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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

『瀕死の探偵』をめぐるエクスカーション

(2020年6月4日−7月4日の連続ツイートhttps://mobile.twitter.com/kaoruSZ/status/1268404851332939776 に加筆)


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『瀕死の探偵』は、ホームズが現場へ出向いて調査するのではなく、自分の寝室にこもって、他人をあやつり、引き寄せる話である。まず、家主のハドスンさんが彼の衰弱ぶりに恐れをなしてワトスンを呼びに行く。診察を拒む探偵はワトスンに犯人(もちろんそうは言わない)の名を教え、自分を治療できる唯一の男だからと呼びに行かせる。

 

 その男カルヴァートン・スミスは嬉々としてやってくる。自分が送りつけた、仕掛けのある箱(ドイルが非ホームズものの海洋小説で使った、犯人がその場にいなくても済む凶器のミニチュア版)が功を奏したと信じて。殺人(未遂)現場は、ホームズの私室である。犯人は凶器を送ることで遠隔殺人を試みたが、結局はそこへ来ることになるのだ。


 これ以前にスミスが、ホームズの調査と関心の対象となる事件を起こしていることは言うまでもない。財産横領のための甥殺しを、グラナダTV版はいとこ殺しに変え、別の短篇『唇のねじれた男』を巧みに(と脚本家は思っていよう)取り込んだ。しかも『唇のねじれた男』の目立つ要素(例の乞食道楽)を排する一方で、導入部の、メアリの友人の夫の悪徳――阿片吸引――をそのまま被害者ヴィクター・サヴェジに与えている。


 そもそも『唇のねじれた男』の「阿片窟から戻らぬ夫」は、その名を言えぬもう一つの悪徳を指し示すとともに、メアリから見れば友人の夫は馬車に乗せられ戻ってきたが、自分の夫は阿片窟にいたホームズと一緒に〈冒険〉に出てしまったのだから、何気ない導入部に見せかけて登場する悪に染まった夫とは、ワトスンの秘められた正体であり、その外在化なのだ。


 グラナダ版『瀕死の探偵』の、銀行家の夫の行状に苦しむサヴェジ夫人は、彼を悪徳に誘い込んだのはカルヴァートン・スミスだと初っ端から明言する。しかも夫は詩人になるという夢を捨てられずにおり、阿片が芸術的創造力を高めると信じているという。それは初めのうちだけでしょうと言う夫人に、その通りで、酷い禁断症状が残るだけだとワトスンが応じるのには微笑をそそられる。なぜなら、ワトスンこそ、文学を諦めて家庭と正業を持つことにした(『四つの署名』を精読すれば解ることだ)小説家志望者であるのに、まるで他人事(ひとごと)のようにそう言っているからで、グラナダ製作者はこのあたりかなり読めていたのだろう。もちろんエドワード・ハードウィックのワトスンは、結婚も、妻との死別も経験することなく、なんとなく開業医のふり(と作家のふり)をしながらホームズといるのだからそんな話とは無関係で、この回でも、『瀕死』の設定は彼らが同居していたのでは成り立たないからという理由で別居しているとしか思えない。


 ちなみにホームズに誘われるまま出かけてしまった『唇のねじれた男』のワトスンは、ついにはもっと遠いところへ二人で出発してしまってメアリに捜索願を出されることになるのだし、そこから帰ってはじめて、自分にとって本質的な創作を開始するのである。 


 関連する過去の私たちのツイートを以下に引いておこう。


鈴木薫@kaoruSZ · 20141228

誰もが知るとおり『唇のねじれた男』は二重のアイデンティティをめぐる話であり、メイクアップと濡れスポンジで二つの身分を行き来できるジキルとハイドのお手軽版である。見かけよりもずっと陰惨な話であることはここでは触れないでおくが、スティーヴンスンの小説とも、同様に先行作品である『ドリアン・グレイの肖像』とも共通するのは名を言わぬ悪徳の正体で今となってはドイル以上にワイルドがあからさまだったという事はない。醜悪な乞食と入れ替りに姿を消したセントクレアのより深刻な罪は、ワトスンが阿片窟を訪れる口実であるメアリの友人の夫のエピソードに移し変えられている。


2014125

まあ、drugsは同性愛の隠喩だったり置き換えだったり代用だったりもしますし。グラナダTV版ホームズの『瀕死の探偵』は、そこ完全にわかっていて、表題作に『唇のねじれた男』の併せ技やってた。


tatarskiy@black_tatarskiy· 2014921

昨夜のグラナダ「瀕死の探偵」私の見た範囲では「サセックスの吸血鬼」に次ぐホモ話だった。犯人がホームズの同類であることがダブルミーニングで示唆されていたのも同じ。「唇のねじれた男」からとった阿片窟ネタが混ぜてあったが、これが男色を示唆する二重の悪徳であるのは原作のそれと同じ。


原作の「瀕死の探偵」におけるホームズとワトスンの緊密な関係性を示す感情の昂ぶりや例の隠れ場所(寝台の下!)に示される物理的な距離の近さを例によって検閲した代わりに、事件の当事者たちの関係性(今回は被害者の銀行家と犯人であるその従兄)にホモエロティシズムを転嫁しつつ、ホームズに犯人として同類を狩らせることで、彼を正常な社会の守護者として位置づけつつ結局は抑圧と自己否定に陥らせる、というグラナダ版ホモ話のセオリー通りのいつものやり方だった(マジでこのやり口はジェレミーの命を縮めたと思うよ)ホームズが解決しても嬉しくなさそうなのも当然。


