おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

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tatarskiyの部屋(30)

意識的にあまり自分の興味内容・属性については表明しないようにしていたんだけど、正直に言えば私個人の実感としては「(大体20世紀前半以前の)男性同性愛文学・表象の愛好者」で狭義のBLや二次創作は守備範囲外なんだよね。でもまずはそういうポピュラーな裾野の部分とユーザーの女性たちを不当な差別や抑圧から絶対的に守らない事には、いろんな意味で状況が悪化していくのを止められないから微力を尽しているんだけど。そして“悪化”して何が悪くなるかと言うと、結論から言えば「女性が作家や内外の歴史や文学の専門的な研究者になること、優れた作品を書いたり研究成果を挙げることを極めて深刻なレベルで妨害することになる」から。

なぜかと言えば三国志や戦国時代等が典型的だけど、ゲームや漫画からのBL系二次創作を入り口にして、その国・時代や人物に興味を持った女の子がいた場合、彼女がもしその興味を伸ばすことを妨げられなければ作家や研究者として大成しうるだけの才能があったとしても、その“ジャンル”を牛耳っているミソジニー・ホモフォビア的な空気や具体的な権力を持った男たちから“腐女子”だと認定された途端に人間扱いもされないとしたら、彼女はそこで挫折するか、ミソジニー・ホモフォビアの空気に積極的におもねって“腐女子”を蔑視しつつ、“男様”のご機嫌を損ねず名誉男性として扱ってもらえる範囲に矮小化された作品・研究成果を発表するしかなくなるし、実際にそうなっていると思う。以前言及した実際に作家・研究者になっているような女性たちのヒステリックな“腐女子”蔑視も、そうしたミソジニー・ホモフォビアへのおもねりと自己嫌悪・同性蔑視の悪循環から抜け出せなくなった結果なのだと思う。でも皮肉なことに、どんなに“女”を排除しても、彼女が最初にそうしたものに惹かれた真の淵源である過去の国や時代の文化の中の男性同性愛そのものは消えてなくなる訳もないし、結果として何が起きるかと言えば「そうした過去の男性同性愛文化・表象・文脈等についてためらいなく言及する事が“正当に”許される主体が男性に限定される」という典型的な性差別状況。それもヘテロ男性の場合は「自分まで“ホモ”だと思われる危険が及ばない範囲のいわば“小ネタ”として」ゲイ男性の場合は「彼の属性からして当然の興味や“人種”的なアクティビズムの一環(分離主義)」に自ずと限られ、男性同性愛そのものが本質的に持つ“男女”というジェンダーの階級性(=文化的な“意味づけ”への依存性)やセクシュアリティそのものの生得性を問い直す契機は著しく失われるし、何よりもそれと極めて深く本質的に関連する、狭義の男性同性愛表象に限定されないエロティシズム・文化そのものにとっての“男の女性性”の重要性へのタブー視を必然的に継続・延命させることになるだろう。

要するに「ゲイはゲイ、ヘテロはヘテロ、男は男、女は女」という身分差別・アパルトヘイト体制(ホモソーシャリティ)を維持するためには「男の“ホモ”エロティシズムに魅力を感じ、場合によってはそこから更に知的な興味を持つ女」の存在など絶対に認めるわけにはいかない危険分子でしかあり得ず、だからこそ彼女たちは差別体制の既得権者たちから苛烈に蔑視・排除される事になるのだ。そんなくだらないホモフォビアと女性蔑視のために、彼女たち一人ひとりの尊厳と自己実現の可能性が毀損され続けている現実は、断じて是認するわけにはいかない女性への差別そのものであり、“今”状況の是正と改善に努力しない限り、決して自然に改善することはないだろう。どう考えてもそのための具体的な取り組みの方が、“フェミニズムの精神の表現”だの“女性同士の絆”だのと称して過去の作家や作品を「フェミ的に称揚する」よりも遥かに重要かつアクチュアルなことだと思うが、未だに“フェミニスト”の多くが狭義のBLを“道徳的な留保”抜きで承認することにさえ躊躇しているようでは、先行きは暗いと言わざるをえない。

余談ながら、先述したような男性同性愛表象に関しての作家・研究者への差別・ハラスメント行為については、ネット上のアマチュアながら私自身もトールキン作品やホームズ物に関して被害にあったことがあるし、折口信夫の女性研究者が暗に“腐女子”扱いで揶揄されているのも目撃したことがある。今時折口が実際にゲイだったことを知らない人はいないと思うが、そうした事実が知られている作家についてすら、ある種の男には“女ごときが”男の同性愛に関心を持つことなど、「研究者であってすら(あるいは研究者になる程関心を持つこと自体が)蔑視・揶揄されて当然のはしたない行為」なのだろう。

嘆かわしい状況や展望の暗さはそれとして、これからも個人的な思索であれ批判であれ、日々できることを続けるしかないのだろう。最後になるが、私は男性同性愛の表象とそれに女性が関心を持つことに対する差別の根源的な要因として、ホモフォビアやミソジニーという“現象”より更に深い部分に、“性的なもの”と“知的なもの”との分離という、実はそれこそがヘテロセクシズムと“男性”の主体化の要である規律への侵犯があると考えている(以前まとめて書いているので以下を参照のこと)
http://kaorusz.exblog.jp/18345164/
http://kaorusz.exblog.jp/19518802/
言うまでもなく“女性”とはそうした“男性の主体化”の都合から生じる抑圧によって“性的な存在”として規定されたものである。だからこそ女性が男性同性愛の表象に興味を持ち、“女性”として規定されたものから外れることは「女性が知的な主体としての自分を生きること」そのものでもあるのだ。

女性が知的な主体としての自分を生き、彼女が望みうる知的な自己実現を成し得るためには、彼女の性的な自己への愛、彼女の性的なファンタジーが、男や彼らが作り上げた差別的な社会によって攻撃され抑圧されることがあってはならない。女性の同性への信頼も、それが守られてこそ真に存在しうるだろう。
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by kaoruSZ | 2016-03-01 15:00 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(29)

下に転載したのは最初8月5日に裏アカでツイートした文章だが、それをRTした藤本由香里氏が、私を「極論を述べる過激派」扱いしつつご自身の「穏当な私見」を述べる踏み台にした結果、私の発言の文脈をまるで理解しない人々によるRTと無礼なエアリプが殺到したため、一度やむをえず削除して藤本氏に抗議した後、8月7日に再投稿したものである。おまけとして事の顛末を述べた8月15日のツイートとkaoruSZさんのコメントも載せておいた。

今読み返しても、この程度の現実的な認識を述べたに過ぎない見解を「利用はしたいが絶対に自分が同じだと思われては困る過激な発言」としか受け取れないデフォルトの卑屈さには呆れるばかりだが、一応はプロの批評家として名が通っているはずの人からしてそれ程に貞淑従順な自意識の持ち主であったこと自体が、「どれ程女を見下したミソジニー的な罵倒に対しても、それがゲイ男性からのものであればうかつに反論してはいけないし、どうしてもしたい場合は可能な限りの気遣いが必要」だという男尊女卑そのものの前提が、いかに深く“腐女子”やBLを云々する人々に内面化されている(いた)かを物語ってくれているだろう。それも結局は女性のセクシュアリティや性表現自体が、それを擁護しようとしているつもりの人々にすら、ヘテロ男性をモデルとした「性欲=暴力」という図式の“女版”としか考えられていないために、あたかも「女にも反省すべき罪がある」ことを認めることが“公平”であるかのように誤解されているためであろう。

私はずっとそうした「暴力=原罪」的なセクシュアリティ観こそが間違いの元であり、それは性的快感の根源である受動性(受身で愛される/犯されるというファンタジー)を自身のものとしては決して認めえず「女のものとして」蔑視する他ない制度的なヘテロ男性のメンタリティこそが“スタンダード”とされていることに由来していることを説明してきた。批評家や研究者ではない一個人として出来ることは既に十分に行ったつもりでいるし、本当はそうしたあまりに基本的な啓蒙からはもう引退したつもりでいたのだが。なんにせよ、これまでに書き溜めてきた論考で十分にカバーできる範囲の問題なので、以下のリンク先から参照して欲しい。
tatarskiyの部屋(4)
tatarskiyの部屋(7)
tatarskiyの部屋(27)


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tatarskiy @black_tatarskiy 8月5日
「同性愛者でなければ同性愛表現をしてはいけないというのはおかしい」という話。これだけ見ればもっともなようだが、その前段になっている、BL叩きの口実として「腐女子の描いたBLは同性愛者に失礼」と言われ続けていた話の本質は完全に男尊女卑の問題なので、実は話がずれてしまっている。

そもそもずっと(女性)同性愛だろうが異性愛だろうが男が女を描くことは「当然」である上に男の描いた女は「生身の女より高級」「女の手本」でさえあるという前提がまかり通ってたのに、女の描く男はそれが同性愛表象か以前に「女の描いた男だというだけで」嘲笑の対象だったんだから完全な非対称。

ぶっちゃけ、腐女子に対する「同性愛者でないのに云々」は、本質的にそういう「当然の前提としての男尊女卑」をストレートにそのまま吹っかけたのでは流石にもっともらしく聞こえないからこその“カモフラージュ”に過ぎなかったと思う。当然本音は完全なるミソジニーで1ミリの正当性もありゃしないが。

そして決まってこういう話になると「同性愛者の腐女子もいる」みたいな方向に話がズレるんだけど、要は「話の都合で」いつのまにかレズビアンが名誉ゲイ扱いになってるわけだ。この話のおかしさについても以前に書いているのでこちらを参照してほしい→http://kaorusz.exblog.jp/21519413/

要はBLや腐女子云々の話に対しての「同性愛と異性愛」「同性愛者と異性愛者」という問題の設定自体が欺瞞的なわけで、構造としての男尊女卑の問題を隠蔽することになってしまう。本質はあくまで「男が女を描くこと」と「女が男を描くこと」の非対称=権力差の問題であることを誤魔化させてはならない。


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tatarskiy@black_tatarskiy 8月15日
先日の藤本由香里氏に迷惑を被った一件の話http://twilog.org/black_tatarski/date-140805あの時は一刻も早く切り上げたかったからあえて突っ込まなかったけど、向こうがRTを取り消したんじゃなくて、私がRTされたのを全て削除してから向こうの便乗ツイートを削除しろと言っただけなんだよね。

(続き)http://twilog.org/black_tatarski/date-140806要は“踏み台”を消されてしまった以上、脈絡もなく私の名前を晒して過激派扱いしてる意味不明なツイートだけ残しておいても仕方ないからこっちの要求に従う他に道がなかっただけ。あれ以上向こうの面子を傷つけて逆ギレされても厄介だったから、最低限のことしか言わなかったけど、明らかに「踏み台に使った素人の反応」なんて考えてもいなかったのが明白だった。そのくせ私の中傷ストーカーから太鼓持ちされれば「私も貴方の言う通り自分が正しいと思いますが、相手が嫌がるからやめてあげたんです」と面の皮の厚い台詞を吐いてたのには呆れた。

そもそもご当人が、腐っても有名人でプロの文筆家のくせに無名の素人を盾に使って「私はここまで過激じゃありませんが」なんて姑息なエクスキューズを用意しなければ物申せないような卑小な御仁でなければこんなくだらないトラブルは起きようがなかったのだが。次に私以外の人がダシにされないよう願う。


鈴木薫@kaoruSZ 8月15日
tatarskiyさんの再投稿されたtwはこちら。
https://twitter.com/black_tatarski/status/497076121427382272
この一連に含まれるリンク先を読めばコンテクストはより明らかになろうが、これは彼女がネット上で地道に積み重ねてたきたいわゆる“腐女子”に対する啓蒙活動の一環であり、「極論だしそこまで言うと違うと思うが私も以前から同じようなことを考えていた」などと、自分が矢面に立つ気のない人間にお手軽に利用されていいようなものではない。
第一、ここでの主眼は、レズビアンを名誉ゲイに回収して“腐女子”を孤立させる詐術への批判な訳で、「こんな極端な奴と同じだとは思われたくはないが利用はしたい」という人の考えていたのとは「同じようなこと」でさえないだろう。

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by kaoruSZ | 2014-09-02 17:48 | 批評 | Comments(0)
tatarskiy@black_tatarskiy
裏アカを全く関係ない話題で再稼動することになった。腹立たしいので手短に。昨日(7月31日)の夕方BSで流れていた子供向け番組http://www3.nhk.or.jp/d-station/program/waracchao/が、露骨なホモフォビアと女性差別を幼児に刷り込むのが目的としか思えない最低の代物だった件について。

この番組、ワラッチャオとかいうらしいが、後述の通り全然笑い事ではないという意味で笑えないので、タイトルが皮肉にしかなっていない。後で調べたら私が見てしまったのはリボンつけたあしゅら男爵みたいな可愛くない猫(キャサリンとかいうらしい)が主役のコーナー「キャサリンのマウステッキ」で、この猫が魔法のステッキを使って町の中のいろんな物に魔法をかけて口が利けるようにしてお話しするという趣向らしいが、私が見たのは電柱とお話しする回だった。まず、一本目の電柱に魔法をかけると、黒い線で書いたような口が浮かんできて、男の声が一人称俺で愚痴を言い出す。

曰く、自分は毎日休まずみんなのために電気を送って働いているのに少しも感謝されない上に嫌がらせばかりされている、と不愉快な出来事を列挙しだすのだが、その口調と不満タラタラで投げやりな態度だけでも、「いかにも男」の横柄さが滲み出ていて正直非常に不愉快だったが、これは文字通り序の口。

この長台詞の最後、不満タラタラ電柱男は「列挙してきた不愉快な出来事の中でも極めつけに屈辱的で情けない経験=“オチ”」として「酔っ払いのおじさんに延々プロポーズされてめちゃくちゃ気持ち悪かった」ことを挙げて我が身を嘆きだすのだ。明らかに「ここで笑ってね!」という文脈で差し出される「コントのオチ」としての「軽いホモフォビアネタ」だが、作り手の自覚のなさと幼児番組という舞台の食い合わせがなんとも陰惨な気分にさせてくれる。「こういうのが“笑える”ポイントなんだよ!男が男にプロポーズされるなんておかしいよね!」というホモフォビックな“笑いのツボ”の早期教育だよね。

しかも話はここで終わってくれないのだ。リボン猫はすっかり捻くれてしまった電柱男を説得するために、今度は向かいの電柱に魔法をかける。すると今度は真っ赤なルージュを塗った妙にぷっくりした唇が浮き出てくると、高い女声が露骨な女口調でしゃべり始める。台詞の細かい内容は覚えていないが、要は「あなたのことは私がわかってるわ」という文字通りの「甘いささやき」でもって「傷ついた“男のプライド”を慰撫してあげる女」というあまりにも陳腐な図式で、先程のホモフォビアネタだけでもこれ以上ないほどゲンナリしていた気分を更に下降させてくれた。

