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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

人頭黄金虫(承前)

『黄金虫』においては、大きさのまったく異なる甲虫と人間の頭蓋骨とが、一枚の羊皮紙の裏表に描かれることで分かちがたく結びつく。それはぴったり同じ輪郭を持ってさえいる。


 レグランドと語り手は、はじめ支持体が双面を持つことを知らず、それぞれが別のものを見ている。語り手には終始頭蓋骨しか見えず、レグランドだけが返された羊皮紙に描いた覚えのない頭蓋骨を見て驚愕し、その真下(真裏)に自分の描いた甲虫の絵がそのままあるのを見つける。しかしそれまでの間に、これは頭蓋骨の絵だと(実際そうなのだが)決めつける語り手のおかげで、黄金虫を髑髏と重ね合わせることになった。


 レグランドは当惑しつつ背中の斑点を目と口に見立てて、「上の二つの黒い点が眼というわけかい? 下のほうの長い点が口で。それに、全体が楕円形だしね」と、相手の意見を容れて妥協をはかる。この瞬間、ただの甲虫のスケッチでもただの頭蓋骨の絵(「ごくありふれた髑髏の絵」)でもないものが誕生したのだ。


 語り手は「人頭黄金虫」という名前(あくまで「人頭」であることを主張している)さえ、揶揄的に提案するが、これと同じものが『スフィンクス』では、怪物(実は昆虫)の胸に見つかる(「昆虫」と頭蓋骨は、そこでもーー大きさは違うがーー重なっている)。

 

  滝口直太郎訳では原文のscullが頭蓋骨に、death's headが髑髏にあてられており、暗号文で使われる語も一般的な海賊の印も後者である(ちなみにメンガタスズメは death's head moth、スフィンクス蛾は別種である)。鳴声をあげる蛾はいまいから、『スフィンクス』の「昆虫」は言うまでもなくフィクショナルな合成物である。


 しかし、レグランドの発見したスカラビウスもまた、二種類の甲虫の特徴をあわせ持っているらしい。特にあの二つの斑点、あれが髑髏の眼窩の見立てのためにどうしても必要だったのは解る。なんとしても人頭黄金虫を作り上げねばならなかったのだ。


Death's HeadとRed Death

『黄金虫』で最初小さな絵として登場し、レグランドの望遠鏡の中に出現し、ジュピターが登る百合の木の枝の上で実物大(実物である)になり、最後に宝物と一緒に二人分が発見されたはずの頭蓋骨は、『スフィンクス』では最小サイズになり(不思議の国のアリスのように伸び縮みがはなはだしい)、『アッシャー家』で最大(錯覚を勘定に入れなければ)になるーーこれについては、「ごちゃごちゃしている地図の上の名前を言って、相手に探させる」遊びで、「上手になってくると、地図の端から端まで大きな字でひろがっているような言葉を選ぶ」という、『盗まれた手紙』のデュパンの言葉がヒントになろう。


 アッシャー家に到着した語り手は、馬を「この家の傍に静かな光を湛えている黒い不気味な沼の険しい崖縁に近づけ、灰色の菅草や、うす気味の悪い樹の幹や、うつろな眼のような窓などの、水面に映っている倒影を見下した」。影でなく実物を見あげると、「微細な菌[きのこ]が、細かにもつれた蜘蛛の巣のようになって檐[のき]から垂れていた」。


 いささか面妖な細部ながら、二ページ先で、弱々しい赤い光の射し込む部屋の、それまで横になっていたソファーから立ち上って〈私〉を迎えるロデリックの容貌を描写する、「蜘蛛の巣よりも柔らかく細い髪の毛」という文章に出会う時ほどには異様な感じはすまい。さらに、「絹糸のような髪の毛もまた、全く手入れもされずに生えのびて、それが小蜘蛛の巣の乱れたようになって顔のあたりに垂れさがる、というよりも漂うているのであった」と重ねて記すのだから、これはもう、どうしても館とその主人との類似を示したいのだし、その「大きい、澄んだ、類いなく輝く眼」がいくら強調されようと、すでに見た「倒影」の「うつろな眼のような窓」はもはや読者の念頭を離れまい。


(1)で私たちは、『アッシャー家の崩壊』の主人公と『スフィンクス』の語り手が、自らの死の兆候を前にして同じ身ぶりをするのを確認した。言うまでもなくロデリック・アッシャーは流行病に脅えているわけではない。しかしそもそも語り手が旧友の要請に応えて訪ねていったとき、彼は「弱々しい真紅色の光線が、格子形にはめてある窓ガラスを通して射しこんで」いる部屋にいた。


その部屋は非常に広くて天井が高かった。窓は細長く、尖っていて、内側からは全然届かないくらい、黒い樫の床から高く離れたところにあった。弱々しい真紅色の光線が、格子形にはめてある窓ガラスを通して射しこんで、辺りのひときわ目立つものを十分はっきりさせていた。


 このガラス越しの光線は、『赤死病の仮面』の最後の部屋を連想させるものだ。他の部屋が壁と窓ガラスの色をそろえて廊下の篝火で室内を照らしていたのに対し、最後の黒の部屋のガラスは真紅で、室内をあかく染めていたのだ。ロデリックの部屋の格子形の窓ガラスも赤で、それを透して射す光がなぜ「弱々しい」かといえば、語り手がアッシャー邸到着までに通過してきた「雲が重苦しく空に低くかかった、陰鬱な、暗い、寂寞たる、秋の日」のなごりの光であるからだ。


 赤い光は、〈私〉がアッシャー邸から逃げ出す終局に至ってその恐るべき正体(もはやガラスを隔てない)をあらわにする。「アッシャー家」が崩壊するとき、『赤死病の仮面』の黒い部屋を満していた赤いガラス越しの光は、もはやさえぎるもののない「ぎらぎらと輝」く「異様な光」として、逃げ出した〈私〉に追いすがる。


その部屋から、またその屋敷から、私は恐ろしさで夢中になって逃げ出した。古い盛上げ路を走っているのに気がついた時には、嵐はなおも怒り狂って吹き荒んでいた。突然、道に沿うてぱっと異様な光が射した。私の背後にはただ大きな家とその影とがあるだけであったから、そのようなただならぬ光がどこから来るのかを見ようと思って私は振返ってみた。その輝きは、沈みゆく、血のように赤い、満月の光であった。月は今、その建物の屋根から電光形に土台までのびていると前に言った、かつてはほとんど眼につかぬくらいだったあの亀裂を通して、ぎらぎらと輝いているのであった。


