合は塗り重ねてああなるのだけれど、等白は驚くべき手抜きだ。写真では良さが出ないから見過ごしていた(つまり、カメラは目がよすぎるから)。モネは近づくと絵具しか見えなくなるが、等白はいい加減な線が引いてあるのしか見えなくなる。それが、離れると目に――対象でなく対象の幻影で事足りる私たちの目に――ちょうどいい幻影になる。

 What seas what shores what grey rocks and what islands
 What water lapping the bow
 And scent of pine and the woodthrush singing through the fog

というT.S.Eliotの“Marina”を添え書きしたらぴったりじゃないかなと思いながら見ていた。これはシェイクスピアの『ぺリクリーズ』の父娘の再会の部分を使った詩で、今回タイトルにしたフレーズは、死んだと思っていたのが生きて立派に成長していていま目のあたりにしている娘のことをいうのだろうが、脳内で成立するこうした絵(これとか、モネ夫人が立つ土手にあたっている日の光とか)にもふさわしいのではなかろうか。

 一方で、くっきりした細密画である土佐光則『雑画帖 上』にも強くひかれた(これも常設展)。人や動物を描き出した小さな画面の並ぶ青と緑と金のミニアチュール。それから今回、刀の鍔に開眼。大根のシルエットの透かし模様(刀の鍔に)なんてわけのわからないのがあって嬉しい。以前、新聞販売店にもらった券で行ったかんざし展でも、それらしくない題材がいろいろあってその趣向に感心したものだ。鍔以外の付属品にも、小柄の握りの幅の狭いところに正面から見た馬(それも二頭)を入れたりしている。ああいう小宇宙的な洗練の極みは本当に好み(といっても、根付にはあまり魅力を感じないのだが)。
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by kaoruSZ | 2007-01-28 23:12 | 日々 | Comments(0)
 今日はまず「若冲と江戸絵画展」の国立博物館へ。9時からと勘違いしていて(東京都美術館などは9時)、9時ちょっと前に着き、遠目でたいした人出ではないと思ったが大間違い。開場までには群れになる。シャッターの降りた券売機の前で四列縦隊の二列目に並んで待つ。(注意書きがあって、恐竜の化石や模型はここにはありません、だって)。 一緒に大勢入ったけれど、まあまあゆっくり見られる。

 若冲は2000年の11月、没後二百年の展覧会を京都まで見に行った。入院していた父を毎夕訪ねていたので、出かける日も父の夕飯その他すんでから新幹線に乗り、予約してあった七条より南のビジネスホテルに遅く到着。翌朝は開場と同時に入って見たあと、京都駅で赤福をお土産に買い、帰京(父は12月27日に死去)。それまでに実際に見たことがあったのは三の丸尚蔵館で一回、あとは図版だけで、桝目の上に描いた鳥獣花木図屏風など存在も知らなかったのがいきなり対面した。京都ではあれは小さな部屋にあって、ガラス越しだけれどほとんどひとり占めという感じだった。今度はそうは行かず。「鶴図屏風」のタマゴのような鶴にも再会。あれとか、花鳥人物図屏風のモノクロームの若冲も好き。京都では他にも障壁画を見たと思う。京都であれだけの量見てしまったから、思ったよりも少なかったと感じる。

 照明を変化させている部屋、よかった。酒井抱一、三の丸で若冲と向い合せに展示されているのを見ると、素晴しく上手だけど規範の中で描いているというところばかり目立つように思っていたが、やっぱりいい画家だ。鈴木其一の「群鶴図屏風」、対の屏風の右に十羽、左に九羽並べた鶴のヴァリエーション、その〈完璧なアシンメトリー〉に感嘆。左端の一曲には完全に鶴の姿がない。全く未知の名(見たことがあれば忘れまい)である葛蛇玉の「雪中松に兎 梅に鴉図屏風」がすごい。全体に黒をひいて塗り残した白が樹木に積もった雪となり、吹き散らした胡粉が降りしきる雪となると説明にある。配する動物も兎と鴉という白と黒のそれそれのペア。兎の一羽ははげしい雪の中で松の木にしがみつく。照明が落されているときは鴉は背景の闇に沈んでおり、光とともにその姿をあらわす。凄い。銀地に描かれた「夏冬白鷺図屏風」(山口素絢)、地の質感の強さの中に幻のようにあらわれる線描に惹かれる。無名の画家の装飾的な「紅白梅図屏風」、光量が落されてゆくと、一瞬、くまなく光を当てられたときよりもなお花たちが明るく輝く。西洋美術館のモネ展で、絵具を塗り重ねたに過ぎない画中の日向が、何度見てもそれ自身光を放っているとしか思えなかったことを思い出す。