で、このホステス紛いの電柱女の台詞に励まされてどん底から一気に有頂天になった電柱男は「君に抱きつきたいけど抱きつけな~い!」と浮かれた台詞を吐き、リボン猫の「よかったね」という内容のコメントと共にめでたしめでたしでコーナー自体が終わる。思い出す度に何度でもウンザリ出来るクオリティ。

食い足りないので追加の解説。後半のベタベタな女記号まみれのホステス紛いの電柱女の登場は、実は前半のホモフォビアネタを受けた必然的なもの。

つまり、男に言い寄られる=女扱いされるという屈辱を受けて傷ついた男としてのプライドが「女らしい女」から慰められつつ「男として立ててもらう」ことによって回復されるという一貫したストーリーを構成していて、見事なまでにホモフォビアとヘテロセクシズムの必然的な結びつきを物語ってくれている。

しかしエロ漫画なんかより、本当はこの手の「健全で微笑ましい差別意識の刷り込み」の方が徹底して批判されるべき「有害な表現」だよね。明らかに「子供の教育に悪い」んだから。

でもこの番組の存在自体が証拠みたいなものだけど、公共放送の幼児向け番組の製作者みたいな、「何が健全か」をジャッジする権力者の側が「明らかに差別的な表現」を“健全”と見なして奨励すらしているわけだ。要は未だに日本でのホモフォビアと女性差別は「微笑ましい健全さの証し」ということだろう。

しかし馬鹿はこの手の幼少期からの絶え間のない文化的刷り込みという前提を無視して「ホモが気持ち悪いのは自然で当然」とかよくのたまえるよね。そしてNHKはこの手の差別的刷り込みの主犯の一角を担ってるくせに『ハートをつなごう』とか、面の皮が厚いにも程がある。完全にマッチポンプだろ。


鈴木薫@kaoruSZ
↑番組の作り手にはホモフォビアとミソジニーを教え込む意図さえあるまい。「内面」から出てくるものを「自由に」表現したら、規範でドクサで差別まみれのステレオタイプになるんだから救いようがない。頼まれたわけでもないだろうに。「表現の自由」があっても「自由な表現」ができるとは限らない。

「表現の自由より自由な表現を」とは晩年の澁澤龍彦が新聞の文化欄に書いていた。

きんちゃん@kinchan666
同性から告白されて気持ち悪い刷り込みってテレビからの影響めちゃめちゃ有るよな…百害あって一利無し
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by kaoruSZ | 2014-08-09 19:09 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(27)

以下の文章は、今年の2月に@amezaikuさんへの私信として書いたものをtwitterに掲載した文章と、それに対する@amezaikuさんの公開での応答、及び彼女が私からの私信の続きを独自に掲載してくれたものをまとめたものである。きっかけとしては個人的なやりとりとして書いたものであるが、結果としては普遍的なセクシュアリティに関する男女の非対称性とヘテロ規範の本質についての解説になっていると思うので、こちらにもまとめて掲載することにした。何某かの参考になれば幸いである。


【私信より引用】以前私が書いた記事
http://kaorusz.exblog.jp/20773748/
http://kaorusz.exblog.jp/21287837/
を読み返して欲しいと思ったのですが、そもそもはっきり言えば「男同士」と「女同士」が「同じ非へテロ」という前提が反動的なまやかしです。

ヘテロ規範の本質は「男女」ではなく「エロ=女」という決め付けで、性的対象であることを女の本質とする一方で、男がエロティックであることを否認/否定するというホモフォビアです。

だから百合豚の男というのは往々にして究極の処女厨で、当たり前ですがミソジニストなわけです。そして腐女子がその“女版”なわけがありません。

そして、男にとってのヘテロセクシャルな男女関係というのはそれが「当然」である一方、「当然のように汚らわしい」ものでもあるわけです。それは彼らにとっての女の本質が「男に対して受身であること」という「もっとも恥ずべき行為」の外在だからで、ここでも性嫌悪=ミソジニー=ホモフォビアなのがわかります。だから、彼らにとって女同士というのは「男に愛され犯されるなんていう“穢れ”とは無縁の清らかな処女同士」という夢想を投影できる対象なわけです。

だから、不用意に「男女」だとか「ヘテロ」だとかを叩くのは、「男に対して受身になる女は汚らわしい」という反動的な思想への加担になってしまう。

批判されるべきなのはあくまで「性の対象=エロいのは女だ」という決めつけと、それと表裏一体の男のホモフォビアであって、「男同士も女同士もいい。ヘテロじゃなければいい」というのはどうしたって反動的な誤魔化しへの加担になってしまうわけです。

あなたにそんな悪意があったとはもちろん考えていませんし、上のようなことを状況に応じてきちんと書くのは実は難しいのですが、なるべくなら「クィアぶったヘテロ叩き」みたいな安易な方向へは行かないでほしいと思ったので。

上のエントリーにも書いたことですが、特に今の日本的世間の風土では「百合も好き」なのが正しいという雰囲気は、そのまま「百合も好きと言えない限りBLを好きである“正統な”資格はない」という抑圧に直結してしまいます。

もし「百合も好き」と言いたい時には、それが必然的に“有利”な発言であることを踏まえた上で、抑圧に加担しないような留保を付けてほしいと思ったのです。【了】

@amezaiku
↑こちらの文は数日前に私が
https://twitter.com/amezaiku/status/433577619087298562 を始めとした発言に対する指摘です。安易なヘテロ叩きはそのまま男に対して受け身である女性への蔑視へ繋がるものになります。あくまで問題なのは女性=エロ=汚れているという図式に乗っ取った権力であるということを踏まえてなければ権力への荷担になってしまいます。今後は気をつけたいです。
tatarskiyさんから転載の許可をいただいたので、メールからの引用を載せます。


正確に言えば「ヘテロ規範=男女」ではなく「ヘテロ規範=エロいのは女」だという非対称の問題で、つまり男にとっては百合も「エロいのは女=ヘテロ規範の内=俺にとって都合の良いもの」だということです。

だから男女とかヘテロを叩くのが悪いというより、「男に対して受身であること(愛される/犯されること)」を叩くのが悪いということですね。ヘテロ規範とは「男が男に対して受身であること」を“恥”と規定し、「そんな恥ずべきことをするのは女だけだ(=ホモフォビア)」とした上、「そんな恥ずべきことを喜んでする女は汚らわしい(=ミソジニー)」として、更に「男に犯されていない清らかな処女はなんて素晴らしいんだ(=性嫌悪・処女崇拝)」というマッチポンプです。つまりヘテロ規範を否定するためには、そもそもの出発点である「男が男に対して受身になること(ホモエロティシズム)」を否定する男のホモフォビアへの批判が絶対的に必要なわけで、それをしないまま「男同士」と「女同士」を「反男女=反へテロ」として並列してしまうことは、「男女の非対称と男のホモフォビアの隠蔽」にしかならないというわけです。

以上はtatarskiyさん(@tatarskiy1)からのメールより引用しました。

※上とは別の機会に書いたものですが、補足的な内容になっているのでこちらもおまけとしてリンクしておきます。

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by kaoruSZ | 2014-05-23 09:45 | 批評 | Comments(0)
以下の文章は、おととしの9月初めにツイッターの裏アカの方に連続ツイートとして書き継いだものhttp://twilog.org/black_tatarskiy/date-120905に、大幅な加筆修正を施したものです。

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色々他にやることは多いけれど、ずっと書こうと思っていたネタを好きに書いておこう(そもそも裏アカ作った目的が表より人を選ぶ話がしたかったからなのだが)。今回のネタは私が小野不由美を(よしながふみを嫌いなのとは別の意味で)人として好きになれない理由。

端的に言えば自分のミソジニーの強さを倫理性と取り違えている女嫌いぶりと、それゆえの本質的な同性への見下しの強さが鼻持ちならないわけだが。「恋愛は苦手だから書けない」とかインタビューで言ってたのも「女が嫌いだから書けない」だけで、「“男同士”の愛なら好き」というのが本当のところだよね。

男同士の愛の話が好きな女性が必ず女嫌いだというのは中傷だが、本人の中でそれが結びついている場合というのはままあって、それは「男同士の愛の話が好きな女の自分」を嫌悪している場合。なぜかといえば本人がそれを自分のずるさだとか逃げだとか思っているから。

本当は受動性のファンタジー=愛される/犯されるという夢想は万人に共通したもので、制度的なヘテロセクシズムの中では、それが男のものとしては否定され“女の本質”とされているに過ぎない。だから女性にとっての受動性のイメージは“女らしさ”という外部からの押し付けになってしまうわけだ。

でもそれに気づけない女性が“男同士の愛”に惹かれても、「自分の女らしさから逃げている」と思うことになってしまう。そして彼女の中では「受動性=女らしさ=自己の主体性を否定されるネガティブなもの」のままなので、“それ自体”を純粋に価値や魅力のあるものとして肯定して享受できないのだ。

その結果として彼女の内面には「“男並みに”主体的で知的な存在でありたい自分」と「“女として”は受け入れられないものなのに、“男同士として”描かれた受動的なエロティシズムのイメージには魅力を感じてしまう自分」という分裂とそれに対するジレンマが生まれるわけだ。

だが馬鹿馬鹿しい必然として、この“性的なもの”と“知的なもの”との分裂はヘテロ男性のメンタリティの模倣に過ぎない。彼らの場合“性的なもの”は女の本質として丸投げすることで“知的なもの”だけを自らのものとして誇ることが当然であり、それゆえに安定した自我を保てるというだけの話だが。(こうした問題については以前に詳述しているhttp://kaorusz.exblog.jp/18345164/

だいぶ話が遠回りになったが、つまるところ小野不由美の書くものというのはこの見え透いた女嫌いゆえのジレンマの周りをグルグル回っているだけなので、そこに気づいてしまうと非常に気持ちが悪いし、“読者=自分以外の少女”に対する見下しまで仄見えてしまうのがまた嫌な気分にさせられるのだ。

『悪霊シリーズ』から『十二国記』も『屍鬼』も『東亰異聞』もみんな“女嫌い”と“男同士の愛”の間での分裂と自己欺瞞の外には実のところ一歩も出ていない話で、彼女はその間を埋める言葉を持たないまま、「女である前に人間として考えているだけです」という欺瞞的なポーズを取っているだけなのである。

細かいことを言い出したらキリがないのだが、象徴的な話だと思うので『悪霊シリーズ』の結末を例にとっておこう。(以下ネタバレ)読んだ人ならみんな知っている話だが、ラストでヒロインの麻衣が好きだった相手はナルではなく物語の始まる前に死んでいた彼の双子の兄ジーンだったことがわかり、この「人違い」という処理によって、この結末に至るまで読者に表向きのプロットとして示されていた「ヒロインの恋物語」という筋は唐突に打ち切られ、続編では無かったも同然の扱いになっている。これは物語として非常に不自然であるとしか言いようがない。案の定というか、読者からの抗議でシリーズ自体が頓挫してしまったらしいが。そして作者の言い訳というのは「恋愛を書くのは苦手で、レーベルの方針上盛り込んでいたに過ぎないから」というものだったのだが、本当はそんな問題ではありえないのはご本人が書いたもの自体を検分すればわかることだ。

まず結末そのものの不自然さだが、物語のセオリーとして「相手を好きになったきっかけが人違いも含めた何らかの勘違いである」という設定はありふれたものだし、むしろそれが明かされるまでの関係の進展によって読者を十分に感情移入させておくことで、「勘違い」が明かされた後に「きっかけは勘違いでも、今の気持ちは本物」という着地に対するカタルシスを増す効果を狙うものだ。そして実際そうした着地に相応しいだけの進展は描かれていたし、普通に考えてヒロインの恋愛自体をまったくの反故にする理由が無い。

読者の感情移入を損ねるのは目に見えているのに、作者がそんなことをしたのはどうしてか? 身も蓋もない答えだが、つまり彼女は「ヒロインの恋物語に素直に感情移入できるようなナイーブな読者の少女が嫌い」であり「そうした読者の感情移入の対象になるナイーブな少女であるヒロインが嫌い」なのだ。要はあのヒロインの恋物語という表向きのプロットの裏で進行していたことが最後に明かされる「ナルの正体」についての一連の謎解きそのものが、実は表向きのプロットに象徴されるヘテロセクシャルな恋愛物語や、その中で持て囃される“無垢な少女”に対する作者のルサンチマンの表明なのである。

謎解きとその後の麻衣とナルの対話によって明かされる真相は、ジーンとナルがそれぞれ稀有な超能力を持ち、テレパシーによって精神をも共有する双子であったこと、麻衣の夢の中で彼女にたびたびアドバイスを与えてくれた「優しいナル」こそがジーンであったこと、ジーンが自分の死後、自分に代わってナルを支える存在として麻衣を選び、そのために彼女の潜在的な超能力を引き出す手伝いをしていたことである。そしてナルにとっての麻衣は、かつての自分たちと同様孤児であり、ぶっきらぼうな自分とは正反対に他者に対して同情的であったジーンを思い出させる、偶然だったにせよ初対面で自分を愛称で呼び捨てにしたことも含めて、最初から他人とは思えなかった親しい存在であったことだ。つまり物語の始まりからジーンは残された自分の半身と麻衣とを結びつける存在として動いており、麻衣の能力的な成長やナルとの関係の進展も彼の意図したものであったわけだ。

これらから予測されるあるべき結末とは、麻衣がナルにとってジーンに代わるパートナーとなるに相応しい能力的な成長を遂げ、またそれと同期した恋愛の成就によって伴侶として結ばれる(少なくともそうした未来を予感させる)こと以外には無いだろう。「きっかけ」としては人違いであったことが発覚するのもその布石でしかありえまい。

この「あるべき結末」に至るまでの物語をナルの側から見れば、分身的な絆によって結ばれた同性の喪失を経た異性愛への移行という古典的な物語の一類型であり、読者の側に明示されていた麻衣の側からは、寄る辺のない無力な孤児の少女が自らの隠れた才能を引き出してくれる援助者にめぐり会い、後にその援助者と結ばれて幸福を得るという、これもまた『あしながおじさん』の類型としての古典的な物語であるものだ。そして作者は明らかに意図的かつ巧みにこうした物語の類型を操っており、最後に“ちゃぶ台返し”のようにこの「あるべき結末」を反故にしたことも含めて確信犯でしかありえまい。

先述したが、ヒロインの恋の行方という表層のプロットの構成は巧みなものであり、有能だが人当たりが悪く他者に無関心な人物として設定されているナルの側が、麻衣に特別な関心を持ち更に関係を発展させる理由づけ(かつての自分たちと同様孤児でありジーンを偲ばせる人柄と能力の持ち主だった)が過不足なく織り込まれている。

言うまでも無いが、これは少女向けフィクションにおける「平凡な少女である主人公が非凡な少年に恋をし、最終的に結ばれる」という定型的なプロットに則ったものだ。この種の物語の肝は当然ながら「非凡な少年の側がなぜ平凡な少女に好意を持つのか?」であり、そこが駄目では単なるご都合主義になってしまうわけである。その「肝心な部分」を巧みに処理していながら、その後にあるべきカタルシスとしての「恋愛の成就」という結果だけは頑なに欠落させているのだから、読者が消化不良を起こすのも当然なのだ。だがそれも結論から言えば、作者が“平凡な少女”が“非凡な少年”と結ばれることを嫌ったからに過ぎない。