ちなみに私の見たエドワトに交代以降の範囲では「プライオリ・スクール」「恐喝王ミルヴァートン」「サセックスの吸血鬼」の3つが同様のグラナダ名物「めっちゃ後味悪い抑鬱ホモ話」なので再見する方は要注目。このシリーズそのものがジェレミー氏の命を啜って成り立っていた吸血鬼みたいなものだろう


 tatarskiyさんがダブルミーニングと言っているもののもう一つは、いうまでもなく、スミスもホームズもそれぞれの業界で「アマチュア」で、異端で、疎外されていることだ。この点の、原作にはない強調からは、グラナダ製作者が意識的にそうしたことがはっきり見てとれる。


 物理的な距離の近さといえば、グラナダ版でホームズが自分の病気がうつるから「近づくな」と言う台詞が、“Keep your distance”だった。なるほどこう使うのか、ディスタンス。二時間に引き延ばした、ラヴクラフトをくっつけたみたいなグラナダオリジナル『サセックスの吸血鬼』でも、退屈しかけたところで、突然ワトスンの口からiInfluenza epidemicという語が出たので、はっとして画面を注視したが、全く、意味なくタイムリーになってしまって……

 

 しかし、呼びつけておきながら距離をゼロにする直接の接触(診察という名目の)はあくまで拒む(感染という口実で)、この台詞は興味深い。「ベッドの下(!)」とは「ベッドの上」より、ある意味、さらにあからさまでさえあるが、原文を確認すると、ホームズがワトスンに隠れ場所として指定したのは、正確にはbehind the head of my bedで、ワトスンならずともMy dear Holmes!と呟きたくなろうが、どういう恰好でその隙間に収まったのか、まるでデリダが見つけて本に載せている絵葉書の、椅子を隔てて重なり合うソクラテスとプラトンではないか。


『瀕死の探偵』は、原作では実にコンパクトにホームズがワトスンに種明かしをして終るのだが、そこでは瀕死を装う方法は、三日絶食した以外は“there is nothing which a sponge may not cure”だと言っている。つまり、ドイル自身、ここで明らかに、ホームズがセントクレアの乞食メイクを濡れたスポンジの一拭きでぬぐい取る『唇のねじれた男』に言及していたのであり、グラナダ版の“加筆“はそれに応えた、原作にいっそう忠実なものだということになろう。また、ホームズが病気をもらってきた(と称する)のはイーストエンドのクーリーからということになっており、この舞台も『唇のねじれた男』と一致する。さらに、譫妄を装っての、海の底の牡蠣に関する探偵のうわごとも、読み返してみたらけっして無意味ではなかった。


“No doubt there are natural enemies which limit the increase of the creatures. ” 牡蠣の増殖を抑える天敵が存在する、とホームズは言うのだが、阿片窟でワトスンに出会った時の彼の言葉が、まさしく、「こっちは天敵を探しに来ている」だったではないか。


 そうなるとグラナダ版の、サヴェジ邸の食卓での、ある男性の発言――「ホームズさんにも敵がいるでしょう」に始まり、その敵の捜索がベッドまで行く(?)とか言って同席者に遮られる――のも明らかに意識的な『唇のねじれた男』への言及だとわかるが、このあたりはもう一度見てみないと不明なので宿題にしたい。もう一つ、(これも見返す必要があるが)ホームズがベッドで自分を巣の中心にいる蜘蛛に譬えていたような気がするのだが、記憶違いでなければ、そうなるとここでホームズは自分をまさしく「天敵」モリアーティに譬えていることになる。(モリアーティは『最後の事件』の時点ではすでに死んでおり、どこまでも追ってくるモリアーティとは、『最後の事件』の真相を隠しつつ顕すためのワトスンの創作であるとすでに私たちは読み解いている。大陸からロンドン警視庁に電報を打って、手入れは成功したがモリアーティは逃がしたなんて返電が来るわけないでしょう、もしもモリアーティが彼らを追って大陸に渡り、すでに彼らの間近に迫っていたのなら)。友人と天敵自己と他者の境界は、時として極めて曖昧なのである。


 老人に身をやつして阿片窟に潜入していたホームズに「僕は友人を探しに来た」とワトスンは言い、「僕は天敵の一人を探しに来た」と返されるのだが、グラナダ版『瀕死の探偵』は、原作では禿げて脂ぎった二重顎の背中の曲った小男と描写されるスミスを、長身のダンディ、従弟に対する悪魔的誘惑者にして、そのけじめをますます危うくしている。それはつねに敵として現れる同類を滅ぼす仕事しか与えられない悲劇的なブレットが、本来担うべき役割であった。


 イーストエンドの波止場で中国人船員からうつされた東洋の奇妙な病気と言えば、またしてもアクチュアルなリファレンスを持ってしまいそうだが、この病気は武漢から来たのではなく、リチャード・バートンのいわゆる男色帯や、ビエール・ロチの小説や、ドイル自身の短篇にもある幻想の日本から来たのであり、阿片の誘惑とともにコールリッジやボードレールと結びつく。それに対置されるのは、健全で正常な家庭生活だ。夫の死によって相続権を失い、屋敷をスミスに明け渡さねばならなくなったサヴェジ夫人と幼い二人の遺児のためにホームズの仕事があるところが、グラナダ版の、原作との大きな違いである。   

