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おわぁ、寝てるだけです 本館探さないでくなさい/ブログ主 鈴木薫の他に間借人の文章「tatarskiyの部屋」シリーズも掲載しています

by kaoruSZ

衰弱するバ美肉おじさん ーー谷崎潤一郎『青い花』をめぐるブラブラ歩き

1 指と脚
「金色の死 谷崎潤一郎大正期短篇集」(講談社文芸文庫)に収められた小品のうちから、『人面疽』(一九一八年)に続いて『青い花』(一九二五年)を読むなら、男の夢の対象となる両作品のヒロインが、実はイノセントである(と分るように書かれている)のがはっきり見てとれよう。前者の女優、歌川百合枝はアメリカ帰りで、「ロス・アンジェルスのグロオブ会社の専属俳優として、いろいろの役を勤めて居た」ことから、自分では演じた覚えのないフィルムの中での遍歴――前身は花魁で、アメリカ人船員と駆け落ちしての渡米後は「恐ろしく多情な、大胆な毒婦」として「身分の高い紳士連が幾人となく彼女に魅せられて生き血を吸われる」ことになる――が実人生のそれと重なるような錯覚を起こしがちだが、実は彼女の役どころは、「胆力と身軽さ」を生かした「女賊とか毒婦とか女探偵」であり、「キクコという日本の少女が、某国の軍事上の秘密を探るべく、間諜となって欧亜の大陸を股にかけ、芸者だの貴婦人だの曲馬師だのに変装する」荒唐無稽な活劇を演じこそすれ、実生活でのスキャンダルが取り沙汰された様子はなく、輸入されたフィルムが「内地人に多大の人気を博した結果」、「前例のない高給を以て」東京の映画会社に迎えられたという設定だ。

 また、後者の、十八歳の少女あぐりについて、主人公の岡田は、もし自分が今、あぐりと銀ブラしている最中の往来で倒れて死んだらと考え、薄情なあぐりの振舞いについて白昼夢に耽るが、これも全く彼女には関係がない。それどころか、いわばなりきりであり、彼が彼女の主体の位置を占有し、彼女の内面を自分語りしている。しかも冒頭、岡田は自分が近頃とみに痩せて「かつてはあんなにつやつやと肥えて居た肉と脂肪」が殺げ、「毎日々々、入浴の度びに全身を鏡に映しては、そつと肉附きの衰えた具合を検査するのが癖になつてしまつた」と嘆くが、そうならない以前、つい二三年前まではどうだったかというと――

《彼の体つきは女性的だと言はれて居た。友達と一緒に湯に這入つたりなんかすると、「どうだい、ちよつと斯う言ふ形をすると女のやうに見えるだらう、変な気を起こしちやいかんぜ」などと自慢をしたものだつたのに。》
 
 誰がお前なんかにという、あきれた内心の声が聞こえて来そうだが、本人は真剣この上なく、「就中女に似てゐたのは腰から下の部分だった。ムツチリした、色の白い、十八九の娘のそれのやうに円く隆起した臀の肉を、彼は鏡に映してウツトリとした覚えがある」というのだから手がつけられない。「入浴の度びに全身を鏡に映して」というのがそもそもナルシシズムの発露だったのだ――ちょっと『秘密』(同じく一九二五年)の主人公を思い出させるナルシストっぷりだが、しかし岡田の場合――

《股(もも)や膨らつ脛(ぱぎ)の線などが無恰好なくらゐに太つて居て、その脂ぎつた、豚のやうな醜い脚を、あぐりと一緒に入浴しながら、彼女のそれに比べて見るのが好きであつた。その当時やつと十五の少女だつたあぐりの脚の西洋人のやうにスツキリしたのが牛屋(ぎうや)の女中の脚みたいな彼のものと並べられる時、一層美しく見せるのをあぐりも喜んだし彼も喜んだ。》

というのだから、自信満々の女装者が自分より美しい「本物の女」に出会う『秘密』と違って勝負は最初からついており、しかもその脚は今は肉が落ちて骨が突き出し、胸は肋骨が浮いて「胃袋の上から喉の所までありありと透き徹つて」見え、「太鼓腹」も凹み、「脚の次に「女らしい」ので自慢をした腕」は「人間の腕と云ふよりは棒ッキレだ。胴体の両側に鉛筆がぶら下つて居るのだ」というのだからいったい何があったのか。

《一体こんなに痩せてしまつて、それでも生きて動いて居るのが不思議でもあり、有り難くもあり、自分ながら凄じくもある。――さう考へると、もうそれだけでも彼の神経は脅かされて急にグラグラと眩暈がする。後頭部がずしんと痺れてそのまゝ後ろへ引き倒されるやうな、膝頭がガクガクと曲りそうな気持になる。》

 この最後のグラグラはこの後何度か繰り返されて、全く心配してやるようなものではないことが判るが、それにしても驚きの衰えようである。

 もっと驚くのは、次のくだりの最後だろう。

《長い間に嘗め尽した歓楽と荒色の報ひであることは、――糖尿病のせいもあるけれどそれも報ひの一つであるから、今更嘆いても追つゝかないやうなものゝ、ただ恨めしいのはその報ひが意外に早く、(…)それも内臓の病気ではなく、外形の上に来たことである。まだ三十台だ。》