 家自体が顔であることと、その顔が主人のそれに似ていることは、「うつろな眼のような窓」や、「微細な菌」とロデリックの頭髪の描写の一致によってほのめかされていた上、アッシャーがギターをかなでつつ歌った詞として、一篇中に嵌め込まれた「魔の宮殿」なる詩によって示されていた。


 アッシャー家とは「人頭屋敷」とか「メンガタヤカタ」とでも呼ばれるべきもので、しかも主人の「不思議な眼の輝き」が強調されながら、沼に映る逆しまの窓は「うつろな眼のよう」なのだから、家は丸ごと未来の予兆であり、あからさまな死の指標なのである。アッシャー屋敷を巨大な頭部として見よとの誘ないは明示的で、「魔の宮殿」はまさしくそうした建物を具体的に記述したものだ。


 宮殿には「輝く二つの窓」があり、「またすべて真珠と紅玉とをもて/美わしき宮殿の扉は燦けり」とある。訳注はこれについて、小泉八雲によるこの詩(ポーの詩として単独で発表されでもいた)の解説として、「宮殿は人の心であり、その王座に座せる王は理性であり、窓は眼であり、真珠と紅玉とで燦く宮殿の扉は、紅い唇と皓い歯を持つ口であ」るとする、アレゴリー的な読みを紹介している。詩の後半では王の領土は魔物に奪われ、「彼が上に暁は/再び明くることあらじ」と言歌われ、「赤く輝く窓」と「蒼白き扉」が残るばかりだ。


 これは、この歌から強い印象を受けたのは「おそらく、その詩の意味の底の神秘的な流れの中に、アッシャア自身が彼の高い理性がその玉座の上でぐらついていることを十分に意識しているということを、私が初めて知ったように思ったからであろう」という語り手の感想をそのまま追認した、基本的には凡庸な読みである。問題は、理性と狂気の二元論ではなく、二つの眼と開いた口という構造がレグランドによる黄金虫の見立てと一致すること、赤く輝く窓(ロデリックの眼のひとかたならぬ輝きはこの帰結のためだったのか)が、『アッシャー家』を『赤死病の仮面」に近づけることは見てとれても、「神秘的な流れ」などというものは所詮読み手の空想の産物だ。


暗合する世界

アッシャー屋敷/The house of Usher とは、館であり、一族でもあるが、同時に当主の首をかたどった死の表象でもある。同じ印は『黄金虫』では羊皮紙に、『スフィンクス』では昆虫の胸に記されている。『アッシャー家の崩壊』では、それは表題にあるそのものであった。その人頭屋敷によく似た人頭黄金虫となるために、レグランドの見つける甲虫は、あらかじめ、眼窩と似た模様を持たなければならなかった。


 ところで終局の〈私〉をこの上なく強い力でとらえる「恐ろしさ」とは何なのか。なぜ語り手は、友人とその妹が死んだ(らしい)のに、人に知らせもせず(館には召使もいる)「恐ろしさで夢中になって」その場を離れたのか。これについて答えたものは、ひとりジャン・リカルドゥーのみである。


 繰り返しになるが 「アッシャー家」とは日本語でそう言ったとき第一に浮かぶであろう家系/一族と、その所有する屋敷をを二つながらあらわす(英語とは順序が逆になる)。「アッシャー家の崩壊」とは館そのものの崩壊であるのは当然だが、その家系の終焉をも意味する語句なのだ。


 この二重の意味は、〈私〉の「アッシャー家」の外観を眺めながらの最初の語りで、すでに明言されていた。


(…)この傍系がないということと、世襲財産が家名と共に父から子へと代々他へそれずに伝わったということのために、ついにその世襲財産と家名との二つが同一視されて、領地の本来の名を『アッシャア家』という奇妙な、両方の意味にとれる名称ーーこの名称は、それを用いる農夫たちの心では、家族の者と一家の邸宅との両者を含んでいるようであったーーの中へ混同させてしまったのではなかろうか(…)


 アッシャー家はその「家」に、そこに住む今は唯一の裔であるロデリックとマデリンの兄妹に、集約されていたのである。その彼らが死んだ。アッシャー家の断絶-崩壊とは、すなわちアッシャー屋敷それ自体の物理的崩壊であるーーそう気づいたからこそ、話者は「その部屋から、またその屋敷から、私は恐ろしさで夢中になって逃げ出した」のだと、リカルドゥーは言うのである。


 このことは作品内で次のように予告されてもいた。〈私〉がロデリックに読み聞かせる、騎士エセルレッドの物語の中でする物音は、屋敷内で起こるその反響のような音に、いちいちこだまのように伴われていた。ロデリックがこう言う通りだーー


「(…)エセルレッドかーー は ! は ! ーー隠者の家の戸の破れる音、そして竜の断末魔の叫び、それから楯の鳴り響く音か ! ーーそれよりも、こう言った方がいい、彼女の棺のわれる音と、あの牢獄の鉄の蝶番の軋る音と、彼女が窖の銅張りの拱廊の中でもがいている音、とね ! 」


 この「異常な暗号」については、乱歩も次のように書いている


又ここの意味とは違うけれども、ポオは『アッシャー家』の末段に「暗号」そのものの恐怖を非常に巧みに描いている。朗読していた古代の物語の中の文章に記された物音と、現実の異様な物音とが、一度ならず暗合して、悲惨なカタストロフィーに陥ちて行くこの場面(後略)


 さすがの乱歩もこの暗号がさらにその先へ続いているとは、兄妹の死のあとにまで反響をとどろかせているとは思いもよらなかったのだ。のみならず、明示的に「暗号」とされていないところにまで精緻な暗号が繰り展げられており、それを読み取りうるーー今、私たちがやっているようにーーとは、想像もしなかったであろう。



# by kaoruSZ | 2024-03-12 12:41 | 文学 | Comments(0)

虫の名前

 谷崎精二訳のこの短篇の題がスフィンクスのルビを振った「天蛾」であると知って驚いたのは最近のことだ。同時に、スズメガを雀蛾とも天蛾とも表記することを知ったが、表題には一瞬、唖然とした。これは究極のネタばらしーー有名どころで言うなら『私が犯人だ』とか『毒へびの恐怖』とかのたぐいーーでははないのか。しかし、ポーの場合は別に蛾であることが最大の秘密ではない……(へびは伏せなきゃならないが)。谷崎精二は、「インセクタ」の名(和名)をできるだけ正確に示したかったのだと思われる。