                             

 グラナダ版『唇のねじれた男』はハッピーエンドだが、もちろん(ここでは説明しないが)本当の話がそのように終ったはずはない。『瀕死の探偵』のラストは、取り戻された屋敷の広い芝生で、夫は失ったが(『唇のねじれた男』のジョン・セントクレアの運命も多分同じである)娘と息子が残された美しいサヴェジ夫人が、ホームズとワトスンを迎えてくつろぐシーンだ。ワトスンに促されてホームズにお礼を言う娘(tatarskiyさんが言うように、ホームズはけっして嬉しそうな顔はしていない)。原作はどうかと言えば、まずこの一家がいないのだからもちろんこんな場面はないし、すべてが芝居だったことを知り、安堵しながらも怒り心頭のハドスンさんがプンプンしながらホームズにお給仕するあの愛すべき場面もありはしない。健全な家庭と規範の回復で終るわけではない原作の『瀕死の探偵』では、断食を癒すのは母親代りのハドスンさんの料理ではなく、ホームズはいかにも独身者らしく、行きつけの「シンプソンズ」での食事にワトスンを誘うのである。


 グラナダ版『瀕死の探偵』の加害者と被害者の関係は、もう一組のホームズとワトスンとして彼らの関係を外在化したものに他ならない。規範からの麻薬/同性愛による逸脱は、もともと『唇のねじれた男』にあったもので、イーストエンド、スポンジ、東洋、天敵といった細部によって後者に目配せしている。


 原作のカルヴァートン・スミスの外見は、セントクレアの仮装同様、抑圧された悪としてのハイド氏の醜さを継承するものだろう。また、彼はスマトラの農場主だが、ここはアンダマン諸島、つまり、例のやはり醜悪さが強調されるトンガの故郷とも近い。ついでに言えばポーの動物犯人もこのあたりの出である。


 動物を同伴した東洋からの帰還者は、オランウータンを連れた船員にはじまって、ドイルではマングースを連れた「曲がった男」や、小人のトンガを連れた義足の男となったが、カルヴァートン・スミスはといえば、禿げ上がった大きな頭の片側にスモーキング・キャップをのせて、ワトスンが驚いたことには、子供の時「くる病」にでも罹ったように肩と腰が曲がっている彼自身が、小人であり曲がった男であり、両者を一身に兼ねているのだ。

 

 であれば、原作のホームズもまた、ハイドに比すべき隠された自己を、死にかけのゾンビメイクで表現しつつ、最後にはワトスンをベッドの下に隠して、ほとんど〈秘密〉と一体化するに至ったのだろう。


 ついでに言うと、『ライオンのたてがみ』における、図鑑による犯人同定は、T・S・エリオットに博物学の蘊蓄は推理ではないと腐されたが、実はホームズはすでに『四つの署名』で本棚から地誌を取り出し、アンダマン島人についての記述をワトスンに読んで聞かせている。また、ポーの『モルグ街の殺人』でも、犯人についての記述を、語り手はデュパンから渡された生物学者キュヴィエの記事で読み、黄褐色の体毛と指の痕という、語り手自らこれは人間のものではないと断言した特徴の持主を同定することになるのだから、彼らは皆、同じ身ぶりで、鞭の痕のような傷や、毒針や、異常に小さな足跡などを読み解いているのだ。


『モルグ街の殺人』まで遡って読み返さなければと思ってあれから読んだのだが、発見したことをまとめるひまがないまま日が経ち、今度は、直接の影響が歴然としている『這う人』に目を通したところ、これまたメモしておくべきことが多すぎた。高所からの出入りが一見密室を形成していたという点がポーと『四つの署名』で共通し、『這う人』では、蔦(『モルグ街』では避雷針)を上って高窓に至るのがポーからの明らかな引用なのはわかっていたが、忘れていたのは、博物学的な同定がここでも行われていたことだ。教授の秘密の箱から出てきた手紙に、ラングールという猿の一種の名があり、教授の娘の婚約者ベネット君はすぐさま棚から動物学の本を取り出して“the great black-faced monkey of the Himalayan slopes“と読み上げる。“it is very clear that we have traced the evil to its source.” 今ならたちまちネット検索できるし、実際、邪悪の根源の猿の黒い顔まで見られたが、むろんこれは濡れ衣である

 

 ベネット君が手を触れかけて教授が激怒したことのある小さな箱(『瀕死の探偵』と非ホームズものの『漆塗りの箱』にも、共通する細部がある)は、littleと言い条結構大きかったようで、空の薬瓶、中身の入っている注射器、外国からの手紙と、証拠一式が揃っている。注射器は、グラナダ版でああも繰り返しホームズの抽斗に入っているのを見せられたあとでは、見る者をはっとさせずにはいまい(原作では帰還以降のホームズはコカインをやめているから、ここは間違っているというか、そもそもグラナダ版ではホームズとワトスンの関係に歴史がないのでそうするしかなかったのだ)が、要するに平常人と異なる彼が倦怠を紛らすための麻薬であり、教授の醜態からもわかるように、ジキル博士の発見した、醜い猿ハイドへの変身薬でもある。プラハからの手紙には、別の意味ではっとさせられた。東欧への旅行とそれに続く文通とは、ドイルからラヴクラフトへの直接的な影響を示す証拠と思われるからだ。


