“はるかな国”再訪(1)
2021年 04月 10日1
部屋を片づけつつ発掘された本につい読みふけるうち、フラワーコミックス版「ポーの一族」最終巻を見つけた。せっかくなので、はるかな時を隔てて再会するこれらの物語は、現在の自分の目にどう映るかとページを繰った。それでも最初、『はるかな国の花や小鳥』は飛ばそうかと思っていた。「憎むのはいや 悲しむのもいや」と言って自分を捨てた男を思いつづけ、三十前で儚くなったあと、「たぶん生まれながらの妖精だったのです」と語られる“少女のような女”の、甘ったるい話が耐えられないと思ったからだ。ところが、読んでみると、そういう話では全くなかった。
もちろん、薔薇の咲く家で少年たちの合唱隊を指揮し、ばあやの焼き立てパイを切り分け、迷い込んだエドガーを「私の青い目のユニコーン」と呼び、いつも「幸せそうに」笑い、昔の恋人の死を知って自殺を図り、その三年後に病死したエリゼルのことが、「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」と語りおさめられることに変りはない。「遠い少女を思い出させる」エリゼルを、失った妹メリーベルに重ねることで、エドガーの彼女への思い入れを無理なく見せる設定も巧みなものだ。しかし一篇のキモはそんなところにはなかった。いつになくエドガーがセンチメンタルなこの短篇で、彼はまるで、過去に介入して運命を変えようとして、かえって防ごうとした当の事件を引き起こしてしまう、タイムトラヴェラーのような役割をつとめている。しかも本人に全くその意図も意識もないままに。作中人物の誰にもそのことは気づかれないし、おおかたの読者にも気づかれまい。
エドガーのタイムマシンは一台の自転車であり、行先は近郊のホービス市だ。むろん彼は過去ではなく、十年前のひと夏、エリゼルの恋人だった、現在のハロルド・リーを訪ねてゆく。「エルゼリを知ってる?」「エルゼリ…? だれのことだね?」という短い会話を交わすために。暗くなって戻った彼は、「あの人あなたのこと」……覚えていなかったよ、とは言えず、「覚えてたよ」とエルゼリに告げる。「あの人 どうだった」と現在の男の外見を尋ねるエルゼリの返事は少々変だ。普通、覚えていたというのなら、自分のことをどう言っていたかを知りたく思うものではなかろうか。恋人がたとえおぼえてなくとも彼女は平気なのではーーとエドガーが言うとおり、彼女はまるで、「あの人 あなたのこと覚えていなかったよ」と言われたかのように反応している。そしてそれは、自分のことなど男が頭の片隅にも残していないであろうことを彼女がすでに知っており、それをかたくなに意識から排除し、否認しているからに他なるまい。
だが、エドガーの、善意と優しさからの嘘は、すぐに確実な効果をもたらした。ハロルド事故死の報にエリゼルは自殺を図るが、それはエドガーが、彼はあなたの名前すら覚えていなかったと真実を伝えていれば、たとえその時はどんなに辛くとも、避けられたかもしれないことだ。彼の心の中になおも自分がいると、自らの思い込みのみならず、他者の言葉によっても追認されてしまったために、「自分を覚えている」男を失ったとき、エルゼリは死ぬしかなかった。だからこそエドガーは部屋に飛び込んで助けたエルゼリが目ざめる前に、アランを促し町を去るのだろうーー彼自身は知らなくても作品は知っている。
「いつかあの人は夢からさめることがあるのかしら…」とエドガーは独語する(この直後に事故の場面が続く)が、彼女の夢をつなぎとめたのは他ならぬ彼自身なのだ。そして、ハロルドの命を奪った事故もまた、エドガーの介入がなければ起こらなかったことだ。エルゼリとは誰だったかと考えつつ自宅を出たハロルド・リーは、一見エドガーに似た自転車乗りの少年の後ろ姿にはっとして、追いすがろうとし、声をかける。その背後に迫る馬車。振り向く少年。ばあやからエルゼリに伝えられるとき、それは「自転車にのった子がころぶのを助けて 自分は馬車の下じきになったんです」と変形されている。だから、注意深い読者以外には真実は見えないようになっているのだし、作中人物の誰ひとり(エドガー自身も含めて)、ハロルドの死が、エドガーのお節介の結果であることを知らない。