 三十八くらいなのかなと思うと、先へ行ってまたグラグラの時に三十五だと判明、しかもこれは数え年だから今なら三十四か三で通用する年だ。そういえば「やつと十五の」あぐりの方も満年齢なら十三四だったことになるが、こちらは「生れてからピアノのキイに触れるより外一度も堅いものに触れたことのないやうな、柔らかい、すんなりした指どもが、今日は一と入[しほ]なまめかしい色つやを帯びてゐる」。しかし直後に岡田は「若しこんな指が福寿草のやうに小さな鉢に植わつて居たら、どんなに可愛らしいだらう」と、あまり穏やかでも無邪気でもないことを思う――

《自分がだんだん年を取るのと反対に、此の手は不思議にも年一年と若々しさを増して来る。まだ十四五の折りにはそれは黄色く萎びてゐて、細かい皺が寄ってゐたのに、今では皮がピンと張り切つて、白く滑かに乾燥して、その癖どんな寒い日にでも粘ッこい膩肉(あぶらみ)がじつとりと、指輪の金が曇るくらゐに肌理に沁みてゐる。》

 衰えるわが身に代って芽生える「死人の指」――少女の屍体の部分を埋めるかのような連想が働く気味悪さに加え、『ハムレット』のガートルードの、オフィーリアの花輪に編み込まれた花についての科白――「淫らな羊飼いたちは下卑た名で呼ぶが、清純な乙女たちは「死人の指」と呼ぶ」――も思いあわされる(これを紫蘭とするのは坪内逍遥の誤訳で別の植物らしく、「死人の指」も花ではなく、根を指すらしい)。

『秘密』については、以前、主人公の「私」が女装を止め、謎の女の許に通いはじめる際の、劇的な変身ぶりをこう記述したことがある――【「私はすつかり服装を改めて、對の大島の上にゴム引きの外套を纏ひ、ざぶん、ざぶんと、甲斐絹張りの洋傘に、瀧のごとくたゝきつける雨の中を戸外(おもて)へ出た」。小紋を買うくだりで「大柄の女が着たものと見えて、小男の私には寸法も打つてつけであつた」とあるから長身のはずはないのだが、ゴム引きの外套と洋傘で完全防備し、石突は直ぐ天を指し、瀧のごとき雨中に(船腹を打つ波さながらのざぶん、ざぶんが凄い)すっくと立った雄々しい姿。】〔註〕

 とかく谷崎については、足フェチと言えば済まされると思われがちなようだが、足フェチと言い条「脚自体」が欲望をそそるわけはなく、問題は足の象徴作用であり、足はあくまで男の子が母の男根の不在を否認した際の男根の代理物なので、不在の「母の男根」はあぐりの足でも、手の指でもあり、また岡田自身のご自慢の脚や、『秘密』の語り手の女の着物に覆われた全身にもなるが、『秘密』ではその衣裳すら脱ぎ捨てられ、【「新堀の溝が往來一面に溢れてゐるので、私は足袋を懐へ入れたが、びしょびしょに濡れた素足が家並みのランプに照らされて、ぴかぴか光つて居た」というファリックな生足もあらわな成年男子が仁王立つ。】(前出拙稿)

 思えば『秘密』の主人公は、女装の快楽を次のように熱く語っていた。

《口邊を蔽うて居る頭巾の布(きれ)が、息の為めに熱く濕(うるほ)つて歩くたびに長い縮緬の腰巻の裾は、じやれるやうに脚へ縺れる。みぞおちから肋骨(あばら)の邊を堅く締め附けて居る丸帶と、骨盤の上を括つて居る扱帶(しごき)の加減で、私の體の血管には、自然と女のやうな血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなつて行くやうであつた。》

 まさに女の恰好をするだけで「女の心」がそなわるのだ。

《芝居の辨天小僧のやうに、かう云ふ姿をして、さまざまの罪を犯したならば、どんなに面白いであろう。》

 さらに女装者はこうも告白する。

《或時は淋しい公園をぶらついて見たり、或時はもうはねる時分の活動小屋へ這入って、態(わざ)と男子席の方へまぎれ込んで見たり、はては、きわどい悪戯までやって見るのです。》

 今のは、もう明治の終りに書かれた『秘密』ではなく、大正も押しつまって登場した『屋根裏の散歩者』の郷田三郎の弁である。郷田は続ける――

《そして、服装による一種の錯覚から、さも自分が妲妃のお百だとか蟒蛇お由だとかいう毒婦にでもなった気持で、色々な男達を自由自在に飜弄する有様を想像しては、喜んでいるのです。》

『人面疽』の劇中劇の女優が映画内の人生で演じたのが「恐ろしく多情な、大胆な毒婦」だった(「身分の高い紳士連が幾人となく彼女に魅せられて…」)のが思い出されるし、すでに引いたように、その役を演じた覚えのない歌川百合枝の当たり役も「女賊とか毒婦とか女探偵」であり、劇中で「芸者だの貴婦人だの曲馬師だのに変装する」。
乱歩の郷田三郎も谷崎の『秘密』の語り手も探偵趣味の変装マニアで、女装して右に並べたような女のヴァリエーションを自在に演じ、男を魅了し、籠絡し、手玉に取ることを夢見ている。つまるところ、男たちが「女優」という特殊な女に演じさせようとする「女」とは、できれば彼ら自身がなりたかったものであり、本当は今でもそうなりたいのだとこれらの物語は告げている。