 グラナダ版『サセックスの吸血鬼』は、原作に全く関係なくラヴクラフトの『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』を持ち込んだ上、同じくグラナダ製『プライオリ・スクール』をなぞって兄弟のうち兄を転落死させ、良い出来とは言い難かったが、ラヴクラフト自身は、『這う人』から確実に影響されていよう。さらに、ガウン姿で蔦に覆われた外壁を登るムササビめいた教授の姿は蝙蝠にたとえられており、積極的に吸血鬼への変身をなぞっている。


(ドイルとラヴクラフトの関係については、以前モーメンhttps://mobile.twitter.com/i/events/1063188959327481856 にまとめた中にもあるので参照されたい。)


 さらに、『這う人』の結末の犬は、まさしく『バスカヴィル家の犬』の自己引用だ。前にも書いたが、『犬』のサー・ヘンリーの喉からそれていた牙は、ブラム・ストーカーのホモエロティシズム漂う短篇『ドラキュラの客』から直接来ていよう(これについては「シャーロック・ホームズと桃の缶詰ーー『バスカヴィル家の犬』公的読解私的小史」と題したモーメントhttps://twitter.com/i/events/1264655233499553792 に言及あり)。また、飼犬に噛まれて死んだも同然になる父親はぶな屋敷にもいたし、犬にではないが動物に噛みつかれる父親としてはロイロット博士がいて、『這う人』の教授同様、娘の結婚を控えていた。教授の若い婚約者とは、ほとんど実の娘のアリバイにしか思えず、『ぶな屋敷』の父も娘の結婚を阻止しようとしていたのだった。


 ホームズものの晩期作品全般について言えることだが、あれらは表面の謎解きではなく(あるいはそれと絡んだ)、こうしたセルフパロディをこそ読み解くべき作品だろう。


 なお、原作では名前だけの婚約者がグラナダ版には登場して、教授に面と向かってあなたは私には歳を取り過ぎていると残酷なことを言ったり、若返りの血清を提供する猿どもがロンドンに連れてこられていたりと、原作では一人も出てこないのにグラナダ版では視界を満たすプライオリ・スクールの少年たち同様、無駄に画面を賑やかにしている。


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 ところで、これから『モルグ街』を読み返すとtatarskiyさんに伝えた際に二つお題をもらった。「あの猿は何なの?」と、「なぜ被害者は老女とその娘で、たとえば夫婦ではないのか」である。ホームズに言われてダートムアへ調査に行くワトスンのように読みはじめた


 その前に一つ気づいたことがあるので書いておく。グラナダ版でホームズが抽斗に注射器を入れているのをワトスンが発見というのを何度も見せられた(おまけに、『這う人』を読んだらまた注射器が出てきた)せいで気づいたというべきなのだが、帰還以降、ホームズが抽斗に入れているはずのものは言うまでもなく注射器ではない。


『モルグ街の殺人』を読み返したら、語り手が、デュパンのような人との交際は自分にとってa treasure beyond priceになると思ったと言っているのに出会ったが、このあとに続くのは、落魄した貴種であるデュパンのために、費用は語り手持ちで古びた館を借り、二人の好みの内装にして同居することにしたという記述である。周知の通り、帰還したホームズは手を回してワトスンの自宅兼診療所を買い取らせ、彼をベイカー街に連れ戻すことになる。なにしろ後にさりげなくワトスンが洩らすには、診療所を破格値で買ったのはホームズの遠縁で、しかもその金はホームズから出ていたのだから、まさしくhis treasure of beyond priceのためにホームズが出費を惜しまなかったことがわかる。ドイルが、例の本題に入る前の余談と見せかけた記述で教えてくれるところでは、ワトスンの小切手帳はホームズの抽斗に入っており、その鍵はホームズが持っている。下宿代を折半するという散文的な理由で同居をはじめたホームズとワトスンだが、回り道のあげく、探偵と書き手のポジションは逆ながら、先達に追いつくことになったのだ。


 デュパンの経済的に優位な友人が彼を囲っていたように、ホームズも帰ったあとは、取り戻したワトスンを囲っている(職業作家となったワトスンは当然ながらドイルと同等の人気作家になり、やがて小切手帳に頼る必要はなくなったであろうが)。これが帰還以降、ホームズがコカインをやらなくなり、抽斗に注射器の入っていたはずがない理由である。


『モルグ街の殺人』に話を戻すと、被害者がなぜ女なのかはすぐにわかった。事件の際、駆けつけた人たちは室内から二種類の声を聞いている。一人は男で、フランス語を話していた。そしてもう一つは……もし、襲われたのが夫婦なら、フランス語の男の声には、被害者の一人である可能性が生じてしまう。それを排除するために被害者は女とされたのだ。女ではない男(man)の声と、男か女かわからない、人間(man)であることさえ不確かな声。この曖昧な声と対照的な、分節されたフランス語を話す声が絶対的に必要とされた理由も明らかだ。彼は唯一の目撃者(他の証人はドアの外から聞いただけ)であり、行為者が証言できない以上、起こったことは彼の口から語られる以外にないからだ。