エドガーがもしハロルドの応えを隠さずエルゼリに伝えていたら、彼女は過去を思い切ることができ、かつての恋人の死の報せに遭っても、手首にナイフを当てずに済んだろうか。いや、その時はハロルドが自転車の少年を追うこともなく、したがって馬車の下敷きになることもなかったはずなのだ。
エドガーとアランが去ったあと、作品はもう一ページしか残っていない。
「その人は それから三年の後病気でなくなったと聞きます」
という匿名の語り手の伝聞による報告と、
「たぶん生まれながらの妖精だったのです」
「あの人は夢に浮かぶはるかな国の住人だったのでした」
という断言、そしてその間(あい)を縫って薔薇の蔓のように絡まる、
「わたしが住むのはバラの庭」
「くちずさむのは愛の歌」
「日々思うのはやさしいひと」
という纏綿たる“ポエム“の裏には、しかしエルゼリが押し殺し、表情にも意識の表面にも出すことを拒絶した、負の感情が隠れている。たぶんそれが、彼女の知らないところで、エドガーの姿をとってハロルド・リーを訪ねて行ったのだし、次にはエドガーの知らないところで、無関係な少年の姿を借りて反復され、不実な恋人を死に追いやった。エドガーはハロルドのメッセージを逆にして伝えたが、真意はあやまたずエルゼリに届いて、彼は復讐されたのだ。
「あの人きっと奥様を愛し」
「生まれた子どもを愛し 家庭を愛しているのでしょう でもわたしは幸せ」
「一人バラの庭 とても…幸せ」
と呟く、“少女のような女”の手を全く汚すことなしに。
たぶんこういう書き方ができるところが、萩尾望都の才能なのだろう。それは、作者が女の登場人物を悪意や敵意や憎しみを、つまりは自我を持った人間として描けなかったのではないかという疑いとはまた別のものだ。この頃の萩尾の筆致は、マンガでしかできない表現の可能性をきわめる探求と実践として、甘美で魅力的であり、もうこれはマンガではなく小説だといったたぐいの賛辞がいかに馬鹿らしかったかわかるし、たとえばこの一冊を見るかぎり、エドガーとアランの関係は同性愛というようなものではなく、「やおい少女」に敵対的で、男が女にやってきたことを女が男にやるのかと被害者づらしたゲイ当事者()のみならず、ホモフォビックな批評家にも評判がよかったのも頷ける。
ハロルドが少年をエドガーと誤認するところで、私はニコラス・ローグの映画『赤い影』を連想したが、それはシリーズの最終話『エディス』で、水を渡る赤いドレスのエドガーを見たからでもある。エドガーは「小鬼」と呼ばれ、『赤い影』の死んだ娘と思えたものの正体は小○であるが、いずれも死への案内人だ。
ここまで書いてからポーの一族の新作を読んでしまったので、それと無関係に続けることは無理になったが、『赤い影』がヴェネツィアを舞台にしたフィルムであることには触れておこう。偶然にしても、新作『春の夢』で水辺は死と危難に深く結びついているし、死者の行先、死者と再会できる場所は、他ならぬヴェネツィアであるからだ。幼い娘を水の事故で亡くした夫婦は、旅先の水の都で、娘がかつて着ていたのとそっくりの赤いフードつきマント姿の“影”に出会う。鹿撃ち帽にインバネス?(完全にホームズスタイルかと今気づいたーーちなみにグラナダT V版でジェレミー・ブレットによって一掃される前は、ホームズといえばあの帽子、しかもチェックで、山高帽のダンディが思い浮かべられることはなかった)という恰好で自転車に乗ったエドガーの場合もまた、同じ恰好の人物が容易に彼と見誤られ得た。
もう一点指摘しておこう。今回読み返した最終巻は『ピカデリー午前7時』を冒頭に据えているが、『はるかな国…』で、エドガーがエルゼリのどんな意思を代行して男を死なせたかを見たあとでは、ここでも彼が代行者として、最後にメッセージを届けていることに気づかぬわけにはいかない。代行者と言っても、養女リリアに、恋人と幸せにというメッセージを送るのは、ポリスター卿の意思ではない。彼は「花嫁を育てていた」(エドガー)のだから。これはよくできた話だ。
「お父さまのようなおじさま」