 スフィンクスを名乗る蛾は本当にいて、ポーが作中のインセクタに与えた学名「昆虫[インセクタ]綱、鱗翅[レピドプテラ]目、薄暮[クレプスクラリア]族、スフィンクス種のうち「薄暮族」だけが架空のものという。「スフィンクス」の名は羽根をとじて威嚇する様から来たそうでわ、写真を見るとそれも頷ける。しかし、やはり、それが第一のというわけではないのだ。


 鱗翅目で翼が「金属の鱗でおおわれている」のなら、蛾に違いなかろうが、対岸の山腹を降りて行ったと見えたインセクタがともすれば甲虫めくのは、「上段、下段の翼が強靭な鎖で連絡してある」という描写が蛾や蝶の羽搏きよりも、複葉機のような立体構造やカブトムシの飛翔を連想させるからだろう。そして何よりも「黄金虫」という先達がいることが注目されねばならない。もう一度、注意深く『黄金虫』のはじまりを読んでみよう。レグランドの友人はこう語る。


彼は、新しい属をなす、まだ知られていない二枚貝を発見したのだが、さらに、ジュピターの助けを借りて、一匹の黄金虫[スカラビウス]を追いつめ、捕えたのである。その黄金虫[スカラビウス]はまったくの新種だと彼は信じていたが、それについて明日、ぼくの意見を聞きたいと考えていた。


 なぜ今日ではいけないのかと語り手ならずとも訊きたくなろうが、続いて読まれる通り帰り道で同好の士である砦の中尉に出会って、「ついうっかり貸してやった」のである。そのため、レグランドは言葉で虫を説明しようとする。


「きらきら光る金色でーー大きさは胡桃の大きな実ぐらいーー背中の一方の端には真黒な点が二つあり、もう一方にはすこし長いのが一つある。触角[アンチニー]は……」


 レグランドの語りはここで途切れる。錫[ティン]などはいっていない、「あの虫は金無垢の虫ですだ。内も外もすっかり」と、黒人の従僕ジュピターが口を挟んだからである。


「まったく、ジュピターの考えももっともだと言いたいくらいのものなんだ。あの甲が発するのよりもキラキラした金属製の艶は、君だって見たことがないだろうよーーまあ、明日になれば判る。とりあえず、形だけならあらまし教えることができますよ。」


こう言いながら彼は、小さなテーブルに向ったのだが、その上にはペンとインクはあったけれども、紙はなかった。抽斗のなかを探したが 、一枚も見当らない。」


 なんでこの日に限って紙が一枚もなかったのか。これは重大な問題だ。ここで一枚でも紙が見つかったら、羊皮紙が火に焙られることもなく、語り手がレグランドのスケッチ(「偉い先生についた」と自分で言っている)をけなすような展開にはならず、そしてーー当然のことながらーー宝さがしはまったくはじまらなかった。しかし魅力的な問題がいくつも目の前にあるので、そのことはさしあたって脇へ置いておこう。


 まず、「キラキラした金属製の艶」が強調されるこの虫は、登場時は「黄金虫[スカラビウス]」と学名で呼ばれている(『スフィンクス』の、例の鎧に身を固めたような正式名を見るまでは気にならなかったのだが)。原題はThe Gold Bug で本文中でもbugと呼ばれもするこのオブジェ(不運にもレグランドとジュピターに追いつめられてそうなった)は、昆虫好きで知識と教養のあるレグランドと友人にとっては「スカラビウス」であり、ジュピターにとってはただの「金の虫」だ。しかも、錫など少しも混ざっていない、「金無垢」の虫なのだ。


 ジュピターの知らないことがもう一つある。彼の「金の虫」を「スカラビウス」と呼ぶ主人たちにとっては、それはスカラベ、つまりエジプト起源の太陽神であり、再生の象徴だということだ。これが無意味どころではないのは、この虫が本当に、今は世捨て人のように暮している没落したレグランドに財産をもたらすからである。また『スフィンクス』のインセクタ・レピドプテラ・クレプスクラリア・スフィンクスは、表題に巧みに正体を隠しつつ、エジプトつながりでLe scarabée d'or(ボードレールによる仏語訳タイトル)との類縁をも示すものだ。


夜明けと黄金虫

 レグランドの見つけた黄金虫は「まったくの新種」であるから、「博物学の概論書」にそれについての記述を探すわけにはいかなかった。『スフィンクス』の語者の友人は「その形を執拗に問い質した」あと、博物学の書物の「学生むきの説明」を読みあげる前に、彼が「怪物をことこまかに描写」してくれたのでその正体が示せると言ったが、レグランドは腕に覚えのあるスケッチでそれをしようとして失敗した(友人は裏側にあぶり出された髑髏しか見なかった)。目下『黄金虫』について述べている筆者は、重要な手がかりを落したのではないかとーーかいつまんで説明するという行為にもすでに解釈は入り込むのでーーいう恐れから、もう一つ細部を紹介することにする。中尉に虫を預けたことを残念がり、朝一番で取り戻すから見てくれと、レグランドが熱心に説くくだりだ。


「今夜は泊りたまえ。夜が明けたらすぐ、ジュピターに取りにゆかせるよ。すばらしいものだぜ ! 」


 語り手の応えはこうだ。


「何が ? 夜明けがかい ?」


「馬鹿な ! 違う ! 虫がさ。」こう言って「きらきら光る金いろで」とレグランドは虫を描写しはじめるのだが、語り手とレグランドの微妙な齟齬がつねにその下に透けて見える会話の一つとはいえ、発見した虫に熱狂しているレグランドへの応答としては少し馬鹿さ加減が過ぎるのではないか? そう思ってーーそして近頃、『アッシャー家の崩壊』と『赤死病の仮面』を読み較べて気づいたことのあった者としては、語り手の言葉はもはやナンセンスとは思えなくなったーーもちろん、彼自身は何も知らない。だが、登場人物の知らないところで、夜明けは、黄金虫と交換可能なのではないか。つまり、黄金虫とは夜明けであるのではないかーー夜が訪れるたびに沈んでは生れかわる太陽の象徴であり、死に抗して日々よみがえる黄金虫はーー。


 黄金虫が夜明けのようにすばらしいことは、黄金虫が金無垢の虫であることと同様に、あらかじめ周到にテクストに書き込まれていた。また、百合の木の繁みからジュピターがおろした黄金虫は、「紐の尖端で、落日の最後の光を浴びながら、よく磨かれた黄金の球のように光り輝いた」。