 この犯人について、私はイノセントであるのを確信した。もちろん、残虐な行為はかれ(本来男女の区別のなかったこの日本語を用いることにしよう)がやったものであるが、それらはすべて主人の動作を「猿真似」した、結果として引き起こされたものでしかない。しばしば行われていることだが、かれをキングコングに繋げるのは、どう見ても不当だろう。女たちの殺され方に性的な象徴を読み取ろううとするマリー・ボナパルト以来の試みにもかかわらず、この犯人、いや猿はイノセントだ。かれは人間の女に性的な攻撃を仕掛ける擬人化の外にいる。また、交換価値の外にもいるから、室内の金貨を持ち去ったりしないし、責任能力がないので、罰せられることもない。経済的な優位に基づいてデュパンを囲っている語り手や、最後にはかれをパリ植物園附属動物園に「高く売る」ことになる所有者と違って、かれはイノセントなのである。以上で、あの猿は何なのかという問いにも答えたことになろうか。


 再び、「瀕死の」ホームズとカルヴァートン・スミスが対決している、あの寝室に戻ってみよう。『モルグ街』を再読して気がついたのは、動物の所有者である船員が、文字通り目撃者として現場に召喚されていたことだ。一方、ドアの外の証人は、全員が「聞えたもの」について証言している。『瀕死の探偵』のワトスンもまた、耳に特化された特異な証人である。ホームズのベッドの頭板の後ろ(と言えばいいのだろうか)に隠れて、ホームズと二人きりだとスミスに信じさせつつその話を聞き取る使命を負わされたワトスンは、その場にいながら、何が起こっているか見ることはできず、純粋な耳になっているからだ(この点、グラナダ版は、カーテンの蔭という、より伝統的で穏当な立ち聞きの場を彼に用意していた)。


犯行の一部始終を語った上、それとは知らず明りを点して下の通りで待機する警察に合図までしたスミスは、罠だったと知ると態度を一変させて叫び出す。被告席に行くのはホームズの方だ、自分は呼ばれて病気を治してやろうと来ただけであり、探偵の言葉は病的な嘘で、自分たち二人の証言の価値は同等だと。この分身ぶりは興味深い。『這う人』で教授を訪ねたホームズが、何の用かと問われて、自分もそう訊こうとしたところだと、まるで相手から呼ばれたためにやってきたかのように振舞うくだりを読んだばかりであればなおさら――


『這う人』でプラハからプロスベリー教授へ送られ、薬瓶や注射器とともに箱の中から見つかった手紙の差出人ローウェンスタイン博士は、その研究が同業者から受け入れらない学者だとワトスンによって同定されるが、グラナダ版がスミスに与えたアマチュア(と専門家から見なされる)科学者という属性には、これのこだまが聞き取れよう。


 このホームズのnatural enemy(にして同類)の一人、本来ならイーストエンドの阿片窟かそれに類する場所で見つかるはずがベイカー街までおびき寄せられ、通常はホームズが推理の結果として語るはずの犯行の詳細を探偵に代って自ら語った男は、警察に合図を送る役までホームズに代って実行した上、“Is there any other little service that I can do you, my friend? ”と、彼がホームズのenemyでなく、friendであることまで明かしている。


 むろんこれは皮肉で、直後にホームズの変容ぶりに言葉を失ったスミスの前で、“Do I hear the step of a friend?” とホームズが言うように、真の友人であるモートン警部と部下たちが踏み込んでくるのだが、これは表の筋であって、ホームズの同類がスミスであることは変らない。『モルグ街』の、動物と人間のペア――イノセントなオランウータンとその飼い主――が、互いに互いの真似をする(類人猿は主人の行為をまねて剃刀を振るい、船員は猿に倣って避雷針を上る)鏡像関係にあっただけなのに対し、同じ稀覯本を尋ねて秘められた場所で出会い、同じデカダン趣味の閉ざされた室内で闇の中に生き、パリの夜をさまよい歩くもう一つのペアが、ガチで同類なのと同じように。


 ところで、合図を送って警官たちを中へ引き入れ、犯人を捕えさせるというこの場面に見覚えはないだろうか。部屋は一階で警部はおなじみレストレードだったが、あの時も罠を仕掛けて、獲物を誘い出したのだ。そう、『空家の冒険』でモランを捕まえた時である。そこから、他の要素も思い合わせて、私は『モルグ街の殺人』を読み返す以前に、この連続ツイートをどう終らせるかだいたい見当をつけていた。『這う人』で蔦をつたって三階の窓に至るのは、二階の自室でドアに鍵をかけたまま拳銃の弾丸を頭に撃ち込まれて殺されていたロナルド・アデアの、窓の真下のクロッカスの花壇が全く踏み荒らされていないために外からの侵入が否定されるーー言うまでもなくこれは『モルグ街』のヴァリエーションだーー『空家の冒険』の裏返しだ。外部から室内を拳銃で狙い撃ちするのは不可能と思われた、その距離をゼロにするものがあったわけで、そしてホームズがワトスンに警告する例の “Keep your distance“でも判るように、『瀕死の探偵』は「距離を取ること」を主要なモチーフとして持っている。


『モルグ街』への回り道のあと、昨日ようやく『空家の冒険』を読み返した。すると――やはり記憶に頼らず現場[テクスト]をこの目で見るべきなのだ――『瀕死の探偵』が『空家』の反復であることを示す証拠が新たに二つ見つかった。


