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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

晝顔―Beau de jour (下)

「あいにくヘイター大佐は旅行中なんだ。湖水地方から絵はがきをもらったところでね。だからライゲートはだめだけれど、もっと遠くへ行こうか。どこに行きたい? いっそ外国に行く?」
「どこでもいい。どこでも同じことさ、ぼくには」君と一緒なら、と声には出さずつけ加える。
「それなら、今夜は泊まっていくね?」彼は言ったが、彼の妻と顔を合わすのも、彼が彼女に旅行の許可を求めるのを見るのも耐えられなかったので私はかぶりを振った。仕方がない、と彼は言った。そして、翌朝必ずヴィクトリア駅に来るようにと言って私を送り出した。

 診療所を出ると、私はまっすぐペルメル街の兄のところへ向かった。ベイカー街の部屋で一人になるのは耐え難かった。マイクロフトはこれまでのことを私が少しは話したり、話さなくても察しがついていたりした唯一の相手だったが、さすがに私の様子には驚いたことだろう。ワトスンと明日の朝一番に旅に出ることにした、もう戻ってこられないかもしれないから後のことは頼むと言っただけで、すぐに事情を察してくれ、それ以上何も訊かなかった。ただ、「自分にできることなら何でもする」と言い、旅先で何かあれば必ず連絡することを私に約束させた。

 翌朝、駅で落ち合うと、彼はすでに一等車室を予約していた。かなり早くに来て待っていたらしかった。妻に何と言い訳したのだろうという考えが浮かんだが、口には出さなかった。余談になるが、この時、私たちをはたから見ていた人がいて、彼の妻が捜索願を出した時、その証言でホームズが彼を連れ出したとされた。「ゆうべはどこにいたの?」彼が訊き、「兄のところさ」と私は答えた。このやりとりのうちに、列車はおもむろに動き出していた。ゆっくりと過ぎ去ってゆくプラットフォームを見やった時、背の高い男が群集を懸命にかき分けながらやって来て、大きく手を振るのが見えた。「あ、モリアーティだ!」私は叫び、彼はぎょっとした顔になって振り返り、手を振って私たちを見送る兄の姿を認めた。列車は急激に加速して、次の瞬間、勢いよく駅を離れた。向き直って私を見つめる彼の表情は痛ましげだった。

 むろん私は実の兄を死人と見間違えたりしない。しかし、モリアーティと兄が似ているとは前から思っていたのであり(兄のように太っていないところと年齢を除けば)、彼の店に変装して入り込み、間近にその姿を見た数少ない機会に、私はしばしば、この場に兄が現われて、二人がウィリアム・ウィルスンとその分身のように向かい合ったらどうだろうと想像したものだ。だから、ホームに兄の姿を見つけ、咄嗟に「モリアーティ」の名が出たのは、私にとってみれば必ずしも突拍子もないことではなかった。もちろん彼には、私がもう本当に気が狂ったとしか思えなかったろう。

 彼は何を思って一緒に出発したのか。その時点では目的地も定めていなかった。私をここまで追いつめたのは自分の拒絶以外にありえないと、直観的に理解したには違いない。今ここで少しでも自分に拒絶されたと感じれば、私はすぐにでも死を選ぶのではないか。だから私の〝妄想〟にしばらくは付き合ってやろうと決めたのだろう。しかし今は一緒でも、彼はいつまでもこうしていられる身ではない。遅かれ早かれ妻の下へ帰らねばならない。この最初からわかり切った結末を思って私は苦しみ、彼に去られる前に自分から姿を消そうと、カンタベリー駅に停車中、列車が動き出す寸前に降りてしまった。いや、その瞬間はほとんど何も考えられず、頭の中が空っぽになって飛び降りたのだ。当然のことながら彼は私を追ってきて、捕まえることはできたものの、揉み合う私たちの前を、私たちの荷物を載せた列車はスピードを上げて走り去った。なぜ逃げ出したのかと問われて私は「モリアーティが追ってきていた」と答えた。そう答えるしかなかったのだ。

 荷物をカレーで無事回収すると、私たちはブリュッセルに向かった。二日間の滞在中に、私は思い立って彼を誘って汽車に乗り、ミディという駅で降りた。駅前にカフェがあった。多分ここだろう。せっかくだからべルギービールを注文し、用意の本を取り出した。鞄の底に入れられて私と一緒にあちこち旅した、手擦れしたごく薄い本だ。何の飾りもない表紙に表題が印刷されている。
  Une Saison en L'Enfer
「ランボーじゃないか」彼が言う。
「一八七三年七月十日――」と私は言った。「二人の詩人はここで汽車を待ちながら酔っ払ったあげく、ヴェルレーヌがランボーに捨てられそうになり、外の舗道で相方に拳銃を発射したんだよ」 
「へえ、ここだったのか」彼は急に天井を見上げ、興味深そうにあたりを見回す。