2 人形遊び
『青い花』の岡田の場合、リビドーが残らずあぐりに向けられて、一見こうした欲望――彼自身が「女」になることへの欲望――とは無縁のようだが、それは先に引いたような衰えゆえであり、そうでなければ「女のやう」な身体で男を誘惑できる(「服装による一種の錯覚」もなしに)と信じられたほどなのだから、女物の着付けの締めつけで女の気持ちになったり、「こつてり塗り附けたお白粉の下に、「男」と云ふ秘密が悉く隠されて、眼つきも口つきも女のやうに動き、女のやうに笑はうとする」という『秘密』の主人公よりはるかに自信家でおめでたく、また同性愛の抑圧を公然とひけらかしている。

 醜い男と美しい女の極端な対比は、乞食–人面疽と女優の対比とも同じだが、三十五にしてすでに瘋癲老人に身をやつしたかのような岡田の欲望は、先に引いた『秘密』の、女装を捨て、「ぴかぴか」の男根に変身して女の下へ行くというような手間もかけずにひたすらあぐりに集中する――

《彼は(…)その着物の下にある「女」の彫像を心に描く。一つ一つの優婉な鑿の痕をありありと胸に浮かべる。今日はその彫像をいろいろの宝石や鎖や絹で飾つてやるのだ。(…)そう思う時、愛する女の肢体の為めに[強調は引用者。「愛する女の為め」でないところに注意]買ひ物をすると云ふ事は、まるで夢のやうに楽しいものぢやないだらうか。》

 この直前では、

《あぐりと云ふものを考へる時、彼の頭の中は(…)真つ黒な天鷲絨の帷を垂らした暗室となる。――その暗室の中央に、裸体の女の大理石の像が立つて居る。その「女」が果たしてあぐりであるかどうかは分らないけれども、彼はそれをあぐりであると考へる。少なくとも、彼が愛してゐるあぐりはその「女」でなければならない、――頭の中のその彫像でなければならない、――それが此の世に動き出して生きているのがあぐりである。》

と、己れのピグマリオニズムを隠そうともしない上、「彫刻家ピグマリオン」の面目躍如の記述がさらに続く。

《彼女の肌からあの不似合な、不恰好な和服を剝ぎ取つて、一旦ムキ出しの「女」にして、それのあらゆる部分々々の屈曲に、輝きを与え、厚みを加え、生き生きとした波を打たせ、むつくりとした凹凸を作らせ、手頸、足頸、襟頸、――頸と云ふ頸をしなやかに際立たせるべく、洋服を着せてやるのだ。》

 むろん、「ムキ出しの『女』」などという素体に彼の関心はなく、ネルの着物の下のあぐりは、エディソンの地下室で黒いヴェール(「真つ黒な天鷲絨の帷」)の覆いの下にいる、潜在的にあらゆるタイプの――ただし男の想像しうるかぎりの――女になりうるがまだ何者でもない、ハダリー(『未来のイヴ』)からもあまり遠くないのだろう。彼らがそぞろ歩く横浜山下町の外国人街は、こうして、彼の人形遊びのための夢の舞台となる。

 それは「物静かな、人通りの少い、どつしりした洋館の並んで居る街」であり、「ひつそりした灰色の分厚な壁の建物の中に、ただウインドオのガラスだけが魚の眼のやうにきらりと光つて、それへ青空が映つて居る」街だ。「街とは云ふものの、それは恰も博物館の歩廊のやうな感じである」。また窓の中の商品も、「怪しくなまめかしく、たとへば海の底の花園じみた幻想を与へる」。萩原朔太郎の『定本青猫』の、「どうしてこんな情感の深い市街があるのだらう」という嘆息や、その挿画や、ジョルジョ・デ・キリコのアーチのある歩廊や無人の街を連想させる横浜の通りを往き来しながら、彼はこんなことを思いはじめる。

《彼の懐には金がある、そして彼女の服の下には白い肌がある。靴屋の店、帽子屋の店、宝石商、雑貨商、毛皮屋、織物屋――金さへ出せばそれらの店の品物がどれでも彼女の白い肌にぴつたり纏はり、しなやかな四肢に絡まり、彼女の肉体の一部となる。》

 このあたりはごく初歩的で分りやすかろう。一方に貨幣、一方に肌があり、貨幣は商品と交換されて彼女の肌を押しつつむ――だけではない、彼女の肉体の一部となる。自由間接話法で岡田はさらに言いつのる――

《西洋の女の衣裳は「着る物」ではない、皮膚の上層へもう一と重(かさね)被さる第二の皮膚だ。外から体を包むのではなく、直接皮膚へべつたりと滲み込む文身(いれずみ)の一種だ。》

「西洋の女」という権威づけにこだわることはあるまい。また、「西洋の女の衣裳」とは本当にそういうものだろうかという疑問についても同様だ。なぜなら、西洋の女も、西洋の女の衣裳とも無関係に、「藍地に大小あられの小紋を散らした女物の袷が眼に附いてから、急にそれが着て見たくてたまらなく」なった『秘密』の主人公が、すでに布地と肌との関係については、次のように雄弁に語っているからだ。