落日の光はぼくたちが立っている高地をまだほのかに照らしていたのである。


 この明るさと静けさは、ともすれば思いが「眼前の書物から離れ、隣接する一都市の陰鬱と壊滅へとさまよって」(『スフィンクス』)ゆく者たちが知的論証によって死の予兆をしりぞけた窓辺のそれであろう。周知の通りこの先で『黄金虫』は、財宝発見、発掘、そして運び出しの狂奔に至るが、すべてが終ったあと「すばらしい」夜明けがあやまたずやって来たことは次の一文に窺える。


ぼくたちが黄金色の重荷を小屋におろしたのは、夜明けの最初のほのかな光の条が東のほうの樹々の頂から輝いた時であった。


 ポーが『スフィンクス』の昆虫に与えた学名のうち、唯一「薄暮[クレプスクラリア]族」だけがフィクションであるとは前に述べた。クレプスキュールとはたそがれ、かはたれの薄明の時を指す。『黄金虫』の甲虫と『スフィンクス』の蛾には、このように見た目の大きな違いにもかかわらず類似性が見出される。その一つは、髑髏をそれぞれ隠喩と換喩として持つこと、そして、薄明の光との親和性である。


 レグランドが虫が頭部に持つ触角に言い及んだところで、新種の甲虫の口頭での描写は中断され、羊皮紙にその絵を描くことになったわけだが、このあと彼と語り手は、同じものを指しているつもりで二つの別々の対象についてあげつらうという会話をはじめる。思えばレグランドが黄金虫を「すばらしい」と言い、語り手が夜明けのことと受け取ったのは、その前ぶれだったのだろう。実物を欠いたところで「きらきら光る金いろの」とレグランドが言った時、それは夜明けに似たのである。scarabée d'or (金のスカラベ)は scarabée d'aurore(あけぼののスカラベ)でもあるのだろう。


人頭黄金虫

 羊皮紙の絵を前にしたレグランドと「ぼく」のやりとりをあらためて読むと、後者は終始それを髑髏としてしか見ていないことがわかる。


「ほほう !」とぼくはしばらくみつめてから言った。「こいつはおかしな黄金虫だ。たしかにぼくは初めてだよ。今までに見たことがないーー頭蓋骨か髑髏でないとすればね。今まで見たもののなかじゃあ、髑髏にいちばん似てる」


「おかしな黄金虫」であるのは、それが黄金虫ではないからだ。「これは黄金虫ではない」と素直に宣言する代りに、これが髑髏でないとすれば、確かに初めて見るものだと話者は言っている。例の(中断された)触角の件を彼は持ち出す。「でも、君の言ってた触角はどこにあるんだい?」もちろんちゃんと書いておいたとレグランドは答える。


黄金虫の絵について言えば、触角などぜんぜん見当らず、全体はごくありふれた髑髏の絵とそっくりだったのである。


 これは語り手の独白だが、確かに甲の二つの点を眼窩、下の長い点を口と見立てたとしても、黄金虫にあって人間の頭蓋骨に絶対にないもの、それは触角であろう。


 実際それは「ありふれた髑髏の絵」だったわけだが、この会話の中で、彼は一つだけ注目すべきことをしている。問題の黄金虫に名前をつけているのだ。


「君の黄金虫[スカラビウス]は、たとえ黄金虫[スカラビウス]に似てるとしても、世にも不思議な黄金虫[スカラビウス]だな。ねえ、このヒントを利用して、スリル満点な迷信を一つでっちあげることができるぜ。この虫には、人頭黄金虫[スカラビウス・カプト・ホーミス]というような名をつけるといいな。ほら、博物学じゃあ似たような名がいろいろあるじゃないか。でも君の言ってた触角はどこにあるんだい ?」*


「スリル満点の迷信」とは、平家蟹の由来のたぐいだろうか。言いたいことを最後にとっておく、嫌みたっぷりの科白だが、確かに「似たような名」はあった。映画『羊たちの沈黙』で広く知られることになったのかもしれない胴に髑髏の模様のある雀蛾は、「メンガタスズメ」というのである。しかしここはどうしても「人頭黄金虫」でなければならなかった。黄金虫は人頭を付けているのではなく、虫全体が一個の人頭なのである。


 語り手は全く気づいていないが、羊皮紙に浮き出た絵を彼が髑髏と呼んだために(実際、それは髑髏なのだ)、レグランドは自分の描いた黄金虫の絵を髑髏に似たものとして想像し、次いで同じ輪郭を持つ虫と髑髏が一枚の羊皮紙の両面にあるのを発見し、最終的にこの二つを操作することで宝物に至ったのだ。


*この、触角(の欠如)への執拗で強迫的なこだわりは、次に引く『スフィンクス』における怪物の触角の描写によって十二分に補償されていよう。「鼻を平行に、左右から、長さ三、四十フィートの棒状のものが前に出ている。これは純粋の水晶で出来ているらしく、形は完全なプリズムを成しーー落日の光をこの上なく豪奢に反映していた。」



# by kaoruSZ | 2024-03-06 18:58 | 文学 | Comments(0)

虫けらとけだもの

 先に公開した(1)で、私は江戸川乱歩の『押絵と旅する男』(1927)の遠眼鏡(双眼鏡)が『黄金虫』の望遠鏡に由来するのではないかと書いたが、その時はまだ乱歩の原文を読み返していなかった。ところがあくる日青空文庫に全文があるのに気づいて目を通したところ、表題の男つまり押絵の中に入り込んだ男の弟は、なんとこう語っているではないかーー


(……)一体私は生れつき眼鏡類を、余り好みませんので、遠眼鏡にしろ、顕微鏡にしろ、遠い所の物が、目の前へ飛びついて来たり、小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる、お化じみた作用が薄気味悪いのですよ。


「小さな虫けらが、けだものみたいに大きくなる」ーーこれはもう『スフィンクス』の「トリック」そのものではないか。『黄金虫』はもちろん、『スフィンクス』もまた、『押絵と旅する男』の発想源[スルス]であったのだ。『黄金虫』は、遠く離れた大樹の枝に釘で打ちつけられた「髑髏」を望遠鏡で発見するのが、言ってみれば「遠い所の物が、目の前へ飛びついて」来るのに相当する。押絵の娘は同様に、双眼鏡を通して見た時、生きた人間のようにあらわれてくる。しかも『黄金虫』では、羊皮紙に描いた「虫けら」が、裏を返すと髑髏になっている……。


『黄金虫』の百合の木は乱歩の手で浅草公園へ持ち込まれ、凌雲閣(十二階)に化ったのだ。もっともそこへ遠眼鏡を向けるのではなく、逆にそのてっぺんに登って双眼鏡で「観音様の境内」を眺めるうち、人混みのあいだに、一瞬、この世のものとも思えぬ美しい娘を認めるのだが。