“平凡な少女”――ヒロインとそれに自己を投影する読者――を嫌っている作者が自己を投影しているのは誰か? 言うまでもなく、“非凡な少年”である。そしてその少年の“非凡さ”の質こそが、そのネガとしての彼女が少女の“平凡さ”を嫌う理由を解く鍵でもある。

最後の「謎解き」によって明かされる“非凡な少年”――ナルのキャラクター設定そのものは、ある意味古典的過ぎるほどにわかりやすく定型的なものだ。稀有な能力を持った双子として生まれながらそれゆえに周囲に疎まれ、幼くして孤児となり、片割れだけを道連れに生きながらえる日々を送った後、理解ある養親に引き取られて能力をコントロールする術を身につけ、片割れとの協力によって若くして成功を修めたものの、その片割れの突然の失踪と死によってそれも中断を余儀なくされる。という、いずれも「双子、異能、片割れの喪失」といった神話的とも言える要素――要するに“お約束”のみで出来ているようなものだ。麻衣の前に現れた時点での、つまりは物語に登場した際の印象からして、「年の離れた青年(リン)を“従者”として使う謎めいた美少年」というもので、これは後に麻衣がナルに関する事情を知るまどかから「実はナルとリンは駆け落ち中なの」とからかわれるというギャグまで含めて、作者がナルというキャラクターを耽美的な(BLと言った方が通りがいいが)フィクションの定型的な登場人物のある種のパロディとして意識的に造形していたことを窺わせる。

しかも手の込んだことに、これは実は単なる“パロディ”ではないのだ。先述したように真相として明らかになるナルに関する事実そのものはまったく“お約束”の域を出ないものであり、特色(及びある種の作者の悪意)はあくまでその“見せ方”にある。

それまで麻衣という「自身の恋で手一杯であり、それゆえにナルに関する数々の不自然な事実を見落としていたヒロイン」の一人称というヘテロセクシャルなプロットを通して物語を眺めていた読者に対して示される一連の「謎解き」が、ほぼ男同士の協力のみで進められていたこと、それもナルの正体を知る前から、自身の知的好奇心からデイヴィス博士に心酔していたぼーさん主導で行なわれたことは象徴的である。ジャンルとしては少女小説であってもストーリー全体の本質に関わる肝心な局面では女性は蚊帳の外であり、頭脳を駆使した話し合いや秘密の共有、それを通して認め合うことは“男同士の絆”の中にしかないという、本質的にホモソーシャルな構造なのだ。そしてこの男たちの手による「ナルの正体」に関する謎解きから明らかになるもう一つの物語である、ジーンとナルという双子の兄弟の愛と片割れの喪失という悲哀の物語は、表向きのプロットのヘテロセクシュアリティに対するアンチテーゼを形成する“男同士の愛”そのものなのだ。

そして麻衣は結局のところ、このナルとジーンという兄弟の愛と別離の物語を見届けるべき傍観者だったのであり、彼らの“特別な絆”の証人であったに過ぎない存在として処理されてしまう。ジーンがすでに死んでいることを知っても、ナルではなく彼を想い続けることを麻衣が自分で選んだように描かれているのは口実なのだ。

つまるところが少女向けフィクションのお約束としては、“無垢で平凡な少女”である麻衣はその“無垢な平凡さ”ゆえにこそ報われるべきなのであるが、作者はある種の悪意をこめて、ヒロインがその無垢な平凡さという名の“鈍感さ”ゆえにこそ状況から疎外され想いも報われないという結末にしたわけだ。また、このシリーズに対する賛辞として「主人公の少女の一人称であり、恋愛要素がなければならないというレーベルの制約を逆に利用した傑作」だと言われるが、ここまでに述べたように、そうした“恋する少女”に自己投影できる素直な読者に対する作者のメタレベルの悪意の反映まで読み取るべきだろう。

“真相”を突き止めた後に物語全体の構造を見回してみれば、麻衣の本質的な立場は少女小説のヒロインというより、少年漫画的な物語における女性のサブキャラクターに近い印象すらあるし、実際続篇における彼女は三人称への変更に伴って絶対的な視点人物の座から明示的に降りてしまっているのだが。

続篇ではまた、ナルが鏡に映った自分の影を通してジーンと交信する様子を見ていたメンバーが、その絵に描いたような“ナルシスト”ぶりにドン引きする描写があるが、今更言うまでも無く双子や分身、鏡像といったモチーフは同性愛と切っても切れない関係にあり、彼は最初から“そういう”キャラクターである。また超能力やそれを用いた分身とのテレパシーといったモチーフの方も言うまでも無く、官能の延長としての交感のメタファーであり、そうした排他的でエロティックな絆で結ばれていた同性の分身の喪失を契機とした異性愛への移行というのも、そこから派生するお約束のドラマである。

このシリーズも本来であればそうした異性愛によるハッピーエンドによって幕を閉じたはずであるし、またそうなっていればナルに関する“耽美的”な設定も正しく“パロディ”で済んだであろう。もっと言えば物語の約束事として異性愛というゴールを本質的に必要としていたのは、麻衣ではなくナルの方だ。

だが作者にとって、そうした成長の象徴としての異性愛へのシナリオは、たとえそれを拒否することと引き換えに物語の落とし所を見失ったとしても受け入れがたい代物であったようだ。続篇は読者からの不評が原因で頓挫したようだが、たとえそうでなくても問題なく話が続いたとは考えにくい。

そして実は、この表のプロットと裏のプロットの重なり合いから生じている、麻衣とジーンとナルとの相互分身関係ともいえる錯綜の図式の真の意味――物語の結末そのものが明かすと同時に隠蔽していることは、実はこの物語の裏のテーマがかの山岸凉子の『日出処の天子』と本質的に同じものであり、そのラストにおける残酷な真実の暴露とそれによるヒロインの絶望とを、欺瞞的に和らげたヴァリエーションに他ならないことだ。割り振られている表面的な属性にはズレがあるが、おおむね刀自古が麻衣、厩戸がナル、毛人がジーンにあたり、また超能力による問題の解決と平行して主人公の“秘密”に関わる物語の進展を見守るナビゲーターとしては、麻衣は毛人の役割をも兼ねているといえる。

『日出処の天子』のラスト、自身の半身ともいえる毛人に拒まれ、彼を失った厩戸は、その悲痛さからの苛立ちをたまたま彼の秘密に近づいてしまった毛人の妹刀自古にぶつけ、真実を知らされた彼女は絶望の淵に沈むのであるが、皮肉にもその衝撃は、彼女がいつの間にか実の兄である毛人から厩戸に心を移していたことを自覚させる。言うまでもなく、刀自古が知ってしまった秘密とは、厩戸が彼女と同じく毛人を愛していたこと、そして彼女に対してのみならず、彼が決して女を女として愛することができない者であることだ。残酷にも刀自古は自分が決して厩戸から愛されることはないことを、自分が彼を愛していたことと同時に悟るのだ。

そして『悪霊シリーズ』のラストでの麻衣とナルの対話の真の意味もまた、この刀自古と厩戸の対話における真実の暴露と同じものなのだ。より正確には、その前段階に設定されている厩戸と毛人の対話での、彼らが超常的な力を分かち持って生まれた対であることの再度の説明と強調(言うまでもなく、こちらではナルとジーンのそれにあたる)という機能が統合されているが、これは先述した通り、麻衣が物語のナビゲーターとなる視点人物としては毛人をも兼ねていることから来る必然でもある。

最愛の半身を喪失した男による、同じくその半身を愛した女への残酷な宣告――自分がどれ程その半身を必要とし愛していたかと、自分が彼女を愛することは決してないこと――麻衣に対しての場合、さらに残酷なのは、毛人に拒まれた厩戸とは違い、ナルが死してなお彼を守ろうとするジーンから愛されていることだ。

ナルは麻衣からたびたび彼女の夢にあらわれたジーンに、彼女が潜在的に持っていた超能力を活用するためのアドバイスを受けていたことを聞くと、「死んだ後までおせっかいな奴だ」と呆れてみせ、麻衣がそれに対して「ナルのことが心配だったから、私が少しでも自分の代わりになるように指導してくれていたんじゃないかな」と微笑ましく思いつつ彼を気遣ってみせているのも、本当のところは「ジーンが麻衣を気にかけ指導してくれたのも、残された自分の半身を思えばこそだった」という身も蓋もない真実を、「麻衣自身の口から」あたかも彼女自身の自主的な思いやりからでた言葉のように語らせているに過ぎないのであり、要は少し見方を変えれば、実はそのやり口自体が彼女に対して極めてシニカルで残酷なものなのだ。

先述したように、ナルとの最初の出会いの時、麻衣は「ナルシストのナル」とからかうつもりで彼を「ナル」と呼び、それが偶然ごく親しい人間しか知らないはずの彼の本名に由来する愛称であったために彼を非常に驚かせたのであるが、実はこれは「麻衣自身の意図を超えたところであらかじめ彼の本質を言い当ててしまっていた」ことの象徴的な表現である。最後に明かされるぼーさんによる表面的な謎解きの中での「ナル(Noll)はオリヴァー(Oliver)の愛称だった」などというこじつけめいた解釈はある種の目眩ましに過ぎないのだ。

表面的な謎解きの中で最後に明かされたナルの目的とは、彼が超能力(サイコメトリ)によって遠い異国でのジーンの死と、殺された彼が山中のダム湖とおぼしき場所に投げ込まれるのを目撃し、その場所とジーンの遺体を捜すために来日したことであり、同時にそれによって、ゴーストハントを請け負うオフィスを開設していたのもそのための手段に過ぎなかったこと、麻衣たちのあずかり知らぬところで彼がリンと共に日本全国を飛び回り、ジーンと彼の眠る場所を捜し続けていたことも明かされるのだが、こうした一連の事実は、表面的な謎の回答としての機能を超えて、まさしくそれ自体が「彼が最初に麻衣が言い当てたとおりの人間である」ことを証し立てているものだ。彼は最初から、文字通り水鏡の向こうに沈んだ“もう一人の自分”を探し求めるナルキッソスであったのであり、麻衣たちとの出会いもなんら彼の本質には影響を及ぼすことのない一つの挿話であったに過ぎない。

自らの半身以外を真に愛することは決してない双子のナルキッソス。それが彼らの正体であり、だからこそ麻衣は彼らに惹かれ、そして拒まれる宿命にあったのだ。「麻衣が最初から彼の“名前”を言い当てていた」ことは、その象徴的な表現であり、彼女の思いの「行き場のなさ」があらかじめ定められた必然であったことを意味するものなのだ。

先述したように、表面的な物語の結末としては、麻衣は思い人が別人であったことと彼の死とを結局は素直に受け入れ、「少女小説のヒロインらしく」「前向きに」立ち直ることで終わっているが、これは“無垢な少女”を、作者が意図している残酷な真実の提示そのものから「それを認知することにも値しない者」として更に疎外するものだろう。山岸凉子は同じ“真実”に直面し絶望する刀自古を通じて、少女/読者の疎外の救いのなさそのものを描き出したのに対し、この『悪霊シリーズ』一作を通じてはっきりと提示された小野不由美の世界観においては、無垢な少女という名の“愚か者”は、「いったい自分が何に拒まれ、何から疎外されたのか」を悟る資格すら持たないのだ。だがそれは同時に、作者自身に“少女に対する世界の真実の残酷さ”を直視し、対峙する勇気が欠如していること、そのルサンチマンを結局はありきたりなミソジニーでしか埋められないのであろうことを、意図せずに自ら暴露してもいるのである。

この『悪霊シリーズ』の裏の物語も含めた構造とそのメタレベルの意味とは、ほぼ明示的に兄弟ものだった『東亰異聞』や、これも実質的にボーイズラブだった(『十二国記』のプロローグでもある)『魔性の子』以前に書かれたものであることも含めて、作者の(正直なところ陰険な)特質を象徴するものだろう。

作者はどうしても平凡な少女の無垢よりも、非凡な少年の明晰さと異能の方が、予定調和な男女の愛よりも、対等な分身として互いに競い合い、認め合い、理解し合う“男同士の絆”の方が魅力的に感じるのだろう。それはそれでいいし、少女の無垢や異性愛という制度化された“女らしい”ナルシシズムの投影先に満足できないのは当然でさえある。

だが彼女の書くものにどうしても不快な印象が拭えないのは、それが一見中性を気取った道徳的抑圧としての“女嫌い”と、明示的に描く勇気を欠いた“男同士の愛”とに分裂したまま、次第に前者への傾斜を深めていくようにしか感じられないからだ。その方がシビアだとかの評価を得られるのか知らないが。

思えば十二国記の世界観そのものが、こうした“誤魔化し”の見事なシステム化であった。登場人物の大半は、中性化されエロティックな要素を捨象された男女であり、“人でなし”として設定された麒麟にだけ“女性性”が一元化されている設定には、なんとも居心地の悪い欺瞞がつきまとう。

最初に述べたジェンダーの構造的な非対称の問題であるが、男とは自身が世界に働きかける能動的な力を持つ主体であると同時に、エロティックな受動性をも兼ね備えた“両性具有”の存在であることが可能である。それに対して女は自身の受動性を制度から本質化されており、能動的な主体であろうとすればそれを丸ごと抑圧し“中性化”する他ない。そうした抑圧によって中性化された女=名誉男性とは、本物の男の持つ両性具有の可能性なぞ最初から持ち得ない、“出来損ないの男”に過ぎないのだ。

あの十二国記の世界観が無批判に踏襲してしまっているのもそうした古典的な欺瞞であり、それを指して「男女が平等に描かれている」と言われているのを見ても苦笑いするしかないのだが。おそらく『悪霊シリーズ』では読者の少女に対する悪意の形を取ったルサンチマンの、別様の帰結ではあろう。

彼女が本当に書くべきは少女に対する抑圧的な説教という他罰ではなく「なぜ自分は“女”が嫌いなのか」に対する内省か、さもなければ自分が本当に魅力的だと思える“男同士の愛”であったと思うのだが。はっきりしているのは、彼女にはそのどちらも描く勇気がなく、その間を埋められなかったことである。
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by kaoruSZ | 2014-05-12 11:08 | 批評 | Comments(0)
(上)より続く

まず押さえておくべきなのは、これも一般的なイメージとは裏腹に、ワトスンが医者を本業としていたのは、実はホームズと出会う以前の大学卒業から軍医時代までのごく若い時期と、メアリと結婚し開業医となってからの数年間に過ぎないことだ。
 
