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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

tatarskiyの部屋(19)「”Sherlock”に見てとれる「美しい友情」の代償としてのホモフォビア」への反響2

続篇掲載しました(2月26日)。http://kaorusz.exblog.jp/20073529/
★もう2ツイート分脱けていました。●を付してあります。2月14日訂正
★最後の段落を落していました。2月12日訂正(kaoruSZ)

RT @sh_1895 twitter上でとあるSHERLOCK論を読んだんだけど、なんか論点がずれている気になって今ひとつふに落ちなかった。なんつーか、口唇期の子供をセクハラだ!と非難しているような違和感。

自分が嫌だったからこれは間違っている!というスタンスに感じられたんだよな。いや自分の論理と感情を黄金律のように設定するってどうよ、というような。うーん、あるいはそういう問題に対するこちらの理解不足という面があるからかもしれないが。

twitter上で見かけた「Sherlock」論がまだ続いていたので、ついつい読みふけっていた。…うーん。三度ほど読み返してみたけどやはり腑に落ちない。

長文を要約すると、あの二人の関係を表すのにホモフォビアとミソジニーがセットになって常に用意されている(それはとても愚かなことであり許せないことである)、という話になるのだけども、その根拠というか、着目の仕方が多分自分とは違うんだろうなあ。だから多分、飲み込めないんだろう。

あのドラマがホモソーシャルを主点というか、二人の関係を表すのに重要な要素として扱ったかどうか。あの二人がずばりゲイであるかどうか。互いに対してセクシャリティな感情を持つことがストーリー的に外せなかったかどうか。そこを問題にしなければならないかどうか。自分は問題にしなかった側だ。

どちらかというと、あのドラマの主点は主人公であるシャーロックの人間的な成長(という言い方すら自分の友人は嫌うが)を扱っていて、S1の1話から3話まではだから彼の対人間関係の未熟さ加減を目立たせている。彼は女性にのみ対して厳しいのではない。彼自身に対する周囲の無理解に対して厳しい。

仮にジョンがシャーロックに対してセクシャルな要素も含めた好意を持っていたとしても、彼は理解できなかったのではないかと思える。そのくらいS1の彼は好意という感情が未分化だ。例えるならば子どもが自分の周囲にある人間を「好き」と「嫌い」の二択で判断しているに過ぎない。

そんな人間の行動がホモフォビアとミソジニーで成り立っている、と言われても正直自分はピンとこなかった。うーん、彼はそこまでまだ成長していないんじゃないかなと。

しかしこの方の言うところの、「「シャーロック」のような下品なホモフォビアをまったく用いずにエロティックな「男同士の絆」を描ききった名作がいくらでも作られています。」という名作の名前が後学のためにも知りたいなあ。どこがどう違うのか興味がある。


RT @kaoruSZ そういう名作枚挙に暇がないんだけど。The Celluloid Closetでも読んだら(棒)。男の友情物語は男が男のために作って同性愛の含意ゆえに長年「男を」魅了し続けてきたものなんだが。
この人、彼女の文章三度読んだそうだが()なぜリンクしないんだろう。読者がすぐに比較して判断できるのにね。だからしない? tatarskiyさんは主役二人の関係が同性愛かどうかなんて話してないだろう。「性的な可能性を前もって強迫的に排除する事」をホモフォビックだと言っているんだ。


@black_tatarskiy: @sh_1895 エアリプでの中傷おつかれさまです。わざわざ「三度ほど」も読み返していただいたらしい文章を書いた本人ですが、はっきり言って悪意すら感じるほどに「読めていただけたいない」ので、まずはこの場でもう一度読み返して下さいね。http://twilog.org/tatarskiy1/date-130131

私に対して直接リプライしないどころか、私の文章を直接RTすることもなかったのは貴方のフォロワーの方に私の文章を直接参照されては困るからでしょう?貴方の言っていることがまるきり的外れな中傷なのがわかってしまいますものね。

友人が先に書いてくれたのをRTしましたが、私は貴方が中傷なさったのとは違い、あのドラマの映像そのものに現われていた構造的な差別そのものを、全て具体的な該当箇所を例示して解説しています。印象批評や思い込みではまったくありません。

貴方が私の論を否定なさりたいなら、同じ手順を踏んだ上で、誰の目にも私以上の正確さを示さなければ無意味です。ご自分の主観的なキャラ語り(笑)以外に根拠のないあやふやな印象論を、フェアな手続きに従って作品を論じていた私を踏み台にして語っているのは貴方の方です。

●そしてこんな常識的なことを、いい大人であろう方に言って聞かせねばならないこと自体情けないのですが、そもそもフィクションの中の出来事に「たまたま」や「偶然」はありえません。

●映像であれ文章であれ、その表層に描かれた全ては観客の目に映ることを前提に“演出”されたものであり、全て「観客のために必要な情報だから」提示されるものに過ぎません。あのドラマの中でのホームズやワトスンのホモフォビックな身振りも結局は観客を“安心”させるためです。

私ははっきりとあのドラマの構成を指し示し、あの二人の親密さが描かれる場面の前には、必ず明示的ゲイ男性と彼らを差別化する要素が組み入れられていること、また、性的関係の要素を女とのそれに限定した上で、「男に色目を使う愚かな女」を侮蔑し、彼らの関係を「そんな女との関係よりも重要」なものとして演出していると論じてみせたはずです。これはそれこそ“要約”して差し上げれば、「女との性的な関係より男同士の関係の方が重要。ただし絶対に同性愛ではない」ということであるのは明白でしょう。

