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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

ジョゼフ・ロージー『拳銃を売る男』ノート

 停泊している船の最奥部に胎児のように潜んでいた密航希望者が発見され、甲板に連れ出される。長い垂直の移動は前週に見た『コンクリート⋅ジャングル』の三次元空間ーーそこで予想される運動は上から下への墜落だーーを微かに想起させもするが、男にも他の者たちにもさしあたりそんなことは起らない。


 密航の代金を提示する船長。出航は真夜中、彼はそれまでに金を作って戻らなければならない。石と砂と石造りの建造物の共同体は闇の中に引きこもっていた男にとっての見なれぬ異物ーーいや、彼こそがストレンジャーでありアウトサイダーであり、名前も持たず、売るものといっては一丁の拳銃があるばかりの、通行人、よそ者、傍観者だ。荒涼たる無縁の風景の中から彼と私たちにとって最初に見わけられ、意味と名前と顔を持つ者として現れるのは一人の少年だが、男の出発は拳銃が売れるか否かにかかっているのに、売買を持ちかけた老人にあっさり断られその可能性は早々に閉ざされてしまっているので、少年ジャコモとともに崩れかけた廃墟のような建物に登り、危うい足場をたどるのを見ると、どの道この男に出発は不可能であり、やはり最後は墜落だろうかと不吉な予感が胸をかすめないでもない。

 ジャコモは彼と似た者だ。二人とも盗みをしたーー少年はミルクを、男はチーズをーーばかりではない。拳銃を金に換えられなかった男と同様、少年もまた「売ることができなかった」ので盗んだのである。日々の労働で彼と妹を養う貧しい母から洗濯物の配達を命じられた少年は、ジョバンニのように母親の下に牛乳を持ち帰る使命をも負う者だ。ところが、途中で仲間の少年たちからビー玉遊びに誘われると、妹の制止もきかずに、牛乳代を賭けにつぎ込んでしまう。ビー玉という資本は殖やされた。しかし相手が難癖をつけてビー玉の買取りを翌日に延ばしたために、仕方なく、牛乳代を翌日払いにしてくれるよう、牛乳屋の女店主に申し出る羽目になる。それなら牛乳も翌日だとにべもなくあしらわれて、少年は隙を見て牛乳の出る蛇口に持参した瓶をあてがい、コックをひねってまんまと牛乳をくすね取る。男が同じ店に来て売り物のチーズをいきなりぱくつき、騒ぎ立てる相手を黙らせようとして殺してしまうのはこの直後である。


 少年は騒ぎを自分の盗みのせいと思い込み、男が自分を助けてくれたと誤解する。仔犬のようについて来る少年を、男ははじめ追い払おうとするが、父子を装って警察の目をごまかせると知って、少年の母の禁じたサーカス(移動遊園地)に入る。これは男の子に替えた『シベールの日曜日』だろうと私が思いはじめたのはこのあたりだったろうか。勿論『シベール』は男をイノセントな弱者とすることで成立していたし 、幼いシベールは彼の母たる役割まで負わされていたのだが、ここでは夢を見ているのは、父ではなく息子の方だ。少年に触発されたのだろうか、不意に男は、彼自身が子供であった時の思い出を語り出す。彼自身の父についてのこの記憶は奇妙なものだ。父に命じられて二人の男が大きな石を穴を掘って埋めようとしたが、その石に自分たちが潰されそうになる。その時自分が、彼らを二人とも助けたというのだ。この述懐がいかなる幼児記憶の変形されたものであるかは知る由もないが、確かなのは、クライマックスで高所に宙吊りになり墜落を実現してしまいそうになった少年を引き上げる彼の臂力が、すでにこの挿話によって保証されていたということだ。

 玩具の大砲に弾みをつけてスロープを一気に上らせ、最高点まで行けば商品がもらえるゲームを見た少年は、周囲の人々に、お父さんならできるよと誇らしげに告げる。期待に応えて、男は無雑作な身ぶり一つで苦もなく大砲を頂点に至らせ、発射させおおせる。見あやまりようもない男根象徴は、彼が少年の理想の父-男としての地位についたことを、過不足なく示すものだろう。しかし、現実の父を持たぬ少年は、自分が母をめぐって父と対立するものであることをまだ知らない。不在の父という空位の座を占めた男は、女を介さない直截的な欲望の対象として彼の前に立っている。言いかえれば、少年にとって父の大砲の発射とはそれ自体として完結した運動であって、その先に想定される目標をまだ知らないのだ。
 