話が広がり過ぎるので、先述したようにここでは使う情報を基本的に「最後の事件」以前の前半のエピソードのものに限定しておく。本題に戻ろう。『四つの署名』冒頭の会話はワトスンがそれまでも度々目にしては苦々しく思っていたらしいホームズのコカイン依存の習慣に苦言を呈することから始まっている。ホームズはそれを軽く受け流し、話題は前作の事件のことに移るが、ホームズはワトスンの書いた小説『緋色の研究』のロマンスの要素が余計だとけなし、ワトスンは再びむっとする。ホームズは更にワトスンがその朝郵便局へ電報を打ちに行ってきたことを言い当てて自分の推理の確かさを示すが、ワトスンは今度は彼が最近手に入れたという古い高価な懐中時計をホームズに手渡し、その時計の元の持ち主がどんな人物だったか当ててみろと彼を試す。ホームズは、その時計はワトスンの兄が父から受け継いだものであるが、その兄は身を持ち崩して親譲りの財産の多くを失い、酒浸りになって亡くなったのだと言い当ててみせるが、ワトスンは自分にとってショックだった事実を言い当てられて怒り出してしまい、ホームズは彼にしては珍しく自分の態度が無神経だったことを詫びる。

そうこうするうちにメアリが依頼にやって来たことでこの会話は中断され、そして依頼内容を話し終えたメアリが退場すると、再び二人の会話となるが、この時にはワトスンはすっかりメアリに夢中になっており、ホームズはそれに対してあからさまに水を注す。ホームズが調査に出かけ、一人きりになったワトスンは、たった今別れたばかりのメアリに思いを馳せるうち「危険な考えまで頭に湧いてきた」ため「最近の病理学論文」にかじりつきつつ、「私としたことが、金もなく、脚のわるい一介の退職軍医の身で、そんなことを考えるなんて、何という身のほど知らずだろう!」と嘆き、自身の将来に「鬼火にも似た架空の光明なぞ求めるべきではない」と希望の持てない見通しに落ち込んでみせるが、これ以降の彼の頭にはメアリのことしかなく、彼女が父から受け継いだ莫大な財宝の所有権を持つことを知ると、そのために彼女が自分の手の届かない相手になってしまうであろうことで落ち込み、そして結末でその財宝が失われたことを知ると喜び勇んで彼女に求婚し、受け入れられると有頂天になっている。

ワトスンはそれをホームズに報告した際に「君のお手並みを拝見するのもこれが最後だと思う。モースタン嬢は僕の妻になる承諾をあたえてくれたからね」と言い、聞かされたホームズは「悲しげにうめいて」「そんなことになりゃしないかと思っていた。だが僕はおめでとうとはいわないよ」と答え、そしてワトスンが自分は妻を、ジョーンズ警部は名声を得たが、君はいったい何を得るのだと問うと、ホームズは僕にはコカインがあるさと答え、彼が再びその「ほっそりした白い手」をコカインの瓶にのばす場面で物語は終わる。

ここまでに提示した場面とその要素を検証してみよう。まず、最初と最後に登場するコカインは、明らかに事件という接点を与えられない時のホームズの、社会からの疎外とそれ故の無気力の象徴であり、ワトスンにとっては自らには理解しえないホームズの不可解な側面そのものである。それは、最終的にワトスンとメアリが得た誰からも祝福される“当たり前の幸福”に対立する性質を持つものだ。そして誰の目にも明らかなことだが、メアリに心を奪われてからのワトスンは、冒頭ではあれほど気にかけていたホームズの自分への態度や彼の内面に対して驚くほど無関心になっている。要はワトスンはメアリに恋し彼女との結婚を夢見ることによって、それまで思い悩んでいた彼自身の問題と彼とホームズとの関係性の問題から逃避し、最終的にメアリから受け入れられることによってそれを完全に正当化したのだ。

そしてこの『四つの署名』の全体に及ぶあからさまなメアリとのロマンス自体が、冒頭でホームズに『緋色の研究』におけるロマンスの要素をけなされたことへの無自覚かつあからさまな意趣返しなのだ。ちなみにホームズがそうした明示的な異性愛のロマンスを嫌う本当の理由は、決して彼が彼自身の自己申告のような純粋な理性の人だからではないのだが、これもひとまず深入りは避けよう。だが注意深く読めば、この物語において対立しているのが「純粋な理性」と「人間的なロマンス」などではないことは容易に見てとれよう。

本題に戻ると、この一見すべてが明示されているかに見えるワトスンのメアリへの恋と結婚、そして『冒険』『回想』の短篇集で語られるワトスンのその後の職業生活と家庭生活にも、色々と不自然な点が見え隠れしているのだが、それは彼が自身に関して一貫して意図的に伏せている事実に由来しているのだ。

まず、いくらメアリが億万長者にはならなかったからといって、ワトスン自身の境遇が「金のない一介の退職軍医」であることに変わりは無いはずであり、それなのにチャンスと見るや迷わず彼女に求婚した上に、ホームズには君の手並みを拝見するのもこれで最後になるだろうと言っていることからして、婚約期間も置かずにすぐにでも結婚するつもりであることが窺えるし、そして続篇である短篇集で語られている状況からして、実際さして間を置かずに結婚した上に、ほぼ同時に医師としての開業権を買い取って診療所を引き継ぎ、開業医としての職業生活も極めて順調なスタートを切っているのだ。

また、日付を確認してみれば、『緋色の研究』の事件があったのは1882年3月であり、『四つの署名』の作中での日付は(※4)1888年7月である。この間、ワトスンは一体何をしていたのか?騙されてはならないのは、これ見よがしに「最近の病理学論文」を読んでみせていようと、彼が実際に医師として働くことを考えていた様子はまったく見られないことだ。そして『冒険』の最初の「ボヘミアの醜聞」で久しぶりにベイカー街を訪れたワトスンに、ホームズは「医者の仕事に戻るつもりだとは、聞いた覚えがなかったが」と言っている。この台詞自体、彼がホームズと同居していた頃は“医者ではなかった”ことの傍証であろう。ホームズと同居を開始してからメアリとの結婚までのワトスンの数年は、社会的には完全なモラトリアムだったのである。その間、彼は何をしていたのか?“探偵の助手”では答えになっていない。

※4 ここでは詳述しないが、実はこの日付、というかワトスンが結婚した年がいつなのかの記述がエピソードによって食い違っているのには、決してドイルの無自覚なミスではない明確な理由がある。

もったいぶっても仕方がないのだが、例によって答えは目に見えるところに書かれている。「本を書いていた」のだ。これも例によってミスリーディングを誘う書き方をされているが、ワトスン自身もホームズもワトスンが書いた本が『緋色の研究』1冊だけだとは一言も言っていない。ホームズに『緋色の研究』をけなされたワトスンが「私は彼自身を満足させるためにとくべつに書いた作品のことで彼と議論するのがばからしくなってきた。じつをいうと、私が彼の仕事のことを書きつづるのが、当然なさるべき価値あることででもあるかのように、彼が自負しているのも、すこし業腹でなくもなかった」と独白していることも、逆説的にそうしたホームズのために書いた“特別”以外にも、ワトスンの手による物語が存在するのであろうことを裏づけてくれているだろう。

そして、ワトスンの結婚と開業権買取のための資金がどこから出たのかも実は全く隠されてはいないのだが、それをワトスン自身がはっきりと言葉にしてしまうのは差し障りがあったのだ。まず、あのホームズとワトスンの会話での、例の懐中時計をめぐる事実からわかることは、あのごく近い時期にワトスンが兄を亡くし、それによって兄が父から受け継いでいた遺産が彼の手に渡ったことであり、そしてあの日の朝彼が郵便局から打った電報も、おそらくはその遺産相続に関する連絡、より推測を進めるなら兄が最後まで手放していなかった不動産の売却に関するものだったのだろう。

つまり、あの時のワトスンはおそらく最後に残っていた肉親を失い、それを契機に実家の地所も売り払うことになり、いよいよ根無し草の天涯孤独の身の上であることを否応無く思い知らされていたであろう状況にあったのだ。その一方、日々の生活を共にしている相手であるホームズは、興味の尽きない対象ではあっても、同時に極めて不可解な側面を併せ持ち、本当に相互に理解しあい心が通いあっているとは言いがたい関係であった以上、ワトスンが孤独感を募らせていたであろうことは容易に想像できる。また、ワトスンの兄がおそらく独身のまま不遇と孤独の内に死を迎えたのであろうことも、ワトスンにこのままでは自らもそうした寂しい死を迎えることになるかもしれないという危惧と、それを避けたいという切実な願望を生じさせていたに違いない。

先に進む前に、この時点までのワトスンの境遇について推測がつくことをまとめると、元々ワトスンは、一度は軍医としてのキャリアを選択したものの、作家になる夢も捨てきれずにいた若者であり、図らずも戦傷を負ったことによってもたらされたモラトリアムと、その最中に彼の創作意欲を刺激する極めて特異な人物であるホームズと出会ったことによって、作家としての第一歩を踏み出すことになったのだ。だが(現実のドイル同様)処女作である『緋色の研究』は出版に漕ぎ付けたものの成功とは言い難く、その後もホームズとの冒険を重ねることで着想には恵まれたものの、作品として発表する機会にはほとんど恵まれずに過ごしていたのだろう。この時期のワトスンの生活は恩給と、おそらく父が亡くなったときに彼の取り分として残された遺産の運用によって成り立っていたのだと思われる。

ここまでの推測を踏まえた上で『四つの署名』冒頭の二人の会話に戻ってみれば、そこに現れている彼らのすれ違いの意味は明らかだろう。ワトスンが常になくホームズのコカイン注射を咎めだてしたのは、決して「昼食のときに飲んだボーヌ・ワインのせい」などではなく、定職もなく、作家としても一向に芽が出ないうちに、最後の肉親であった兄の死によって本当に天涯孤独となってしまったという状況から来る焦りと不安という極めて人間的な心理状態を、コカイン注射という、(今の自分が抱いているような常人の悩みへの共感は期待できないと感じさせる)ホームズの常人離れした不可解さを象徴する行為によって刺激されたためだ。そして、案の定とはいえそれをあっさり受け流された上、その後の会話でもホームズのためにこそ書いたつもりの処女作を貶されたことには当然傷ついたであろうし、(「最近の病理学論文」を手元に置いて読んでいたことが示唆しているように)作家を目指すのを諦めて医者に戻る方に傾きかけていた気持ちをますます後押しされてしまったに違いない。

ホームズに兄の形見の懐中時計を渡し、その元の持ち主がどんな性格や習慣を持った人物だったか当ててみろと彼を試したのも、肉親の遺品に象徴される自分の悲しみなど、常人離れした彼にはわかるまいという当てつけである。ホームズが時計が掃除されて間もないので推理の材料がほとんどないと言うのを聞いて「掃除していない時計だって、彼に何がわかるものか!」と、常の彼らしくない意地の悪い感想を持つのも、本当は「自分の気持ちなど彼にわかるまい」という憤懣やるかたない感情の表れなのだ。結局、ホームズはワトスンの兄の性格とその不遇な最期を見事に言い当てると共に、ワトスンの感情を傷つけたことを謝罪するが、つまりはここで示されている彼らの感情的なすれ違いと、この時ワトスンの置かれていた状況こそが、「ワトスンの結婚」という結果をもたらした事件の真の発端なのである。

ここまでの解説を読めばもうよくお分かりいただけただろうが、ちょうどその時に依頼人としてメアリが現れたことは、ワトスンにとってはまさしく渡りに舟と言える願望の実現の糸口であったわけである。彼があっという間にメアリに夢中になったのも、到底純粋な一目惚れとは言えない先立つ動機があってこそなのだ。だがそれは表面の記述の中では、ワトスンが兄の遺産を受け継いだことと、彼が作家志望であることが巧みに伏せられていることで、単純なロマンスとして印象操作されているのである。言うまでもなく、こうした“叙述トリック”の全てはワトスンを単なる素朴な記録者と誤認させるためのワトスン=ドイルの企みであり、その作為に意識的になることこそ読者にとっては“挑戦”への第一歩なのだ。

「最後の事件」に至るまでの二人の関係性の変化と真の展開を把握した上で、先に触れた『四つの署名』でのホームズとワトスンのすれ違いとワトスンの結婚に至る流れをホームズの視点から再構成すると、実に笑うに笑えない悲喜劇であることがわかる。読者にとって明示的なワトスンの視点からでは、冒頭のホームズのコカイン中毒に対する友人の心配を鼻で笑う態度や、友人が自分をモデルにして書いてくれた小説をまるで評価せずに通俗なロマンスが邪魔だと小馬鹿にする態度は、単に理不尽にしか映らず、やはり常人には理解し難い冷淡な人物なのだという印象を強めるばかりだが、実はホームズがワトスンの小説『緋色の研究』を気に入らない本当の理由は、実際の事件の調査において、ワトスンが異性愛のロマンスの要素に気をとられて見落としていた、それとは決定的に異質な(はっきり言ってしまえば非常にクィアーな)要素をホームズは見逃さなかったからであり、彼はそうしたワトスンの“凡庸さ”を揶揄せずにはいられないだけなのだ。

彼の「ユークリッド幾何学の第五定理に、恋愛物語か駆け落ちの話をもちこんだような結果になっている」というワトスンへの嫌味は、「目の前にあるクィアーな真相に気づきもしないで、そこにありもしないヘテロセクシュアルなロマンスばかりを想像でクローズアップするなんて、君は無粋なことをしたものだ」とはっきり言えないばかりの言い換えなのである。「ただ説明に値するのは、僕がいかにして事件の解決に成功したかという、結果によって原因をもとめうる解析的な論理の巧妙さあるのみだよ」というけんもほろろな言い草も、その本心は「その場にありもしなかった異性愛のロマンスに思いを致すよりも、彼の目の前にいた自分だけをもっとよく見ていて欲しかった」という微笑ましいほどの焼き餅なのだ。そして彼のコカインへの耽溺も、そうした「凡庸な人間の目には映らない手掛かりを容易く見つけられる」という稀有な能力と、それと不可分一体である彼の特異なセクシュアリティゆえの疎外に由来しているのだ。

しかし、皮肉なことに、こうした彼の「素直になれない態度」は、折悪しく常になく落ち込んでいたワトスンの気持ちを彼に対して閉ざさせる結果となり、そこにあろうことかメアリが登場したことによって、ホームズは完全にワトスンの心をメアリに奪われてしまったわけである。ホームズはメアリと接触したワトスンの反応ですぐにそれと覚って不満を態度に表し、(手料理を振舞ったりヴァイオリンを演奏したりして)懸命に彼の気を引こうと試みてもいるが、そうした努力もむなしくワトスンは結婚とホームズとの同居の解消を決めてしまったのはご存知の通りである。

ワトスンは自分の結婚を素直に祝ってくれようとしないホームズに「君はこの結婚に不満な理由でもあるのかい?」と問いかけるが、ホームズはそれに対して、「そんなことはけっしてない」と答え、メアリ個人については、「あんな愛らしい婦人はいないとさえ思っている」ほどだし、「そうした方面の才能には恵まれている人」だから「僕らの仕事を手つだってもらっても、ずいぶん役にたつと思う」と高く評価しつつ、「しかし恋愛は感情的なものだからね。すべて感情的なものは、何ものにもまして僕の尊重する冷静な理知と相容れない。判断を狂わされると困るから、僕は一生結婚はしないよ」と締めているが、一見してこのやりとりのちぐはぐさは明らかだろう。ワトスンの結婚に不満な理由でもあるのかと訊ねられたのに、結局その答えはホームズ自身が結婚しない理由にすりかえられているのだ。そもそもワトスンは「君のお手並みを拝見するのもこれが最後だと思う」と言っている通り、結婚したらもうホームズと一緒に“仕事”をする気などないのだから、メアリに「僕らの仕事を手伝ってもらう」必要などないはずである。