《女物に限らず、凡べて美しい絹物を見たり、触れたりする時は、何となく顫(ふる)ひ附きたくなつて、丁度戀人の肌の色を眺めるやうな快感の高潮に達することが屢々であつた。殊に私の大好きなお召や縮緬を、世間憚らず、恣(ほしいまま)に着飾ることの出来る女の境涯を、嫉ましく思ふことさへあつた。
 あの古着屋の店にだらりと生々しく下つて居る小紋縮緬の袷――あのしつとりした、重い冷たい布きれが粘つくやうに肉體を包む時の心好さを思ふと、私は思はず戦慄した。》

『青い花』の岡田はその「心好さ」を自分からは切り離してあぐりに投影しているのであり、あぐりとは、何よりもそのための依り代として必要不可欠な人形なのだ。

3 切れ地の皮 血のしたゝり
「しつとりした、重い冷たい布きれが粘つくやうに肉體を包む」――「直接皮膚へべつたりと滲み込む文身(いれずみ)」――しっとり、べったり、ねばつくように、「第二の皮膚」が「女」の表層に、文字のように浸透する。ここまではいい。しかしここで、驚くべき――しかし当然の――飛躍が起こる。

《――さう思つて眺める時、到る所の飾り窓にあるものが皆(みんな)あぐりの皮膚の一と片(ひら)、肌の斑点、血のしたゝりであるとも見える。》

 最前、銀座通りであぐりが、飾り窓にアクアマリンの指輪を見つけて指をかざした時も、五月の陽光を受けて「柔かい、すんなりした指どもが、今日は一と入[しほ]なまめかしい色つやを帯びてゐる」のを認めた後に、語りは「若しこんな指が福寿草のやうに小さな鉢に植わつて居たら」と、突然、切断され移植された指のイメージで私たちを驚かせたが、ここでも肌に密着する「彼女の肉体の一部」のはずだったものが不意に逆転し、あぐりの皮膚のひとひら、血のひとたらしとなって、飾り窓の中に出現する。

 この「肌の斑点、血のしたゝりであるとも見える」という記述は、あるいはボードレールの『宝石』の最終行から来ているのかもしれない。『宝石』は、色と光が音立てて触れあう金銀細工と宝石だけを身につけた、「私」の心を知り抜いた女が横たわり、房事の後、ランプの火が燃え尽きて暖炉が部屋を照らすばかりになり、炎が燃え上がるたび、女の琥珀色の肌が血にひたされるという趣向で、『悪の華』発禁の原因となった「禁断詩篇」の一つだが、原詩に負けない惨劇の気配が谷崎の一行にはあるし、「暗室の中央に、裸体の女の大理石の像が立つて居る」のくだりだけでも、「我は美し 人間よ/あたかも似たり 石の夢」ではじまる、ボードレールの『美』が連想される。この種の研究は沢山あるだろうし、すでに指摘があって何の不思議もないが、「直接皮膚へべつたりと滲み込む文身」というのも、ギュスターヴ・モローの、裸に装身具だけが描き込まれた踊るサロメの諸作を思わせる。

 横浜山下町に戻ろう。「彼」の語りは続いている――

《彼女は其れらの品物の中から自分の好きな皮膚を買つて、それを彼女の皮膚の一部へ貼り付ければよい。若しもお前が翡翠の耳環を買ふとすれば、それはお前の耳朶(みみたぼ)に美しい緑の吹き出物が出来たと思へ。あの毛皮屋の店頭にある、栗鼠の外套を着るとすれば、お前は毛なみがびろうどのやうにつやつやしい一匹の獣になつたと思へ。あの雑貨店に吊るしてある靴下を求めるなら、お前がそれを穿いた時からお前の足には絹の切れ地の皮が出来て、それにお前の暖かい血が通ふ。エナメル沓を穿くとすればお前の踵の柔かい肉は漆になつてピカピカ光る。可愛いあぐりよ!》

「彼女」から「お前」へ、仮定形から命令形へ、耳たぶの一点の緑から一匹の栗鼠そのものへ、移植された絹地に温かい血が通うかと思えば、肉がある種の化石かミイラのように、漆に浸透されて異様な光沢を放つ。マグリットの絵さながらの、ハイブリッド化、非人間化だ。

《彼処にあるものは、みんなお前と云ふ「女」の彫像へ当て嵌めて作られた、お前自身の脱け殻だ、お前の原型の部分々々だ。青い脱け殻でも、紫のでも、紅いのでも、あれはお前の体から剝がした皮だ、「お前」を彼処で売つて居るのだ、彼処でお前の脱け殻がお前の魂を待つて居るのだ、………お前はあんなに素晴らしい「お前のもの」を持つて居るのに、なぜぶくぶくした不恰好のフランネルの服なんかにくるまつて居る?》

 熱烈な信仰告白とともに疎外は進行し、ショウ・ウィンドウの中にはめくるめくレトリックのうちに輝くイデアのパーツが飾られ、彼女の装飾のためのはずだったものが彼女の本質へと逆転し、かくして、「狭い部屋の両側にガラス張りのケースがあつてそれへ幾つもの出来合ひの服が吊るされて居る」、「とあるレデー・メードの婦人服屋へ這入つた」時には、「ブラウスだのスカートだのが、――」「『女の胸』や、『女の腰』が、――衣紋架けにかけられて頭の上に下つて居る」と叙述される。