言葉の意味を知らないでいらっしゃるようですから教えてあげますが、「ホモソーシャル」とはこのように「性的存在としての女性の蔑視」及び「男同士の親密さを明示的同性愛と強迫的に差別化する」ことによって成り立つもののことです。

その二者関係が性的なものであるかどうかではなく、「非性的な関係でなければ絶対に肯定できない」というジャッジを下している規範それ自体の本質的な差別性の問題です。これは私の書いた文章を読んだだけではっきりわかることで、誤読しようが無いと思いますが。

そしてあのホームズの描き方も、原作においてはっきりと女性に恋愛感情を持たない人物であることを強調されており、それが彼のアイデンティティにとってあまりにも重要である以上はヘテロセクシャルに描きようがなく、かといって「絶対にホモにはできない」ために過ぎません。

ついでに言えば原作のホームズは女性に対して無礼な口をきいたことは一度も無く、本質的には“女嫌い”ではまったくありません。また注意深く読めば彼が同性愛者として設定されていることもわかるように書かれています。あのドラマの製作者は絶対に読み取りたくないのでしょうが。

またこれは表アカの文章の続きとして詳述する予定ですが、ホームズの推理力というのは彼の常人とは異なるセクシュアルな感受性と切り離せず、それは彼を人並み以上に「他人の感情に敏感な」人間にさせているものです。情緒的に幼稚な人間にあんな能力はありません。

グラナダ版でジェレミー・ブレットが演じていたホームズも狭義の同性愛者ではなく他者と性的な関係を持とうとはしない人物として設定されていましたが、原作と同様他者の視線や感情へのセンシティヴな感性を持っていることが窺えるように描かれていました。

もちろんBBC版のようなホモフォビックな要素など一切ありません。つまり、ホームズは「子供のように無邪気」な面を持つ人ではあっても決して「子供のように無神経」ではありえないわけです。そんな鈍感な人物には推理力も演技力も備わっているわけがないからです。

ホモフォビアの話に戻りますが、大体あの「ゲイ男性に鏡を覗き込ませた後わざと至近距離からフラッシュを浴びせて歪んだ顔を大写しにする」一連の場面なんか、鉄パイプで殴って顔を歪ませるのと意図するところは大差無く、ほとんどヘイトクライムと言ってもいいくらいのものです。

これも彼らに「ホームズとワトスン」という名前がつけられてさえいなければ、ここまでひどい描写をする必要はなかったでしょう。彼らの名前は「男同士の友情」のアイコンとしてあまりにも有名なものであり、それは男性にとっては彼らの関係に惹かれていれば惹かれているほどに「絶対にホモであってほしくない」ということを意味します。加えてホームズの側にアリバイとしての女をあてがうという手を使えないことが、ますます直接的なホモフォビアの描写を助長したことも間違いありません。

そしてここまで懇切丁寧に解説したからには、おわかりいただかねばその甲斐も無いというものですが、「男同士の絆の物語」とは、男性にとっては“ホモ”と名指されることを恐れながらも同時に強く希求される普遍的なファンタジーであり、それ自体がある種の神話的な原型であるとさえ言えるものです。それこそ古今東西の本当の神話や英雄譚(イーリアスでも平家物語でもいいですが)から現代の映画作品に至るまで連綿と続くあまりに普遍的なものであり、当然枚挙に暇もありません。知らない方がおかしいようなものです

映画なら戦争物や冒険物や西部劇といったジャンルにおいて繰り返し描かれています。興味がお有りならぜひご自分でお探しになって下さい。また、明示的ゲイ男性を主人公たちとの差別化の為に踏み台にするようなホモフォビックな描写の登場自体が実は極めて新しいものです。

それ以前の“アリバイ”的な描写としては単に女性の恋人役を配置しておくだけで事足りていたのです。つまり「女にはわからない男同士の絆」という符牒だけで、ゲイもヘテロも関係なく男性の観客からの共感を当てにできたわけで、完全に「男のための」ものだったのです。

そしてエロティックな含意なくして魅力的なモチーフでありえるはずもなく、当然その魅力の源泉は男同士の関係性そのものに内包されたエロティシズムです。つまり“ホモ”と名指すこと/名指されることはタブーでありながら、“それ”なくしては成り立たないという本質的なアンビヴァレンスを内包しているものです。ちなみに「下品なホモフォビアを全く用いずにエロティックな男同士の絆を描ききった名作」を一つだけ挙げてさしあげれば、原作の『シャーロック・ホームズ』シリーズこそがその中でも最高の傑作の一つだと言っておきましょう。

ドイルが書いた同性愛モチーフの作品は他にもたくさんありますが、ホモフォビックな描写は一切ありません。またドラマと同じく最近の映像化作品であってもガイ・リッチーによる映画版は原作のエッセンスをよく汲み取ったもので、当然まったくホモフォビックではありませんでした

エアリプで私を見下して言いたい放題の小馬鹿にしきった態度を取ってくれた方と、積極的にお話したいとは思いませんでしたが、他にもウンザリするほどいるであろう貴方のような方への反論として、一度は示しをつけておかねば済まないことでした。

私は好き好んであのドラマを批判したわけではありません。何の権威も無い一個人であり女でありながら覚悟も無く軽はずみな発言が出来るほど馬鹿ではありません。私は貴方のような「いいご身分の方」とは違うのです。私の文章の趣旨をまともに受け取る気なんか端からお有りにならない方に、いい加減な口を出されてはたまりません。

by kaoruSZ | 2013-02-14 23:13 | 批評 | Comments(0)