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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

『父 中原淳一』(3)

 中原洲一は、父にとって「心の中の彼自身」とは、その作品である(男の)人形のような、傷つき、手に包帯を巻いた、長いすらりとした脚の持主だと言うのだが(あるいは、それはまた/むしろ彼の性的対象の形象化でもあったろう)、中原にはそれ以前に、もう一つ、美しい男と同じくらい彼自身からかけ離れたペルソナがある。それは、後年作りはじめた男の人形と違って彼がもっぱら表象していたものであり、堂々と人前に出していたものであり、高い評価を受けて彼に名声をもたらしたものだ――言うまでもなく、少女★としてのそれである。

「彼女たちに重なる父の顔。/あの少女たち、女たちは彼の顔なのだ。/彼の姿なのだ。彼が自分自身に望んだ顔であり、スタイルなのだ。
「彼は男として生を授けられながら、意識において、感覚において一個の女性だったのだ。
「彼はまさに女としての自己を担ったのである。/自らを正統として行使し、表わしたのである」★★

 父は女だった、父は本当は少女でありたかったのだと著者は書いている。中原が自らの母親に同一化していることを指摘する(そういう言葉は使っていないが)。「実際、今の女性は、針仕事ひとり満足に出来ない」「ぼくの母なんかは、着物でも何でも、自分できちんと縫い、それが当り前だった」。母と同じように淳一は何でも縫えた(ドレスメーカー女学院から推薦してもらったどの優秀な生徒も彼に遠く及ばなかった)。母と同じように人形を作った。

 母や姉たちの影響は一般に信じられているが、母も姉も淳一似の外見で、少女たちのモデルからはほど遠いと著者は言う。宝塚の男役だった葦原邦子によって女を知り、そして女を憎んだ。(ボードレール的女嫌い。「彼は「自然」あるいは「ありのまま」ということを、美意識として、極端にまで嫌い、憎んだ。/彼が自然を主題に描いたどんな作品をも、たとえば風景画や裸体画の一枚をも、ぼくは知らない」)。しかるに、妻と子供は「自然」だった。女と子供の領域と、(ホモ)ソーシャルな場とにくっきりと分かたれた家。

 中原の姉たちが葦原邦子を批判的に見ていることは、著者にすら伝わってきたという。伯母たちを中原は、「『とっても品があって綺麗だ』と大真面目で言っていたが、それはもはや完全に彼の主観と好みの範疇に属する」。著者は祖母を直接には知らないが、古い写真で見るかぎり「繊細さや綺麗さはとても感じられない」。母と姉たちと中原は互いによく似ており、そして中原が自分の「素顔を非常に気にしていた」、「体が小さく、貧相であるとも感じ、そのことも密かに気にしていた」と著者の筆は容赦ない。「祖母や伯母たちが、父の女性観形成に決定的な役割を果したという説を、いまぼくはきっぱり否定する」。「父が機会あるごとに礼賛し、まったく異なった印象を与え続けたことに、本当の意味が隠されているのだと思う」

 母や姉たちは、「現実には、彼の心を左右したり、自由な行動を妨げるような存在でなかった。言い換えれば、彼女たちは父に対し無力なのであった。が、彼は自分が自由でありえたその分だけ、“男装の麗人”葦原邦子に深く心奪われ、彼女に引き寄せられたのである」

「ぼくの考えでは、父は母と結ばれることによって、それまで自分が経験することのなかった、女らしさを、たっぷりと味わったのである。/精神的にも肉体的にも。/その経験の意味と衝撃の大きさが性にあったことは疑い得ない」
「館山[中原が病身となり、男の愛人に世話を受けていた、別荘のあった場所]で、父はぼくに、「女なんて人間じゃあない、獣だ」と言った」「ぼくがまだ幼い当時、父は母に対し、同じような言葉を投げつけたということを、母から聞いた。/彼がそういう意識を抱くようになったのは、結婚後五、六年を経てのようだ」「そしてその意識は、彼が死に至る最後まで、抱き続けられたのである」

