花の美しさもまたある
2010年 04月 14日――落っこちちゃう。
傍にしゃがんだ祖母らしい人が繰り返す。
――落っこちちゃうね。
女の子が言った。
――雪みたい。
祖母が繰り返す。
――雪みたい。
私の母が育児日記に、生まれてはじめて雪が降ってくるのを見た私が、庭に向かって「アメトチガウ、ユキネ」と呟いたと書きとめているのを思い出した。通り過ぎてから気がついたが、女の子はこれに先立って「雪みたいね」と祖母なる人が口にするのを聞いていたのではないか。本当は祖母が先に言った言葉を、あの時反復したのではないか。
私がはじめて見た雪を「ユキ」と呼べたのは、「雪やこんこん」と先に教わり、絵本でも見ていたからだろう(「ネコはコタツで丸くなるの絵をかいて」と言われ、描いてやったと母は記している)。
それでも、「ひょう」や「あられ」は――氷の粒だと知らされていても、なお、「ひょうが降ってきた」という大人たちの声を聞くと、斑入りの動物が本当にふってきたような気がしたものだし、突然屋根を叩いて愕かせるものは、正月の残りを賽の目に切った揚げ餅に粉砂糖をまぶした「あられ」のように思えてならなかった。
だから、最初から、言葉とは比喩であったのだろう。差異と類似が作動させるシステム。圧倒的に未知の世界を分類し、同一性の中に差異を持ち込み、異なるものを一つにし、しなやかな猛獣を立ち上がらせるもの(子供は大人たちの気づかぬ細部に絶えず類似を発見していた)。ネコヤナギと呼ばれるむしろ毛虫を思わせるやわらかな穂からは猫(飼わせてもらえなかった)という名前ゆえに目が離せなかったし、ウミネコというのはカモメで猫じゃないんだと聞かされてはいても、動物園の片隅で鳥の鳴き叫ぶそこには光る猫の眼がひそんでいるのではと思われた。
いくとせの春に心を尽くし来ぬあはれと思へみよしのの花
そのかみの春の日、母にこの歌を教えると、いたく感心して紙片に書きとめ、針箱にしまっていた。別の時「花々の髪うちみだる夕映と盲目の孔雀が花ひらく」という拙い作を塚本邦雄撰の某所に採られたのを見せたところ、本当は孔雀はそんなにきれいなものじゃないよ、と言われた。四国のどこやらへ観光に行った際、夕方になるといっせいに孔雀の群が飛んで帰ってくるのを見物したが、尾羽打ち枯らして穢かったというのだ。
別にその孔雀を写したわけじゃないとむかむかして答えた。言葉を介さずに触れられる生の現実などというものはないのだとか、言葉が経験を作るのであり、その逆ではないとかは言わなかったが。「思ひ出は孔雀の羽とうちひらき飽くなき貪婪の島へかへらむ」という前川佐美雄の歌とは関係があるかもしれないが、母が見た孔雀とは無関係なのだとは言った。
母は短歌をやっていたわけでは全くないが、庭で草花は育てていたので、NHKTVの「短歌」で偶然、草の根を引き抜く描写が添削されているのを見て、これは先生がナントカ草を知らないのだ、根が張って抜きにくいので添削前の表現の方が感じが出ていると言った。なるほどそれはその通りなのだろう。
花時に合わせた東京都庭園美術館の「アール・デコの館」公開を見に行った。中に入る前に、車寄せの手前に建物と並行して植えられた桜を友人と見ながら歩いた。木の根元を苔が覆った上にくまなく花が散り敷いている。以前春に京都を訪れる機会があって、お寺でこういうさまを見たことがあると友人は言った。
帰ってから「新古今和歌集」を開いてみると、「春歌下」に次の歌があった。
木のもとの苔の緑も見えぬまで八重散りしける山ざくらかな
今まで目をとめたことがなかったが、さすが新古今、これは花に関する経験のインデックスであり、山桜が染井吉野にかわっただけで、はじめて見たと思うものもとっくに登録されていたのだ。
さそはれぬ人のためとやのこりけむ明日よりさきの花の白雪