 若冲のあとは、読売が券をくれたルーヴル展へ行くつもりで、すさまじい蝉しぐれの中、藝大方面へ。かつて通学に使ったピラミッド型の屋根を乗せた駅舎は健在。と思ったら、「博物館動物園駅跡」 と京成がプレートつけていた。跡ね。駅の名前は動物園前とかでなくこれが正式。藝大に近づくと、運動会みたいなテントの下におばさまたちがびっしり並んでいる。わるい予感。この暑い中、レストランに入ろうとしてではあるまい。予感的中。現在40分待ちという手書き表示を見て踝を返す。しかたがないので清水坂へ。途中の喫茶店に入る。先にいた客が出たあと、熟年夫婦が入ってくる。しばらくしてから、ルーヴル展見ようと思ったけど混んでて入れなかったのと店の人に話し出す。券を買うまでに40分というのでやめにしたと。小さな店なので、私もそれでこっちへ歩いてきたと横から口をはさんだ。

 会計のとき、上野駅へ行くのならホテル鴎外荘前から地域バスが出ている、時刻表を調べようかと言われるが、歩いて行くのでと断わり、不忍池へ。蓮池を渡ってくる風はあるものの、陽射しと熱気ものすごし。繁った蓮の葉とつぼみと根方の鴨、そのまま若冲の絵のモデルになれる。そこだけは江戸時代と変わらず。鴨たちもボート池に張り出した木蔭に入るまひるま、手こぎボートで池に浮ぶ人もあり。松坂屋地下から銀座線で京橋へ。3時からのフィルムセンター鈴木清順の『刺青一代』。一度ならず見ているからどっちでもいいように思っていたが、そんなことはなかった! 忘れていたことばかりで驚く。若冲がかすんだとは言わないけれど、映画こそ光をあてることで一瞬ごとに過ぎ去る(バルトが、だから写真の方が好きと書いていた)幻を産み出すものだから――。清順の画面は江戸時代の屏風のように、これ以外のありかたはありえないという確信(錯覚)を見る者に起こさせる。寝不足だし本当は帰るべきところだったのだが、七時の回(清順ではない)も見たくなる。渡辺武信の講演が最後にあって聞く。結果的には見たり聞いたりしてよかった。それについてはまたあらためて。
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by kaoruSZ | 2006-08-19 00:17 | 日々 | Comments(2)

天国的

 いろいろ楽しいことはあっても全体に低調のまま推移、7月1日発行のウエブ&メールマガジン「カルチャー・レヴュー」(隔月で書かせてもらっている)の原稿が1日朝になっても書けていない事態に。昼食抜きで五時前までかかって(途中でパソコントラブる)なんとか脱稿。蕎麦屋で天ぷらその他を乗せた冷やしそばを食べ、銀座松屋のバーゲンでスカーフとハンカチを買い(しかし、今までそういうものを扱っていた、入ってすぐの場所まで海外ブランドにあけわたしてしまったねえ)、翌日は三の丸尚蔵館での若冲展第三期最終日なので(ミクシィの書き込みでは日付を間違えてしまった。頭こんがらがっている)朝から出かけ、開門前に着いてしまう。一緒に展示されていた昔の中国の絵(若冲も参考にした?)も面白かった。2000年に京都で見たとき、鳥獣屏風(静岡美術館のは返されてしまったあとだったからそれ以外――というのはいうまでもなくプライス・コレクションで、そう表示されてさえいたのだが、当時はプライス・コレクションの何たるかを知らず )が展示された室内にたたずんでいたとき思い浮べていたのは「天国的」という言葉だったが、「百鳥図」にそれと通ずるものを思う。

 昨日は勤め帰りに映画でもと思い立ち、何をやっているかと調べる。フィルムセンターでロシア・ソビエト映画祭初日――ともすれば面倒になるのを抑えて向かう。よかった。『死という騎士』、ロープシンの『蒼ざめた馬』が原作で、しかも最近の作。監督挨拶つき。

○ロシア・ソビエト映画祭 7/4~30

三百人劇場のチラシが出ていた。ラスト・ショウになる。
○ソビエト映画回顧展   8/5~8/18
○中国映画の全貌2006 8/19~9/10

FC、8月からは
○日活アクションの世界 8/1~9/24

○目下、渋谷シネマヴェーラでは山口百恵特集やっている。

○フィルムセンター、今月は小ホールでのアンコールも(成瀬あり。ただし、見逃したのはない)。

 しばらく、勤めに通うように映画に通おうと思う。
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by kaoruSZ | 2006-07-05 14:17 | 日々 | Comments(0)
 この本、(1)の続きが書けないでいるうちに返却期限をとっくに過ぎてしまっているので、一度返して、折りを見て仕切り直すしかないと思っているのだが、返す前に簡単な覚え書きだけでも記しておく。

