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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

丸尾末広版『パノラマ島綺譚』ノート 

2011年12月11日~23日 twitter https://twitter.com/#!/kaoruSZ に書き継いだもののまとめ。余談までお読み下さる方はtwilogで。http://twilog.org/kaoruSZ   

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 丸尾末広の『パノラマ島綺譚』(江戸川乱歩の小説のマンガ化すなわち紙上脚色上映)、友人に借りて読む。素晴しい。内容自体はむしろ谷崎潤一郎の『金色の死』へのオマージュだ(人見広介が菰田源三郎になりかわるように、谷崎が乱歩にすりかわっている)。しかもあまりにも巧みで継ぎ目が見えない。島の風景や人物のポーズは既成の画家からの引用で出来ており、それ自体谷崎の「活人画」の流用だが、原作では人間で名画をなぞるというぱっとしないアイディアに見えたものの可能性と正統性を、丸尾は見事に証してみせたと言えよう。

 乱歩自身、『金色の死』に感激して『パノラマ島』を書いたのだから丸尾はそれをさらに推し進めたとも言える。友人は、主人公が妻を殺しコンクリート詰めにした表面に髪の毛がはみ出していて明智(!)が斧でコンクリートを割ると血が流れ出る(絶対ペンキだ!)という場面がないことを残念がっていたが、そのかわり丸尾版は睡蓮の池に殺した妻を浮かべてミレーのオフィーリアをやっている。この時はまだ洋服姿だが、以後主人公の出で立ちは『金色の死』のオリエンタル趣味に変り、彼の君臨する王国は、当時は明示できなかった一大性的オージーの楽園(ボスの『悦楽の園』が下敷き)であることをあらわにする。

 菰田の寝室の屏風は若冲。パノラマ島に建造されたボマルツォの怪物(実は厠)といい、ウェディングケーキ状のテラス式空中庭園(セミラミスの庭だ)といい、作者は澁澤龍彦の愛読者か。会話してるレスビエンヌのポーズはクールベの『眠り』、菰田/人見の少年時代の容貌は華宵写し。私にわかる出典はこのくらいかな。

 丸尾の博物学的細密描写は、鳥、虫(含爬虫類)、魚と、植物に対し最高に発揮されるところが若冲と共通する。虎や象、若冲は見るべくもなかったのだが、丸尾は虎に興味ないのか(と思える絵である)。個人的には『モロー博士の島』、この絵でやってほしいが、猫科に執着なくては無理か。一方でヒエロニムス・ボスから来ている、人間と同じ大きさの小鳥素晴しい。

 谷崎全集の『金色の死』が入っている巻と、ちくま文庫の夢野久作全集二冊(犬神博士/超人鬚野博士、暗黒公使)図書館で借りる。ちくま、表紙が綺麗。モノクロームの挿絵しか知らなかったが、竹中英太郎ってカラーだとこんな華やかな色づかいしていたのか

『金色の死』見直したら若冲の名前出ていた!「或は又若冲の花鳥図にあるやうな爛漫たる百花の林を潜つて孔雀や鸚鵡の逍遥してゐる楽園のあたりにも導かれました」とある。谷崎が楽園の壮麗を「読者の想像に委せて詳細な記述を試みることを避けようかと思ひます」と言っているところを、もちろん丸尾は全て可視化。

 やっぱり『金色の死』と『パノラマ島奇譚』は双子だ。乱歩のそっくりな学校友達と早過ぎた埋葬テーマ(によるトリック)はむろんポーからだが(後者についてはは自己言及あり)、『金色の死』の語り手と岡村君も学友で、各々小説家と楽園造りの芸術家、『パノラマ島』の主人公は両者を一身に兼ねている。

「それは本当に夢の感じか、そうでなければ、映画の二重焼き付けの感じです」(『パノラマ島奇譚』)。パノラマ島の花火は「普通の花火と違って、私たちのはあんなに長い間、まるで空に写した幻燈のようにじっとしているのだよ」。要するに、幻燈であり映画なのだろう。パノラマ館が活動写真に駆逐されたあとの時代の、「日本では私がまだ小学生の時分に非常に流行した」と主人公が言い、ベンヤミンが『1900年頃の幼年時代』で当時でさえ流行遅れだったと思い出を書いている、懐かしい演し物のヴァージョンアップされた再来なのだ。丸尾末広がむしろあっさりと普通の花火を描いているのは当然だろう。