皆まで言うのは野暮というものだが、つまりホームズの返答は、「自分がワトスンの結婚に不満な理由」が「けっしてない」どころか「けっして言えない」ものであるがゆえの苦し紛れの言い換えなのだ。メアリに僕らの仕事を手伝ってもらえる云々は、要するに「君と一緒に仕事をする機会がこれで最後になどなってほしくない」という意味であり、ホームズがメアリ個人にワトスンの配偶者にふさわしくない点があるとはまったく思っていないという表向きの情報とあわせて、「ワトスンに自分から離れてほしくない」という本音を隠しつつ表わしているのである。恋愛は感情的なものだから自分の尊重する冷静な理知とは相容れないという持論に続けての、「僕は一生結婚はしないよ」というどこか意固地に聞こえる台詞も、本当は「君に一生結婚なんかしてほしくない」という極めて感情的な心の中の台詞が、正反対の形で表わされたものに他ならないのだ。もうおわかりだろうが、この最後の場面での二人のやり取りは、最初の場面でのそれと完全に照応しており、どちらの場面でも、ホームズの一見するとぶっきらぼうで冷淡にさえ思える台詞の奥に、実は自分に対する感情が潜んでいることに気づかないワトスンと、それに密かに苛立ちを覚えつつも素直になれないホームズとのすれ違いが描かれているのだ。そして、最後の場面での二人のすれ違いは、最初の場面からのそれの結果であり、ホームズにとっては紛れもなく悲劇でありながら、ワトスンはそれに気づきもしないという滑稽さが二重底の悲喜劇を構成しているのである。

このワトスンの結婚以降、「最後の事件」に至るまでの展開は、実は『四つの署名』冒頭でのすれ違いを生んだ二人の齟齬が解消されるまでの――もっと言えば、ワトスンがホームズを今度こそ完全に理解し得るまでの過程である。ワトスンは最終的に、ホームズが自分の書いたものの何が不満であったのか、彼に見えていて自分に見えていなかったものは何か、何が彼を薬物の力に依存させるほどに疎外しているのか、そして彼は自分に何を求めていたのか、その全てを完全に理解し、もう二度と再び彼を裏切らないことを誓ったのだ。

そしてワトスンにとって、ホームズを理解することそのものがエロティックな“学び”であり、彼はそれによって真に作家として自立することができたのである。『冒険』『回想』の2冊の短篇集はまさしくその成果であり、その後に書かれた『バスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は、実は二人の葛藤と愛と、そして理解に至る軌跡のクライマックスだった「最後の事件」の二通りの変奏なのだ。

つまり、ホームズの長篇4冊は、『緋色』『署名』の2冊がドラマの始まりを、『犬』『谷』の2冊がそのドラマのクライマックスである「最後の事件」に至る物語全体の変形された繰り返しを担っているのである。いうなれば、後の2冊の持つ意味は「最後の事件」までの第1部そのもののダイジェスト版だともいえるが、前の2冊よりも遥かに濃密でマニエリスティックな構成になっている(逆に言えば、まったく素直には読めない)。そうした技巧の進化そのものが、ワトスン=ドイルの作家としての老成の証でもあろう。そして読者にとっては、非常に挑戦し甲斐のあるパズルでもある。ぜひ多くの方にチャレンジして欲しい。


P.S
おまけ。本文では「空き家の冒険」以降の後半のエピソードには触れなかったが、実は『四つの署名』冒頭でのホームズの推理――及びそれが示唆するワトスンの経済状況――に対応した細部が「踊る人形」冒頭に存在する。ファンの間では割と有名なネタではあるが、実はこれが遡って『四つの署名』でのそれがやはりワトスンの経済状況に関連したものであったことを明かしてくれているのだ。これを言ってしまうとほとんどネタバレなのだが、<あけっぱなし⇔鍵をかけられている>という対比はわかりやすい。というか、やっぱりホームズ怖い。帰還後は完全にヤンデレである。
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by kaoruSZ | 2014-03-10 11:41 | 批評 | Comments(0)
今回は、ホームズ物語の4つの長篇作品の持つ意味と、その位置づけについて語ってみたいと思う。ご存知の通り、そのほとんどが短篇で占められるホームズ物語のうち、最初の『緋色の研究』と『四つの署名』、そして「最後の事件」後に発表された『バスカヴィル家の犬』と、その更に後(ホームズ復活後の第四短篇集『最後の挨拶』所収の作品群と同時期)に発表された『恐怖の谷』の4つが例外的に長篇となっている。実はこの4つの長篇は、大長篇としてのホームズ物語を読み解く上で、いずれも欠くことのできない極めて重要な意味を持つものだ。

とはいっても、重要でない話などないのだから、より正確な言い方をしよう。作者であるドイルが丹精を凝らして作り上げたホームズ物語の56の短篇と4つの長篇とは、いわばトランプのカードのように、「どれひとつ欠けても成り立たない」ものとして一つ一つに重要な細部を鏤められ、それらが相互に参照しあうことで、隠された意味のつらなりを合せ鏡のように映しあうよう巧妙に配置された、希代の作家の手になる芸術作品である。またそれは、あらかじめ場に配置されて読者というプレイヤーの手に委ねられ、正確な意味とその組み合わせを解き明かされるのを待っている、極上の面白さを約束されたソリティアでもあるのだ。4つの長篇は、いわばこのホームズ物語というトランプの絵札のようなものであり、その位置づけ自体が他の複数の短篇の意味を照らし出してくれるメルクマールなのである。

まず、ホームズの長篇4つのうち、あの世界における現実の時系列上の事件として考えていいのは、実は最初の『緋色の研究』と次の『四つの署名』だけである。残りの2つ『バスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は完全にワトスンの書いた小説で、先の2つの長篇とも短篇集にあるその他のエピソードとも質を異にしている。
 
具体的に言うと『バスカヴィル家の犬』と『恐怖の谷』は、ホームズとワトスンが実際に遭遇した他の事件=最初の長篇2つやそれまでに書かれた短篇の細部、作中世界ではワトスンが、現実世界ではドイルが参照した実在の事件の資料、そしてワトスン=ドイルが影響を受けた他の作家の作品という、由来の異なる三種の外部テクストの“引用”によって成り立っている。これはメタレベルで言えば他のエピソードもすべてそうなのだが、他のエピソードが作中世界の時系列上で実際に起きた出来事に根拠を持つのに対し、この二つの長篇はワトスンがある同じ目的のために書いた完全なフィクションなのだ。
 
これも具体的に言うと、実在した事件(または伝説)の資料とは、「犬」ではその巻頭の献辞にもある西部イングランドの伝説、「谷」ではアメリカで実際に起きたアイルランド系秘密結社をピンカートン探偵社の探偵が潰滅させたという事件の記録であり、誰にでもわかる外形的なモデルを形成している。

そして他の作家の作品とは、(※1)一例としては「犬」におけるブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』を挙げられよう。あの魔の犬のイメージの出典は、直接的な執筆のきっかけだった伝説のそれ以上に、ドラキュラ伯爵が変身した狼であろうし、作品のテーマと結末そのものが、ホモソーシャリティと異性愛の勝利に終わった『ドラキュラ』のそれを逆転させた、男の結婚の阻止と同性への愛の成就というパロディ的な意味を持ってもいるのだ。

※1 「犬」におけるもう一つの重要な“出典”はディケンズの『大いなる遺産』である。

普通にシリーズを通読した場合でも、「犬」が他の3つの長篇と著しく異なる特徴として、事件の推理部分である第一部とその発端となった過去の回想である第二部という形式を取らないことが挙げられようが、実はそれを帰結しているのは、そのプロットにおける異性愛のロマンスの実質的な欠如である。

ご存知の通り、『緋色の研究』の第一部は戦傷を負って本国に戻され、ロンドンに流れてきたワトスンがホームズと出会い、彼の特異なパーソナリティに興味を抱くうちに、ある日舞い込んだ殺人事件の調査の依頼がホームズと共に非日常の冒険へと乗り出していく最初のきっかけとなるまでの顛末であり、「聖徒たちの国」と題された第二部は、その殺人事件の犯人が捕縛された後に明らかになった、事件に至るまでのアメリカを舞台にした過去の因縁の物語であるのだが、こちらは乾き果てた荒涼たる大平原やユタの開拓地の一面の小麦畑、峨峨たる山脈をめぐる隘路といった引き込まれる情景の中で展開される、誰にでもわかりやすい悲劇的なロマンスと冒険の物語である。

実はこの素直な物語にも裏が無いわけではないのだが、ここではひとまず深入りは避けよう。だがこの第二部の大半を占める饒舌なロマンスは、実は注意深く読めば明示されているようにあくまでワトスンの書いた小説であることと、(※2)その構造自体の持つ重要性は指摘しておくべきだろう。

※2 『恐怖の谷』も、基本的な構成としては『緋色の研究』の意識的な焼き直し=セルフパロディである。詳細は以前の解説を参照。

実際の犯人ジェファスン・ホープの供述はレストレードの手記にある通りの簡潔なもので、実は
それとラストに示される事件後の「エコー紙の記事」にある、被害者二人と犯人の出身地やモルモン教が関係していることといった、実はそれ自体の真偽も定かでない幾許かの補足こそが、事件とそれに至る因縁について現実に語られた全てであり、ワトスンはそれを基本の素材とした上に、おそらくアメリカの地理や気候風土についての資料(※3)を情景描写のための素材として追加して、あの「聖徒たちの国」という小説を書き上げたのだ。その手法と“製作工程”は、言うまでもなく現実のドイルが行なったそれと同じものである。

※3 実はそれらに加えてホーソーンの「緋文字」が重要な“出典”となっている。

またそれは暗に第一部の冒頭からの全てが、本質的にはこの第二部と同様、ワトスンの手によって事後的に構築されたフィクションであることを示しているのだ。この「作中人物としての作者の手による劇中劇」というマトリョーシカのような構造は、実は全ての事件のエピソードに共通するものであり、はっきり言えば4つの長篇と56の短篇からなるホームズ物語のうち、“ワトスンの手による小説”でないものは2篇の例外を除いては存在せず、それは現実におけるそれが全て“ドイルの手による小説”であることと絶対的にパラレルである。ワトスンとは厳密に“あの世界”におけるドイル自身なのだ。

上で“2篇の例外”と言ったが、これは共に『事件簿』所収のホームズの一人称による短篇「白面の兵士」と「ライオンのたてがみ」のことで、実はこの2篇の真の重要性は、それまでワトスンが隠蔽していたホームズ自身の素顔と、二人の真の関係性が垣間見えることであるのだが、それは別の機会に譲ろう。

補足のつもりの部分がだいぶ長くなってしまったが、つまり『緋色の研究』の時点で、この後に続くホームズとワトスンの物語を読み解くための基本となる鍵が提示されているのだ。まず一つ目は、第一部のワトスンのホームズとの出会いから事件の調査を通して彼についての認識を深めていく過程が、言うまでもなく『冒険』以降の短篇集の世界とも共通するフォーマットとなっており、それが実はそのまま、二人の関係の進展という裏のテーマ、つまり同性愛の物語を担っていることである。そして二つ目は、第二部が彼らが遭遇した事件の当事者たちの物語であり、それが明示的な異性愛のロマンスと、それを起点とした激しい愛憎を伴った、“過去の因縁”と“復讐”の物語であることだ。これはあらゆる意味で第一部と対照的な特徴をそなえた、色違いの双子のような関係にある。

戦傷を負ったワトスンが流れ着いた「下水溜めのような大都会」ロンドンの人の群れ、ホームズと出会った病院の研究室、ベイカー街の二人の部屋、事件の現場となった殺風景な空家、馬車が行き交う街角や下町の風景といった場面は、いずれもくすんだ窓ガラス越しに映る景色のように彩りを欠いており、それは言うまでもなく、第二部のアメリカの大自然の鮮やかな描写と対比されるものだ。そしてそれを背景に展開される、はっきりとした物語性と強い情動のドラマもまた、ホームズとワトスンの淡々とした日常や、強い感情のやりとりや対立のないまま連れ立っているかに見える二人の関係性、またその二人の関係性そのものに、表面を流し読みしている限りでは、全巻を読み終えても変化やその契機が窺えないであろうわかりにくさと正反対である。勘のいい方ならもうおわかりだろうが、この“わかりやすさ”と“わかりにくさ”の対比は、実はそのまま“異性愛”と“同性愛”に対応したものだ。

結論から言えば、ホームズ物語におけるそれぞれの事件の当事者たちの物語や、その中で描かれる強い情動には、実はホームズとワトスンの二人の間に本当にあった出来事や、それに伴う彼ら自身の情動が投影されている。正確に言えば、それらはワトスンによってそうした機能を果たすよう再構築されたのだ。

またそれぞれのエピソード同士でも、明示された異性愛のエピソードは、実は明示されない同性愛のエピソードと対応しており、前者がそれ自体としては語りえぬ後者の真実の絵解きとして配置されているのだ。端的な例として「第二の血痕」と「ブルース=パーティントン設計書」の対応関係を挙げておこう。

また、これはドイルの作家としての特性そのものでもあろうが、『緋色の研究』に端的に見てとれるように、物語の真相は常に、過去に設定された因縁の発端から、現在におけるその顕在化と破綻としての“事件”に向けての、直線的な強い情動のドラマとして語られる。それは過去からの来訪者=脅迫する者と、脅迫される者との間の、“過去の秘密”をめぐる愛憎劇であり、もっと言えばこれはほとんどの場合、ある男とある男の間の問題である。男女の場合は総じて男同士のそれほど相互的な強い情動を書き込まれてはおらず、むしろその置き換えであると言えるのだ。

つまり、三つ目の鍵とは、「推理パートとして提示されるホームズとワトスンの関係性=同性愛の物語」と「真相としての“過去の因縁”の物語=異性愛のロマンス及び男同士の復讐譚」に分割された物語の構成そのものが、“作者”であるワトスンが再構築したフィクションに他ならないことであるのだが、これほどの構成能力と文章力を併せ持つワトスンが、ホームズと出会って『緋色の研究』を執筆するまでなんらの文学的野心も持たない単なる退役軍医であったとは思えないし、事実、これ以降の物語の細部を注意深く読み込めば、ある時点からの彼が完全に作家に専念しており、ホームズ物語以外にも歴史小説を執筆し、おそらくは現実のドイルに匹敵する成功を収めたのであろうことが窺える。だが、ドイルはそうした細部を読み取る目を持たぬ読者にはワトスンが作家であることを意図的に伏せており、実はそれこそが全篇を通したある種の“叙述トリック”を成立させているのである。