 彼にはわかっているのだろうか。彼らと私たちの隠微な類似を。ブルジョワ家庭に招き入れられた反逆児は二十八歳のヴェルレーヌをそそのかし、年長の詩人は、妻と生まれてまもない息子を置いて、ランボーとともにパリを出奔、ロンドンへ、ブリュッセルへと放浪の旅を続けた。ランボーの倍近い年を重ねた分別ざかりの私たちは、逆にロンドンから大陸に渡り、こうしてブリュッセルに来て、そしてリュクセンブルクを経てシュトラスブルクへ向かおうとしている(かつての少年詩人は私たちと同世代である。とうに詩を捨て、今はアフリカで武器商人をしており、パリの詩壇を馬鹿にしきっているとか)。
 彼はどこまで私と一緒に来るつもりなのか。手紙を無視し、二度と会いたくないと思ったくせに、顔を見たらほだされたのか。私の弱りっぷりを目のあたりにして、今は刺戟しないで調子を合わせるべきだと思ったのか。それともそういうエクスキューズを得たからこそ、いきなり私と国外へ出るなどという思い切ったことができたのか。

 彼は黙って出てきたのだろうと思っていた。妻がまだ寝ているうちに、使用人には、急患があって往診に行くとでも誤魔化して。考えてみれば説明のしようなど無いのだから。自分でも自分の動機に気づかずに、彼は私を死なせないためという表向きの理由の下に大胆なことをやっている。私に惹かれていることにそこまで無自覚なのか。事件にかこつけて誘いに来るのは、実は誘惑していたとようやくわかったのか。わかったとして、自分もポーロックのように翻弄され、破滅させられると恐れたのか。今度のことで私の本性を思い知り、遠ざける気になったのか。そうだとしたらなぜいつまでもついてくるのか。
 
『地獄の季節』のページを繰って私は求める詩句を探した。「錯乱」の章にそれはあった。声低く私は誦した。「マ・サンテ・フィ・ムナセ ラ・テルール・ヴネ ジュ・トンべ・ダン・デ・ソメィユ・ドゥ・プリュズィゥール・ジュール……」

わたしの健康は脅やかされた。恐怖は来た。幾日もの眠りに落ち込んでは起き上がり、この上なく悲しい夢また夢を見つづけた。死出の旅へとこの身は熟し、わたしの弱さは、影と旋風の國キムメリイの果て、世界の果てへと危難の道を辿らせた。

「これは今のぼくのことさ」と私は言った。「君も知るとおりぼくの健康は脅やかされた。恐怖とはモリアーティのことだ。君はどこまで危難の道をぼくと一緒に辿るつもりなんだ?」
「ぼくはどこまでも君と一緒だよ、ホームズ」
 彼はどうしてこんなに優しいのだろう。昔馴染みの病人に対するいたわりか。生殺しにされるより死んだ方がいいこともあるのだが。たとえ一緒に来てくれても、望みのものが手に入らないとしたら同じ、いや、もっと悪いのだが。

 三日目。私たちは遠くシュトラスブルクまで来た。彼には知らせず私はロンドンに電報を打っていた。彼の搜索願が出ていないか警察に問い合わせたのである。夜になってホテルに戻ると返事が来ていた。それを彼に見せて私は言った。
「君は帰れ」
「なんで」
「ぼくといるのははもう危険だ。これ以上ぼくと一緒にいればロンドンでの立場を失うことになる。君は帰って仕事に戻ってくれ。これは真剣な話だ」
 ホテルの食堂で、私たちは三十分もやりあった。外から見ればぼくたちが駆け落ちしたとしか見えないぞ、と私は言った。今ならまだ間に合うからぼくに構わず帰るがいい。ぼくのためという大義名分があるものだから、君は無自覚に――。
「お客さま」不意に耳元で声がした。支配人がテーブルの横に立っていた。「どうかなさいましたか」
「いや……大丈夫」