「皮膚の一と片、肌の斑点、血のしたゝり」からはじまった商品への自己疎外は、「切れ地の皮」、「剝がした皮」、「脱け殻」へと進み、「『女の胸』や、『女の腰』」に至った。番頭が細かい直しのためにあぐりの寸法を取る時、先刻彼が店の奥へ向かってブラウスの値を訊いたように、「此の女はいくらだね」と言うんじゃないか、「自分は今、奴隷市場に居るのぢやないか、そしてあぐりを売り物に出して、値を付けさせて居るのぢやないか」と岡田が思うのは必然だろう。

 彼らは「室の中央」の「背の低いガラス棚」に、「ペティコートや、シュミーズや、靴下や、コルセットや、いろいろのレースの小切れやらが飾られて居る」のを見る。「柔かい、ほんたうに女の皮膚よりも柔かい、チリチリとちゞれた縮緬だの、羽二重だの、繻子だの、滑かな冷や冷やとした切れ地ばかりである」。本当はそれは女の皮膚よりも柔かく好ましい、女の皮膚に取って替って、自分がそれに包まれるのを男が夢見る「滑かな冷や冷やとした切れ地」、「だらりと生々しく下つて居る小紋縮緬の袷――あのしつとりした、重い冷たい布きれ」(『秘密』)ではないのか。しかし彼は相変らずあぐりになりきって、語り手を通してあぐりの心を語る。

《あぐりは自分が、やがてそんな切れ地を着せられて西洋人形のやうになるのかと思ふと、番頭にジロジロ見られるのが恥かしくて、快活な、元気のいゝ彼女にも似ず妙に内気に縮こまりながら、その癖「此れも欲しい、彼(あ)れも欲しいと云ふやうに目を光らせる。」

 右の叙述のうち事実と一致するのは、「番頭にジロジロ見られるのが恥かしくて」「妙に内気に縮こまり」くらいだろう。「此れも欲しい、彼(あ)れも欲しいと云ふやうに」とは、岡田によって勝手に付け加えられた解釈だ。捏造される欲望。「あたし、どんなのがいゝか分らないけれど、………ねえ、どれにしようか知ら?」と「当惑したやうに」言うのが、かろうじて聞き取れる彼女自身の声である。

 このすぐあとで読者にも分るが、彼女は洋服を着るのもまるではじめてなのだ。だから銀座通りで岡田が倒れて死んでしまったあと、その「ポッケット」から大金を取り出し、幽霊になった彼に、

《ちよつと、幽霊さん、お前のお金であたしはこんな指輪を買つた、こんな綺麗なレースの附いたスカートを買つた、そら御覧、(と、そのスカートを捲くつて見せて)お前の好きな私の脚、――此の素晴らしい足を御覧。此の白い絹の靴下も、膝の所を結んである桃色のリボンの靴下留めも、みんなお前のお金で買つた。何とあたしは品物の見立てが上手じやなくつて?》

と言い放つあぐりは(むろん読者は岡田の妄想と承知して読むけれど)到底現実ではありえず、しかし『人面疽』の百合枝が劇中劇の役に引きずられて「恐ろしく多情な、大胆な毒婦」であるかに見誤られるのと同様に、岡田のポッケットから金を取り出すあぐりが、その金で「好きな物を買ひ好きな男と浮気をしても、あたしを恨む訳はないから、彼はあたしが多情な女であることを知り、それを許して居たばかりか、時にはそれを喜んでさへ居たのだから」と言う時、これが人形遣いの岡田の声色であることを忘れ、設定自体は荒唐無稽だが、実際あぐりは「わがままで贅沢好き」(文庫版解説)な娘であると受け取りがちというか、あえてそう誤読されるように書かれている。

 しかしあぐりが「番頭にジロジロ見られるのが恥かしくて」「妙に内気に縮こまりながら」「目を光らせる」のには、たった一つの理由しかあるまい。この直前「うす暗い奥から出て来た日本人の番頭」は、「此のお嬢さんがお召しになる?――どんなのがよござんすかな」と「言いながらあぐりの様子をジロジロと見ていた」。自分が番頭の目にどう映ったか、彼女にはよく分っている。親子には見えず、かといってどこぞの令嬢でもない。その美貌で、裕福な中年男の囲い物になり、高価な洋服を買い与えられようとしている若い女。彼女の出自については全く言及がないが、「わがままで贅沢好き」ゆえに今の生活に入ったなどということはありえまい。正妻になるというような大それた望みなど持たない、“わきまえ“もあるのだろう(『未来のイヴ』の話が出る時、決まって俗悪な魂と片付けられるアリシヤも、本当は明らかにこの系統の女である)。


 洋装の仕上げとなる翡翠の耳輪、真珠の頸飾、靴や帽子を買いととのえ、夕刻、彼らは婦人服屋へ戻ってくる。番頭にうながされ、

《しっとりと、一塊の雪のやうに柔かい物を片手にかゝえて、岡田はあぐりの後についてスクリーンの蔭へ這入つた。等身の姿見の前に進んで、彼女は相変らずむづかしい顔をしつゝも、静かに帯を解き始める。………岡田の頭の中にある「女」の彫像が其処に立つた。彼はチクチクと手に引つかゝる軽い絹を、彼女に手伝つて肌へ貼り着けてやりながら、ボタンを嵌め、ホックを押し、リボンを結び、彫像の周囲をぐるぐると廻る。》