大長篇としての『シャーロック・ホームズ』の物語の進展は、ホームズとワトスンの長い長い恋愛の成就に至るまでの過程であると同時に、実はそのまま作者であるワトスンの作家としての成長と成功に至る軌跡である。またそれは言うまでもなく、現実のドイルのそれと完全に同期したものだ。そしてホームズとはワトスンに物語を書かせる者、つまり霊感を与える彼のミューズであり、彼らの愛とはそうした物語=芸術の源であると同時に、決して語ることを許されぬ“犯罪”でもある。そして、それは必然として、公認される望ましい関係性=異性愛に基づく健全な家庭生活と社会参加の反対物なのだ。

『四つの署名』で語られる、ワトスンの結婚に至るメアリの登場とそれに対するホームズの嫉妬は、実はワトスン自身の芸術と社会生活の間での葛藤そのものでもある。この第二作は、構成としては『緋色の研究』と同様「事件の捜査」とその発端となった「過去の因縁」の組み合わせであるが、前作より「過去の因縁」の比重が遥かに軽く、第二部として後半を丸々占めていた前作に対して、こちらでは最後の一章が割かれているのみである。それは前作では「過去の因縁」の物語に託されていたロマンスの要素が、こちらでは「事件の捜査」のパートにおけるホームズとワトスンとメアリの三角関係として現在進行形のドラマを形成しているからだ。そしてこちらの「過去の因縁」の物語は単に財宝をめぐる男同士の復讐譚であり、つまりロマンスの要素がどちらにあるかによって比重が偏るパートが決定されているのだ。

そしてこれは言い方を変えれば、この『四つの署名』における真の“当事者”が、明白にホームズとワトスンであるということであり、このエピソードの真の意味が、ちょうどこの頃にあったある出来事をきっかけに、自身の現状や将来の展望について思い悩んでいたワトスンが、メアリの出現によって、彼女との結婚によって現状を打開するという選択肢を思いつき、最終的に事件の解決による障害の除去によってそれが実現するまでの経緯であることだ。このエピソードにおいて最も重要なのは――これに限らずホームズ物語の極めて特異な性質による必然でもあるのだが――冒頭から依頼人であるメアリの登場までの間の、ワトスンのホームズとの会話と地の文での彼の独白である。そしてこの部分で示唆されている問題がワトスンの結婚という決着を見た後の、結びの部分での再度の二人の会話は、その決着こそが二人の関係の不穏な転機となることを暗示するものだ。
 
話をわかりやすくするために、これ以降に出た短篇集である『冒険』と『回想』から得られる情報で推測を補強しつつ語ることにする。その前に述べておくが、この長篇2冊と短篇集2冊からなる「最後の事件」以前の物語は、依頼のあるたびに断続的に書き継がれたとは思えないほど一貫した物語になっており、通俗的なイメージとは全く逆に、大長篇としてのホームズ物語には『緋色の研究』から『事件簿』に至るまで、物語としての本質的な齟齬や矛盾は一切存在しない。それは真のテーマが一貫してホームズとワトスンの二人の関係性=彼らの恋愛の不可逆的な進展の過程であったからこそだろう。


tatarskiyの部屋(25) トランプの絵札――ホームズ物語の4つの長篇について(下) へ続く

 
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by kaoruSZ | 2014-03-10 11:23 | 批評 | Comments(0)
関連エントリ
「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」http://kaorusz.exblog.jp/19972391/

上記エントリへの言いがかりに対する反論は以下に。
http://kaorusz.exblog.jp/19972406/
http://kaorusz.exblog.jp/19973107/
http://kaorusz.exblog.jp/20073529/

+++++++++++++++++++++++++++++++

柄谷
...あることを断定すれば、それは現状では一種の権力の行使にもなってしまいますけどね。しかし、何かぼくはそこのところを楽天的に考えてますね。
蓮實
でも権力の行使を恥じたらば、なぜものを言うのかということになってしまう。あらゆる言説は権力の行使だとは当然のことですが、ただし問題なのは、好きでもないものを好きだと思いこんでしまうことが、大衆的なレベルでもあるわけですね。その人の関係の絶対性を外れたところで好きだと思いこむ物語性は、依然として支配的であるわけです。
 強靭な人やある確信をもった人というのは、その関係の絶対性をいつでも再現しうるんですけども、そうでない人たちは、どうしてあんなもの好きだったんだろうと思ったり、あるいは、そのことにも気づかずに、好きでないものを好きになる目利きでない人は、たくさんいるわけでしょう。
 
『柄谷行人 蓮實重彦 全対話』より




【書き下ろしまえがき】
下の文章は、今年の6月頃までに裏アカで断続的に書きついでいた「Sherlock」についての補足的なツイートのまとめである。本当は本文に当たる表アカでツイートした文章も含めて、シリーズ通しての完全な批評をまとめて書こうと思っていたのだが、正直あまりにも憂鬱で気乗りのしない仕事で、各エピソードについてのメモだけは大量に取ったのだが、未だにまとめて人に見せられる文章にはなっていない。だが、暫定的な調査結果としても間違いなく言えることは、このドラマの世界観そのものになっているミソジニーとホモフォビアのトーン自体が、ある種の露悪的なパロディであり、それはおそらくゲイティス氏ただ一人の確信犯的な作為によるものであろうということだ。そして彼は原作がいったいどういう話なのかを完全に理解した上でしらばっくれており、モファット氏を始めとした周囲と調子を合わせつつ、彼らが理解せず、認めるはずもない、「自分だけが知っている本当のホームズの特質」をちゃっかり自分が演じるマイクロフトの役に割り付けることで、密かにナルシシズムを満たしつつ世間を欺いているのだろう。おそらく、他のスタッフも出演者も一般の視聴者以上のことなど本質的には何も知らないのだ。そのシニカルさと、その原因であろう彼のある種のルサンチマンを思うと正直ぞっとさせられるが、つくづく「彼はゲイなんだからSherlockがホモフォビックなはずなんかない」と私を攻撃してきた人たちの鈍感なおめでたさには溜め息しか出ない。

また、私はその後グラナダ版のいくつかのエピソードをあらためて見たのだが、その結果、グラナダ版におけるホームズがマイクロフトともども自らのセクシュアリティを抑圧した同性愛者として設定されていること、幾つかのエピソードの登場人物にも同性愛者が存在していることがわかった。(私が見た範囲では「ギリシア語通訳」「プライオリ・スクール」の二つのエピソードに顕著なので、興味がある方は確認してみてほしい)ちなみにワトスンは、ホームズに心底懐いてはいるが彼を決して対等に理解することは出来ず、社会人としての実態もはなはだ曖昧な“ペットの犬”状態であり、彼らの関係性そのものが、ちょうどペットとその主人のような、無時間かつ無根拠な親密さだけで成り立っている。(おそらく製作者たちもそれには意識的だったのだろう。グラナダ版「バスカヴィル家の犬」に登場するモーティマー医師とそのペットである忠実な猟犬は、二人の鏡像として設定されていた)

時代も含めた種々の限界は如実に窺えるものの、グラナダ版は明示できないものを「隠しつつ表わす」ための工夫を凝らしながら、ホームズやその他の登場人物たちを同性愛者として描きえていた。それは製作者たちがホームズの世界観を忠実に描き出すためには「避けては通れない」核心的な要素であることを十分に理解していたからだろう。逆に言えば、グラナダ版ですら達成していた地点から「Sherlock」は遥かに後退しているのであり、それ以上に不必要な悪意に満ちている。

また「Sherlock」に登場したディオゲネス・クラブのインテリアや従業員のスリッパが、グラナダ版のそれのほぼそのままの引き写しであることもわかったのだが、つまり「21世紀のシャーロック・ホームズ」として喧伝され、ホームズとワトスンを始めとした主要人物たちの容姿もキャラクター性も、原作やグラナダ版のそれとは似ても似つかない“今風”の設定であるにも関わらず、マイクロフトと彼自身を象徴する空間だけは、グラナダ版=19世紀のそれそのままのアナクロニックな引き写しであるわけであり、このこと自体、マイクロフトこそが“本当のホームズである”ことを意味する記号として機能している。言うまでもないが、「Sherlock」の製作者の中で、グラナダ版のホームズ兄弟の抑圧されたセクシュアリティを始めとした同性愛表象を読み取ることができたのも、そうした技巧を前例として意識的に取り入れることが可能だったのもゲイティス氏のみであろう。

グラナダ版からのそれに限らず、「Sherlock」の作中に“引用”されていたものの持つ意味は、ミソジニーとホモフォビアを“当然の前提”として見過ごす視聴者の目には映らず、理解されることも無い。コメンタリー等でのゲイティス氏の公式な発言を鵜呑みにすることは、実は「彼が本当に見ていたものを見ない」に等しいのだ。(流石に「Sherlock」は極端な例であろうが、そもそも表象を読み解く際に“作者の発言”など当てにするものではない)まして「本人がゲイだから」彼の発言を絶対視するというのは愚の骨頂だし、一般論として言うなら、そうした作者の一個人としての属性を無前提に作品の内容と結びつけて疑わないのは差別的ですらある。まずは作品の内部で表現されたものだけを十全に読み解いてこそ礼儀というものだし、賞賛と批判のどちらであろうと、その結果としての評価でなければ真に価値があるとはいえないだろう。私は「Sherlock」の製作者たちに対して、これまでに公にした文章の中でも、十全に礼を尽くしてきたつもりである。全体のまとめになる文章もいずれ発表するつもりでいるが、その前に私自身のスタンスを確認しておいてもらいたいと考えた。

P.S
ヒント:S2E1「ボンド・エアー」と「007」→「ゴールドフィンガー」及び「プッシー・ガロア」で検索されたし。


2013年2月27日

表アカの続き書く前にやっぱり見ておいた方がいいだろうと「シャーロック」のシーズン2第一話をレンタルDVDで視聴、アドラーの扱いがどうなっているのか確かめた。結論から言えば案の定というか予想を上回る酷さと悪質さだったのだが。シーズン1最終話がホモフォビア編ならこっちはミソジニー編。

アドラー、どう見ても男向けレズものAVにも出演してる安い娼婦程度にしか見えない。女王様と呼ばれてはいてもちっとも女王様じゃない。もちろん原作のようなジェンダーを超越した魅力などまったくなく、異性装の要素も削られていた。当然これはホームズ自身にジェンダーを超越した魅力など無いから。

つまるところは「ただの下らない男」にお似合いの「ただの下らない女」に成り下がっていた訳だが。まあ原作の「女優であり元プリマドンナであり一国の王の元愛人」みたいな華々しく誇り高い美女と、あんな単なる女嫌いでホモフォビックなオタク男でしかないホームズが釣り合う訳が無いのだが。

そして結末も、彼女がホームズを見事に出し抜いて愛する人と舞台を去り、ホームズが彼女に素直な敬意を表する原作の爽やかな読後感とは全く相容れない、どこまでも女を馬鹿にして優位に立たなければ気が済まない男の狭量さそのものの胸糞の悪い代物だった。

要は「いくら頭がよくても女は所詮女、遊びのつもりでも男に本気になって結局は道を誤る。男は一時は女に惑わされても理性で感情をコントロールできるので最後は男が勝つ」「女=男の当然の性の対象であり本質的に感情的、男は絶対そんな愚かな存在とは違う」という悪質なセクシズム丸出しの女嫌い。

しかも「敗北を認めしおらしくなった後なら命だけは助けてやってもいい」という男の傲慢な優越感をくすぐってくれるエピローグでオチがつくという徹底ぶりだった。しかも唐突で脈絡も無く合理的な説明は皆無なので非常に妄想臭い。あれはついでに中東の人への無用な偏見を煽りたかったのか?

そしてある意味例のシーズン1最終話より酷かったのが、このドラマにおいてワトスンがホームズにとって必要な理由など本質的には無く、彼の本質は“母”と“女”さえいれば用は足りる「性的に抑圧された本来はヘテロセクシュアルな男」に過ぎないことを露呈していたこと。

彼らの「絆」の描写が基本的に「女なんかより重要」という、ミソジニー的な描写によって女を下げることによる「相対的な優先順位の高低」でしか示されない空疎なものであることを露呈していたことだ。別にワトスンが居なくたって“母親”のハドスンさんと仕事とコネを提供してくれるレストレード、 自分に気があってどんなに邪険にしても言いなりになってくれるモリー、ついでにこっちも勝手にアプローチしてきてくれるあからさまにセクシーな女のアドラーがいれば事足りる安上がりなオタク男でしかないのがこのドラマのホームズなのだ。

彼らが一緒に暮らしている理由も探偵をしている理由も、ワトスンがホームズを優先的に気にかける理由も、ホームズがワトスンに(なぜか)最初から心を許した理由も、「彼らがホームズとワトスンと名づけられたから」でしかなく、このドラマの中でのオリジナルな動機付けは実は全く欠けているのである。

だから原作やグラナダ版やガイ・リッチー版のような「二人きりの親密でゆったりした間」など描けず、とにかく外部の事象や第三者である他の人物に対してひっきりなしにリアクションさせる以外に手がなく、二人の関係性もそうした第三者に「台詞で言わせる」ことで内実の空疎さを糊塗しているのだ。

つまりは「二人きりになるのが怖い」のであり、製作者が「二人を二人きりにさせることができない」のだ。説明するまでもなくこの恐怖感こそ、文字通りのホモフォビアそのものである。そしてこうしたホモフォビアとミソジニーを除けば驚くほど何も残らないと言っていい程にこのドラマの細部は貧しい。

そんな中で唯一の収穫だったと言えそうなのは、マイクロフトがこの女嫌い狂想曲に満ち満ちたどうしようもなく下品なドラマの中でほぼ唯一の、「女に下劣な性的関心を示さず嫌いもしない」ニュートラルな存在であるのがはっきりわかったこと。彼がメインの場面だけは明らかに不快指数が下がっていた。

結論を少しばかり明かすと、つまりマイクロフトこそが、(中の人の話ではなく)少なくとも裏設定として、おそらくこのドラマの中で唯一の「レギュラーメンバーに入れられており、否定的に扱われることもないゲイ男性」なのであろうということなのだが。

そして彼の服装や紳士然とした物腰から察するに、彼は意図的に「原作におけるホームズ自身の写し」として設定されているのだろう。つまり原作におけるホームズを「ホームズ」として描くことが今時のアクチュアルなタブーに触れ、その“検閲”された部分がマイクロフトのものとして移されているのである。


2013年6月21日

Sherlockのセカンドシーズン2話「バスカヴィルの犬」と3話「ライヘンバッハ・ヒーロー」を視聴完了。まだファーストシーズン2話が未視聴になっているがさして重要な話ではないようなので(手元にあるから後でこれも見るが)一応作業の第一段階は終了と思ってよさそう。

で、見終わってから初めてウィキで各話の脚本家を確認してみたら、私が思いっきり引っかかったホモフォビア話であるS1E3「大いなるゲーム」もS2E2「バスカヴィルの犬」も見事にゲイティス氏の担当だった。ただし脚本の構成自体のレベルが高いと思ったのもこの2つの話で、実はそれは必然。

