“はるかな国“再訪(2)
2021年 04月 10日2
『はるかな国の花や小鳥』の次に置かれている、ジョン・オービン初登場のエピソードで、彼はエドガーがハロルド・リーを訪ねた時の例の帽子をかぶっており、一篇はまさしく『ホームズの帽子』と名づけられている。直接シャーロック・ホームズには関係ないが……というか、オービンの「魔法使いの目」、「女のように」長い髪、霊感、魔物、ネス湖の怪物探しといったものは、玩具箱に雑然と放り込まれた子供部屋のガラクタで、彼が世のつねの“大人の男“ではないことのしるしであり、「ホームズの帽子」もそうしたアイテムの一つなのだろう。
それはまた萩尾望都にとってのマンガ、いつまでもそんなものにかかずりあっていないで大人にならなくてはいけないと、両親から見なされていたものでもあったろう。すでにマンガ家として有名になっていてさえ、それでいつマンガはやめるんだと親から尋ねられたという話を読んだことがある。
「ぼくも年ですからね! いつまでも若くないし!」
「ここらで腰をおちつけ職をもって」
と、髪を切ってイゾルデにアピールするオービン。しかし結局は周知のものを追って彼女に求婚しそこねてしまう。それから四十年以上の歳月ののち、『エディス』の結びで、「…そしてわたしは最初のページを始める」「ーーエドガーおまえに わたしのはるかなおまえに そして そのポーの 一族によせてーーと」と書きしるす禿げ頭のオービン。これはほとんど二十世紀小説のパロディだ。オービンは、本当なら、芸術家として創造されるべきだったのだろうーー怪異を追って東奔西走する、子供っぽいオカルトサブカル男ではなく。
· これは、「大人になる-マンガを捨てる」ことの対極を、「いつまでもはるかな国の花や小鳥の夢をみている」としかイメージしえなかった作者の認識に見あったものとも言えようが、実際に彼女の作品を文学だ芸術だと持てはやす男たちもおおかたそういう輩でしかなかった/ないといえよう。むろんオービンは彼らよりはるかにましであるが。
ところでtatarskiyさんと電話で話したら、『ピカデリー7時』のポリスター卿の顔はエドガー・ポーの顔を下敷きにしたのだろうと言われた。これは全く思ったこともなかったし、咄嗟に意味が呑み込めず、にわかには信じられなかったが最後には納得。少女マンガ的に変形されたポーの顔であり、少女妻を育てる男とは(私たちはそう思っていないが)、一般に共有されている通俗的なポーのイメージだというのだ。いや、ポーは断じてそういう人ではないのだが! あれをよくできた話だと書いたのは、ヘテロセクシュアリティの構造として普遍的なものを、少女マンガの甘やかさを最大に生かしつつ示し得ていると思ったからでもある。
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『すきとおった銀の髪』の昔から、人間と吸血鬼の対比は、前者が老い、後者は永遠の若さと美しさを保つーー限られた時間しか生きられない人間は、短い人生の中で偶然出会うことになった彼らの姿を垣間見るーーというのが基本だったはずだ。『エディス』でも、もはや切る髪もないオービンは、「まったく年をとった…年をとった…」と呟き、「時が…止まっている……」とエドガーの顔を思い浮かべる。あるいは、森の中のリデルは、家に戻されても、育ての親のエドガーとアランが迎えに現れるのを窓辺で待っていた。思えば作者も読者も若かった。結婚し、子を産み、老いるという常道に外れた側に自分が身を置きうると容易に信じられたのだ。
しかし『春の夢』の終りでは、吸血鬼になった少女が 、「あの人たちのしているのは死んだ人の話」「あたしは……思い出になってしまった」と、親しい人々の口の端(は)にもはや死者としてしか上らぬわが身を、世界からの深い疎外を嘆く。実はオービンではなく、髪が真白になりながら永遠に十六歳の(実年齢は三十前の)ブランカの方が老いている。オービンは若い人間が想像した老人であり、ブランカは、もはや自分のものではない「春の夢」を、正確には「春の夢を見られた頃」を、思い出すしかない老人なのだ。
フラワーコミックス最終巻で『一週間』『エディス』と読み継いだあとに『春の夢』を読んだのは正しかったようだ。言うまでもなくこれは四十年ぶりの発表の順序そのままであり、『エディス』に時間的に接続するのは、続篇第二巻、その空白の四十年間を眠り続けていたエドガーが復活する『ユニコーン』である。だが、クロノロジックな再構成がぴたりと決まるような作品を書くのは凡庸な作家と決まっている……『春の夢』の作者はもちろんそうではない。
『エディス』でエドガーとアランが消えたことはいったん置いておき、欧州での二次大戦終結時のエピソードを作ったかに見えながら、実は四十年前に書かれた『一週間』『エディス』とこの新たな話は夢にも切れずつながっている。それは、新たに登場するキャラクターが、最終話でのエドガーとアランの燃えさかる家からの脱出を可能にする伏線となっているといった、物語技法上の問題ではない。そうではなく、エドガーの不在中ひとり置いて行かれたアランが、川をへだてた別荘に滞在する二人の少女と仲良くなる『一週間』が、一見無邪気で牧歌的な可愛らしい小品でありつつ、アランが(見かけの)年齢相応の、女の子を扱いなれたプレイボーイとして振舞う話だったこと、続く『エディス』は、アランがはっきりエディスに恋し、エドガーに対立して、メリーベルの代りの少女を得ようとした話だったことのまさしく続きで『春の歌』があるからだ。しかも今度は攻守ところを変え、少女に近づき(“気”が足りなくて寝ていたアランは、彼女を「口説いてたね」とエドガーに言う)、浮気する(「僕が眠ってると君は浮気するんだ」とアラン)のはエドガーの方である。
しかも相手は、『一週間』の二人組やエディスのような幼さを残すロウティーンではなく、十四歳と称する彼より二つ年上のユダヤ系ドイツ人で、両親と別れて出国し、母の妹の夫である英国人オットマー氏の下に弟と身を寄せ、気を張って生きている。シューベルトの歌曲集「冬の歌」の一曲「春の夢」(「冬に春の夢を見る私を/窓辺の葉が笑うだろう」)を巧みに使って、作者は、少女が、年下とは思えぬ大人びた少年にそれまで押し殺してきた内面を打ち明け、胸ときめかして心ひかれるだけでなく(「なにか事情があるのね……亡命してきた王子様? ウフフまさか」)、エドガーに彼女について「きみはぼくの 春の夢だーーー」と独白させ、二人がひかれ合うさまを描き出す。エドガーがこのような積極的なヘテロセクシュアルな主体とされたのははじめてだろう。
だから、世界が若かった時代の、いつまでもはるかな国の花や小鳥を夢見ていてよかった頃とはなにかが恐しく違ってしまったのだけれど、それでも、四十年前のカタストロフとの連続性は、例えば従姉妹どうしの対照的な少女たちにとってアランが「川むこう」の少年だったように、エドガーがはじめて見かけた少女は「小川の向こうの館の人」と説明され、理由をアランに告げずにエドガーが家をあける期間がどちらも一週間であることに、あるいは次の二つの絵のささやかな一致にはっきり見てとることができる。一枚目は『一週間』のラストで夕方にはまたアランに会えるつもりでいる少女たちの前から永遠に立ち去る二人、二枚目は一週間留守にすると言ってアランを置いて出かける、『春の夢』のエドガーである。




