「女」の「彫像をいろいろの宝石や鎖や絹で飾つてやる」という、「不似合な不恰好な和服を剝ぎ取つて、一旦ムキ出しの「女」にして、それのあらゆる部分々々の屈曲に、輝きを与え、厚みを加え」云々という、彼の望みは実現した。ここで岡田が「等身の姿見」(ヘンリー・ジキルの友人アタスン弁護士とジキルの執事がドアを破って押し入った時、ジキルの部屋にあったものでもある)の前に身を置いているのは示唆的だ。本来彼こそが、「入浴の度びに全身を鏡に映して」「ウットリ」するナルシスであったのだから。ウィリアム・ウィルスンなら彼自身を、ジキル博士なら醜いハイドを見出す姿見の前で、岡田は「他者としての女」に向きあった。

4 退行と死
 小説には、もうあと二つの文しか残っていない。

《あぐりの頬には其の時急に嬉しそうな、生き生きした笑いが上る。………岡田はまたグラグラと眩暈を感ずる。………》

 これが一篇の終りである。あぐりの顔にはなぜ笑みが浮かんだのか。岡田はなぜ「グラグラ」したのか。

 最初に「急にグラグラと眩暈が」したのは、彼が自分の健康状態を危ぶんだ時だった。実はこの短い物語は、尾張町の四つ角(どこだか分りますね?)で、あぐりを伴った岡田が友人と行き合って、痩せたと言われるところからはじまっていた。相手はあぐりとの関係ならすでに知っているので、別に冷やかされたわけではないのだが、外見への不意の批評は、思いがけない打撃となって彼に眩暈を起こさせた。

 二度目のグラグラは、飾り窓の指輪を前に、あぐりが「手の甲を岡田の鼻先へ持つて来て五本の指を伸ばしたり縮めたりし」た際のことだ。例の、福寿草のように小さな鉢から生える指の空想を展開する岡田の傍で、彼女はウィンドウの手すりに手を乗せて、「問題のアクアマリンの事は忘れたやうに自分の手ばかり視つめてゐる」。すると彼も同じところを見つめて、「この愛着の深い一片の肉の枝」をめぐる思い出と空想にふけり、「それが挑発するさまざまの密室の遊びを連想して、毒々しい刺戟に頭がズキズキする」。

《………ぢつと見ていると、岡田にはそれが手だとは思へなくなつて来る。………銀座の往来で、この十八歳の少女の裸体の一部、――手だけが此処にむき出されてゐるのだが、………肩のところもあゝなつて居る、胴のところも………腹のところもあゝなつて居る、………臀、………足、………それらが一つ一つ恐ろしくハッキリうかんで来て奇妙な這ふやうな形をする。》

というのだから、手だけではない、寸断された身体のパーツまでが、すでにあやしく這い出していたのだ。「見えるばかりでなく、それがどつしり、十三四貫の肉塊の重みとなつて感ぜられる」。グラグラが来て、岡田は後ろへ倒れそうになる。

 三度目のグラグラは、「耳には耳環をつけ、頸には頸飾をつけ、胸には絹だか麻だかのサラサラした半透明なブラウスをつけ、踵の高いきやしやな靴先でしなしなと………街を通る西洋人のやうに」なつたあぐりを想像し、あぐりも心得ていて「さう云ふ西洋人がやつて来ると、彼女はすかさずジロジロと見送つては、『あの首飾はどう? あの帽子はどう?』と云ふ風に」岡田に尋ね、「彼には若い西洋の婦人と云ふ婦人が、悉く洋服を着たあぐりに見える」という具合ながら、飾り窓の中の寸断された商品よりはまだトータルな「西洋婦人」という人間の姿をしたモデルであるだけ“まとも“に見える空想から、そうやって「可愛い小鳥のやうに仕立てた」彼女を「楽しい隠れ家を求むべく汽車に載せて連れて行く」空想に移った先で起こる。

《そこで遊びが始まるのだ、自分が始終夢に見て居る――たゞその為めにのみ生きてゐる――面白い遊びが始まるのだ………その時彼女は豹の如くに横はる、………頸飾と耳環を附けた豹の如くに横はる、(……)。あゝその遊び! 考へたゞけでも彼の魂はエクスタシーに引き込まれる。》

 これでブルブル、グラグラ、再び気が遠くなるのだから岡田の健康状態を気づかう必要などないというものだが、この猫族の女もまた、ボードレールの詩Le Léthé(忘却の川)を思わせる。装身具(だけ)を身に付けているのは、『宝石』の、心利いた愛人に通じようが、あぐりももう栗鼠や「可愛い小鳥」ではなく、フェルナン・クノップフの『愛撫』のチータや、『ヴェラーレンのために――天使』の虎女、要するにファム・ファタールとしてのスフィンクス(もちろんモローの画題でもある)だ。『美』の、人間たち(いや、男たち)に呼びかける美神la Beauté「石の夢」が、そもそもスフィンクスであった。

『忘却の川』は、詩人が自らの心臓(胸)の上に来るようにと、残酷で無慈悲な「熱愛された虎」を呼ぶことではじまり、(苦しみを忘れさせる薬)ネーペンテースと毒人参を「尖った胸の魅力的な先端から吸う」ことで終る。その胸は「かつて心を納めたことがない」。この受動性とマゾヒズムも、谷崎のテクストが大いに共有するものだ。しかもなぜあぐりに心がないのか――むしろあぐりにそれがあったらなぜ困るのかが、ちゃんと判るように書かれている。