この作品の「意味のある細部」は、実はホモフォビアとミソジニーに関する部分に集中している。逆に言えば、それ以外の意味性はスカスカで、だからホームズとモリアーティの能力の性質やライバル関係にも、それ自体としての物語性が欠落している。要は「本筋」自体が在って無いようなものなのだ。

つまるところこのドラマには「あの二人のホモ疑惑」→「その拒否/否定としてのホモフォビア+ミソジニー描写」の繰り返しの他に見るべきものは何もないし、だからこそその構図が最初から最後まで枠組みとして一貫している「ゲーム」と「犬」の出来栄えは抜きん出てよかったわけだ。

しかしながら「バスカヴィルの犬」のエピソードは非常に悪趣味かつ秀逸だった(半分は厭味ではない)。原作を非常によく読みこんであるのだが、それによって核心的な裏のモチーフとしての同性愛の扱いを肯定から否定へと180度変えている。あの爆死していた犯人の真の罪は実は同性愛である。

あと例の巨大な魔の犬が同性愛を意味するものであるのも実は原作のそれの踏襲。また、ドラマの世界観の中で強迫的に繰り返し登場していた「女=男に対する性的誘惑の換喩としての汚物」も、ヘンリーが持っていたコーヒーの染みのついた紙ナプキンに書かれた女の電話番号としてしっかり登場しており、既婚の男に騙されたハドスンさんの相手との修羅場とそれを嘲る二人組という、ダートムーアへ行きがけの駄賃とばかりに感じの悪い描写と合わせて開始早々実に嫌な気分にさせてくれた。ちなみにこうした穢らわしい汚物としての女と一切無縁なのはマイクロフトのみで、彼は“神”=作者というわけだ。

また、マイクロフトと彼の所属するディオゲネス・クラブのインテリアに象徴される、塵一つ無く洗練された威圧=貴顕紳士のホモソーシャリティとは、穢らわしい汚物としての女とそれに誘惑され堕落した卑しい男たちの「みじめな薄汚さ」のイメージの完璧な対立物である。

これが階級とジェンダーを巡る差別的描写の一例であることは言うまでもなく、本当に21世紀のドラマとは思えない反動ぶりである。製作者たちが意識的に導入しようとしていたのはおそらくホモフォビアだけであったろうが、それが必然としてミソジニーや階級差別まで呼び込んでしまうわけだ。

そして原作を徹底して読み込み「自分が何をやっているのか」を完璧に把握して脚本を書いていたのは、三人の脚本家のうちでもおそらくゲイティス氏のみであろう。他の二人の手になるシナリオとは完成度がまるで違っていた。また彼の手によらない回のシナリオにも彼の意向は強く反映されていたであろう。

何が言いたいのかといえば、あの露悪的なまでのホモフォビアとミソジニーの構造は、おそらくゲイティス氏自身の確信犯的な設計によるものなのだろうということなのだが。そして彼はそれを「ゲイであることをオープンにしている」という自身のメタレベルの属性とセットで作品世界に織り込んだわけだ。


2013年12月27日

前にも書いたがBBC版の中でも「バスカヴィルの犬」のエピソードだけは一見の価値がある秀逸な出来だった。逆に言えば、その一話前のいろんな意味で最低の出来だった「ベルグレービアの醜聞」とは何の繋がりも無い代物で、同じ出演者が同じ役で出ていても全くの別人としか言い様がないのだが。

要するにゲイティス氏は、明らかに素でホモフォビックなミソジニストである単純なヘテロ男のモファット氏を、権威付けとカモフラージュのために上手いこと利用しているのだろう。ゲイティス氏は明らかに原作のホモエロティシズムを読めているが、当然そんなことをモファット氏に教えたわけがない。

脚本家によってエピソードごとの完成度にもシャーロックの性格付けにもムラがあり、場合によってはまるで別人になっていたのだが、その中でもマイクロフトの役割にだけは一切ブレがなかった。流石に黒幕としか言いようがないが、裏を返せば彼だけは他の登場人物と同じ平面に存在していないわけである.

彼だけが登場人物であると同時に“神”=作者であり、他の登場人物たちは彼の操り人形に過ぎない。彼は他の操り人形たちにあらかじめ彼らの“運命”を予告した紙=シナリオを渡し、自らは傍観者としてその行方を見届けるのだ…と、実は全くこの通りのシーンがS2E3に存在するのだ。

このわざと稚拙に作られたとしか思えない悪意に満ちた“偽物の世界”において、リアリズムを装った表面的な理由付けはまるで当てにならない。登場人物の挙動や表面上のシナリオに違和感を感じた時は、それが納得できる“自然な”情動を補完してしまいたくなるのが人情だが、実はそれこそが罠なのだ

登場人物に“共感”しようと寄り添うことをやめ、画面に映るもの全てを不自然な作為としてありのままに受け止め目を凝らした時、実は最初からこの世界が、その創造主の意図そのままに、精巧な人造ダイヤのような冷たい輝きを帯びていたことに気づくだろう。私はその技巧には決して賞賛を惜しまない。
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by kaoruSZ | 2013-12-23 14:53 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(23)

下の文章は、和紙子さん(@amezaikuさん)の“腐女子自重ルール”反対の投稿企画
http://nozityo.blog.fc2.com/ への鈴木薫(@kaoruSZ)と私との支持表明、及び私からの補足として、 11月12日http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131112~13日http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131113にかけてツイッターに投稿したものであるが、ツイートにはしていない書き下ろしの追記をつけておいた。私はこの企画の参加者ではないが、コンセプトそのものは当然支持している。和紙子さんへの中傷のツイートや悪意あるデマに惑わされた人にも、企画ブログにある彼女の説明を読んで判断してもらいたい。また、この後に湧いてきた中傷者たちとのやりとりや批判についても後半にまとめてある。


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鈴木薫@kaoruSZ 11月12日
@amezaikuさんの、女性の手になる作品への不当な自粛要求に反対する闘いを断固支持するが、涌いてくる有象無象が目に余る。参考に拙ブログ「ロワジール館別館」内の、tatarskiyさんの過去のまとめを紹介しておく。http://kaorusz.exblog.jp/18345193

http://kaorusz.exblog.jp/19518802 ←こっちは、腐女子に「ホモ」は差別語だとか味方のふりして説教する奴に見せるといいよ。“tatarskiy”のタグ作ったから彼女の他の文章もどうぞ。理論的な基本は既にtatarskiyによって書き尽くされている。

有象無象は@amezaikuさんに酷い攻撃をする奴だけでなく、一見味方づらする奴の中にもいる。“男の自然で当然なヘテロセクシュアリティ”の覇権性に目をつぶり、「性的に消費」する点でお互い様とか寝言ぬかして媚びる奴は、ヘテロ男性には逆らえないから腐女子に八つ当りするゲイの男並みの臆病者だ。

「性的に消費」とは“男の自然で当然なヘテロセクシュアリティ”の対象である女のモノ扱いであり、しかもそれこそが女の栄光とされる。それ以外の部分は男にとって不必要、男同士の話を好むというのはまさしくこれに当る。お互い様とか言っている連中は男にこのような立場がありうると思っているのか。

ホモエロティックなものは、伝記的にはゲイとされていない男性作家の作品中にもしばしば存在する。「同性愛ではない、友情だ」と言い張るのは“女にされる”ことを死ぬ程恐れ、ホモ/ヘテロ の分割線を絶対的に必要とする“男の都合”であり、そのような禁止とは無縁の場所にいる女は容易にそれを見出し享受する。

tatarskiy@black_tatarskiy 11月12日
今更ですが、@amezaikuさんの投稿企画を応援しています。またぞろ沸いてきた馬鹿を相手に奮闘されているようだが、この手の馬鹿が難癖をつけてくるポイントについては以前に私がほぼ書き尽くしているのでまとめ記事を貼っておく。

「性的な表現は本質的に暴力なんだから女も反省しましょう」みたいな物言いに関しては→http://kaorusz.exblog.jp/18345193
「ゲイはいいけどホモは差別なんだから腐女子も気をつけなきゃ」というのには→http://kaorusz.exblog.jp/19518802
そして「女の男ファンタジーだって男の女ファンタジーと同じようなものなんだからお互い様だ。女だけが被害者面するな」というのには→http://kaorusz.exblog.jp/20773717

それから上に挙げた記事ではカバーしきれない部分への補足だが、賛同者面した連中も盛んに連呼していた「男と同じように性的に消費する」という実のところリアリティゼロの紋切り型と、それに輪をかけた「腐女子が同性愛者を性的に消費」云々というミソジニーに基づいた完全なヘイトスピーチについて。

正直今回の件で一番気になったのは腐女子叩きへのアリバイとして「レズビアンの腐女子もいる」みたいな物言いが出てくること。BLを「ヘテロ男のそれの女版としてのヘテロ女の横暴」と言い立てる連中への反論のつもりだろうが、完全に相手の術中に嵌っている。

こういうことを言う奴は、「性表現は搾取で暴力なんだからお前も加害者だ」と女を脅して萎縮させたいだけで、そのために“腐女子”をヘテロ男の女版に仕立て上げたいというだけ。つまりは最初から男女の非対称の隠蔽が目的。同性愛者か異性愛者かではなく、男か女かの問題であることを誤魔化している。

つまり、向こうが女から抗議の正当性を取り上げるために勝手にでっち上げたに過ぎない分断線に乗っかって「腐女子にもセクマイの人だっています」と言い出すのは非常に筋が悪い。ゲイだろうとヘテロだろうと男は権力者なのであり、女にはそんな力は無いという絶対的な事実を誤魔化させてはならない。

またそれはレズビアンだろうとバイセクシュアルであろうと全ての女性が“女”として差別されることから逃れられないことを隠蔽し、在りもしない“名誉男性”をでっち上げることでしかない。大体それは彼女たちを「ゲイ男性の女版」と見なすことでしかないし、それ自体が男を基準にした男尊女卑であろう。

言い足りないので補足。そもそも馬鹿がBLや腐女子について「男が女にしてたことを女が男にするのか」って言うのって、論理としてはそこで「ただしレズビアンなら別」になるのがおかしいんだよね。レズビアンも「女」なんだから「BL好きな女は皆加害者」じゃなきゃ一貫性が無いよ。

そこで「レズビアンなら別」になるのは決してレズビアンのためではない卑怯な男の都合でしかないんだけど、こうして見れば「叩いていい女」と「叩かれない女=名誉男性」を分断する線引きを「誰がしているのか?」すなわち「誰が権力者なのか?」は非常にわかりやすいと思う。結局男様が偉いんだよ。

そしてこんな線引き=分断を女が男に対してする力があると思う?考えただけでもナンセンスなのがわかるでしょ。そうやって男様から祭り上げられた名誉男性ポジションを真に受けて 「あんな“ただの女”と自分は違う」と思い上がっているような女には、セクマイだろうとなんだろうと軽蔑しか感じないよ。

今回の馬鹿どもの発言全般、渦中の人が@amezaikuさんなのも含めて妙に既視感があったんだけど、去年のこの時だったのを思い出した→http://twilog.org/tatarskiy1/date-120417こちらのログから見られますのでよろしければどうぞ。馬鹿の呆れるほどのオリジナリティの欠如がわかると思う。


【追記】上の文章を読み返したら、自分の本音からすればいささか優等生に過ぎる内容だったので追記。実を言えば上の文章を書いた動機は、TL上で見かける自称レズビアンやバイセクシャルの女性たち(自称腐女子の人も、普段は腐女子を見下している名誉ゲイじみた商業小説家もいたが)と、その周辺の発言に非常にイライラしたからだ。上に書いたことだけでも理解できるはずであるが、「腐女子でもレズビアン等のセクマイなら別」 であるかのような前提は、男の側が腐女子を「ヘテロ男の女版である加害者」として規定し、ゲイ男性を「ヘテロ男に搾取される女のような被害者」として偽装するためには、レズビアンを“名誉ゲイ”として“ただの女”から切り離しておく必要があるからである。

繰り返しになるが、 これは男女の絶対的な非対称を無視し、男(ゲイでもヘテロでも)の女性蔑視を正当化するための詐術でしかない。本当に見下されているのは「女のセクシュアリティ」そのものであり、それに気づかないまま、(他の“腐女子”を蔑視する意図が無かったとしても) 「私はレズビアンだから例外だって言い返せる」という前提で発言すること自体、無自覚であれ男による分断統治に相乗りしていることにしかならないだろう。

それから、「私はヘテロと言われてもしょうがないし、セクマイの皆さんみたいに抗議する権利なんて無い」と無自覚に思い込まされている女性たちが多いのであろうことも気になった。そもそも異性愛者/同性愛者という区分自体、それ(だけ)が本当に問題であるのは生まれながらに 「男としての特権」を持つ男性のみであり、女性はあらかじめ「男にとっての女であること」を義務として押し付けられている被抑圧者に過ぎない。つまり、 女性にとってのヘテロセクシュアリティとは特権ではなく「義務」に過ぎない以上、「ヘテロ男の女版としてのヘテロ女」など始めから存在しないのだ。

長くなってしまったが、私が言いたいのは、ヘテロであろうがなかろうが、そんなこととは一切関係なく、貴女には貴女に不当な扱いを強いてくる男に(そいつがゲイだろうがヘテロだろうが)反抗する権利があるということだ。それぞれの場所での皆様の健闘を祈って了としたい。


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上でも挙げた13日のログhttp://twilog.org/black_tatarskiy/date-131113にも残っているように、 この後に何人もの中傷者が沸いてきたのだが、その中でも特にひどかった一人が、私のことを「頭がおかしい。 在日は強制連行されて日本に連れて来られた被害者!だから日本人は一生、在日に償いましょう!って輩に似てる」と罵倒してきた、日頃からミソジニーだけでなく在日朝鮮人や韓国人への蔑視を隠そうともしないらしいレイシストの中傷者だった。更にくだらないことに、私がこの発言を差別発言としての“在日認定” であり、レイシズムだと批判したことに対して、腐女子叩きでつるんでいた周りの連中が、「これはたとえだから本当の在日認定じゃない」「ただのたとえだから人種差別じゃない」と逆に私が言いがかりをつけているだけだと中傷してきたのだが、それに対する私の再批判と、私や和紙子さんへの中傷ぶりを見かねてレイシストに意見してくれたふてねこさん(@futenecoさん)の会話が読めるツイログのページと主なツイートの個別のURLを貼っておく。

(私のツイログ及び個別のツイート)
http://twilog.org/black_tatarskiy/date-131119
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402528622855995393
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402532227512152064
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402533536529268736
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402534774259990528
https://twitter.com/black_tatarskiy/status/402536241595297792

