“はるかな国”再訪(3)
2022年 02月 09日3
昨日、フラワーコミックス復刻版の1から4を購入。黄ばんだ5は、手持ちの1976年初版。4の表紙のエドガーに見覚えがあると思ったが、やっぱりこれも持っている(結果的にダブったが、持っていても在処が不明では……)。隣は『春の夢』(2017年)第一章の扉。良い絵だ。(2020年10月24日)

『ユニコーン』のあと雑誌掲載あって、しかも来月単行本で出るのか。全然知らなかった(最近まで全く興をそそられなかったから)。『ポーの一族』読み返して、やはり(現在を否定する意味ではなく)「時分の花」ってあるんだなと思う。
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『小鳥の巣』でエドガーとアランがギムナジウムに現れたそもそもの理由(“誰が殺したクック・ロビン”)というか物語の口実、あのロビンも、川に落ちて流される子供だった(『春の夢』のノアと同じく)。「窓から落ちて死ぬ子供」も、マージの息子として『春の夢』に書き込まれていた。掲載順としてはポー・シリーズの最初になる『すきとおった銀の髪』、老いたる紳士チャールズ(といってもメリーベルと出会った時十四歳で、「三十年がすぎ去り」たから四十四に過ぎないが、まあ、四十で初老だから……それで「結婚二十五年め」とは、十九で結婚したわけか)が昔のままのメリーベルを見出し、「ああ あなたはきっとあの人の娘さんにちがいない あなたのお母さまはメリーベルとおっしゃるのでしょう?」と尋ねる場面は、『ユニコーン』のサルヴァトーレ・ルチオ“父子”とエステル(「…あれから33年たつ…」)の哀切な挿話として、男女を逆にし、年齢を高めて回帰している。もはや幼い恋ではなく、永遠の少女ではなしに。
エドガーとメリーベルの異母兄オズワルド、彼らが去ったあと、図2のように“マドンナ”に慰められるが、これ、髪の色が違うだけで、オービンの思い人イゾルデだね(もう1934年だから、後者は断髪だが)。ここでマドンナが約束する結婚、子供、家庭こそ、オービンがエドガーを追わなかったら得られたはずのものだ。


