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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

覚え書き in progress

6月23日
tatarskiyさんと昨日までに電話で話したこと。覚え書きとして、以下に。


【トールキンと折口信夫】
まず、トールキンと折口が“古代人”ではないこと。トールキンはモダニストではないが前世代の耽美主義の継承者であり、パーソナルなファンタジーの(ジャンルのではなく)創造者だ。折口の場合も同じで(ともに学識に目を眩まされがちだけれど)、彼の小説は、たんなる「男」でしかない書き手による時代小説、歴史小説とは全く異なる、“女性的”でパーソナルなファンタジーだ。

tatarskiyさん、折口全集の戯曲の巻を読んでいるそうで、『死者の書』未完続篇のありうべかりし形の傍証として、具体的に戯曲の内容を示さる。また、トールキンへのフィオナ・マクラウドの影響確実ならむと。

Il faut être absolument moderne.
さらに言うなら、“絶対的に女性的でなければならない”。さもなければ批評はありえない。

7月1日
覚え書きまだ続くはずが日が経ってしまった。書くべきだったのは、コナン・ドイルの長篇『四つの署名』に関すること。その後さらにつけ加わったのは短篇『悪魔の足』について。それからヴィリエ・ド・リラダン『未来のイヴ』について。忘れないうちにメモを取っておかないと。

今日は書く暇なかったのにまた電話で話し、書くべきこと増えた。 以下とりあえずのメモ。『竹取物語』原典についての大塚ひかりの妥当な解説と、フェミぶった駄目アニメと。作者、紀貫之でなくとも“ネカマ”ならむ。『源氏』との関係と差異と。小津。ドイル式部のホームズものと女装との関係。マイクロフトは何者か、等々。


【ジャンルとしての探偵小説の(不)成立】
初期探偵小説(ポーとドイル)の特質を以下に挙げるなら、反俗のダンディズムと同性愛、世紀末の耽美主義、様式としてはアール・ヌーヴォー。探偵の推理が芸術鑑賞のパロディであること。探偵は芸術家にして批評家であり、芸術家としての批評家(ワイルド)である。探偵と犯人との共犯性、分身性、ノーブルな選民意識。《秘密の共有者》。物語上の表層的な謎解きは囮だが、ポーについてはその部分しか注目されず、本領であるゴシック性は幻想作家としてのポーのものとして取りのけられた。ドイルはポーの何を受け継いだかを理解されず、真に読まれぬまま現在に至っている。探偵小説はドイルで始まりドイルで終った。 例えば乱歩は稀有な継承者だが、それは作家としての特異性(そして共通性)であり、ジャンルの問題ではない

7月7日
昨夜tatarskiyさんと以下のこと電話で話す。


【『竹取』と『源氏』】
『竹取物語』はいわば翁と姫のどちらにも己を投影した男作者による、父(翁)と男(帝)のどちらも選ばず天に帰る女の話であり、紫式部はそれを紫の上(“養父”と結婚)から浮舟(結婚せず)に至るリアリズムで書いた(小津映画の娘も結婚という名の下に姿を消す)。いや、正確に言うなら、『源氏物語』は、“帝と結婚した結果死んだ女”(桐壺)からはじまっている――tatarskiyさんの指摘に驚かさる。
『竹取』が終ったところから『源氏』ははじまる。拒んで天に帰ることのできない地上の女の現実を、女の書き手である紫式部は書いたわけだ。

【『死者の書』について】
『死者の書』の場合、“地上の女”である郎女の孤独が、ホモソーシャルな美しく自由な男たちとの対比で描かれるとtatarskiyさんは指摘する。郎女は中将姫伝説から切れた作者のオリジナルであり、彼女を訪れる大津皇子の死霊が最後の阿弥陀如来像へ昇華されるわけではない。大津皇子は不気味な骨の指をした亡霊であり、作中「美しい男」として描かれるのは恵美押勝だ。彼や、大伴家持、久須麻呂(ここでは明示されないが万葉に相聞歌あり)は、郎女の手の届かない知的な男のサークルを構成しており、そこでは彼女は政略結婚の道具である身を、噂にされる存在でしかない。とはいえ、押勝もまた、大津(そして続編の藤原頼長)と同様、敗死を予定されている。

『死者の書』続編では、男色のモチーフは左大臣頼長を中心に据えることで鮮明になり、彼の教養、彼の美貌、彼の自由が描かれる。優れた男の書き手である折口は、『竹取』の作者同様、女の作者に先んじて女の状況の本質を記しえた。 そして男であっても近代人である彼に頼長のように生きる可能性は閉ざされていた。

【『未来のイヴ』について】
未来のイヴはハダリーではない。 tatarskiyさんにそう言われて、ああ、未来に現れるべき現実の女という意味かと膝を打った。『未来のイヴ』は、内容がSF/未来小説的だから「未来のイヴ」と呼ばれるのではない。精巧な自動人形に実在の女をコピーすれば事足りるとたかを括っているエディソンが作った、あの人造人間が未来のイヴなのではない。物語の中の現在であるリラダンの執筆当時、存在したのは「現在のイヴ」、すなわち男のナルシシズムの投影であり、補完物である、人形であることを期待される現実の女だけだった。少なくとも、『未来のイヴ』を構想し、自ら書きうるような女はまだ生まれていなかった。

通常信じられているのとは違い、男の《理想》である自動人形ハダリーは、偶発的なアクシデントによって失われたのではない。リラダンは男の美しい夢が海の藻屑と消え、悲劇的な喪に服するなどという安っぽいメロドラマを書いたのではない。
『未来のイヴ』は、高貴な美青年エワルド卿に人工の女を贈ろうとしたエディソンの傲慢が、 存在しないはずの自我のある女(繰り返すが彼女はその時代に生存不可能だった)によって打ち砕かれる話である。リラダンの驚くべきフェミニストぶりが読者の目に映らないとしたら、それは時代が彼の先進性とラディカリズムにまだ追いつかないということなのだろう。

7月22日
再び書くべきことのメモ。折口について論点残るが、その前にルイス・ キャロルについて。彼が小児性愛者ではないことについて。『ロリータ』のハンバート・ハンバートが少女にしか欲情しない男ではなく通常の異性愛者であるこ とについて。そして通常の異性愛者である批評家が揃って陥る誤読について。



以上は最初ツイートとして書かれ、まとめる際、部分的に手を入れた。この続きはhttps://twitter.com/kaoruSZ にて現在も進行中。
by kaoruSZ | 2014-07-23 14:13 | 批評 | Comments(0)