『暗黒公使』の解説ヒドい。父との闘争という(捏造された)主題で夢野久作を解読しようとして、作中で新聞記事を引用する「奇妙な癖」は「父への腹いせの実行」だと言うが、これはたんに当時の最新メディアだった映画への憧れとその模倣だろう。『カリガリ博士』一本見たってそのことは了解される。号外、メモ、ポスター、貼紙、手紙等の引用は、無声映画が字幕とともに発達したことにも由来しよう。『少女地獄』について解説者は「これはぼくが最も愛する作品である」ともったいぶって宣言するが、嘘を重ねて破滅するヒロインを「日本の国家主義者たちの行く末を(…)久作は天才看護婦姫野ゆり子に仮託して予言した」とはとんだ小クラカウアーだ(余分な註;クラカウアーはカリガリがヒトラーを予告したと言ったヒト)。自分の小説をそんなふうに解釈されてもいいんだろうか、島田雅彦は。いや、そういう小説しか書いていないということか。他人の作品をダシにした根拠の無いカッコつけパフォーマンスには苛々する。

 もう一冊の赤坂憲雄の解説もナー。「そんな犬神にして、博士なるモノ、それゆえ犬神博士とは、いったい何者なのか。あらためて博士とは何か」と大上段に、アカデミズムの称号ではなく物知りびとだの、古代官職だの、陰陽師だの……我田引水もほどほどに。「無用な謎解きを重ねすぎたようだ」。そのとおり。目羅博士も犬神博士も鬚野博士も、皆あの映画から出てきたに決まってるじゃないか。そう思って前の方をパラパラ見ると、「天幕(テント)を質に置いたカリガリ博士。書斎を持たないファウストか。アハハ。なかなか君は見立てが巧いな。吾輩を魔法使いと見たところが感心だ」と、黒マントに山高帽の鬚野博士がのたもうている。Magie にしてDoktor、何が律令か陰陽師か。「隠された素顔」?「物語の深み」? 表面にあるものを見てから言え。そこへ行くと角川文庫版の『犬神博士』解説は松田修、流石に存念の美少年=小さ神を語ってあますところがない。(参考→http://kaorusz.exblog.jp/11781696/

『犬神博士』読了。女装のチイ少年、「よか稚児」とか「よかにせ」とか言われてる(にせは二世を契るの意とか)。鹿児島じゃなくても言うんだね。『ドグラ・マグラ』では若林博士が、眠る主人公を男でも吸い付きたくなるような美少年と言っている(おまえはタコか!)。頬の紅さは童貞のしるしだそうな。なぜ小林君がリンゴの頬をした永遠の「紅顔の少年」であるかも頷けようといふもの。乱歩も久作も同じ文化の中にいる。童貞とは蔑まれるべき資質ではつゆありえず、童貞ないし少年とは男によって希求されるべき対象だったのだ。「父はむかしたれの少年、浴室に伏して海驢(あしか)のごと耳洗ふ 」(塚本邦雄)

「幻術」「魔法」等に「ドグラマグラ」のルビを付したる例、『犬神博士』に幾つかあり。「あの児は幻術使いぞ、幻術使いぞ、逃げれ、逃げれッ」。「一眼見るとポーッとなるくらい、可愛い顔をしとるげなぞ」と言われるチイ少年、強い強い。

 上記引用歌検索したら、「現代詩文庫」版歌集のレヴューに好みの歌をジャンル立てで並べてる人がいて、下らん感想文より遥かにマシだが、「父はむかし」の歌は動物ものに分類されていた(無論本当は少年もの)。「禁猟のふれが解かれし鈍色の野に眸(まみ)ふせる少年と蛾と」(蛇足ながら、蛾の触角と少年の睫毛のダブルイメージを見るべし)。 

「呼子を鳴らすと、何処ともなく微妙な鈴の響が聞えて一匹の駝鳥が花束を飾った妍麗な小車を曳いて走って来ました。岡村君は私を其れに乗り移らせて……」(『金色の死』)。まるで童話の一節だが、「四顧すれば、駒ケ嶽、冠ケ嶽、明神ケ嶽の山々は此の荘厳な天国の外郭を屏風の如く取り包んで居ます」と、あくまで現実の一部としてかっきり区切られた空間は揺らがない。それに対して乱歩の人口楽園は、内部でありながら在り得ない広大な外界がたたみ込まれたパノラマ「館」が元にあるだけあって、パノラマ館のように空が閉じていないにしても、地下のグロッタ、『鏡地獄』のような出口のない球体、あるいは映画館のようなその内側で視覚的イリュージョンが上演される場所を思わせて、それは外界と匹敵するかそれを凌駕する夢を詰め込んでオーヴァーヒートした脳内でもありえようから、岩山が島の主人で創造者の巨大な頭部に形作られ髪や鬚は植栽で表されている丸尾版の奇怪なイメージは当を得ている。