【オービンとイゾルデ】
では、世のつねの幸せの代りに、オービンは何を取ったのか。「あの時あの人は私より 魔物の方を選んだのよ」(イゾルデ)。あの時とはこれよりさらに六年前、オービンは髪を伸ばしたままで(これは連載当時の時代精神を反映した、社会への抵抗、反体制のしるしだろう)、大人の男にならなかったのだ。それでもついに長髪の“魔法使い”を卒業することに決め、髪を切ってイゾルデに求婚しようとしたまさにその日に、エドガーに出会ってしまう。
妖精や魔物を追いかけるオービンの設定については、先に「オカルトサブカル男」と呼んで批判的に言及したが、『ポーの村』と『グレンスミスの日記』に登場する、「サン・ダウン城のラトランド伯」に招待されて狩りに来た森で仲間とはぐれ、霧の中で鹿と間違えてメリーベルを撃ち、ポーの村の不死の一族に会ってその記録を日記に残した男爵グレンスミス(「ラトランド」とは『ピカデリー7時』のポリスター卿が突き止めて向かおうとした場所であり、城の名も夜に目覚める種族に縁がありそうな……)の、曾孫マルグリット・ヘッセンもまた、祖母が自分の父の日記を前に語ったポーの村の物語を子供の頃は信じたが、「でもやがておとなになる代価に……魔法や夢を支払った……」「ものをかくのはだからです その時だけわたしはこどもにもどれます 奇跡や魔法が使えます あなたも夢を見るでしょう?」と言っているので、作品の中では、実際これが芸術の定義なのだろう。
(作品としての)『日記』は「一八九九年クリスマスの朝」、グレンスミスが尋常の歳でみまかるところからはじまる。オービンは『エディス』で「わたし ジョン・オービンは一九〇〇年生まれなので 二十世紀の明けそめと同時に年をとり始め」と独白しているからほとんど入れ替わりに生を享け、グレンスミスの娘エリザベスの人生はそのまま激動の二十世紀の歴史に重なる。戦争、死別、貧困の中で、エリザベスの次女ユーリエは「もうずっと 一生 そんなバラの咲く村で暮らせたらどんなにいいでしょうね」と洩らし、末娘アンナの子マルグリットに「それは人間の世界のときの流れからははずれた谷間の村で 争いもなく」と語り聞かせるエリザベスは、夭逝したユーリエの言葉を思い出しつつ、「弱い人たちは とくに弱い人たちは かなうことのない夢をみるんですよ」と呟き、そして次ページではもはやエリザベスもアンナもおらず、二十七歳のマルグリットが甥のルイス(彼はエドガーたちが転入するガブリエル・スイス・ギムナジウムの生徒だ)に曾祖父の日記を見せている。「時はうつり 人々は生きて死に」(エリザベス)、「しあわせをとどめておけない」変転する世界と永遠の「夢」との対比を二十ページで描ききり、語りが現在に追いついたのだ。ルイスがエドガーを呼び止めるプロローグは、直結するエピローグとの間に六十年の歳月を挟んでいる。あらためて見れば『春の夢』もまた、戦争と家族離散と死と再会の話なのだが、そこでの出来事を経たエドガーとアランが、今度は戦後の西ドイツに渡って『小鳥の巣』の舞台に、謎の転入生として現れるとはとても思えない(前にも書いたようにそれを欠点とは思わない)。しかし彼らが確かに同じエドガーとアランでここがあの世界に通じていることは、生きているロビン・カーへの言及が『ユニコーン』に出てくることからも明らかだ。『春の夢』から十四年が過ぎ去った『小鳥の巣』の前年のヴェネツィアで、「ファルカにロビン・カーをやったら」とアランが口にするのだ。
『小鳥の巣』では二年前の五月、創立祭の前日に「図書室のうえの張り出し窓から川へおちて死んだ」ロビンは「まだ川のなか」だったから、彼らが話題にした際は実はもう川底だったことになる。「ミッドランズのモンゴメリーで夏になると会ってたじゃん」「あの頃 ロビンの祖父母が変な顔してたな ぼくらが変わらないから」「そうそうロビンをだましてさ エドガーったらさ/あの子すっかり信信じてたよ」と語られるロビンについては、『小鳥の巣』にそれより詳しく書かれているが、結局あそこではロビンは最後まで天使を信じて死んだことになっていた。しかしその前年の『ユニコーン』の老成した二人は、「成長すればサンタクロースも信じなくなる 子供の魔法はいつか…消えるんだ」「魔法は消えても ぼくらは消えないけどね」という会話を交わしている。もはやオービンの、マルグリット・ヘッセンの、大人になる代りにあきらめなくてはならない“魔法”への固執も、「はるかな国の花や小鳥」をいつまでも夢見ていてよい存在への未練もここにはない。魔法が消えても残るもの、それこそが芸術だろう。
一昨日のこと、「現代マンガ選集」というシリーズの一冊「異形の未来」と題するアンソロジーを本屋で見つけて開くと、71年にCOMに載った、萩尾望都の『ポーチで少女が子犬と』が入っていた。多分、昔一度読んでいると思う。しかしその時には、ブラッドベリやフレドリック・ブラウンに影響を受けたSF短篇くらいに思って見過してしまったと思われる。この少女が、ポーチで子犬と戯れながら考えているのが「魔法」のことであり、「空や窓や花のつぼみや葉っぱのうらの妖精」のことであると知って私はこの本を買った。そして読むうちにはじめて気がついた。ポーチで雨に濡れるのを喜び、「おとなって不思議ね! そんな楽しいこと考えないでどうやって生きていけるのかしらね?」といぶかしむ、何ごとかが起こるのを待ち、虹にみとれる、硬い線で描かれた大人たちの中に一人だけ無邪気で可愛らしく描かれ、彼らに文字通り指を差されて消滅させられるこの少女は、子供ではない!
「嬢ちゃんも 犬と遊ぶ年じゃないこと わかってるでしょう」と家政婦に言われる少女。だが、この子でなければ、誰が犬と遊ぶのにふさわしいというのか。ポーチで子犬と遊ぶのにまさにぴったりの絵柄に彼女は描かれているのに。「もう少し まってみません……?」と病床から身を起こして母親が言う。しかし返ってくるのは、「でも 三年まえからこうしてるんです」という言葉だ。(少なくとも三年前にはすでに彼女は、犬と遊ぶ年でも、雨なのに外にいたり、魔法のことを考えたり、虹の橋を渡りたいと思ったりする年とは見なされなくなっていたらしい)。
だからこの少女はもうとっくに少女ではないのだろう。姿が子供のままなので読者は騙されるが、彼女は「おとなになる代価に魔法や夢を支払」わなかった者であり、もともとは無邪気な子供だったが本当は悪魔のような人間だと父に言われる、カフカの『判決』の主人公のようなものなのだろう。父親からの「判決」は周知のものであり、また『変身』のグレゴール・ザムザの場合は、即座の死を与えられはしないが、父親の投げつけたりんごが、めり込んだ背中でゆっくりと腐ってゆく。『少女がポーチで』の父親は黒眼鏡に目を隠して言葉少なく、影が薄いが、代りに家政婦が「すぐ家へはいって服をきがえないと 夕食ぬきにしますからね」と家政婦らしからぬことを言い、少女も「あんたと話したくないわ いつだって 高びしゃで 自信たっぷりで」と他の家族や訪問者には見せないはっきりした態度で言い返す。分をわきまえないこの家政婦、「わたしはいつだってまちがったことをしていませんから!」と主張する女は、病身で弱々しく、ただ一人少女をかばう言葉を口にする母の第二人格、というかその正体であり、「少女」が無邪気さの皮をかぶっているように、家政婦の姿をとっているのだろう【註】。

いずれにせよこの短篇ではっきりわかるのは、作品内で「魔法」と呼ばれているのがただの“サブカル、オカルト“ではなく、それを手放さなければ死をもって報いられる何ものかだったということだ。
【註】自分で撮って載せた写真を眺めて気がついた。先頭に立って少女を指差しているのも家政婦だ(次は姉)。



