 逆に言えば、父の欲望の対象は当然のこととして女であることを知らないので、見つめあう目のように彼に愛し返されることを期待しながら、少年はまっすぐ彼を見つめる。名前のない流れ者の父は、母と妹の「女たちの地獄」(ランボー)を永久に離れて彼とともに船出することへの憧れを少年にかき立て、ここではないどこかで彼ともに生きることにまで、その夢は膨れ上がるのだ。


 いうまでもなく男の方は、こうした少年の熱狂の何一つ共有しない。映画のはじめの方で、少年は老人に連れられた廃馬の行き先が、老人の言うような、老馬のための楽園ではなく、屠殺場であるのを見てしまった。しかし自分のためにはまだ、神と男が生きる緑の楽園を信じうるのだ。少年の静かな熱狂を男は利用し、警察の追及を逃れて、洗濯屋の顧客の使用人である、通いの女中の住いへ逃げ込む。昼間、少年はこの女に、奥様の洗濯済みナイトガウンを彼女の自宅へ届けるように言われて当惑した。実は彼女は以前から奥様の衣類をくすねていたのであり、怪しんでいた主人にこの日現場を押えられる。

 
 彼女もまた、無名の男やジャコモと同様、盗みをする者である。そして彼女もまた、司直の手には渡されない。服はお前のものにしていい、その代り、と主人は言う。今夜家へ帰るとき、私がお前を送って行こう。この姦計を女はどうにかして逃れようとするが、主人は言葉巧みにすべての逃げ道を閉ざす。男や少年と違って彼女の場合は、盗みと売ることの順序が逆転しているのだ。目の前で演じられるこの会話と成立した取り引きは、少年には理解不能だが、彼女は少年にも男にもできなかった「売る」ことを、その意思に反してではあるが、実現しようとしていたのである。


 女が遅くまで帰宅しないことを知ると、男はジャコモに案内させて彼女のアパートの部屋に身を潜め、屋根を伝って港へ脱出するルートを探しに行かせる。そのあいだに主人に送られて女中が帰ってくるが、あたりには人が集まり警察が入口に立つものものしさ、主人はびびって彼女を一人で行かせる。アパートの入口で殺人犯の潜伏を知らされ、訪問者の予定はあるかと訊かれた彼女は、ないわと答えて笑いながら階段を登る。しかし、主人の手から逃れられたと信じて自室に入ったところで、今度は別の男の手に落ちることになる。荒々しくねじ伏せられようとした彼女は、手荒にしないでと言い、むしろ進んで愛人のように振舞いはじめる。衝立の後ろで以前くすねた主人の妻のものであろうナイトガウンをまとって彼を誘うのだ。それはそこにいるのが主人であったとしても同じようにしたはずの身ぶりであり、男が入れ替わっただけの疑似恋愛の演技であると同時に、“母”と対立する彼女の娼婦性を観客に印象づける。


 一方、ジャコモは、屋根を越えた向うの港に、真夜中に出航する船を見る。“父”と自分をla-basに運ぶ船が停泊しているのを屋根の上から少年が確認するのを捉えたキャメラが室内に戻ると、そこでは女が鏡の前でくつろいだ様子で髪をブラッシングしており、傍の椅子で男は顔を上向け、疲れ切ったように身をのけぞらせている。明らかな“事後”のサインーーベッドに裸の男女がいる場面を禁じるコードのために変形された隠蔽記憶のような。偵察に出された少年がすぐに戻ってくる状況で、しかしそんなことは現実には起こりえない。『カサブランカ』のかつて恋人だった男女が性交したはずがないように。昼の屋外はイタリアン・レアリズモの世界だったが、夜の室内はそうではない。男がまどろんだのを見澄まして女は立ち上がるが、ドアの方へ行きかけると男がはね起きて飛びかかり、押え込んで後ろ手に縛り上げる。本来ならこれに先立って起こったはずのシーンがはじめて再現されるまさにその時、少年が入ってくる。それがあとに置いてきたはずの母のあまりにも早い回帰とは、昼の母からは隠されている彼女のもう一つの顔だとは知るはずもないが、女に襲いかかる“父”を見て、その顔は怒りと嫌悪にゆがむ。ドアを叩く音でこの緊張は中断される。諦めの悪い主人が下に来ていることが警官によって知らされ、ともかく玄関まで下りて相手を確認してほしいという警官に、拳銃で脅されている女は、着替えるので時間をと答える。