考えて見ますとその覗きからくりの絵が、光線を取る為に上の方が開けてあるので、それが斜めに十二階の頂上からも見えたものに違いありません。

 

 明かり取りの窓を通して覗きからくりの押絵の八百屋お七の顔が見えるのと、彼方にそびえる大木の葉むらに開[あ]いた「切れ目というのか隙間というのか」の中心に人間の頭蓋骨が白い点として見えるーーしかも「悪魔の椅子」という岩棚に腰かけるという姿勢でないと絶対に見えないーーのと、荒唐無稽さにおいてどちらが上まわっていよう。


『スフィンクス』の語り手が見る怪物(ならびに、その胴に入れ子にされた髑髏の形象)は、地すべりによってあらわになった対岸の山肌に投影された、彼自身の死の不安と見なされよう(言うまでもなく、それを投射とか投影とかいう言葉で呼びうること自体、幻灯機の発明というテクノロジーの結果である)。疫病による死の恐怖は、川向うという指呼の間にまで迫っていた。距離が消滅すればそれは死を意味する。しかし、正しい知識が得られれば、それは至近距離で蠢くただの「虫けら」にすぎないと解る。光学器械なしで特異な知覚を得た語り手の錯覚は、優しく聡明な友人によって正され、彼らは窓枠に区切られた対岸の怪物を、安定した距離を保って安全に見る、安楽椅子探偵となるだろう。決められた特別席に腰かけないと、怪物が視界を横切るこのショーは始動しないのであり、『スフィンクス』の場合その指定席は一つきりであった。


 彼らが期せずして共有することになった窓際の「悪魔の椅子」は、映画館の観客席そのものである。ポーの知らない未来には、迫ってくる列車に席を立って逃げ出す観客や、スクリーン一杯に拡大された頭部に驚愕する観客が出現することになろう。もっとも、映画の場合、投影されるものは現在から絶対的に距たった過去であり、したがって感染はもとよりあらゆる直接性から切断されていることをこそ、その特徴とするのであるが。


大気のレンズ仕掛け.

  今回、『押絵と旅する男』の双眼鏡を通しての兄による娘の発見と、兄自らも押絵の中に収まるくだりを読んだあと、あらためて通読して驚いたのは、語り手が汽車の中で表題の男と出会う以前に、こうした光学的錯誤の主題が全面的に繰り展げられていたことだ。周知の通り、冒頭で語り手は、富山県の魚津の海岸で名高い蜃気楼を見物している(要するにその帰りの上野行きの列車の中で「押絵と旅する」老人と出会ったのだ)。


蜃気楼とは、乳色のフィルムの表面に墨汁をたらして、それが自然にジワジワとにじんで行くのを、途方もなく巨大な映画にして、大空に映し出した様なものであった。


 のっけからフィルムと映画の比喩である。この時代、世界はすでに映画であったのだ。


遙かな能登の半島の森林が、喰違った大気の変形レンズを通して、すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、曖昧に、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて、見る者の頭上におしかぶさって来るのであった。それは、妙な形の黒雲と似ていたけれど、黒雲なればその所在がハッキリ分っているに反し、蜃気楼は、不思議にも、それと見る者との距離が非常に曖昧なのだ。遠くの海上に漂う大入道の様でもあり、ともすれば、眼前一尺に迫る異形の靄かと見え、はては、見る者の角膜の表面に、ポッツリと浮んだ、一点の曇りの様にさえ感じられた。この距離の曖昧さが、蜃気楼に、想像以上の不気味な気違いめいた感じを与えるのだ。


 この短篇が、「この話が私の夢か私の一時的狂気の幻でなかったならば、あの押絵と旅をしていた男こそ狂人であったに相違ない」という一行ではじまるのは記憶していた。だが、その先に来るのが次のような文章であることはすっかり忘れていた。


だが、夢が時として、どこかこの世界と喰違った別の世界を、チラリと覗かせてくれる様に、又狂人が、我々の全く感じ得ぬ物事を見たり聞いたりすると同じに、これは私が、不可思議な大気のレンズ仕掛けを通して、一刹那、この世の視野の外にある、別の世界の一隅を、ふと隙見[すきみ]したのであったかも知れない。


 魚津の蜃気楼以前に、すでに『押絵と旅する男』そのものが、「不可思議な大気のレンズ仕掛け」の結果かもしれないと語り手は言っているのだ。蜃気楼もまた自然現象であるよりも、「大気の変形レンズ」のしわざとして扱われている。レンズ豆はレンズに似ているからその名があるのではなく、光学的レンズの発明以前にレンズ豆と呼ばれていたそうだが、大気がレンズになるのはレンズが存在してからだろう。


  光学器械を介さずに「すぐ目の前の大空に、焦点のよく合わぬ顕微鏡の下の黒い虫みたいに、曖昧に、しかも馬鹿馬鹿しく拡大されて」見えたとは、まさしく『スフィンクス』の怪物である。ポーは、彼の時代には存在しなかった映画のクロースアップを、テクノロジーなしで先取りしている。『スフィンクス』の語り手が山腹に見るのは拡大されることで怪物化された、小さな生き物である。もちろん、レンズによって遠くのものを近くに引き寄せたり、近くのものを拡大したりできることは知られていたから、その応用といったところだ。大空ではなく、剥き出しになった山の地肌というスクリーンさえ、そこには用意されていた。


 引用した部分で乱歩が言っている「距離の曖昧さ」は、「能登の半島の森林」とも相俟って、奇しくも能登の人である長谷川等伯の「松林図屏風」を思い起こさせる。今年も国立博物館の年初の特別展示で見られたが、あれは見る者の眼の中でしか完成しない絵だ。


 あのような水蒸気に満ちた湿気の多い風景はいかにも日本的であり、四角い窓枠に切り取られて、ハドソン川を隔てた山肌に「馬鹿馬鹿しく拡大され」た「虫」は、もっとくっきりした鮮明な輪廓と細部を保っていたと思われる(だからこそ語り手は友人に克明な描写ができて、相手は種を同定しえた)。しかしそれをも含めて乱歩はポーから継承し、必要な変更を加えたのであり、それは本題の押絵をめぐる奇譚のみならず蜃気楼の記述にまで及んでいる。しかも、汽車に乗り合せた老人の持っていた押絵の額を、やはり彼のものである古い双眼鏡でのぞいたところ押絵の人形が生きていた、なという話は夢や狂気や妄想で済ますにしても、語り手は蜃気楼をその目で見たことの現実性さえ、次のようにやすやすと放棄してしまう。