(ふてねこさんのツイログ及び個別のツイート)
http://twilog.org/futeneco/date-131116
https://twitter.com/futeneco/status/401387255660412929 https://twitter.com/vvfuukavv/status/401386751442182144 https://twitter.com/futeneco/status/401415851154210816 https://twitter.com/futeneco/status/401523479406596096 https://twitter.com/futeneco/status/401526500802846720 https://twitter.com/futeneco/status/401527750982262784 https://twitter.com/futeneco/status/401531307533950977 https://twitter.com/futeneco/status/401531357009956864
また上にある私の11月19日のログには、上のレイシストの仲間の一人で腐女子を装って和紙子さんを叩くためだけにアカウントを作ったらしいミソジニストの百合豚と、ふてねこさんとの会話も残っている。それに対する鈴木さんと和紙子さんのコメントも載せておく。

鈴木薫@kaoruSZ 11月19日
ふてねこさんに絡んでた奴、「腐女子浪人生」じゃあり得ないな。

それから昨日ふてねこさんと絡んでいた@tea_shake、私がtatarskiyの過去の連続twをRTした直後RTして嘲笑、大学教授や知識人向けなら分るが学生や若い社会人にはもっと易しくという権威主義と反教養主義のコンボで「腐女子浪人生」という名乗りは最初から違和感があったが→

→ふてねこさんとのやりとりで大体判った。あれはホモフォビックな男、多分腐女子嫌いの百合豚で、男同士の話が好きな女なんて「腐ってます」と自己卑下してくれなきゃ我慢がならないんだろう。ツイートも最近始めたばかり、和紙子さんを攻撃するために作ったアカウントだね。

和紙子@腐女子であることは罪ではない‏@amezaiku 11月19日
正直言って腐女子ルールに縛られている腐女子がゲイで男であるふてねこさんをあそこまで罵倒するのが考えられない。そういった腐女子は「本物であるゲイor男に偽物の腐女子めが申し訳ありません」となるのが大多数。TL読んでもの凄い違和感。

腐女子から腐女子への批判には「当事者性」が大きく関わっている「当事者ではない自分たちがこんなことしていいのか」と(もちろんそんなもの気にする必要はない)それなのに腐女子でありながら相手が「ゲイ」や「男」であっても腐女子批判を軸に罵倒できる腐女子というのは存在しないと言ってもいい。


【追記2】このミソジニーネカマ男のことは翌1月半ばに再度話題にしているのでその時のログも貼っておく→http://twilog.org/tatarskiy1/date-140116その後いったんは消えていたのだが、和紙子さんの企画の実行にあわせて性懲りもなくまた出現しては見苦しくはしゃいでいたようだ。つくづく醜悪なクズである。その後も和紙子さんへの常軌を逸した嫌がらせは続いており、和紙子さんはその実態をブログで公開している。http://nozityo.blog.fc2.com/blog-entry-7.html このなりすましの正体も、腐女子で浪人受験生のティーフロと名乗っていたネカマであるのは文体から一目瞭然だ。


読んでみれば、絡んできた連中の一分の理も無い醜悪さは一目瞭然だと思う。腐女子叩きでつるめる仲間なら、たとえレイシストであろうと見逃してかまわないどころか批判する方が悪いらしい。ミソジニーで目が眩んでいるとしか思えないが、そもそもまともな人権感覚があれば 「在日」だろうが「腐女子」だろうが、「いくらでも差別していい奴がいる」などと思い上がるわけが無いのだから、これは完全に病理として同根というべきだろう。上でふてねこさんに意見されていたレイシストも、同時に同性愛差別者であった。そのことをツイッター上で公言しながら() “差別ではない”と言えてしまう時点で人としてどうしようもなかろう。つくづく下らない話ではあるが、ネット上で空気のように蔓延しているミソジニーとホモフォビア及びレイシズムの“担い手”が、必然として重なり合っていることの傍証ではあろう。図らずもだが、そうした構造を炙り出した意義はあったと言える。


(註) バタフライ@vvfuukavv 11月14日
>RT 残念だけど同性愛は普通にはなれない。何故なら繁殖できないから。生物として子孫を残せない存在は自然界では異質になるじゃないですか。そういう意味で「普通じゃない」のは当たり前かなって。差別以前の問題で見てる。繁殖機能はあるので繁殖だけ異性と関係を持つとかできるかもしれないが。(https://twitter.com/vvfuukavv/status/400278904977383424
別に萎縮する必要も、同性愛を普通の存在に持って行く必要性も感じないんだけどなぁ。何でこんなに差別差別って叫んでいるのかわからない。皆違って皆良い。(https://twitter.com/vvfuukavv/status/400279916542820353

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by kaoruSZ | 2013-12-03 07:13 | 批評 | Comments(0)

tatarskiyの部屋(22)‐1

今年7月の10日過ぎ頃にtwitter上で祭りになっていたものだが、高校の男子水泳部を題材にしたテレビアニメ「Free!」のキャラクターに対する、男性視聴者からの「あんな奴らは男じゃなく女だ」というホモフォビックな反応への女性からの反発のツイートと、それに対する無理解丸出しの中傷めいたツイート、そして更に私自身がそうした中傷に対する反論としてツイートしたものをまとめてみた。リアルタイムで話題を追っていなかった人にも、下記を一読すれば何が問題だったのかは一目瞭然だと思う。

実はこの後にまったく見当違いな被害妄想から“腐女子”叩きに便乗するツイートをした「自称百合好き」のせいで更にくだらない方向に話がそれていってしまったのだが、私はそれについても徹底した批判を行なった。そちらの顛末についてはこちらの記事(tatarskiyの部屋(22)-2及び 3 を参照してほしい。

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和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月10日
「Free!」のキャラを「女じゃねーか」「女でいいじゃん」って言う奴いるけど、あんな女は現実にいないから^^それは男に都合のいい妄想をテンプレート化したものに「女」と名付けているだけだから^^現実と妄想の区別つけて、自分の妄想を女に押し付けるのいい加減にしろよチンカスども^^

ネコクロ @gata_negra13 7月10日
@amezaiku えええ!?そんなこというチンカスがいるなんて…どこが「女」なんでしょうかね?ああいう天然な性格=「女」とか笑えちゃいますよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月10日
@gata_negra13 なんか女っぽいとかカマ臭いとか色々あるんですけど、一番突っ込みたかったのは「会話が女同士にしても違和感が無い」とかいうコメントがあって「いやあるよ!」って叫びたかったです。

まきは岩鳶高校水泳部雑用係 @nejimakipero 7月12日
そういえばFree!の感想で男の人が「なんか女子の考える男子の日常って感じで気持ち悪い」って言ってたけど、京アニ女子の日常がリアル女子の日常だと思ってる皆様にその言葉をそっくりそのままお返ししときますね

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私がFree! の女キャラについてこんなに言うのって、ここで許したら「やっぱり男の欲望は上位のもので、女の欲望は下等だから、どんな場合でも前者を優先させるべきなんだ」という認識を許容し続けることになるので「男の欲望は自然で当然」を否定するためにも口うるさく叫び続けます。

海燕 @kaien 7月12日
ぼくは「こんな男/女はいない」という言葉がキャラクター造形への批判になりえるとは思わないんだよね。現実にはいないような個性だから魅力的なんじゃないか? どこにでもいるような性格のキャラなら現実を見ればいいじゃん。眠狂四郎とか金田一耕助は「こんな奴いない」からこそ魅力的なのでは。


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私のあの主張は「女という幻想を現実にまで押し付ける男性ジェンダー」についての言及も含まれているのに、なんで「フィクションは現実と違うから楽しいんだよ」になるんだよ。ふざけんなよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
「フィクションの男キャラへの批判」ではなく「”男”が”これこそ女である”という主張をし、それが通ってしまうことの異常性」を指摘してんだけど。そこになんの違和感も覚えないの?


海燕 @kaien 7月12日
ある性別向けの作品を異性が見て違和を感じ、それを意見として表明する。そのことそのものは問題ない。ただ、その意見がなかなか建設的な議論にまで至らず、「こんな奴いない」レベルの浅い批判にとどまってしまい、それに対する反論も同レベルでなされてしまうという事態は好ましくないと思うのです。


海燕 @kaien 7月12日
「こんな奴いない」「こんなこと現実に起こるはずがない」というのは、およそフィクションに対する最も浅薄な批判なのではないかと思うんだよね。現実を超克したいという願い、より素晴らしく、より美しく、より鮮やかに、という思いから作られたものに対し「これは現実ではない」と批判するとは……。


和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
RT>「こんな奴いない」ではなく「これは○○だ」という決めつけを強者が行うことを問題視してのあの批判なんだけど、いい加減現実の関係性丸無視で「どっちもどっち」に持っていくの止めろよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私が指摘しているのは「現実にこのキャラがいるかいないか」ではない。「女と名付けられたテンプレート」が現実に存在し、それが権力となっているのだ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
私はいかなる場合でも「女性性」と「男性性」を並べることは心情的にも理論的にもしたくはない。


海燕 @kaien 7月12日
「「「Free 」のキャラを「女じゃねーか」「女でいいじゃん」って言う」ことが「”男”が”これこそ女である”という主張」をしているとは受け取りませんでした。この言葉だけだと「(フィクションで描かれた女キャラクターそのものじゃねーか」「女キャラでいいじゃん」とも受け取れるかと。



和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
RT>男の妄想の女ジェンダーと現実の女を綺麗に分けられていると本気で信じているのならおめでたいことだ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
結局いつもの「女性差別なんてないだろ」の人間か…

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
男の妄想と現実の女が綺麗に切り離されているっていうのならなんで某ゲームで「三次元はもういらない」って宣伝文句が出たんだよ。

和紙子@腐女子であることは罪ではない @amezaiku 7月12日
フィクションに限った話しではなく「男の造った女」は現実の女に対して凄まじい重圧を発揮するんだよ。だからこそフィクションでも男の造った女キャラは許されて女が造った男キャラは許されないんだよ。「(男の造った)本当の女はそんなことしない」から。全部地続きなんだよ


ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
ヘテロ男としてアニメを見てきた身として思うけど、アニメのほとんどはヘテロ男による女性幻想、妄想に満ちている。そういう妄想ってアニメに限らず様々なメディアから溢れでていて、我々の生活を覆っているわけで、それが女性にとってどれほどの抑圧になってるかってことはまず前提にされるべきだよね

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
「Free!」を見て、アニオタ男が「こんな男はいない」「こんな筋肉ありえない」とか吠えたり、腐女子のBL消費をキモいとか言ったりするのって、まんまお前らの美少女アニメ消費に言えることだからっていう批判が出てくるのは当然だなって思うわ。

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
そういった議論が建設的じゃないとしてもそういうカウンターをミソジニーヘテロ男は沢山浴びたほうがいいって思うわ。自分の女性幻想の消費がいかに女性への抑圧になってうるかということについてもっと自覚的になれって意味で。

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
生産量が圧倒的に違うと思うんだよね。99%の男性による女性幻想の生産物に対して、女性による男性幻想の生産物って1%にも満たないんじゃないかな。その1%を男性が必死に叩いてるのを見ると鏡見ろって言いたくなる。

ねこ@がんばらない @naruhodowakaran 7月12日
だから個人的には「Free! 」みたいな美少年アニメはもっと出てきたらいいなって思うし、腐女子のBLとかも「いいぞ!もっとやれ!」って感じで応援している。

ふて☆ねこ @futeneco 7月13日
こんな女はいない!と、散々言っといて、こんな男はいない!に反論するなんてという御意見。いや、そこ同じじゃないし、そもそもこんな男いないwwに対する反論じゃん。そこの非対称性は理解しとけよなぁ。なんだこれ。


tatarskiy @black_tatarskiy 7月12日
RT↑今更ですが、和紙子さんの意見に賛成なのと、一連の流れを見て私からも補足。「男の描いた理想の女像」と「女の描いた理想の男像」はいかなる意味でも対等ではないし、同列に批判もしくは許容されるのが当然なんてことはありえない。

というか一連の流れを見ると、「男と女」という単語の並びを見たとたんに脊髄反射的に「お互い様」と言い立てまくりたがる阿呆が大勢いるようだ。本当はそれこそが自覚の無いミソジニーの発露としか思えないんだが。ぶっちゃけ権力関係の隠蔽だよね?

「男と女」だと判断力が狂う向きにもわかるように説明するが、例えば「大人の考えた理想の子供像(純真無垢だとか学校の先生に褒めてもらえるような良い子だとか)」が子供にとっては抑圧であり、時にありのままのその子であることを許さない暴力でありうる、ということを否定する人はいないだろう。

逆に「子供の考えた理想の大人像」というものがあるとしても、それは「大人の考えた理想の子供像」と同等の権力を持ったものではありえないことは誰にでもわかるだろう。後者が現実の子供にとっては従うべき規範として働くのに対し、前者によって現実の大人が抑圧されることなどありえない。

それと、今回の「Free!」の一件でもそうだったけど、一般に男が男キャラに対して「こんな男いない」と言い立てるのは「女っぽいから」という理由でだけど、女が女キャラに対して「こんな女いない」と言いたくなるのは「過度に“女らしい”から」で、つまりは完全に非対称だ。

これはそもそも「女らしさ」というのが「男にそんなものがあるのは恥でしかない」属性の寄せ集めだから。つまり男は日々女性に対して「俺にそんなものがあるのは恥でしかないが、お前がそれを内面化するのは義務である」というダブルスタンダードの押し付けを当たり前のようにやっているわけだ。

で、この「男にとっては恥」になるものの中でも最大のタブーといえるのがずばり「同性と親密な関係を持つこと」つまりはホモフォビアで、だから今回の「Free!」の男キャラに対しての「こんな奴らは女だ」という反応がミソジニーとホモフォビアが見事に一体になったものだったのも当然の帰結。

そして「男らしさ」というのはあくまで「女っぽくなんかないこと」であり、つまり「男らしさ」も「女らしさ」も「なにが男にふさわしい/ふさわしくないか」も皆「男が決めたこと」でしかなく、これはもっと言えば「なにが“リアル”か」そのものを「男が決めている」ということ。

彼らが一体何を「リアルでないことにしたい」かといえば、端的に言ってしまえば「男が女のように美しいこと」「そうした“女のような男”が同じ男と親密になること」の二つに尽きる。そしてこの二つへのタブー視と嫌悪――ホモフォビアとミソジニー――は、私たちの現実の日常そのものを覆っている。

今回の「Free!」の男キャラへの彼らの反感も、そうした彼らの「現実の日常でのホモフォビアとミソジニー」が「そのままフィクションへの評価に持ち込まれた」に過ぎない。つまりは完全に権力者による権力の行使であり、それに対して女性から反発や非難が起こったのは権力者への当然の抗議である。

それを「リアルな異性が描けないのはお互い様」だの「フィクションはありえないから楽しい」だのとは片腹痛いし、それ自体が男=権力者の一方的な横暴を隠蔽する暴力である。男の描く「女らしさ」とは、女にとっては断じてフィクションではなく、日々彼女に押し付けられている「現実の規範」そのものだ。

(ブログへの掲載に際して誤字脱字を補い、↓を↑に変えてあります)

2へ続く http://kaorusz.exblog.jp/20773748/
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by kaoruSZ | 2013-10-17 08:44 | 批評 | Comments(0)