「祖母と伯母たちを敬愛する彼の気持には、実は、彼の人並でない尊大さと自尊心が籠っている」「しかし正確に言えば、その気持の底にあるのは、過剰な自己中心性と女性蔑視の感覚なのである。/自分に逆らわない人物、という限りにおいて、彼は女性を許容した。/しかし、彼が女性そのものを尊重し、そのまま擁護するというようなことは、なかったと言ってよいと思う」「そして、その尋常でない彼の自尊心が脅かされ、傷つけられるというとき、彼は猛然と反撃に打って出るのである」「相手が完全に屈服しない限り、それは止まることはない。/母の女らしさと豊かさに初めて触れたとき、父はそれに抗う術を知らなかったのである。/しかし、彼にとっては、それは、もっとも忌まわしいものへの屈服だったのである。/自己が屈服したものが、駘蕩とした、むせかえるようなものであるだけ、彼の受けた傷と屈辱感は大きかった」

「しかし、「男装の麗人」こそ、彼の意識の底にある、彼の真の姿であり、願望だったのである。彼が「男装の麗人」葦原邦子に魅了されたことは、自然であったというより、必然だった、と言うべきなのだ。/自分自身が、もの思いに耽る美しい乙女でありたい、という願い。あるいは、同性に対する愛と信頼。/「男装の麗人」葦原邦子は、それらすべてのことを、彼に教え、与えたのである。/そして、彼が受けた傷も、その結果得た覚醒も、妻と子供たちを、家の一隅に体よく追いやり、見て見ぬ振りをするというようなことでは、決して癒されることも、全うされることもなかったのである。/戦後、中原淳一が、清純可憐な乙女を描く挿絵画家から脱し、女性とその生活を主題とし、対象とした、野心的な創造活動に心を据えたことこそ、その癒しであり、自己を全うすることであった」

★久世光彦が書いていたのだと思うが、中原以前には少女とは幼い女の子をいったもので、それが中原によってその指す年齢が引き上げられたのだそうだ。本当だろうか。だとすればそのおかげで、私たちは、売春だの覚醒剤だの暴走行為だので補導された二十歳[はたち]未満の女子について場違いに「少女」という言葉が発せられるのを、現在においても見聞きするようになったのだろうか。少女という語自体も歴史は浅い感じで、確かに江戸時代には少女はいなさそうだ。
そういえば少女が処女になる時期だか一瞬だか、そんな言い方を塚本邦雄がしていたっけ。この場合、処女といえば要するに男にとって性的対象となる女ということになろうが、久世の指摘が正しければ、中原は、すでに性的使用に供することが可能な処女をあえてそう呼ぶことで<少女>の時期を引き延ばしたのだと言えよう。

「別冊太陽」では巻頭に久世光彦が「蒼醒めた月―男の子にとっての中原淳一」と題するエッセイを書いているが、要するにこれは男の子にとっての密かな性的対象としての少女という、徹底的にヘテロ視点の解釈だ。そのあとたまたま久世のエッセイ集を買ったらその文章も再録されていた(少女という呼称についての文もこの中にあったのだと思う)のだが、同じ本のまた別のエッセイでは、久世は全面的に女性性をappropriateしたパフォーマンスを展開していた――自分は太宰に強姦されたと彼は書くのだ。あるいは逆に文学者たちを、太宰は床上手、三島はぴったりした黒を着ていて脱がせにくい女といったふうに女性化する。実に面白い文章ではあるけれど(三島のくだり大笑いだ)、自分だけがジェンダーを自在に操れるかのような、男性であるという特権の上に立ってのこうした振舞いには批判的検討がなされねばなるまい。

★★ここにも、男による女性性の流用の問題がからんでこよう。



『父 中原淳一』(1)http://kaorusz.exblog.jp/4297234/
『父 中原淳一』(2) http://kaorusz.exblog.jp/4428380/
『父 中原淳一』(4) http://kaorusz.exblog.jp/4469181/
by kaoruSZ | 2006-04-19 10:49 | ジェンダー/セクシュアリティ | Comments(1)
Commented at 2012-02-16 21:30 x
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