私がこの話をすると、時々、お前は魚津なんかへ行ったことはないじゃないかと、親しい友達に突っ込まれることがある。そう云われて見ると、私は何時[いつ]の何日に魚津へ行ったのだと、ハッキリ証拠を示すことが出来ぬ。


 双眼鏡は今は押絵の人形になっている当の兄が、横浜の道具屋で手に入れたものだが、弟はそれを「魔性の器械」と呼ぶし、語り手はともすれば語る出来事が夢まぼろしであったような口ぶりになる。「信用できない語り手」と見なされ、自分の語っていることを狂気や夢、非現実の側へ押しやることこそが、真の望みであるかのように。


真昼の蜃気楼*


魚津の浜の松並木に豆粒の様な人間がウジャウジャと集まって、息を殺して、眼界一杯の大空と海面とを眺めていた。私はあんな静かな、唖の様にだまっている海を見たことがない。日本海は荒海と思い込んでいた私には、それもひどく意外であった。その海は、灰色で、全く小波一つなく、無限の彼方にまで打続く沼かと思われた。そして、太平洋の海の様に、水平線はなくて、海と空とは、同じ灰色に溶け合い、厚さの知れぬ靄に覆いつくされた感じであった。空だとばかり思っていた、上部の靄の中を、案外にもそこが海面であって、フワフワと幽霊の様な、大きな白帆が滑って行ったりした。


 人が何かを見ようと大勢集まり、それが現れるのを今や遅しと息を殺して待っている。空と海はそこに差しかけられた灰色の巨大なスクリーンだ。そしてその上にうごめく異形の影こそ蜃気楼であった。


曖昧な形の、真黒な巨大な三角形が、塔の様に積重なって行ったり、またたく間にくずれたり、横に延びて長い汽車の様に走ったり、それが幾つかにくずれ、立並ぶ檜の梢と見えたり、じっと動かぬ様でいながら、いつとはなく、全く違った形に化けて行った。


 蜃気楼とは絵にあるような龍宮城ではなかったと語り手は言う。


私はその時、生れて初めて蜃気楼というものを見た。蛤の息の中に美しい龍宮城の浮んでいる、あの古風な絵を想像していた私は、本物の蜃気楼を見て、膏汗[あぶらあせ]のにじむ様な、恐怖に近い驚きに撃たれた。


 それは場所としては離れているが現実にあるもの(能登の森林)の写しで、空気の状態によって文字り変幻する不安定なまぼろしだが、無から有を生じるのではなく、存在しないものは現れえず、また見る者の思い通りになるものでもない。そもそも『スフィンクス』では都合よく空白の山肌が生じて、そこへの投影をしやすくしていた。しかしそこに何を見るかは、『ソラリス』の訪問者と同じで選択できるものではない。「構成の原理」なぞと言ってポーはあたかもそれが可能であるかに韜晦的にふるまい、乱歩は心酔しているけれど、(優れた)実作者でもある乱歩が経験的に気づいていなかったはずはない。双眼鏡を浅草寺の境内の人混みに向けた「押絵と旅する男」の兄は、自分の運命に出会うしかなかった。娘の顔が双眼鏡に入ってこない方がよほどありえないことであった。


それ以来[兄がこの世から見えなくなしまって以来]というもの、私は一層遠眼鏡という魔性の器械を恐れる様になりました。殊にも、このどこの国の船長とも分らぬ、異人の持物であった遠眼鏡が、特別いやでして(…)


 蜃気楼とはユートピアのかいま見ではありえなかった。そこは無時間の龍宮城ではないので、押絵の額の中の世界もまた、老いと死(語り手は前者にしか触れていないが)に脅やかされており、「二十五歳の美少年」だったのが白髪の老人になって、苦しげに結綿の美少女を抱きしめている。


「横浜の支那人町の」道具屋によれば外国船の船長だという双眼鏡の元の持主は、書き手が一種の幽霊船に乗っている『壜の中から出た手記』にはじまり、海上で、『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』の、行く手に立ちはだかる乳色のフィルムのような白い巨人に出会う「ページの果てまでの旅」に至るキャリアを有する、エドガー・アラン・ポー船長に違いない。



* ジュディ・オングの唄う歌詞であるが、そもそも真夜中の蜃気楼というものはないので重言であった。




# by kaoruSZ | 2024-03-03 21:04 | 文学 | Comments(0)

◆強調は引用者による



死の影の下で

 ここで扱うのは1843年の『黄金虫』と『黒猫』、『盗まれた手紙』(45)、『アルンハイムの地所』(47)と『ランダーの別荘』(48~49) 、そして49年の『スフィンクス』(1849年とはポーの短い生涯の最後の年でもある)といった作品である。また、書いているうちに、さらに十年前の『アッシャー家の崩壊』(39)と『赤死病の仮面』(42)とが予定外に召喚されてもきた。


 この中で圧倒的に知名度の低いのが『スフィンクス』であろう。しかし不幸な偶然によって、今日これを読む人は、自分と全く無関係の大昔の出来事と読み捨てるわけには行かなくなっている。このごく短い物語はこうはじまるのだから。


ニュー・ヨークでコレラが猖獗を極めたのは、ちょうどぼくが或る親戚から、ハドソン河の岸辺にある美しい別荘 [コタージュ・オルネ]で二週間、世間と没交渉に一緒に暮そうという招待を受け、その厚情に甘えていた間であった。


「人口稠密な都会から」は「恐ろしい情報」が毎朝伝えられ、「知人の死の報せを耳にすることなしには、一日たりとも経過することがなかったのである」。今はこれよりも酷くないと思える者は幸いである。しかし私はアクチュアルな事象について語ろうというわけではないので、この小品の主人公がこのように死に脅やかされる状況下にあったと示すにとどめよう。


 いま引用した部分で、そこがニューヨーク市から遠くない、ハドソン川の流域にあるcottageだということは知らされているが、これは『ランダーの別荘』(Landor's Cottage)の語り手が不思議な谷間に別荘を発見したのは「ニューヨーク州の川沿いの一、二の郡を踏破する徒歩旅行」の途上であり、谷間の湖から流れ出る小川が「切り立った崖をまっさかさまに流れ落ちて、ここからは見えない曲りくねった進路をたどって、ついにハドソン川に合する」であったのと符号する。『アルンハイムの地所』の本文に地名は出てこず、「その場所がどこだったかは、もちろん言うまでもあるまい。最近友人エリソンが逝去して、彼の所有地が一部の来館者に公開されるようなことになったので」云々と形式的には伏せているが、「普通アルンハイムにゆくには河を利用する。訪問者は朝早く市を出る」と抽象化されたこの市と河が何と呼ばれるべきかは明白だ。『アルンハイムの地所』は、私見では、朝がた町を出てハドソン川を遡った舟が日の暮れに死の国に至る道行を描いたものだが、『スフィンクス』の主人公が疫病を避けて閉じこもる親戚の「別荘」もそのあたりにあると見てよかろう