 著者の中原洲一は淳一の長男で1944年生まれ、すでに鬼籍に入っていることは、名前で検索して遺作展の記事があったことから知った。画家だったのだ。今回、中原について急に関心を持ち、別冊太陽の「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」を取り寄せたが、 この編集には次男である中原蒼二 がかかわっており、蒼二氏は父とその作品をめぐり現在その他のプロデュースもやっているらしい。次女の中原すみれが父親の作品を再現して本を出すなどしていることは前から知っていたし、その本も見たことがあったが、『父 中原淳一』で長女の名は芙蓉というと知った。中原が自らの娘に与えた名は、「芙蓉」に「すみれ」だったのだ。(洲一という名は満洲からだろうか? それよりも、当時すぐ連想されるのは大八洲国――「希望ハ躍ル大ヤシマ」――だったのかな。いずれにせよ時代が刻印された名前だろう)。蒼二という文字づかいは、『虚無への供物』を思い出させる。もしかして中井英夫、ここから取った? おまけに姪がシャンソン歌手で名は美紗緒――ヒサオの名は十蘭からということはわかっているけれど。

 しばらく前まで河口湖近くに中原淳一美術館があったそうだが、そこでこの本を売っていたとは思えない(他の子供たちがかかわっていたから)。現在この本は流通していない。内容をかいつまんで紹介しようと思ったが、中原洲一はあまり論理的、分析的な文章を書く人ではなかったようだ。改行の多いぷつんぷつんとした文の並列は、パラグラフごとに意味を押えられる性質のものではないのだ。断片的というのでも必ずしもなく、流れを追うことで何を言いたいのかが浮かび上がるので、一部を抜き出すのは難しい。

  彼は少し頭でっかちだった。鼻翼は膨らんでいた。口唇は厚かった。
  小柄で足の短い男だった。
  それらのことを、本当によく知った男だった。
  いつも白い革の高靴をはいていた。
  ぼくの父。

 これは最後から二番目の章の結びであり、人が「詩」として知る形式にたまたま似通っているが、他の部分はここまでぶつ切れではない。自らの父についてこのように表現できる人に文章力がなかったとは言えまい。この断章はこれだけでも味わい深いが、この直前の部分と続けて読まれることでまた違った意味を生じる。

「父が全盛期の頃、ある高校教師から送られてくる詩作品のために、父は雑誌の二頁をさき、それに自分の絵を添えて発表するようになった。/その挿絵作品が非常に気に入ったぼくは、そのことを父に伝えると、彼はそれが自分でも最も気に入った仕事であることを教えてくれたのである。/その詩のための絵には、いつも男が単身描かれてあり、その男の顔には深い憂いがたたえられ、作品によっては寂寥として悲愴である。そして、肩口から腕にかけては広く太く、激しいデフォルメがほどこされ、それに比して長く細すぎるような足が腰からすっと伸びていたのである。/ある場合には、彼の手には厚く包帯が巻かれ、はっきりと彼が傷を負った者であることを表わしている。/ぼくは、それが心の中の父自身でなくては、他の誰でもない、と考えている」

 この直後に、先の引用部分が続く。
 この挿絵も詩も、お望みなら、当時の高校教師(現在は詩人と肩書きがある)の文章とともに「別冊太陽」で見ることができ、あまっさえ、挿絵の男をそのまま人形にした作品の写真まで載っている。
 
 さらにその前の部分には、中原の明かされることのなかった同性愛についてこのように書かれている。

「……彼はそれを社会に対し隠し通したのである。(……)が、いったい、彼のような才能豊かな芸術家に、そういうことを陳腐な日常会話で言ったり、物語らなければならないような必要や、意見があったであろうか。/彼が絵を書き、衣服を創作し、雑誌を編集するそのすべてのことが、自己とは何かを、何ひとつ余す所なく、包み隠さず、表わし主張しているのである」
 
 後半についてはそのとおりだが、前半はそれ自体陳腐なもので、所詮時代の制約の正当化にすぎず、それを今に持ち越すこともない。だが、中原にせよ三島にせよ塚本にせよ、そうしたホモフォビックな批評が彼らに対して相も変わらず行われているのは、この論理によるということを、指摘しておいてもいいだろう。
 それにしても私が不思議に思うのは、中原が息子によってかくも理解された幸福な父親であることが、なぜもっと広く知られていないのかということである。


『父 中原淳一』(1)http://kaorusz.exblog.jp/4297234/
『父 中原淳一』(3) http://kaorusz.exblog.jp/4429355/
『父 中原淳一』(4) http://kaorusz.exblog.jp/4469181/
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by kaoruSZ | 2006-04-19 03:44 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(0)