 その一。向かいの空家から221Bの窓を撃ち抜き、胸像の頭を粉砕したモランを引っ立ててゆくレストレードが、どういう罪で告発するのかとホームズに訊かれ、「もちろんシャーロック・ホームズ氏殺害未遂[the attempted murder]です」と答えるが、これは『瀕死の探偵』でモートン警部が、スミスにサヴェジ殺害の罪で逮捕すると宣言した時、シャーロック・ホームズ殺害未遂を加えることもできるよとホームズが笑いながら言うのと、ほとんど同じ台詞である。『空家』のホームズは、自分の名は出すな、栄誉はすべて君のものだと言って、逮捕された男はアデア殺しの犯人だと明かし、レストレードを驚かせる。


また、ホームズは、モランの特製の空気銃の標的とされることがわかっていたからロンドンには帰れなかった、かといってこちらから彼を撃てば被告席に着くのは自分の方だったとワトスンに言うが、『瀕死の探偵』では先に引いたようにスミスの方が、被告席へ行くのはホームズの方だと言い立てていた。(その二)


 これらはどう見ても先行する『空家』(時間的には後だが)との類似を読み取らせるため、わざわざ書き込まれたものである。これはいわゆる焼き直しではない。『空家』では成就されたものが、ワトスンの結婚二年目の『瀕死の探偵』では未遂に終った、その設定で、あらためて過去の話として書いたのだ。


アデア殺しをモランの仕業と知ってホームズがロンドンに戻ったとは、言うまでもなくドイルワトスンの作り話である。ホームズの帰還の理由はメアリの死以外にありえず、それに対してホームズが言葉でなく態度でワトスンにいたわりを示したなどというのも、ホームズをあまりにも人間味を欠いた異常な人物と読者に思わせまいというドイルワトスンの配慮であり、実際にはホームズはそんな態度は微塵も見せぬばかりか、二人の間でメアリの名が口にされることさえなかったろう(そもそもどう話題にしたらいいのか)。アデア殺しに相当する事件はあったろうし、モランのモデルもいたが、凶器は非現実的な特製空気銃ではなかったろう。レストレードがこの件でホームズと接触することはなく、たぶんスコットランドヤードは自力で事件を解決している。ワトスンが独り身になったと知って戻ってくるホームズに、そんなことにかかずりあっている暇がどうしてあったろう。


 だからホームズの呼子に応えて空家に入ってくるレストレードと配下はいなかった。取り押えられたモランもいなかった。そもそも事件の舞台はその家ではありえなかった。向かいの家は終始empty houseのままで、裏門から入ってゆくホームズとワトスンも、銃を組み立てて胸像とは知らずに狙うモランも、当の胸像も、跪いてそれを動かすハドスン夫人も存在しなかった。それらは皆、ホームズが空家の窓辺で、そこから見上げるようワトスンをうながしつつ、懐しい彼らの部屋を指して言った文句――the starting-point of so many of your little fairy-tales――にあるように、ワトスンの little fairy-talesを成立させるための細部だったのだし、そうやって再会した彼らが空家で語らっていること自体、そのお伽噺の一部だったのだ(そもそもホームズが死んだと信じて一人戻ってきたワトスンが書きはじめた短編連作の第一話は、ある夜、ベイカー街を通りかかって懐しい窓を見上げた彼が、そこにホームズの影を認めるところからはじまっていたではないか)。

                                      は では何が実際にはあったのか。fairy-taleに加工される前の、その四月の宵に本当に起こったこととは何なのか。解読される可能性がいかに低かろうと、手がかりは配置され、読み取られるのを百年以上待っている。『モルグ街の殺人』のエピグラフの言う、セイレーンはどんな歌をうたったか、アキレウスが女たちの中に隠れていた時にどんな名前を使ったかという問い同様、それはけっして解けない謎というわけではない。

 

 むろんその午後、ホームズが三年ぶりにワトスンの前に――古本屋の老人としてではなく――姿をあらわしたのは本当だ(古本屋老人と彼の書物については既述なのでこちらのモーメントhttps://twitter.com/i/events/1266130497844830208の最初のほうを参照されたい)。彼はワトスンを驚かした――昔、治安判事の老人が、息子が連れてきた恋人である青年に、「過去の恋人の幽霊」をそうとは知らず暴き出されて失神した時のように。

 

 その夜、彼らが馬車に乗ったのは、『唇のねじれた男』で、阿片窟を出たホームズの指笛に応えて、闇を貫く二つの明りとともに出現した馬車による短い旅の、反復であり、続きであった。彼らはベイカー街221の向かいの家に裏から入ったとされる。そこがどこか気づいたワトスンに、「なぜここへ」と問われ、「あの絵になる建物を見るのにうってつけの場所だからさ」(“Because it commands so excellent a view of that picturesque pile.)とホームズは答える。最上の観客席に案内されたと信じるワトスンと読者が見る、黄色く照らし出されたブラインドに浮かぶホームズの黒いシルエットは、モランを引き寄せる囮であると同時に、読者の目を惹きつけるべく用意された、プラトンの洞窟の壁の影でもある。