 パノラマ島はディズニーランドより船橋ヘルスセンターに近いのではないかという気がしてきて検索すると、骨董屋で入手(!)の開園当時のパンフレットを載せたサイトが見つかった。「温泉は地下三千尺の二つの井戸から一日二万石も噴出!!これが大ローマ風呂、岩風呂、大滝風呂、その他大小二十個の浴槽にあふれています」

 400畳敷の大広間で一日中ショーが続き、劇場、遊園地等々揃った「いわゆる歓楽境ではなく、健全の娯楽場」とある。開園は1955年。谷津遊園はなんと1925年開園で『パノラマ島』より早い(雑誌発表は26年から27年すなわち大正と昭和を跨いでの連載で丸尾版は作中の出来事をこの時期に設定)。無論パノラマ島が何かを真似たのではなく総合レジャーランドの方が後からできたに違いないが、実は谷崎と乱歩の楽園は温泉パラダイスである。

 むろん、「ダンテがヱルギリウスに案内されるやうに」と言うのだから地獄でもあるわけで、実際彼らが最後に見出すのは「地獄の池」だが、そこは「人間の肉体を以て一杯に埋まつて居」て、人魚の扮装の美女の遊ぶ池や「牛乳、葡萄酒、ペパアミントなどを湛えた」湯槽もある。

 思えば最初に水を渡るのも冥界の指標であった。乱歩の場合は主人公と妻がついに「巨大なる花の擂鉢の底」という『神曲』の地獄の底を思わせる場所に至るが、そこにいるのは氷漬けのサタンではなく「擂鉢の縁にあたる、四周の山の頂から、滑らかな花の斜面を伝って、雪白の肉塊が、団子のように数珠繋ぎにころがり落ちて、その底にたたえられた浴槽の中へしぶきを立てている」と描写される裸女の群で、「彼女らは擂鉢の底の湯気の中を、バチャバチャと跳ね返りながら、あののどかな歌を合唱するのです」。

 この奇妙なセイレーンの中に彼らも交じり、「肉塊の滝つ瀬は、ますますその数を増し(…)花は(…)満目の花吹雪となりその花びらと、湯気と、しぶきとの濛々と入乱れた中に、裸女の肉塊は、肉と肉とをすり合わせて、桶の中の芋のように混乱して、息もたえだえに合唱を続け(…)打寄せ揉み返す、そのまっただ中に、あらゆる感覚を失った二人の客が、死骸のように漂っているのでした」という天国いや温泉地獄(地獄谷?)

 この描写で分るのは、乱歩にとって裸女の群が、ごろごろ転がる「肉塊」「団子」桶にひしめく「芋」でしかなかったことだと思うんだが……いくら他に刺激が乏しかったといえ当時の読者にこれがエロと感じられたのかどうか。澁澤龍彦は谷崎と乱歩の二作は「浴槽の中に大勢の裸女が跳ねまわっているというエロティックな人口楽園のイメージまでが」そっくりと言う(角川文庫『パノラマ島』解説)が、谷崎の方は「海豚の如く水中に跳躍して居る何十匹の動物を見ると、其等は皆体の下半分へ鎖帷子のやうな銀製の肉襦袢を着けて、人魚の姿を真似た美女の一群でありました」というのだから芋洗いとは余程違う。

「そして、ついに地上の楽園はきたのでした」(『パノラマ島奇譚』)。しかし、YouTubeで見られる船橋ヘルスセンターCMソング http://www.youtube.com/watch?v=ME3GYYc8vok「長生きしたけりゃちょっとおいで」と谷崎や乱歩の夢の国が違うのは、後者が蕩尽のユートピアであるところだ。「僕はもうあるだけの財産を遣い切つて了つた。今のような贅沢は、此れから半年も続ける事が出来ない」(谷崎)「さすがの菰田家の財産も、あとやっとひと月、この生活をささえるほどしか残っていないのですよ」(乱歩)