 Le Léthéをあらためて読むと、詩人と情婦の関係が、臆面もなく母子関係の再現であるのに驚かされる。谷崎の小説では、このあと岡田が幼い愛娘や、「髷に結ったその児の母」や、彼自身の亡き母までもが現れるのを見るくだりがある――別に幻覚ではなく、映画的手法というか、彼女たちが幻として現れるのが観客にも見える趣向だが、彼女たちは無論あぐりのような女――ボードレールの場合、そういう女は、生殖/再生産から切り離された娼婦、情婦、レスビエンヌ等と呼ばれていた――の対立物だ。しかし、「裏切者や意地悪な者に対してさえ母であれ」(『秋の歌』)という恋人への懇願は、実のところその線引きを無効にし、恐しい/優しい母しか残さないだろう。

 そういえば先に引いた『秘密』の主人公、女姿の自分に見惚れ、通りをゆく女たちも自分に嫉妬していると疑わず、しかし到底敵わない本物の女に出会って一気に意気消沈してしまうが、相手はかつて彼が船の中で関係を持ちそのまま捨てた因縁の女で、「私は美貌を羨む嫉妬の情が、胸の中で次第次第に戀慕の情に變つて行くのを覚えた。女としての競争に敗れた私は、今一度男として彼女を征服して勝ち誇つてやりたい」――そう思って女の指示に従い、大雨の中を目かくしされて迎えの俥に乗る、ファリックな仁王立ちの様子は先に引いたが、その直後の、幌の中の記述はこうである。

《しめつぽい匂ひのする幌の上へ、ぱらぱらと雨の注ぐ音がする。疑ひもなく私の隣りには女が一人乗つて居る。お白粉の薫りと暖かい體温が、幌の中へ蒸すやうにこもつてゐた。(…)隣りに並んでゐる女は勿論T女であらうが、黙つて身じろぎもせずに腰かけてゐる。(…)海の上で知り合ひになつた夢のやうな女、大雨の晩の幌の中、夜の都會の秘密、盲目、沈黙――(…)》

【幌をかけた俥に閉じ込められた「私」は最前の勢いはどこへやら、目隠しを取ることさえせず、触覚と嗅覚だけの受け身の存在となる。女が「私」の「固く結んだ」唇を分け、「巻煙草」を押し込んで火をつける。「海の上で知り合ひになつた夢のやうな女」――といっても、そんなことが本当にあったのだろうか。女を夢中にさせただの、恋い焦がれる女を捨てただの、そんな一人前の密事は本の中ででも読んだのではないか。遮断された胎内で彼は口唇期に退行し、匂いと味に惑溺しながら夢を見続けているのではあるまいか――母のように世話を焼く、夢の女にさらわれてゆく夢を。】(前出拙稿)

 それかあらぬか岡田もまた、銀座の鋪道で自分が「急に気が違つてだらしなく泣き出すところを想像」する。「たつた今まで、年頃のお嬢さんを連れて(…)銀座通りを歩いて居た中年の紳士、――そのお嬢さんの伯父さんとも見える男が、急に顔の造作を縦横に歪めて「わあッ」と子供のやうに泣き出す」のだ。

 それにしても「お嬢さんの伯父さん」とは〈父〉の婉曲表現でなくて何であろう。無論岡田に〈父〉の役割を引き受ける気などありはしなくて、「あぐりちゃん、あぐりちゃん、僕はもう歩けないんだよう! おんぶしておくれよう!」とカラーやネクタイをうっちゃって「ペッタリと地面へ倒れ」、「早く洋服を脱がして柔かいものを着せておくれ、往来だつて構わないから、此処へ蒲団を敷いておくれ」と口走り、「二人の周りには真ッ昼間黒山のやうな人だかりだ、巡査がやつて来る、――あぐりは衆人環視の中で尋問される」――これはもう、道路に寝転がって泣き叫び母を困らせる甘やかされた幼児でしかなく、それをいい年の“中年紳士“が、十七も下の小娘相手にやっている(ところを夢想している)。気が遠くなり頭がグラグラしてあおのけに倒れて死ぬ空想も、死が受動性の極地だからだ。

 この前のところで、道に倒れて死ぬ空想のあと、岡田は、自分はもう本当に病気なのではないかと思いはじめ、銀座の舗装道路の堅さが踵から頭にまで響き、「足の肉を型にハメたやうに締めつけて居る」靴も、全身を絞り上げる「締め金やボタンやゴムや鞣皮」も、ガーターで「脛にぴんと引つ張られて居る」靴下も、尾錠で「骨盤の上に喰い込ませ、肩から襷がけに吊り上げ」たズボンも耐え難くなっていた。空想の中で泣きながら「滅茶々々にかなぐり捨てゝ暴れ廻る」ことになるカラーやネクタイは言うまでもない。『秘密』には、「みぞおちから肋骨(あばら)の邊を堅く締め附けて居る丸帶と、骨盤の上を括つて居る扱帶(しごき)の加減で、私の體の血管には、自然と女のやうな血が流れ始め、男らしい気分や姿勢はだんだんとなくなつて行くやうであつた」とあったが、“男装“の拘束をも厭うのであれば、衣裳全般をかなぐり捨て、むしろ全責任を放棄したい幼児退行願望症候群と言えよう。