「ホームズの完全な複製」に驚いたワトスンは手を伸ばし、傍にホームズがいるのを確かめる。これは、その前にワトスンが不意に書斎に現れたホームズを前に気絶したあと、我に返ってその腕を摑み、「本当に君なのか」と叫ぶくだりの繰り返しである。「もう一度袖を摑むと、その下に細い筋張った腕が感じられた」「なんにしても幽霊ではないようだ」そうやって書斎で確認したホームズの身体をワトスンは、ここであらためて確かめ直しているのだ。しかもこれに先立ち、建物に入った時は「ホームズの冷たいほっそりした指が私の手首を堅く摑んで」奥へと導き、通りに面した部屋まで来るとホームズは、「私の肩に手を置いて耳元に唇を近づけている。つまり、のっけから“Keep your distance”を警告される『瀕死の探偵』と対照的に、『空家』での二人は、終始、過剰なまでに触れあっている。ワトスンが書斎で気を失ってホームズに介抱された時、『瀕死の探偵』のあの接触の禁止はあらかじめ帳消しにされていたのだし、その後も惜しみなく補償されつづけたと言うべきだろう。

 

 この一連の接触は、ベイカー街に人が賑やかに往来する宵の時間を、ポーの『群集の人』を思わせる観察者観客として過したあと、通りの人影も物音も絶えた中、ホームズがワトスンの口をいきなり手でふさぎ、部屋の隅の一番暗いところに引きずり込む時、最高潮に達する。「私を摑んだ指は震えていた。彼がこんなに昂奮しているのははじめてだった。しかし前の暗い通りでは、相変らず何も起こっていなかった」

 

 これはもちろんホームズが相方より鋭い感覚での接近に気づいたからだ(とされている)。それは、窓の外の人気のない街路という舞台では起らなかった。は彼らと同じく建物の裏から入り、同じ廊下を抜けて、街路に面した部屋という同じ空間に到達した。“the blackest corner of the room“に身を潜めた彼らが見るのは、開いたドアの黒さより黒い曖昧な影(the vague outline of a man, a shade blacker than the blackness of the open door)であり、一方、標的は明るいブラインドを地にくっきりと浮かぶ黒い影“hard black outline/the black man on the yellow ground”だ。


 窓を押し上げて屈み込み、直接街燈の光を受けた男の目は昂奮に輝き、顔はひくひくしている。『瀕死の探偵』のスミス同様、おびき寄せられた悪人はここでもホームズの分身であり、ホームズとスミスの寝室での対決と似たものが、ただしここではモランが我を忘れて注視する黄色地に浮かぶ黒い影という囮との間で起こっているのだ。

 

 街燈に剝き出しの顔をさらしつつ窓を押し上げた隙間から、黒い囮へ銃を突き出し、対象との距離を消滅させんとするモラン。影に沈んだ観客席から、その瞬間を目撃するホームズとワトスン。奇態な武器という点では、スミスが送ってきた、針が手に突き刺さるびっくり箱も、拳銃の弾を発射する空気銃も似たようなもので、スミスの箱も距離を廃棄するリモート犯罪の小道具だった。どちらの犯人もその方法で成功しており、今度はホームズに同じ手口を使おうとしていた。ベイカー街のホームズの部屋と空家とに、ホームズ、ワトスン、犯人の三者がそれぞれのやり方で配置された『瀕死の探偵』と『空家』とは、やはり、一見それと気づかれないが実は双子の関係にある。しかし、すでに述べたように『空家の冒険』は、そのpicturesqueな道具立ての実在が全面的に疑われる代物だ。

 

 あの深淵からどうやって生きて戻れたのかと、再会したホームズにワトスンは尋ねる。ホームズの答えは簡単明瞭だ。“ I had no serious difficulty in getting out of it, for the very simple reason that I never was in it.”そもそも落ちてないから、そこから出てくるのは別に難しくなかったよ。そして、モリアーティがどうなったか、実はあの時岩棚の上にはモランがいて等々と長広舌が続くが、すでに真実を読み取ってしまった者としては、「落ちてない」のついでに、モリアーティなんてそこには最初からいなかったのだから、崖の上での立ち回り云々も、岩棚の上からの攻撃も、切り立つ崖の昇り降りもあるわけがなく、そもそも僕たちがどこへ行こうと逃げられなかったのは、ヤードに問い合わせの電報を打ったら捜索願を出されていると返電が来た、君の奥さんからだけじゃないかとシンプルに答えてほしくなるが、むろん作家としての(登場人物ではない)ワトスンはそんなことは百も承知で小説を書いているのだ。

 

 この時はじめて読者に紹介されるセバスティアン・モラン大佐については、このあと、昔馴染みの居間に場所を移して、ホームズから説明される。棚の人名録をワトスンに取らせたホームズはページをめくり、Mの項からモランの記事を見つけてワトスンに手渡す――と、これはもう完全に『モルグ街』のデュパンにはじまる一連の身ぶりの反復で、『四つの署名』『ライオンのたてがみ』『這う人』と繰り返される、博物学的同定をやっているのだ。『這う人』のラングールはHymalayan slopesに生息していたが、モランにはHeavy Game of the Western Himalayas『ヒマラヤの猛獣狩』なる著書があり(と人名録に書かれている)、ここでも地理的近接性が見てとれる。モランは虎狩りのハンターだが、「このおあつらえむきの避難所からは、監視者が監視され、追跡者が追跡される。あの痩せた影[胸像]は囮で、私たちがハンターなのだった」とワトスンが言うように、モラン自身が獲物でもあり、実際、捕まった時の彼は「荒々しい目と逆立った口髭で虎そっくり」と描写される。