「孤児のあたしをひきとって育ててくれたおじさま」
「ハンサムで…やさしくて…」
「大好きなお父さま」
リリアから見たこの素敵なおじさまとは、理想化された父、近親姦タブーをまぬかれたその代理であり、娘の願望だーーむろん、孤児になることが、孤児でない子供だけが持ちうる夢であるように、現実に娘に手を出すような父を持たない幸福な娘にのみ可能な願望だが。『ピカデリー7時』は、オルコットの『八人のいとこ』を思い出させる。私事を言えばこの本も、いとこたちのお下がりの一冊として私のもとに来たのだが、少し大きくなる頃には、少女ローズの後見人となった魅力的なアレック叔父さんが、正体を隠した理想の父であることに気づいていた。『若草物語』の、かた苦しい生活信条や出来過ぎた母の影は微塵もなく、自由な男である叔父さんは、女たちの(からの)抑圧からローズを解放する。しかも彼女は、姉妹ではなく、男ばかり七人のいとこにーーその称賛のまなざしにーー囲まれている(エルゼリのバラの庭に集まるのが、男の子ばかりなのが思い合わせられる。彼らは、エルゼリに気に入られたエドガーに因縁をつけるーーそして帰り討ちに遭うーーほどに彼女に夢中なのだ)。
『八人のいとこ』には、別の意味でエルゼリに似た「ピース大おばさん」もいる。結婚式の朝、婚約者の死の報せを受け、みんなはやさしいピースがそのまま死んでしまうかと思いました(本が手元に見つからないので記憶で書いている)という、しかしその打撃に耐えて生きのび、いつも微笑を浮べて他人に尽し、その名の通り穏やかで、いつも手仕事にいそしむ老婦人……エルゼリ以上にあらゆる葛藤を避けた、恋人を失った女である。
オルコットの影響は確実にあるという気がしてきたが、影響関係抜きで、薔薇つながりでもう一つーー交際していた男が町を去ると屋敷に閉じこもり、数十年間姿を見せなかったミス・エミリー(“A rose for Emily”)の場合だ。エミリーが死んだとき、町の人々は真実を知る(ちなみに、タイトルを除けば、こちらには薔薇は一本も出てこない)。
フォークナーの短篇は極北だが、リアリズムというわけではない。リアルなのは、父親に愛されて育った娘が、自然過程によって別の若い男に心を移す、『ピカデリー7時』の方だ。清純そのものの美少女リリアは、すでに“父”の目を盗んで恋人と待ち合わせるまでに成長している。「最愛の娘よ しあわせに わたしは遠くよりふたりのしあわせをいのる」という偽手紙で、父の敗北を完全なものにするエドガーだが、もともと、発端の、ポリスター卿宛ての電文「アスツク ポーツネル」で、彼の死の原因を作ってしまってもいたのだ。エドガーたちを待って旅行が中止され、リリアはポールと会えなくなり、ポールの同僚ラッドとクックは、主人が不在のはずのポリスター邸に盗みに入ってリリアの父と鉢合わせする。持ち去られた黒いトランクを百ポンドで買うという、エドガー代行のポリスター卿のメッセージに、「朝7時ピカデリー」と、リリアと恋人のポールが新たに逢引を約した時刻でラッドが応じるのは偶然ではない(「それにしても7時とはね 偶然にもデートの時間」とエドガーはとぼけているが)。
午前七時、ラッドが持って現れるポリスター卿の黒トランクは、彼の換喩であり、彼自身だ。エドガーがわざと警察に情報を与えたので、リリアは“おじさま”がそこに現れるとあらかじめ警部から言い含められる。ポールが現れ、ラッドに抱えられたトランクが現れ、そしてあとには、若い二人へのポリスター卿の許しのメッセージが残される。彼とともに消滅した目的地の地図を持たぬまま、黒いトランクとともに、彼の行先だった地方へ旅するエドガーたち。「なんのために」と問うアランに、「なんということもなく」とエドガーは応えるが、そんなことはあるまい。それに続く、「その黒いトランクは彼だよ 彼の墓標だ」という科白によって、タイトルとして掲げられた「ピカデリー7時」に何が起こったかを読者にはっきり知らせるためだ。そこは恋人との待ち合せの場所であると同時に、“おじさま”との再会、そして別れの、時と場所でもあった。これはよく企まれた話である。


