5 最後の秘密
 フロイトに「小箱選びのモチーフ」なる小論があり、『ヴェニスの商人』の求婚者に課される表題の選択や、『リア王』におけるリアが選ぶのを拒んだ三人目の娘の意味を論じながら、男にとって不可避的な女との関係の三通りの形態を、産む女、性的対象としての女、破壊者としての女であると言っている。しかし、二番目のものは「母の像を標準にして選ぶ愛人としての女」なのだから結局は母しかおらず、第二の女はその不完全版、老いた母の代用物でしかないということになろう。そして三人目の女とは、「心のうちでは愛しているが黙っている」コーディリアの沈黙も、ポーシャの肖像を入れた鉛の箱もともにその象徴である、死神として男を再びその腕に受け入れる大地すなわち「死」なのである。リアがコーディリアの亡骸を抱いて現れる幕切れは、死せる英雄を戦場から運び去る古来の「死の女神」の像の逆転であり、娘を失った老人に「永遠の叡智が古い神話の衣をまとって、女の愛情をもはや断念せよ、死を選べ、死という必然性と和解せよと」言いきかせていると老フロイトは説くのだが、ほとんどそのパロディのように、老人を装う岡田は、小娘を母に仕立て上げ、その力強い腕に抱き取ってもらおうと目論んでいる。「黙つて身じろぎもせずに腰かけてゐる。(…)夜の都會の秘密、盲目、沈黙――」(『秘密』)のT女も無論そういう女であった。

 乱歩の『屋根裏の散歩者』の郷田三郎は明らかに明智小五郎の分身であり、彼を切り離してこそ探偵は、自らのうちから悪を分離したジキルのように明智(めいち)の側に身を置けるのだが、「探偵の分身としての女=女としての分身」なら、文学史的にはもっとはっきりした先蹤がある。「冒険家」adventurerシャーロック・ホームズに対する、adventuressアイリーン・アドラーだ。ワトスンが彼女をそう呼んで私たちに紹介するadventuressとは、「色々な男達を自由自在に飜弄」(『屋根裏の散歩者』)し、「身分の高い紳士連が幾人となく彼女に魅せられ」る(『人面疽』)、そして彼らを相手に色仕掛けでのし上がろうとする「多情な、大胆な毒婦」(同)という一典型であり、この小論のはじめで「男たちが「女優」という特殊な女に演じさせようとする「女」とは、できれば彼ら自身がなりたかったものであり、本当は今でもそうなりたいのだ」と書いた通りだ。ホームズが時折りアドラーの肖像写真を取り出して眺め入る仕草とは、ホモフォビックなシャーロッキアンの誤謬の霧から脱け出るなら、女としての自分へのナルシスティックな注視と判明しよう。

 自分は醜いという口実の下にあくまであぐり嬢をプレゼンテーションする岡田だが、相手が実は男ではないかという疑惑は、楽園の叙述のうちに蛇のように忍び込む。たとえば岡田の鼻先であぐりが「伸ばしたり縮めたりする」「五本の指」――「ぢつと見ていると、岡田にはそれが手だとは思へなくなつて来る」。たしかにその通りだ。しかしそれは続けて語り手が言うように「十八歳の少女の裸体の一部」がさらけ出されているからではなくて、ガートルードが口にする植物の名を思い出すまでもなく(福寿草のように小さな鉢から生える指の空想を岡田はしている)、それが男根象徴であるからだ。「この愛着の深い一片の肉の枝」をめぐる思い出と空想にふける岡田が、「それが挑発するさまざまの密室の遊びを連想して、毒々しい刺戟に頭がズキズキする」のは、もはやあぐりのせいではあるまい。岡田の衰弱を補填すべく、「一片の肉の枝」はメドゥーサ的に多数化された鎌首をもたげ、不思議の国の芋虫か茸のように伸びちぢみする。

 足フェティシストとは、母の男根の不在に直面しないためにその一歩手前に欲望を固着させる者のことだ。足フェティシズムは、安全極まりないがゆえに谷崎が公然と掲げた倒錯だが、あぐりにさせる“女装“――「いろいろの宝石や鎖や絹で飾つてやる」――の完成を目のあたりにして、岡田が気が遠くなるのは示唆的である。「他者としての女」が男であることをけっして見ないよう、岡田の意識は遠のくのだ。「愛する女の肢体の為に」買物をする楽しさを彼は語っていた。そうした薄い柔らかな生地は、愛する女の肢体(membre)を幾重にも覆い、“彼女“の性器(membre)を――女が男であることを――けっして顕わさせないためのヴェールなのだろう。

「あぐりの頬には其の時急に嬉しそうな、生き生きした笑いが上る」――これは虚無の笑いである。ショウ・ウィンドウの中で「いろいろのレースの小切れ」をまとった人形の目に一瞬宿ったかに見える光、絹の切れ地につかのま通った温かい血の赤らみに似て、現れるのと同じ速さでそれはすみやかに消えてゆく。


〔註〕鈴木薫「男と云ふ「秘密」――パムク、華宵、谷崎、三島」

by kaoruSZ | 2022-05-22 19:30 | 文学 | Comments(0)