 あやしまれるほど大きな声を出していたのか。他人の目にどう見えているかなど、その瞬間まで私は全く自覚がなかった。数少ない客たちの目が私たちに向けられている。私はヒステリー女のように金切り声を上げていたのだろうか。支配人は立ち去った。友は立ち上がると、腕をつかんで私を部屋に連れて行った。腋の下に冷や汗が流れ、私は広い肩に寄りかかった。このまま彼が抱きすくめてくれたら……。だが、彼は私をベッドに掛けさせると、自分が寝る支度をはじめた。と言っても、私が逃げ出すのを恐れ、眠らずに見張っていようというのだった。同じ部屋に寝ても、どんなに私のことを気づかってくれたとしても、私は監視人と隣り合わせのベッドにいるだけなのだった。距離がなければ監視は成立しない。この距離はどうしても詰めることのできないものだった。私と私の終焉のあいだに立ちふさがって邪魔をするこの男を私はほとんど憎みはじめていた。

 私は眠らなかった。彼がついに睡魔に負けて静かな寝息を立てはじめると、私は身じまいを整えて、最初から解いていなかった荷物をまとめ、足音を忍ばせて部屋を出た。二人分の宿代を精算して、ひんやりとした夜の空気の中に出る。頭上には満天の星。「モノーベルジュ・エテ・ア・ラ・グランドゥルス メゼトワール・オ・シエル・アヴェ・タン・ドゥ・フル‐フル(大熊座がぼくの宿だった 空ではぼくの星たちが 優しくさらさら鳴っていた)」乾いた舌で私はひとりごちた。彼が帰らないのなら私が出てゆく。このままでは世界の果てへ行き着くばかりだ。

 私は駅で捕まった。二人ともほとんどものを言わず、ただ二度と放すまいと、彼の指が私の両手首を痛いほど握っていた。最終の夜行列車の出発時刻が迫っているのを見て、このままジュネーヴへ向かって旅を続けようと彼は言った。従うしかなかった。乗換駅で停車した時、もう逃げないからここで降りて休ませてくれと私は頼んだ。夜が明けかけていた。交代したばかりのフロント係に私たちはどう見えたろう。よろよろと入ってきて部屋を頼む疲労困憊した男二人……。

 語るべきことはもうあとわずかしか残っていない。私はそれを短く、しかし正確に述べようと思う。それを私が喜んで長々と書きたがっているなどとは思わないで頂きたい。それでも重要な細部を省略することはできないだろう。私の友は『最後の事件』で、シュトラスブルグで三十分間話し合ったあと、結局一緒に旅を続けることにし、夜のうちにジュネーヴまでの旅程をかなりこなしたと、嘘にならない(というか、読者にはわけがわからなかったであろう)最低限のことを書いているが、これはどういう意味かと尋ねてきた人がいないのが私には不思議である(「事実」は、右のように、夜中にホテルを(予定外に)チェックアウトし、途中でまた一緒になって、ジュネーヴより手前のそこまで辿りついたという次第)。

四月二十八日、バーゼル。私たちはその日いちにちホテルの部屋にとどまった。夜もずっとそこにいた。翌二十九日の早朝、私たちを見送ったのが同じフロント係であったとしたら、私たちを前日の朝の客と認めることさえ難しかったに違いない。実際には別人だったので、もとからそんなに楽しげで仕合せそうな二人組と私たちを思ったことだろう。私たちは再び車中の人となった。ジュネーヴまでの旅程を私たちはおおかた寝て過ごした。

 星空の下の長い道が過ぎ去って、明るい空の下に彼とともに歩み出た時、世界は何と美しく見えたことか。モリアーティを追うという長期にわたる大きな目標が消滅し、そして私がなぜそれを目標にしてきたかという真の理由を彼に話したことで、私が探偵という仕事を始め、そしてこれまで続けてきた(強迫的な)動機の、その大半もまた消滅したのだった。ロンドンの闇の世界に惹きつけられる理由はもう私にはないのだ。そのためだろう、これまでになく、今身を置いている大自然に私の注意は惹きつけられた。
「こんなに生き生きしている君を見るのははじめての気がする」そう彼に言われて、私はそんなことを話してきかせた。間もなくそこから永遠に旅立とうというこの時になって、私ははじめて世界の眩い美しさに目を開き、一木一草までが心に触れてくるように思われた。
「驚いたね」と彼は言った。「ぶな屋敷の一件でウィンチェスターに行った時でさえ、君は田舎の春ののどかで美しい風景をよそに、孤立してある家々の中で起りうる、摘発されない犯罪にしか思いをいたさなかったのに」
「君の冒険の記録もここで終るね。ぼくが宿敵モリアーティを倒し、経歴の頂点を極めたところで」私は友に語りかけた。
「残念ながらホームズ、ぼくにはもうそれだけの時間はない。ぼくたちの最後の事件の記録は書かれることがないよ」
「いいさ。もう、そんなことはどうでもいいほど仕合せなんだから」と私は言った。「でも――もしも、もしも夢見ることが許されるなら、引退して、どこかこういう自然の中で、君と二人で静かに暮らせたらと思うよ。本当に、そういうことができたらどんなにいいかしらん。小さなコテージを手に入れて、どこかの水辺で」