 

 今回、『黄金虫』『黒猫』『盗まれた手紙』等をつぎつぎ再読したあとで『スフィンクス』をあらためて読むと、この小品は、ポーの後期のこれらの傑作と少なからぬ細部を共有する、結節点とでも言うべきものであった。以下はこのようにして気づいたことの覚書である。



 epidemic による心の弱りは、語り手の〈ぼく〉をしてこう言わしめる。


南部から吹いて来る風は、死の匂いにみちているように思われたし、実際その、心をしびれさせる想念はぼくにとり憑いてしまい、話すことも、思うことも、夢みることも、みなそのことのみであったのだ。別荘の主人もかなり参ってはいたけれども、ぼくほど興奮しやすい気質ではなかったため、ぼくの気分を引立てようといろいろ骨折ってくれた。


 語り手の「興奮しやすい気質」は、『黄金虫』の主人公レグランドを思わせずにはいない。『黄金虫』の語り手は彼を「発狂しやすい精神」とさえ言った。むろんレグランドは理由があって、つまり暗号文を解読できて興奮していたのであるが。


「豊かな哲学的知性」の持主である、『スフィンクス』の、語り手の友人でもある親戚の男ーー〈ぼく〉への濃やかな愛情が感じられることがレグランドの友人とはかなり違うーーさえ、〈ぼく〉が何を見たかを打ち明けると、「ぼくが疑う余地もなく発狂したのだと判断したのであろう、奇妙に生々しい態度に変った」のだった。再び現れた幻を〈ぼく〉が指摘しても、「彼は熱心に見まもりーーしかし何も見えないと主張した」。


ぼくはこのとき、甚だしい不安に襲われた。この幻はぼくの死の前兆ではないか、あるいは、もっと不幸なことには、躁狂の先駆症状ではないかと恐れたのである。ぼくは激しい勢いで椅子の背によりかかり、ややしばらくのあいだ両手に顔を埋めた。眼をあげたとき、幻はもはや見えなかった。


 これを読んで連想したのは、「興奮しやすい気質」なら一番に挙げるべきロデリック・アッシャーが、呼び寄せた友人〈私〉に「僕は死ぬのだ」と告げるうち、妹のマデリン嬢が「ゆっくりと部屋の遠くの方を通り」、〈私〉のいるのにも気づかず姿を消してしまうくだりである。


とうとう彼女の姿が見えなくなると、私の視線は本能的に熱心にその兄の顔の方に向けられた、ーーが彼は顔を両手の中に埋めていた


 彼らはいづれも両手に顔を埋めるという同じ仕草で、幻をやりすごしている。それは死の前兆と感じられ、だからこそ彼らはそれを否認するのだ。


 もちろんマデリン嬢は幻ではない。〈私〉の眼はその去りゆく歩みをじっと見まもっている。しかし、冗談小説と受け取られるのかもしれない『スフィンクス』ーー私はそうは思わないがーーでは、語り手の見る幻は夢遊病の女ではなく、地すべりで樹木が流されむき出しになった山の斜面を、すばやく降りてゆく怪物である。


本から眼をあげると、視線は山のあらわな表面に、一つの物体にーー恐ろしい形をした生ける怪物へと注がれた。それは山頂から麓へとあわただしく降り、ついには下方の鬱蒼たる森林へと姿を消した。


 続く怪物の描写は、最初主人が「腹をかかえて笑った」のも無理はないと思われるものだ。地すべりを免れた大木と比較するとその動物は、「定期航路の船」よりも大きく、形もそれに似ていた。


七十四門の砲を備えた、我が国古戦艦の姿は、この怪物の外形について何がしかの観念を伝えるかもしれない。太さは普通の象の胴体くらい、長さは六、七十フィートほどある鼻のさきに、口があるのだ。そして鼻の根本には、水牛二十頭分の毛を集めたよりも多い、膨大な量の黒い毛が密生している。


 ラヴクラフトの読者なら(ポーとラヴクラフトの関係は誰知らぬ者もないが、それにしても)これはあんまりだとあっけにとられよう。読み返した『黒猫』の幕切れの壁の中から響く声、「ただ地獄からのみ聞こえ得る」号泣は、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』でウィレット医師が降りていった地下の生き物たちの挙げる叫びやハーバート・ウェストを壁の向うへ連れ去った者たちはみなこの声から出てきたのだと納得させるものだったとはいえ。


『ダンウィッチの怪』に紛れ込ませても境目が分らないのではと思われるような描写はなおも続く。


「二本の光り輝く牙が垂直に突き出ている」が、「これは純粋な水晶で出来ているらしく、形は完全なプリズムを成しーー落日の光をこの上なく豪奢に反映していた。胴体は、大地に尖端を突きつけた杭のような形をしている。」そして翼ーー二対の翼は、「すべて金属の鱗でおおわれている」。さらに「上段、下段の翼が強靭な鎖で連結してあることをぼくは認めた。」


 しかし『黒猫』と『黄金虫』の読者にとって、真に驚くべきは次の描写であろう。


しかしこの恐ろしい怪物の主たる特徴は、ほぼ胸全体を覆っている髑髏(されこうべ)の絵であった。それは体の黒地の上に、まるで画家が入念に描きあげたかのように正確に、眩ゆいで描かれてあったのだ。


猫』では火事のあと焼け残った白壁に、語り手の殺した「巨大な猫の姿が焼きついて」いたのだった。


それは実に驚くべき正確さで描き出されていた。


 そして二代目の黒猫は胸に白い毛の斑点を持ち、「形こそ大きけれ、もともとはっきりしない形の」それは、やがて明確に絞首台の形をとる。


 黒と白は、『メエルシュトレエムに呑まれて』では、「一日前までは大鴉のようにまっ黒だった髪が、ごらんのようにまっ白になって」いたという形で、また、『ヴァルドマアル氏の病症の真相』では、催眠術にかけられて生きながらえるヴァルドマアル氏は「頬髯が真白で、黒い髪の毛と著しい対照を示し」ており、いずれも生と死の境界およびその(恐るべき)混交を表すものだろう。