 ところで、先ほどの博物誌による同定のリストに共通するものは、それが全く信用がおけない、実際には存在しない、架空の生物のいかがわしい記述だということだ。オランウータンは狂暴な動物ではなく、アンダマン島人への見方は偏見に基づくもので、そこまで危険で怪物的なクラゲはおらず、ラングールの血清は回春薬にはならない(詳細は略すが実はアイリーン・アドラーもここに入る)――そして間違いなくモランについてもそううなのだ。モランは物語の辻褄合せのために、突然、ライヘンバッハの岩棚の上に置かれ、空家に出現させられたが、実際にはモリアーティとは出会ったことすらあるまい――ただ、ホームズが開いてワトスンに渡す人名録のMの項以外では。


 そしてモランが、黄色く照らし出されたブラインドに浮かぶ黒い囮を射抜いた瞬間、「ホームズは射撃手の背中に虎のように飛びかかった」というシンプルな比喩は、モランがホームズの分身――『瀕死の探偵』のスミスのような――であることを端的に表現していよう。


the blackest corner of the room

the vague outline of a man

a shade blacker than the blackness of the open door

hard, black outline

the black man on the yellow ground

すでに引いた断片だが、『空家』の待ち伏せの場でのblacknessの濃さがただごとでないのに、今回原文を見て気がついた。黄色地に鮮やかに浮かぶ影が分身と判明したからには、これはどうしてもアレと比較してみなければなるまい。このように、ひと色の背景にくっきりと浮かぶ人影を見る場面が、ホームズものにはもう一箇所ある。実は自分で八年前にそのくだりについて以下のように書いていた。


“ワトスンがこの時「麓のあたりまで降つてから見かえ」るともう滝は見えず、「山のいただきあたりに滝へゆく道がうねうねとうねつているのだけが見える」。その道を「ひどく急いでゆく男があつた。その姿は緑のバックのなかに黒くはっきりと見えたのを思いだす」――黒くはっきりと見える幻。(…)“his black figure clearly outlined against the green behind him”とまるで切り抜いて緑の背景の上に置いたような「影」。

 

 自分で読み返して驚いた。black figureoutlineもすでに出ているではないか。(https://kaorusz.exblog.jp/19707256/ 『空家』のgroundが黄色であるのに対して、これは「緑のバック」だ。groundfigure、日本語では地と図になるが、「図」単独では黒いシルエットという感じはあまりしない。延原訳は日本語としては自然だが、現象としては不自然な気がして、それでこの時も原文を見たのだと思う。逆光で影になっているのでは、clearly outlinedとならないのではないかと思ったのだ。


 背後の緑が蔭にならずに見分けられるのなら、人間だけが、切り抜いた影のように真っ黒につぶれて見えるのは異様な感じだ。“影は「坂道をとぶように登つてゆく」が「まもなくそのことは忘れて、病人のことばかり考えながら道を急いだ」“――病人とは末期の結核のdying English lady、むろん偽手紙の中の虚構であり幻に過ぎないが、彼女がメアリの代理として、ホームズと滝へ飛び込むことからワトスンを救ったのは明白だ。そして滝の方角を振り向いたとき彼が見たのは、一緒に死ぬためホームズの下へ戻ってゆく彼自身の姿でなくてなんだろう。


一人戻ったワトスンは作家ー芸術家になり(グラナダ版のサヴェジがなれなかったものだ)、助けられなかったメアリを、フィクションの中に瀕死の英国婦人として書き込んだ。そして三年後、本当にメアリが死ぬとホームズは帰ってきた。ホームズを殺したことでストランド誌は大量の定期購読解約に見舞われたが、そのような素朴な読者を納得させる筋書になら、後付けで作られた人名録の記述でしかない(とはいえその命名には、ここには書かないが別の意味も隠されている)、モランが有効だったろう。しかしドイルーワトスンの真の才能は、表面上の物語に還元されない、メアリを麓で死にゆく英国婦人、〈私〉を山の上の滝へ急ぐモリアーティに置き換え、緑のgroundに黒いfigureの反復を、誰にでも見える場所に黄色のgroundに黒いfigureの標的として堂々と掲げて、誰にも気づかれないという、ポーのG大臣を地でゆく大胆な手際にあったのである。




今回連続ツイートをまとめるにあたって気づいたことを一つ。「死にかけている」と偽って人を引き寄せる手口なら、むろん先行作品にあったのだ。他でもない、ワトスンを麓の旅館へ戻らせた「瀕死の英国婦人」である。あの時の“成功“がその後三年間彼らを引き離すことになった。そして『空家』は彼らの距離がゼロになる話だった。『瀕死の探偵』は、『最後の事件』と同じ策略が成功する話であり、その結果はホームズとワトスンの、「ベッドとその後ろ」という奇妙な形での“再会“だ。妥協形成的な奇妙な実現であり、距離がゼロになることはなかった。表面上は成功裡に終る『瀕死の探偵』は、実は「失敗した『空家の事件』」と呼ぶべき一件であろう。


by kaoruSZ | 2021-03-18 06:57 | 批評 | Comments(0)