 夢のような一週間、私たちはローヌ川沿いの渓谷をさまよい歩き、ロイクにそれて、まだ雪深いゲミ峠を越え、インターラーケンを経てマイリンゲンに立ち寄った。それは仕合せな旅だった。空は藍色に澄みわたり、私たちは尽きることのない光の中を歩んでいるかと思われた。それでも夜はまたやってきたが、それは休息といたわりに満ちた別の時間のはじまりだった。風は額に涼しく、水は甘かった。そして夜の終りに、新たな永遠の一日がまた開始された。足下には春の若草が萌え、頭上には冬の処女雪が残っていた。自分たちが死に場所を求めていることを私たちは一瞬たりとも忘れることがなかったが、それは私たちが分かちあっている幸福を少しも損なうことがなかった。一方で、どれほど幸福であっても、つきまとう影のように私たちの罪は拭い去ることのできないものだった。英国へ戻れば、私たちのしていることは収監に値する犯罪なのだ。

 一度、ゲミ峠を越え、憂愁に満ちたダウベン湖のほとりを歩いていて、右の尾根から巨大な岩がはずれて転がり落ち、音立てて背後の湖に消えたことがあった。あの場所では春の落石はよくあることだとガイドは弁解するように言ったが、私は何も言わずに、ただ傍の友にほほえみかけた。石に当たって二人して死ぬならそれもよいと私たちは目で語っていたのだ。別れる時このガイドは、あなたがたはまるで新婚旅行の男女のように仲がいいと洩らした。なかなか目の利くガイドである。

 マイリンゲンの小さな村に到着し、ペーター・シュタイラーの経営する「英国旅館」に泊ったことはわが友が書いているとおりである。五月四日の午後、私たちはそこを出発した。その先は、丘を越えてローゼンラウイの村に泊まるようにと言われていた。しかし私たちはそこへ行くつもりはなかった。私たちの真の目的地は、丘を半分ほど登ったところにある、ペーターからもぜひ立ち寄って見て行くようにと念を押されていた、ライヘンバッハの滝であった。

 滝の描写をくだくだしく繰り返す必要はないだろう。そこは実に恐ろしい場所だった。
「オ・コンファン・デュ・モーンド・エ・ドゥ・ラ・シメリイ、パトゥリ・ドゥ・ローンブル・エ・トゥルビヨン(影と旋風の國キムメリイの果て、世界の果てに)」絶壁の上で、彼は私の耳に口を寄せて囁いた。影の國の恐しい裂け目は、艶やかな黒い岩石で表面を覆われた、磨き上げられた暗い鏡にも似た垂直の壁だった。雪解けで水量を増した奔流がそこへどっと流れ込み、はるか下で黒い岩に当たって砕け、白い飛沫を上げている。〝つむじ風(トゥルビヨン)〟を模すかのように水は渦巻き、泡立って、人間の叫びにも似た声が奈落の底から立ちのぼる。世界の涯はこのように滝になって落ちているのか。 彼を伴い、辿ってきた「危難の道」は、ここで本当に終りなのか。私をここまで連れてきたのは私の弱さだったのか。本当に、私たちの生きられるところはこの世界にはないのだろうか。

 その時、スイス人の若者が一人、滝の上へ続く細い道をこちらへ向かって走ってくるのが見えた。見守るうちに私たちの前に至り、封筒を友に手渡したが、そこには今しがた後にしてきたホテルの紋章があった。私たちと入れ替りに到着した病気の英国人の容態が思わしくなく、スイス人医師を拒んで同胞の医師の診察を求めているという、私がすでに知っている文面を、彼は私に読んで聞かせた。「どうも、世界の果てまで来ても追っ手はかかるようだよ、ホームズ」そう言って彼は肩をすくめた。患者が女で肺病の末期云々という『最後の事件』の記述は、こののち彼の妻が発病して死に至った経緯が彼に書かせたものだ。私はそこまでロマネスクな想像力の持ち主ではない。それに、その簡潔な文面が、それだけでこの常ならぬ時にさえ、わが友の正義感と職業意識を刺戟し、持ち前の他人への優しさと心遣いを引き出すのに十分であることを知っていた。

