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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(3) 「性的なもの」と「知的なもの」

俗に「知的なもの」と「性的なもの」は別なものだと思われており、前者を高級で後者を低級なものとして扱うのが当然視されている。こうした前提を「当然のもの」として振舞う主体の性的ファンタジーはどういう代物であろうか?言うまでもないが、通俗で下品なものにしかならない。

「知的なもの」との結びつきを欠いた性的ファンタジーは、当然の結果として洗練を欠き、性を知的な考察の対象としえない知性は、性を不合理なものとして恐れると同時に、そもそも知の対象とするに値しない「下等なもの」と見なすことでそれを合理化するだろう。

言うまでもなく、こうした「性的なもの」と「知的なもの」を相容れないものと見なすメンタリティは、制度的な男性のヘテロセクシュアリティそのものであり、彼らにとって「性的なもの」とは当然対象としての“女”を意味する。

彼らの性に対する恐れと、その合理化としての侮蔑とは、そのまま現実の女性へと投影される。だからこそ彼らは「男とは当然のものである自然な本能として女に欲情するものであり、女とは男に欲情されるために存在する、本質的に性的であり受動的な存在なのだ」と確信し、その前提を相互に共有する。

彼らにとっては、そうした“女”に対する侮りと恐れの入り混じった嫌悪と、それと切り離せない劣情とを共有する者こそが“男”なのである。そしてその一方、「知的なもの」は本質的にパブリックな性としての男性に属するものとされ、女はそこに入るためには「名誉男性」として認められねばならない。

当然ながら、「男並みに知的なことが考えられている」と見なされうるか否かの決定権は男の側にある。そこで「所詮は感情的で不合理な女の浅知恵」とされてしまえばそれでお終いなわけだ。だからこそ男並みの承認を求める女ほど「男から論理的だと思ってもらえる話題や発言の作法」に過敏になる。

「男は論理的だが女は感情的だ」という通俗的な見解は、こうした最初から不公正極まりない茶番じみた線引きによって成り立っている。だが、自らに課した抑圧によって生み出された「抑圧されたもの」に絶えず脅かされ、それを否認し続けるために女に抑圧を転嫁する男のヘテロセクシュアリティこそ、不合理極まりない非理性的な代物であると言わねばなるまい。

つまり「男並みに論理的である」とは「男並みに性的なものと知的なものを分離できている」の意であり、本来不可分であるはずのものを相容れないものと見なし続けるという神経症的な強迫観念を模倣することでしかありえない。
しかも、この欺瞞的な前提を受け入れて「努力」したとしても、女が真に「男並みに」なることは決してできず、男の出来損ないに甘んじるか、悪くすれば自らの心身を破綻させることにしかならない。

なぜなら、男には対象としての“女”に「性的なもの」を外在化して担保させることで精神の安寧とホメオスタシスを保つことが許され奨励されているのに対し、男並みであろうとする女にはそんな手段など存在するはずもないからだ。女にとっての“女”は存在しない。

つまり男並みであろうとする女とは、本来男にとっては「性的」対象に過ぎないとされる自らを「知的」な存在として認めさせるための努力を強いられ、そのためには男のように外在化することなど出来ない自らの「性的なもの」を抱え込んだまま抑圧するしかなく、予めハンデを背負わされているのである。

このように、制度的な男のヘテロセクシュアリティとは支配的な世界観そのものであり、あらゆる価値を序列する体系そのものである。それは知性や普遍性と見なされるもの全てを独占する“全体”であり、それを補完する“部分”として“女”を規定するものだ。断じて「自然な女への性欲」などではない。

したり顔で抽象的な論理を弄ぶ取り澄ました顔の裏で、制度的な男のヘテロセクシュアリティは自らの性的対象たる“女”を苛烈に憎悪するものである。空疎な上澄みとしての知性こそを自らのものとして誇る男にとって、“女”とは自らのものとしては決して認められない穢れて淀んだ澱である。

だが自らが性的に魅惑された対象をそれ故にこそ憎悪し、絶えず蔑む必要に駆られているのは制度的なヘテロ男性のメンタリティのみであるのは言うまでも無い。彼ら以外の人々にとって、自らが対象に魅惑されることは純粋に愛することであり、自らがその対象のようでありたいと感じることと等価である。

私は彼であり、彼は私であり、私は彼を愛する。エロティックな表象を享受するとは、本来ただそれだけで完結したナルシシズムであり、アモラルで無垢なものである。ただ男のヘテロセクシズムだけが「彼女は自分ではない。だが彼女は自分のものである」と言い続ける抑圧的な自己欺瞞であるに過ぎない。

制度的な男のヘテロセクシュアリティが忌避する「性的なもの」の本質とは何であろうか?性的なものとは、五感を通して体に触れられる感覚から生じるものであり、官能的なもの、受動性そのものである。美は官能の内に宿るものであり、それは芸術の源である。(未定稿)
by kaoruSZ | 2012-05-25 18:35 | 批評 | Comments(0)