 女を置いて男とジャコモは屋根に上がる。男は少年に言い訳する。あの女は裏切者だ。賞金目当てに俺を売ろうとしのだ。またしても「売ること」のモチーフ。それにしても、これはどう見ても不当な言いがかりだ。家に侵入していた男に傷つけられるのを恐れて従順に身をまかせるふりをしただけの女が、隙を見て逃げ出そうとするのは当然だ。いずれにしても、変形された“原光景”の目撃は、少年と“父”との一体性に確実に罅を入らせ、彼は男が逃亡に自分を利用しているだけではないのか、そもそも自分を助けてくれたというのも思い込みではないかと疑いはじめる。そしてそれはまさしくそうなのだ。

 夜の港で眠る船は、少年の「どのようなかすかな欲望をも満たすために 此の世の果から」(ボードレール)来たのではないし、少年ともに船出して年老いた馬の行くような楽園で暮らしたいと、男が思っているわけでもない。それを知って男から離れようとして、少年は足を踏み外し、庇から両手でぶら下がる。地上から見上げる母の悲痛な顔。彼がどのようにして引き上げられるかは前に述べた。屋根の上に一人取り残された男に、射手の銃口が向けられる。

 売れないために手元に残っていた拳銃、それを狙撃手に向けたため、彼は銃弾を浴びることになる。少なくとも狙撃手はそう主張する。そして墜落。女はこのあいだに自分で縛めを解き、手すりにすがるようにして階段を降りてくる。上がって来た主人と出会った彼女は、あいつはお前に何をしたんだという問いには答えず、差し出された男の手を激しく拒む。彼女もまた売りそこなったのだ。


 戻ってきた息子を、お金がかかってもいいから明日はサーカスに行かせてやるのだと母は言う。しかしそれを聞いても少年の顔は暗いままだ。家へ向かう彼の前に友だちの少年が現れ、並んで歩きながら、冒険の細部を聞きたがる。だが、彼らともはや共有することのできない経験をしてしまったジャコモの表情は変らない。相手が、明日ビー玉遊びをしようと言うと、ようやく笑顔になる。

 これを、少年にとって男が、事件が、あるいは希望のない結末が、相対化されたと思ってはなるまい。今日、彼の得たビー玉は、明日になれば仲間に買い取ってもらえるはずなのだ。彼の手元に入るはずの金銭、それは、明日まで支払いを待てずに彼に牛乳を盗まれた女店主に、もはや返す必要のないものだ。サーカスに行くのにそんなものは持って行くな、棄てろと言われても少年が拒んだので、男は無雑作に牛乳壜を自分のポケットに突っ込んだ。むろんその壜は、男と一緒に屋根から落ちたりしなかった。少年とともに無事母の下に戻ってきた。牛乳の代金が支払われなかったことを、母親はいつまでも知らぬままだろう。男の、より大きな罪が少年の罪を覆い隠し、女店主に金を払うことも不可能にしたので、ビー玉の(牛乳の)代金は彼の手元に残ることになった。彼は資本を得たのだ。男が、女中が、女店主が失敗した「売る」ことに、彼だけが成功した。あの地母神の名を持った少女は、日曜日に会っていた男を警官隊に殺されて絶望するしかなかったが、少年は違う。なぜなら少女と違って、少年はやがて成長して自らが男になりうるもの、自らが拳銃を売る未来を持ったものだからだ。



by kaoruSZ | 2019-05-30 01:01 | 批評 | Comments(0)