「行ってくればいいよ。いや、ぜひ行きたまえ。ぼくはここで待っている」
 一瞬、彼はためらった。この恐しい場所に私を一人で置いて行きたくなかったのだ。それからスイス人の若者の方を向くと、自分が戻るまで、ガイドとして私の相手をしながらその辺を散策していてくれるよう頼んだ。彼が財布を取り出して多額のチップを与えたので青年は恐縮した。彼の姿が見えなくなると、私は自分も財布を出して、若者に約束の金の残りを渡した。若者は喜色満面で、しばらくは「英国旅館」に近づかないようにという私の注意に大きく頷いた。

 青年が去ると私は無為の中にひとり残された。私たちは本当に一緒に死ぬつもりでここへ来たのであり、わが友は今なおそう思っていよう。ここへ戻って私と滝へ飛び込むのだと、この瞬間も信じているのだ。だが、彼を死なせるわけにはいかなかった。そのために私が取りうる、これが最良の方法だった。ただ自分のためだけにあるこの空白の中で、私は手帳を取り出して彼への短い手紙を認め、ページを破り取ると、彼が戻ってきた時すぐに見つかる岩を選び、目印としてアルペンシュトックを立てかけた。シガレット・ケースで注意深く紙片を押えた。

 これだけの仕事を終えてしまうと私は自由になった。一切を捨てた男のように私は自由であり、心は深淵へ舞い落ちる木の葉のように軽やかだった。自分自身を含めた世界へのあらゆる気づかいから解放された今、全人類からさえ切り離された恐るべき自由が、しばし私をどこでもないところに憩わせてくれよう。日は天頂にあった。あらゆるものが抗いがたく固有の色と輪郭をそなえ、影を失い、二度と闇に紛れることのない光を放って大いなる秩序と晴朗さのうちに一切が動きを停めたこの瞬間、混沌は限りなく遠ざかり、夜は二度と訪れることがないかと思われた。いかにささやかであろうとも、自らの運命をこの手に握った心地よさを私はつかのま味わった。そして私が目を閉じると夜はそこにあった。まぶたの裏ではなおも色彩が渦巻いていようとも、間もなくそこには形あるものが残らず没し去る、仕切り壁のように厚い闇しか存在しなくなるだろう。最後に私は別れたばかりの最愛の友を自分の心から切り離した。それは言ってみれば崖っぷちにつかまっている自分の指を、一本一本、自分の意思で剝がしてゆくようなものだった。そして墜ちて行ったのは彼の方だった。私は彼を女との泥の中の幸せへ帰してやったのだ。もはや生きる理由はなかった。有無を言わせぬ水の力は、石炭のように黒く輝く竪穴状の巨大な裂け目へ、緑の柱となって放たれていた。自らの重みに身をゆだねて落下する、飛翔と紛うその瞬間を私は夢見た。滝壺の黒い岩のごつごつした縁を乗り越えてあふれた水は、再び流れとなってほとばしり、永遠に休息を知らない深淵は沸き返っていた。厚い水煙が蒸気釜のような音を立てて絶え間なく湧き上がる、途切れることなく生成する渦と、嗄れることのない叫び、耳を聾するどよめきの中で、私は自分が完全に平静であり、心は鎮まって乱れも曇りもなく、脈が規則正しくしっかりと打ち、身体には精気が漲っていることに満足だった。今なら自分の人生が無駄ではなかったと信じて心穏やかに死ねる。そう思いながら、泡立ち、荒れ狂う深淵の咆哮へ身を乗り出した。

*   *   *

ワトスン君
騙してごめん。でも、ぼくを君から引き離し、君の前からいなくなるにはこうするより他なかった。どうか許してほしい。愛している。誰よりも。そして君を愛したどんな人よりも。君にはどんなに感謝してもし足りない。楽しかったね。この一週間は夢のようだ。ついさっきまで、このまま死んでもいいくらい仕合せだった。君のおかげで人と生まれて味わいうる最上の喜びを味わうことができた。ありがとう。君が一緒に死ぬと言ってくれたことだけでぼくは満足だ。愛の頂点を極めた今、たとえ命を捨てても惜しくはない。英国を離れる前に、あとのことはみな兄のマイクロフトに頼んできた。君は死んではいけない。奥さんによろしく。いつまでも君の忠実なる友、シャーロック・ホームズ




晝顔  Beau de jour (上)
晝顔  Beau de jour (中)

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by kaoruSZ | 2013-05-22 23:00 | 文学 | Comments(0)