『金色の死』の二人は温泉に入る訳ではなく、《人間の肉体を以て一杯に埋まって居る「地獄の池」》迄来ると、《「さあ、此上を渡つて行くんだ。構はないから僕の後へ附いて来たまへ。」かう云つて、岡村君は私の手を引いて一団の肉塊の上を踏んで行きました》となる。最初にダンテとヴェルギリウスに喩えられていたのを思えば、これはサタンを踏みつけて彼らが地球の中心へ降りるのをなぞっているのだろう。しかし岡村君と「私」は浄罪山へ上る訳ではなく、「私はもう、此れ以上の事を書き続ける勇気がありません。兎に角あの浴室の光景などは、其夜東方の丘の上の春の宮殿で催された宴楽の余興に較べたなら、殆ど記憶にも残らない程小規模のものであつた事を附加へて置けば沢山です」云々とあり、後はもう「歓楽の絶頂に達した瞬間」の岡村君の突然の死しか残っていないのだから、やはりこれは去年ここhttp://sakura.canvas.ne.jp/spr/lunakb/eiga-10.html にも書いたように、谷崎にも直接筆には出来なかった「健全な娯楽場」ではない「歓楽境」なのだろう。それを描くにあたって、丸尾末広はボスの『悦楽の園』やラファエル前派を導入し、主人公が妻を殺すのも龍頭のゴンドラの中(シャロットの女の死)と、温泉場的泥臭さを一掃した。なお、ゴンドラは『金色の死』にすでにある。

 それにしても乱歩の“俗悪さ”はハンパない。丸尾版で主人公夫妻はスワンボートに迎えられるが、これは水中から半身を出した水着の女たちが押しているとおぼしい。しかし原作では舟ではなく、人語を発する白鳥実ハ人間の女の背にまたがっており、乗り手は「腿の下にうごめくものは、決して水鳥の筋肉ではなくて、羽毛に覆われた人間の肉体にちがいない」と思い、「おそらくは一人の女が白鳥の衣の中に腹ばいになって、手と足で水を掻きながら泳いでいるのでありましょう。ムクムクと動くやわらかな肩やお尻の肉のぐあい、着物を通して伝わる肌のぬくみ、それらはすべて人間の、若い女性のものらしく感じられるのです」と、ほとんど人間椅子か家畜人ヤプー状態で、丸尾が白鳥に乗っての道程をほぼ忠実に再現しながら、荒唐無稽な過重労働を採用しなかったのは当然だろう。そして裸女の蓮台。丸尾版では妻殺害後の主人公が髪に花を飾った全裸の女たちの担ぐ蓮台でボッス写しの野を運ばれるが、原作では「肉体の凹凸に応じて」隈取をした女らが「肉の腰掛け」を作り、「人肉の花びらは、ひらいたまま」その中央に主人公夫妻を包んで、膝の下に「肥え太った腹部のやわらかみ」が起伏し、「肉体のやわらかなバネ仕掛け」の上に深い花の絨毯が加わって「彼らの乗物を、一層滑らかに心地よく」する。

 新聞記事挿入が通常の映画的手法であることは前述したが、丸尾末広版『パノラマ島奇譚』にも新聞記事は目立つ(「聖上崩御」とか「芥川自殺」とかオリジナルの時代設定の表示でもある)。明智が見ている新聞の「紀州のルートウィヒ2世 沖の島に奇妙な楽園建設」の見出しは人をほほえませよう。「ディアギレフのロシアバレエ団を招聘して/ニジンスキーに踊ってもらおうと思ったんだが」なる科白も原作にはないが、谷崎の方に「此の頃の露西亜の舞踊劇に用ひられるレオン、バクストの衣裳」云々の言及あり。ベックリンの「死の島」風景も丸尾のオリジナルだがこの絵乱歩が自宅に飾っていた由。

「探偵小説らしい筋もほとんどなく(最後に探偵が、コンクリートの壁から出ている千代子の髪の毛を発見するのはいかにも取ってつけた感じである)」という澁澤の評はむしろ丸尾版にこそふさわしい。探偵は、雑誌に掲載されて誰もが読める「RAの話」というテクストと現実との一致を指摘するだけで、物的証拠を提示すらしない。原作では主人公(菰田源三郎になりすました人見広介)の書いた「RAの話」は未発表原稿で、探偵(原作では明智でなく北見小五郎と呼ばれる)だけがそれに注目、人見自身は書いたことも忘れていたらしい小説の死体の隠し場所から、千代子の死体の在り処を推測してしまう。

 原作の探偵は人見にとっていわば過去からやって来た忘れた(捨てた)はずの彼自身であり、抑圧したものの回帰、彼だけが知っている(どころか忘れかけていた)はずの秘密を知っていて突きつけてみせる、『屋根裏の散歩者』の明智と同様、犯罪者と探偵のあざといまでの類似を際立たせる存在なのだ。

