宮川淳『引用の織物』
2005年 01月 27日手許に切り抜きも『引用の織物』自体もないので、手持ちの語彙でそれらしいことを書いてみました。こうした概念から私が真先に思ったのは、これは〈夢の仕事〉でもあろうということだったかもしれません。つまり、日常の些細な断片(フロイトのいう「昼の残滓」)を元の連関から切り離し(それによって断片化し)、取り込むことで、それらしい見せかけだけの体裁がととのえられる夢の織物。まだ現代詩を知って間もなかったと思いますが、文字列の一部をゴチックにした詩節のあとに、今度はゴチックになった断片ばかりを集めて別の文脈の中へ配置する入澤康夫の作品などは、夢の構造そのもののテクスト化と感じられました(たとえば夢を描写することからどれほどそれが隔たっていることか)。「詩は表現ではない」と断じた入澤が擬-物語詩と呼んだ贋の物語、感じたことを〈素直に〉書くことから最も遠い、ブリコルールとしての夢-詩人による、通常の語の使用とは異なった紙の上の横滑り——。
前回私は、俳句は連歌から来ており、連歌は和歌から来ている。こうした歴史抜きで俳句は理解できない、あるいは俳句について論じるのは無意味だと一応は言えるだろう。一応、と留保をおくのは《父》に回帰しない読みという、今回の読書会で出たコンセプトとからむ話であり、また、『俳句をつくろう』の前に買った『アウトサイダー・アート』(服部正、光文社新書)から伸びている思考でもある。私の設問は次のようなものだ——「言語藝術にアウトサイダー・アートは存在するか?」と書きました。全体化とは別の原理によって成立するちぐはぐな総体という概念がまさしくこうした問題系に接続しうるものであるのは、たやすく見て取れましょう。たとえばヘンリー・ダーガーの作品など、まさしくブリコラージュと呼んでいいものです。彼は、拾った雑誌などから女の子のイラストレーションを切り抜き、それをもとに、拡大したりトレースしたりして膨大な絵を描きました。はらわたがはみ出す残酷描写と称されるものを展覧会で見ましたが、それは実際には理科の教科書などにもある、あの正面から見た解剖図でした。女の子がどんなポーズを取っていようと、内臓は整然と引用されています。それにしても、それらを挿画とする一万五千ページだかの小説の方はどうしたのでしょう? 画集は出ても、こちらは訳される気配もありません。ダーガーが読書家だったとは聞きませんので、想像するに単調で面白くないのでは?(またつづく)