『黄金虫』では、レグランドがその場にはない虫の形を伝えるために紙にインクでスケッチを描く。実はそれは海岸で拾って黄金虫を包んだ羊皮紙であり、それを受け取った語り手の眼に映ったのは、暖炉の火に暖められて紙の反対側に浮き上がった髑髏の絵であった。


 しかし『スフィンクス』の主人公は『黒猫』も『黄金虫』も読んでいないし(たぶん)、ラヴクラフトなど名前も知らないので(確実に)、そんなことなど夢にも思わず、「理性によってはどのようにしても追いやりがたい不吉の到来の予感をいだきながら」「この恐ろしい動物、特に胸のあたりの様子」を見まもっていると、奇怪な動物の「鼻の尖端にある巨大な顎が突然ひろがり、哀愁にみちた轟然たる響がそこから発せられて」、「それはまるで葬いの鐘のようにぼくの心を打ちのめし」たので、そのまま気を失って床へ倒れてしまう。


 何日も経って、ようやく彼は別荘の主人であり友人でもある親戚の男に、異常な出来事を物語る。夕べの同時刻、「ぼくは同じ窓際、同じ椅子に座を占め、彼はすぐかたわらのソファーによりかかって」いた。前述の通り主人は「ぼく」の狂気を疑い、しかもその直後に再び怪物が現れて、「ぼくは恐怖にみちた叫びをあげて、彼の注意を促した」。


 にもかかわらず、友人には怪物は見えない。しかし彼は相手を狂人と、その見たものを幻覚と決めつけることなく、「幻の野獣がどのような形のものか、執拗に問い質した」結果、集めたデータから答えを得る。この「哲学的知性」の持主は正しく「探偵」なのである。


「昆虫綱[インセクタ](つまり虫なんですよ)」と彼は言う。書棚から取り出した博物学の本を、その細かな活字がよく見えるように、語り手と交代した窓際の椅子で開きながら。


「髑髏[されこうべ]スフィンクスは、その憂鬱な叫び声および胴鎧にある死の紋章によって、これまでときどき、俗間に恐怖をもたらした。」


 探偵は本を閉じ、「椅子に腰かけたまま体を前にかがめ、先程ぼくが「怪物」を見たときとまったく同じ位置に身を置いた」。


「ああ、ここだ」と、やがて彼は叫んだ。「山肌を降りてゆく。とても目立つ姿だ。でも、君が想像したほどは決して大きくないし、遠くへだたっているわけでもない」


 窓辺の至近距離にいる髑髏スフィンクスが、遠くの山肌と重なりあったので 、前者がべらぼうに拡大されて感じられたというのだ。


 そんなことが実際にありうるかどうか、昆虫綱[インセクタ]、鱗翅目[レピドプテラ]、薄暮族[クレプスクラリア]、スフィンクス種なる虫が実在するかは 、さしあたって問題ではない。私たちがメタレヴェルで理想的な探偵–読者であったとしたら、怪物の胴に髑髏が見えたところで「虫」と判定すべきであった。なぜなら『黄金虫』の語り手が羊皮紙に髑髏を見たとき、その裏には黄金虫の絵が背中合せになっていたのだし、そもそも大きさの全く違う頭蓋骨と甲虫が同じ輪郭で出現したという事態には、言うまでもなくパースペクティヴの混乱があったからで、それは、暗号文を解いたレグランドが実際の土地にそれと符号するものを探しに行った際、「悪魔の岩棚」と呼ぶ場所に腰かけて彼方に聳える百合の木に向けた望遠鏡の筒の中に、葉むらの中の白い髑髏が収まるのにも通じるからだ。


 それは大きいものを小さく、小さいものを大きくして、サイズの違うものたちを同じ空間に共存させる。髑髏と甲虫の互の大きさが適正になるのは、虫を持った從僕のジュピターが百合の木に登って、枝の先に釘付けにされた髑髏と黄金虫が最大限に近づけられ、髑髏の眼窩の空洞を通して紐で吊るした黄金虫がおろされる時でしかない。江戸川乱歩は『黄金虫』の暗号解読部分ばかりをほめるが(「探偵作家としてのエドガア・ポオ」)、『押絵と旅する男』の浅草公園で取り出された遠めがねは、ホフマンにも増して、『黄金虫』の望遠鏡から直接影響を受けたのではなかろうか。


 ベクトルは逆だが、怪物を見るためには、別荘の主人がしたように、語り手と同じ椅子にかけて「まったく同じ位置に身を置」く必要があった。これは「悪魔の岩棚」が、「ある一定の姿勢でなければそこに腰かけることができ」ず、そこ以外からは葉むらの中の頭蓋骨が見えないのとそっくりだ。メタレヴェルで書棚から取り出して参照すべき書物とは、「博物学の概論書」ではなく、『ポー小説集』に他なるまい。






# by kaoruSZ | 2024-02-29 21:31 | 批評 | Comments(0)

紅茶の味

初出 2022年3月25日 骨董品モチーフSS


https://x.com/kaoruSZ/status/1507339378107944971?s=20


「あと何杯飲めるかな」


 貝殻を象った優雅なポットから二杯目の紅茶をカップに注ぐと、父は決まってそう呟いた。昼でも店内は海底のようにくらく、魚の形の色ガラスを透して差す光が、ティースプーンをあやつる父の手元を照らしていた。外出だからと白髪を七三に分けた父の、若い頃は昭和の映画スターの誰彼に似ていると言われたという彫りの深い横顔と、喉仏が動いて紅茶を飲み下すのを私は見守った。


 車椅子を押して木立の中をゆっくりと病院へ帰る。そういう週末が何度か続いて私の気がゆるんだ頃、父は突然意識不明に陥った。


 もともと家族が泊り込める、窓の外は冬でも鮮やかな花壇がめぐらされたテラス付きの個室のカーテンを開け、もう父の眼に映らない花々を見ることではじまる生活を七日続けて、明け方に呼吸が停るのを見届けた。実のところ医者は二三日で片がつくと思っていたのだが、華奢な陶磁器と違い、父はおそろしく頑丈だった。


 死後の処置のため入ってきたはじめて見るナースは、父を一瞥して、「高い鼻ですねえ」と感嘆するように言った。


 長い時が経って、ようやくそのあたりを再訪する気になったが、当然のことのように店はあとかたもなく、駅前に戻って昔ながらの瀬戸物屋に入り、マグを一つ買った。そこに人魚の画が描かれていたからだ。この頑丈なマグで私の「残り」があと何杯かを数えるのも一興だと思ったのだ。


# by kaoruSZ | 2023-12-23 17:31 | 文学 | Comments(0)