 壁(柱)の中の妻の死体はむろん『黒猫』からで、『ウィリアム・ウィルソン』『早過ぎた埋葬』とともにポーづくし。瓜二つの友人になりかわる際に殺した小説家としての自分自身は、人見/北見の対の名を持つ分身として、忘れたはずの小説を熟知する探偵の姿で戻ってくる。『金色の死』の場合は語り手である小説家は最初から“行為者”と分離されていてその死を見届けるが、北見小五郎もまた、「この偉大な天才をむざむざ浮世の法律なんかに裁かせたくない」と言って人見を自決に追いやる、『屋根裏の散歩者』の郷田三郎をさんざん煽って空想から実行へ一線を越えさせた明智と同様の、主人公の黒い分身だ。

 パノラマ島海底トンネルから見た海中描写、丸尾末広の絵でも圧巻だが、乱歩の叙述には何らかの下敷きがあるに違いない。今でこそ葛西臨海公園等大水槽を魚が泳ぎ回る水族館は珍しくないが、強化ガラスのない当時、これは不可能な夢だったはず。それで思い出すのはジュール・ヴェルヌのノーチラス号の船窓風景で、あれは華麗な文体による図鑑の引き写しだというが、乱歩についてそういう実証的研究はあるのだろうか。少なくとも『海底二万里』を読まずに書いたということはありえまい。リヴレスクな引きこもりの室内旅行としての〈驚異の旅〉。若冲の魚群図も錦市場の魚だろう。

「生きた魚類といえば、せいぜい水族館のガラス箱の中でしか見たことのない陸上の人たちは、この比喩をあまりに大袈裟に思うかもしれません。(…)しかし、実際海中にはいってそれを見た人でなくでは、想像できるものではないのです」(『パノラマ島奇譚』)

 俗悪と書いたが、裸女のひしめく乱歩の楽園は極めて触覚的、そしてオージーじゃない。つまり大人の性交ではない。死んだ菰田の妻に別人と知られるのを恐れて、主人公は彼女に触れない。つまりエディプス関係以前の子供に退行していると言える(もともと父を殺してなりかわるという労なくして得た妻だ)。

 菰田源三郎に「なった」彼は、利益追求と富の蓄積から一転して蕩尽へと転じる。その行き着く先は明らかだ。禁が破られた時、遅ればせの殺人が起る。性交が殺人であるような描写あり(極めて触覚的)。そして千代子の死以後、丸尾版では話が『金色の死』に入れかわる――つまり、“独身者としての芸術家”の話に。

 しかし、千代子殺しは、次々色が変わる強いライトを当てながら(それも子供が懐中電灯で顔を下から照らして怖がらせ合うような)の、それ自体がショーの一部であるような活人画かグランギニョル擬きで、丸尾はすっかり差しかえている。小説では夫婦が温泉に浸かって話をしているうちに殺しになる訳で絵になるまい。原作の北見小五郎は自分のことを芸術家と呼んでおり、『金色の死』の語り手同様、分身的な芸術家である主人公の死を、死で完成されるべき「芸術」を見届ける。それもお湯から首を出して、頭蓋の中の光景のように頭上に広がる花火として。

 言ってみれば「このからだそらのみぢんにちらばれ」(宮澤賢治)が蕩尽の当然の帰結なのだが、先刻まで彼がいた場所を占めて(お湯につかって)それを見届ける分身というのは探偵小説に固有の形式で、そこが谷崎の“失敗作”と違うところだ。夢想家と分析家の二人のデュパンがいると『盗まれた手紙』の語り手は言っていなかったか。北見が来なければ、空に広がったきり静止した花火のように、ユートピアはいつまでも持続したかもしれない。しかし探偵が現実原則を持ち込み、丸尾の主人公は蕩尽と千代子殺しの償いとして死に、原作ではむしろ自らの芸術の完成のために死ぬ。最後の演し物は降り注ぐ血という触覚性をそなえていた。

 パノラマ島の湯の羊水性と乱歩の小品『火星の運河』との類似は澁澤龍彦が言っていたが、tatarskiyの指摘によれば、パノラマ島で『火星の運河』と重なるのは、木立を抜けた果てに見出す泉と、それを覗き込んだまま動かない女である。『火星の運河』は女体化の話だが、この女ナルシスも男であるとすれば『金色の死』の岡村君の著しい両性具有性とも平仄が合う(ちなみに両性具有とはほとんどつねに男の属性である)。

 断章で書くのが限界に来たのでここで一応メモは終る。
by kaorusz | 2012-02-24 14:39 | 批評 | Comments(0)